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そんな彼の両手には鉤のついた手甲。振られるたびに鮮血が鉄臭い点描を畳に描いていく。
(アレで俺を……いや! 木錫の両親を!)
傷の痛みも忘れて若い面頬を怒りに紅くする尖十郎に涼やかな声がかかった。
「お前、人間か?」
「何を」
お前こそ人間なのかと叫び出したい衝動を抑えたのは理性ではなく傷の激痛である。
「『信奉』もしていないな?」
「何の話だ!」
「ならば気をつけろ
回答と同時に男は一足飛びに尖十郎と間合いを詰めた。
斬られる。身をすくめた彼はしかし意外な感覚が到来すると同時に右へ数歩たたらを踏んだ。
男は──…
掌で尖十郎の顔を横にいなした。鉤手甲を用いるのでもなく、また殴るのでもなく平手を見舞
うのではなく、ただひたすらふんわりとした手つきで尖十郎を横に逸らしたのである。
「──っ!?」
「そいつは人を喰う化け物だ」
鉤手甲は尖十郎の背後にいた木錫目がけて轟然と打ち下ろされた。
だがその瞬間にはもう彼女は残影を描きつつ両親の死骸転がる部屋に滑り込んでいる。
代わりに元の背後にあった襖がバリバリと凄まじい音を立てて破られた。
それを見届けた木錫はふうとため息をついた。
「やはり『戦士』か。まったく仮初とはいえいい感じの父母(ちちはは)だったのじゃがなあ」
仮初? 傷の痛みに喘ぎながら尖十郎は部屋を覗こうとしたが、男に制された。
「まあ、上司が命ずれば何でもやるのが忍びだがの。とはいえここまで仕込むのに10年はか
かったのじゃぞ? そこまでの苦労と今までの平和な暮らしどうしてくれる」
それでも何とか首を伸ばし覗きこんだ部屋の中で──…
「まったく。余暇を利用して”ぺっと”の”ちわわ”を探す以外特に悪行を働いておらんというの
に。狙うならわしの同僚どもにせい。連中のが遥かにえげつないぞ。人間どもへの害悪はわ
しの比ではない」
木錫はニュっと唇を歪めて笑っていた。
見る者次第では悪戯っぽいとも、意地悪とも老獪とも見える凄絶な笑みだ。
しかも彼女は掌から母の物とも父の物とも知れぬ腕をポンポン投げて弄んでいる。
散乱していた中で一番大きな肉塊は、戯れと共に切断面から血しぶき飛ばし幼き頬を穢して
いく。だが声音ときたら実に軽やかで朗らかで、まるでシュークリームを顔に塗りたくっている
程度の気楽さが全身から立ち上っている。
「木錫……お前は一体?」
ちらと尖十郎を見た木錫は少し視線を泳がせた後、男に向きなおって朗々と喋り出した。
「だいたい人喰いはこの県来て以来『県内では』慎んでおったというのによくもまあ嗅ぎつけ
たの」
「貴様の部下が白状した」
「部下……ああ、これじゃなく下っ端の方か」
土気色の腕をぶんぶんと振りながら木錫は嘆息した。
「やれやれこれじゃから組織務めはやり辛いのう。どうせ空腹に耐えきれず県内で粗相でもや
らかしたとみえる。お、そういえば最近近くで殺人があったとみなみな噂しとったが、もしかす
るとそれかの? 若く瑞々しい肉があるゆえ、学生寮を狙うのは基本中の基本じゃからな」
「ああ。だからこの近辺を張っていた」
「成程。学校襲った輩は捕獲済みなんじゃな。そして上司たるわしの所在も吐かせたのか。むー。
せめてわしの部下なら忍びらしゅう間者を務めるとでもうそぶき切り抜ければいいものを。どう
せ今頃は墓の下……これじゃから若人はいかんの。考えなしに行動して命を捨てよる」
額に自分の物ではない手を当て、芝居がかった仕草で木錫は首を横に振った。
麻痺しつつある尖十郎の脳髄はしかしどこか冷静に状況を分析し始めた。
きっとそうでもしないと狂ってしまう……隣人の豹変に底冷えのする思いだ。
──「少し前は県外で似たような事件があったそうじゃが」
(他人事みたいにいっておいて何だよ。結局お前がやったのかよ……)
県内の猟奇殺人は木錫の部下の仕業。
ここしばらく近辺で目撃された不審者は鉤手甲を持つ男なのだろう。