【俺が】お前らの創作批判してやんよwww【ルール】
『まっくろーちゅ!』
背筋に走った嫌な感覚が、俺を眠りから引き戻す。
濃紺の夜空に浮かぶ金色の月。美しくも眩しすぎるその光に目を細めた。
「くそっ、こんな時間に……」
狭まった視界に映るひとつの影が、鮮明になる意識と共にその輪郭を際立たせる。
それは艶のある長い黒髪と、闇に溶けるような漆黒のローブ。整った顔立ちは余裕の表
情で満ち、輝く赤い瞳からは強い意志が感じられた。
「あら、起きちゃったかしら」
この狭い部屋の中、俺と彼女がこうして対峙する事に理由は必要ない。なぜなら彼女は
生物学上『ゴキブリ』と呼ばれる存在なのだから。
「寝込みを襲う事が卑怯だとは思わないでね、あなたと私にはすでに体格というハンデが
あるんですもの」
窓際で隙間風にたなびく髪が、俺の足元にまでその影を伸ばしている。
「ああ、その通りだ。俺たちの勝負にルールはない。その小さい脳みそで考えたにしては
上出来じゃないか」
強がってはみたものの暗闇のゴキブリほど恐ろしいものはない。圧倒的に不利なのは明
らかに俺だった。
ここから電気のスイッチまではおよそ二メートル。彼女の素早さを考慮すると背中を向
けて走るわけにもいかない。確実にその姿を見失ってしまうだろう。今は最初の攻撃をい
かに防ぐか、それだけを考えろ。好機は必ず訪れるはずだ。
「ずいぶん落ち着いてるのね。それとも何か対策でも練っているのかしら」
冷たい汗が頬を走る。ゴキブリごときに考えを読まれているというのか。
「小ざかしい。そのよく喋る口にホウ酸団子でも突っ込んでやろうか?」
瞬間、耳元を掠める強烈な羽音が髪を揺らした。たったそれだけでも全身の肌が粟立つ。
「ほら、何も出来なかったじゃない」
嘲笑が闇に響き渡った。
まずい、見失ってしまったのか。この状態で視覚に頼るのは得策ではない。落ち着け、
目を閉じて耳を澄ますんだ――
「貰ったわ!」
「前か!」
俺は素早く布団を掴み、思い切り跳ね上げた。目の前に作り出した巨大なバリケードが、
寸前まで迫っていた不快な音を遮る。
小さな悲鳴と、かさりと跳ねる音。
「よし、やったぞ! クソッタレが!」
俺は転がり落ちるようにベッドから脱出すると電気のスイッチを入れ、そのまま玄関ま
で走った。目的はそこに置いてあるホームセンターの買い物袋だ。
「逃げるの! 人間のくせに!」
追ってくる叫び声を背に、袋に手を突き入れ『それ』を取り出す。
「逃げるだって? 冗談じゃあない。こいつがさっそく役立つとは思わなかったよ」
距離をおいて足を止めた彼女が裾で口元を覆った。見せただけでもこの威力とは。
「そ、それは!」
「大学の帰りにホームセンターに寄ってね。見つけたんだよ、こいつを。最新のジェット
式なんだぜ」
「ジェット式ですって!」
「そうさ。こいつはな、気管に吸い込まなかったからといって助かるようなチャチなもん
じゃあない。少量浴びただけでも皮膚から体内へ浸透し、お前を死に追いやるんだ」
「何度やっても勝てないからって、そんなものを使うなんて……」
勝利すること。それはシンプルでいて明確なひとつの基準だ。しかし『勝利に値する勝
