花開く いのち息吹けど 鶯の なく声聞かで など失す父や
ふわふらる 夢の中見る 桜着を はじめてくれた やさしい笑顔
腰屈みの翁が儚くなり、幾日が経ったのであろうか。悲しみが流るには短すぎ、桜が散るには長すぎる時の間をこの屋敷の中で隔て生きていた。
小日本が独り中庭で鞠をつく。鞠が地につく度、娘の髪に結わえられた鈴の音が耳に入る。鬼子はその様子を眺め、いつしか山菫の香の籠る空を仰いでいた。
今日も桜の姫は美しき鬼を鞠つきに誘っていたのだが、彼女は断った。
しばし不満を浮かべた気色を見せるも、やがて諦め、独りで鞠遊びを始める。しばらく遊んだのちに、疲れて寝てしまうことであろう。
「父上にあのような約束をしましたのに、一体何をしているのでしょうか」
幼き鬼を守らんとする由を誓ったはずであったのだが、結局少女は何一つとして尽くすことはしてやれず、逆に鞠をつく娘に気を遣わせているだけなのであった。
せめて食事だけでもと台所に向かい、漸く事態に気付いたのである。亡き身が残した食が底をつきはじめているのだ。
二つの異形者を思う翁が、せめて少しでも憂き目に遭わせぬよう世を去る間際に漬けられた大根や筍、花梨の他、稗と山芋も数度かの食卓分を残すのみである。
恐れを抱くも、その解消する術は無い。何故なら、かの角の生えた少女は小日本の君を守る宿命が与えているからである。
鬼子は遊び疲れた娘が昼寝を始める間合いを見計らい、心に雪を降らせ、荒びはじめた門を開いた。
鬼の子はとある希望を抱いていた。時の力は偉大であると、ひた思い描いていた。人々が鬼の存在を忘れているものであろうと信じたのである。
それは恐らく、長く幸せな日々が続いていた表れなのであろう。
豆は醤油と為るが如く、記憶は日々を以って思い出と為る。温もりの日々は良き麹となり、苦痛なる雑味を抜き取るが如く。
鬼はその真実を受け入れざるを得ず、そして浅はかなる己が心と酔いしれる己が行いを恨み、憎み、悔むのである。
鬼が来たぞ。鬼の子だ。
世の末を髣髴させる絶叫の嵐の中心に、賤しめの少女は位置していた。この世に生を授かるのちより、鬼子と日常は馬防柵によって遮られていたのだ。
鬼だ、逃げろ、喰い殺される。
その喧噪の中、か細き少女の声がどうして誰か耳に届こうか。どなたか、食べ物を分けては下さいませんか。その静かな声を、誰が鬼の声でないと理解出来ようか。
逃げ遅れの童に声を掛けると、気が動転したのだろう、鬼に向かって小石を振り投げた。それは弧を描いたのち、気味悪き角に当たる。
刹那一体は凍りついた。童の行為は身を生贄に捧ぐと同等の行為であるからだ。しかし、庇護ある鬼はただ温かく問うだけなのだ。童部君、食べ物を分けてくれないかしら?
