「木枯らし」
木が狂つてゐる。
ほら、あんなに体を
くねらして。
自分の大事な髪の毛を、
風に散らして。
まるで悪魔の手につかまれた、
娘のやうに。
木が。そしてどの木も
狂つてゐる。
平岡公威11歳の詩
「父親」
母の連れ子が、
インク瓶を引つくり返した。
インク瓶はころがりころがり
机から落ちて、
硝子の片が四方に飛び散つた。
子供は驚いた。
ペルシャ製だといふじゆうたんは、
真ッ黒に汚れた。
そして、破れた硝子は、くつ附かなかつた。
母の連れ子の
脳裡に恐ろしい
父の顔が浮び出た。
書斎のむち、
今にも
つぎはぎだらけのシャツを
脱がされて、
むちが……
喰ひ附くやうに、
母の連れ子の、目の下に、
黒いじゆうたんが、
わづかな光りに、ぼやけてゐる
平岡公威11歳の詩
「蛾」
窓のふちに、
蛾がとまつてゐて、
ぶるぶると体を震わせてゐた。
私は、可哀さうになつて、
蛾を捕へようとした。
窓は、堅く、閉ざされてゐたので、
私は、窓を開けて、
放してやらうと思つた。
私は蛾にさはつて見た。
蛾は勢ひよく飛び出した。
私は、気が抜けた。
さつきの蛾と、
そして、
今の蛾と……。
平岡公威11歳の詩
「凩」
凩よ、
速く止まぬと、
可愛さうな木々が眠れない。
毎日々々お前に体をもまれて、
休む暇さへないのだ。
凩よ、
お前は冬の気違ひ、
私の家へばかり、は入つて来ないで、
いつその事、雪を呼んでおいで。
平岡公威11歳の詩
「斜陽」
紅い円盆のやうな陽が、
緑の木と木の間に
落ちかけてゐる。
今にも隠れて了ひさうで、
まだ出てゐる。
然し、
私が一寸後ろを向いて居たら、
いつの間にか、
燃え切つてゐて、
煙草の吸殻のやうに、
ぽつんと、
赤い色が残ってゐるだけだつた。
平岡公威12歳の詩
「独楽」(こま)
(音楽独楽なりき。白銀なせる金属にておほはれる)
それは悲しい音を立てゝ廻つた。
そして白銀のなめらかな体を
落着きもなく狂ひ廻つた。
よひどれの様に、右によろけ、
左にたふれ。
それは悲しい酔漢の心。
踊るを厭ふその身を、一筋の縄に托されて。
唄ふを否み乍らも、廻る歯車のために。
それは悲しい音を立てゝ廻つた。
「静寂の谷」から、
「狂躁の頂」に引き上げられ、
心のみ、尚も渓間にしづむ。
それは悲しい酔漢の心。
そして白銀のなめらかな体を、
落着きもなく狂ひ廻つた。
平岡公威12歳の詩
「三十人の兵隊達」
三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。
三十人の兵隊達。
銀流しの拍車があらはす。
銀と白の光の交叉。
三十人の兵隊達。
硝子の目玉。
極細の毛糸は、
漆黒の頭髪。
けれども、
八つを迎へた女の子は、
この兵隊を捨て去つた。
そして、女の子は、
赤ん坊の人形に、
頬すりする。
芽生えた、母性愛の
興奮。
三十人の兵隊達。
母性愛の為に捨て去られた、
兵隊達。
三十人の兵隊達。
赤と黒の階調。
平岡公威12歳の詩
「絵」
孤児院の片隅で、
幼い子が、大きな絵を眺めてる。
そこには、飴ん棒のやうな木が、
列を作つて並んで居、
木には、パン、草には、ビスケットが、
今を盛りになつてゐる。
口を開けて、夢中になる孤子に、
あたゝかい日差しがあたつてゐる。
しかし、入つてきた院長は、さつさ
と子供を引張つて外に出て来た。
「あんな絵は、目に毒ぢやてな」
平岡公威13歳の詩
「誕生日の朝」
青と、白との光線の交錯のうちに、
身をよこたへつゝ、
その日のわたしは、生れたばかりの
雛鳥のやうだつた。
さて、細い一輪差まで
絶えいるやうな花の香に埋もれ、
太陽をとり巻く雲は、一片の花弁に見えた。
誕生日の贈り物がとゞいた。
美しい贈物の数々は、
石竹色の卓子の上に置かれた。
平岡公威14歳の詩
「見知らぬ部屋での自殺者」
骨董屋の太陽のせゐで
カーテンの花模様も枯れ
家具は色褪せ 空気は
黄色くただれてゐたので
その空気に濡れた古鏡に
わが顔は扁たく黄いろに揺れた
……やがて死は蠅のやうに飛び立つた
うるさくかそけく部屋のそこかしこから
平岡公威14歳の詩
「夜猫」
壁づたひに猫が歩む
影の匂ひをかぎながら
猫の背はなめらかゆゑ
光る夜を、辷らせる
ああ、蝋燭の蝋のしたたる音がする。
真鍮の燭台は
なやめる貧人のごとき詫びしい反射であつたから、
ふと、傾いた甃(いしだたみ)の一隅に
わたしは猫の毛をわたる風をきいた
影のなかに融けてゆく一つの、寂寞の姿をみた
平岡公威15歳の詩
「民謡」
夕ぐれの生垣から石蹴りの音がしてきた
微温湯をいれたコップの内側が、赤んぼの額のやうに汗ばんでゐた。
病気の子のオブラァトと粉薬が窗のあぢさゐの反射であをざめた
石竹色の植木鉢に、錆びた色ブリキの如露がよつかゝつてゐた
早い蚊帳がみえる離れで、小さな母は爪立つて電気を灯けた。
ねむつた子の横顔が 麻の海のなかに浮びあがつた
平岡公威15歳の詩
「夏の窗辺にくちずさめる」
雲の山脈の杳か上に
花火の残煙のやうなはかない雲が見えてゐた
サイダァのコップをすかしてみたら
やがて泡になつて融けて了つた
平岡公威15歳の詩
「幸福の胆汁」
きのふまで僕は幸福を追つてゐた
あやふくそれにとりすがり
僕は歓喜をにがしてゐた
今こそは幸福のうちにゐるのだと
心は僕にいひきかせる。
追はれないもの、追はないもの
幸福と僕とが停止する。
かなしい言葉をさゝやかうとし
しかも口はにぎやかな笑ひとなり
愁嘆も絵空事にすぎなくなり
疑ふことを知らなくなり
「他」をすべて贋と思ふやうに自分をする。
僕はあらゆる不幸を踏み
幸福さへのりこえる。
僕のうちに
幸福の胆汁が瀰漫して……
ああいつか心の突端に立つてゐることに涙する。
平岡公威15歳の詩
「アメリカニズム」 万愚節戯作
たるんだクッションのやうなスヰートピィ
もう十年代、流行おくれの色ですね
玉蜀黍の粕がくつついてる
赤きにすぎる口紅の唇。
ショォト・スカァトは空の色がみえすぎます。
歓楽は窓毎に明るく灯り、
スカイ・スクレェパァはお高くとまり、
鼻眼鏡で下界をお見下しとやら、
だが、ニッケルの縁ではね。
野蛮の裏に文化はあれど……
白ん坊の裡にも黒ン坊がゐる。
欧州向の船が出て、
髯なし共が御渡来だ、
カジノで札の束切つて
縄の御用もありますまい
レディ・メェドの洋服が船にのつておしよせる
あくどい洒落がおしよせる
自由とスマァトネスがおしよせる
「世界第一」がおしよせる
星のついた子供の旗をおし立てゝ。
平岡公威15歳の詩
「薔薇のなかに」
薔薇のなかにゐます。
わたしはばらのなかにゐます。
しつとりしたまくれ勝ちの花びらの
こまかい生毛のあひだに滲みてくる
ひかりの水をきいてゐます。
薔薇は光るでせう、
園の真央で。
あなたはエェテルのやうな
風の匂ひをかぐでせう。
大樫のぬれがての樹影に。
牧場の入口に。
大山木の花が匂ふ煉瓦色の戸口に。
わたしは薔薇のなかにゐます。
ばらのなかにゐます。
小指を高くあげると
虹の夕雲がそれを染め……
ばらはゆつくり、わたしのまはりで閉ざすのです。
平岡公威15歳の詩
「江の島ゑん足の時」
ぼくはゑん足をお休みしました。
二十日の朝はおきると、みんなは今新宿えきへついて、もう電車にのつただらうと思ひました。
すぐそんな様なことをかんがへ出します。ひまがあるとおばあ様やお母様の所へお話しにいきます。
もうみんな江の島へついたかと思ふといきたくつてたまりませんでした。
ぼくは江の島へいつたことがないのでなほいきたかつたのです。
ぼくは朝から夜まで其ことをかんがへて居ました。
ぼくは夜ねると、次の様な夢を見ました。
ぼくもみんな江の島のゑん足にいつて、そしてたのしくあそびましたが、いはがあつてあるけません。
そこでもう目がさめてしまひました。
平岡公威7歳の作文
「私は学生帽です。」
私は平岡さんのお家の学生帽です。坊ちやんが一年生の時西郷洋服店から参りました。
私は喜ばしい事もあれば泣きたい事もあります。
いつも坊ちやんが学校へいらつしやる時に、おとなりのぐわいたうさんとが書生さんに昨日のごみを取つて
もらひます。私達はそれを毎日楽みにして居ります。
私はずい分古い帽子ですが、坊ちやんが大事にして下さるので、坊ちやんからはなれようとは思ひません。
私は何年と云ふ長い月日をかうやつて暮して来ました。
今迄の間にどんな事があつたでせう? 私はそれを物語りたいのです。
(つい此間の事でした。坊ちやんがこはれた帽子を学校から持つていらつしやいました。
それは云ふ迄も無く私です。
坊ちやんは御母様に「之をぬつてね」とおつしやいました。お母様は「ええ、え」とおつしやつて、ぬつて
下さいました)
私は何と云ふ幸福な身でせう?