者』になるのであれば話は違う。戦いに対しての自分自信を尊敬できるか否か、そういう
戦いを出来たかどうかにかかっている。
それは彼女とて同じはずだ。寝込みを襲うなんて言ってはいたが、こいつは俺が起きる
まで待っていたのだからな。
お前は俺の知るどんな人間よりも気高いゴキブリだ。不愉快極まりない。
「どうとでも言え。俺は今まで一度たりとも負けたなどと思ったことはないからな」
刺激して逃げ出されないよう、ゆっくりと片膝をついた。
スプレー缶を見せ付けながら左手へ移し換え、彼女の大きな瞳がしっかりと固定されて
いることを確認する。
いける、今日こそやってやる――俺は空いた右手をそっと後ろに回し、そこにある古新
聞の束を握り締めた。
「あの時、お前は言ったじゃないか、一度でも自分に勝てれば何でも言うことを聞くと。
どれだけ自信過剰なのかと思ったけどな、今その意味が判ったよ」
「何がよ」
微かに揺れた黒いローブが、逃げ出す体勢になったことを伝えた。彼女の素早さを知る
俺には分かる。例えこの状況でトリガーを引いたとしても確実に逃げられるだろう。
「動くな、黙って話を聞け」」
ノズルの先端を彼女の中心から左にずらし、逆側への意識に僅かな隙を作りだす。
「あの台詞は自信からくるものじゃなかった。お前にとっての一度の敗北とは、死そのも
のを意味するからだ。戦いの中で死にたい。あれはそういう意味なんだろう?」
「違うわ! 私はただ……」
会話の内容はどうでもいい。重要なのは動揺を誘う事。これは心理戦だ。このスプレー
が生み出したのは、張り詰めた空気そのもの。緊張と安堵の落差――それは油断。その時
が貴様の最期だ。
俺はわざと溜め息をつきながら、役目を終えたスプレーを床に置いて見せた。
きょとんとする彼女の姿に笑いさえこみ上げてきた。しかし油断は禁物。
「冗談だよ、冗談。さあ、もうこんな時間だ、明日は大事な用があるんでね。今日は一緒
に眠ろうじゃないか。毎日風呂場じゃ寒いだろ」
「えっ?」
一瞬怪訝な表情を見せたものの、返事の変わりに微笑みを返してやると、その瞳からは
徐々に戦意が失われ、代わりに白い頬が淡いピンクに染まっていくのが分かる。ここまで
効果があるとは予想外だが。
「一緒にって! ほ、本当にいいの!」
「あ、ああ。いいとも、お前もベッドで寝てみたいと言ってたじゃないか」
「でもどうしよう! 今ご飯食べてきたばかりだから……ほら、ちょっと汚れてて」
そう言いながら自分の身体を見回す姿はまるでデート前の少女だ。戦いはまだ続いてい
るというのにおめでたい奴だ。
「あのね! 私ね!」
満面の笑顔で向き直った彼女、絶好のチャンス到来。俺はその瞬間を見逃さなかった。
後ろ手で丸めていた古新聞を握り締め、弛緩させていた筋肉を引き絞る。全ての意識を
右手に集中し、出来る限りの力をもって抜刀。
緊張と歓喜が絞り出す神経伝達物質は感覚を研ぎ澄まし、全てをスローモーションで映
し出す。弧を描く軌跡。彼女の身体まであと数センチ、これでついに俺の勝――
「なんだと!」
消えた! そんなバカな。なんという速さだ!
腕を完全に振り抜き、無様な格好をさらした俺に残されたのは、恐怖という二文字。
どこだ、どこに消えた!
