「おめでとうございます! 撃墜16機目ですね!」
彼が愛機より降り立つとすぐに整備員が駆け寄った。
第一次世界大戦最中の西暦1917年1月当時、プロイセン軍人の最高の栄誉、プール・ル・メリット勲章授与の条件は先年の12機から16機と改定されている。
「さぁ、そうだったかな」
もちろん自分の撃墜数を覚えていないわけがないだろう。が、彼はそう嘯いて歩いていく。
今日も空は荒れていた。
英軍の戦闘機、ソッピース・バップが独軍の戦闘機の上をいく高性能機だと言ったのは彼だ。
独軍の戦闘機アルバトロス D.IIIと比較してみればエンジンの馬力も武装も半分にすぎない機体であったがしかし、その軽量がゆえに4500mクラスの高度では機動性においてバップはアルバトロスに勝っていた。
アルバトロスが一回旋回する間にバップは二回旋回してみせると言わせる機動性と、何よりもその扱いやすさが圧倒していたのだ。
しかし、彼はその性能差をものともせずにバップを撃墜した。それも記念すべき16機目にである!
それなのに、彼にプール・ル・メリット勲章は授与されなかった。
「なぜ彼が授与されないのですか!」
との現場からの突き上げに軍監本部はそうとう参っていたようである。
なぜなら、
「なぜ彼にプール・ル・メリット勲章が授与されないのであるか?」
と時の皇帝ウィルヘルム二世までもがせっついてきていたからであった。
すでにインメルマンやベルケといったエースパイロットを失っていたドイツにおいて、彼という英雄は必要不可欠な存在だった。
「彼に勲章を授与するべきではないか」
皇帝は常になく、強く軍部に主張したと言う。
それはインメルマンやベルケ──愛すべき撃墜王を失ったその喪失感がそうさせたのかもしれなかった。
再三の現場からの、そして皇帝からの要請にもかかわらず、軍部が勲章授与を拒んだには理由がある。
勲章授与の規定には敵航空機の撃墜16機と“繋留気球一個を含む”というものがあったのだ。
繋留気球は特にフランスにおいて、敵味方の飛行機の墜落、不時着の確認、および上空からの偵察行動などに重要な役割を果たしていたと言っていい。
“その目障りな憎い奴”の撃破を果たしてないために彼は勲章授与を認められないでいたのだ。
「気球一個くらい貴方ならばどうということもなく撃破できるでしょうに」
そういう言葉に彼はやれやれと手を振る。
気球なんてちゃんちゃらおかしくって相手にできない。それいうことなのだ。
こうなると、これはもう彼と軍監本部の根競べである。
勲章は授与したい。だが規定を曲げることなど許されるはずもない。
彼はといえば、そんな軍高官のジレンマなどどこ吹く風かと飄々としている。栄誉は大事だが、彼にとって己の騎士道──男の気概はもっと重いものであったのだ。
勝つのはだれか、しかして結果は?
結局16機目撃墜を果たした1月4日より時を経た1月末。敵航空機17機目撃墜をもって、プール・ル・メリット勲章が彼に贈られることとなった。
特旨をもって、
特例として、
特別に
彼を評する言葉として持ち上がるものは大体においてこのようなものである。
騎士道を重んじ、謙虚さを旨とし、紳士である。
同時に、負けず嫌いであり、ケンカ好きで、プライドが高かったとも言われる。
ちょうどこの頃から、彼は愛機を真紅に塗り上げはじめた。
遠い東の国のサムライが緋絨の鎧を着けて出陣するのにも似て、いかにもプロシア貴族らしい自分の存在を顕示する粋な試みだったと言えるかもしれない。
“赤い騎士”“赤鬼”そして──。それら彼を示す呼び名は、呼ぶ人間にとってそれぞれ格別な思いを残すことになる。
その彼の名を“赤い男爵(レッドバロン)”マンフレート・フォン・リヒトホーヘンと言う。