「いい所じゃないか。」
ナーバスは辺りを見回して言った。
パッシーの選んでくれた星は、形成間もない、まだ若い星だった。
地殻がいまだ安定していないため、絶えず微震が続いていたが、
彼はそんな事を気にも留めなかった。
探査目的以外で初めて降り立った惑星。
辺りは、ジムに見せてもらった原始世界のスライド写真、そのままだった。
大小さまざまな水溜まりの回りに、ようやく生まれ始めた植物達が、
コローニーを作って点在している。
遠くを見透かすと、高い山の連なりが見えた。
彼は、何も危険がないことを確認した上で宇宙服を脱ぎ捨てた。
深呼吸する。
少し息苦しかったが、しばらくすれば慣れるだろう。
ふと、後ろを振り返った。
探査艇は、水位の浅い水溜まりに頭から突っ込む形で
不時着していた。
原始世界をバックに、そこだけ妙に浮いてみえる。
「なかなかシュールな構図じゃないか。」
気取って言ってみたが、自分が一人なのに気づいてすぐに苦笑いを浮かべた。
脱ぎ捨てた宇宙服の物入れからサンプルケースを引張りだし、ふたを開け、
中の物質が無事なのを確認する。
再び探査艇に目をやった。
「どこかの博物館にでも飾ってもらえるまで、しばらく我慢してくれ。私は、もうここには戻らんよ。」
探査艇に背を向け、あてどなく歩き出す。
彼の手には、小さなサンプルケースだけがあった。
変化に富んだ景色を眺めつつ、歩き続ける。
やがて、彼は湧水を見つけた。
小さな水溜まりの中から、静かに湧き出してくる清水。
心和む光景だった。
彼は湧水の側に腰を下ろすと、サンプルケースのふたをあけ、ゼラに語りかけた。
「君には、とてもすまない事をしたと思っている。仲間から引き離した上に、
こんな、環境もまだ完全には整っていない星に、置き去りにさせてしまった。」
ケースの中のゼラチン質が、微かに揺れた。
資料庫で事情を説明すると、ゼラは水から遊離して自らサンプルケースの中に収まった。
もしかしたら、どんな扱いを受けようとも、ゼラには<どうでもいいこと>なのかもしない。
「君が資料庫に閉じ込められてから、ずっと考えていた。生ある者は、
何故生きているのか、という事をだ。」
ケースの中でゼラがざわついた。
「もしかしたら、生きている事に意味などないのかもしれない、とも考えた。」
湧水の水面を揺らして、微震が起こる。
彼は、波打つ水面を眺めながら言葉を続けた。
「同じような事を考えた人達が、たくさんいたと思う。考えるきっかけはどうあれ、な。
デリーもその一人なのだろう?パッシーの持つ理論には、この項目はない。
だが、きっと同じ事で悩んでいた者が、過去にもいたはずなんだ。
残念ながら、そういう事に関するデータはすべてロックされていて、
私には、知る術もなかったがね。」
微震が続いていたが、不安はなかった。
星の胎動を感じながら、生命について語る。
こんなことは、なかなか経験できるものではない。
「もしかしたら君は、その意味を…、知っているんじゃないか?」
ざわついていたゼラチン質が静まる。
「全ての物を在るがままに受け入れて、ただそこに在ること。君のようで在れたら、
どんなにいいだろうに。そこまで考えた私は、あることに思い至った。」
再び、サンプケースがざわついた。
「それでは私は、君のすべてを受け入れることができるだろうか、と。」
ゼラチン質が、ケースの中で何かを求めるようにその身をもたげる。
彼は湧水の中にゼラを放してやった。
「答えは、ノーだ。どんなに頑張ったところで私の許容量などたかが知れている。
そう考えついたら、何故か無性に君に合いたくなった。
合って、話を聞いてもらいたいと思った。君は、どんな風に答えてくれるだろう。
だが、カインはそれを許してくれなかった。」
彼は黙り込んで自分の考えに浸り込んだが、すぐにまた言葉を続けた。
「もし私がカインの立場だったら、やはり彼と同じように行動していたろう。
だがあの時は、ただ君に合いたかった。合えば何とかなる、そう、思っていた。」
湧水の水面は、今だに続く微震のため、揺らいでいる。
「ここには、私と君の二人しかいない。君は私を、受け入れてくれるだろうか…。」
少し不安そうに彼は聞いた。
すると、今まで揺らいでいただけの湧水の水面に、たくさんの泡玉が沸き起こった。
ふと、合成音のゼラの声が聞こえたような気がした。
『O…K…。』
「ありがとう、ゼラ。」
彼は、立ち上がって身に付けていた服を脱ぎ、湧き水に身を沈めた。
思ったより深い。
水と融和したゼラは、たくさんの泡玉を作って彼を迎え入れてくれた。
胸が詰まる。
息ができない。
頭の中に<己殺>という単語が浮かんだ。
(なんてこった…。)
彼は、この後に及んでまだ考えることをやめられないでいる自分を、嘲笑った。
意識が幽冥境の境を越えた。
水音が耳に心地いい。
永遠と一瞬を繋ぐ眠り…。
永劫回帰という単語の隣で、ある数値が身じろぎした。
そうか。
そうなのか。
君は、ゼラではなく、ゼロだ。
それは、全ての始まりと終わりを内包する数値。
全てはそこに、帰結するのだ。
石ころの夢
時に果てがあるのかは知らない。
けれど、それに近いくらいの時の果てに、ぼくは覚醒した。
最初に感じたのは、強い日差しと優しい眼差しだった。
ぼくには視覚がないので、何も見ることはできない。
でもその分、自分を取り巻く波動のようなものを感知することはできる。
相対する物から発せられている、電波のような物を受信する事が出来るのだ。
「目が覚めたかい、化石君?」
眼差しの主はそうあいさつして、ぼくの体についた乾いた泥を手で払ってくれた。
その手からの波動は、とても静かで、なんとなく心地よかった。
「ちょっと狭いけど、しばらく我慢してくれよ。」
この感触は何だろう?記憶を探る。
そうか、どうやら木の箱に入れられたらしい。
木から醸し出される平穏な波動の中で、ぼくはまた眠りについた。
唐突に、柔らかい波動を感じてぼくは目を覚ました。
康子の息づかいだった。
野田康子。
大学の研究室助手である彼女は、海の向こうからやってくる
たくさんの資料を整理するのを主な仕事としていた。
彼女が木箱のフタを開けた時、ぼくは取り合えず「やぁ。」と言ってあいさつした。
もちろん、化石の声を聞ける奴なんかいやしない。
だから、聞こえないのを承知で声をかけたんだ。
でも、箱のフタを持ったまま、彼女の動きが止まってしまったのには、ちょっと困った。
どうせ聞こえやしないんだけど、いつまでも見つめられてるのは、いい気分じゃない。
仕方がないので、また聞いてみる。
「どうしたの?」
ところが彼女は、慌ててフタを閉じてしまった。
しばらくして、またフタが開く。
「空耳よね、空耳。疲れてるのかな、やっぱり…。」
どうやら彼女には、ぼくの声が聞こえるらしい。
「君、ぼくの言ってること、わかるの?」
「そ、空耳、空耳。」
まるで魔除けの呪文のように唱えて、彼女はまたまたフタを閉じた。
そしてまた、今度はゆっくりフタが開けられ、彼女の目が、ぼくを探るようにみつめるのを感じた。
「空耳、直った?」
と聞くと、彼女はまたフタを閉じかける。
「待って、怖がらないで。ぼくはただの化石。君が怖がるような事は、何もしないよ。」
「た、ただの化石が、しゃべるもんですかっ!」
興奮しているのか、声が上ずっている。
「それは偏見だよ。ただ、君とぼくの心の波長が、偶然あった、てだけのことさ。」
「心の、波長…?」
「そう。ぼくを見つけてくれた人も、ぼくにあいさつしてくれたよ。」
「男の人…。大先生のこと?」
「さぁ…?」
ぼくは見つかってすぐに箱に入れられてしまったので、彼が誰かは知らなかった。
「きっとそうね。だってこの箱、大先生のサインで封がしてあったもの。
自分が帰るまで開けるな、て。」
「それを君は開けたの?」
「仕方ないでしょう。前なんか生きた昆虫送っておいて、