「しまっ――」
ゴキブリが顔に張り付くというおぞましさは、何をもってしても表現しがたい。生理的
嫌悪による思考の拒絶が顔の表面から感覚を取り除き、僅かな時間差をともなって全身に
及んでいく。
脱力感。自分の重みを支えることができなくった俺は、見慣れた部屋が斜めに倒るのを
見ていた。そして感じる鈍重な衝撃と暗転する視界。
「ひどいなあ、もう。そろそろ潔く負けを認めたら?」
薄れていく意識の中で、その言葉だけが脳裏に強く刻みつけられていた。この台詞を聞
くのは、もう何度目なのだろう。
勝った方が相手の言うことを何でも聞く。それは初めて彼女に出会った時に宣告された
子供じみた契約だ。
もちろん最初はそんなくだらないものを守るつもりはなかった。しかし戦いを重ねるに
つれ、いつしか真剣勝負に変わっていた戦いは、俺の心に一つの変化をもたらしていた。
本気で戦っている相手との契約を破ることはできない。ましてや相手はゴキブリなのだ。
そんな契約すらを守れないようであれば、俺はゴキブリ以下なのではないか。
今の俺を支えているのは『負けを認めない』こと。そこまで追い詰められていた。ゴキ
ブリごときに負ける訳にはいかない。負けを認めるのはその心が折られた時だ。
――どれぐらいの時間がたったのか、いびきのような激しい呼吸音が自分のものだと気
がつき、俺は目を覚ました。どうもおかしな姿勢で気絶していたらしく、胸と腕が痛む。
時計に目をやると既に三時。気を失っていたのは短い時間らしいが早く眠らねば。
「くそう……」
悔しさは胸の痛みを強め、一歩一歩踏みしめるひんやりとした感触が、情けなさに拍車
をかける。なんて忌々しいんだ。
はるか昔、ゴキブリは不気味な昆虫のような姿をしていたという。
人間との永い戦いを経て弱い種は自然に淘汰され、また生き残ったものは進化し、小さ
いながらも人間と同じような姿を得るに至った。
しかし、進化と引き換えに失ったものもある、それは環境適用能力だ。彼女はこの部屋
の外で生活することができないのだ。
そうした経緯を持つゴキブリにとって、生まれ育った場所を守る事は自然な流れだった。
故に俺のようにやってきた人間を敵視し、戦いを挑み、追い出す。このような古いアパー
トではごくありふれた光景なのだ。
しかもこの部屋はもともと曰く付きの格安物件で、既に何人もの人間が彼女に敗れ去っ
ていったと聞く。戦いに敗れれば俺も同じ運命を辿るのだろう。
痛む腕を電気のスイッチに伸ばす――と、そこに広がる光景に俺は目を疑った。
一体何だこれは。考えられない! ゴキブリがベッドに寝ているじゃないか!
「おい貴様、何やってんだ!」
「え、だってさっき一緒にって……」
ピンクと白の可愛らしいストライプパジャマに、同じ柄のナイトキャップ。もちろんゴ
キブリ用サイズだ。一体誰がこんなものを作ったのか、見つけ出してぶん殴ってやりたい。
「なあ、今日はかんべんしてくれ。もういいじゃないか」
「それとこれとは別でしょ?」
「これとは何のことだ」
眉を寄せた俺を見ると彼女は口を尖らせ、抱えた枕を小さな手でぱんぱんと叩き始めた。
「もう、だから! たまにはこうやってお互いの事をよく知るのも大事じゃない!」
「あのな、なんで俺がゴキブリと友情を深めなくちゃならないんだ」
「何でって……だってほら、あれ。どうして使わなかったの」
「ああ? スプレーのことか? あれは弱い奴が使うもんだ。使った時点で負けなのさ」
「ふーん、そういうもの? だまし討ちする方がよっぽどひどいと思うけど?」
俺は憤りを溜め息にしながら床に胡坐をかいた。スウェット越しに感じる冷たさが、眠
気をどこかに吹き飛ばす。
「いいか、よく聞け。俺は何も間違っちゃいない、嘘をつこうが何だろうが自分の身体ひ
とつで戦ってる事に変わりはないんだ。あんなものを使う事と一緒にするな。騙してでも
相手の心を折った方が勝ちなんだよ」
「心を折ったほうが勝ちねえ……で、どうなの。今日で心は折れた?」
「ふん、馬鹿も休み休み言え。人間がゴキブリなぞに心を折られてたまるか」
「いやー、普通の人間ならとっくに逃げてる思うけど」
けらけら笑う声と時計の音が俺の睡眠時間を削っていく。なんとかこいつをベッドから
追い出さねばならないのだが、今の俺にそれを実行できる策はもう用意されていなかった。
「もういいじゃないか、あっち行けよ。ゴキブリの分際でベッドに寝るな」
「ゴキブリゴキブリってね、ちゃんと名前教えてあげたじゃない! 名前で呼んでよ!」
「あほか、呼べるかそんなもん!」
俺は覚えていた。ゴキブリの名前とは思えない菓子パンのような愛くるしい名前だ。
しかし何が悲しくてゴキブリと名前で呼び合わなければならないのか。そんなもの俺の
プライドが許さない。
「あなたの名前も教えてよ。もう三ヶ月も経つのにちっとも教えてくれないじゃない」
「名前なんてどうでもいいだろ、ここには俺とお前しか――」
言いかけたとき、ふと脳裏によぎるものがあった。
――名前? そうだ、これは使えるんじゃないか?
