【三題使って】 三題噺その2 【なんでも創作】

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681潜水士・宮殿・スカイダイビング 1/4
 むかし、あるところに、潜水士がいて、と後席の相棒が口を開いた。
「そいつは三年も陸に帰っていなかったそうだ」
 視界はクリア。青い空は澄み切っていて、ゴーグルをしていても
目が眩むようなまぶしさだった。。
「その潜水士は三年も海の上にいたが、一度も陸に帰りたいとは思わなかった」
「変わったやつだな。おれだったら、気が狂うよ」
 独白のような相棒の物語りに、聞いていることを示すために相槌をうつ。
「そう。潜水士は同僚からもそう思われていた。
 他のやつらが陸に残してきた家族や恋人のことを話し、
 早く帰りたい、とため息をつくたびに、潜水士は冷めた目で同僚たちを見ていた」
「そいつには陸に会いたい人間がいなかったんじゃないか? だから平気だった」
「いや、そういうわけじゃないんだ。その潜水士には、故郷に父親と母親、
 それに姉が一人がいて、ひと月にいっぺんは家族から手紙がきた。
 家族は潜水士のことを心配していたし、愛していた。潜水士の方も、それは同じだった」
「だったら、どうして?」
 投げかけた問いがヘルメット内に装着されたマイクロフォンを通って、
無線信号になり、飛行機の後席に伝わっていく。
 返事がない。
「おい?」
 首を捻じ曲げて後席を見る。聞こえるのはかすかな呼吸音。
「あ、悪い。ちょっとぼうっとしていた」
「しっかりしろよ」
 ふたたびヘッドセットを通じて相棒の声が戻ったことに安堵して前を向く。
 敵機の影はもちろん、雲ひとつない。

「えっと…どこまで話したんだったか」
「潜水士には故郷に愛する家族がいたが、帰りたいとは思っていなかった」
「そうそう、そうだった。なぜ、潜水士は陸に、家族のもとに帰りたいと思わなかったか。
 それは、潜水士は陸よりも海が好きだったからだ。正確には海の底が」
「なんだ、単純だな」
「そう。単純明快だ。潜水士は自分がいつの日か死ぬのだったら、
 故郷の家の日差しの匂いのするベッドの上ではなく、
 いまだかつて誰もたどりつけなかった深海で死にたい、そう決めていたんだ」
「単純明快だが奇矯きわまるな。おれは、そんなところで死ぬのは御免だ」
「しかし、人は宇宙に行けるようになったが、
 海の本当に深い所にはまだ行くことはできないと言われている。
 誰も行ったことのない所に行ってみたい、というのはお前も、分からなくもないだろ?」
「まあね」
 その気持ちは分かる。だからこうして空を飛んでいるのだ。
 キャノピ越しに誰もじかに吸うことのできない大気が震えている。
 薄水色から限りなく黒に近い群青までの無限のグラデーション。
 光と、大気。それしかない。
 人間は留まることのできない世界。
 孤独で空辣な世界。
682潜水士・宮殿・スカイダイビング 2/4:2010/05/04(火) 04:11:04 ID:AkENxvVw
「ともかく」めいめいの思いに沈んだ静寂から抜け出て、相棒が語りだす。
「潜水士は来る日も来る日も海に潜り続けた。
 光もなく音もない海の深みで、潜水士はいつもふしぎな幸福感で満たされていた」
「おれは海に潜ったことはないが、それはきっと、
 水で満たされた大きな青いガラス瓶の底にいるような気分だったろうな」
「なんだ? それは」
「小さい頃、よくそういう遊びをしたんだ。窓辺に水を入れたガラス瓶を並べて、
 小川で獲ってきた小魚とかゴム人形なんかを入れてさ。
 おれだけの小さな世界っていう感じがして、日に透けるときれいだった」
「ふうん」相棒が笑いまじりの鼻息をついた。
「お前はなかなか、ロマンチストだな。しらなかった」
「そいつはどうも」
 お礼がわりににエルロンを使ってバンク。軽く翼を振る。
 大丈夫、舵は生きている。
「おい、揺らすなよ」
「悪い。で? 潜水士はどうなった?
 ずっと海の底で幸せに暮らしましたとさ、とはいかないんだろう?」
「ああ。幸せな日々は長続きしない。この世界の定石だ」
「続けろよ」

