【評価】創作物の批評依頼所【批判】

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28人質 ◆ozpzH.thPA
人質(1/3)


 ――セリヌスのダモンは朋輩ピンティアスをモイロスと呼んだ。

 彼等は万物の根源を数とし天球の楽を奏で、厳しい戒律のもとに学んでいた。
 師ピュタゴラスはアクラガスとシュラクサイの戦闘に巻き込まれ殺された。
 ゆえに弟子達は権謀から身を遠ざけ、公正を守り、越し方行く末を思い、執着を捨て、なんどきも心を平らかに過ごすことを自らに課した。
 しかしピンティアスは過ちを犯した。
 僭主ディオニュシウスを批判したのである。
 否、批判の意図はなかったが、そのように受け取られかねない言を発した。
 不用意であった。
 つい、ディオニュシウスの詩を酷評して採掘場へ監禁されているフィロセヌスについて云々したのである。
 聞いていた者のうちにピュタゴラス学徒を疎んじる者がいたので、彼は捕縛され、いくらも経たないうちに叛逆罪で極刑と定まった。
 ピンティアスは驚愕したが、沙汰を受け入れねばなるまいと考えた。
 だが法によればなんぴとも財産を処分し遺族の便宜を図る時間を与えられるはずである。
 彼はしばしの猶予を請うた。
 僭主は「おまえ自身と同じだけ価値あるものが形代にでもならねば、いかに遵法でも放免はなるまい」と嘯いた。
 持ちものである金銀や奴隷を預け置くのでは駄目だというのである。
「私自身より価値ある者を担保に据えましょう」とピンティアスは言った。
 かくて、死刑囚ピンティアスの猶予のために盟友ダモンが召し出された。

 ダモンは話を聞くと顔色も変えずにうなずいた。
 ピンティウスが所用を済ませて戻るまでの間、身代わりに留め置かれようと言う。
 ディオニュシウスは度肝をぬかれた。
 彼はダモンは怖じけて断るだろう、そうしたら二人ながら笑いものにしてやろうと考えていたのである。
「ピンティアスが戻らねばおまえを刑に処す。それでもか」
「よろしゅうございます」
 ダモンは旅の守りにと自分の首から五芒星のメダルをはずしてピンティアスに掛けてやった。
 ピンティアスはダモンを一度抱擁するなり早速と故郷へ旅立った。
 役人達はダモンを愚かな鹿と嘲ったが、若者は平然として独房へ連れられて行った。
29人質 ◆ozpzH.thPA :2011/06/05(日) 23:05:20.17 ID:NT3mSuYO
人質(2/3)


 数日後、ディオニュシウスが獄舎へやって来ると、ダモンは格子の外に盤を置いて獄卒と雙六を指していた。
「おまえは死が恐ろしくないのか」
 ディオニュシウスが呆れると、彼は格子の向こうで溜息を吐いた。
「父母が亡くなったので、私はセリヌスから祖父を頼って海路でこのシュラクサイへ参りました。子供の頃のことです。死への船出とやらも、あんなものでございましょう」
「船が苦手か」
 ダモンは肩を竦めた。
「ピンティアスは戻らんぞ」
「戻りますとも」
「誰でも自分の命は惜しいものだ」
「ええ。それでも彼は戻ります」
「なぜそう言い切れる」
「なぜでも」
 ディオニュシウスは気味が悪くなった。
 この男は頭に病でもあるに違いない。
「細鑿を差し入れてください。私は石工なんです。この駒はひどすぎる」
 翻した衣服の裾に、ダモンの声が無邪気に追い縋った。

 さて、約定の日、刻限を越えてもピンティアスが戻らないので、ダモンは容赦なく刑場へ引き出された。
 見物のざわめきに紛れ、すっかりダモンの馴染みになった獄卒がピンティアスの裏切りを罵る。
 しかし当の本人は依然ピンティアスを信じていた。
「船が遅れでもしたのだろう」
 とうとう若い石工の手が穿たれようというまさにその時、杭を持つ刑吏の腕を掴んだ者がある。
 ピンティアスであった。
「ダモン・セリヌンティウス、おまえのモイロスが今、戻ったぞ」
 ピンティアスはさっさとダモンの縄を解くと、磔架から退かせてしまった。
 そして自ら縛につき死を待った。
 ダモンがピンティアスのキタラを爪弾き、不思議な旋律に場内は涙した。
 甘く、哀しく、奇妙に明るい、もの恐ろしい音色であった。
 僭主は驚愕さめやらぬまま二人に無罪を言い渡した。
30人質 ◆ozpzH.thPA :2011/06/05(日) 23:06:08.37 ID:NT3mSuYO
人質(3/3)


 ディオニュシウスはピンティアスとダモンに自分を友情の三人目に加えてほしいと懇願したが、いくら頼んでも二人はけして是とは言わなかった。
 孤独な僭主は戒律を理解せず、ただ自らの命を惜しまぬ二人の信義を羨むのみであった。
「ディオニュシウスよ、我が学派の結束を戦に利用できると考えてはなりません」
 ピンティアスはディオニュシウスを振り切り、ダモンを連れて師の故郷サモスへ渡ってしまった。
 ピュタゴラス学徒は無駄に話し合うことをよしとしないのである。
 あとにはダモンの手になる雙六の駒だけが残された。
 彼等は互いをモイロス(運命の人)と呼んでいた、とディオニュシウスは採掘場へ出かけてフィロセヌスに聞かせた。
 フィロセヌスは石灰石の粉にまみれたまま「早く牢屋へ戻してくれ」とぼやいた。
 ディオニュシウスは笑い出し、フィロセヌスを解放してやった。

 失脚後コリントスで文字を教えていたディオニュシウスから、音楽学者アリストクセノスがじかに聞いた話である。


<了>