322 :
青鬼と狗:
年の瀬ともなると、山は深い雪に覆われる。
白一色となった世界を、ある姉妹が楽しげに歩いていた。
紅葉柄の着物姿の姉は、妹の手を引きながら優しげな笑みを浮かべており、
『鬼安』と書かれたスーパーの袋を提げた桜色の着物の妹は、今日の夕食の予想を口にしている。
平和な光景だ。
その姉妹が角を持った鬼でさえなければ、誰もがそう思っただろう。
見るともなしに主たちの帰宅する様子を見守っていた少年、日本狗は、その姉妹の後ろで小さな雪だるまを作っている子供の姿に気付く。
青い和服の裾はどす黒い血痕で汚れており、白い頬にも所々血が付着していた。
そして頭には、姉妹と同じように角が生えている。
黄と黒の縞模様の首巻きを外して血で汚れた雪だるまに巻きつけると、しゃがみ込んでいたその子供は、
家の中に入って行く姉妹に複雑な感情の籠った視線を投げかける。
縁側にいた日本狗は窓を開けて外に踏み出し、子供に歩み寄った。
「……君の家、今日は鳥鍋みたいだね。袋の中から肉の匂いがした」
先に言葉を発したのは、男とも女ともつかない子供のほうだった。声を聞いてもまだどちらか断定できない。
日本狗は問う。
「とりあえず人間じゃなさそうだが、何してるんだ、お前」
「何してる……か」
しばらく頭上の曇天を見つめていた子供は、やがて日本狗を見て言った。
「判らないな。今さっき目を覚ましたばかりだから」
でも、とその子供は続けた。姉妹の消えた玄関に澄んだ双眸を向けながら。
「鳥はいくら食べてもいいのに、人間を食べてはいけない理由ってのは一体何なのかな」
とても模範解答があるとは思えない質問だった。
返答を考えている内に、既に相手は発言を訂正している。
「今のは言葉が足りなかったな。正確に言うなら、あの女の人がどうしてそんな決め事の中で生きているのかが、気になってる」
あの女というのは――
「……鬼子のことか」
「へえ。鬼子って名前なんだ。あの女の人」
子供が一瞬、ひどく冷淡な笑みを浮かべたような気がした。
「あの人は矛盾してるよ。恐怖を抱いている対象を何故か庇護しようとしてる。人間に対して好感を持っている根拠は未だに掴めていない癖に、
自分が嫌悪されるという確信だけは揺らぎそうもない。いつまでもそんな不安定な感情を持て余しているから――」
歌うような滑らかさで語っていた子供は、こう結ぶ。
「こんな副産物が生まれてしまった」
そこまで聞いて、日本狗はようやく子供の正体を知った。
「お前は、鬼子の心の」
「鬼だよ」
日本狗の言葉を先に継いだ子供の姿が、ふっと消える。雪のように儚く、自己主張に乏しい消失だった。
最前から血の匂いを発し続けている小さな雪だるまの中身を、日本狗はそっと割ってみる。
中から出てきたのは、鶏によく似た無害な妖怪、チチメンチョウの死骸だった。
323 :
青鬼と狗:2010/12/15(水) 01:56:17 ID:niTA5sRA
「やあ。また会ったね」
数日後の早朝。散歩から帰ってきた日本狗を縁側で出迎えたのは、例の『鬼子の心の中の鬼』だった。
以前遭遇した時と違い、赤錆の付いた武骨な鉈を肩に担いでいる。
「今のところ、僕の姿が見えるのは君だけみたいだね。鬼子さんも妹さんも、僕のことに全然気付かない。意外と勘が鋭いんだね、君は」
「……これでも番犬なんでな」
ごく自然に縁側に掛けていた鬼は、足を組み直しながら訊いてくる。
「いいのかい? 番犬が侵入者を見逃して」
「主人が認識できないのに俺一人で騒いだって、話は進展しない」
「飼い主の意向なんて伺わないで、独力で追い出せばいい。こう見えて荒事は割と好きなんだ、僕」
それを聞いた日本狗は、不承不承ながらも認めた。
「俺がお前に挑んだところで、勝てるとは思えない」
「成程。相手と自分の戦力差を見極める能力にも長けているみたいだね」
「そうじゃなきゃ生き残れないだろ。人間以外の動物は」
「尤もな見解だね。君との会話は有意義だ。色々学ばされる」
そうしてまた、鬼は消えた。
――どうしたものか。
頼みの綱の鬼子があの鬼に気付くことは、未来永劫ないだろう。多分本人は、自らの心の澱など認識しないだろうから。
他人は知っているが自分だけは知らない、もしくは自分も他人も知らない。そんな盲目や未知の窓を、誰しも持っている。