開封厳禁なんて箱に書いてくるのよ。
そのくせ帰ってきて、世話をしないから全滅したじゃないかって、怒るんだもの。
だから、大先生から送られたものは、全部チェックしてから保存することにしてるの。」
「ふーん。で、ぼくはこれからどうなるのかな。」
彼女は考え込んでしまったようだ。
「化石って、エサの必要はないのよね。」
「うん、まぁね。」
「だったら、元どおりにして大先生の部屋に置いておくわ。」
「それじゃつまらないな。」
「つまらない…て、あなた化石でしょう?」
「でも、君と会話してるよ。」
古い物には神が宿る…、そんな祖母の言葉を彼女は思い出した。
常識的に考えれば起こり得ない事なのだろうが、
現に目の前の化石と会話してる以上、
その存在を否定するのも何となく気が引けた。
「…。どうしてもらいたいの?」
「そうだな。君と一緒にいたい。」
「困るわ。資料の持ち出しは禁止されてるのよ。」
「見つからなければいいのさ。」
「だって…。」
「せっかく話ができるのに、箱の中で黙りこくってるなんて、つまらないよ。」
彼女はしばらく考えていたようだったが、やがて言った。
「大先生が帰ってくるまでの間だけよ?」
子供の頃、彼女は学者になるのが夢だったそうだ。
「何の研究をするつもりだったの?」
「暗い小部屋に一日中引きこもっていられるなら、何の研究でもよかったの。」
毎日届けられる資料の整理が終わると、他の研究員に手伝いを頼まれるまで、
彼女はヒマになる。 ぼくはその時間潰しの間、食堂で彼女の話相手をした。
「でもね、成績悪かったから学者にはなれなかったわ。短大出て、普通のOLして…。」
「それで?」
「やっぱりあきらめきれなくて、前の会社やめて、貯金はたいて大学入り直して、
考古学の勉強したわ。歴史とか好きだったから。でもこの業界て専門職の就職率て
低いのよね。 派遣会社に登録して、ようやくここを紹介してもらえたの。」
「ふーん。」
「そうしたら、あんまり考えていたイメージと違うんで、幻滅しちゃった。」
「暗い小部屋に一日中引きこもって、ていう、あれ?」
「そう。ここの建物まだ新しいし、窓もたくさんあって明るいでしょう。人もたくさんいて、
にぎやかにやってるじゃない。私、最初浮いてたのよねぇ…。」
「だろうね。君はネクラだから。」
「あら、そういうのは、思ってても言わないのが礼儀よ。」
「そう?」
「そういうものよ。」
「で、今は?」
「居心地いいのよね。皆、自分の研究に夢中で、人の事に立ち入らないし、それに…。」
「なに?」
「…、何でもない。」
「そう?」
ほんの少しの沈黙の後、ぼくは思い切って聞いた。
「ねえ、まだあの人から、電話来る?」
彼女は返事をしなかった。
聞いちゃいけないことを聞いたかな。
視覚のないぼくは、返事をしない彼女の波長を遠慮がちに探ってみる。
かなり乱れていた。
その乱れを振り払うように、彼女は苦々しげにつぶやいた。
「時々…、ね。」
あの人というのは、彼女が前の会社を辞める直接の原因になった不倫相手の事だ。
彼女はその頃のことをあまり話したがらないから、詳しいことは知らない。
でも、時折思い出したようにつぶやくことがある。
「忘れられたらどんなにいいだろう」と。
でもあの人がいなければ、ぼくと彼女が出会うわけもなかったわけで。
不思議な出会いの文様は、これからどんな絵柄を描くのだろう。
化石のぼくにはよくわからないけれど、命にはいつか終わりが来るという。
命あるものは自らの生きた証として、子孫を残していく。
動物の場合、これだけで終わってしまうのだが、人だとそうもいかないらしい。
康子はそこいら辺を説明してくれるのだが、『人の営み』というのは、ぼくの理解を越えていて、
彼女がどう詳しく話してくれようとも、すべてを理解するのは無理だった。
それでも、人の持つ『好意』という感情は、なんとなくわかった。
それは、ぼくと彼女の関係に似ている。
波長の合う人には『好意』を持つが、合わない人とはお互いを知ることもなく、また、
知ろうと思うこともないということだ。
「ある意味、そうと言えなくもないわね。」
彼女はぼくの言ったことを肯定した。
そしてぼくは、今現在彼女がもっとも好意を寄せている人物を知っている。
「野田君、ちょっといいかな。」
食堂の入口から顔を覗かせた男が、彼女に声をかけた。
「あ、はい。」
彼女は慌ててぼくを白衣のポケットにねじ込むと、声をかけた相手に近づいた。
この男の人は、ぼくと彼女が会話をしている食堂を、時々のぞきにくる。
彼女は気づかないけど、その穏やかな波長の流れは、いつも彼女に向かっていた。
「いや、今朝の便でついた資料の伝票が一枚足りなくってね、こっちで手が出せないんだが…。」
「あ、行きます。」
彼女は小走りに事務所へ向かう。
「急ぐことないのに。」
ポケットの中でつぶやくと、
「よけいなお世話よ。」
彼女にささやき返された。
そう、この男の人が、現在彼女がもっとも好意を寄せている相手、
この研究室の主任補佐である、山崎助教授だ。
ちょっと白いものの混じったボサボサ髪に、薄汚れた白衣、学者に似合わぬ
大きなガタイと低い声、度の強い銀ブチ眼鏡の奥の瞳は、いつも優しい光をたたえている、
というのが、彼女がぼくに説明してくれた、山崎助教授の風体だ。
ちなみに彼女自身については、ちょっとおデブちゃんのオードリーヘップバーンだと
言っていたが、ぼくにはおデブちゃんという概念もよくわからなかったし、
オードリーヘップバーンも知らなかったので、この説明は無意味に思えた。
山崎助教授は、風采は上がらないが優しいので、この研究室では大先生より人望がある。
もちろんこれは、彼に好意を持つ彼女の言葉を再現しただけで、ぼくは直接相手を
見れるわけじゃないので、その人となりを判断することはできないのだけれど…。
だって、波長は区別できても、相手の姿を見ることのできないぼくは、
彼女の言っていることを信じるしかないのだから。
が、まあ、ここ一週間ばかり彼女と行動を共にして、彼と彼女の会話を聞いた限りに
おいては、そう悪い奴でもない、という程度の人間だ。
「恋愛に年齢は関係ないというけれど、一回り以上も違うと、考えちゃうわよねー。」
「どうして?十年や二十年違ったって、大したことないと思うけどな。」
「私、人間なのよ。化石とは違うの。」
「そうか。人間って、めんどうだね。」
「山崎先生は、ここの仕事続けてくれても構わない、て言ってくれてるんだけど。」
あと少しで、彼女はこの職場を去る。
派遣会社と大学の契約期間が切れるのを機に、彼女はまた違う仕事を捜すという。
「先生が言ってくれてるんだったら続けたら?」
「告白できない片思いの相手と、一緒に仕事するなんて、辛いだけじゃない。」
そうしてその好意は、告げられることもなく、彼女の胸に永遠にしまい込まれるはずだった。
「あなたって、最低の人だわ!」
白衣のポケットの中で、ぼくは身を縮めていた。
と言っても、ぼくの体は角張ってて固いので、他の人から見れば
大して変わったように は見えなかっただろうけど、とにかく身を縮めていたのだ。
場所は近代的な研究室の裏手にある木造の資料倉庫の中。
検査の終わったぼくの先輩達が、静かに眠る所。
大小さまざまな化石が、無造作に棚に置かれた、カビと埃と蜘蛛の巣が支配する世界。
「もうたくさん!」
彼女の波長は冷たく尖っていて、ぼくは居心地の悪さを覚えた。
彼女がなぜ怒鳴っているのかと言うと、前の会社を辞める原因になった不倫相手が、
もう一度やりなおそうと説得にきたからだ。
人目をはばかって資料庫まで引っ張って来たのだった。
「甘えるのもたいがいにしてください。子供じゃあるまいし。自分だけいい思いして、
都合が悪くなるとすぐに逃げ出して…。私、あなたのお母さんじゃありません!」