平岡公威7〜8歳の作文
「かみなり」
きのふのよる僕は雨戸をしめて寝床へ入つた。その時がらす戸から「ぴかりつ!」といなびかりが見えた。
五六べうたつて大きならいが鳴つた。たんすの上にある時計はゆれるしれうりだなの上においてあるせとものも
かちやりと音をたてた。
なんだか家中がゆれるやうなきがした。
おはなれにいらつしやつたおぢいさまが「ひどい雨だ」とおつしやつた。
ほんたうにひどい雨だ。
又こんなかみなりが今ごろなるときではない。又ことしはこんな大きなかみなりが一度もならないのに。
平岡公威8歳の作文
「冬」
もうそろそろ冬になつてきた。
お庭のかきの木のはや、もみぢの葉がさらさらとおちてくる。
お家のうらの小路にほこりがさあつと立つ。
がらす戸に時々つよい風があたつていやにうるさい。
お池の水はじやぶじやぶとおとを立てる。
金魚が驚いて水の中へ沈む。
花園の花がぽきぽきと折れる。
お父さまがお役所からかへつていらつしやつて「今日は実にひどい風だつたよ」とおつしやつた。
平岡公威8歳の作文
「冬の夜」
火鉢のそばで猫が眠つてゐる。
電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。
けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。
おぢいさまが、
「けふはどうも寒くてならんわ」
とおつしやつた。
冬至の空はすみのやうにくろい。
今は七時だといふのにこんなにくらい。
弟が、
「こんなに暗らくつちやつまんないや」
といつた。
平岡公威8歳の作文
「朝の通学」
四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うらの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。
平岡公威8〜9歳の作文
「雨降り」
雨がふつてきた。
ポタンととひの中に入つてとひをつたつてザアッとおちる。
庭のすみに落ッこちてゐる小さなくびふり人形も雨水でビショビショになつてゐる。又木の葉の上にのつてゐる露が
まるで真珠のやうだ。
雨だれの音はどんなにでもきこえる。
タンタラタンともきこえるし又タカタカタンとも、自分の思ふとほりにきこえる。
まるで音楽をきいてゐるやうだ。
雨がふるとお百姓さんも亦(また)草も木もおほよろこびだ。
平岡公威9歳の作文
「ばけつの話」
僕はばけつである。
僕は大ていの日は坊ちやんやお嬢さんがきて遊ばして呉れるが、雨の日などは大へん苦しい。
ほら、この通り、大部分ははげてゐる。
又雪の日なんかは、ずいぶん気もちがいい。あのはふはふしたのが僕のあたまへのつかると何ともいへない。
それから僕が植木鉢のそばへおかれた時、あの時位いやな事はなかつた。となりの植木鉢がやれお前はいやな形だの、
又水をくむ外には何ににも使へないだのと云つた。あそこをどかされた時は、ほんとにホッとした。
ではわたしの話はこれでをはりにする。
平岡公威9歳の作文
「夕ぐれ」
鴉が向うの方へとんで行く。
まるで火のやうなお日様が西の方にある丸いお山の下に沈んで行く。
――夕やけ、小やけ、ああした天気になあれ――
と歌をうたひながら、子供たちがお手々をつないで家へかへる。
おとうふ屋のラッパが――ピーポー。ピーポー ――とお山中にひびきわたる。
町役場のとなりの製紙工場のえんとつからかすかに煙がでてゐる。
これからお家へかへつて皆で、たのしくゆめのお国へいつてこよう。
平岡公威9歳の作文
「農園」
今週の月曜でした。
唱歌がをはつておべん当をいただかうと思つて、教室にはひつて来ました。
すると、おけうだんの上に大きなかごがあつて、その中にはたくさんそら豆がはひつてゐました。
僕はうれしくて、うれしくて、「早くくださればいいなあ」とまつてゐたら、おべんたうがすんだら、皆の
ハンカチーフにたくさん入れて下さいました。おうちへかへつて塩ゆでにしていただいたら、大変おいしう
ございました。
思へば、三年のニ学きでした。
おいしいみが、たくさんなるやうにとそらまめのたねを折つてまいたのでした。
果して、たねはめが出、はがでて、今ではおいしいみがたくさんなつて、僕たちがかうしていただくまでに
なつたのでした。
(中略)
又この間は五六年のうゑた、さつまいもの苗に水をかけました。秋になつたらこのおいもも僕達の口の中へ
はひる事でせう。
平岡公威9歳の作文
「海」
先をと年、小田原の海へ行つたとき、大分沖の方まで泳いだら、お腹がいたくなつたので、およぎをやめて
かへりました。するとその翌日、にはかにきもちが悪くなり、病気になりました。それで泳ぐのに、僕は
こりごりして了ひました。(中略)
波打際であそんでゐると、ビーチパラソルの中から、をばさまが「こんどは少うし川の方であそんだらどうを?」
とおつしやつたので僕は「えゝさうしませう」といつて、弘道さんと、バケツやたもをもつて、川へいきました。
二人でふなの子をとつたり、水の中をあるいて向う岸へいきッこをしたりしてゐるとをばさまが大きなこゑで
「公ちやんとひろみちちやん! ごはんよ」とおつしやつたので僕とひろみちさんは一さんにかけて行つて
おいしいおべんたうをたべたり、おしよくごのキャラメルをたべたりして、又一しきりあそんでかへりました。
その翌日は朝はやくおきて畑へ行くと、お百しやうさんが「このいも、まだあたらしいでがすよ。あんちやんたちに
あげませう」とさつまいもをくれました。
平岡公威9歳の作文
「大内先生を想ふ」
ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか? とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。その次の図画の時間は
大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が
書いてあつた。むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみが
ついてゐるやうに思はれた。
平岡公威9歳の作文
「電信柱」
お家のお庭向きのへいの前に小さい道がある。
そしてそこに木でできた電信柱が立つてゐる。今日の噺はその電信柱の電線の噺である。
ある春の日、僕は縁側に座蒲団をしいて日向ぼつこをしてゐた。
その日は勉強もなかつたし、又遊ぶ事もなかつた。
それでなんの気もなくその電線をながめてゐた。するとそこへ、三羽の雀がさへづりながらとんできた。
三羽の雀はふとその電線の上へ停つた。そして鬼ごつこでもするやうに電線の上を飛び廻つたのだ。
その度に電線はゆらゆらとゆれた。そのとき電信柱は、
「雀さん、そんなに体の上を飛び廻つてはいたいですよ」
とでも云つたのだらう。三羽の雀は又話をしながらとんでいつた。
(続く)
平岡公威9歳の作文
「電信柱」
それから月日はたつて八月になつた。
八月といへば暑いさかりである。
僕はハンカチーフで汗をふきふきシロップを飲んでゐた。
その時、僕の頭に浮かんだのは、あの春の日のことであつた。
今度は帽子をかぶり庭にでてその電線をみてゐた。
するとそこにはいつの間に来たのか沢山の小鳥が電線の上にとまつてゐて、大きな声をはりあげて歌をうたつてゐた。
あげは蝶や黄色虫が小鳥のまはりをとんでゐる。
樅(もみ)の木や杉の木や松などが歌に合はせて踊るやうに葉をうごかしてゐた。
お向ひの物干の青竹が笑ふやうにして云つた。
「電線さんおにぎやかですね」
平岡公威9歳の作文
「松の芽生」
これはまだ僕が大森へ泊りに行かないまへの話です。
或る日お庭へ出て箱庭をなんの気なしに見たら、小さなざつ草を見つけたので、かはいい草だと思つて、掘つて
おばあさまにお見せしたら、「あゝこれは松の芽生ですよ」とおつしやつたので、僕は拾ひ物でもしたやうに
有頂天になつて、急いで、又元のところへ植ゑました。そしてもつと有りはしないかと方々をさがしますと、
その箱庭のすみの方にと、それから小さい箱庭とにありました。それから毎日たんねんに水をやつたのです。
そのうちに僕は大森へ行つて今朝かへつて来ました。
平岡公威
年月未詳(推定は9歳)の作文
「涼しい夕涼みの一時」
入日が西の空をまつかにそめてゐます。
縁先の夕顔がぽつかり白い花をひらいた。昼頃降つた雨がまだかわからないのか。庭下駄でふむ庭の土が
何となくじめじめしてゐます。
それでまた一段と庭の空気が涼しいやうな気がいたします。
えんの下で名も知れぬ虫がなきはじめると、椿の枝の虫籠から、琴をひくやうに美しい鈴虫の音(ね)が、
そよ風に送られて僕達の耳には入つてまゐります。
やがて、松の小枝をとほして、うすい月の光がさしてきました。
太陽はもうすつかり西山に姿をかくして、うす暗い夕空には、月とそれから五つ六つの小さい星がきらきらと
輝いてゐるだけです。
平岡公威
年月不詳(推定9歳)の作文
「学校の二階の窓から」
いつもならさうも想はないが、かうやつてしみじみと二階から見える景色をながめると本当にいゝけしきだと思ふ。
赤坂御所の方はあまり木ばかり立つてゐてさうでもないが、学校のうらの製紙工場の方は木々が緑を増してゐて
何となく秋をおもはせる。
ごんだはらの市電停留所の所へつづいてゐる自動車路は大へん静で良い道路だ。
今度は一寸ちがつて左手の方をながめると、小高い丘の上に家が七、八軒並んで居る。黒い細い煙突から
煙が細く登つてゐる。そのそばに銀色をしたアドバルーンがふんはり浮いてゐる。
丘の上はこの位にして、段々下へうつつて行く。
先づお堀のすぐそばに四ッ谷のプラットホームがあるのがよくわかる。
こゝからは見えないが、始終、電車が出入してゐる。
半身黄、半身緑の市内電車が橋下のトンネルの中へ消えて行く。
(学校の二階のまどべの机で記す)
平岡公威9歳の作文
「長瀞遠足記」
朝起きて見ると東の空がほのかに紅くなつてゐる。
あゝ今日は遠足の日だ。
いつもなら、女中が、
「お坊ちやまお起き遊ばせ」
位云つてくれてもなかなか起きない僕が、今日は起してくれる前におきて了つた。
女中にきいたのだが、僕が十一、二時頃おきて、
「もう朝になつた?」
と、きいたさうだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それから僕はお母さまと書生とで池袋駅へ急いだ。
いよいよ汽車にのつてあこがれの長瀞へ行くのだ。
汽車の中では僕が色々なものをもつて来たので相当面白かつた。
「かァみながァとろォ
かァみながァとろォ」
