投下します。長文になります。
NGワードは「陽の射さない森」でお願いします。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません。
ジャンルは戦争ものとも言えますが、戦闘シーンがほとんどありませんのでこちらに投下させていただきます。
また、回天特攻隊に「綿津見隊」は存在しません。
戦争という重い題材を扱うため、敢えて架空の名義にさせていただいたことをお断りいたします。
<プロローグ>
母上様
本日、清志は回天特別攻撃隊の綿津見隊に配属されるという名誉を受けました。
皇国ために戦える栄誉は、この清志にとって本懐以外の何物でもありません。
ただ、皇国のため、皇国のためと言いながら、清志は本当は母上様と芙美子のために戦っているのかもしれません。
皇国には母上様と芙美子がいます。
二人を守るためならば、命など惜しくはありません。
時折故郷を出た日のことを夢に見ます。
体に気をつけて、という母上様の言葉、胸に刻みつけてあります。
芙美子は泣くのを我慢していましたね。兄の乗った汽車を見送った後、泣いてしまったでしょうか。
父上様が皇国のために逝った後、芙美子にとってこの兄は父上様の代わりだったのかもしれません。
清志はこれより海に出ます。
汽車を待っていた駅で、皆が日章旗を振ってくれましたね。
まるで波のようにさざめいて、我が故郷鳴門ようだと思ったのを覚えています。
この命に代えても賊軍を討ち果たし、本土を守り抜いて見せます。
思い残すことがあるとすれば、ただ一つ、母上様と芙美子の健康だけです。
母上様、どうかお体に気をつけて。
清志は母上様の子に生まれて、まことに幸せでした。
さようなら。
清志
<1>
遠藤清志は一九九二(大正十三)年五月、徳島県で生まれた。
父・茂、母・美津子。五歳年下の妹に芙美子がいる。
茂は小さな干物屋を営み、美津子は茂を支えながら清志と芙美子を育てた。
決して裕福とは言えなかったが、清志は鳴門の海の厳しさと家族の暖かさに囲まれて育った。
戦争の影は日本にも伸びてくる。
もともと茂は体が丈夫なほうではなかったが、赤紙は遠藤家にも届けられた。
優しい父だった。いつもにこにこと笑っていた。怒られたという記憶はない。
あれをしろ、これをしろ、と言わない。急かすこともない。
ただ、清志がゆっくりと成長していく様を見守っているかのような父だった。
父は手先が器用で、よくおもちゃを作ってくれた。
近所の子供たちが集まると、清志の凧が一番高く上がった。
清志の竹トンボが一番綺麗に舞った。みんなが清志を羨ましがった。
すると茂は、忙しい仕事の合間を縫って友達のためにも凧や竹トンボを作ってくれるのだった。
男の子のおもちゃばかりではない。芙美子のお手玉まで父の手製だった。
ついたあだ名は「おもちゃのおっちゃん」。
干物屋に子供連中が集まるのは日常の光景だった。まるで駄菓子屋だった。
子供たちが集まると、父が肩越しに声をかける。
「おおい」、そんな感じであったろう。だが、阿吽の呼吸と言うものだろうか。
心得たように、奥からラムネやおやつをお盆に載せた母が出てくる。
子供たちは奪い合うようにおやつを手にして茂を囲み、ラムネを飲みながらおもちゃができるのを待った。
いつもやや猫背で、風格というものとは無縁の痩せぎすな父であったが、清志にとっては自慢の父だった。
茂が戦争に征くことになって、清志は初めて戦争を現実のものとして意識したかもしれない。
海にもよく行ったが、子供たちが何よりも好きだったのは軍隊ごっこだった。
近所の子供の中でも体も声も大きく、力の強い正一が隊長といつも決まっていた。
そして他は二隊に分かれて、「模擬訓練」を行うのだ。
当然、父に似てひょろりとしている清志はあまり戦力にならない。いつも二等兵と決まっていた。
戦争は常にそこにあるものだった。だが、やはり父が征くとなると話が違ってくる。
父の出征の少し前、明男の一番上の兄ちゃんが出征先で亡くなった。
何歳上だったのかは忘れた。だが、相当年が離れていたように思う。
帰ってきたのはわずかな遺品と紙切れ一枚だった。
男兄弟ばかりの末っ子として育った明男は負けん気が強かった。
軍隊ごっこでも、いつも上等兵を務めている。
それどころか、指揮官であるはずの正一に歯向かうことも珍しくなかった。
明男は正一に殴られても最後まで掴みかかっていった。清志にはとても真似できない芸当だ。
兄ちゃんが亡くなったと聞いて何日も経っていない頃、清志は偶然明男を見かけた。
明男は真一文字に口を結んだまま、神社の中に入っていった。
ただならぬ表情が気になって、清志はそっとついていった。
──見てはいけない光景を見てしまったと思った。
あの明男が、泣いている。神社の裏で、木に縋りついて声を張りあげて泣いている。
明男の泣き声は聞いている清志の心まで押し潰してしまいそうだった。
結局清志は声を掛けられず、明男の慟哭ごと記憶の奥底にしまいこんだ。
清志は父の茂が兵隊になるなど、想像もできなかった。
鬼畜米英を前にして、この父が戦えるのだろうか? 銃を撃てるのだろうか?
