280 :
『鎌鼬』:
空一面の灰色が、身も心も薄ら寒くさせる。
朝からずっと曇り空で、正午に近いというのに一向に気温は上がってこない。
葉の落ちた木々の間から、その名の通りの木枯らしが吹きつけてくる。
彩華は、峠道を歩いていた。
羽織った蓑の下には綿入りの半纏を着込んではいるが、それでも隙間から冷気が忍びこんでくる。
腹は減っていたが、こんな荒涼とした山道で弁当を使う気にはなれなかった。
獣道のような細い道を、急ぐ。
人影はおろか、狐や狸の類いも、全く見かけない。
無理もない。連中はもう冬支度をして、巣穴なり棲家なりに引っ込んでしまっているのだろう。
その時、さっと強い風が吹き抜けた。
「!」
身を切るような、という表現がぴったりくる冷たい風である。
頬にピリピリした刺激があった。
しばらく歩いていたが、頬の刺激感が消えない。
はじめは、あまりに寒いからだと思っていたが、なにやら頬をくすぐるような、妙な感触がある。
怪訝に思って頬を拭うと、ぬるっとした。
「!?」
拭った手を見ると、真っ赤に汚れている。
「!!?」
頬を斬られたらしい、ということは分かったが、ひとの気配は無かった筈である。
彩華は慌てて腰の脇差に手を掛けた。
281 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 00:36:57.94 ID:BCr9fDDN
「――これは、失礼した」
どこからか、男の声が響く。
彩華はあたりを見回した。
木の影から、一人の男が姿を現した。
忍びの者のような出で立ちである。
滅紫(けしむらさき)の装束、腕からは鎖帷子(くさりかたびら)が見えている。
鐵(くろがね)で作られた手甲のようなものを手から外し、男は言った。
「傷つけるつもりはなかったのだ。しかし、顔に怪我をさせたとあっては、償いをせねばなるまい」
鷹揚な物言いではあったが、男は誠意を尽くしているように感じられた。
彩華は、乾き始めていた頬を再び拭って、
「峠を早く降りられる道を知っているなら、教えて欲しい。もう、こんな寒いところを歩くのはごめんだ」
と言った。
「それなら、拙者に従いてくるといい。この近くに知り合いの家がある。暖も取れるだろう」
男はそう言って、さっさと歩き出した。
彩華は一瞬迷ったが、従いていくことに決めた。
+ +
茂みをかき分けるようにして、男の後ろ姿を追う。
程無く、民家の庭のようなところに出た。
「あら、珍しい。どうなさったのです?」
若い女が出てきて、男に微笑みながら話しかける。
「や、実は……あの童に、怪我をさせてしまったのです。拙者の不手際で……。かたじけないのですが、
手当をするものをお持ちならば、と」
女はひょいと彩華を見ると、優しげに笑い、
「あら、可愛らしい女の子。ダメじゃないですか、女の子をキズモノにしちゃ」
「いや、拙者は……」
女は男を肘で小突く真似をし、彩華の側でしゃがんで頬の傷を覗きこんだ。
「大したことはないみたいだけど、黴菌が入ったら大変だから。こっちへいらっしゃいな。
暖かくして、しばしお休みなさい」
女に言われるままに、彩華は家に上がった。
なぜだか分からないが、警戒する必要はないと感じた。
282 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 00:41:15.57 ID:BCr9fDDN
女は彩華を暖めた部屋に通し、濡らした手拭で頬を軽く拭いた後、薬を塗ってくれた。
そればかりか、茶と菓子などを振舞ってもくれたのである。
「どうもありがとう。でもどうしてここまで」
ひと心地ついた後、彩華は尋ねた。
女はおっとりと笑って、
「どうって理由は無いのだけれど。強いて言うなら、あの人に頼まれたから、かしら」
彩華は、さきの忍ふうの男を思い出した。
「あの人は、何者なの」
女は笑って、首を振った。
「さあ……うふふ」
「??」
ますます分からない。
その時、かの男が障子の向こうから声を掛けた。
「すまぬ。ちょっと失礼する」
+ +
男は部屋に入ってくると、彩華とも女とも等間隔に離れた位置に腰を下ろした。
「怪我を負わせた件は、まことにすまなかった」
そう言って頭を下げる。
「あ、いや、そんな……」
彩華は困惑した。
たかが、一寸にも満たない切り傷だ。斬り合いをしていれば、もっとひどい傷だって負う。
そう言おうとする前に、男が言葉を継いだ。
「我々の間では、一般人に傷を負わすことはご法度なのだ。気をつけていたつもりだったのだが、
拙者の不手際であった」
イッパンジン、というのが何なのか分からなかったが、おそらく関係のない人間、つまり彩華のことを
指しているのだろうと思われた。
283 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 00:46:46.65 ID:BCr9fDDN