「あ、ああ……そりゃすまなかったな。外の表札に書いてあるだろ」
「口で言ってくれればいいじゃない!」
帽子を激しく揺らしながら再び枕をたたき始める。一体この枕には何が入っているのだ
ろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「お前が知りたいなら自分で見て来いよ」
「何よもう! じゃあ見てくる。ひらがなで書いてあるの?」
「ああ、ひらがなで書いてあるよ。お前にも読めるだろ」
「よーし!」
とたんに笑顔を取り戻し、枕を持ったままベッドからひょいと飛び降りると、俺のすぐ
そばで足を止めた。
「次からちゃんと名前で呼ぶね!」
「ああ、そいつはどうも」
かさかさと音をたてて走り去る姿を目だけで追い、彼女が外に出た事を確認してから、
ガムテープを持ってドアまで忍び寄る――
「読めないよ! これひらがなじゃないじゃん!」
扉越しに聞こえてくる間抜けな声をよそに、俺は手にしたガムテープをドアの隙間に素
早く走らせた。とっさのアイディアにしては素晴らしい。
「ちょ、ちょっと! 何してるの! 入れないじゃない!」
バレたか、しかしもう遅い。
「当たり前だ。入れないためにやってるのがわからないのか?」
「ひどい! また騙したのね!」
冷たい鉄の扉をこつこつと叩く音が響く。
いい気味だ、大逆転じゃないか! 俺は天才なのかもしれないぞ。
「負けを認めるなら中に入れてやってもいいぜ」
「そうしたらあなたは私をこの部屋から追い出すんでしょ!」
「当然だ」
これは嘘だ。追い出すつもりはない。ゴキブリは苦手だが、お前の事はそれほど嫌いな
訳じゃない。正直言うと尊敬している部分さえある。もしこれで勝てたなら命令は既に決
めてある。
キチンと風呂に入り、服も毎日洗濯し、ゴミを食べるのではなく俺の用意した食事を食
べろ。清潔であるなら俺はお前に何も干渉はしない。なんなら一緒に寝てやってもいい。
「イヤよ! 絶対にイヤ!」
「意地を張るんじゃないぞ! ゴキブリは人間に負けて当然なんだよ!」
「お願い。部屋に入れてよ、寒いのは苦手なのよ!」
なんて奴だ、こっちの気も知らずに。そんなに負けを認めるのが嫌だというのか?
俺はだんだん怒りがこみ上げてきた。
「勝手にしろ! 負けたくないなら今日はそこで寝るんだな!」
「お願い、お願いだから……」
部屋と玄関ではそれほど環境に違いはない。一晩ぐらいそこで寝ていても別に大したこ
とはないだろう。勝つことはできなくとも、これで今夜の安眠は約束されたのだ。
俺はようやく電気を消し、ベッドに身体を埋めた。布団も冷えてしまっているが、徐々
に温まってくるだろう。風邪でもひいたら台無しだ。
そう、明日はクリスマス。センチメンタルになった訳ではないし、ゴキブリに関係があ
るとも思えないが、実はケーキを予約してあるのだ。特注の奴なんで明日は早くから遠く
の店まで行かないといけない。あいつが好きな黒豆をまぶしてあるやつだ。
一人暮らしのクリスマスなんて寂しいものだし、一日ぐらいそういう日があってもいい
じゃないか。
「あいつ、きっと驚くだろうな……」
扉を叩く小さな音は次第に弱くなり、やがて消え、俺も深い眠りへと落ちていった。
良い寝覚めとは言いがたいが、差し込む朝日の心地よさは十分に身体が休まった事を感
じさせてくれる。
何時間眠れたか、などと考え始めると憂鬱になるので、そのままテレビのスイッチを入
れるのが俺の朝のパターンだった。
『今日は今年一番の冷え込みとなり、実に八年ぶりのホワイトクリスマスとなりました。
とてもロマンチックな夜が期待できそうです。このショッピングモールでは早くから若者
で賑わい――』
「何だって?」
俺はカーテンを乱暴にひき開けた。雪……雪が降ってるじゃないか!
