昔か今か、あるのか無いのか分からない場所に秘境がある(あった)という。
そのあやふやな世界に、確固たるアイデンティティをもって君臨する建物がある(あった)。
どの素材に染み込んでもすぐにそれと分かる、血の色をした大屋敷。
「紅魔館」と言えば、秘境「幻想郷」の民ならば
その名を聞いただけで震え上がる悪魔の住処である(あった)。
館の主、無双の実力を持つ吸血鬼の姉妹。悠久を生き、自然の摂理を操る魔法使い。
時空間を支配する異能者。妖精と悪魔で構成された異形の兵団……
この世にある非常識の粋を極めたその館に、
幻想郷の民の半分は恐怖で震え上がる。
もう半分は胸のときめきに震え上がる。
後者は、カリスマに惚れ込む者、圧倒的な力に挑戦しようとする者、
主に魔法使いが所持している至宝を狙う者(これが八割)など様々だが、
彼らが紅魔館に足を踏み入れる場合は、一つの関門を潜り抜ける必要がある。
紅魔館には門番がいる。守護する館に似合った紅蓮の髪、
それを引き立たせる緑のチャイナドレスを着た少女である。
いや、その顔立ちは確かに幼い少女なのである。
眠たいのかと勘違いするような「とろん」とした目つきに、
頬は柔らかな曲線を描き、うす紅に染まっているのだ。
だかしかし、女性としては飛びぬけた長身にぴんとした背筋、
ドレスのスリットから垣間見える無駄の無い筋肉からは、
一瞬男性の武術家と見紛う様な、強者の「気」が発せられてもいる。
「気」、現代の日本人やアメリカ人がイメージする、
映画や漫画によくある通りの、あの「気」を操る中国妖怪、
それが紅魔館の門番であり、彼女の名は――
「よう中国、また図書館に邪魔するよ」
「家計がやばいからこっちから紅茶をたかりに来たわ。
さっさと負けてそこを通しなさい、中国」
「また“白黒”と“紅白”の進入を許したわね。
中国の××のシワは何処まで増えるのかしら」
「……ちょ、ちょっと、咲夜さんまで!
最近みんなひどいですよ! いくらチャイナだからって
それは安直すぎやしません!?」
中国と呼ばれた少女は爆発した。
いや、呼ばれた、ではない。
この所ずっと呼ばれ続けているのだ。
彼女が「咲夜さん」と呼んだ、同じ吸血鬼の従者、長らく共に過ごした同僚にすら、である。
きっかけらしいきっかけは(少なくとも彼女の目には)特に何も見当たらない。
まあ、あだ名の定着とは得てしてそういうものだが……
「お仕置きされるのは仕方ないとして、
咲夜さんくらいは私のことちゃんと呼んでくださいよっ」
お説教とお仕置きをしているはずの「咲夜さん」と呼ばれた銀髪の少女、
紅魔館メイド長の十六夜咲夜は、逆に門番の少女に叱られ、困惑の表情を浮かべた。
「そ、そうなの、それはまあ、悪かったわ」
そして、おずおずとその名を口ずさみ始めた。
「え、ええと、ほ……紅(ホン)、美鈴(メイリン)」
……ぞわり。
「えっ」
ついに名前を呼ばれた少女は、自分の考えていたものとは真逆の気持ち、
何だか不快な違和感が込み上がって来る事に対し、
狼狽の表情を浮かべた。その時ばかりは、彼女は自分の「気」を全く信用できなかった。
「あ、……あの……」
「ん、何かこう、ダメね。悪いけどはっきり言うわ、
最近ね、気持ち悪くなるのよ、あんたの名前を呼ぶと。
ついこの間まではそんなこと無かったのに……
あんたのこと嫌いになったわけでもないわよ。本当に、何だか分からないのだけれど」
次に彼女は、後頭部にちくりとした痛みを感じた。それは何と言うか――
(私は)
「みんな、め……中国の事嫌いになったわけではないの。でもみんな、
あんたの名前を呼び難くなってるのよ。レミリアお嬢様ですら
……あ、いや、でもお嬢様は少し違う……あの表情は、何か含んでいる様な――」
(私は大切なことを忘れてしまっていたのではないか)
咲夜の台詞を聞き、ある「二つの」女性の顔がフラッシュバックした瞬間、
美鈴は紅魔館の奥へ、赤黒い深遠へと走り出した。
「ちょ、中国! お説教の途中よ! 待ちなさい!」
