公安庁舎の、とある会議室内。
「――というわけで、これが今回討伐する鬼だ」
オールバックの髪に顎鬚を蓄え、その上何故か単眼鏡まで掛けている強面の中年男が、席に掛けている者たちに声を発した。
彼、チチメンチョウの手元が動くと、その背後にあるプロジェクターに一人の女の写真が映し出された。
私立K大の学生証に貼ってある物だ。恐らく大学で入手してきたのだろう。
やや目尻の垂れた、おっとりした雰囲気の女だった。いかにも男受けのしそうな美人、とでも言えばいいのか。
その写真の横には、平凡な名前や住所等が記されていた。
「見ての通り女子大生だ。自身が通っているK大付近に現れたこの女は、刃物で歩道の学生を次々刺殺。
出血量の少なさと手際の良さも相まって、彼女が元凶だとその場で気付いた者は皆無だった。
次々人が倒れて、何が起きているのか判らなかった、というのが目撃者の証言だ」
結果、死傷者数は五十を超えたらしい。
頭から二本の角を生やした、日本鬼子の目の前にある机に乗っている事件概要書にも、そう書かれている。
「五十人とはまた、わらわら人間がいたもんだな」
机に頬杖を突き女の写真に退屈そうな視線を投げかけている、
いかにもひねくれた雰囲気を漂わせている茶髪の少年、日本狗が呟いた。
頭の上に犬の耳が生えた彼を含め、この会議室内に人間は一人もいない。
「事件の発生時間は午後四時半。マンモス大学の下校ラッシュ時間だった。歩道はお世辞にもマナーが良いとは言えない学生で
ほぼ埋め尽くされていて、近隣住人からは日常的に苦情が出ていたらしい」
「自業自得か」
「そこまでは言わんが」
それはそうと、とチチメンチョウは普段から険しい顔つきを一層厳しくする。
「日本狗君。シャツを開け過ぎだ。ネクタイもきちんと着けてきてくれ。仮にも公務の最中だぞ」
「うるせえな。こんな窮屈な代物着て山から下りてきてやってるだけでも有難いと思えよ」
「女の足取りは」
鬼子と同じ黒のロングコートを羽織っているポニーテールの男、ヤイカガシが割り込んだ。
「非常線は張れなかったが、幸い少し聞き込みをしただけであっさり掴めたよ。まあ理由は容疑者の格好に起因してるんだが――
とにかくその人物は大学から十五分ほど離れた集合マンション、浅沢ハウスに入って――」
「おい。浅沢ハウスっつうと、確か大栗旬とか松木潤とかが住んでるっていう高級住宅じゃねえか」
今度は銀髪に赤のメッシュを入れた軽薄そうな男、ヒワイドリが話の腰を折った。
「大学生に縁のある場所じゃねえだろ」
「既に大方の身辺は洗ってあるから、その辺りに関しても説明できる。父親は航空会社のパイロット、母親はCA。
まあ典型的な上流階級のお嬢様だ。実家は横浜の高級住宅街に――」
「家から通えよ……」
「そうやっかむな。親離れか子離れでもしたかったんじゃないか。まだ両親と連絡を取ってはいないが、
いずれにせよ資金面での障害はないに等しかったんだろう」
そんな人生なら楽しいだろうに、と鬼子は冷めた気分で思った。
雀の涙のような賃金でこんな組織にこき使われている自分たちとは、天と地ほどの差がある。
「話を戻すぞ。浅沢ハウスのI棟十三階にある自宅に戻って以来、その女は一歩も外に出ていないはずだ。
監視カメラの映像も遡って確認したから、まず間違いない。既に通常の捜査は打ち切られて、今は礼状を持ったモモサワガエルが
現場マンションでモニターをチェックしてる。窓から飛び降りでもしてなければ、まだいるはずだ」
これには鬼子も口を挟みたくなった。
「また不適当な人選ね。あのカエル、この寒さじゃまた昏睡かもしれないわよ」
「うちが慢性的な人手不足に喘いでいるのは君も知ってるだろう。
誰でもいいからとにかく仕事を回さんと立ち行かん。ちなみに――」
プロジェクターの画面が切り替わる。今度は静止画ではなかった。
「外部には一切公表してないが、246号の歩道沿いに設置された防犯カメラが、女の姿を捕捉していた。
万一容疑者が自宅を抜け出していた場合、君らも足を使って探すことになる。見ておいてくれ」
「これはまた……」