と叫ぶ駅夫の声に汽車が止つて、先づ宮様方がお下りになり、それから一年から順に汽車から下り、列を作つて、
神保博士の長瀞の石の『ちんれつくわん』へ行つた。
色々な見たこともない石があつた。
けれどもその内で一番僕の面白いとおもつたのは木の化石だつた。
太い木がそのまゝ石になつて居るのは、作つた物としか思へない。
(続く)
平岡公威9〜10歳の作文
「長瀞遠足記」
たうとう河原についた。
こちらの河岸はまことに長瀞の名に応(ふさ)はしくトロトロと流れて居るが、向う岸は水が河底にある岩に
当つてドドドッとしぶきを上げて居る。
本当に『美しい天然』だ。
そこで少し休んで石畳でおべん当をたべた。ザアザアと流れる水の音をきゝながら御飯をたべるのは何とも云へない。
それから、遊園地を通つて、宝登山神社にお参りした。
そこで大へん面白い“獅子舞”を見せていただいた。
雄獅子が二匹と雌獅子が一匹とでピィヒャラピィヒャラとこつけいな踊りをした。
それがすんでから、神社に別れを告げ、この名ごり惜しい長瀞から東京へかへることになつた。
帰りに汽車の中で小松先生が俳句を一句作つて下さつた。その俳句はかうである。
長とろや
とろりとろりと
流れけり
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日の美しい日は夢のやうにすぎて了つた。
長瀞遠足は大へん為になつた。
ほんとにいゝ遠足だつた。
平岡公威9〜10歳の作文
「ある日」
ある日。
いつだつたかよく覚えてゐない。只その日にあつたことだけをおぼえてゐるのだ。なんでも春の夕方だつたとおもふ。
そしてまだ学校へはひらなかつた時らしい。
僕はお二階のヴェランダで女中にだつこをしてもらつてゐた。
女中に抱かれ乍ら僕は夕日の沈む空をみてゐたのだ。
すると遠くから一羽のとんびがまひおりてきた。空中で円い輪を描いて段々下へおりて大分下の方へきたら、
ものすごいスピードで溝をめがけて飛んだ。
そして空へ上つた時にはそのするどい爪で大きな溝(どぶ)ねずみをつかまへてゐた。
とんびはそのねずみをもつて松の木の上に止つた。
そこへ同じ大きさ位のとんびがやつてきた。前のとんびは後のとんびに頭をこすりつけ、一しよに仲よく
そのねずみの肉をたべた。
僕は二羽のとんびに友達は仲よくせよといふことを教はつた。
平岡公威10歳の作文
「夜のプール」
三時頃、林さんが来た。
僕はその前の日林さんの家へでんわをかけたのだ。そして、その時僕は、久しぶりで七時頃から夜のプールを
見にいきませうといつた。
果して林さんは来た。
ごはんをすませて三十分位たつた時の僕は、涼風吹くさはやかな外苑の夜道を足どりも軽くあるいて居た。
夜のプール。
物すごく明るい電気が左右から緑色のプールをくわうくわうと照らしてゐる。
ザブーン。
気持のよい音。五、六人一しよに飛びこんだ。サッサッ、水をかく音。ふとみると、夜空に日章旗が高く
ひらめいてゐた。
平岡公威
年月不詳(推定9歳)の作文
「東京市」
昔は、秋風の吹くごとに、波の如くすゝきのざわめく武蔵野が、今や華やかな都東京市になつた。
それでも明治初期は、東京市と云つても所々に野原があり、本所、深川あたりでは狐狸(こり)が出て人を化かす
といふ噺もあつたが、大正、昭和となつては、さすがそんな噂はなくなつた。けれども、淋しいと云へば淋しい。
その頃は新宿も市外で、今のかつしか、えばら区などと言ふ所は勿論かやぶき屋根の立並んでゐる村であつた。
しかし、明治初期の頃の日本橋、銀座は、割合に発展してゐて、越後屋、高島屋、白木屋などの大商店が軒を
ならべて居たと云ふ。後に越後屋は三越と名を改め、外の大きな店々は三越と共に、豪壮なビルディングへ転居した。
昭和五、六年になると、東京市は実に偉大な発展を占め、旧市、新市合せて、何んと三十五区になつた。
おまけに、新宿が市内になり、銀座、日本橋、丸の内と合せて、東京市は東洋にほこる大都会となつた。
東京市は天をついて伸びてゆく、丁度若木のやうに。
平岡公威10歳の作文
「我が国旗」
徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。それは鹿児島の大大名、天下に聞えた
島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。
平岡公威11歳の作文
「端午の節句」
四月の始から、もう端午の節句のセット等を、デパァトは店頭に飾り出す。四月の半ばになると、電車の窓から
見えるごみごみした町にも、幾つもの鯉のぼりが立てられる。腹をふくらまし尾を上げて、緋鯉ま鯉は
心ゆくまで呼吸する。彼等は町の芥を吸ひ取り、五月の蒼空を呼んで居るかの如くである。
かうして五月が来るのだ。
私の家も例年の様に五月人形を床の間に飾つた。いかめしい甲は最上段にふんぞり返つて、金色の鍬形を
電気に反射させてゐる。よろひも今日は嬉しさうだ。今にも、あの黒いお面の後から、白い顔がのぞき側にある
太刀を取つて……然し、よろひは矢張りよろひびつの上に腰掛けてゐる。松火台の火は桃太郎のお弁当箱を
のぞいて見たり、花咲爺さんのざるの中を眺めたり、体をくねらして、大変な騒ぎである。
(続く)
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「端午の節句」
神武天皇の御顔は、らふそくの光が深い陰影を作り非常に神々しく見える。
金太郎は去年と同じく、熊と角力を取り乍ら、函から出て来た。よく疲れないものだ。お前がこはれる迄
さうして居なければいけないのだ。
さうして、人形は飾られた。白馬は五月の雲。
そして紫の布、それは五月の微風だ。
白い素焼のへい子(し)。
その中には五月の酒が満たされてゐる。
五月が来た!
それは端午の節句が運んできたのである。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「三笠・長門見学」
船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。艦前に来て
再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ! 此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。艦頭の国旗は、うすらな風に
ひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。
其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「三笠・長門見学」
私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃
此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。艦の全体に
ペンキで戦痕が記されてある。こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、
天皇の御稜威のいたす所であらう。艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
クレーンや、色々の機械の動く音と、金槌の音が、あたりを震はせてゐる。「今造つて居る戦艦は、十一月に
進水式をするのです」と案内の人が言つた。あちらでは古い旗艦を保存してゐるのに、こちらでは新しい軍艦が
どんどん生れて来てゐる。一寸面白く思つた。
(続く)
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「三笠・長門見学」
其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、
余りにその設備の新式なのに驚いた。艦上には四十糎(サンチ)の素晴らしい大砲がある。其の太い砲口から
大きな大きな砲弾が出たらどうであらうと思ひ乍ら、案内の人にともなはれて下へ行く、水兵さんの頭を
刈つて居る所、色々な室、何も彼も物珍らしく面白い。時間が無かつたので、ゆつくり見学することが出来ず
残念であつたが、記念撮影をして再びランチに帰つた。あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、
日本の海は安全なのであらう。ランチが着き菊丸まで歩いて、かうして今日の有益な見学を終つた。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「分倍河原の話を聞いて」
私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、
うつさうとした森があつて、遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。白く細く見えるのは
鎌倉街道である。遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて其の代りに陣太鼓の音や
骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。其の時、足下の草の中から、
小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。益々空は青い。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「支那に於ける我が軍隊」
七月八日――其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。懐来より大同へと
我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。我国としても出来得る限りは、事件不拡大を
旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、第二の日清戦争、否! 第二の世界大戦を
想像させるが如き戦ひに遭遇した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(続く)
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「支那に於ける我が軍隊」
飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、苦戦に苦戦を重ねて