(私は……お嬢様、ご主人様、いや、本当は、ご主人様は……)
紅魔館最上階にあるその部屋は、「館」の部屋ではなかった。
そこには玉座があった。巨大な真紅の椅子、真っ赤な内装、ステンドグラスは赤い月。
色彩的に殆ど意味を成さないレッドカーペットの端に美鈴は立ち、玉座の人物と対峙していた。
「やっと来たのね、……中国」
吸血鬼レミリア・スカーレットは、どうにか美鈴を名前で呼ぼうとしたが、
結局は「中国」と呼んでしまったことに対し、面白くなさそうな笑みを浮かべた。
「お嬢様、私は、私が『中国』と呼ばれているのは」
「思い出したのかしら?」
レミリアは玉座より立ち上がり、己の「気」を周囲に放ちながら美鈴に歩み寄っていく。
吸血鬼が種族として受け継いでいくその王者の「気」に、普段の美鈴は
本当に倒れてしまいそうなほどに、まさに圧倒されていたのだが、
今の彼女は全く物怖じもせずに、言葉を続けた。
「いえ……あともう少しのところなんです。お嬢様なら、何かご存知かと」
「その判断は正しいわ、中国。まさに私の尊厳に強く関わる、重要な問題なのよ」
吸血鬼レミリアは「運命を操る程度の能力」を持つ、と言われている。
実際に因果の操作を確認したもの、あるいは本当に因果を操作できたら、
恐らくその力を行使された対象はその事を観測できはしないのだろうが、
多数の強者を従え、掌握しているそのカリスマは、
まさに「運命の支配者」であり、運命操作の能力があってもおかしくは無いと、
幻想郷の民からは思われている。
「私より先に、貴方の運命(名)を縛り付けた者がいるのよ、中国」
「お嬢様より先、つまり、お嬢様より前の、私の――」
「『仮にも』今の主人の前でそれを言うのかしら?」
「あっ、すみません」
「運命の束縛は、最近になって再びその効力を発揮し始めた様ね。
わかるかしら?」
「それで、私は中国と」
「そんな事を言ってるんじゃないのよ。ふ、ふ、ふ……
もはや『前の』じゃないの。
『今の』貴方の主人は、私ではない。
すでに貴方の名前は奴の――」
「れい子の手中にあるわ」
「!!」
“れい子”、幻想郷では一度たりとも耳にしなかった名である。
しかし、その名を聞いた瞬間、彼女の全身にに凄まじいほどの……
郷愁の思いが、駆け巡ったのだ。
「お嬢様、私……暫くお暇を頂きます」
「そうね、良い機会だわ。奴と決着をつけてきなさい。
そうして貴方は本当の意味で私のものになる。
力の満ちたこの幻想郷、更にその中で、私達のそばにずっと貴方はいた。
私が手を貸すまでもないわ、軽くひねりつぶしてきなさいな。
外の力を減らすんだもの、紫だって快く協力してくれるはずよ
……いってらっしゃい」
***
その時から、急に彼女の言葉が理解出来るようになった。
私ノ勝チネ。
アナタ、キレイナ名前ナノネ。
響キモステキ。コノ国ラシイワ。
コレデアナタハ私ノ子分。
名前ヲ呼ンダラ……
ええ、海を越えてでも飛んでいくわ。
だからお願い、私を――
***
小さな頃から時々変なものを見た。
それはおそらく妖怪といわれているものの類。
それはさておき。
「タカシサーン、オハヨーザイマース」
最近隣に引っ越してきたのは
中国人留学生の紅美鈴(ホン メイリン)さん。
「うん、おはよう、美鈴さん」
……ふわり。
「くーっ……!」
時折彼女は、凄く嬉しそうな、独特の表情をする。
それは、随分昔のことに対する思い出し笑いの様で、
あるいは、まるで……
「ちょっと、また飲んでるの?」
「もー、私ソンな飲んでばっかりいナイヨー
本当に、嬉しい気持ちなのよ、ご主……れ……ゲホッ、タカシサーン」
美人で優しくて気立てが良くて、
でもそれ以上に物凄くヘンで
(どう考えても日本語が流暢なのにエセ中国人ぶるところとか)
……とても楽しくて、話しているだけで僕も楽しくなってしまう。
ニャンコ先生、藤原夫妻、いまはもう沢山いてくれる、友人たち……
そしてまた一人、かけがえの無い人が増え、
僕は過去の孤独から遠ざかっていく。