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1913(大正2)年4月
金銀四枚で守るその陣容は「さあ、攻めて来い!」と言わんばかりの受けの構えである。
下手の坂田は攻めたくてたまらない。5七金が、微妙に不味い形である。だけど攻めたい。何とか攻める形をつくりたい。
坂田はここで、▲6六歩と進めた。△同歩なら、▲同飛で一歩を持ち駒にできる。
攻めの一手、橋頭堡である。
しかし、関根は素直に△同歩としなかった。
なんと△8五歩!
これが狙いの一手だったのだ。
▲同桂か? △8四歩で自分の桂は死ぬ。
坂田は▲同銀と打った。
関根△7三桂。
坂田▲9四銀……。
9四銀!
その時、坂田の銀が、盤上に立ち止まった。

【銀が泣いている】

「おっさん、すまんなァ」
その一手が詰みなのは百人が見て百人が納得するものだった。
参りました──その一言が出る前に投げかけられた一言に、怒り出す大人はいなかった。
「かぁーっ! これがほんまの黒犬のおいどじゃ! もってかんかい!」
少年は満面の笑顔で放り投げられた小銭を両手で受け取る。
背負った赤ん坊がずれるのを器用に腰でひょいと直し、
「おおきに!」
ひーふーみーと数えはじめるのだ。
そんな彼をよそに大人たちは将棋盤の前に顔をそろえて覗き込む。街角の縁台賭け将棋は今日も大繁盛だった。
「おまえなぁ、ここでこの進め方はあかんやろ」
「こっちの歩はこっちの金を誘っとるのやろ? そうやろ?」
「それよりこの振り飛車やな。こんな古い手よう使わんわ」
「だからな、こっちの銀をこっちやのうて……こっち! これでどうや」
喧々囂々あぁだこうだと持論を打ち合わせる大人どもを見ているのは、彼にはとても面白かった。
「そうやのうてな、ここはこうすればよかったんと違うかー」
パシンと小気味良い音が立つ。
少年の言葉が響くや否や盤に駒が走る!駒が盤を打つ音、それはもっともっと好きだった。
おぉ〜と上がる歓声。
「それからここで、こっちはこうや。おっさん、立ち止まったらあかんで。将棋も何もかんも前へ前へ行かんとな」
大人たちが唸る。唸り声しか出てこない。
「丁稚はんはほんま賢いなぁ」
「ちゃいますー、賢いんとちゃうわ、強いんや」
とはいえ、そこは大人だ。子供には負けていられないという思いもある。にじり寄る姿にその意図はようと知れた。
「もう一番やな、言っとくけど高いでぇ?」
その小憎らしい顔を屈辱の色に染めてやりたいという思いに駆られる! 
「おっしゃ、もう一番や! 今度は負けへんでぇ!!」
よぉし! と場が一層盛り上がりを見せたその時だった。
──ズルン。
背負った赤ん坊を支える背負い紐が、ズレた。


「ほんまにどうしようもない子だよっ! 将棋に夢中になって奉公先の大事な赤ん坊をおっことしちまうなんてさっ!」
黙って草履表を作る。頬っぺたも頭も尻も手も足も、何もかもどこもかしこも痛かった。
──仕方ないやんか……。
その言葉だけはグっと我慢して飲み込んだ。
口にした途端どうなるのかは、いくらバカちんでもわかっていたからだ。
だけど、
「あんた! しばらくは将棋は禁止やからな!」
それだけは承服できなかった。
「堪忍や! それだけは堪忍!!」
時に明治の御維新よりじき二十年の頃。阪田三吉名人─王将。その街角の賭け将棋に明け暮れた少年時代のことである。