 潜水士はある日、大深度まで潜ることになった。
 いつものように潜水服に酸素ボンベ、それにケーブルを付けて海へと降りる。
 自分の吐きだす空気の泡がヘルメットの窓のむこうを滑っていく。
青緑の視界がしだいに暗くなり、ゆらゆらと頭上に射していた光が遠のいていく。
潜水士はその光景を、下へ下へと沈みながらうっとりとして見ている。
 地上とのつながりは命綱のケーブルだけ。一たび海底に降り立った後は、急な減圧にやられないよう、
ゆっくりと時間をかけて浮上する。長く海底にいられるこの仕事が、潜水士は好きだった。
 やがて足が海底につき、白い砂が潜水士を歓迎するように舞い立った。
白い砂がつづく海の底は砂漠のようで、そこには山もあれば谷もあることを潜水士は知っていた。
 頭上を見上げると、命綱のケーブルが臍の緒のように海中を漂っていた。
 だれもいない。
 そして、いつものあの静かな安堵感が潜水士をつつみこんだ。

 潜水士はそれから黙々と作業をこなした。
 聞こえるのは自分の呼吸音と耳の中で響く、潮騒にも似た脈の音だけ。
潜水士はふと、自分の耳が貝殻になって、いつか昔に聞いた、海鳴りが聞こえているのだ、
と想像して、ひとり笑みを漏らした。
 いつか家族で出掛けた海水浴場。姉と競って拾った貝殻からも、こんな音がしていた。
あの貝殻はどこへいったっけ…
 そんなことを考えているうちに、作業も終わり、引上げの時間になった。
 しかし、待てども命綱からの合図がこない。手をのばして命綱をひっぱってみる。
暗い水中に漂うケーブルは、細く、たよりなく、
まるで天から垂れた蜘蛛の糸を手繰っているような心地がした。
船から降ろされた命綱をひっぱっているなら、身体はそちらへ引き寄せられるはずなのに、
一向にその感触はない。潜水士は異変に気づいていたが、それでもケーブルを手繰ることをやめなかった。
 そして、手繰り寄せたケーブルの先。
 それは、引きちぎられたように途切れていた。
683潜水士・宮殿・スカイダイビング 3/4:2010/05/04(火) 04:12:41 ID:AkENxvVw
 途切れた命綱を見て、潜水士はなんとか自力で浮上しようとしたが、酸素ボンベの残量を見て、悟った。
 ここが、おれの死に場所だ、と。
 もう浮上するためにかかる時間分の酸素は残っていなかった。
 ここで死ぬんだ。
 どんなに叫んでも、地団駄を踏んでも、もう取り返しはつかない。
 自分は、あともう少しで、死ぬ。
 その現実が、陸の上のすべての現実から一番遠かった海底で、
胸を焼くような痛みをともなって潜水士にせまってきた。
 思えばそれが望みだった。死ぬのなら、陸ではなく海で死にたい、と。
そう思っていた。そう思っているのに、どうしてこんなに身体が震えるのだろう。
 潜水士は深く息を吸い、空気が彼の体内をめぐった後、吐き出されて水面へと昇っていくのを眺めた。
 海中に、腰から伸びた、どこにも繋がらない命綱が漂っている。
 もう必要ない。
 潜水士はケーブルをはずして海底を歩きはじめた。

 潜水士はなぜ自分が海底を歩いているのか分からなかった。
 自分は死の恐怖から錯乱しているのかもしれない、と潜水士は思った。
海の底で死に瀕している自分を、どこからか別のもうひとりの自分が眺めている。そんな気分だった。
 ふいに、家族の顔が思い浮かんだ。そして、次々に知り合いの顔や、同僚たちの顔も思い浮かんだ。
故郷の家の暖炉や食卓のテーブルについた傷。慣れ親しんだ船の入り組んだ通路や狭い二段ベッド。
 遠ざけていたはずのものを、こんな時に思い出すなんて。  
 いつのまにか恐怖は去り、潜水士の胸の内には平らかな安らぎが訪れていた。
 
 真っ暗に澄んだ視界の中、潜水士は海底を歩き続けた。そのうちに、前方が明るくなってきた。
 こんな深海に太陽の光が射すわけはないし、救助にしては早すぎる。
訝しく思いつつも、足はその明りの方を目指して進んでいく。
 そして現われたその光の源は、一軒の家だった。

