―――時に大正9年、秋―――
今夜はやけに犬たちの声が騒がしい。生暖かい夜風が木々を揺らし、月明かりのみが夜道を仄かに照らしている。
町外れの深夜の稲葉川。橋のたもとの河原。そこには人に見えざる炎が2つ、上がっていた。
ひとつは青。そしてもうひとつは、―――緋色。
2つの炎は空で交差し、地を駆ける。炎が揺らげば川石は砕け、炎が大きく燃え盛れば、水面の月は大きく割れ爆ぜ散る。
青の炎が千切れ、一方に向かい飛ぶ。それを緋色の炎はよけ、あるいは混じり合う寸で弾き飛ばす。緋の炎が夜空に一筋激しく燃え上がる。真っ直ぐ撃ち下ろされた紅蓮の炎が青火を真二つに両断する!
だが。だが、それに比例するはずの音がしない。目線を反対の河原側に移せば、そこはススキが揺るる、古来より変わらぬ秋の夜長。まるで川の中央を境に透明な遮幕があるように存在(あ)る、2つの世界。
風呂の水の中で手を叩いているのを見るかのように、1町(いっちょう=約110メートル)間ほどしか離れてない集落の人々の耳に届くものは・・・なかった。