居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。たとへ東京に百二十度の炎暑が
襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。浦塩(ウラジホ)には、
東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫! 世界は既に動揺してゐるのだ!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「菊花」
渋い緑色の葉と巧みな色の配合を持つた、あの隠逸花ともよばれるつつましやかな花は、自然と園芸家によつて
造られた。
園芸家達の菊は、床の間に飾られるのを、五色の屋根の下に其の艶やかな容姿を競ふのを誇りとし、自然の
造つた菊は、巨きな石塊がころがつて痩せ衰へた老人の皮膚の様な土地に、長い睫毛の下から無邪気な瞳を
覗かせてゐる幼児のやうに咲き出づるのを誇つてゐる。
前者は人の目を娯ます為に相違ないが、野菊の持つエスプリはそれ以上のものである。
荒んだ人の心の柔かな温床。
荒くれ男どもを自然の美しさに導く糧。
それが野菊である。
《鬚むじやらの人夫などが、白と緑の清楚な姿に誘はれて、次々と野菊を摘んで行き、山の端に日が燃え切る頃、
大きな花束を抱へて嬉しげに家路に着く》それは美しい風景ではあるまいか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
時は霜月。
木々が着物を剥がされかけて寒さに震へる月であるが、彼の豪華な花弁が野分風も恐れずに微笑む時である。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
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「東健兄を哭す」
十月八日の宵、秋雨にまじる虫のねのあはれにきこえるのに耳をすましてゐると、階下で電話が鳴つてゐる。
家のものがあたふたと梯子段をあがつてくる気配、なにがしにこちらもせきこんで、どこから?と声をかけると
「東さんが……お亡くなりに」「えッ」私は浮かした腰を思はず前へのめらせて、後は夢中で階段を駆け下り
電話にしがみついた。その電話で何をうかがひ、何をお答へしたか、皆目おぼえてゐない。
よみ路の方となられては、急いても甲斐ないものを見境なく、仕度もそこそこに雨の戸外へ出た。
渋谷駅までの暗い夜道をあるいてゆく時、私の頭は痺れたやうに、また何ものかに憑かれたやうに、ひたすらに
足をはやめさせるばかりであつた。さて何処へ、何をしに――さうした問は、ただ一つのおそろしい塊のやうになつて、
有無をいはせず私の心をおさへつけた。あらゆる心のはたらきを痴呆のやうに失はせてゐた。
(続く)
平岡公威18歳の弔辞
「東健兄を哭す」
(中略)
兄の御寿(みいのち)はみじかかつた。おのが与へられたる寿命を天職に対して、兄ほどに誠実であり潔癖であり
至純であつた人を寡聞にして私は知らない。私は兄から、文学といふもののもつ雄々しさを教へられたのである。
文学は兄にとつてあるひは最後のものではなかつたかもしれぬ。しかし文学をとほしてする生き方が、やがて
最高の生き方たり得るといふ信仰を、身を以て示された兄の如きに親炙することによつて、わがゆく道の
さきざきに常にかがやく導きの火をもちうる倖せが、こよなく切に思はれるこの大御代にあつて、唯一の
謝すべき人を失ふとは。……兄は病床にありながら、戦に処する心構においては、これまた五体の健全な人間の、
以て範とするに足るものであつた。幾度かわれわれの、あるときなお先走りな、あるときは遅きに失した足取りは、
却つて病床の兄の決してあやまたない足取りのまへに、恥かしい思ひをしたのである。
せめて勝利の日までの御寿をとまづ私はそれを惜しんだ。
(続く)
平岡公威18歳の弔辞
「東健兄を哭す」
(中略)
文学は兄にとつて禊であり道場であつた。文学のなかでは一字一句の泣き言も愚痴も、いや病苦の片鱗だにも
示されなかつた。平生の御手紙には尚更のことであつた。
そこに私はニイチェ風な高い悲しみを思ひゑがいたのであつたが、兄、神となりましし日、私は、つねに完全なる
母君であられ、今世に二なき悲しみにつきおとされになつた御母堂から、けつして愚痴を言はれなかつた四年間の
まれまれに、余人にとつてもおそらく肺腑をゑぐるものがあつたであらうそこはかとない御呟きを伝へ伺つて、
ふともらされたその御呟き――かうして治るのもわからずに文学をやつてゐるのは辛いなあ(誤伝なれば謹んで
改めまゐらせん)――といふ一句を、なにかたとしへもない真実が岩間をもれる泉のやうにのぞいたすがたと覚え、
かつはかく守られねばならぬたをやかさが兄の奥処にあり、守られたればこそ久遠に至純であつたその真実を思つて、
文人の志の毅さとありがたさも今更に思ひ合はされ、御母堂の御心事に想到し奉つても、暗涙をのまずには
ゐられなかつたのである。
(続く)
平岡公威18歳の弔辞
「東健兄を哭す」
(中略)
初の御通夜、み榊、燭の火、虫のね、雨のおと、……私は言葉もなかつた。平家物語のあれらのふしぎなほど
美しい文章がしづかに胸に漣を立ててきた。……かくも深い悲しみのなかになほ文学のおもはれるのを、心の
ゆとりとしもいはばいへ。兄だけはあの親しげななつかしい御目つきを、やさしく私に投げて肯いて下さるであらう。
御なきがらを安置まゐらせし御部屋は、ゆかり深くも、足掛け四年前、はじめて兄におめにかかつた御部屋であつた。
そして今か今かとその解かれるのをこひねがつた永い面会謝絶のあとで、まちこがれてゐた再度の対面は、
おなじお部屋の、だが決しておなじになりえぬ神のおもかげに向かつてなされた。
私はなにかひどく自分が老いづいた心地がしてならなかつた。
徳川義恭兄、ありしままなるおん顔ばせを写しまゐらせ給ふ。感にたへざるものあり。
みそなはせ義恭大人が露の筆
道芝の露のゆくへと知らざりし
つねならぬ秋灯とはなかなかに
――昭和十八年十月九日深更――
平岡公威18歳の弔辞
儂がまだまだずつと若い頃のことぢや。勿論、こんなに腰も曲つて居らんでな。白いひげなんか、
一つもなかつた時分ぢや。いつ頃のことか忘れて了うたが、その晩は全く妙な夜ぢやつた。
月はうまさうな朧月ぢやつたとおぼえとる。星が沢山々々儂の家の屋根にあつまつての、
まるで話しでもしとるやうぢや。
儂はひよんな事ぢやと思うたから、下駄をつつかけて庭へ出て、一生懸命星を見とつたが、
どうも不思議でならん。それでな、上を見て、ぼんやりしとつた所が、おやおや何と
気味の悪いことぢや、足下の叢から人の声が聞えてござらつしやる。
じーつと見て居つたらの。竜胆(りんだう)の葉のかげで、小人どもが踊つてゐるのぢや。
真中に、角力の土俵のやうなものが有つて、一人が踊ると、踊らん小人らは恰好をなほしたり、
注意したりして、まあ、やかましいのなんのつてお話にならんのぢやが、その中の一人が
こんなことを言ひよつたのぢや。
『今晩“萩ヶ丘”でやる舞踏会はな、十二時きつかり始まるで、それまでによう練習
しとかんといかん』
平岡公威10〜11歳「緑色の夜」より
なんというたらいゝぢやらうか。
その綺麗なことこと。錦の布の金糸、銀糸をほどいて、それを細う切り、ぱアーつと
散らばしたやうぢや。
気の早い連中がこんなにも多いと見えて、未だ一時間あるのにもう踊りのけいこをしとる。
大分長い間たつた。十二時十分前頃にな。ほれ、珍客どもが揃つてござつたわ。
湖底の洞にすむ竜の背中で暮してゐる小人は、竜のキラキラする鱗をつづつて作つた
甲冑のやうな洋服を着て来居つた。
橄欖(かんらん)の木に居る妖精は、葉の面を剥いで仕立てた、つやのある、天鵞絨
(ビロード)のやうなのを、大きな樹の叉に住まつて山蚕を飼つとる小人は、そのまゆで
こしらへた良い肌ざはりの絹の衣裳を着て来るのぢや。
水晶の沢山ある山に住んどる奴は赤い木の実をつぶして染めた紅衣裳に、水晶の粉を
ちりばめて来たが、まあ、その美しかつたことと云つたら。口では話せんわい。
平岡公威10〜11歳「緑色の夜」より
自然に対する病的な、憧憬や、執着が子供にもある。否、それは、大人より強烈な場合がある。
彼は充分に笑つてから、まだお腹の隅で、くつくつと笑つてゐるのを押へて、ポケットから
白いボールを出し、空高く投げた。
青空だ。
青空が、ボールについて、上つて行く、そして恐ろしい勢で落ちてくる。彼はそのボールを
受けると、青空を我がものにしたやうに喜んだ。それから、彼は、思ひ切り切り空気を吸つた。
秋彦は、室内や町の中でこんな空気を吸つたことはなかつた。否吸つたと云ふより、
食べたのだ。不思議な味をし、香りをした空気を、青空を、それから、雲を、彼は口の中に
押し込んだ。その味や香りが、どこから湧き出て来るのかわからなかつた。併し彼は、
今その源がわかつたやうな気がする。再び、喜びが湧いて来た。空気の味と香りの源を
確かめたのは、最も大きな喜びであるに違ひない。
それから、秋彦は、大地の躍動を知つた。大地は心臓の鼓動の様に踊り始め、秋彦の足も
自然にそれに伴つた。森羅万象は音楽を奏し始めた。
平岡公威13歳「酸模(すかんぽう)――秋彦の幼き思ひ出」より
――僧よお汝(まへ)は今まで他人をまねて悟りを開かうとした。併しそんないやしい考へで
得られよう筈がない。私はそこで痩せこけた老人に身を変へてお汝を悟りのいとぐちへ
導いたのだ。行きなさい、明日の朝、お前は悟りを得ることだらう――朝開が稲妻のやうに
迫つて来た。太陽は光を得五条の光が閃いた。
――そして坊主は悟りを得た。
それから坊主いや聖人のもとへ一人の小さな男の子がどこからともなく入つて来た。
坊主はそれを極端に可愛がつた。
翌々年聖人はねはんに入つた。聖人は男の子に苦しい息の下から遺言した。――庵の縁の下に
大きな函がある。それをあけなさい。私のお汝への遺産ぢや。お汝の子孫はその遺産を以て
栄え栄えるであらう――
男の子は泣き乍ら、函をあけて見た。中に大きな石があつた。石の上に墨黒々と信念の二字が
かいてあるのみだつた。男の子はいぶかしく思つて石の下をさぐつて見たが何もなかつた。
只石の下面に字があつた――この石にかじりつきて働き働くべし、怠ることなかれ――
平岡公威13歳「座禅物語」より
皆さんは月に一つぺん位、大きな入道雲を御覧になるでせう。入道雲はおどけた人のやうな顔を
してゐます。あれは、淋しく弟と暮らしてゐるお母さんを笑はせてなぐさめるために、
月に一度来るときには必らずお面をかぶつて来る男の子の姿なのです。
