それは真夏にしては日差しの柔らかな、過ごしやすい日のことだった。
午前中の執務を終えた国王陛下はゆったりとした椅子の背もたれに身を預け、一息ついておられるようだ。
「陛下、冷たい飲み物など用意させましょう」
手元のベルを取ろうと私は書類をのけて手を伸ばす。
「そうだな、頼もうか」
私がベルを鳴らすとすぐに扉が開きいて侍従の少年が入ってくる。冷たい飲み物と軽いデザートを用意するよう命じると、少年は礼儀に則った言葉で──しかし少年らしい元気な声でかしこまりましたと返事をし、退出していった。
窓からは青い空と白い雲が見える。だが徐々に灰色の雲も増えているようだ。
「これは一雨来るかもしれませんな」
陛下は瞑っていた目をお開きになり、窓の方を向かれたようだった。
「すぐには降るまい。直に散って、まだしばらくは晴れているだろう」
だが夕刻までには底の抜けたような激しい雨が降るであろうな。陛下はそのように仰った。
「どうしたのだ?」
私はポカンとしていたらしい。
「いえ、陛下にお仕えして10年になりますが……天候にお詳しいとは存じ上げませなかったもので」
ハハハ、と陛下はお笑いになられた。
「そうであったか? これでも余の見立ては城の天文士よりも外れぬと女たちには好評なのだ」
「陛下はどちらかで気象学をお修めになられたのでございますか?」
先程よりもさらに大きく、愉快そうに陛下はお笑いになられた。
「余はもうじき60にもなろうとする身ぞ。わざわざ学者の世話になるまでもなく空の見立てなら身についておるわ」
なるほど、亀の甲より年の功か。そんな言葉が思い浮かんだ私は、慌ててその不敬な考えを追い払う。
そんな私を陛下はただ愉快そうに見ておられた。
あぁ、私の様子から何を思い浮かべたのかお察しになられたのだな。
「不敬であるな」
「申し訳ございません」
灰色の雲はそんな会話の間に散り散りになっていた。
再び日差しが降り注いでいる。
「陛下のおっしゃる通りになりましてございます」
うむ、と陛下は再び目を瞑り、背もたれに身をお預けになられた。
私はふと思いついたことを口にしてみた。
「大陸に古今東西幾多の名君ありと言えども、陛下の上に立つ名君などありえませぬな」
「なぜそう言えるのだ?」
私は目を瞑ったままの陛下に答える。
「陛下は師をもつことなく治世に外交に、さらに天文にまで専門家を凌ぐお力をお持ちでございます。名君の中の名君である証明であると言えないでしょうか」
ハッハッハと陛下は常になく大きな声でお笑いになった。
陛下は椅子にもたれた姿勢のまま。
「何も生れ落ちてより今日に至るまで、余に師と呼べる者がいなかったわけではないのだ。そうだな、例えばお前もだ」
私が陛下の師? 陛下が何を言わんとするか、私にはとっさに理解することができなかった。
「ハハハ、混乱しておるな?」
意地悪そうに──まるで街の悪戯小僧のように、陛下は愉快そうにおっしゃる。
たまに陛下はこの様に私でお遊びになられる。常の寡黙さが嘘のように饒舌になられるのだ。
「そうだな……お前の良い所は余の一言一句総てを理解しようとし、意に沿うよう全力で努力するところだ。そういうお前の余に接する際の態度──言うなればそれも余にとっての師、であるな」
なるほど、そういうことか……私は陛下の仰りたいことがようやくわかってきた。そんな私の様子を察したのか、陛下がお笑いになる。
「気がついたようであるな。そうだ、余は師についたりはしなかった。が、余は余の国にある万物万人を師と思い研鑽を積んできた」
万物万人が師である、か。ギシっと椅子が音をたてる。より深く陛下がお体を椅子にお預けになったのだ。
「であれば、やはり陛下は名君であらせられます。万物万人を師として国家に仕える。まさしく名君の証明でございます」
ノックと共に扉が開いた。失礼いたします、の声と共に侍従の少年がトレーを両手に入室する。
陛下と共に応接用のテーブルに移り、少年がカップと菓子を載せた皿を配る。
「この香り……アトン産のホンブロウの茶葉だろうか」
仰る通りでございますという少年に、陛下が聞いたことのない銘柄だなとお続けになる。
「では、私がご教授いたしましょう」
陛下がニヤリとなさった。
「なるほど、今日のお前は茶葉の先生になろうというわけなのだな」
何のことやらわからないといった感じで侍従の少年が困惑している。陛下と私はそんな彼の様子を見て朗らかに笑った。
夏。
抜けるような青空の下の出来事だった。