やれやれ。ここまで言われても、相手はまだあきらめないらしい。
よほど彼女によくしてもらってたんだな。
「いいかげんにしてください!恐竜にでも襲わせますよ!」
相手は笑ったようだった。
居心地の悪い波動が辺りを満たしていた。
その時、恐竜の声が大音響で鳴った。
「ぐわぁぉぅぁっ!!」
言った本人である彼女が一瞬身をすくませたくらいだから、相手はもっと驚いただろう。
彼女が驚きから立ち直り、何か言いかけようとした時、再び恐竜の咆吠が聞こえ、
今度は床までもが揺れた。まるで、恐竜の大移動でも始まったかのように。
「きゃーっ!?」
床の揺れ、棚から落ちる化石達、舞い上がる埃、効果音の恐竜の声、
それら全てが、パニックを起こしかけていた二人の恐怖心をあおった。
相手は悲鳴らしき波長を残し、彼女をおいて逃げ出してしまった。
揺れは数十秒で収まり、後には床に崩折れた彼女の姿があった。
「まいったなぁ。まさかこんなタイミングで地震がくるなんて、思わんかったからなぁ。」
失神した彼女を見下ろしたのは、山崎助教授だった。
「ちょっと効きすぎたなぁ。」
彼は頭の後ろを掻くと手にしたカセットデッキを床に置き、彼女を抱き上げた。
「何だ、お前もいたのか。」
彼女が倒れたとき、白衣のポケットから転がり出てしまったぼくも拾い上げ、倉庫を後にした。
さして広くない医務室には、さっきの地震で軽いけがをした人達が数人いるだけで、
静かなものだった。
「ん…。」
「目、覚めた?」
「ここは…?」
「医務室。」
ぼくはベッドの横に置かれたイスの上で、彼女が気がつくのをずっと待っていたのだ。
「私、どうしてここにいるの?」
「山崎先生が運んでくれたんだよ。」
「え、何で?」
「恐竜の声、先生のいたずらだったんだ。たまたま地震が起きるのと重なったんだ。」
「そう…。」
「…、先生から伝言があるんだけど。」
彼女はちょっとびっくりしたように聞き返してきた。
「どうして?」
「どうして、て言われても。」
「話せるのは、私とだけじゃなかったの?」
「ぼくは彼の言ってる事がわかるけど、向こうはぼくの波長を感じられないらしいよ。」
「それで、なぜ伝言なの?」
「彼はぼくを見つけて、こう言ったんだ。
『お前はいつも彼女と一緒にいるな。本当は、大先生の部屋にいなけりゃいけないんだぞ。』」
「あ、バレてるの。」
「うん。最初に君とぼくが合った時、偶然現場を見てたらしいよ。」
「やだ。気付かなかったわ。」
「続けるよ。『そう言えば、よく彼女が話しかけてるな。お前、言葉が喋れるのか。
まさかな。化石が喋れるんなら、俺達はお払い箱になっちまう。それに女の子てのは、
ぬいぐるみとでも喋る人種だからな。』」
「先生、私が食堂であなたと話してるの、見てたのね。」
「ぼくは気付いてたよ。」
「え…。」
彼女がベッドから起き上がった。
「何で言ってくれなかったの!」
「君が、あの人と今のまま、いい同僚でい続けたい、て思ってたから。」
「先生に話を聞かれてたんなら、その関係が壊れちゃうじゃない!」
「そんなことないよ。だって、いつだって彼の波長は、君に向かって静かに、
包み込むように流れてたんだから。」
そう、彼はぼくに焼きモチを焼くわけでもなく、ただ、静かに、彼女の事を見つめ続けていたんだ。
「そんなのって…、そんなのって…。」
「伝言、まだ終わってないよ。」
「もういいわ。聞きたくない。」
彼女は布団をかぶってしまったらしいが、乱れた波長がそんなもので隠せるはずもない。
ぼくはかまわず残りの伝言を告げた。
「『よーし、これは賭だ。もしお前が喋れるんなら、彼女に伝えてくれ。
今度の休み、よかったら家に遊びに来ませんか、てな。
ただの化石ならそれはそれでかまわんさ。俺は日が沈むまで、この先の高台で待ってる。』」
彼女は黙っていた。
ぼくも黙っていた。
やがて、彼女がつぶやく。
「行った方が、いいのかしら。」
「人を待たせてるんだから、行った方がいいと思うよ。」
しかし、ぼくのその言葉は彼女には通じなかったらしい。
彼女の視線がぼくを探るように見つめるのが感じられた。
「何で、何も言ってくれないのよ。」
ぼくにも、なぜ急に彼女と言葉が交わせなくなってしまったのか、わからない。
でもまだぼくには、彼女の波長を感じることができた。
彼女の波長はもの寂しく揺れていた。
ぼくという話し相手を失うのと入れ違いに、新しい恋を手に入れることが
出来るかもしれない、という、期待と不安の入り混じった波。
そして、彼女の波長はぼくの側から遠ざかっていった。
さっきの地震の揺り返しが来たのは、それから数分後の事だった。
土の中で眠っていた頃の経験から、今度の揺り返しは大きいと知っていた。
案の定、立て揺れを感じる。
ぼくはイスから転がり落ちた。
乱れた波長があちこちに飛びかう。
すぐ側で薬品棚が倒れ、瓶の破片が飛び散った。
やがて、大量の水がやってきて、全てを飲み込む。
何だか、懐かしい感覚がぼくを取り巻く。
そういえば、ここはウミに近かったっけ。
水がすべてを押し流していく。
化石であるぼくに恐怖が感じられるわけもなく、ただ水に翻弄されるまま、
海底深く沈んで行った。
彼女は無事に逃げ延びただろうか。
ああ、そうか。
もう、ぼくには関係のないことなんだ。
生き物達の営みは、永い時を眠り続ける化石にとって、夢の一コマに過ぎない。
でもその夢の中には、永遠が封じ込められている。
彼女と先生の間に流れる波長から、ぼくはそれを知ったんだ。
その波長は、全ての化石が消えても、ずっと残るだろう。
生き物達は、その為にこそ彼等の営みを連綿と続け、
そしてまた、これからも続けていくのだろうから。
さて、次に何かを感じられるのは、いつのことだろう。
それまで、この柔らかで居心地のいい海底の砂の中で、一眠りするとしようか。
※このスレに投下した作品は、15年から20年近く前に作った物です※
※少し毛色の変わった物として、二次物を一つ投下します※
約 束 の 恋
南極。
厚さ千メートルを越える氷原。
学術目的の施設はもとより、先進国の軍事拠点が点在するポイントの
遥か地下に、彼の居城の一つがあった。
(どうやら、ここには手が出せなかったようだな。)
数ヵ月前、南国の無人島に設けてあった盗品の保管場所が
荒らされたのを皮切りに、彼のアジトがことごとく襲撃される、
という事件が起こった。
事件といっても、アジト内が荒らされるだけで、保管品の被害が全くなく、
これにはさすがの彼も首をひねってしまった。
(いったい、何が目的なんだ。)
世界中に散らばるアジトの被害状況をチェックし終えた彼は、
仲間内で「王国」と呼ばれるこの南極の居城の様子を見に、
戻って来たのだった。
「王国」は彼以外の侵入を許さない。
全ての鍵は、彼の遺伝子情報にのみ、反応するようになっているのだ。
城内に異常がないのを確認した彼は、執務室として使っている一室に腰を据えた。
一見して殺風景な白い部屋には、酒肴の置かれたサイドテーブルと長椅子しかない。
が、彼がその長椅子に腰を下ろした瞬間、部屋の天井から四方の壁、
床に至るまでが全てガラス張りに変わった。
(異状無し、か…。)
壁のガラス越しに見えるのは、彼が集めた盗品の数々。
それらを眺めながら一人悦に入り、グラスを傾ける。
「さて、次はどこの何を狙おうか…。」
「その話、一枚噛ませていただけませんこと?」
「あ…?」
彼の背後に、女がいた。
見覚えのある女だ。
「まさか…。」
「その、まさかですわ。」
「クラリス!」
別れた時と同じ瞳で彼に微笑むクラリス。
違うのは、緩やかに波打つ髪の長さと、紅い唇。
「十年ぶり、ですわね。おじさま。」
「いったい、どうやって入った?」
彼の遺伝子情報によってのみ、入城を許されるはずだが。
「簡単ですわ。初めておじさまにお会いした時の事、覚えていらっしゃいます?