こつり、それは何処からの投げ石であった。怒りを抱かぬ鬼と民々は認識し、やがて日頃の恨みを晴らすが如く、四方から八方から石や家具の篠突く雨が降り注ぐ。
然し少女は耐えた。仮に力を振るわば、再び糧を乞いることが出来ぬからか。否。力を振るわば、小日本の君に世の冷え切った風を直に浴びることになるからだ。
少女は耐えた。何時にや冷めぬ、言葉と塊の雨を被りて。
何事だ、騒々しい。
大通りから、蹄の音と共に響く声に、雨は俄に止んだ。
だが疵付いた鬼の子には、その声が光であるという淡き期待は元より存することは無いのであった。
薙刀を手にする下部を具し、馬に乗ずる者を見るなり、民衆は跪き、顔を地に付けた。鬼の子だけが呆然と騎馬を見つめるばかりである。
御殿様、その異形が鬼であるが故、何れかを喰らう前に懲らしめようと思った次第でございます。平伏した男が申し上げると、殿なる男はあやかしを睨み見つめた。
ほう、成程確かに鬼であるな。長髪の根より出ずるそれを凝視する。御殿様、鬼は私めらの家々を回り、糧を奪おうとしております。
違います、私はただ。とここで鬼の言葉は殿の言葉に掻き消される。ほう、その着物、よもや日本公の姫君の形見では在りますまいか。
背の筋が硬直し、小日本の顔が思われる。然し殿は形見と言い、詰まる所翁の早くにして世より消え入る実の娘の着物についてを物語っているのであろう。
己が喰らうか、我が恩師なる日本の大殿を。いえ、違います、私はあの方にとても御親切にされました、どうして恩を仇で返さなくてはならないのですか。
懸命なる弁解は却って人々を怪しませることになり、馬上の男は命じて屋敷を調べさせた。鬼の子は捉え抑えられ、引き剥がさんと為せば為す程束縛は強くなっていった。
邸宅の中には小日本の君が居るのだ。どうか隠れていて欲しいと願うも、寝惚け眼の娘を引き掴んだ男が門より出でる様を見て、全ての力が抜き取られてゆくのであった。
これも鬼の子だ。下賤なる男が桜の娘の腕を引き、釣り上げた魚の如く見せしめる。
やめて下さい、こにちゃんは、こにちゃんだけは、どうか放してやって下さい。
何を言うか、もはや動けぬ卑しき鬼の子め、己に何の権利がある、厄害は皆切り捨てるべきであろうものに。
こにちゃんだけでいいのです、どうか放してやって下さい、身を尽くしても、あの子だけはどうか。鬼の子は何としてでも小日本に手を出さぬよう乞いに乞いた。
身を尽くすか。殿の声が心なしか間延びしている。さすれば、我が召使いとして奉ずるか、千歳に渡りこの吾が身に仕えるか。
鬼の子は思い案ずる。小日本の他、然し己が身に何が在ろうか。だが決意は既に固まっていた。さしてこの子が救われるのであらば。
ねねさま、どうしてこにはこんな所で寝てるの。小日本の君が漸く事態に気付いた。
鬼子は娘の眠る間にこの場を去れればと思っていたものの、永遠の別れと桜の君の柔らかな髪を撫でた。小さな鈴が哀しい音を奏でる。
こにちゃん、ごめんね、私あの方の所に行かなければいけないの。やさしい口調で諭すと小日本は、ならこにも行く、と満開の笑みを咲かせた。
こにちゃんは来ちゃ駄目だよ。やさしく、慈しむようにその絹の髪を撫でる手が震え、その白い手に透明の珠が零れ落ちる。
ねねさま、どうして泣いてるの。その疑問に、男が嘲笑を交え言い放つ。この鬼は愛するそなたを救う為に御殿様に身を捧げるのだ。
ねねさまは、こにに身を捧げるって言ってくれたよ。その問いに、だから御殿様に身を捧げたのだ、と返す。
早くせよ。殿が部下に命じ、鬼子と小日本を引き離そうとするも、さようなら、と鬼子は自ら小日本から離れた。
やだ、ねねさまと一緒にいたいの。その声を、鬼子は敢えて聞こえないことにした。馬に乗せられた鬼子を追い掛ける小日本が殿の部下に取り押さえられるのを冷酷に見つめていた。
なお暴れる幼き子に舌打ちをし、下部は小君を突き飛ばした。然し少女は立ち上がり、妨げにも負けず鬼子との距離を縮めようとする。
「だめぇ! みんな仲良くするの!」
小日本のその無力で悲痛な訴えに、二つの鬼は共に嗚咽を漏らした。
一つはただ純情なる心を持たせ続けてやりたかっただけであった。
一つはただ自らの幸せを与えてやりたかっただけなのであった。
それだけであった。ただそれだけを求め欲しているだけであるのに、どうして別つ理由などあろうものか。
ただ、謂れが在るが故、無力であるが故。
ただ、それだけである。