投下します。
使用お題:白、牛、正月、日の出
全2レス。
県内のとある神社は御神体が牛なんだそうだ。それで、干支にちなんで今年の三ヶ日は近所の牧場から
牛を借り、境内に繋いでいるらしい。しかも突然変異で白いんだとか。
朝のニュースのその紹介に、ぼくは「あ、近くだ」くらいしか思わなかったけれど、ゆずかは違った。
地名のテロップに喜んで、行きたいとぼくを誘った。せっかく有給をかき集めたのなら、正月くらい
ゆっくり休めばいいのにと思う。年上の恋人はあまりぼくに甘えない。除夜の鐘を聞いてわくわくして
初日の出にわくわくして、そうしたら初詣。楽しそうなゆずかは好きだ。でも、そのせいでぼくは
この間の電話のことを訊けないでいる。慰めることも、何も。
朝とも昼ともつかない時間帯のせいか、乗り換え時間は四十分もあった。ホームに並べられた椅子は
空いていて、ゆずかとぼくで隣り合って座っている。日向の光を浴びた冬の風がときおり通りすぎる。
ゆずかは静かだった。目的地に着く前だけど、しゃべり疲れたのかも知れない。
「三番線は折り返し運転となります、すぐにはご乗車にならないでお待ち下さい」
「八番線、車内保温のためドアが手動となっております」
絶え間ないアナウンスに、行き交う電車。賑やかでのんびりしている。ぼんやりしているとどうしたって
思い出すのはあの電話だった。年末年始休めるからバイトいれないでね、声は震えていてゆずかじゃ
ないみたいで、でも確かに愛しい人の声で。ぼくは反射的に、うんわかった、とか、そんなことを
答えただけだった。だから、ゆずかの涙は見たことがない。
「……っ、しょっと」
不意に耳元で声がした。横目で見れば、ゆずかと反対の隣に若い男が腰かけるところだった。
手に子供用のリュックを握っている。男が来た方向、ホームに下りる階段の方を見たら、小さな男の子が
やって来た。歩いているような走っているような動きはぼくの目にも危なっかしくて、男が
腰を浮かしたのと同時に子供はつまずいて転んでしまう。コンクリートがべちりと鳴った。
男が駆け寄り、しゃがんで顔を覗き込む。
「大丈夫、痛くない? ちょっと見せて、血が出てたら……」
彼はあたふたと手を差し出したり引っ込めたりしている。その目の前で、子供はひとりでよいしょと
立ち上がり、顔を上げたようだった。男の背中であまり見えない。
「平気か、膝はどうだ? ……あー、痛い痛い。バンソーコー出すから、ちょっと待っててね」
男がこちらに歩いてきて、ぼくは慌てて目をそらす。それから、気づかれないようそっと視線を戻す。
子供は、ぎゅうっと眉を寄せて、口をこれでもかとへの字に曲げて、つぶらな瞳を潤ませてどこかを
睨んでいた。小さな体の全てで、涙を押さえ込んでいるように見えた。
「……うし、泣くなあ、バンソーコーはったぞう。ほら、大丈夫だ、ん」
男は、子供の髪をくしゃくしゃと混ぜる。
「あのね、約束したから、泣かないよ」
幼い声がした。その高さからか、いかにも子供のはばかりのない声量のためか、妙にりんと、言葉は強く響く。
「約束? 誰と」
「パパ」
男の手が止まった。こちらに背を向けたまま、地面に置いたリュックを拾う。ファスナーをしめる
チリチリという音に紛れて、「そうかあ」と呟きが聞こえた。
ぼくの隣に、どさりと深く座りこむ。子供も横に座ったようだ。
彼らと反対の肩に何かがぶつかった。ゆずか。いつのまにか、眠ってしまったらしい。前髪がさらりと
顔にかかって、彼女の顔を隠す。ぼくには柔らかな重みがかかる。
「ねー、牛、いるかな?」
「ん?」
不意に、屈託のない声が聞こえた。
「牛ね、知ってるよ、おっきいんだよ。鳴くかな、ね、白いのもモォーって鳴くの?」
「んー? どうだろうね。行ったら神主さんに聞こっか」