あの時、おじさまはケガをしていらっしゃった。
私、ハンカチーフをお貸ししましたわよね。
そのチーフの血痕から、ここの鍵を入手しましたの。」
確かに、遺伝子の研究は日進月歩の勢いで進んではいる。
だが、二十年も前の血痕から、遺伝子情報を引き出すとは、よほどの執念だ。
いや、それより、あのハンカチを洗わずに取ってあった、という事実に、彼はあきれた。
「OKお姫様。一つ質問だ。一連のアジト荒らし、犯人は君だね。」
「ええ。おじさまの行方を捜すために」
「俺を捜して、どうするつもりだったんだ?」
彼女は微笑んだ。
部長室のドアが派手な音をたてて開けられた。
「ちよっと、退職するてどういう事よ?」
部屋の中で私物の整理をしていた男が曖昧な笑顔を浮かべて振り向いた。
「やぁ、君か。」
「君か、じゃないわよっ。給与明細チェックしてたら、あなた来月で退職する事になってるじゃないの!」
(そういえば、彼女は経理課だったっけ…。)
「どういう事よ、これ。まさか私を捨てて逃げ出す気じゃ…」
男は形勢不利とみるや大声でまくしたてた。
「それは違う。事情があってどうしても会社を辞めねばならないんだ。」
「じゃあ、私達の関係は今まで通りなのね。」
「いや、それが…実は家族ぐるみでカナダに移住するんだが…。」
「何よそれ。やっぱり私を捨てて逃げる気何じゃ…。」
「だから、これにはいろいろあって…。
そうだ、君に渡す物があるんだ。
いま、君の住んでるマンションね、あれ、君に上げるから。
ほらこれ、権利書。それと、これは手切れき…じゃなくて、慰謝料ね。
僕の隠し口座の通帳と実印ね。一年は遊んで暮らせるよ。」
それだけの物を渡されても、彼女の怒りはおさまらなかった。
「五年よ、五年。女の一生の中で、一番美味しい時をあんたにくれてやったのよ。
こんなもんで不倫が清算出来るんだったら、地球から戦争何かなくなってるわよっ。」
興奮しているせいか、論理が飛躍している。
「わかった、わかったから、そう大声を出すな。な、これもやる。だがら、落ち着いて…。」
そう言って彼は部長室の片隅に設けられた神棚から、直径5センチ程の
ガラス玉を持って来ると、彼女の手に握らせた。
「何よ、これ。」
「この中には神様がいてね、玉の持ち主の願いを叶えてくれるんだ。」
「はぁっ!?」
(カミサマ?…何を言い出すのかと思えば…。)
彼女はあまりのバカバカしさに拍子抜けしてしまった。
(そうよねぇ、よく考えてみれば、いつまでもこんなC調野郎と
不倫してるわけにはいかないわよねぇ。そろそろ潮時かも知んないなぁ。)
何にしても、一年は遊べるお金は手に入れたのだから、と、彼女は彼を解放した。
※失礼タイトル入れ忘れた「ガラス玉のご利益」
(はぁ…。)
暮れなずむ街の雑踏。
ファッションビルの壁の大型モニターに映し出されたニュースに、人だかりがしていた。
画面には、海王星まで行く有人シャトルのパイロット達の紹介VTRが流れている。
そんなニュースには目もくれず、彼女はため息をつきながら足取り重く歩いて行く。
(本当はもっと踏んだくってやるつもりだったのに、あいつってば、
カミサマ何て下らない事て言うから、脱力しちゃったじゃない。
あいつらってば本当に身勝手で、いつも女が泣かされる。
男なんか、皆この世からいなくなっちゃえばいいんだ。)
「男何か…。」
「それはちょっと無理ですね。」
(え…?)
いきなりそう言われ、彼女はびっくりして顔を上げた。
眼前に、青い瞳の男が立っていた。
(あら、美形?。)
我ながら懲りないとは思う。だが、彼は彼女に微笑んでくれた。
「あなた、誰?」
「精霊です。」
(は?今度はセイレイのお出まし?冗談じゃないわ、きっと新手の新興宗教の勧誘だわ。)
そんなものにかかずらっているヒマはない。
彼女は彼を無視して歩き出した。
「ご用がないなら消えますが…?」
そう言って彼はついてくる。
(変なヤツ。消えられるもんなら、消えてごらんなさい。)
「では…。」
背後から人の気配が唐突に消えた。
振り向くと、あの青年は消えていた。
今まで、不倫相手に衣食住の全てを頼っていた彼女。
一年は遊んで暮らせる程のお金をもらったとは言え、
その後の事を考えるとのんびりもしていられない。
(一年も猶予があるんだもの。時間をかけて職を選ぼう。)
(金持ちで、いい男がいっぱいいる職場だといいな。)
今まで勤めていた会社には不倫の噂が陰で広がっており、
相手の男の退職によって自分が捨てられた女と見なされる事に我慢出来ず、退職した。
遊び半分で会社訪問を続けるうち、半年が過ぎた。
(そろそろ本腰を入れないとヤバイかな。)
だが不景気なせいか、なかなか雇ってもらえない。
志望する会社のランクが日に日に落ちて来る。
「楽してお金のとれる働き口、ないかしらねぇ。」
ベッドに座り込み、ため息とともに切実な想いをこぼした時だった。
「おまかせを。」
まるで、漫画に出て来る魔法使いのように何の前触れもなくあの青年が姿を表した。
「な、何よ、あなたっ!?人の部屋に勝手に入り込んでっ!!」
「お忘れですか?半年前にもお会いしたはずですが…。」
(そりゃ、あんな消え方されれば誰だって覚えてるでしょうよ。)
「僕はあなたが譲り受けられた、水晶の精霊です。」
(へー、さよで。)
「それで、あなたが何故ここにいるの?」
(セイレイだ何て、バカバカしい。
どうせ、くっだらない宗教の布教活動してるバイトのお兄さんでしょ。)
「僕は、玉の持ち主の願い事を、一日に一つだけ叶える事が出来るんですよ。」
(あ、そ。)
「それで、一日いくらかかるわけ?」
「いくら、とは?」
「お金よ。あんた、日給いくらなの?」
彼は少しムっとしたようだった。
「一つ願いを叶える事に、その人の寿命を一日頂いております。」
(何よ、それ。ずいぶんとバカにした答えね。)
「帰って。」
「は?」
「私、下らない事に付き合ってるヒマないの。帰ってちょうだい。」
「それは、無理です。」
「何でよっ。」
「願い事は一日一つ。あなたはすでに願い事を口にしてしまった。」
「はぁっ!?」
(そんな事、口にした覚えないわよ。)
その時、電話が鳴った。
相手は第一志望の会社の人事部長だった。
急に欠員が出来たので来てくれないか、というのだ。
もちろん二つ返事でOKした。
「ほらね。」
彼女が受話器を置くと彼は得意げに笑った。
「何よ。あなたがやったとでも?」
「もちろん。」
(よく言うわ。)
あきれる彼女の顔を見て、彼は続けた。
「今、不景気でしょう。企業は人の首を切りこそすれ、人員補充何て考えませんよ。」
悔しいが、彼の言う事にも一理ある。
(だってそのお陰でこの半年苦労したんだもの。)
「わかったわ。」
彼女は一応納得したという意思表示をすると、彼に帰ってくれるようにもう一度言った。
彼は少し困った顔をした。
「それが、帰れないんですよ。」
「何で?」
「それだけのエネルギーがもうないんです。」
「は?」
(見た所、五体満足で元気そうに見えるけど?)
「僕は、人が一日生きられるだけのエネルギーを使って願い事を叶えます。
願い事が大きいと玉の中に帰る力がなくなってしまうんですよ。」
(そう、あくまでもセイレイだって言い張るわけね。だったら…。)
「玉の中には帰れなくても部屋の外には出られるでしょう。」
「それも出来ません。」
「何でっ。」
彼女は少しうんざりして来た。
「願い事は、一つです。」
「だって玉の中に帰れないんでしょう?あんたを泊める何て出来ませんからね。」
彼は笑った。
「願い事としては叶えられなくても、僕の自由意志でなら外に出られます。」
彼はそう言って彼女に一礼すると外に出て行った。
「だったら初めっからそうすればいいじゃないのよっ。」
もう入って来れないよう戸締まりしようと入り口にかけよった時、またドアが開いた。
「あの…。」
「今度は何?」
「夜中の12時を過ぎたら『帰れ』とおっしゃって頂けませんか?そうしたら玉の中に帰れますから。」
「わかったわよ。」
「それじゃ…。」
ドアが閉まる。彼女は厳重に鍵をかけた。
もちろん、夜中の12時過ぎに『帰れ』と呟いてやった。
ドアを開けて外の様子を見る。通路は静まりかえっていて、誰もいなかった。
その後も彼はちょくちょく現れては下らない願い事を叶えて行った。
もっとも彼に言わせると、自分は願い事を叶えるのが仕事であって、
それを下らない物にしてしまうのは、願った本人の責任なのだそうだが…。
(どうせ私の願い事何てたかが知れてるわよ。ふんっ。)
さて、彼女は新しい仕事に就くにあたり、その会社の寮に引っ越したのだが、
どうもその部屋があまりよろしくない。
何がどうとは言えないのだが、何となく『嫌な感じ』がするのだ。
仕事の方でも小さなミスが重なり、上司に叱り飛ばされる毎日が続き、
日々、自信を無くしていく。
その日の朝も彼女は機嫌が悪かった。
昨日のミスの後始末をしなければならない事を考えると、気が滅入って、
出社拒否症に陥りそうだった。
「せめてこの部屋が、もう少し落ち着きのある明るい部屋だったらなぁ…。」
だからと言って、給料も待遇もいい今の職場を辞める気にもならず、彼女は重い足取りで出社した。
そして、その夜。
ワニがいた。
体調2メートル程のワニが、びっくりした顔で彼女を見上げている。
「…っ、きっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
自分の部屋の玄関口で、彼女は派手な悲鳴を上げて気絶した。
彼女が気がつくと、青い瞳が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
彼女の体はいつの間にかベッドに移動している。
「わっ、ワニっ、ワニはどこっ!?」
身を起こした彼女は彼を問いつめる。
「ワニ?あぁ、ローリー君ならバスルームにいますよ。」
(ろーりークン?)