そんな感想が鬼子の口を突いていた。平凡な若者の群れの中に混じったその女が歩いた後には、屍だけが残されていく。見事な手並みだ。
カメラでは全く捉えられない速度で攻撃しているらしい。これでは周りの人間も急病人が出た程度にしか考えないだろう。
しかし何より目を引くのは、女の奇抜な服装だった。周りを歩く人間も、一度は彼女の姿に視線を向けていた。
手甲付きのレイピア。間抜けな猫のイラストが描かれた小型盾。頭には小さなシルクハット。
コルセット付きの動きやすそうなドレス。細い針のような刀子が何本も収まったポーチ。
まるでゲームか漫画のキャラクターだ。日本にコスプレ文化が根付いていなければ、すぐに警察沙汰になっていそうな風体だった。
「実はこの女が犯人だという物的証拠はない。検死結果と女の持っている突起物の形状、それに被害者たちの絶命した
タイミングから立てられた単なる推論だ。――しかしいずれにしても、まともな頭の持ち主には見えないだろう?」
皮肉っぽい笑みを浮かべた課長のチチメンチョウは、構成員たちに出動命令を下した。
鬼子たちが東京から遠く離れた山奥を出たのは午前だったが、ミーティングを終えて車で現場に向かう頃には、
時計は夜の八時を回ろうとしていた。
日はとっくに沈んでいるが、ネオンや街灯で、街は昼間のような明るさだった。こっちの夜は騒がしい上に眩しくて好きになれないと、
来る度に鬼子は思う。
「しかし皮肉なもんだ」
三列席の黒塗りのワゴン車が首都高下の246号に入った辺りで、運転席のヒワイドリが口を開いた。
「人間が自分らの為に作ったはずの都会が、今じゃ人間を鬼に変える装置になってるなんてな」
鬼子と同じく頭部から角の生えた、黒いワンピース姿の幼女――小日本が、怯えた様子で鬼子のコートの裾を握ってきた。
姉妹が座っているのは二列目の座席だ。
ちなみにこの幼女、先程の会議中ずっと眠っていた。
「お姉ちゃん、今ヒワイドリがまともっぽいこと喋ってた気がするよ……」
「怖がらなくても大丈夫よ。どうせ三秒後には、自分が何を言ったのかも忘れるような奴なんだから」
「おい、そこの姉妹。丸聞こえだぞ。大体お前らはいつも俺のことコケにしてるけどな――」
――それはともかく。
いつからだろう。都市部に鬼としか思えないような人間が出現し始めたのは。
景気やら経済やらの停滞が問題視されてからのような気もするが、その辺りの事情を鬼子が真剣に考えたことはない。
そんなのは心理学者や生物学者、社会学者らが解明すべき謎であり、生まれた時から鬼である自分にとっては
さして関係のない話題だと思っているからだ。
とにかく、人体の限界を超越しているとしか思えない能力を有した、化け物じみた犯罪者、あるいはその予備軍がひっそりと、
しかし確実に増えてきたのは厳然たる事実だった。
まさか国がそれらの取り締まりを、鬼である自分たちに任せるとは思わなかったが。
「あ、喋ってるうちに車線変更忘れちまったじゃねえか」
誰も聞いてないのにドライバーは熱弁を振るっていたらしい。左折車線に移り損ねたワゴン車は、直進を続ける。
K大学駅に通じる地下歩道の入り口あたりから、歩道は進入禁止のテープで封鎖されていた。
隙間なく並んだビルの一階部分は、大体ラーメン屋やコンビニなどの客商売がテナントとして入っているようだったが、
あれでは店を開けることもできないだろう。
車は一つ先の交差点を左折し、問題のK大学前に通じる道路に入る。
「想像してたよりも広いんだな、K大って。せっかくだし見ていかないか? 勤勉な美人女子大生が、まだ図書室あたりに残って――」
「ねえよ」
最後尾の座席で仏頂面をしていた日本狗が一蹴した。
「どいつもこいつも、あそこに見える体育館一階のコピー機の前で、必死になってノートの写し合いしてるよ。
いかにも馬鹿っぽい感じの声が聞こえる。少なくとも勤勉な学生はいそうにないな」
つまらなそうに彼が車窓から見ている体育館の屋根までは、少なく見積もっても直線で二百メートル以上ありそうだ。
聞きたくない物まで耳に入ってくるというのも不幸な話だ。
「でも多少頭の緩そうな女子大生も、それはそれで悪くないと――」
「早く仕事を片付けたいんだが」