一度あのお面をとつて見たいものですね。
平岡公威10〜11歳(推定)「大空のお婆さん」より
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。
平岡公威15歳「彩絵硝子」より
死のもたらす不在はそのすみずみまでが、あらけない不吉な確信にみたされてゐる。それは
はげしい風のやうにすべてをそのなかに見失はせてしまふ。だがそこからは再びなにものも
生れてはこないのであらうか。それらのおもひでを耕す鍬を人はもう失くしてしまつたので
あらうか。
平岡公威17歳「青垣山の物語」より
ほんのつまらぬ動機からも、子供にありがちな移り気と飽きつぽさは、なにかおおきな意味を
みつけたがるものでございます。
平岡公威17歳「祈りの日記」より
女は愛するだけが最大の幸福だ――何といふ腹だゝしい定理であらう。
いかさま恋といふものは自分の想像も及ばないやうな深いところに現はれて来るものなのである。
真実の恋とは自分では気付かないものなのだ。恋の最初の身振はいささかの無理を伴つて来る。
人々は強ひて、自分の狂ほしい気持をその深い井戸のなかへもつて行かうとする。
恋は保護色であらゆる色のなかにしみいつてゐるものなのだ。すべての女たちのやうに
恋人に対してわれ知らず自分の印象をよく見せようにしてゐる天性が彼女のなかに果して
少しもなかつたか。恋といふものは決して裸かでは為されないものである。身につけあつてゐる
さまざまな鎧がいつか鎧ではなくなつて、それが攻撃の道具となり手引となり、身体の
一部と相手に思はせるやうになるものなのだ。
平岡公威14歳「心のかゞやき」より
恋のはじめといふものは鞦韆(ぶらんこ)の下の花のやうなものである。自分で鞦韆を
うごかしておきながら、花をつむことの難しさに、わざと大きくゆらして花をとりたい気持を
自分自身に隠さうと見栄を張るのだ。
愛情の爆発でない嫉妬といつたら、形式的な虚栄(みえ)の混つたものではないだらうか。
わづかにのこつた薄い愛情からも嫉妬は炎え出すものであるが、愛情が薄ければうすいほど、
その形式的な気持や虚栄が濃くなつてくるものとはいへないだらうか。世の人の、
「最も激しい嫉妬」といふものこそ純粋な嫉妬の姿なのである。
恋敵への嫉妬は帰するところ、盗人への怒りである。恋人への嫉妬はそんな単純なものではない。
寛容と憤怒、失望と敗者の自己嫌悪、その他のあらゆるものが激し合ひ融け合ひ、彼あるひは
彼女の上に注ぎかゝる。
平岡公威14歳「心のかゞやき」より
祖母は神経痛のために風にあたるのを嫌つたので、障子は悉く閉め切られ、光は殆ど得られなかつた。
わたしは祖父のところへ行き、書籍をよみをはつたのをうかゞつて「おぢいさまはこんなに暖かいのに何故
こたつなんかに這入つていらつしやるの」と言ふと、祖父は小さく笑ひ乍ら私を見た。わたしは炬燵蒲団の上に
細々と砕けてこぼれてゐる正午に近い陽光を指さした。祖父とわたしとでゆつくりと庭へ下りる前にわたしは、
祖母の居間の障子をそうおつと明け放つた。風は草の葉を揺がす程もなく、祖母は徐ろに庭先を眺めた。そこには
新緑が春光に反射されて、さふあいやのやうな光を放ち、庭木は逞ましい腕をさしのべて蒼穹に向つて伸び
行きつゝあつた。その木の間に真赤なひらひらするものが、こまかい枝々をとほして見えた。祖母が何ときいたので、
山椿ですよ、と答へた。まあ、山椿! もう山椿が咲き出す時分になつたかねえ。
平岡公威13歳「春光」より
わたしはその下に行つて、手頃な小枝を二三本手折つた。びろうどのやうな不透明な柔かさがしつとりと指先に
吸ひついた。――祖母は女中に一輪差を持つてこさして自分がさし、顔をそうーつと花のそばへ持つて行つた。
葩一枚一枚には、春光がすつかりしみ込んでゐた。祖母の面(おもて)は、眼(まなこ)は俄かに若々しくなり
再び一輪差の中からそれをとり出していつまでももてあそんだ。
祖父は涼亭(ちん)へ行つて了つたので、わたし一人芝生の上にとりのこされた。芝の匂ひはむせるやうに
激しくて、一匹の蟻がよたよたと嬰子のやうな恰好して歩いて来た。怪我をしてゐるらしかつた。わたしは急に
いとほしくなり、そうおつと掌にのせてやつて蠢(うご)めいてゐる小さな生物の生命のよろこびをたのしんだ。
祖父は涼亭の石段をことことと下りて来た。
平岡公威13歳「春光」より
「やあ子」が泊りに来るときはその八畳の中央に床をならべた。康子の「す」の音がうすつぺらな感じを与へるので、
「やあ子」といふ彼女の撫肩そつくりな発音の愛称を、私は好いた。風呂から上るとこの小さな女の子は、洋服を
きちんと畳んで枕許におくので、おまんはそれを模範として私にも所謂「いゝ癖」をつけさせようとした。
癪にさはつて私がいふのである。
「お床にいれる方があつたかくなるからボクがいれてあげよう、やあちやん」
気のいゝ彼女はこの親切にさからへない。翌朝、私の床のなかに筋目も何もなくなつたしわくちやな洋服を
見出だして、おまんは憤慨し、やあ子は泣き出すのだつた。
大人つぽく肱で頬つぺたを支へながら、やあ子は心臓を下にし、私は左肩を上にして向ひあひ、お互に床ふかく
埋つて千代紙みたいな会話を交はした。それは千代紙のやうに稚拙な色をもち、金粉をかけ、皺がより、断片的な、
子供特有のあの会話の型式なのだ。私は「天井の木目」がこはくなくてすむところから、かうした夜々を好きに思つた。
平岡公威15歳「幼年時」より
ひどく心配さうな目附で彼女が云ふのである。「沙漠のね」
「沙漠の?」
「なんだつたかしら」
「え?……」
「ラクダにのつかつて」
「隊商!」
「隊商がね、ラクダでザックザックつてくるでせう。その音がとほくからきこえるの」
「ほんたう?」
「やめようとおもつてもきこえるの。上をむくときこえないけれど枕を耳にあてるときこえてよ。近くなつて
くるわよ、だんだん」
「きこえない」
「あらへんね。やあ子とおんなじ方むいたら?」
「きこえない」
「へんね、やあ子ずつときこえてゝよ。また近くなつた……こはあーい」
さう云ふなり彼女は耳をおさへて私の床へはひつてきた。私は強がらないわけにはいかなくなり、
「大丈夫」とおまんの口真似をするのだつた。
その幻聴はやあ子の貧血の前駆症状だつた。
平岡公威15歳「幼年時」より
玩具をみるときの子供の目つきは、ちやうど美しくめづらしい石をみつけたときの原始人の目付に似てゐる。
子供が大人からその玩具の使用法をおそはつて暫く無意識に何度もねぢを廻しては殆ど目的のぼやけた「興味」を
傾けたのち、はじめて子供はその玩具の本当の使用法を知るに到るのだ。玩具は玩具函のなかにあるものではない。
玩具は子供のなかにゐるものなのだ。母親たちはわづか二、三日でその玩具の機械(からくり)をまはさなく
なつた子供に悲観してはならない。玩具がもつてゐる不変の機械作用は、ほんの外面のものに過ぎないのだ。
玩具を了解する瞬間に子供にとつてそれは有形のものではなくなり、無形の抽象物……即ち消極的に生活の一部を
支配し、ある重要なつとめを有(も)つものと変る。かくして私のまはりの透明体の城壁の一部――それを
見透かすときあらゆる生物が植物のやうにみえ、あらゆる事物が不自然に拡大されてみえる城壁の一部として、
その玩具があらたに加はつたのを、私はすぐさま感じた。
平岡公威15歳「幼年時」より
召使たちの別棟は、塀近い御長屋風の二階建で、おまんは塀へむいた二階の二間を占有してゐた。私の部屋の傍から、
長い覆附の渡廊下が、その棟に続いてゐた。祭の日に行列の通る時刻を予め問ひ合はせ、その半時ばかり前から、
おまんが私を迎ひに来るのだつた。これといつて刺戟のない日々に引き比べて、その前の晩、私はなかなか
ねつかれなかつた。ことにおまんが自分の部屋を「仕度し」にいつてゐる小一時間、私はひとりでそこへ行つて
了つてはつまらない気がするので、あのお年玉を待つときそつくりな気持でおまんの迎ひを待ちこがれてゐた。
倦怠と焦慮の様子は、両者とも時間をもてあましてゐる点で大へんよく似てゐるものである。(中略)
おまんの袖に抱かれるやうにして、「御前様にみつかりなさると大変でございますよ」いふおまんの声に
せきたてられて、一気に駈けぬける廊下は長かつた。杜鵑花(さつき)の植込の、非常に赤いのが目に残つた。
平岡公威15歳「幼年時」より
几帳面で綺麗好きなおまんは、自分の部屋へ私が来るといふので、女の部屋特有な調度類は皆片附けて、隅々まで
掃除したうへ、道路に面した窓を一杯にあけはなしておいてくれた。なかんづく懐かしかつたのは、その時
用意してくれるウエファースだつた。ふだんの「お茶」にはウエファースなぞあまりつかないのに、祭のたびに
おまんが揃へておいてくれるのは決つてウエファースだつた。それも子供じみた秘密な儀式の、たのしい
「しきたり」の一つになつた。
私は窓ぎはにちよこなんとすわつて、祭のさきぶれの、ひどくあけつぱなしな雑踏をながめながら、うすい
九重(ここのへ)に頻りにウエファースをひたしては喰べてゐた。さうしてゐる私は、また自分の背中いつぱいに
注がれてゐる、いとしくてたまらないといふおまんの目附をあたゝかく感じて幸福に思つた。
疎らな竹藪と丈の高いひばの並木は街道のざわめきをよく見せた。裏二階はどこも開け放され、物干は満員だつた。
乾物のいろどりの間に、人の顔がいつぱい詰つてゐるのがゴシック模様のやうだつた。
平岡公威15歳「幼年時」より
焼けた河原から河原へ大きな橋がかゝつてゐて、その下を清い多摩川の流れが、昨日の雨に水量を増して大速力で
走つて居ました。
私も河の中を海へ海へと走つてゐました。ところが“流れ”は私達“水”を海へ運んで行きはしませんでした。
陽はかんかんと照りつけて、私達の冷たい体も、ぽかぽかとあたゝかくなりました。両側の河岸では、麦藁帽子を
被つた人々が、呑気さうに、けれども如何にも暑さうに釣をして居ました。白いペンキで塗つた新らしいボートが
するすると水面をすべつて行くのも気持のよいものでしたが、古い昔からの渡船がのんびりと、ろを動かし動かし、
眠さうに走つて行くのも何となくいゝ気持になりました。
やがて、私達はごうごうといふ音を立てゝ、何やら暗い所へ入つて了ひました。
これは、かねがね噂に聞いた“海”といふものではなささうでした。第一、しほつからくもありませんし、
《常に頭の上にある》と云ふ太陽さへ、今はどこにも見出だせません。
平岡公威10〜11歳「“水”の身の上話」より
体が何度か上へ押し上げられ、激しく落とされました。随分長い時間でしたが、やつと日の目を見ることが出来ました。
そこは、浄水池といふところでした。けれども、暫くの間でまた暗い暗い道に入らねばなりませんでした。