どうやらそれがあのワニの名前らしい。
「ねぇ、何でワニがいるのよ。」
「今朝願い事をしたでしょう。この部屋がもう少し落ち着きのある部屋だったら、て。」
「それとワニと何の関係があるのよ。」
「ローリー君はワニではありませんよ、スィーパーです。」
「スリッパ?」
「違います、スィーパー。掃除屋何ですよ。この部屋は『泣き虫』という
下等な妖鬼が棲みついてましてね、ローリー君はそいつらを食べてくれるんです。」
変なヤツだとは思ってたけれど、ここまでとは思わなかったわよ。
「どうです、少しは居心地のいい部屋になったでしょう。」
なるほど、彼の言う通り、何となく部屋が明るくなった気がする。
「そうね、明るくなったのは確かだわ。」
「でしょう?ついでに部屋中の蛍光灯も全部換えといたんです。」
ノー天気に笑って言う彼に、彼女は何も言い返せなかった。
最近、彼の様子がおかしい。
前に比べ、態度がよそよそしいのだ。
願い事を叶えるにしてもやり方が乱暴で、中途半端なのだ。
いったいどうしたと言うのだろう?
彼女は『泣き虫』の退治以来、バスルームに棲みついてしまったローリー君に
そっと探りを入れてみた。
「ねぇローリー君、彼て最近変じゃない?何かあるのかしら。」
生温いお湯が大好きで、日がな一日バスタブに浸かっている
(もちろん、彼女が入る時には追い出されるが。)ローリー君は
かったるそうに薄目を開け、彼女を睨んだ。
「君て超常生物なんでしょ。人の言葉くらい、わかるわよね?」
「…。」
彼はうるさそうに低い唸り声を上げただけだった。
彼女はあきらめてバスルームを出る。
「何だかんだ言ってもワニはワニよね。」
文句を呟く彼女の背後でローリー君がまた唸る。
「うるさいわね。」
が、唸り方が尋常ではない。
「うるさいわねっ、寮母さんに見つかるでしょうっ!」
バスルームに戻るとローリー君がバスタブの中で暴れている。
「何だって言うのよ、いったい。」
彼はその短い4本の足でバスタブから這い出ると彼女の横をすり抜け
(彼としては)大慌てでバスルームを出て行った。
彼女はバスタブを覗き込み、何〜だ、となる。ぬるま湯の中に瀕死のゴキブリが浮かんでいたのだ。
それは超常生物のローリー君が唯一苦手とする生き物だった。
「ワニのくせに、情けない。」
瀕死のゴキさんを洗面器ですくい取り、排水溝に流す。
「これも寿命、二度と出て来ないでね。」
排水溝に向かって片手拝みをした彼女は、はっ、とした。
ガラス玉の精霊は『人が一日生きられるだけのエネルギーを使って
願い事を叶える』と言っていた。
その彼の落ち着きがない、という事は…。
「もしかしたら…。」
彼女はバスルームを出てローリー君を探した。
彼はキッチンの隅で小さくなっていた。
「ねぇ、もしかしたら私の寿命、後少し何じゃない?」
ローリー君は、黙って彼女を見上げた。
彼の様子から察するに、彼女に残された時間はかなり短いらしい。
そう言えばガラス玉を渡された時、あの不倫相手の顔が何となく嬉しそうだったのを思いだす。
「あいつ、余生をカナダで過ごすつもりで、移住する事を最後の願い事にしたんだわ。」
そして新しい宿主として彼女にガラス玉を押しつけた。
(という事は、あいつは二重に私を裏切った事になる。)
(そう、ならいいわ。私は私のやり方であいつに復讐してやる。)
(寿命が残り少ないからと言って、残りの人生を静かに過ごす、
何て思う程、私は殊勝な人間じゃない。)
「ねぇ、私の不倫相手の寿命を教えて。まだ死んでいないのでしょう?」
ガラス玉に問いかけると、彼が姿を表した。
「そうですね、後、2年程でしょうか。」
「私の方が先に死にそうね?」
「…。」
彼は黙って彼女を見つめるだけだった。
彼女は周到な準備をした上で、ガラス玉の彼に最後の願い事を告げた。
最初は首を横に振っていたが、玉の継承者が生命力溢れる人間であり、
残った生命を全て使ってでも…という彼女の強い希望で、渋々願いを叶える事を了解した。
彼女は有給を取り、海外にバカンスに出掛けた。
あの男を真似したわけではないが、生きてるうちにこの世を楽しんでおかねばならない。
バカンスの目玉は、海王星まで有人飛行をする、スペースシャトルの発射を現地で見学する事。
発射を数日後に控え、現地ではお祭り気分が盛り上がっていた。
当然彼女もそれに便乗し、最後の時を楽しむ。
(もうすぐよ。もうすぐあいつに仕返しが出来る。)
Xデーは目前に迫っていた。
彼はその日、たくさんのファンレターやプレゼントの中に、不思議な物を見つけた。
それは、紫色の巾着袋に入った小さなガラス玉だった。同封された手紙には
『日本で古くから伝わるお守りです。本当に困った時にだけ、願い事を告げて下さい。
あなたのファンより』
と走り書きされていた。
(東洋の神秘、か。)
彼は苦笑すると、それを気密スーツの内側のポケットにしまい込んだ。
「最終チェックが始まるぞ。」
仲間が呼んでいる。
彼は軽く返事をすると、控え室を出て行った。
数時間後、シャトルは発射された。
それを見送る人々の中に混じって、彼女は呟いた。
(女の恨みはどこにいたって届くのよ。そう、たとえ地球上のどこにいたとしても!)