不安が顔に出ていたのかもしれない。
茂はいつもと変わらない穏やかな笑顔で、まるで諭すように言った。
「お偉いさんが決めたことだからねえ」
清志はしばらくの間「オエライ」という名前の人がいるのかと勘違いしていた。
そして、「オエライ」さんは父のどこを見て兵隊にとろうとしたのかと考えた。
その程度の年齢の子供だった。
何年待っても父は帰らなかった。
代わりに帰ってきたのは、明男の兄ちゃんと同じようにわずかな持ち物と紙切れ一枚だった。
持ち物の中にくすんだ緑色をした小さなお手玉が混じっていた。
恐らく破れた軍服をかき集めて作ったのだと気づいたのは、つい最近のことだ。
自分が軍服に袖を通して、初めてあの色は軍服の色だったのだと知った。
それと、竹トンボ。竹が手に入らなかったのだろう、別の木で作ったらしい。
いつもと手にした感触が違っていた。
竹でできていない竹トンボは、綺麗に綺麗に舞った。
まるで故郷に戻れて喜んでいるかのように。
<2>
清志のもとに赤紙が届いたのは、昭和十八年の秋だった。
「なんでうちに赤紙が来るの? 」
引っ込み思案で清志の背中に隠れていることの多かった芙美子も、十五になっていた。
「…お偉いさんが決めたことだからね」
幾度も逡巡を繰り返してから、清志はあのとき父が言った言葉を口にしてみた。
だから、仕方がない。国民の気持ちがどうであれ、お国のために、天皇陛下のために。
そんな言葉が、まるで威圧するように隠れていると気づかされる。
「お兄ちゃんはのんびり屋だもん。兵隊さんになんて向いていないわよ!」
「芙美子」
宥めるように、美津子が名を呼ぶ。
芙美子は口を尖らせると、やりきれない表情で襖の向こうに消えた。
清志と美津子、ふたりきりになってしまった。
目が合うと、美津子が苦笑する。あとは何も言わず、再び繕い物を始めた。
茂が亡くなってから、美津子はずいぶんと細く小さくなった。
以前はふっくらとした桜色の頬をしていたように思ったが、今は色味を失ってこけている。
大黒柱である父を失い、美津子はさぞかし苦労したことだろう。
だが、まるで己の使命でもあるかのように、美津子は干物屋を守り続けている。
父が戦地に赴いてからも遠藤家は何一つ変わっていない。
ただ、いくら変わらなくても、父は戻らない。
美津子は心のどこかで茂が帰ってくると信じていたいのかもしれなかった。
「…母さん」
美津子が顔を上げた。
清志は言葉に迷う。無意識に呼んでしまったのだ。
「芙美子のこと、頼むよ」
何とか言葉を捜して、ようやく口から出たのはそんな言葉だった。
美津子が目を細める。目尻に深く皺が刻まれる。
「何?」
「やっぱり親子なんだねえ」
ふふっ、と美津子が笑う。
美津子の実家は地元の名士というわけでもない。
遠藤家と同じような、どこにでもあるような家だ。
だが、母の仕草には近所のおばちゃんにはない柔らかな上品さがある。
「お父さんも同じことを言っていたよ」
「芙美子を頼む、って?」
「清志と芙美子を頼む、って」
美津子は微笑した。
美津子の中には、八年前に出征したままの父がいるのかもしれなかった。
「おまえもそんなことを言う年になったんだねえ」
美津子の淹れてくれた茶をすする。
これだけ小さくなってしまった母を、そしてたったひとりの妹を、置いていく。
兵隊の代わりはいる、けれど、母と妹を守るのは自分しかいない――
そんな考えが頭をよぎって、清志は慌てて打ち消した。
そして、まるでお題目のように繰り返す。
お国のために、天皇陛下のために、と。
出征が差し迫った日、清志は芙美子に連れられて海に来ていた。
戦争が始まるまでは漁で賑わっていた海も、最近は閑散としてほとんど人はいない。
「…静かだね」
しばらく海を見ていた芙美子が、ぽつりと口を開いた。
「みんないなくなっちゃったから。正一ちゃんも、明男ちゃんも、勇ちゃんも、三郎ちゃんも、武ちゃんも、お父さんも、
みんな…」
「芙美子…」
清志の幼なじみは、ほぼ兵隊に取られてしまっていた。
中には帰ってきた者もいる。もちろん、紙切れ一枚の姿で。
「お兄ちゃんまでいなくなっちゃうの? 私、嫌よ」
芙美子の大きな黒目がちの目には、すでに涙が溜まっている。
清志は胸中で溜め息をついた。
世の中には感情ではどうにもできないことがあるのだと理解するには、芙美子はまだ子供なのかもしれない。
「芙美子、それ以上言うな。非国民になるぞ」
清志は敢えて強い口調で諭した。芙美子は頭を振る。
「非国民でもいいわよ。ねえ、お兄ちゃんとお母さんと私と、三人で非国民になろう?