道は私達の前居た多摩川とは比べものにならない程窄(せま)くて、ひどく曲りくねつてゐるものですから、
体のもまれやうが大変でした。
やがて妙な音がして私達の体がぐぐつと押し上げられました。
そして、せまい器の中へ納まりました。
さて私達が浄水池へ行つて体を見た時にはあんなにすきとほつて美しかつたのが、今、水道の口金から出て、
器へ入つた拍子に、真白で、すきとほらなくなつて了ひました。
それは、お米をといでゐる女中さんが、お釜の中へ私達を入れたのでした。その為、ぬかにそまつてこんなに
なつて了つたのです。
私は絶えず掻きまはしてゐる女中さんの手の間から、台所の中を見まはしました。向側に瓦斯があつて、薬鑵が
のつかり、白い湯気を一杯出してゐました。私が湯気と云ふものを見たのは、これが始めてでした。
平岡公威10〜11歳「“水”の身の上話」より
面白くなつて一生懸命覗いてゐますと、すぐ私達を、じやあつと捨てゝ了ひました。
捨てられた私達(水)は、白い体のまゝいやな臭ひのする下水へと急がねばなりませんでした。下水には、
黒い大きな泥溝鼠が、我物顔に走つてゐました。
泥溝鼠は新入の私達を迎へて、私達の流れる速さと同じにかけながら、白い私に話しかけました。
「君は多摩川で、鼠の死んだのを見かけなかつたかね」
私は多摩川をそんな汚ない所に思はれるのがいやでしたので、返事をしないで居ましたが、彼は更に云ひました。
「実は僕の弟が、三人とも居なくなつて了つたのでね」私達はそれを聞いて、少し可哀さうになつたとは云ふものゝ、
この下水と多摩川とがつながつてゐるやうに考へてゐる泥溝鼠を可笑しくもなりましたので「そのうちに、
さがし出して上げませう」と云つて別れました。
やがて下水は、大きな深い穴で終りました。そしてまた、暗い鉄管の中を通つて行きました。
平岡公威10〜11歳「“水”の身の上話」より
闇の中にぽつんと明るい点が見えたと思つたのは、嬉しいこと、河へ注いでゐる出口でした。私達の流れは急に
早くなりました。そしてボシャンといふ音を立てゝ川に落ちこみました。
川は広かつた。そして水はきれいでした。ゆるやかにゆるやかに私達は動き、そして、ふつと自分の体を見たら、
多くの水が混り合つて、すつかり元のやうに美しく透通つてゐたではありませんか。
それからの毎日毎日は楽しい時がつゞきました。
ある時はかはいゝ鵞鳥の子が大勢で泳ぎました。
又、小さな子供が笹舟を、そのやはらかい紅葉(もみぢ)のやうな手で作つて、そつと水に浮ばせたときも
ありました。私はさゝぶねを乗せて、ごくゆつくりと歩いてあげました。
小さな子供は、赤いほゝをしてゐて、それはそれは可愛く、さゝぶねが流れるのを追つて面白さうにかけました。
平岡公威10〜11歳「“水”の身の上話」より
それは春のことでした。いつの間にか河底で生れた鮎の子は、元気にかろやかに泳ぎました。河辺には荻が茂つて、
私達はするすると、荻の間を進みました。
やがて朝の霧がうすくうすくわからないやうにはつてゐる向うに、土も、それから樹も、丘も山も何も見えないのに
気付いたのです。
そして、なんとなくしほつからくなつて来たやうに思へます。
海へ出たのでした。私は、あんなに多摩川からすぐ海へ行つた友達をうらやましがりましたが、海へ出るのに
こんな方法もあつたのでした。
春の日は、水面、もう海面である私達の頭に、金色のこてをあてました。こてにかゝつた髪のうねりは次第に
高まつて、始めて知つた波となつて、白砂の浜にうちつけました。
私は、気持よく、ゆりかごにのつたやうに、波打つてゐたのです。
平岡公威10〜11歳「“水”の身の上話」より
川端やお堀端やどれもこれも同じ顔立をしてゐるところがふるさとのかなしい人々を思はせるゆがんだ軒並や、
築泥や舟板塀だのに沿うて走つてゐる電車は、ハンドルをまはしつゞけると何度も同じ汽車が鉄橋のうへに
出てくるあの玩具にも似て、かうした退屈な町ではどの電車も一台だと信じてうたがはぬだらうと思はれるほど、
みな同じにいたましくペンキが褪せ、いつしんにはしつてゐた。お客の影は、ものゝ二三人しかみえない。
凸凹なみどりのシイトが、まのびした長さでひろがつてゐる。わたしはかうした町へきてふるい空々(ガラガラ)な
電車にのるたびに、もう何年もあはぬなつかしい人にあへるやうな気がしてならない。稚ないころすでに
としとつてゐたそれらの人たちは、あるひはもうこの世にゐないのかもしれないけれど、昔よりもつと若い、
さうして古風な皃立(かほだち)に地味な小紋の着物をきた束髪の姿で、おせんかなにかの土産包を片手にしながら
よろよろと急な乗降口を、のぼつてくるやうな気がしてならない。
平岡公威15歳「でんしや」より
髪を高い「行方不明」に結ひあげたあの上品な吃りのお婆さんは、祖父時代の芸者あがりの富士見町の秋江さんは、
それからいつも植木をみやげにもつてくる昔道楽ものでならしたといふへうきんな小父さんは、いつたいどこへ
行つてしまつたのだらう。聞かぬ名前のひつそりとした停留所を、わき目もふらず電車がすぎてしまふと、
その停留所ちかくの町の一廓にあゝいふ人々の表札がのきごとにかけつらねてあるやうな気がする。生垣や
ひくい板塀ごしに、さういふひとたちのひいてゐるもう拙なくなつた三味線の音が、なにかおどけたものゝやうに
きこえてきはしないか。……だがその停留所をすーつとすぎてしまつたことに、悔いやのこり惜しさを感じつゝも、
何だかそれをみきはめずにおいたことが、ひどく安心なやうな気持がうまれてくる。と、それにしたがつて益々
つよい色彩でさうした空想がにじみ出てくるのであつた。
平岡公威15歳「でんしや」より
ひとむかしまへ西片町時代の奉公人であつたのが、すこしへんになつて暇をやつてからといふもの、ちかごろは
大分よくなつたと毎年々々たづねてくるその男に、幼な心にも「まだヘンだ」といふ気持をすぐかんじた。
勝手口から女中連を大声でからかひながら、それでも小綺麗な唐草の棉風呂敷片手にはひつてきて、奥へ挨拶に
ゆくまではよいのだが。……
「けふらは大奥様のお好きな枝豆をうんともつてめえりやした」といふ。この寒さに枝豆もないものだと祖母が
おもつてゐると、すばやく兼さんは包をあけひろげてゐた。中味といふのが汚ない菜つ葉と小如露と、子供の
バイである。みるなり「そらいつもの兼さんがはじまつた」と祖母と女中が笑ひくづれるのへ「ほうれ女房め
いれまちがひしよつたわい」と頭をかきながら一旦調子をあはせるものゝ、またすぐけろりとして十五、六分
話しこんだすゑ、ふいにかへつてゆくのであつた。
平岡公威15歳「でんしや」より
落語の「堀之内」を地でゆくやうだと、奉公人たちは笑ひあつたが、その兼さんも、「死んだ」といふあやふやな
風聞(うはさ)ばかりのこして、祖母の死後つひぞ姿をみせなくなつてしまつた。
どこの河畔の何町だかすつかりわすれたあひかはらずガラ空きの電車に足をふみいれてぎくりとした。
古半纏(ふるはんてん)の兼さんがこつちむきにすわつてゐるのだ。妙なことにひとのかほさへみれば
「坊ッさ、大きなられましたなあ」と大声でいふ筈のが、目の前にみてゐながら声ひとつかけようとしない。
大体目のピントがすつかりはづれてゐるのだ。少々頬のあたりなど狂暴でうすきみわるかつた。前歯が一本
戸まどひして、唇の間からたれてゐた。胃癌になつた鷄といふ感じがした。車掌が前をとほると首にぶらさげた
合財袋から無意識的に小銭をとりだす。なれつこになつてゐるとみえて車掌はつりを袋のなかへおしこんだ。
平岡公威15歳「でんしや」より
終点で下車してわたしはしばらく尾(つ)けてやらうとおもつて、ちやうど同じ方向であるのをさいはひに川端を
あるいていつた。川に映つた空のなかには燻製のやうな太陽がいぶつて流れてゐた。空にうつつたその川のやうに、
曇天のなかにひときは濃い、ひとすぢの雲が澱んでゐた。半纏を柳と平行になびかせてうつむきながら狂人は
あるいた。それがふいに立ち止つたのでわたしはびつくりした。
川のなかをそはそはのぞきこんでゐる。
ときふに膝をたゝいて廻れ右をして、おどろくわたしを尻目にもかけず、すたすた目のまへをすどほりし、
折から今来た方向へ走つてゆくかへりの電車にとびのつて了つたのである。この一幅のカリカチュアのなかの自分に
苦笑してふりかへつたわたしの視界を、電車はいつもの暗い音をひゞかせながら、不器用にとほのいて行つた。……
平岡公威15歳「でんしや」より
お父さんが大阪へ転任したので、それからちよいちよい関西旅行をするやうになつたある夏のこと、お父さんは
わたくしをお役所へつれていつてくれました。仔熊をみたいとせがんだからです。その仔熊は――若しおぼえて
いらしたら、大阪の新聞や、その社のコドモニュウス映画で、ごらんになつた方々も、ずいぶん多い筈だと思ひます。
お父さんは仔熊をうつした写真を、よく東京へもつてきました。お役所の女のひとだのお父さんだのが、
眩しいやうなコンクリイトの空地のうへで、熊にお菓子をやつてゐるところでした。さうしてどの写真の熊も
チンチンをして一寸首をかしげて、まだ小つぽけな両手の爪を、全部だらしなく出してゐました。
赤か、それとも派手な模様のリボンを、首につけてやりたいやうでした。
お役所のAさんは話してくれました。
「あんまり深い山でも有名な山でもありませんけど、大阪近県の山おくで、きこりが木をきつてゐたのです。
するとどつかで、コリッコリッといふ音がしてきました。…
平岡公威15歳「仔熊の話」より
(中略)
ふいに明るいところへ来て眩しかつたものか、目をしよぼしよぼさせた仔熊が、耳だのあるかないかわからないほどな
尻尾だのをぴくぴくうごかして、両手でつかんだきいろい木片をコリッコリッと噛みながら出てまゐりました。
さきほどからの音はこの音だつたんです。
おいしくもなさゝうなその木片を、さも大事さうにカジつたりシャブつたりなめたりしてゐるのをみると、
きこりはかはいらしくつてふきだしさうになる一方、大へんかはいさうにも思ひました。きつとたべるものが
なくなつたので空きぬいたお腹をだますために、そんなものをかじつてゐたのに相違ないのです。きこりは熊を
抱き上げました。すると真暗な、小さな革コップをかぶせたやうな鼻先を、しきりにきこりのえりだのふところだのに
つつこみました。手を出してやるとふんふんといひながら、ふざけるつもりか喰へ物と思つたのか、そつと
やはらかく指をかみます。
ありあはせの縄で傍らの木にひとまづつないでおき、お弁当なんぞを分けてやつたのち、仕事がすむとそれを抱へて、
村里へ下りてゆきました。
平岡公威15歳「仔熊の話
(中略)