男が答える。
「かんぬしィ? かんぬしじゃーわかんないよ。知ってるのは、牧場の人」
「牧場の人?」
「後はねえ、うしやさん」
その時、あたりの空気を巻き上げ目の前を電車が通った。二両編成は減速し、ずいぶんと奥のほうで止まる。
時計と電光掲示板を確認した。目当ての電車みたいだ。
「あれ、電車あっちか」
「あれに乗るの?」
「そうだよ」
ぼくは反対の隣に意識を向ける。肩のぬくもりと重みは心地よかったのだけれど。
「ゆずか。ゆずか、電車来たよ」
「……、んー」
軽く揺さぶったら、疎ましがるように首を横に振られる。それから、ゆっくりと開かれた瞳がぼくを映す。
「白い牛、見に行くんでしょ。乗り換えの電車来たから乗ろう」
「ん……牛? 電車、えっと……あっそっか、わあ、あたし寝ちゃった」
「徹夜だったからね」
ぼくは立ち上がり、電車の方へと歩き出す。ゆずかもそれに続く。肩ごしに確認したら彼女と目が合って、
微笑みを向けられた。
「優しいね」
「ん?」
歩みを早め、ぼくに並ぶ。
「……って、思ってたの。去年も今年も、あたしが我が儘いってばっかりだったのにね。電話のこととか、
訊いてこないし」
「あぁ」
「甘えてばっかりだなぁ……」
独り言みたいなそれは、ぼくには意外で。このくらいの我が儘だったら構わないよとか、電話のことは
気になっているんだけどとか、言いたいことがうまく纏まらない。
「もう、自分で言っちゃう。仕事でちょっと……厳しいこと言われちゃって。へこんでたんだ。でももう
大丈夫」
彼女の笑顔は綺麗だ、と思った。纏まらなくていいのかもしれない、こんなぼくが、ゆずかに良いのなら
それでいい。今もまた、咄嗟に気の聞いた返事はできなかった。なんとなくの曖昧な相づちを、ゆずかは
当たり前の顔で受けとめる。
前方で、さっきの子供が背伸びをして自販機でペットボトルを買っていた。追いついて、そこでまた
会話の断片が飛び込む。
「お茶どうする? 俺が持っとこうか」
「お茶……ねえ、かたぐるまして!」
「かたぐるま? もうすぐ電車乗るよ」
「電車までっ。りょーたのかたぐるまがいい」
「俺?」
「もーっ他に誰がいるのよ、あなたでしょ?」
子供は茶化すみたいにそう言って、そして笑った。ふふふと声をもらして、男の足にしがみつく。
そのまま半分ぶら下がるようにして、男の足を軸に回る。すれ違うぼくとぶつかりそうになって、
男が「すみません」と謝った。
「ごめんなさあい」
子供が続く。ぼくはいえいえ、みたいなことを言いながら彼らを追い越した。背中の方から、よっ、と
力を込める声がする。笑い声はいっそう大きくなる。
「ねー今さ、牛とさ、どっちが高いかな?」
「うーん、どっちだと思う?」
「牛……あーでも、りょーたもおっきいからなあ、うーん、わっからないぞー?」
ふざけているように、真面目なように子供はまくし立て、そして笑う。楽しそうな様子は、男がときどき
揺らしたりしているらしい。
「あの親子も、おんなじトコに初詣行くのかな」
「え?」
「牛の話してる」
「あー。さっき、『白い牛』っていってたしね。たぶん、そうだと思うな」
電車の中はは予想外に賑やかだった。もう座席がほとんど埋まっている。ぼくたちは入った向かい側の
ドアに隣り合って立つ。すっかり目を覚ましたゆずかはしきりにぼくに話しかける。白い牛が楽しみだと
いうこと。初詣でお願いすること。くじびきをしようという約束。まだまだ続く正月休み。
雑踏にあの二人がいたような気がして、すぐに見失った。
しばらくしてドアは閉まる。電車は走り出す。ゆずかは早くもデジカメを取り出していて、興奮を
抑えられないといった様子だった。つられてぼくも笑う。
車内は人々の浮かれたざわめきに溢れていて、単調なアナウンスを掻き消していた。
終わり。