そうしたら、戦争に行かなくていいでしょ? 国民じゃないんだもの」
清志は胸中で溜め息をつく。
できることなら、芙美子の言うとおり、非国民になってでも戦争には行きたくないという気持ちもどこかにあった。
だが、あの優しかった父でさえ、果敢に戦ったのだ。
逃げることは許されないともわかっていた。
「お国のために働くのが、国民の名誉なんだ」
清志が答えると、芙美子はわっと泣き出した。
「お国が何をしてくれたの? ただみんなを連れていっただけでしょう? 私、嫌よ。みんないなくなっちゃうなんて、
嫌…!」
「…芙美子、母さんが悲しむ」
びくん、と一瞬芙美子の肩が震えた。
茂が亡くなって以降の美津子の苦労が、芙美子に伝わっていないはずもなかった。
芙美子はそれ以上口を開かなかった。ただ、泣いていた。
失った仲間たちのため、失った父のため、これから出征する兄のため、そして残される母のため。
芙美子はずっと泣いていた。
芙美子の気持ちは、清志にも共感できる部分があった。だが、逆らうなど考えられなかった。
芙美子も言葉とは裏腹に、知っているはずだ。
皇民はひとしく天皇陛下に尽くすのが当然なのだ。例外など有り得ない。
戦争に行って人を殺すのかと考えるだけで、眠れない夜もあった。
鬼畜米英と蔑んではいるものの、相手は鬼でも家畜でもない。
人だ。人同士で殺しあうのだ。自分にそれができるだろうか。
赤紙が来てから、清志は布団の中で何度も恐怖に身を竦ませた。同時に、改めて父を尊敬した。
「お兄ちゃん、これ、持っていってね」
手の甲で涙を拭いながら芙美子が差し出したのは、くたびれたお手玉だった。
父の茂の遺品として送られてきた品物のひとつだ。
受け取ると、中身はあまり入っていなかった。戦場で作ったのだから無理もない。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を芙美子は向けてくる。
「お父さんが最後にくれた、大事なお手玉なの。ずっとお守りにしてたの。
だからお兄ちゃんのお守りにもなるかと思って。…でも! 返してね。絶対、持って帰ってきてね!」
清志は頷いて見せ、少し安堵した表情に変わった芙美子の頭を撫でた。
一体、戦争はどれほどの血が流されてきたのだろう。
そして、どれほどの涙が流されてきたのだろう。
今日の海は、ひときわ荒れていた。
清志と芙美子の会話を飲みこもうとでもするかのように。
<3>
駅のホームには多くの人が見送りに来てくれていた。
片田舎の駅がこれほどの人手になることは、滅多にない。
ほとんどが女子供だ。子供の頃からまるで妖怪のように呼ばれていた浜のおばあも来ていた。
「征ってまいります」
清志は着慣れない軍服に身を包み、し慣れない敬礼をした。
皆襷をかけ、小旗を持っている。赤い丸が染め抜かれた日章旗だ。
「…お兄ちゃん…!」
耐え切れなくなったのか、芙美子が転がるように前に出た。
芙美子はすでに目が潤んでいた。懸命に涙をこぼすまいとしている。
「芙美子。父さんのお手玉、ここに入れておくからな」
清志は左胸のポケットをさすって見せた。
別れを悲しむ妹を見て、宥めない兄がいるはずもない。
特に、芙美子は清志にとって年の離れたたったひとりの妹だ。
元気づけてやりたかったが、皆の前だ。余計なことは言えない。
一体どうやって慰めて元気づけたらいいものか思案を巡らしていると、前列にいた美津子が歩み寄った。
美津子はそっと芙美子の両肩に手を添えた。芙美子ははっとして振り返り、軽く唇を噛んだ。
「体に気をつけてね」
いつもどおりの、優しい声だった。
明日からは聞けない声だった。
胸がいっぱいになって、清志は敬礼を返すのが精一杯だった。
清志が汽車に乗りこむと、皆が一斉に小旗を振った。
まるで鳴門の海のさざめきのようだと清志は思った。
故郷の海。次に見られる日は、いつ訪れるのだろうか。
美津子と芙美子の姿が見えた。ふたりも旗を振っている。
美津子は無表情に近く、芙美子は顔をしかめていた。
汽笛が鳴る。
「遠藤清志君、バンザーイ!!」
町長が声を張りあげた。
ゆっくりと、汽車が走り出した。
清志が出征してから約一年の時が過ぎた。