彼女は自分を二重に裏切った男への復讐として、地球を消滅させる事を願ったのだった。
いつかシャトルの乗員は。故郷を遠く離れた者が誰もが呟く願い事を呟くだろう。
故郷に帰りたいと。
そして、一度消滅させられた惑星の再生は、どれ程のエネルギーを必要とするのだろうか。
天窓の向こう側
僕の家は、裏通りに面した、流行らないアンティークショップだ。
去年、飛行機事故で両親を亡くした僕は、この店を経営する
おじいさんに引き取られたのだ。
店に来たばかりのころ、僕は家の中で泣いてばかりいた。
あんまり長い間泣いてばかりいたものだから、愛想無しの偏屈で通っていた
おじいさんもさすがに心配になったらしい。
ある晩、店の屋根裏に案内してくれた。
ほとんど物置き場と化していた階段は、埃だらけで、ランプを持って先に上がって行く
おじいさんの足跡が、はっきりとわかる程だった。
階段を上り詰めると、ガラクタの積み上げられた小部屋に出た。
屋根の傾斜部分に切られた天窓からは、かすかな星明かりが差し込んでいる。
「ほら、見てみろ。」
おじいさんはぶっきらぼうに言って、ランプを僕に渡した。
「いいか、商品には触っちゃいかんぞ。それから、天窓も絶対開けちゃいかん。
約束さえ守れば、好きなだけここにいていい。わかったな?」
僕が黙って頷くと、おじいさんは先に寝る、と言って階段を降りて行った。
埃っぽい屋根裏で、天窓から見える星空を、一晩中眺めて過ごした。
星と星をつないで、好きな形に星座を作っていると、飽きなかった。
翌朝、屋根裏に上がって来たおじいさんは、僕がベッドに戻らなかった事に腹を立てていてた。
一応、僕の体の事を心配してくれているらしかった。
怒られながらも、僕は恐る恐る聞いてみた。
「もう、ここには来てはいけない?」
「…。好きにしろ。」
不機嫌そうに答えると、すぐに背中を向けて階段を降りていってしまったけど、
おじいさんは知っていたんだ。僕の友達が、天窓から見える星空だけだった、て事を。
ある時、僕はおじいさんに聞いた事がある。
「ねぇ、何故天窓を開けてはいけないの?」
丸メガネの奥の小さな瞳をしばたたかせ、しぶい顔をして答えたおじいさん。
「あそこの窓は、悪魔の国に通じているんだ。開けたらさらわれてしまうぞ。。」
「ふ〜ん。」
僕はとりあえず納得した振りをした。
数カ月が過ぎた。もう、僕の友達は星だけではなくなっていた。
店のある裏通り沿いに住む人々が、みんな友人だった。
近所の子供達はもちろん、野良猫や話し好きな小間物屋のおばさん、
コーヒーショップのお姉さんまでが僕の友達になってくれていた。
そして、もっかのところ、僕の一番の友達は、最近この街に引っ越して来たばっかりの、
大きなお屋敷に住む男の子だった。
彼は、裏通りのはずれにある、昔、貴族の想い人が住んでいたお屋敷に、
たくさんの使用人とお父さんとで暮していた。
お母さんは、病気で亡くなったそうだ。
彼と友達になれたのは、糸の切れた凧のおかげだ。
何故って、その凧が彼の家の庭に落ちなかったら、僕達は出会わなかったのだから。
そう、凧を取りに彼の家の裏庭に忍び込んだ時、二階の窓から彼が声をかけてきたのが
最初だった。
「そこで何してる!」
「あ、凧を取りに…。」
声に驚いて二階を見上げた僕に、彼は言った。
「さっさと出てけ!!」
「言われなくても出てくよ。」
そう言って裏の通用門から出て行きかけ、ふと二階を振り返ると、彼はまだこっちをみていた。
なんとなく、寂しそうな瞳をしていた。
「ねぇ、一人なの?」
「関係ないだろ!」
「僕、友達になるよ? ねぇ、遊びに行ってもいい?」
数カ月前、誰一人友達のいなかった自分を思い出し、なおも聞いてみる。
「いいよ。友達なんかいらない。一人の方がいいんだ。」
僕はすぐさま言い返した。
「うそつきっ!。本当は、すっごく寂しいくせに!!」
「寂しくなんか、ないっ!!」
そう叫んだとたん、彼は激しく咳き込んだ。
「だ、大丈夫?」
心配になって聞いたけど、窓はバタンと閉められてしまった。
「またくるよ。」
その声は、たぶん、彼には届かなかっただろう。
数日後、彼の事を忘れかけていた頃、お屋敷から使いの人が来て、
今日のティーパーティーに僕を招待したい、と言って来た。
正式な招待におじいさんはびっくりし、あわてて僕の着替えを手伝い、
早口にパーティーでの作法をまくしたてたけど、僕は呆然としてしまっていて、
ほとんど聞いてはいなかった。
彼の家につくと、庭に案内された。すでに準備が整えられ、
彼と彼のお父さんがにこやかに出迎えてくれた。
パーティーは楽しいものだった。
大きな街から呼んだ楽士の奏でるおもしろい音楽を聞きながら、
珍しいお菓子や香り高いお茶を、お腹いっぱいに詰め込んだ。
彼のお父さんは終始にこやかで、僕にとても気を使ってくれた。
パーティーが終わり、お礼を言って帰ろうとした時、門前で彼のお父さんに呼び止められた。
お土産の菓子折りを渡されながら、そっと囁かれた。
「また、遊びに来てやってください。」
それから僕は、毎日のように彼の部屋に遊びに行った。
彼は博学で、変わった事や不思議な物語りをたくさん聞かせてくれた。
もちろん、たまにはケンカもした。
彼はとてもわがままで、自分の思い通りにならないと、癇癪を起こす。
僕もけっこう気が強いので、そんな時はさっさと帰ってきてしまうのだ。
でも、一晩寝ると、ケンカした事も忘れ、いつもの時間に彼の部屋で笑い合っているのだった。
そして記念日が近付いてきた。
初めて屋根裏で見た星空の感動を、一生忘れないように、と、僕が決めた日。
この日を最高のものにしようと、僕はある計画をたて、ここ数日、準備を続けてきた。
計画。それは、あの天窓からの眺めを、彼にも見せてあげること。
彼は夕食が終わると、薬を飲まされて眠らされてしまうので、ここ数年星を見た事がないという。
あんなにキレイなものが見られないなんて、かわいそうじゃないか。
記念日も間近になったある日、計画を打ち明けると、彼はものすごく喜んでくれて、
二人で細かい打ち合わせを練っていった。
記念日の夜。
僕は数人の友達の手を借りて、屋敷の裏門から彼の部屋窓の下にはしごを持ち込み、
立て掛けた。彼は、起きているだろうか。それとも…?
小石を窓に投げて合図をすると、彼が顔を出した。僕はほっとした。
体が大きくて力持ちの友達がはしごに登り、彼を背負って降りてきた。
僕は自分のよそ行きの靴を彼にはかせる。屋敷の人達にバレないよう、静かに裏門をでた。
早足で歩き、裏通りの四ツ辻にさしかかる。脱出は成功した。
彼は協力してくれた友人達へのお礼にと、菓子のたくさん詰まった袋を渡した。
この、ちょっとした冒険に参加できた事がうれしいらしく、
彼等はニヤニヤしながら袋を受け取り、それぞれの家へ帰って行った。
「さぁ、行こう。」
僕は彼の手を引いて、ゆっくりと歩き出した。
小さなその手は熱く、汗ばんでいた。
「大丈夫? 手、熱いよ。熱、出てきたんじゃない?」
すると彼は思ったより元気に答えた。
「平気さ。いつもの事だもの。それより、夜の道て静かだね。」
大きな街と違い、この辺は街灯もなければ遅くまでやっている店もない。
ただ、月と星明かりに照らされた、黒い、寂れた街のたたずまいがあるだけだ。
こういうの、何というのだっけ?
この世のものとも思えない、妖し気な静けさの事を、何とかというのだと、
彼に聞いた事がある。ああ、そうだ…。
「セイヒツ、だね。」
「そうだね。大昔の騎士達は、こんな静謐の中に潜む妖かし達と戦ったんだろうね。」
僕はそのアヤカシ達が、今にも姿をあらわすのではないかと、ふと怖くなって、少し足を速めた。
アンティークショップに近付くと、店側の入り口をそっと開けた。
裏口からだとおじいさんに気付かれてしまうので、店の出入り口から抜け出してきたのだ。
静かに入るよう彼に合図し、店の奥へと忍んで行った。
屋根裏へと続く階段に積まれた空の箱に、ランプを隠しておいたのを取り出し、
静かに灯を入れる。小さな灯りの中に、足跡がたくさんついた階段が浮かび上がる。
彼を促して、先に階段を登って行った。中程まで上がった時、変な気配を感じて振り向いた。
「どうしたの?」
彼は肩で息をしていた。
「辛いの?」
彼の家からは5分程歩いただけなのに…。
「…。久し、振りなんだ。」
息をつきながら、彼は答える。
「こんなに、歩いたの。」
「大丈夫?」
心配になって聞くと、彼は大きく頷き、先に進むよう手で合図した。
屋根裏につくと、埃の匂いが僕達を迎えた。
昼間のうちに用意しておいた踏み台に彼を座らせ、肩からケットをかける。
僕はその隣の床に膝を抱えて座り込んだ。
「この部屋の空気、乾いているね。」
「アンティーク屋の物置きだからね。埃がすごいのさ。」
ランプを消した。
「…!」
天窓を見上げた彼の感嘆の溜息が聞こえた。
しばらく星空に見入っていた彼が次にしたことは、眼前に広がる星座達の物語りを、
一つ残らず語りつくす事、だった。
僕は少し心配になった。
確かに彼は普段からおしゃべりではあったけれど、これほど早口にまくしたてたのでは、
途中で息が続かなくなってしまうのではないか、と思われたのだ。
それに、顔色の悪さも星明かりのせいだとばかりも言えないような気がした。
「ねぇ、大丈夫?」
話を遮られ、彼はすごい目で僕をにらんだ。
「顔色悪いよ。やっぱり、家に帰った方が…。」
「いやだっ!!」
激しく首を振る。機嫌を損ねてしまった友人を前に、途方に暮れて天窓を見上げた。
夜空では、彼に語ってもらうのを待つかのように星座がまたたいている。
その時僕はある事を思いついた。
「窓を開けよう。」
「え?」
「この窓、一度も開けた事ないんだ。おじいさんにダメだ、て言われてたから。」
「何で?」
「悪魔が入ってくるんだってさ。ウソに決まってるのにね。」
「悪魔だって? 今時誰も信じちゃいないのに。」
悪魔はウソだろうが、他に理由があるのだろう。でも、そんな事にかまうことなんかない。
ただ窓を開けるだけなのだから、大した事にはならないだろう。
部屋の隅から踏み台代わりに朽ちかけた材木を引っ張ってくる。
それに登って天窓の取っ手に手を伸ばした。胸が高鳴る。
だって、初めて開けるのだから、少しはドキドキだってする。
左右の取っ手を回し、そっと窓を押し開いた―。
夜風が部屋の埃を舞い上げる。それを吸い込み、
咳き込んだ僕は新鮮な空気を吸おうと、窓の外に身を乗り出し、息をついた。
彼は…?