営林署の大竹さんがあるいてきました。
『へ、だんな熊ッ子です』ときこりは、いちぶしじゆうつかまへた話をしました。どれどれとわらひながら
大竹さんは熊を抱かうとして手をのばしました。すると口にくはへてゐた煙草をおとしてしまひました。大竹さんが
ちよつと惜しさうにしてそれをみますと、熊も心配さうな顔をして、自分が落し物をしたやうに下をみました。
大竹さんはアハヽハと笑ひました……」
Aさんはそこまで話して自分もをかしさうに笑ひながら、
「営林署でゆづりうけてそれから大阪の、この営林局へつれてこられたんですよ……」といひました。
背のひくい女のひとゝAさんとの案内で、わたくしは熊を見に行きました。廊下の両側にはタイプライタアの音が
つつかゝるやうにやかましく響いてゐました。(中略)
小さいドアをあけて二三段下りると、地べたへぢかの屋根付廊下がまはりを囲み、バラックがみえてゐて、
ちよつとペンキの匂ひもする、一面セメントのたゝきのやゝ広い場処へ出ました。
平岡公威15歳「仔熊の話」より
仔熊はそのはじつこの岩乗な檻のなかでオォン・ウォンとないてゐました。営林局へ来てからといふもの世話を
一ト手に引き受けていちばん懐かれてゐる小使さんが、わたくしたちを待つてゐました。(中略)
やがて小使さんが小さな金だらひに御飯でつくつた糊をたんといれたのをもつてきて、をりの戸をあけますと、
熊はなれなれしく小使さんにすりつきました。それをいれてやるとみるまにパクパクたべてしまひましたが、
いよいよ手が要用になつて前脚でたらひを抱へ、顔をすつかりつつこんで隅から隅まできれいにしてしまひました。
お食後には林檎をひとつやりました。一寸爪先で皮をむくやうなまねをしましたけれども、思ひ直したやうに
ガブリとかみついて芯から何からみなたべてしまひました。
「熊を出しませう」と小使さんが云ひました。わたくしはもうちつとも熊がこはくなくなつてゐましたから、
ニコニコ笑ひました。
「あんよはお上手」なんぞと言はれながら小使さんに前脚を持たれると熊は困つたやうな顔をして立つたまんま
危なつかしげに出てきました。
平岡公威15歳「仔熊の話」より
足の裏のぶよぶよした灰色が、そのとき日に光つてまつしろに濡れてみえました。鎖をつけて小使さんが引つぱつて
あるきました。
「また梯子のぼりさせようぜ」と云つて別の小使さんが梯子をもつてきて屋根にかけました。満腹で御機嫌に
なつたので、熊は云ふとほりになりました。ウヴォオンと呟やいて梯子のまへにチンチンすると、屋根のうへの方を
まぶしげに眺めながら、手招きしつづけてゐるやうな前脚をそつと梯子にかけ、それからはすらすらと三四段
上りました。
もうそれ以上はのぼれないとわかると熊は恨めしさうにトタン屋根のまぶしい反射を見上げて、かへりはひどく
用心ぶかく下りてきました。
……そのときむかうの出口から給仕さんがやつてきました。「お父さんがお呼びですよ」
……わたくしは何度も何度も熊のはうを見ながら、のこりをしさうにその扉の前の段段を上つてゆきました。
熊はねぶられたやうな眩しい目付をして一寸わたくしを見ましたが、なんだつまらないと云つた顔付で、また
むかうを向いて歩いて行きました。……
平岡公威15歳「仔熊の話」より
(中略)
あるときお父さんが大阪からかへつてきて夕食のときに申しました。
「あの仔熊は室垣さんとこへ払下げちやつたよ」
「まあ何につかふんでせう、まさか毛皮にするんぢやないんでせうね」とお母さんがいひました。(中略)
室垣さんといふのはお父さんの高等学校時代からのお友達で、温泉の会社をやつてゐました。その会社では
温泉地に宿屋なんぞを経営してゐるのださうで、そんなところへ仔熊は買はれて行つたものとみえます。
「こんどつから大阪行つてもつまんないな」とわたくしが言ひましたらお母さんは、
「熊の毛皮は冬ころしたんぢやないと毛がぬけてだめなんですつて」と別なことをいひ出しました。それをきくと
なんだかあの仔熊はどうしても皮をはがれなけりやならないやうな気がして来て可哀さうで御飯がたべられませんので、
水ばかりのんで流しこんでゐました。
お父さんは新聞に夢中になつて活字のうへにひとつごはん粒をこぼしました……。
平岡公威15歳「仔熊の話」より
十二月のなかごろに室垣さんは久し振りにたづねてきました。そしてあしたから××といふ山の温泉へいきませうと
いひました。お正月もそこですごすつもりで、学校が早くお休みになつたわたくしはお父さんと室垣さんとで
さきに行き、妹や弟たちもお休みになつてから、お母さんといつしよにやつてくることになりました。(中略)
駅には宿の番頭さんや二、三人のひとが迎へに来てゐました。鈴蘭灯がつゞいてゐる町をぬけると、そのへんは
大へん静かでした。早くも梅のつぼみがふくらんでゐました。宿はまつしろい谷川をみおろして、古びた土橋の
よこにたつてゐました。
わたくしはお風呂にはひるまへに、熊をみにいきました。
「さあさあどうぞ、こちらですわ」とお女将さんが案内してくれました。いちど玄関においてお客さまにみせて
ゐたのですが、おびえてちゞこまつてばかりゐるので、人の少ないこつちの内庭へ、移したのだといつてゐました。
平岡公威15歳「仔熊の話」より
それは宿屋から渡り廊下でつゞいてゐるお女将さんたちの家の、ごく内輪な庭で、茶梅(ささんくわ)の白と
鴾(とき)いろの花が、落ちついた濃みどりの葉のあひだに、少しちりかけてゐました。文鳥がかつてありました。
三万を棟に囲まれた庭の隅に、営林局のころよりはずつとしやれた檻にいれられて熊はゐました。銅板に彫つた
トミィといふ名札がうちつけてあるところをみると、この仔熊も「トミィ君」になつたとみえます。わたくしが
トミィ、トミィや、と呼びますと、寄つてきて前とおんなじのクスンクスンフンフンをやりましたから、
かはいらしくてだつこしてみたくさへなりましたが、何分大へん大きくなつてゐてかみつかれる心配もなくは
なささうでした。
おかみさんは、
「オヤオヤはじめてン人には見向きもしないのにお坊ちやんばかりには大へんな甘つたれですわ」と云つてゐました。
わたくしがさいしよにそれを見たとき感じたのがほんとになつて、熊は首にまつ赤な絞りの首巻をしてゐました。
平岡公威15歳「仔熊の話」より
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威16歳「惟神(かんながら)之道」より
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威16歳「惟神(かんながら)之道」より
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着として、
生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、池水が
前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ存在の意義を
比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に於ける逢会であつた。
私は不朽を信ずる者である。
平岡公威20歳「別れ」より
僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものすべて愛した。サーカスの人々をみて僕は独言した。
「ああいふ人たちは」と僕は思つた。「音楽のやうに果敢で自分の命を塵芥かなぞのやうに思ひ、浪費と放蕩の影に
やゝ面窶(おもやつ)れし、粗暴な美しさに満ちた短い会話を交はし、口論に頬を紅潮させながらすぐさま手は
兇器に触れ、平気で命のやりとりするであらう。彼らは浪漫的な放埒な恋愛をし、多くの女を失意に泣かせ、竟には
必らずや、路上に横はつて死ぬであらう」と。僕は又、天勝の奇術舞踏に出てくる大ぜいの薔薇の騎士たちを愛した。
彼女達は、楽屋でも、日々の生活の上でも、あの危険な、胡麻化しにみちた、侘びしく絢爛な、表情と身振りとを、
決して忘れまいと思はれた。そこには僕の幼時にとつて禁断の書物であつた講談倶楽部やキングや新青年に出てくる
血みどろの挿絵のやうな、美しい生き方がされてゐるのだと僕は疑はなかつた。長い剣が触れ合ふたびごとに本当に
紫や赤の火花がとびちり、銀紙や色ブリキで作られた衣装が肉惑的にゆすぶれ乍らキラキラきらめきわたるのをみて、
僕は自分の胸がどうしてこんなに高鳴るのかわからなかつた。
平岡公威19歳「扮装狂」より
僕が何かになつてみたいなあと思ふとき、それは大抵派手な制服であつた。僕の幼な友達もそれに心から同感した。
即ちエレヴェータア・ボーイであり花電車の運転手であり地下鉄の改札掛である。地下鉄の構内には一種麻薬の
やうな匂ひがある。日もすがらさういふ匂ひを吸ひ眩ゆい電灯の白光にその多くの金釦をかゞやかせてくらして
ゐるといふことが、彼等を尚更のこと神秘の人種めかしてみせる。僕には到底ああはなれまいと幼な心にも思はれた。
それで一そう憧れは険しくなる。――ホテルのエレヴェータア・ボーイや花電車の運転手といふ職業ほど、此世に
危険な悲劇的なやけつぱちな職業はないといふ風に感ぜられる。僕はホテルなどで彼等に話しかけられると、
不良少年によびとめられたやうに我しらずドギマギした。
平岡公威19歳「扮装狂」より
僕は少年期に入る。ブラと仇名された四つ五つも年上の少年。彼は落第してきて僕らのクラスで暴君のやうに振舞ふ。
僕はすぐさま彼に英雄を発見した。言ひかへればサーカスの人を。彼を不良だと呼ぶことは実にすばらしい信仰である。
僕は彼と対等な口をきゝながら息がつまりさうな気がした。それほどまでに僕は無理を犯した。彼の白い絹の
マフラーは、派手な沓下はまことに好かつた。(中略)
ブラの魂は人には言へぬ暗い汚濁のために哭きつゞけてゐる。――僕はさう思つて同情に惑溺した。そしてその同情が
扮装欲のわづかな変形であることには気附かないでゐた。……ブラはしばしば学校を欠席しはじめた。それでも
偶には来る。あるとき用事で遅くなつて僕は夕日のほの明るいロッカア室へカバンをとりにゆくために入らうとした。
すると学生監室のドアが陰気に開いてブラが出てくる。ブラは無理に笑ふ。おおでも目の赤いこと。君でも泣くのかと
僕は責めたいやうな気持だつた。僕はだまつてゐた。ブラは学生監の悪口を二言三言云つた。僕は悪口をいふブラが
好きである。一緒にかへらうと誘つたところが、珍らしくもブラは承引した。
平岡公威19歳「扮装狂」より
(中略)桜のトンネルを出たときにブラは僕の顔をみないで軽蔑したやうな口調で言つた。――「平岡!