秋が過ぎ、冬も過ぎ、春も過ぎ、二度目の秋を迎えようと夏も過ぎつつある。
最初の頃はこまめに送られてきた手紙の量は、見る間に減っていった。
徳島の田舎で暮らす芙美子にさえ、日本の敗色を肌で感じられるようになっていた。
だが、相変わらずラジオでは皇国日本の威勢のいい情報しか伝わってこなかった。
もちろん、まだ少女である芙美子には、情報が上層部によって歪曲されていることなどわからない。
「芙美子、またここに来てたのか」
海を見ていた芙美子は、ふと振り返った。
幼なじみの秀二が網を肩に担いで立っていた。
秀二は芙美子と似たような状況にあった。
秀二の兄である正一は、芙美子の兄である清志の遊び仲間だった。
体格が良かったせいか何年も前に出征し、紙切れ一枚になって帰ってきた。
気のせいではない。近頃は戦争に取られる男の年齢が下がってきている。
兄に似ず細身の秀二だが、あと数年もしないうちに兵隊にとられてしまうかもしれなかった。
「…でももう帰るよ。お母さん、そろそろ目が覚めるだろうし」
秀二の顔が曇る。
「芙美子のお母さん、体弱くなったな」
「うん…」
芙美子は小さく頷いて見せると、視線を浜に落とした。
清志が出征してから、遠藤家に男手は皆無になった。
秀二のような芙美子の幼なじみが仕事を手伝ってくれることはあったが、とても足りない。
美津子は茂が出征してから、無理に無理を重ねていた。
そして、恐らく口には出さないが、遠藤家の大黒柱だった清志の出征だ。
美津子は相変わらず干物屋を守り続けているが、寝こむ日が増えた。
以前は兄の友達が大勢来て、いつも賑わっていた。
芙美子の友達も、しょっちゅう父に会いに来ていた。
茂はほつれてしまったお手玉も、破れてしまった人形の服の裾もあっと言う間に直してしまう。
それどころか、余った小さな木切れで櫛を作ったりしてくれた。
芙美子が幼い頃に出征してしまった優しい父の姿は、そのまま兄の清志に重なった。
清志は穏やかな兄だった。
芙美子が無理を言っても、笑顔で聞いてくれた。いつも手を差し伸べてくれた。
普段から兄の存在の大きさはわかっているつもりだったが、いなくなると余計に清志の存在の大きさが身に染みる。
今の遠藤家は、がらんどうだ。
横たわった母が布団を被って声を殺して泣く姿を、芙美子はある日垣間見てしまった。
酷い罪悪感に囚われた。自分は何と我が儘だったのだろうと、己を詰った。
夫を失い、子供を育て、その育てた子供のうちひとりが兵隊に取られる悲しみは、芙美子の悲しみよりもはるかに深い。
何より、芙美子は悲しみを表に出せる。だが、母はこうやって泣くしかできないのだ。
芙美子はさらに積極的に干物屋の仕事を手伝うようにした。
母を寝かせ、店を閉じて片づけをしたらこっそりと外に出るようにしていた。
母が人知れず悲しみを吐き出す時間を邪魔したくはなかった。
秀二は芙美子と似た者同士だった。
芙美子と同い年で、兄同士も同じ年齢だ。
そして同じように兄を戦争に取られ――秀二のほうは兄を亡くした。
正一の戦死が知らされたのは、清志が出征して間もなくだった。
芙美子は正一の死を清志に伝えられないでいた。
「早く帰れよ」
秀二はそう言って芙美子の細い肩をぽんと叩くと、背を向けて行ってしまった。
不思議と芙美子には秀二の背中が大きく見えた。
芙美子は秀二の背が見えなくなるまで見送って、大きな溜め息をついた。
清志は海軍に配属されたと聞いている。
この海に繋がるどこかの海で、戦っているのだろう。
あののんびり屋で優しかった兄が、鬼畜と戦うところなど想像できない。
ただ、生きて帰ってきてくれさえばそれで良かった。
茂は亡くなってしまったが、また三人で干物屋をやればいい。
今の芙美子はなかなか働けるようになった。干物の仕入れもお手の物だ。
早く帰ってきてほしい。
戦争など早く終わってしまえばいい。
芙美子は海に向かって叫んでやりたかった。
バイさるに引っ掛かってしまいました。
解除され次第続きを投下いたします。
<4>
息子の手紙を読み終えたとき、美津子の手は震えていた。
涙で滲んで、最後まで文章がすらすらと追えなかったほどだ。
清志は今まで、ただの一度も己の死を匂わせるような手紙を寄越したことはなかった。