あわてて振り向くと、やはり埃を吸い込んだらしい彼が、前のめりになって、
床に突っ伏しているのが見えた。
大変だ!!
僕はあわてて彼の側に戻り、また埃を吸い込んでしまった。息が苦しい…。
外の新鮮な空気を吸わせようと抱きかかえたが、彼はすでにぐったりしていた。
咳き込みながらも、大丈夫? と声をかけ続け、天窓まで彼の体を引きずって行く。
「もう少しだから、ね。」
窓の縁に彼の上半身を押し上げた時、僕は気付いた。
あ…。
彼は、息をしていなかった。
力を無くした彼の体は、まだ暖かかった。
僕は、音のしなくなった彼の胸に耳を当て、星明かりにちらちらときらめきながら、
床へと沈んで行く埃達を、ただ、眺めていた。
澄み渡った空気の冷たさに、我に返った。
外を見ると、家々の間の空が白み初めている。
何だか、階下が騒がしい。階段を駆け上がる音。
そして、彼のお父さんが現れた。
僕達を見つけた瞳が、一瞬大きく見開かれる。
でも、すぐに目は閉じられ、何かを振払うように首を振り、
胸の前で十字が切られた。
おじいさんは黙って支度を手伝うと、僕を葬儀へと送りだした。
誰も、非難がましい事は言わなかったが、周りに沈黙される事で、
いやでも自分の「非」を自覚させられた。
柩に花を手向けた僕に、彼のお父さんは優しく声をかけてくれた。
「ベッドの上で果てる事は、彼の男としてのプライドが、許さなかったでしょう。
君は、彼とともに戦ってくれた、最高の友人だ。ありがとう。」
僕の瞳から涙があふれ、嗚咽がもれた。
彼のお父さんは、幼い子供をなだめるように、僕を抱きしめてくれた。
葬儀から帰ると、店の入り口に臨時休業の張り紙が張られていた。
どうしたのだろう、と覗いて見ると、店内は、天窓から吹き込んだ風のせいで、
埃だらけになっていて、おじいさんが一人で大掃除をしていた。
僕は、窓を開けてはいけない本当の理由を知ったのだった。
「初めっから言ってくれればよかったじゃないか。」
そうすれば、こんなことにはならなかったのに…。
でもそれは、今さら言っても仕方のないことだけれど。
怒る僕に、おじいさんは口の中で小さく言い訳をする。
「骨董屋の屋根裏は、埃だらけ、てのが相場、てもんだ。」
それは、アンティークショップの親父としてのポリシーだろうけど、
本当のところは、掃除をするのが面倒なだけで、その事を言われないよう、
窓を開けるな、と言ったのだろう。
おじいさんの無精のせいで、僕は大切な友達を亡くしてしまった。
でも、彼だったらこういうだろう。
「ホコリという名の使い魔が、カゼという名の悪魔の命で、
気高き魂をさらいに来たのさ。」
僕は、彼にささげる冒険物語を、今はきれいに掃除された屋根裏で、書き綴る日々を送っている。
深 山 の 鬼
春まだ遠い二月の飛騨。山中の林道を歩くスキー客がいた。
「先輩、まだですかぁ…?」
少し先を歩く背中に向かって、ピンクのウェア姿の紅葉が声をかける。
「もう少しよ、もう少し。」
そういう華子も息が乱れている。
同じ会社に勤める二人は、有給を利用して、華子の知人が経営するという
スキー場近くのペンションに行くことにしたのだ。
山の中腹にあるというその目的地を目指し、二〜三時間は登り続けているのだが、
いっこうにたどり着く気配はない。
「先輩、少し、休みま、しょう!」
そういって紅葉は濡れる心配のないスキーウェアを着ているのを幸いと、
道端の雪の上に座り込んでしまった。
「仕方ないわねぇ…。」
華子も前進をあきらめて腰を下ろそうとした時、何かと目が合った。
「キャァーッ!?」
林の中から鬼が出てきた。
いや、鬼がマタギの格好で山菜の入った竹のカゴを持ってるはずはないから、
正確に言えば、鬼の面をかぶった人だった。
鬼は女の悲鳴と二人の赤やピンクのカラフルなスキーウェアにびっくりしたらしい。
「この山に入るな!鬼に食われるぞ!」
面の向こうから野太い声で怒鳴った。
華子も負けずに怒鳴り返した。
「何よ、あんた!?」
「地獄の門番だ。」
「へ!?」
鬼の面をつけた男はそういって、また林の中に姿を消した。
「地元の人間が、観光客に言うセリフ?失礼しちゃうわね。」
華子は呆然と座り込んだままの紅葉に手を貸して立たせる。
「大丈夫?あんなの、気にすることないわよ。」
いきなり怒鳴られて怖かったのか、半ベソをかく紅葉を促して、華子はまた歩き出した。
それから一時間ほどして、二人はようやく目的地に着いた。
山の中腹を切り開いたところに、ロッジ風の建物が数軒点在している。
二人が一番大きな建物の呼び鈴を押すと、オーナーらしき人が出迎えてくれた。
「お世話になります。」
と頭を下げてから紅葉の顔が、あれ?、となった。
「鈴原課長?」
入り口には、去年の夏に退職した元上司がいた。
確か、一身上の都合で奥さんと一緒に田舎に帰ったとか聞いていたが…。
(そうか、ペンションやるんで会社辞めたんだ。)
「驚いた?まだ営業前なんだけど、リハーサルをやりたいからって、呼ばれたの。
もちろん、ただで泊まらせていただけるんですよねー?」
華子がいうと、オーナーは苦笑まじりに答える。
「その代わり、ちゃんと口コミで宣伝してくれよ。」
「はーい、わかってまーす、あ…。」
奥からもう一人女性が現れたのを見て、華子は黙り込んだ。
「ああ、紹介しよう、家内の百合子だ。」
「すみません、わざわざ遠いところをおいでいただいて…。」
そういって頭を下げる。課長と同年代には見えない、きれいな人だった。
二人の荷物を受け取り、ロッジ内へと導く百合子。
「あ、いえ。私達、遊びに来たんですから。ね、先輩?」
「え、ええ。そうね。そうですよ。遊びに来たんですから、大丈夫です。」
ちぐはぐなあいさつを返す華子。
紅葉は以前にお酒の席で、課長に養女にならないかと冗談で言われたことがある。
奥さんが子供を産めない体だと知ったのは、ずっと後のことだったけれど。
「もう一人スタッフがいるんだが、今ちょっと手が放せないらしくてね、後で紹介しよう。
ところで、ここまで来るのに大変だったんじゃないかね?」
「ええ、この寒いのに汗だくで登ってきましたわ。」
「そうか、じゃ、家の自慢の風呂にでも入って、汗を流して来なさい。」
「そうさせていただきまーす。」
二人は百合子の案内で、着替えや入浴セットを手にロッジ地下の温泉に行った。
「各ロッジにもシャワー室はあるんですけど、ここはリラクゼーションを目的に作りました。」
「わー、湯気で真っ白ー。」
脱衣所のドアを開けると湯気で視界が遮られた。
「足元に気をつけて下さいね。」
背後から百合子が声をかけてくれる。
ゆっくり浴場に歩を進めて行くとだんだん目が慣れて来て全体を把握する事が出来た。
大谷石の壁にかけられたランプの光が仄かに湯殿を照らし出す。
仄暗い中で湯に浸かってみる。湯気がより幻想的な雰囲気を醸し出す。
「なんか、不思議なお風呂ですねー。」
何だか気が遠くなって、現実に戻れなくなってしまうような気がする。
心地良い眠りに誘われそうになったその時、華子が息をのんだ。
「も、紅葉?」
「何です、先輩。」
紅葉の間延びした返事とは裏腹に、華子の表情は凍りついていた。
「あれ、なに?」
「へ?」
紅葉が華子の指さす方を見る。湯気の向こうで、黒い影が揺らめいていた。
あれは、人…?