唯一の救いは、まだ奴自身が鬼子の思考や理念に強く縛られていることか。
あの鬼と渡り合うには、余りに心もとない好材料と言わざるを得なかった。
324 :
青鬼と狗:2010/12/15(水) 02:01:27 ID:niTA5sRA
狗が鳥肌を立てるというのも妙な話だ。
「あ、わんこー!」
しかし庭先の小日本が、例の鬼と一緒に雪だるまを作っているのを見た時に、日本狗の身体に鳥肌が立ったのは確かだった。
前回の遭遇から更に数日後の出来事だ。
「見てよ、友達ができたの!」
駆け寄ってきた少女は、襟巻と青い着物を纏った、見慣れた鬼を紹介してきた。
「名前はないみたいなんだけど、とりあえず私は青鬼君って呼んでるの」
小日本の頬はやけに赤くなっていた。もしかしたら、あの鬼に好意を抱いているのかもしれない。顔が良いのは認めるが、男か女かも知れないのに。
「初めまして。僕のことは、青鬼と呼んで下さい」
実に優等生じみた態度で、雪だるまの前で屈んでいた心の鬼は会釈をした。
「ほら、わんこも挨拶!」
主である小日本に命令されては、拒否するわけにもいかない。
「日本狗だ。一応この家の番犬をやってる」
「日本狗……ですか」
はしゃぐ小日本の後ろで、鬼は唇だけを動かしてこう続けた。
やっと名前を聞けたよ、と。
「……おい、小日本。ちょっと家の中に戻ってろ」
「え? 何で?」
「昔からの知り合いかもしれない。ちょっと二人で話がしてみたいんだ」
「うーん、まあそう言うんなら、待っててあげるよ」
話が終わったら呼んでよ、と言い残して屋内に入って行く小日本を見送って、日本狗は鬼に近づいた。
「何のつもりだ」
「どうも僕の存在も日増しにはっきりしてきたみたいだね。あの女の子――小日本ちゃんの目には、僕が見えるようになったらしい」
そして鬼は、笑顔で言った。
「ちょっと嬉しくなってね。つい遊び相手を買って出てしまった」
「食い殺す気か。あいつを」
「それはまだ決めかねてるな。はっきり言ってあの子は好きだ。話してすぐにそう思った。もしかしたら、一目惚れかもね」
それは妹を溺愛している鬼子の思考の影響を強く受けてるからだろう、と言い切るのは憚られた。機嫌を損ねればこちらの首が飛ぶ。
「……で、わざわざ小日本ちゃんを退場させてまで僕と話したいことってのは何なのかな」
日本狗は深い嘆息を洩らした。
「お前がまだ、単なる鬼ではなく鬼子の一部だと信じた上で、言わせてもらう」
小首を傾げて、鬼は続きを待っていた。
白い息を散らしながら、日本狗は言う。
「俺の飼い主に手を出すな。次にあいつにちょっかい出したら、お前を消す」
それを聞いた鬼は――
ただ目を丸くしていた。
そして数秒後、小さく噴き出す。
「君……本気で言ってるのかい? 自分じゃ歯が立たないような相手に宣告する言葉とは思えないな。自殺願望でも持ってたの?」
「自分でもそう思う。でも――」
それでも、と日本狗は胸中で自らを奮い立たせた。
「あいつらを守るのが、俺の仕事なんだよ」
「随分と仕事熱心なんだね」
「……訂正する。仕事だから守ってるんじゃない。俺は今の生活と、あの姉妹が割と好きだから、お前と闘う」
作りかけの雪だるまを見つめていた鬼は、再び笑った。
「何でだろうな。喧嘩を売られているのに、とても清々しい気分だ。やっぱり君と喋っていると、新しい発見が尽きない」
例によって鬼は姿を消していたが、声だけが日本狗の耳に届いてきた。
「君に免じて、しばらく彼女の心の中に戻るとするよ。また会えることを祈ってる」
「こっちは二度と会いたくないんだけどな」
「ひどい言い草だな。いい友達になれると思ってたのに」
その言葉を最後に、鬼の気配が消えた。
安全を悟るのと同時に、日本狗の口からは知らず溜息が出ていた。
「……死ぬかと思った……」
そして日本狗は消えた鬼と、それを現出させた日本鬼子のことを思う。
彼らは不安定なのだ。どうしようもなく。
いや、彼らに限った話ではないのか。いずれ自分からも、心の鬼が現出するかもしれない。
生きている限り、誰もがそういった不安と隣合わせになるのだろう。
しんどい話だ。
しかしこの、一見平凡そうでいてその実ひどく不安定な日常を継続させたいというのが、彼の切なる願いだった。
完