他に行き場所の無い作品を投稿するスレ2

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165塾をサボる

「今日も来ていないのですか」

母親は力なく溜め息をつき、電話を切った。
これで四日目になる。


少年はいつものとおり、私鉄の最後尾の車両に乗り込んだ。
連結部分側の三人がけシートのはじに腰を下ろすと、青いカバンからマンガ雑誌を取り出す。

少年の乗った路線は、彼の通っている塾とはおよそ無関係の方角へ向かうものだった。路線はさほど長くなく、
少年の住む町の駅を始点として一時間もあれば終点に辿り着く。
往復すれば、ちょうど塾で授業が終わる頃に少年の駅に戻って来られる。

膝の上に置かれた、青いナイロン地にベージュのラインがN字に引かれたカバンは、有名な進学塾のものだ。
彼は小学校三年生の頃からそこへ通うようになった。
 

母親に連れられて初めてそこへ行ったとき、彼は間違って六年生のクラスに入ってしまったのかと思った。
答案用紙には、今まで見たこともない数式が並んでいて、どこから手をつけたものか途方に暮れてしまった。
ところが周りの子供たちは、それをすいすいと解いてゆき、テストを終わらせて教室を出て行く。

彼は結局、ほとんど答えらしい答えを書けないまま教室をあとにした。
為す術も無く打ちのめされた気持ちで一杯で、答え合わせなど、やる気も起きなかった。
 

いつの間にか彼の日課の中に、そこの塾へ通うことが組み込まれていた。
母親はそこへ通う意義を熱心に説いたが、彼は聞いていなかった。毎日の食事と同じように、
出されたものを片付けるだけだ。

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166塾をサボる:2010/06/19(土) 20:05:24 ID:PNy38Ars

数日前、母親は彼に塾での勉強ははかどっているか、と聞いたことがあった。

彼は曖昧に返事をした。
塾には半分程度しか出席していなかった。

母親はそれを知っていたが、尋ねなかった。

学校では優秀な成績をとっている。テストの成績も悪くなかった。
サボっていることを問い詰めたりしたら、塾そのものをやめてしまうかもしれない。
母親にとっては、そちらの方がデメリットだった。


母親は、塾の生徒指導担当と話をしていた。
「どうしたらよいでしょう、悪い友達と遊んでるんじゃないかと心配なんです」

生徒指導担当は冷笑し、
「そんな心配はいりませんよ。失礼だが、お子さんはゲームセンターに入る勇気も無い。
悪い仲間とつるむ心配はありません」

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ゲームセンターの自動ドアの前で、少年は躊躇っていた。
彼と歳の違わない少年たちが、彼を追い越して入っていく。

腰までずり下げたカーゴパンツ、オーバーサイズのパーカ、斜めに被ったキャップ。
ろれつが回らないような口調で話し、過剰なくらい大声で騒ぐ少年たちが、彼は苦手だった。


ゲームセンターには奴らがいる。
怖い。
バカにされる。
いじめられる。

あるいは、相手にすらされないだろう。
ゲームの腕もさほど上手くは無い。格闘ゲームは好きじゃなかった。

少年はゲームセンターには入らず、ガラスの自動ドアから中を眺めるだけだ。
そのガラスも薄暗い店内を見通す妨げとなる。
そうしてやがてその場を後にし、再び電車に乗る。
167塾をサボる:2010/06/19(土) 20:06:53 ID:PNy38Ars

したいこと、というものが、彼には無い。

ゲームには興味はあったが、暇つぶしの域を出るほどではない。クラスの連中が話しているマンガや
Jポップの話題も、今ひとつ興味をそそらない。

電車の中が、彼の寛ぎの場となっていった。車内で読むものは何だってよかった。
彼は読むことよりも、『マンガ雑誌を読んでいる乗客の一人』を演じているのだった。


車内の乗客に溶け込んだとき、彼は透明人間になったような気分になる。
誰も彼のことを気にかけない。バカにされることもなければ、カツアゲされることもない。

彼の方は、他人を観察できる立場にある。雑誌からちょっと目を上げれば、車内の乗客が見渡せる。
相手に気付かれそうになったらすかさず雑誌に目を戻す。
そうして観察した結果、彼はひとつの疑問を抱いた。

「みんな、何が楽しいんだろう?」

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168塾をサボる:2010/06/19(土) 20:09:09 ID:PNy38Ars