だが、その頭の部分には、二本の突起らしき物があった。
(鬼…?)
林道で出会った鬼を思い出す。
「ぎゃぁーっ!?」
リラックスしていた所で急に驚いたせいだろうか、二人はそのまま気を失った。
( ん、んん …)
「気がついた?」
「ここは…?」
紅葉が目覚めると、洒落た洋風の部屋のベッドに寝かされていた。
「私等のロッジ。」
「え…、あ、鬼!鬼は?」
ベッドの上で飛び起きた紅葉を見て、華子は微笑った。
「そんだけ元気があれば大丈夫ね。鬼から招待状が来てるの。」
「は?」
とにかく行けばわかる、というので、身支度もそこそこに紅葉は華子に言われるまま
オーナー夫妻のいる隣のロッジの食堂にやってきた。時刻は夜の八時を回っている。
「もう、お腹ペコペコよ。」
昼過ぎに麓の食堂で食事をして以来、お茶すらしていない二人だった。
出されたのは、山の幸を中心に使ったコース料理だった。
(あ、おいしい…。)
普段少食の紅葉さえ、全ての皿を空にした。
「やっぱり空気がおいしいと、食欲も出るのよね。」
華子はロールパンをおかわりしている。
食事も終わり、それまで厨房を手伝っていたオーナー夫人が新たにワインを運んできた。
給仕をしていたオーナーも、エプロンをはずして水割りを飲み始める。
(あれ…?)
夫人の後ろから、料理人の白衣に身をつつんだ背の高い男が出てくる。
まだ若いその男は、二人の前に来ると頭を下げた。
「すいませんでした!」
「な、何ですか?」
紅葉は目をパチクリさせて彼を見る。
「彼が鬼の正体よ。」
と華子。
「えー!?」
オーナーが笑って後を続ける。
「家内の甥でね。鷹也君。うちの料理人兼、雑役さんだ。さっきは風呂場の排水溝の
最終チェックをやっていたんだが…。」
「すいません、料理の材料取るのに手間どってしまって、風呂場の方、遅くなっちまったんです。
俺、何も見ていませんから!目、つぶってましたから!」
気絶した紅葉を、悲鳴を聞いてかけつけた夫人の指示で彼に背負わせ、
彼女達のロッジに運び込んだのだという。
「だからいつも言ってるのよ、お面なんかかぶって歩くのやめなさい、て。」
夫人が彼を責める。
「はぁ…。」
「じゃぁ、ここに来る時会ったのも、お風呂にいたのも、あなたなの?」
彼がうなずく。
「本当にすいませんでした。」
また頭を下げる彼に、紅葉は言った。
「もういいです。私、気にしてませんから。」
「怒られないでよかったな、鷹也君。」
以降はそれぞれが酒を片手の歓談となった。
531 :
野良猫アプロ ◆rOPqiXeyuw :2009/10/07(水) 22:09:15 ID:XK8A+Vea
オーナーが退社して以後の社内の様子やペンションをやるにあたっての苦労話などが語られた。
そして十一時を過ぎる頃、紅葉と華子は鷹也に送られ自分達のロッジへと帰って行った。
人の気配に紅葉は目覚めた。体を起こそうとした動きが止まる。
「…っつつ…。」
二日酔いだ。しばらくしてクラクラするのをこらえて起き上がる。
隣のベッドはカラだった。
(華子先輩…?)
ロッジの扉が閉まる音が微かに聞こえた。
(外に出た?)
一人でどこに行くのだろう…?
紅葉はあわてて身仕度を整えると、華子の後を追った。
(寒い…!)
山の中、早朝の空気が肌を刺す。
アノラックの襟をかきあわせ、華子の姿を捜す。
(いた!)
本館のロッジの横を裏に抜けていくのが見えた。
でも、何か様子が変だ。辺りをうかがうように歩いていく。
紅葉は気づかれないよう後を追った。
ロッジのある中腹から、上へと向かう華子。
(あれ…?)
彼女の前方を、オーナー夫人である百合子が歩いていく。
どうやら華子は彼女を追っているらしい。いったいどういうことなのだろう?
やがて百合子は自家栽培の畑につき、野菜の収穫を始めた。
華子は畑を囲む柵の入り口の側に身を潜めた。
(え、あれって…!?)
華子が上着の下から何か取り出した。
朝の光を受けて、一瞬きらめく刃先。
(包丁!?)
532 :
野良猫アプロ ◆rOPqiXeyuw :2009/10/07(水) 22:09:57 ID:XK8A+Vea
その時、華子が百合子に包丁を向けて走りだした。
紅葉の口から驚愕の悲鳴がもれ、それに気づいた百合子が振り向く。
目を見開く百合子。
「やめろーっ!!」
先に畑ら来ていたらしい鷹也が華子の前に立ち塞がった。
「どきなさい!でないとあなたも…。」
彼は振り回される包丁を機敏によけると、華子の手首をつかんでその動きを止めた。
「ばかやろう!こんなことしたって、何にもなりゃしないんだ。来い!」
「何すんのよ!」
彼は華子の手から包丁を取り上げると、菜園から引きずり出し、そのまま山の上へと登っていった。
「ありがとう、紅葉さん。あなたが悲鳴を上げてくれなかったら、私、死んでいたかもしれないわ。
でも、もう大丈夫だから、後は鷹ちゃんにまかせて、ロッジへ帰りましょう。」
道端に腰を抜かして座り込んでしまった紅葉の肩を抱き、百合子はそっと促した。
「放しなさいよ!どこにも逃げやしないわよ!」
だが鷹也は、黙ったまま彼女の手を引いていく。
既に人の通う道は途切れ、踏み固められた獣道をさらに登り詰めていく。
やがて頂上に程近いところに、小さな社があらわれた。
いまにも崩れそうな、古い社の前で彼は立ち止まると、彼女を開放した。
「たく、もう。馬鹿力なんだからっ。」
赤くなった手首をさする華子。
彼は社の扉を開け、彼女にその中を見るように言った。
「ここに、人を食う鬼がいる。」
「あっ!?」
そこに、鬼がいた。
533 :
野良猫アプロ ◆rOPqiXeyuw :
(鬼…。)
だがそれは、鷹也がいつもかぶっていた鬼の面だった。
「やだ、お面じゃない。」
「違う、面をどかしてみろ。」
言われるままに面をずらすと、その下から御神体の鏡が出てきた。
華子の顔が映る。
「今のあんたの顔とこの鬼の面。たいして変わらんだろう?」
「い、いくらなんでも、失礼じゃなくて?」
だが、その非難の声には力がない。
「鬼は、人の中に棲む。普段は出てこないが、悪い心を持つと人は鬼に変わってしまう。
あんた達と最初に林道で会った時、あんたから殺気を感じた。
あの時、本気で追い返しておけばよかったよ。」
「…。」
「そんなにオーナーが好きか。」
「!?」
「夜中に百合子伯母さん達と揉めてたろう。」
「盗み聞き?あの時に殺っとくんだったわ。あの女を。」
華子の頬が鳴った。
「何すんのよっ、ひっ!!!」
首筋に包丁が当てられた。
「人を殺す、てのはこういう事だ。人が死ぬ、てのはこういう事なんだよっ!」
その場に崩折れる華子。
「…課長の子が欲しかった…。私なら課長の子を産んであげられるのに…。」
「オーナーの子ならいたよ。」
「え…。」
「病気で亡くなったがな。最初の子が帝王切開だったんで二人目は作らない方がいいと
医者に言われたらしい。百合子おばさんは子供を欲しがったがオーナーがOKしなかった。」
「知らなかった…。」
「他人に話す事でもなかろう。」
「他人…そう、他人ね…。」
「どんな分けがあるにしろ、人を傷つけるなんて、やっちゃいけない。
人の中の鬼は、相手ばかりじゃなく、自分の心も傷つけてしまうんだから。」
「…しばらくここで一人にして…」
「ダメだ。」
「何で!」
「ここは神聖な場所だ。昔は女人禁制の場所だったしな。
泣くならロッジの暖炉の前で泣け。ここは寒過ぎる。一人で眠るならなおさらな。」