「ときに」
男が、調子を変えて彩華の脇差に目を遣りながら言った。
「抜刀術を心得ているのだな」
「バットウ……居合のこと?」
男は頷き、彩華の右隣に置かれた脇差を指さす。
「さっき、貴殿はそれを抜こうとして手を止めた。いや、意図せず止まってしまったように見うけられた。
その脇差、何か具合の悪い所でもあるのではないかと心配になったのだ」
彩華は、少し考えた。
手が止まった、というのは本当だ。
峠道で男の声が聞こえたとき、すかさず抜き打ちをするつもりで手を掛けた。
しかし、なにか引っかかった。
気を逸したと思った矢先に男が姿を現したので、その場は抜かずとも済んだのだったが。
彩華は脇差を持ち上げ、その場で引き抜いてみた。
やはり、ザラリとした感触があり、滑らかに抜けない。
刀身には、幾つもの錆が浮いていた。
「……これは、気の毒なくらい立派な“赤鰯”だ」
男は苦笑いするような、憐れむような声で言った。
「赤鰯って、なんですの?」
女が尋ねる。
「錆が浮いてしまった刀を揶揄する言葉なのですよ……ちょっと失礼する」
男は彩華から脇差を受け取り、錆をつぶさに睨んでいる。
彩華はばつが悪かった。
こんなに錆が浮いていようとは、思わなかった。
この峠に入る前、町をあとにした時は、そのような気配は無かったからだ。もっとも、それから今に至るまで、
脇差を抜く機会は無かったので、手入れを怠っていたのも事実だった。
「貴殿、何処かで『人ではないもの』を斬ったかな」
その言葉を聞いて、女がはっとする。肩をこわばらせ、微かに緊張している。
それを横目に見つつ、男を見る。
男は、真っ直ぐに彩華を見つめ、答えを待っている。
殺気も何もなく、ただじっと、佇むように。
彩華は歩いてきた町での出来事を思い出した。
そうした立ち会いは、確かにあったのだ。
あれは『人ではないもの』と呼ぶに足る存在だった。
そのことを話し、尋ねる。
「そのせいなのかな」
男は合点がいったように頷くと、
「怨というのはこういったかたちで出てくることもあるのだ……手入れをしておこう」
と言って鞘に収め、畳の上に置いた。
284 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 00:53:17.89 ID:BCr9fDDN
「逆手抜刀は、よくされることかな」
「逆手……」
彩華は、曖昧に頷いた。
日本刀のような、ある程度長さのある刃物に力を十分にかけるには、順手(親指側が鍔に当たる)で握るほうが有利だ。
人体の構造上、それを得るには、右手で抜刀するのが通常である。
しかしそれでは、抜刀時に腕を身体の前にもってくることになる。刀は通常、左側の腰に差すものだからだ。
彩華は、さきの峠での立ち会いの際、左頬を斬られたこともあって、敵は左側から来るものと思い込んでいた。
咄嗟に、左手一本で脇差を抜こうとしたのだ。
男は懐から小太刀を出し、彩華に渡した。
「左逆手抜刀は、ときに右手よりも早く抜ける。抜き打ちの威力は劣るが、急場を凌ぐには十分だ」
彩華は、左逆手で小太刀の柄を持ち、ゆっくり抜いてみた。
「しかし、貴殿の脇差。あの差し方では、折角の抜刀術も意味を成さぬ」
「?」
彩華は首を傾げた。
男は、傍らにいる女に尋ねた。
「あいすみませんが、隣の間を使わせていただくことは……?」
「ええ、大丈夫です。どうぞご自由に」
「かたじけない」
男は頷くと、立ち上がって隣の間への襖を開けた。
彩華も、男に促されるままに立ち上がり、続く。
小太刀を腰帯に差し、抜いてみる。
どうも上手くいかない。鞘には手を添えず、左手一本で抜く。
彩華は、この方法を訓練していたわけではなかった。
あの時はたまたま右手で抜く暇が無いと思い、咄嗟にやったことだった。
男は、彩華に柄の握り方や力の入れ方、腕の振り方などを細かく指南する。
「至近距離なら、このまま柄で打突を入れても良いし、少し距離が取れたら順手に持ち替えて一太刀浴びせることも可能だ」
彩華は借りた小太刀で、何度か練習した。
彩華の脇差は一尺五寸程度である。抜く時に上手く腰を切らないと、腕が伸びきってしまう。
片腕、しかも利き手でない方の逆手で振るにはぎりぎりの長さと言えた。
それでも、咄嗟の時にとりうる技を多く知っておくことは、身を助けることになる。
彩華は苦心しながら、左手抜刀を身体に覚え込ませていった。
285 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 00:59:50.29 ID:BCr9fDDN
「どうして、こんなことを教えてくれるの?」
“稽古”が一段落し、さきの部屋へ戻る。
女が運んできた梅昆布茶を一口飲むと啜りながら、彩華は尋ねた。
身体を動かした後なので、しょっぱさが心地よく染み渡る。
男はちょっと困った顔をし、答えた。
「貴殿の抜刀術が、まだまだ発展途上にあると思ったからだ」