日本狗の隣に座っているヤイカガシも、棘のある口調で言った。瞑目したまま、微動だにしない。
元々鬼祓いが存在理由である彼は、鬼である自分たちと行動を共にすることを快く思っていない。
「この根暗コンビが……観光もさせねえ気かよ」
左手に見えていた大学の敷地が終わると、今度はオリンピック記念公園が見えてくる。
「ここ、車入れていいのか? 突っ切った方が目的地まで早そうだけど」
カーナビを見ながら誰にともなくヒワイドリが尋ねたが、その問いに答えられる人間がいるはずもない。
「まあいいか。いざとなったら警察手帳見せれば」
権力を傘に着た男の一存で、鬼子たちを乗せた車はオリンピック記念公園内に進入した。
敷地面積は相当ありそうだった。広々とした車道の左右には、葉の代わりにイルミネーションを纏った木々が整然と並んでいる。
ドラマの撮影にでも使えそうなロケーションだ。
「綺麗……」
窓に張り付いた小日本が、うっとりした様子で言った。可愛い妹が喜んでいる姿を見て、鬼子は一瞬ドライバーの独断を褒めてやりたくなる。
「今日は使ってないけど、表参道あたりの道路の方が派手だぞ。今度泊まりでどうだ、鬼子」
「一人で行きなさいよ。こっちの空気は肌に合わない」
「少しは悩む素振り見せろよ、釣れねえな……」
ランニングコースに沿った車道をしばらく進むと、木々に遮られていた視界が開けた。中央広場に出たらしい。
一面がアスファルトに覆われており、薄いコンクリートの板を積み重ねたような電波塔と、巨大なスタジアムが左手に見えた。
公園を東西に分断している駒沢通りを横断したところで、日本狗が呟く。
「気配がある。まだあの建物に鬼がいるはずだ」
既に視界の前方には、ビル群に混じって建つ、十四階建ての瀟洒な高層マンションの姿が確認できた。
恐らくあれが、有名芸能人御用達の浅沢ハウスだろう。
「いつも通りだけど、ポジションを確認しておくわ。問題の鬼の部屋には私が乗りこむ。ヤイカガシは一階のエントランスで待機。
万一私が突破されたらあんたが――」
「言われなくとも仕留める」
「ならいいわ。小日本は日本狗の護衛。日本狗は標的の位置を逐一こっちに流して。あと、ヒワイドリは……」
一瞬悩んだ後、鬼子はきっぱりと言い切った。
「適当にやってなさい。以上」
「なあ。常々思ってたんだが、俺だけ命令がいい加減な気が……」
「ムラのある奴は信用しない主義なの」
ヒワイドリ以外の者がトランシーバーとイヤホンを付けた頃、車は正面玄関をくぐった。
さすがに整然としている。煉瓦造りの敷地内には、人工的に造られた小川まで流れていた。
田舎者にはいまいちピンとこないが、都会暮らしの人間はこういった物を有り難がるのだろう。
恐らく禁止されているのだろうが、運転手の一存で車はエントランス前に直接横付けされた。
「それじゃあ始めましょうか。各員の健闘を祈るわ」
トランクから薙刀を取り出した女と、柊の髪飾りで長髪を束ねた手ぶらの男が、それぞれ浅沢ハウスI棟の中へと入って行った。
ロングコートに身を包んだ一組の男女は、無言でエントランスに入る。
乳白色の大理石張りだった。温かみのある暖色系の照明は丁度良い明るさで、清掃も行き届いているように見える。
鬼子は自動ドアの横の壁面に取り付けられたインターフォンで、管理人室を呼び出した。
「……はい……」
数度のコール音の後、潰れた声が応じた。明らかに寝起きのトーンだ。あのカエル、やはり寝ていたらしいなと、鬼子は声に出さずに毒づく。
「モモサワ。私よ」
「ああ……入ってくれ……」
硝子張りの自動ドアが、音もなく開いた。天井から巨大なシャンデリアが吊るされているロビーへと、鬼子とヤイカガシは歩を進める。
「こっちだ」
そのロビーの片隅に、建物の雰囲気に全く相応しくない武骨な鉄製の扉があった。
そこから頭に髷を結った黒スーツの男が、のっそりと顔を覗かせている。
モモサワガエルだ。夏場は鬱陶しいくらいのやかましさなのに、冬場はまるで半死人だ。
鬼子は一人で、モニターと機器類のコントロールパネルで大半を占められた管理人室に入った。
「何か釈明することがあるんじゃないの、モモサワ」