ある晩のことだ。

いつものように終点まで乗ってきた彼は、ホームへ降りると反対方面の電車に乗る列に並んだ。
そこで、一人の男性と眼が合った。

少年の、父だった。

――見つかってしまった。
塾をサボってることがバレてしまった。怒られる!――


彼は気が気でない。
帰りの車内で二人は並んで立ち、一言も言葉を交わさなかった。

最寄り駅からひとつ手前の駅で、父は少年を促して降りた。
黙って従い、改札に向かう。

――怒っているんだ。車内では叱れないから、人気の無いところで叱るんだ。

ところが父は、改札の手前で、
「切符、あるか?」
と声をかけ、自分は定期でさっさと改札を出て行ったのだ。

少年はいつも一駅分の切符を往復で買っていて、清算せずに出ることが出来ていた。
一駅先で降りることなんて、イレギュラーな事態だった。

駅員に咎められやしないかと、不安で一杯になりながら、往路の切符を改札機に通す。
父は、そんな彼の様子を少し離れて見守っていた。
169塾をサボる:2010/06/19(土) 20:11:52 ID:PNy38Ars

無事に改札を抜け、父親に連れて行かれたのは、駅の裏手にある居酒屋だった。
彼は父親の意図がさっぱり分からないまま、黙って従った。
 
パッと見は小汚い店だったが、暖簾をくぐると、店内は意外にもこざっぱりとしていて、落ち着いた雰囲気だった。
客も多すぎず少なすぎず、いい感じに空いていた。

カウンターに並んで腰を下ろすと、
「お前、何にする」
と聞かれた。

「ええと……」
ここには、彼が飲めるようなものは無さそうだ。

「ビールくらいにしとくか。俺もそうする」
そういうとカウンターの奥に向かって言った。

「とりあえずビール、それにやっこともつ煮、ほっけに……あと、茄子の浅漬け」

瓶ビールと、グラスが少年の前に置かれる。

――ホントに、こんなものを未成年に飲ます気なんだろうか。

父を見ると、いたずらっぽく笑いながら瓶を傾けた。

「まぁ、泡だけでも飲んでみろよ。今のうちに知っといて損は無いぞ」

言われるままに口をつける。苦くて、飲めたものじゃない。

――こんなもの、何がおいしいんだ?

「どうだ?」

聞かれ、思ったことをそのまま言った。

父は笑って、彼のためにジンジャーエールを頼んでくれた。
170塾をサボる:2010/06/19(土) 20:13:25 ID:PNy38Ars

――父さんは、怒ってはいないみたいだ。
――それとも、本当に塾帰りだと思っているのかな? 
――だとしたら、塾が何処にあるのかも知らないのか……。

少年は、複雑な気分だった。
しかも、居酒屋と言う未知の空間にいることで、彼の頭はますます混乱した。


& & &


冷奴と、もつ煮が運ばれてきた。

「こんな渋いあて、若い人は喜ばないわよ」
女将さんが父に向かって言う。

「そうかなぁ、俺の学生時代はこんな感じだったけど。まぁいいや、じゃあ適当に何か作ってくれよ」

食えよ、旨いぞ。
そういって父は、もつ煮を彼にすすめる。
もつ煮を初めて見る彼にとっては、こりっとした肉の入った豚汁、という感じだ。

確かに、旨かった。彼はもつ煮を食べ、その間、父はビール片手に冷奴をつまんでいた。

「はい、お腹の足しになるか分からないけど」
そういって女将さんは、彼の前に握りたてのおにぎりと、穴子の天ぷらを出してくれた。

「なんだ、穴子があったんだ。俺もひとつ」
隣から覗き込んでいた父が言うと、

「だぁめだよ。そいつは賄い用だ」
奥から老人のしわがれた声が聞こえてきた。

ごめんね、数が無くて。
女将さんは拝む様な仕草をみせ、父は、ちぇっ、とすねたように言った。
171塾をサボる:2010/06/19(土) 20:17:07 ID:PNy38Ars

普段の父とは、何か違う。
一人称が『俺』なのが新鮮だった。
家にいるときの父は、『父さんは〜』の一人称だ。そもそも、あまりものを言わない。

そして少年のことを『お前』と呼ぶ。
家では名前で呼ばれるし、何か用事のあるときしか呼ばれない。

父親が少年を『子供』としてでなく、一人の『男』として対等に接していることを、少年は漠然と感じていた。
同時に父もまた、『父親』でなく一人の『男』としての姿を見せていた。それは少年に、どこかのびのびとした印象を与えた。