貴様接吻したことある?」僕は後から来ていきなり目をふさがれたやうな気持であつた。僕はもうドキドキが
止まらなくなつてしまつた。上ずつた声で僕は返事をせずにはゐられなかつた。「いや、ないんだ、一度も」
「フン」とブラは感興がなささうに云つた。「面白くもなんともないぜ。やつてみりやあね」――二人は赤い
煉瓦造のボイラア室のそばをとほつた。蝶々がうるさく足にからんだ。
「もう、俺、いゝところへいつちやふんだ」
「ぢやもう逢へないかもしれないね」
「逢いたかないや」
僕にはこんな露骨な愛情の表現ははじめてだつた。なんといふ粗暴な美しい話術。僕は一瞬、僕も亦サーカスの人々の
絵の中にゐると感じた。僕は返事ができなかつた。僕は耳傾けた。その言葉がもう一度くりかへされるやうにと。……
だがブラはだまつたまゝ歩きつゞけ、いつのまにか僕らは裏門から、灯のつき初めた町の一劃へ出てゐた。
平岡公威19歳「扮装狂」より
○ もし僕に子供が出来て、彼が天才の名にあこがれたら僕はどう云つて叱り、またいさめよう。彼にこんな暗い、
寂寞たる青春は与へたくない。
○ 天才がたゞその作物によつてのみ天才といはれるなら僕は明らかに天才でないだらう。天才がたゞ彼の
夭折によつてのみ天才といはれるなら、僕は尚天才ではないだろう。
しかし天才はたしかにある。それは僕である。それは凡人のあづかりしれぬ苦悩に昼となく夜となく悩みつゞける魂だ。
それは生れ乍ら悲劇の子だ。それは神の私生児だ。
○ 天才とは青春の虐殺者である。
平岡公威21歳頃「わが愛する人々への果し状」より
○ 森を切り拓いて一本の道をつけることは、道そのものの意義の外に与へるのみでなく、その風景、大きくは自然、
全体の意義をかへる。風景(万象)は、道の右、道の左、道の上方、道の下方といふ観念を以て新たに認識され、
再編成される。預言並びにunzeitgemaβな仕事の意味は茲(ここ)にある。預言とは、「あるがままの変革」である。
○ 人が呼んで以て無頼の放浪者といふ唯美派の詩人たちは、俗世間の真面目な人間よりも、更に更に生真面目な
存在である。いかなる荒唐に対しても真面目であるといふ融通のきかぬ道学者的な眼差を、道徳をでなく美を
守るためにもつ人々である彼等は、また真の古代人たりうる資格を恵まれた人等である。
○ 微妙なのは恋愛でなくて男女関係なのだ。
平岡公威20歳「詩論その他」より
○ 近代人にとつては、虚心坦懐に真情を吐露せよと命ぜられるほど苦痛なことはない。それは苛酷な殆ど
不可能な命令である。近代人は手許に多彩な百面相を用意してゐるが、そのなかのマスクの一つに、自分の
「真情」が入りこんでゐることは確かだが、おしなべてマスクと信ずることの方が却つて容易なので。即ち真情を
吐露することの困難は選択の困難にすぎない。
しかし一方確固たる「真の」マスクをかぶる者たることも近代人には不可能になりつゝある。私はむしろ古代の
壮大な二重人格を思慕する。
○ 同情について
――同情は特殊な情緒である。その情緒としての独立性に於て喜怒哀楽と対等であるとしての。
――同情は最も人間的な情緒である。
人間的なるものには人間冒涜的なるものが含まれる。神的なるものは神的なるもののみから、悪魔的なるものは
悪魔的なるもののみから形成さるゝのに。……かくて同情は、かゝるものとしての人間的なるものゝ典型である。
それは人類の最も本質的な病気であり、愛の頽廃である。
平岡公威20歳「詩論その他」より
――同情の涙は嬉し涙と同類に数へらるべきであり、義憤と同範疇に入れらるべきではない。義憤はある道徳観念
(「正義感」その他を含む)と情緒との結合であり、その強度はこの結合の確信の強度に正比例する。偶発的な
結合をも確信が之を必然化する。かくて義憤は結合の一因子たる道徳観念の上によりも、結合の確信の上に、
より多く立つが、しかしなほ、その因子の故に価値判断の対象たりうるが、同情の涙は嬉し涙と同じく単なる
情緒間の結合であつて、何ら価値判断の対象たりえない。しかるに世間は、久しくこの「同情の涙」をば結果
あるひは結果としての行為から判断して、価値判断の対象とする底(てい)の誤謬を犯して来た。
――同情ほど偏見によつて意味づけられて来た、又意味づけられるべき情緒はない。
平岡公威20歳「詩論その他」より
○ 痒さには幸福に似た感情がある。一面幸福とは痒さに似たものではあるまいか。
○ いかなる兇悪な詐欺師からよりも、師から我々は欺かれやすい。しかしそれは明らかに教育の一部である。
○ 精神の知恵では女は男にはるかに劣るが、肉体の知恵では女は男をはるかに凌ぐ。
○ 天才は精神の岸辺である。
○ フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」
○ 最も強烈なる主観の持主は、また最も強烈なる客観の持主である。
○ 少年時の数々の思ひ出は怖ろしいほど悲劇化されてゐる。
何故であらうか? 形成がどうして喜劇であつてはならぬのであらうか?
○ 危険であると同時にその危険を排除するものは一家言的心理である。
平岡公威20歳「詩論その他」より
――先づ詩人のメカニズムについて語らう。
詩人の中核にあるものは烈しい灼熱した純潔である。それは詩人たる出生に課せられた刑罰の如きものであり、
その一生を、常人には平和の休息が齎らされる老年期に於ても亦、奔情の痛みを以て貫ぬく。どこまでこの烈しい
純潔に耐へるかといふ試みが詩人の作品である。それは生涯に亘る試作の連続である。然しながら「耐へる」
(経験的ナルモノ)といふことと「試みる」(意志的ナルモノ)といふこととの苦渋にみちたこの結婚には、
本質的な悲劇が宿るであらう。こゝに特殊な形成の形態が語られてゐる。
かゝる純潔はラジウムの如きものである。恐るべき速度を以て崩壊し放射しつゝあるが、この自己破壊は鉛に
化するまで頗る長き時間を要する。詩人の営為もかくのごときものである。
詩人は自らの尾を喰つて自らの腹を肥やす蛇に似てゐる。単なる自己破壊ではない。それは形成を通して輪廻に
連なることができる。詩人の永遠性は自己自身の裡にはじまるのである。(自己自身から唐突な仕方で永遠に
つながること)
平岡公威20歳「詩論その他」より
アルチュウル・ランボオが言つてゐる。
「ひとつこの純潔の度合をじつくり値踏みしてやらう」と。併し神が彼に与へた運命的な時間は、「じつくりと」
値踏みする余裕をもたせなかつた。それは西欧に於ては後年、リルケ、ヴァレリィ等によつて果たされた処の
ものである。
――更に詩人のメカニズムについて語らう。
詩人は常人の裏返し的存在である。内部に皮膚、外部に血と肉、内部に於ては抱擁、外部に於ては孤絶、その
ヒリヒリする過剰な痛覚を以て外界にさらされ、感覚を超越し、一種の痛烈無残な不感帯を形成する。内部に対しては
温柔繊細な感受性の皮膚を以て、内在的万象を抱擁し摂取し吸受し、しかも無限に与へる。この内外の相剋が
矛盾的綜合作用をなして詩人の形成に参与する。詩人の形成そのものが矛盾である。矛盾を超えて矛盾する存在である。
平岡公威20歳「詩論その他」より
「胃」
印度古代一青年美女に恋せり。
美女傍らに熟睡せる時、仏、青年をして変形せしめ美女の口に入れしむ。内に森あり、花園あり、一宇の堂あり。
金色妙なる龕の中に金色に輝くもの安置せらる。
一尼僧出でて曰く、
こは胃也。
何万億年前の汝の胃に汝自身が惹かれ汝自身が恋する也。
いでその胃が女に宿りし来歴を語らん。
……大海をわたり……
つひに胎内に胃となつて結実せり。
即ち汝は汝自身に恋する也と。
「女死する後、
たをやかなる胃はその体内より語り出だせり、
われを忘れざれ、
何万年の後われは再び生れん、われを焼け」
○――――――――――○
「輪廻は性を転ぜしむるものでありませうか?」
「極めて容易に」と婆羅門はこたへた。「相恋する男女は共に自己が輪廻の上にかつてありし自己の証跡に
恋するものであります」
○――――――――――○
平岡公威20歳「詩論その他」より
「胃」
機縁
ある旅行者が野中の一軒家に入る。
するとその中にはその外部にある一切のものがあつた。
その内部のひろさは外部(全宇宙)のひろさと同様であつた。
しかし人かへつてこれを告げるや、婆羅門は微笑んで云つた。
おまへはその中に入つたと見た時、はじめて真に現存の世界にはひつたのである。おまへが見たといふ現世と
同じ世界は、この現世そのものであつたのである。しかしはじめて機縁が、この現世とその広さを汝自身に
示したのである。この世界は一であるが、機縁なきものゝ心にある世界と、機縁あるものゝ心にある世界とに
わける時二つになる。汝は汝自身の内へ汝の第二の世界に入り得たのであると。
この世界は一にしてしかも二重である。
平岡公威20歳「詩論その他」より
「土耳古(トルコ)人の学校」
私の家の横にある坂を登つて細い道を真直に行くと、剥げた水色の番瀝青(ペンキ)に飾られた貧しい垣と
低い門が有る。其の門柱には墨で描いたのか殆ど見えない様な字がある。上方のは、土耳古回々教学校とどうにか
読めるが、下の方の奇妙な外国語がちよいちよいと顔を出して大抵消えてゐる。木造の洋風家屋は殺風景な庭の
一隅にあつて、二階は寄宿舎で階下は教室らしい。
日曜など、八時頃に起きて散歩に来て見ると、土耳古人の子等がどやどやと入つて行く。日曜だから御説教でも
聞くのであらう。昼過ぎになると出て来る。
寄宿舎に居るものは、かなり小人数らしい。女の児の方が多いが、男の子も少なからず居る。併し、彼等は実に
哀れな身装(みなり)をして居るのである。バンドのない状袋の様な洋服や、男の子達は短い皴くちやなズボンを
はき、見悪(みにく)く汚ない上着を着けて居る。時々彼等の口から本国の民謡風のものが唱はれるが、他は
流暢な日本語である。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文
「土耳古(トルコ)人の学校」
或る雨の日、彼等ゴム長靴連の行方を見てゐたら、代々木八幡の方角であつた。何処でどんな暮しを行つて居るのか、
私は彼等の生活の上に好奇心を持つ。又彼等の容貌は云ひ知れぬ愁ひを含んでゐる。其の眼は、五月の空のやうに
蒼く美しいが、眉の奥深く黒い縁にかこまれて冷え切つた荒野の土のやうに沈んでゐる。その頭髪はブロンドも
あれば、稍(やや)鳶色のもあるが、酷く手入を怠つてゐると見え、雀の巣のやうである。疲れ切つてほのかな
紅色を失つた頬。凡て快活な少年少女らしさを失つて居るとはいふものゝ、彼等はよく遊ぶ。
固いボールを以て。
校庭の山羊を相手に。
秋雨の日など、よぼよぼの牝牡の山羊が、ぬれた雑草を食べてゐる。
此の老夫婦の所へ、もう直ぐ小山羊が来るさうである。
山羊は、親しみを湛へた目で私に寄つて来る。
平岡公威
中等科一年、12歳の作文