「誘惑に負けた」
腫れた目を擦りながらモニター前の椅子に掛けたモモサワガエルは、悪びれた様子も見せずに続けた。
「狗の見立てはどうだったんだ。まだここに鬼がいるなら、俺が寝てたところで何の問題もないはずだが」
相変わらずふてぶてしい奴だ。
「残念ながら残ってるみたいね。とにかく、事が終わるまで施設内のセキュリティシステムは切っておいて」
「了解した。上下左右の部屋にいる住人は退去させてないから、あまり騒ぎを大きくするんじゃないぞ」
「そんなこと事前に聞いてるわよ。居眠りしてた分際で偉そうに」
管理人室を出てロビーに戻ると、シャンデリアの真下でヤイカガシが突っ立っていた。
「ここで待つ」
この男が必要以上のコミュニケーションを極端に嫌っていることは充分承知しているので、鬼子は無言でケージに乗り込んだ。
ほとんど震動もなく、エレベーターは十三階に到着する。一階部分と同じく大理石張りになっている廊下をすたすたと歩き、
問題の鬼が潜んでいると思われる部屋の前で立ち止まった。
そこで重大なことに気付いた彼女は、コートの襟に留めてあるトランシーバーの小型マイクで呼びかける。
「モモサワ……マスターキー忘れた。鍵を持ってるのはあんたでしょ?」
『確かに持っているが、多分こちらで直接開けられるぞ』
間もなく扉から、鍵の外れる音がした。
技術が進んでいるのは認めるが、その気になれば管理室の人間が自由に施錠を
解除できるというのは相当危ういのではないだろうかと、鬼子はいらぬ心配をする。
『間抜け』
イヤホン越しに聞こえたのは日本狗の声だ。鍵を忘れたことに対しての発言だろう。
「うるさい。標的は?」
『まだお前の目の前にある部屋の中だ。多分突き当たりのリビングにいる』
「了解。入るわよ」
肌身離さず持っていた薙刀に掛かっていた布を取り外した鬼子は扉を開け、靴も脱がずに玄関を素通りした。
照明は全て落ちていたが、夜目は利くので問題はない。フローリングの廊下がまっすぐ伸びており、左右に一つずつドアがあった。
一応覗いてみたが、両方とも中は寝室だった。マンションとしてのグレードなど知らないが、
とりあえずこの時点で、一人で住むには広すぎるということだけは判った。
そこを過ぎると、また左右に扉がある。右がトイレ、左が洗面所とバスルームだった。どちらも生活感に欠けるほど清潔だった。
そして突き当たりの扉を開けるとリビングが広がっている。すぐ右手には整然と食器類や調理器具の収納されているシステムキッチンがあった。
左手奥に、もう一部屋ありそうだったが、そちらは気にする必要もなさそうだった。
カーテンも引かれていない、南西を向いたバルコニーの向こうには、夜の大都市が広がっている。小日本やヒワイドリが見たら喜びそうな景色だ。
そしてその手前、壁際の薄型テレビに向かって置かれた革張りのソファには、若い女が腰かけている。
「……同類がこの部屋に近づいているのが判ったから、正装して待ってました」
細身の刺突剣に猫の盾を装備した、亜麻色の柔らかそうな髪をした女は顔だけをこちらに向け、失望の色濃く滲んだ呟きを洩らした。
「でもまさか、刃物を持った女の人が入ってくるなんて。てっきりその扉を開けてくれるのは、運命の王子様だと思ってたのに」
全くの無表情で鬼子は口を開いた。
「ご期待に添えなくて申し訳ないわ。でも下に降りれば、見栄えだけはいい連中があなたのことを待ってるわよ」
「そうですか」
すっと、女が立ち上がる。
「それを聞いて、少しやる気が出ました」
女の言葉が終わるのを待たずに、鬼子は二メートル近い薙刀で突きを繰り出していた。
しかし女は、左手の猫の盾で難なくその攻撃を弾いている。
「質問いいかしら」
即座に薙刀を手元に引きながら、鬼子は言った。
「どうぞ。答えられる範囲でなら回答しますよ」
同時に懐に飛び込んできた女のレイピアを紙一重で避わし、廊下まで飛び退きながら鬼子は尋ねる。
「最近、あなたみたいな犯罪者が増えてるのよ。人間が鬼になる理由をお聞かせ願いたいんだけど。あなたの個人的な見解でいいわ」
「……鬼……ですか」
