「鬼だ!」
その雄叫びは二体の鬼に対して指された蔑称ではなかった。西へ続く大通りから農夫が足を引きずり、何度も鬼の名を叫ぶ。
近付くにつれ、その姿に思わず悲鳴が上がる。農夫の衣には大量の血潮と泥で穢され、その左足首はもはや脹脛から下げている飾りのようであったのだ。
「みんな食われちまったんだ!」
途端鬼子を目とする野分きは崩れ、民は散り散りになる。
「己が親身か」
殿は馬を止め、気魄により瞳に血を充たし、若き鬼に啖呵を切り責めた。
「いえ、父も母も人身の者です。決して鬼などではございません」
首を大きく横に振るも、如何わしい視線を耐えることはしない。然しながら、何故にかの少女は親が鬼ならぬ者であると断言出来たのであろうか。記憶はとうに失せているのに。
人々は我先にと走り惑い、弱き者は捨てられ、父も母も同胞も全て見捨て、誰彼も出し抜く者もまた躓けば踏み潰される定めとなる。
「どうして、皆さんは逃げるのですか?」
「鬼の身が何を言うか。鬼の現れたる地は、並べての茅は煙と為り、人は骨すら残らず失せるのだ。我が豪勢もここで尽き果てるのだろう」
殿までもが無常に打ちひしがれるのであれば、余程の事態でなければ無かろう。
小日本の泣き声は未だ止まず。鬼子は、あの子だけでも守らねば、否、あの子はそれを望まず、皆の平安をこそ祈っているのだと思った。
例え、守るべき皆がその身に害を齎す者であっても。いや、小日本には分かっているのかもしれない。何れかが先に心を開かねば、新たな出会いは始まらぬことを。
日本鬼子は、この身に決意を為した。
「御殿様、私が怨をお祓い致しましょう」
「何を言うか、鬼の身よ。手合いを得て我々を――」
然しそれ以上の事は言えなかった。燃えたぎる異形の暁紅なる眼差しに囚われ、やおら頷いた。
「行くが良い」
脂汗を垂れ流す殿は、辛うじてその言葉を述べるまでであった。
騎馬より舞い降りし少女は部下の薙刀を取り、日の沈む標となるその道を見つめる。清らなりて冒し難き姿を曝け出し、由由しき灯火と成り、雷光の如く飛び立った。
その後の鬼子の記憶は存しない。詰まる所、何処に新たなる鬼が居るのか、如何にして鬼と交わるのか、甚だ覚えに無いのである。
その代わりと言うべきか、己が無意識の雷鳴に蘇るか、遠き海津見の潮染みた木板小屋を眺めていた。
神怒り鳴る黒き空の下、濁流の波を内被り、尚歩む二人分の足跡も、やがて消え失せる。屋根壁の剥がれた家に入り、その場で母子は力尽きた。
父は先に旅立ち幾日が経つ。足止めの差も縮み、残されし術も僅かである。その為か、母は撫でし子を慈しみ抱く。その温もりを、震えを、微かに感じ取った。
ごめんね、ごめんね。と掠れた声で囁くも、波雨風の轟きに掻き消される。どうして泣いてるの。幼き子は尋ねるも、母は抱く力を強めるのみである。
一時経ち、浜に似合わぬ蹄の音が混ざり聞こゆ。
荒波に 易く消えらる 海女の小屋 物はあらねど 咲かなむ撫子
古板の 波に呑まるる さまなれど 母海なりて まもりたるのみ
あなたの返歌はまた会えるその日までと言い、使えぬ竈の中に子を隠し、嵐が止むまで、きっと出るなと念押しし、母は篠突く雨の外へと出た。
鬼の子は何処や。低き男の声がするも、母は動じず答える。ええ教えられませんわ。
さならば詮索するのみ。男は命じて下部を小屋に入らせるも、母は淡々と言う。貴方がたは鬼を狩って祟りが起きないとでも思っていらっしゃるのですか。
子は、その言葉に心に罅が入った。母は常に愛娘を異形では無いと庇護し続けて来た。その存在が瞬く間に変貌するは、砂に染み込む雨の如く、子の心を毒す。
私が全ての責任を追います。この身を貴方様へ捧げましょう。それは何時の日にか耳にした言葉であった。
今、鬼の子は全てを悟った。母の歌の心も、幼き鬼子の胸を潰す僻事の故も、母の強い慈しみの情も、また自身が小日本に対して同じ過ちを為さんとしていることも。
輪廻は生死の流転であると思っていた。然し禍は常に現世を流れ回っているのだ。そして流れを止めるべきは、今でしか無いのではなかろうか。
あわよくば幸ある流れへと。例えるならば春夏秋冬循環の如く。
歩むべき道は一つ。例え嵐の道であろうと、高潮の道であろうと、力強く前へ行く決心を固めた。
呼ぶ名が聞こえ、そのまま鬼子は両の眼を開く。
「ねねさま!」
一声は、桜の衣を纏う小さな珠の子であった。
そこは腰折れの翁の屋敷の幾倍は在ろうと思われる大邸宅であった。自称して豪勢と抜かすも強ち間違いでは無かろう。
「我々が赴いたときには既に鬼の姿は無く、そなたが倒れておった。邪気も失せれば、まず悪しき鬼は祓われたと考えて良かろう」
「ねねさま、とても哀しそうな顔してたんだよ……」
恐らく消えし記憶を辿っていたからであろう。然しながら今はその俯く小君の様子の方が一層哀しみに満ちている。
「ごめんね、こにちゃん」
ううん、と首を振り、大丈夫と満面の笑みを浮かべるを見て、鬼子も微笑むことが出来た。幼子と出会う以前よりかはずっと自然な微笑みであった。
「ところで二方よ、今後は如何に致すか」
胡坐を掻く殿は身を乗り出す。
「恐れながら御殿様、私は貴方に身を捧げた身です。貴方の御心に随わねばなりません」
「これこれ何を申すか」
と殿は笑い、続ける。
「異形とは言え我が国を救った恩人に、どうしてその身を籠の内に閉ざす義理が在ろうか。……とは言え、屋敷に住むので在らば、身果てるまで何せずとも暮らす保障をしよう」
殿なりのお詫びなのであろう。然しながら、最早鬼子に必要の無い物なのであった。
「旅に出ようかと思います。この世の鬼に怯える人を、人に怯える鬼を、その恐れから、その不安から芽生える卑しき心を散らしていきます。心に棲まう鬼を祓う旅です」
そして、何処にか住まう別れし母を見つけるために。
「……こにちゃんも、一緒に行く?」
そして、この小さな可愛い娘と共に。
「うん!」
その二人の光景に、殿は感慨深い面持ちで二人を見遣り、そして紙を引き寄せるとその場で歌を書き付けた。
萌える葉は いづれか散りて 地に伏せど 土に還りて 便りぞ待たむ
萌える芽に 咲ける桜も 所狭く 人の心を いざ開かなん
「旅出の安全と成功を祈ろう。さあ、持って行きなさい」
と、殿は二人にそれぞれの歌を渡すのであった。
――こうして二人は世の平安を為すため、途方なる旅を続けたのだが、それはまた別の話なのであろう。もはや私の口から語るものでは無いからである。