マニア
料理研究家にして紅茶マニアである佐藤ひとみ、26才。
彼女の一日は、4時半の目覚ましの音と共に始まる。
きっかり2度目のベル音で飛び起き、窓のカーテンを開ける。
食事前に軽くシャワーを浴びて、ピンク色のバスローブを羽織り、朝食の準備をする。
朝はパン。その日の気分で茶葉を選ぶ。台所の棚にはびっしりと紅茶の缶が並んでいる。
今朝は甘めのフレンチトーストに、ミルクティー。
アッサムの茶葉を一人分3g、300ccの熱湯で蒸らして3分。
ガラス製のポットは、透明な湯が徐々に色づくのを眺めて楽しめる。
ミルクは低温殺菌牛乳を8cc、垂らす程度に。
アッサムはCTC、細かな丸い茶葉がさらさらとこぼれ落ちるのをわくわくしながら眺めた。
「濃厚な中にふんわりと漂うミルクの香り、ほろ苦さがいいわあ」
食後の気分転換には、ストレートティーをおかわりで。
あらかじめ暖めてあったティーポットにダージリン2gときっかり95度の熱湯を注ぎ、
十分にジャンピングさせた香りの良い紅茶をカップに淹れる。
ダージリンのふんわりとした大きな葉がかさかさと揺れ動くのをうっとりと見つめた。
銀色に輝く新芽はゴールデンチップス、高級な茶葉の証でもある。
「うーん、この何とも言えない青い芳香はファーストフラッシュならではよね」
手元には常に温度計と、秤、計量スプーンが用意されている。
もちろんカップも使い分けられるよう、茶葉に会わせていくつも用意してある。
水の種類、硬度、温度、蒸らし時間や、注ぎ方、そればかりではない、
カップの材質形状によってさえ、紅茶の味は変わる。
この奥の深さがなんともたまらない。
同じ農園、同じ時期に取れた茶葉でさえ、比べてみれば味が違う。
こんなことは紅茶マニアとしては当たり前、初歩の知識だ。
「ウバのメントール系の香りもいいけど、ディンブラの薔薇の香りも捨てがたいのよね」
シッキムの優しさは今の気分にはもの足らない。
かと言ってキームンのスモーキーさは今日の気分じゃない。
どちらを水出しアイスティーにしようかと、タルボ茶園のダージリンを飲みながら真剣に悩んだりする。
両方の缶を開けたり閉めたり香りを嗅いだりかき混ぜたりして、ひとみは幸せな時間を過ごす。
朝6時、出勤。
持参の水筒の中には、オンザロックで作ったアイス・ヌワエラリアが入っている。
すっきりとした喉ごしが、仕事の邪魔にならないのだ。
おやつに焼いたクッキーには、ニルギリが練り込まれている。
鞄の中には分厚い紅茶本。
産地や品種、茶園やシーズン、茶葉の写真までもがしっかり網羅されている。
もちろん全て頭の中に入っている。それでも眺めていると幸せな気分になれるのだ。
そのころ警察署では男がいらついた様子で警官に詰め寄っていた。
「何度も言うように、僕はごく普通のマニアにすぎないんです。
それも佐藤ひとみのマニアってだけで、彼女も同じマニア道を極めようとしている者同士、
誰よりもわかり合えると思うんです。
そりゃあ見詰めたり、写真を撮ったり、盗聴器を仕掛けたりはしましたけど、
なにも特別なことではないですし」
「……それはきみ、立派なストーカーだ」
あきれたように警察官が肩をすくめた。