リビングで立ち止まった女は、小型盾を嵌めた左手の人差し指をこめかみに当てて悩み始めた。
細い通路に誘い込もうという狙いが悟られたかどうかは、鬼子には判断しかねた。
「まず私は、自分が鬼になったという自覚がありません。でも少し前までは将来に漠然とした不安を感じたり、
肌に合わない大学生活に閉塞感を覚えたり、毎日大声を上げながら人の通学路を塞ぐ非常識な学友たちに、怒りを覚えたりはしてましたね」
あっけらかんとした様子で、女は続ける。
「でもそんなの、誰にでもあることですよね。自分が特別だなんて全く思ってません。
だから誰にでも、鬼になる資質はあるんじゃないかしら。……ところで、どうしてそんな質問を?」
「都市が人間を鬼に変えてるんじゃないか、なんて同僚が言ってたもんだから、ちょっとその辺の因果関係に興味が湧いたのよ」
話半分ではあるが、この女の言っていることが正しければ、人間は誰もが鬼になる可能性を持っているということになる。嫌な世になったものだ。
女が廊下に足を踏み出したのに合わせて、再度突きを放つ。最前と同じように盾で軌道をずらされたが、
今度は薙刀を手放し、鬼子は自ら間合いを詰めた。この狭い空間では薙刀がまともに使えない。互いの武器が用を為さなくなる密着状態での
戦闘に持ち込んだ方がまだマシだというのが彼女の判断だった。素手の取っ組み合いになら自信もある。
が、既に女はレイピアを手放していた。それを見た鬼子は思わず舌打ちを洩らす。
急所さえ外せればあの武器は大した脅威ではなかったのに、当てが外れた。
待ち構えていた女の右腕にコートの襟首を掴まれ、鬼子の身体はバルコニーへと通じる硝子戸に軽々と投げつけられた。
硝子の割れる耳障りな音と共に、首都の夜空の真っ只中に放り出される。遥か下に見える地上には、自分たちの乗ってきたワゴン車が止まっていた。
「気を付けて。手強いわよ」
トランシーバーで仲間たちに言葉を送ったのと同時に、落下が始まった。
ほぼ真上で硝子の割れる音がしたのは、彼――日本狗でなくとも気付いただろう。
現に前の座席で待機している小日本とヒワイドリも、腰を浮かしかけている。
「窓から放り出されたのは鬼子だ」
日本狗が二人に教えるのと同時に、イヤホンから至極冷静な鬼子の声が入ってきた。
『気を付けて。手強いわよ』
ドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び出したのはヒワイドリだ。
表に出るのと同時に彼の背中が膨れ上がったかと思うと、仕立ての良いスーツを突き破って純白の双翼が出現した。
深く膝を折った彼は跳躍に合わせて翼を羽ばたかせ、真上に飛翔していく。
落下してくる鬼子をヒワイドリが両手で受け止める音も、その後の二人のやりとりも、車中の日本狗の聴覚は難なく聞き取っていた。
「ちょっと、変なとこ触ったら殴るわよ」
「何だ、ぴんぴんしてんじゃねえか。てっきり怪我してると思って助けに来てやったのに」
そこでヒワイドリは溜息をつく。
「しかしこの服、もう着れないぞ。経費で落とせなかったらどうすんだよ」
「……その時は私が責任持って繕うわよ」
「嬉しいこと言ってくれんね。でも裁縫なんてできんのか?」
「今回が初挑戦になるわね」
「おい……」
そんな二人のやり取りの最中に、十三階から鬼が飛び降りてくる気配を日本狗は察知した。すかさずマイクのスイッチを入れながら伝達する。
「十三階から標的が降ってくるぞ。空中で夫婦漫才披露してる鳥と鬼、さっさとそこをどかないとぶつかるぞ」
そこで一度マイクを切ったのは失敗だった。日本狗の警告の続きは、鬼子の声にかき消される。
『聞き捨てならないわね。誰が夫婦よ。大体私は助けなんて――』
「しょうもないことで回線占領すんなよ……」
その時、真剣な表情を浮かべた小日本が、愛用している長大な日本刀を胸に抱いて車外に出ていった。
狭い空間での戦闘を大の苦手としているとはいえ、相手はあの鬼子を出し抜いているのだ。子供の小日本が勝てるとも思えない。
「おい、死ぬぞ」
「でもわんこを守るのが私の仕事だもん」