干物屋は何とか頑張っているのか、無理ならば畳んでもいい、三人いれば何とかなる…
むしろ戦争が終わった後の、未来のことを綴っていた。
戦争が終わった頃には芙美子は嫁に行く頃かもしれない、それならばふたりで金の工面の相談でもしようか、
そんな冗談めかした手紙を書いてきたことさえあった。
清志は戦場にいても、茂に似て何よりも家族を思ってくれる息子だった。
それが、まるで突き落とされるかのような手紙。
「どうしたの、お母さん?」
思わず目頭を押さえてしまった。芙美子が怪訝そうに顔を覗きこんでくる。
美津子は何も言葉が返せなかった。嗚咽を堪えるので精一杯だった。
ただ、読み終えた手紙を渡す。
視界の隅で、芙美子が手紙を読み始めた。
美津子は我慢しきれなくなった。一度漏れた嗚咽は止まらなかった。
突っ伏して、泣いた。
「…嘘よ、こんな…」
茫然自失とした芙美子の言葉も、美津子には届かなかった。
大事な夫を亡くし、今度は息子まで失うのか。
皇国日本は息子に遺書を書かせるような国なのか。
今までずっと頑張ってきた。こんなに頑張ってきたというのに、その結果がふたりの死だと言うのか。
美津子は泣いた。まるで子供のように。
芙美子の前では泣きはしまいと思っていた。
戦時下では戦争に行くことは美徳以外の何物でもない。
皇国の民には当然と考えられているその思想に疑問を持っていると、芙美子に悟られたくなかったからだ。
芙美子を悩ませるだけだろうと、ずっとずっと内に溜めこんできた。
普段泣き虫の芙美子は泣かなかった。ただ小さくなってしまった母の背中をさすりつづけた。
「お母さん、私…何があってもお母さんと一緒だからね」
芙美子にしては信じられないほど、強い響きの言葉だった。
芙美子は下手な慰めはしなかった。
あの優しい兄がこんな手紙を書くとは、日本の戦局は最悪に近いのだろう。
そして、兄は死地に赴く。確実に。
芙美子は密かに、皇国を憎んだ。
日本にいた頃、ラジオでは毎日のように皇軍の目覚ましい活躍ぶりが伝えられていた。
やれどこの空で飛行機を打ち落としただの、どこの海で母艦を沈めただの、まるで日の出の勢いと思われた。
だが、それは耐え忍ぶ生活を強いられている国民を鼓舞するだけのものに過ぎなかったのだと、出征して初めて清志は
知ることとなる。
今まで日本は有利だと思いこんでいたのだ。
劣勢に立たされていると気づいても、すぐには順応できなかった。
軍での生活自体が別世界の出来事のようだった。
初めて敵の兵士を殺したときも、同じ人間を殺したとは思えなかった。
まるで柔らかいものの中に入っている芯を抜いた感覚だった。
ただ、何日か目が冴えて眠れなかった。
父もこんな思いをしたのだろうか、そんなことを考えながら、薄い寝袋を頭まで被って体を丸めた。
戦力差は圧倒的だった。何より、相手は資材が潤沢だ。
倒しても倒しても、倍以上の力で押し返される。
振り返れば皇国の地が見えそうだった。
──何より。
清志の心配は、徳島に残してきた母と妹にあった。
徳島は皇国の中心である東京からは遠く離れている。
だが、敵国が徳島だけを見逃してくれるはずもない。
戦力差は歴然としていた。技術も人員も、何もかもが敵国のほうが上だった。
持ちこたえるのがやっとだった。
このまま戦い続ければ、皇国は米英に蹂躙されるだろう。
戦局に悲壮感さえ漂ってきた頃、新しくできたという隊の隊員募集が行われた。
「回天特別攻撃隊」。食料も物資も尽きかけている今、新しい隊を編成するのは妙だと誰しも思った。
だが、同時に誰しもが納得することになる。
募集要綱には、心身が健康な者、責任感のある者と至極当然の文言が並んでいた。
その文言の最後に、一言こう付け加えられていた。
生還ノ見込無シ。
後顧ノ憂ヒ無キ者ヲ基準ニ選抜ス──
「回天」がどんな兵器であるのかを、何よりも如実に物語っていた。
清志は恐怖を覚えた。だが、同時に胸の奥底から熱いものが湧き上がってきた。
出征して、初めて生きている心地がした。
これが愛国心か。これが皇国を守りたいという気持ちか。
美津子と芙美子の笑顔が脳裏をよぎった。
ふたりとも、戦争から解放された安堵の笑みを浮かべていた。