穴子の天ぷらは、格別に旨かった。少年は夢中で食べた。それが一段落つく頃、父が唐突に切り出した。


「天丼ってやつぁ、俺はどうも好きになれねぇんだ」
「……?」
「蕎麦屋で天丼や天ざるっつったら、その店で一番高いメニューだからな。俺は、それが解せない」

返事をしない彼に構わず続けた。
「ラーメン屋のチャーシュー麺にカレー屋のカツカレー、それに蕎麦屋の天丼。こいつらは三大悪だな」

言わんとすることが、少年には何となく分かってきた。
食いたいけど、ちょっと高くて諦めざるを得ないメニュー達、ってところだろうか。

「こういうところに階級社会っつうかな、そういうものを感じてしまうんだよなぁ。世の中は、じつは平等じゃねぇからな」
そういって笑った。

少年は思った。
カツカレーもチャーシュー麺も、大好きなメニューだし、できることならいつでも食べたいものだ。
けれどそれらはやっぱり割高で、「贅沢品」として認識されている。
結局、彼はただのラーメンやカレーに甘んじる他ない。


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172塾をサボる:2010/06/19(土) 20:19:01 ID:PNy38Ars

父を見ると、いつの間にかビールは飲みきってしまい、日本酒を飲んでいる。

「勉強は嫌いか?」

またもや唐突に、父は言った。
彼は驚いたが、その一方で、父は何もかも知っていたんじゃないか、とも思った。

彼は正直に答えた。

勉強そのものが嫌ではないこと。
塾の雰囲気がどうにも嫌いで、電車を往復乗車してサボっていること。
そのことは母には内緒でいること。そして、他の人々が、何が楽しいと思っているのかわからないこと。

父は黙って聞いていた。

「……テストでいい点を取ることなんて、馬鹿げたことと思うかも知れないな」
父はカウンターの正面を見つめながら、呟くように、そして自分自身に言い聞かせるようにゆっくり話す。

「社会に出たら、成績の良い奴が得をする。というより、成績が悪いと損をする、と言う方が正しいかな」

諦めたような、寂しそうな横顔。

――そんな顔、見たくないよ。
 もっと、自信満々っていうか、何でも解決する名探偵みたいなっていうか、そんな顔していてくれないかな。

「けれど、お前がこの先、うまく行かなかったとき。壁にぶち当たったとき」
父は、そこで言葉を切り、彼を見つめた。

「『もっと勉強しておけば良かった』なんて後悔だけは、して欲しくない」


そこで、ちょうど店の柱時計が鳴った。
見ると、十時を指していた。

「おっと、もう帰らないと母さんが心配するな。じゃあ、おあいそ」


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173塾をサボる:2010/06/19(土) 20:22:54 ID:PNy38Ars

店を出て、二人は電車に乗らず、夜道を並んで歩いた。

酔い覚ましにちょうどいい距離なんだ、と父は照れ笑いをした。
夜風は心地よく、一駅の距離は遠すぎず近すぎない程度だった。

「人の一生は、勉強の連続だ」
少年に、では無く、道すがらの夜空に話しかけるように、父は話す。

「勉強は、机に座ってするものばかりじゃない。人が、よりよい生き方をするためには、どうしても、いろいろな勉強が必要だ。
けれど、安心したよ。お前は、勉強が心底嫌いじゃないみたいだからな。
いずれ、自分から勉強したい、と思うようになるだろう」

父は立ち止まり、彼を見つめる。
「だから、大丈夫だ」

少年は、俯いてしまう。

「塾が嫌なら、辞めるのも一つの手だ。けどな……、
そこで何かしらの結果なりを出してから、退塾届を叩きつけるのはどうだ?」

歩き出した父の横顔を、そっと見る。

「そうだな、そうしたら天丼、食いに行くか。ああいうものは、金持ちになって毎日食うもんじゃない、
普通の人間が、がんばった後に食うから旨いんだ」


ぼく、と言いかけた。
声が掠れている。

父は、穏やかに彼を見つめながら隣を歩く。

「ぼく……、天丼より、カツ丼の方が好きだな」

父は、笑った。
お前は安上がりなヤツだなぁ、といって彼の頭をガシガシ撫でた。

少年の家が見えてきた。

少年は、塾をサボっていたことを母親に話さなくてはならない、と思った。

そして、父とカツ丼を食べるときのことを思い浮かべた。