その幼女に、上空から落下してきた鬼の影が激突した。小日本の華奢な足を起点にして、コンクリートの地面の八方に亀裂が走る。
そして彼女が鞘に収まったまま頭上で構えていた日本刀に、一瞬だけ火花が散った。
「……ほええ……」
衝撃で目を回した少女は、そのままゆっくりと地面に崩れ落ちていく。
十三階から降ってきた鬼は、少女を見下ろして柔らかな微笑を浮かべた。
「健気な子。でもちょっと無鉄砲ですね」
倒れた小日本の頭に、その鬼は鋭く細い西洋剣の切っ先を向けた。
しかし嗤う彼女のすぐ後ろには、深緑色の光を湛えた刃を右手に携えたヤイカガシが佇んでいた。
日本狗ですら感知しきれない敏捷性と隠密性を兼ね備えているその男は、淡々とした口調で告げた。
「お前もな」
そして長髪を背中に流したコートの男は、欠片の躊躇もなく背後から鬼の眼球を貫く。
「くっ――」
ヤイカガシが剣を引き抜くのと同時に、顔を歪めた女が左手の盾を素早くヤイカガシに向けた。
その挙動の意味を最初、日本狗には理解できなかった。恐らくヤイカガシもだろう。
だから反応が遅れたのだと、少年は後になって気付いた。
次の瞬間、猫のイラストの口の部分から、鋭い爪を持った巨大な獣の腕が出現している。
野太いその腕の一撃で薙ぎ払われたヤイカガシは凄まじい速度で吹き飛ばされ、
エントランスの硝子を突き破って建物内に姿を消している。
「成程、彼がエースですか……さすがにこの子まで使うことになるとは思ってませんでしたよ……」
潰された左目に手をやりながら、女は盾の中に消えていく獣の腕を愛おしげに見つめた。
直後、女から十メートル近く離れた場所に鬼子が落下してきた。
一拍遅れて降ってきた薙刀が、彼女のすぐそばのコンクリートに突き立つ。
途中で鬼子を離したヒワイドリが、十三階の一室まで飛んで回収してきたのだろう。
引き抜いた薙刀を棒切れのように軽々と振り回しながら、日本鬼子は言う。
「さて……私好みの戦場に移ったところで、第二ラウンドと行きましょうか」
「数に任せた暴力なんて、ただの苛めじゃないですか……付き合いきれません」
不平そうに呟いた女は、跳ねるような軽やかさでオリンピック記念公園へと逃げ込んで行く。
「追うのか?」
車内から一部始終を見ていた日本狗は鬼子に問う。
「……やめましょう。こっちの被害が大きすぎる。命を賭けるほどの無茶をするのも馬鹿らしいわ」
「お前は軽くあしらわれたおかげで、怪我一つしてないけどな」
「本当に憎たらしい奴ね」
倒れた小日本を抱き起こしながら、鬼子は嘆息した。
「この子ったら、無理しちゃって……こんな可愛げのない小僧のどこがいいのかしら」
上空から緩やかに降下してきたヒワイドリが、強引に話に入ってくる。
「おい鬼子。最近お前、男嫌いに拍車がかかってないか?」
「周りにまともなのが一人もいないんだからしょうがないでしょ。そういえばモモサワの役立たずは何してるの」
これには日本狗が答えた。
「お前が例の部屋に入ったすぐ後にはもう寝てた。呼吸の深さからして、しばらく起きそうにない。
ちなみにマンション住民の何人かが、十三階とエントランスの硝子が割れた音を聞いて不審に思い始めてる」
「ったく、本当にろくな男がいないんだから……まあいいわ。事後処理は人使いの荒いボスに押し付ければいいんだし、さっさと帰りましょう」
「へいへい」
背中の破れたスーツを着たヒワイドリが運転席に乗り込む。倒れた小日本を車に乗せている鬼子の代わりに、日本狗が連絡を入れた。
「ヤイカガシ、無事か?」
『ああ。動く分には支障ない』
「なら管理人室で寝てるモモサワを回収してきてくれ。撤収らしい」
『了解した』
例の女が人間離れした速度でこのマンションを離れていくのが判る。実家のある横浜方面を目指している様子もない。
もう人間としての生活と縁を切り、鬼として生きていくつもりなのかもしれない。
さすがに頭に風穴を開けられていたのだから、自然に消滅する可能性もあるが……
いずれまた、相対することになるかもしれない。ヤイカガシの髪飾りで眼を潰されたことを考えると――
「次に会う時は眼帯でも着けてるのかな、あのコスプレ女」
その予想が見事的中することを、彼が知る由もない。
完