清志は口を強く引き結び、両の拳に力を入れた。
子供の頃は楽しかった。
戦争は遠い遠い場所の出来事に過ぎなかった。
兵隊は立派な皇国の守り人であり、少年の目には眩しく映った。
時折自分の姿を空想の中で重ねてみても、あまりにも不釣り合いで思わず苦笑した。
優しい父、母、そして妹。多くの仲間たち。
仲間はみんな兵隊に憧れて、兵隊になりきっては日が暮れるまで遊んだ。
楽しくて楽しくて、楽しいことに気づかないほどだった。
当たり前に続くはずだった日々は、波にさらわれるように消えた。
母からの返信はまだ届いていなかった。
もう送ってくれているのかもしれなかったが、近頃は日本からの手紙も遅れがちだった。
清志が回転特別攻撃隊に志願したとき、戦友たちは一様に驚いた。
あの遠藤が、と声を上げた者もいたという。
無理もない。清志本人も考えもしなかったことだ。
清志の命ひとつで皇国が守れるわけがない。
だが、母と妹の命なら助けられるかもしれない。
何のために戦場に身を置いているのか。
出征してから悶々と胸の奥に溜まっていたものは消えていた。
むしろ清々しささえ覚えた。
清志は気づいていなかったが、こうして決断したのは初めてのことだった。
優しいと言えば聞こえはいい。だが、日本男子としては気弱過ぎた。
それは父の茂にも言える。
子供の頃はわからなかった。父がどんな思いで戦場に身を置いていたのかを。
だが、今ならわかるような気がした。
<5>
回天特別攻撃隊の綿津見隊に入隊した清志の上官は、大村義信少佐と言った。
見上げるほどの背丈と、頑強そうな体躯。最初に会ったとき、少し気後れしたのは事実だ。
軍隊とは厳格であるという印象を抱いていた清志ではあったが、大村は鉄拳制裁を行うことも、大声で話すことさえ
なかった。
清志よりも十ほど年かさがあるだろうか。
年齢以上に落ち着いて見える上官だった。
大村は何かと清志を気にかけてくれた。
上官に問うのは礼を欠くとわかっていたが、ある日尋ねてしまったことがある。
少佐はなぜそれほど優しくしてくれるのか、と。
大村は少し寂しげな笑顔を見せた。
「ちょうど君くらいの弟がいたのだよ。…幼い頃、病気で亡くなったがね」
物資は軍に優先的に送られてくる。
戦場に立てない弱き者にまで物資を配給する余裕など、今の皇国にはない。
治るはずの病が死に直結することさえ、珍しくはなかった。
「君には御令兄がいるのか? それとも弟御かね?」
「いえ、兄も弟もおりません」
「それで志願したのかね?」
後顧の憂い、の文言を理解できない者はいないだろう。
要するに他に男兄弟がいて、家を継ぐ必要のない者が志願対象だったはずだ。
清志は見よう見まねで覚えた敬礼をした。
「自分には妹がおります。妹が自分など足元にも及ばぬ立派な婿を取ってくれるでしょう」
もともと父の茂は長男ではなかったし、干物屋も茂が始めたものだ。
茂も美津子も徳島の生まれだが、互いに裕福な実家というわけでもない。
何より、どのみち国が滅びれば、家どころの騒ぎではなくなる──
あけすけには言えなかった。
大村は僅かに目を丸くしたが、どこか暗い表情に取って代わられた。
「…私は君のような人間を何人も見てきたよ」
「自分のような、ですか?」
「そう。真っ直ぐで純朴な若者だ。そして…そういう真面目な若者ほど、命を散らそうとする。君のように」
「自分は少佐のおっしゃるような立派な者ではありません。
徳島の田舎にある、小さな干物屋の息子です。ただ──」
自然、力がこもった。清志は一呼吸置いて、大村の双眸を見返した。
「干物屋の父の息子として生まれたことを、大変幸せに思っております」
「…そうか」
大村が静かな微笑を返した。
「私は軍人の家に生まれたことを、幸せだと思ったことはなかった。父のように、軍人としての務めを果たすだけだと
思っていたよ。本当に、君はいろいろと気づかせてくれるな」
「は…」
清志は返答をはかりかねたが、大村は納得しているようだった。
上官と長々と私的に会話するのは、憚られることだ。
清志は背筋を伸ばし、改めて敬礼した。
「死なないでくれ。…そう命令できたら…」
背を向けた大村の呟きは、清志の耳には届かなかった。
軍靴の音が遠ざかっていく。