と言った。
ハッテントジョウ、とはつまり未熟というような意味だろうと思った。
「……『落し差し』は、やくざ者のやることだ」
茶に口をつけながら、小さく言った。
「落し差し?」
「貴殿は、脇差を縦にして腰に差していただろう。あれでは素早く抜くことは出来ぬ。
意味を成さぬ、とはそういうことだ」
彩華は、はっとした。
たしかに、そのように差していた。
脇差を斜めよりも立てるように差すと、身体から出っ張る部分が少なく、狭いところを歩くにも邪魔になりにくい。
そのせいで、いつしか鞘を身体に沿わせるよう縦に近い角度で差すようになってしまっていたのだ。
「刀を素早く抜くためには、侍どもがしているように貫抜差しにすることだ。
重心の位置など、あれはよく考えられた差し方だ」
彩華は頷いた。
「あの、どうしてやくざさんは落し差しなのですか?」
女がお茶を注ぎながら尋ねる。
「拙者にはよく分かりませんが……それが『粋』なのやもしれません。要するに格好つけです」
「まあ」
「もっとも、平和な街なかでは落し差しのほうが悶着が少ないのかも知れません」
ぼそりと言い、梅昆布茶を啜った。
「いろいろ複雑なのですね」
女はふんわりと笑った。
その笑顔は、雨間に雲の切れ目から差す陽の光を思わせた。
286 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 01:04:46.03 ID:BCr9fDDN
泊まっていきなさいな、という女の言葉にすっかり甘えてしまい、彩華はその屋敷で一晩を過ごした。
明くる朝、井戸の水で顔を洗っていると、昨日の男が彩華の脇差を持ってやってきた。
「出来る限り元の状態に近づけたつもりだ」
そう言って、男は脇差を差し出した。
「あ、ありがとう……」
彩華は受け取り、ゆっくりと抜いてみる。
鞘を滑るように抜けた刀身は、冷たい水で濡らしたように、静謐に輝いていた。
彩華はしばしその輝きに見とれていた。
男は徐に紙切れのようなもの懐から取り出し、宙に放り投げると、自分の腰の両脇に差した小太刀を逆手で素早く抜いてみせた。
さっと風が舞ったかと思うと、目の前に、幾本にも細く斬られた紙が落ちた。
「わ……」
息を呑む。
――まるで、鎌鼬だ……
彩華は、その段違いの素早さを目の当たりにし、呆気にとられていた。
+ +
屋敷を出ると、冷たい風が身体を引き締めた。
彩華の後に続いて男、それに女が見送りに出てきた。
「どうもありがとう」
「礼には及ばない、此方の不手際なのだ」
「ん……でも、剣のこと、教えてもらったし」
彩華は手入れしてもらった脇差を左手で触れて確かめ、微笑んだ。
男が、呟くように言った。
「どんなに優れた技を持っていようが、きちんと遣えなければ意味が無い」
彩華は男を見る。
目が合った。
「正しい知識と確かな技術が、命を守る。そして――」
言いかけて止め、男は目を逸らした。
「? そして?」
「なんでもない、忘れてくれ。柄にも無いことを言うところだった」
男は照れているのか、顔を逸らし、なにかゴニョゴニョ言っていた。
287 :
『鎌鼬』:2012/08/16(木) 01:11:27.91 ID:BCr9fDDN
「この先の藪を突っ切って行くと、麓に早く出られるだろう」
目の前に見える獣道のようなものを指さし、男は言った。
「ちょっと距離があるが、それでも一番の近道だ。……同行できれば良いのだが、事情があるゆえここで見送らせてもらう」
そう言う男の口調は、ちょっと歯切れが悪かった。
その後ろでなぜか、女はクスっと笑っている。
空は晴れてはいたが、やや風が強かった。
「道中で雪が降るだろう」
「雪? こんなに晴れているのに?」
彩華は怪訝な顔をする。
「『風花(かざはな)』と言うものですよ」
女が言う。
「うむ。しかし心配は無用だ、すぐに止むうえ、さほど気温も下がらない」
男の、妙に確信に満ちた物言いに、彩華はなんだか可笑しくなって、
「わかった。あんた、まるで山の神だね。天気のことなら、なんでも知っていそう」
そう言うと、男はぎょっとしたような顔をし、それから視線を逸らして
「……まぁ、あながち間違ってはいないな」
と嘯(うそぶ)いた。
その姿が可笑しく、彩華は、女とともにまた笑った。
左手に脇差の鞘を握り、右手で藪をかき分けながら、藪の中を歩く。
程なくして、男の言った通り、ちらちらと白いものが舞い始めた。
それが鼻の頭などに落ちると、ひんやりと冷たい。
間違いなく雪だが、頭上には青空が六割がた見えている。
男の言ったのはこれか、と思った。
風花。
簡単に言えば、「天気雪」である。主に春先に見られる現象だ。
空の高い部分で出来た雪が風に煽られ、気温が低いために溶けずに、晴天の地域まで飛んでくる。
彩華は、その風流な名前が、この珍しい現象にぴったりだと思った。
「早く春、来い!」
彩華はひとりごとを口にしつつ、藪の道を急いだ。
了