SS・小説創作の初心者のためのスレ 4筆目

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686創る名無しに見る名無し
 十二月のことだった。その時俺は両手を突っ込んだジーンズのポケットの中で小銭を握りしめ、微かに賑わい
を見せ始めている街を一人で歩いていた。クリスマスや年末年始を控えた街はまだ十二月も始まったばかりだと
いうのに早くもお祭りムードだった。街のどこを見渡してもあたりは色鮮やかなイルミネーションで装飾され、
服屋のショーウィンドウには誰もが知っている赤い男が気さくな笑みを浮かべて立っていた。その男を見て目を
輝かせながら冬の到来を予感する子供の横で、ミニスカートをはいた二十代の女がティッシュを両手に声を張り
上げていた。その前をいい年をした壮年の会社員が難なく通り過ぎていった。彼にはティッシュ配りの女なんて
見えていないようだった。やれやれ、と俺は思った。クリスマスのことで頭がいっぱいの子供たちとは対照的
に、大人たちの目は不景気と未来への不安で陰っていた。
 俺は同じように女の目の前を通り過ぎ、早足でその先の路地を曲がって本屋に入り、一直線で文芸コーナーま
で行き、数ある月刊誌が並ぶ棚の前で立ち止まった。そして握りしめた拳の力を強めた。大人たちとは違い、俺
の心臓は大きく高鳴っていた。それは幼少期に感じることのない艶めかしい緊張を生み、俺の背中を脂を多く含
んだ不健康な汗で滲ませた。俺は目を閉じ、大きく息を吸い、吐いた。新書の匂いが鼻孔をくすぐった。それは
俺に苦い過去の記憶を思い起こさせた。
 ――三年。小説を書き始めてからもうすぐ三年の時が立とうとしていた。俺は当時もニートだった。高校を中
退し、バイトも止め、部屋に引きこもっていた俺は、現実からも目を背け、ネトゲの世界に身を投じていた。後
悔はしていないが、あまり有効な時間の使い方ではなかったと思う。事実、小説家を目指そうと決心してからは
過去の過ちがネックとなって身動きが取りずらくなってしまった。単純な時間の浪費と長年の怠けからくる慣れ
は俺を今でも苦しめている。勉強したこともなければ本を読んだことすらない俺が苦戦するのは必然であり、自
業自得というやつだった。
 しかし、あれから三年経とうとしている今年、俺はようやく賞に応募できるレベルまでこれた。そして今日は
その小説賞の選考通過発表だ。しかもただの選考発表ではない。恥ずかしながら、初投稿、そして処女作ながら
俺はこの賞の選考を勝ち抜いてしまった。今でもそれは信じられないほどだが、今朝何度も頬をつねったので間
違いはない、はずだ。選考発表なんてこのご時世ネットで確認できるのにわざわざ書店で確認しにいくのだから
現実に違いない。俺はそう自分に言い聞かせながら応募した出版社の月刊誌を手に取った。とにかく、これを通
過すれば出版がほぼ確実に決まるのだ。それで俺の三年間の努力は報われ、念願だった職を手にすることができ
る。まとまった金が手に入り、女には困らなくなり、確実に今よりは充実した人生を送ることができる。俺は受
賞したことを想像してこぼれそうになった涙を堪えながらレジに向かった。ポケットに握りしめていた硬貨は俺
の体温で生温かくなり多少汗で蒸れていたが俺は気にせず店員の手のひらに渡した。女子大生のバイトの店員は
目を丸くしたがまったく気にならなかった。
 文芸誌を購入すると俺は家に帰るため改札をくぐり、東京ワナビ線のホームに向かった。一刻も早く家に帰っ
て開封したかったが、外で結果を知ることはやめておいた。もし落ちた場合自分がどうなるのか分からなかった
からだ。悪質な冬の強風のため電車の運行状況に乱れが生じ、10分ほど遅れていた。俺はベンチに腰かけ、電車
が来るのを待つことにした。その間俺は大事に文芸誌の入った紙袋を握りしめ、赤子を扱うように眺めていた。
そして吐きそうになりそうなほどの既視感を覚えながら、改めて自分が新人賞の選考に残っていることを実感す
るのだった。
 ホームではやり場のない不満や怒りの声が飛び交っていた。しかしやがてその雑音の中にクリスマスの到来に
高揚する子供のような歓喜が混ざり始めた。しんしん、と降り出した初雪だった。俺は白い息を吐きだしながら
徐々に温かくなっていく心の変化を感じていた。いつしか心の中にあったわだかりのようなものはどこかに消え
去ってしまっていた。そしてあとに今までの徒労から得た自信だけが残った。次第に大きさを増した雪がひらひ
らと落ちてきて、紙袋の上でさっと溶けてなくなった。文章どころか、自分の中の世界を無作為に書き出すこと
すらできなかったのが遠い記憶のように思えた。
 俺は冬の寒空の下で文芸誌を開封した。