清志は大村の姿が角を曲がりきって見えなくなるまで、敬礼を解かなかった。
時は一九四四年九月。
山口の軍港を基地とすることになった綿津見隊の前に初めて姿を現した「回天」は、隊員たちが想像していたよりも遥か
に小さかった。
全長約15メートル、直径約1メートルという。
魚雷としては超大型の部類に入る。それもそのはず、もともと使われていた魚雷を改造したものだ。
ただ、魚雷としては巨大ではあるものの、中に人間が入るとなるとわけが違ってくる。
見た目以上に操縦席は狭い。隊員は押しこまれるような形で座らなければならなかった。
ハッチが閉められると圧迫感さえ覚える。この状態で、脱出しようのない海中で戦うのだ。
完全なる孤独の中、隊員はすべての操作を独りでしなければならない。
索敵、照準の固定、そして特攻。失敗すれば追尾──
だが、隊員たちは回天の性能に歓喜した。
魚雷である回天の最大の特徴、それは「後進できない」ことである。
切迫した時間の中で製造されたため、回天には通常の潜水艇と違い後進する機能はつけられていなかった。
敵に後ろを見せない、何と言うあっぱれな兵器であると、隊員たちは皆回天を賞賛したのだった。
賞賛する隊員たちの中に清志もいた。
出征して以降、清志の顔立ちは少しずつ変化していた。
柔和だった顔立ちは頬が削げて骨ばって見えるようになった。
顔色もどす黒くなり、目の下に大きな隈ができた。
飛び出した目玉が帽子の下からぎょろりと覗く。
出征する前の清志の面影は消えようとしていた。
わずかに以前の清志を繋ぎ止めているのは、優しい双眸の色だけだ。
だが誰も、清志自身でさえ、変化に気づかなかった。
すでに枢軸国側は追い詰められた状況下にあった。
ヨーロッパではノルマンディーが制圧され、太平洋では日本にとって最後の砦であるサイパンが陥落した。
サイパンが陥落した責を取る形で東条陸軍大将の内閣は7月に倒れていた。
代わって発足した小磯内閣は、閣議で「国民総武装」を決定したという。
清志は話を聞いたとき、思わず皇国民が皆軍服に身を包んでいる姿を想像した。
だが、米英が攻めこんできたら、本土にいる皇民には転戦する場所がない。
逃げ場がなければ、万歳を叫んで玉砕するしかない。
まるで回天の中と同じではないか。
操縦席では砂時計が頼りだった。さらさらと零れ落ちる砂から少しでも目を離せば、衝突の危険がある。
なぜ力を持たない皇民まで勝つか死ぬしか選択肢がないのだろう。
砂を見つめながら、清志は歯を食いしばった。
ただ、前に進むだけ。進んで鬼畜米英を道連れに玉砕するだけだ。
清志は母や妹の盾となることを望んだ。
だが、本土の皇民は、美津子や芙美子は、誰の盾になるというのだろう。
清志のような末端の兵に、答えが出せるはずもない。
清志は左胸のポケットをさすった。
芙美子の小さなお手玉をポケットの上からさすると、もやもやとしたものが少しずつ和らいでいった。
ウルシー環礁。伊豆半島の南、約二四〇〇キロ地点にある環礁である。
この地点で回天で初めて成果を上げたのは、菊水隊だった。
ウルシー環礁の停泊地攻撃隊が、アメリカ海軍の給油艦ミシシネワを撃沈したのである。
この朗報は、回天に携わるすべての兵の士気を否が応にも押し上げた。
もともと感情を表に出す性質ではない清志さえ、安堵に近い喜びを覚えた。
しかし、人間魚雷を投入してきた日本軍に対し、アメリカ軍の軍備は増強された。
停泊している戦艦を狙う作戦は変更を余儀なくされ、より危険な洋上作戦へと移行せざるを得なかった。
明けて、昭和二十年四月。
本土では桜が咲いているであろう頃、綿津見隊に出撃命令が下った。
戦場は、マリアナ諸島付近。輸送潜水艇にて、回天特攻隊は敵艦と見えた。
太平洋のほとんどは敵軍の勢力下にあった。
すでに日本と米国の戦力差が歴然としていることは、戦う前からわかっていた。
回天という魚雷ひとつでどうにかなるものではないこともわかっていた。
それでも、日本は「回天」──「天運挽回」の略、傾いた形勢を元に戻す、の意──という兵器に、望みを託さずには
いられなかったのだ。
潜水艦の後甲板に搭載された一基が、清志の機体だった。
大村少佐が総勢四名の特攻隊員を見送りに来た。