 潜水士はしばらく茫然としてその家を見ている。
 暗闇の中、窓からは柔らかい灯りが漏れて、海底の白砂に十字の窓枠の影を落としている。
まるで夕暮れをすぎた街角のような景色だ、と潜水士は思い、その瞬間、気づいた。
 これは、故郷の自分の家だ。と。
 やや煤けた白壁に緑色の切妻屋根。錆の浮き出た郵便受けの壊れたままの赤いフラッグ。
パズルのピースが嵌まっていくように、目が一つ一つの品物を思い出して行く。
 潜水士はふらりと窓に歩み寄ると、中を覗いた。
 部屋の中にはランプが灯り、暖炉に火がくべられて、暖かそうな光がゆらゆらと瞬いていた。
食卓には食器が並べられ、旨そうなスープが湯気を立てていた。
 食卓についている三人の人物は、今しも食前の祈りをささげているようだった。
父親は皺だらけの骨っぽい手を組み、母親はつつましやかに顔を俯けて、
姉は亜麻色の髪がかかる頬にかすかに笑みをうかべて、瞼を閉じていた。
その三人の傍らに、ひとつ、誰かが帰るのを待っているかのように食事の用意がされた空席があった。
 ああ、と潜水士はため息をつき、そして、笑った。
 おれは帰って来たんだ。
 そうして潜水士は扉の前に立つと、懐かしい我が家の扉を開き、帰っていった。
684潜水士・宮殿・スカイダイビング 4/4:2010/05/04(火) 04:15:13 ID:AkENxvVw
「それで?」
「それでって…これで終わりさ。続きはない」
「……」
 あっさりと言い切る相棒に、腑に落ちないと無言で抗議する。
そもそも―
「そもそも、おかしいじゃないか。海の底で人知れず死んだはずの
 潜水士が見たものを、どうしてお前が語ることができる」
「痛いところを突いたな。だからこれは、作り話なのかもしれない」
「お前が作ったのか?」
「いや、誰かから聞いたんだったと思う。誰から聞いたのかは、忘れた」
 潜水士が海底で見た我が家はいったい何だったんだろうか?
幻覚か。陸ではなく海で死にたいと願った男はなぜ、今際のきわに我が家の幻を見たのか。
男はどこへ帰っていったというのか。
「どうする」
 相棒が突然声をかけてきた。
「何が」
「まだ、助かるかもしれないんだろう」
 ああ、こちらの話か。燃料計に目をやる。
「下が山でなければ、不時着も可能かもしれんが、それは雲の下に出てみないとわからない」
「現在位置は」
「不明。戦闘でレーダーがいかれちまった」
「ちくしょう。撃ったんなら…きちんと墜としていってくれ」
「まったくだ」
 偵察任務のあと、敵機に遭遇した。相手も一機、こちらも一機だったが
こちらは戦闘には向かない二人乗りの偵察機。
 撃った後、上空を一回旋回して、空の彼方へと消えていった。
反転して去っていく敵機の、光る銀色の腹が目に焼き付いている。
「あとは、二人してスカイ・ダイビングと洒落込むか、だ」
「いや」
 相棒は苦しそうに鼻から息を漏らして言った。
「やめておこう」
「なぜ」
「もう、目が見えないんだ。お前だけで行け」
「では、おれも、やめておこう」
「どうして」
「お前には黙っていたが、実はおれは」言葉を切って、目を閉じる。
「高いところが怖いんだ」
 沈黙。ややあって相棒は喉を鳴らして笑った。
685潜水士・宮殿・スカイダイビング 5/4:2010/05/04(火) 04:16:27 ID:AkENxvVw
 やがて高度が落ちて行き、雲の中に潜る。機体が揺れる。雲の中は真っ白でなにも見えない。
「なあ、おい」後ろで相棒が言う。
「なんだ」
「おれたちどこへ向かっているのかな?」
 言わずもがなの質問にしばらく困惑する。
「さあ…ヴァルハラ宮殿、かな」
「やめてくれよ」
 相棒は咳きこみ、痰の絡んだようなくぐもった声で言った。
その声に笛の音のような喘鳴が混じっている。
「冗談だ。おれたちはそんな大層なところへ行けるような勇士様じゃない」
「そうだな」
 あとはどちらとも黙ったまま、時間が過ぎて行った。
 そう、
 海の底に取り残された潜水士も、
 墜ちる飛行機の乗員も、
 たどりつく所は誰もが同じ。
 それは戦士たちが集う、黄金色に輝くヴァルハラ宮殿などではなく、
 心のなかにひっそりと建てられた宮殿。
 そこには懐かしい人々が待っているだろう。

 雲が切れて下に出た。
 空の青に慣れた目に、大地の緑が目にしみた。
 次第に迫る山肌の、その中腹に、
 窓辺に色とりどりのガラス瓶を並べた家が見えたような気がした。