考える間もなく、俺は玄関へ走った。
「冗談だろ! 雪が降るなんて聞いてないぞ!」
ノブをひねり、ドアを開け―― 開かない! 自分で張ったテープに阻まれているのか、
俺は一体何をやってるんだ。
最小限の部分だけ剥がし、あとは力任せに押し開く。周りを見回すと玄関のすぐ脇の排
水溝で、枯葉にくるまって彼女は寝ていた。
寝ているだけであってくれ、頼む。
「おい、起きろゴキブリ! 大丈夫か!」
様子がおかしい。既に身体の半分が雪に覆われているのだ。ただ彼女の髪だけが冷たい
風とともにそよいでいる。
「嘘だろ……」
そっと彼女に手をのばし、その小さな身体に触れた――が、反応はない。
俺は愕然とした。とてつもない絶望感だった。
昨日あれだけ元気で、嬉しそうに笑っていたというのに。あれだけ勇ましく立ち向かっ
て来たというのに。
それが今では、重さなど殆どない、ただ冷たい感触だけの存在になってしまっていた。
そんな、たったあれしきのことで……
彼女が死んだなんて考えたくなかった、起こすように揺すったり、暖めてやれば目を覚
ますんじゃないかと優しくさすってやったりもした。
そんな事をどれぐらい続けていたのだろう。俺はこみ上がる感情を抑えつけ、彼女の亡
骸を部屋へ持ち帰り、ベッドの上にそっと置いてやった。
力なく横たわり、すでに抜け殻のようになってしまったその姿を前に、俺はなんともい
えない圧迫感を胸の奥に感じ始めていた。
「馬鹿か! 冗談じゃねえぞ!」
何故負けを認めなかった! どれだけ意地っ張りだというんだ! くだらないプライド
なんか捨てて、参ったと言えばこんな事にならずに済んだんじゃないか!
馬鹿だ! 大馬鹿野郎だ! 死んでしまえばいいんだ!
俺なんか――
俺は彼女の名前、今まで一度も呼んでやることのなかったその名前を声に出した。何故
今までそれができなかったのか、全くわからない。
「すまない……こんなことになるなんて。寒かっただろうな……」
俺の薄っぺらで無価値で、ちっともたいしたことのないプライドが、ひとつの命を奪っ
たのだ。一体なんのプライドなのか。俺は何様なのか。命よりも大切なプライドなどある
訳がないのに。
それから何度も何度も彼女の名を呼び、謝り、子供のような嗚咽と混ざって溢れ出る涙
が彼女の身体を暖めるように濡らしていった。
しかし、とうとう奇跡が起こることはなかった。
最悪のクリスマスだ。
「ごめんな、俺が間違ってたんだ。お前は偉大だった、ゴキブリだからなんて馬鹿にして
た自分が恥ずかしいよ。本当は生きてるお前に言ってやりたかったけど……」
そんな事を言っても返事が返ってくるわけでもなく、ただただ流れる沈黙――
しばらくして俺は注文していたケーキを取りに行くことにした。供養という訳でもない
のだが、これもせめてもの罪滅ぼしだ。帰ってきたら今日はずっと一緒にいよう。
俺はドアを開いた。
――人間とは、なんて残酷な生き物なのだろう。いや、そういう言い方はずるいな、俺は
なんて馬鹿だったのだろう。
ゴキブリという忌み嫌われる存在に、自分がいかにちっぽけな人間かを思い知らされる
とは思わなかった。
いや、あいつは気づかせてくれたのかもしれない。三ヶ月という短い期間だったが、俺
は本当に正しいもの、本当に大切なものをあいつから学んだ気がする。
もしも天国や地獄なんてものがあって、俺が死んだ時にお前ともう一度出会えるなら、
その時は必ず決着をつけよう、そして言わせてくれ。
「ごめん、そしてありがとう」と――
エピローグ
真っ白なキャンバスに、穢れのない一滴の水を落としたように、それは小さく弾け、消
える。誰もいなくなった部屋に響いたのは、まぎれもなく小さな『くしゃみ』であった。
「はー! 寒かった!」
純白のベッドシーツで光を浴びる小さな少女。それはゴキブリ。
「騙してでも心を折った方が勝ちって言ってたよね。さーて、何して貰おうかなっ!」
おわり