清志をはじめ、四名は胸を張って大村に敬礼した。
大村も敬礼を返した。
「──君たちの上官になったことを、誇りに思う」
大村の言葉に、清志たちの胸に熱いものがこみ上げてきた。
「行って参ります!」
自然、声が揃う。
帰ることはない。だが、恐怖もない。
重ねてきた訓練が恐怖を掻き消したわけではなかった。
ただ、この機体で、敵艦を落とす。そして皇国を、家族を守る。
その思いが、隊員たちを高揚させていた。
狭い搭乗席に乗り込み、信管のスイッチに手を伸ばす。
信管のスイッチは、必ず押してみせる。
そして必ず敵艦を沈める──
知らず、清志の目頭に涙が浮かんだ。
なぜ涙が浮かんだのか、清志自身にもわからなかった。
──ああ、芙美子。
お手玉を返すと約束したのに、返せなくなってしまったな──
この日、何十基もの回天の搭乗員が特攻をかけ、命を落とした。
綿津見隊は、誰ひとりとして帰還しなかった。
<エピローグ>
冷たい風に肩を竦めながら、ひとりの老婦人が石段を歩いていた。
春であれば多くの人で賑わっているはずだが、晩秋のその場所には訪れる者はほとんどいない。
女子高生だろうか、三人のセーラー服の少女たちとすれ違う。
少女たちは楽しそうに笑っていた。老婦人もつられてかすかな笑みを浮かべる。
もう60年も前のことだ。老婦人も、少女だった。
だが、声を立てて笑える時代ではなかった。
代わりに悲しみを押し殺した。何度も、何度も。
老婦人はすでに腰が曲がり、杖が手放せない。
ゆっくりと、引きずるように石段を上がり終え、さらに石畳を進んでいく。
満開であればさぞかし美しい光景だろう。
だが、今はどの枝も枯れ葉が申し訳程度に残っているだけで、ひどく寂しい。
徳島の桜とここの桜が違うことに気づいたのは、何年も経ってからだ。
ここの桜は、ソメイヨシノというらしい。
幾度となく満開の時期を見計らって来ているが、何度か散ってしまった後だったことがある。
パッと咲いてパッと散る。
この桜の特性は、老婦人がまだ少女だった頃、兵士の美徳と重ねられていた。
老婦人の住む徳島の田舎は、山桜が多い。
ぽってりとした瑞々しい桜は、葉と一緒に咲き誇る。
一陣の風が通り抜けた。老婦人はすでに真っ白になった横髪を押さえる。
ゆっくりと、ゆっくりと。まるで感触を確かめるように歩く。
境内には誰もいなかった。老婦人はゆっくりと枯れ木のような桜たちを見回した。
「今年も来ましたよ」
懐かしむような微笑は、どこか憂いを含んでいる。
「ごめんなさいねえ。今年は一人なの。
本当はいつもみたいに春に来るつもりだったのだけれど、秀二さんったら庭の木を切ろうとして脚立から落ちて、
腰を痛めてしまったのよ。俺はまだまだ現役だ、正志には任せられん、とか言っているけど、ねえ…
まだ治らないんだもの、そろそろ大人しくしてもいいと思うのだけれど」
老婦人はわずかに唇を動かすだけだ。
そばに誰かいたとしても、聞き取れはしないだろう。
「多恵子のところにねえ、また赤ちゃんが生まれたの。今度は女の子よ。
…お兄ちゃんから名前を一字もらったわ。『清香』よ」
老婦人は──芙美子は、軽く目を閉じた。
若いまま命を散らした兄の、そして父の、笑顔が浮かんでくるようだった。
清志が戦死してから半年も経たずに、日本は負けた。
国民皆が貧しかった。だが、生きられるという喜びに満ちていた。
芙美子は美津子と協力して何とか干物屋を続けた。
そして、幼馴染だった秀二と祝言を挙げた。
干物屋は畳み、美津子を引き取って、三人で暮らした。
正志が生まれ、和志が生まれ、多恵子が生まれた。
結局美津子は無理がたたって体を壊し、何年も寝たり起きたりの生活が続いた。
そして、一度も徳島を出ることなく亡くなった。
美津子が亡くなってから、芙美子は毎年秀二と靖国神社を訪れるようになった。
ここに清志がいないのはわかっていた。
それでも、訪れずにはいられなかった。
生前、何度も美津子が靖国神社の桜を見たいと言っていたからだ。
芙美子は今年も、靖国神社の風景を目に焼きつけ、母の墓に報告しに山口へと帰る。
清志は今も、南海の底深くに眠っている。
(終)
以上になります。
読んでいただいてありがとうございました。