蕾になって準備万端の桜も満開に咲き乱れ、世の人々が新たな生活を始めた頃。着慣れない様子の学生服を
着て歩いていく少年少女を横目に箱詰めの荷物を持って階段を行ったり来たりしていた俺も、今まさに新生活
の準備に追われている所だ。書類やらオフィス用品やら、朝も早くから何度このフロアとビルの入り口を往復
したことやら。デスクなどの大きな荷物は注文した業者があらかた置いていってくれたが、レイアウトの決ま
っていないここには、まだそれらがとりとめもなく散在しているだけだ。箱詰めのパソコンも、まだどっしり
と片隅にたたずんでいる。
「律子、このテーブルはどこに置くんだ?」
背の低いガラス張りのテーブルをそっと床に下ろしながら、書類の束を抱える律子に尋ねる。
「えーっと、それはですね……ひとまずあの辺に。向かい合わせのソファーと一緒にするんで」
「了解だ」
南向きの窓際を目で示した律子に従って、陽の射し込むそこへテーブルを下ろす。傍には、茶色い革張りの
ソファーが一対。この組み合わせ、どうやらここは応接スペースになるらしい。フロアの一角にぽつんと置か
れた、仕切りの無い応接室は、俺が765プロに来たばかりの頃を思い起こさせた。雑居ビルの一角にひっそり
と居を構えていた、弱小芸能事務所だったあの頃だ。経た年月を考えてみるとそれほど以前のことでは無いに
も関わらず、あそこでプロデューサーとして働き始めたのが大昔のことのように思える。それだけ密度が濃か
ったということなのだろうか。
「ほらほら、ボーっとしてないで下さいよ。事務所のセットアップは今日で終わりにする予定なんですから」
窓から遠くに見える桜の木を眺めて黄昏ていると、律子の鋭い声が滑り込んできた。
「き、今日で? てっきり明日辺りまで準備で終わると思ってたんだが……」
「そんな時間ありませんよ。これからの行動計画も練ってあるんですから、早く動かなきゃ損ってもんです」
「……用意周到なことだなぁ、まったく」
ふうと溜め息をつく俺をよそに律子はきびきびと動き回り、デスク一つを中心としてオフィススペースを着
実に作り上げていた。
「そうだ、これ」
混沌となっていたクリアファイルの山を机の上の本棚に収めながら、律子が一枚の紙を俺に差し出した。
「事務所はこういう間取りにする予定なんで、机とか棚とかをこの通りに配置してくれます?」
「棚って……」
事務所の入り口、ドアの横にデンと構えた、本棚と思しきサイズの棚。
「俺一人でやるのか……」
「中身は何も入ってないんで、一人でも運べると思いますよ」
「まぁ、あれぐらいなら何とかならんことも無いが」
「分業した方が効率上がりますからね。私はパソコンとか電話の設置とか、細々したことをやっておきますの
で。頼みますね、社長殿」
社長という響きに、765プロの高木社長がふと思い浮かんだ。一瞬他人事のように聞こえたが、今は俺が社
長なのだ。まだ名前の決まっていない、小さな芸能事務所の。
芸能事務所を建てるという話を聞かされたその瞬間は、あまり現実味を感じられなかったが、こうして『社
長』と呼ばれるようになると、なんだかとても重たいものを背負ってしまったような気になり、心細さすら感
じた。
アイドルから転身、プロデューサーとして働くことになる律子には、元々その役を担っていた俺が色々とア
ドバイスを出せる部分もあるだろうが、経営に関する知識には乏しいと言わざるを得ない俺が、芸能事務所の
社長なんて、果たしてやっていけるのだろうか。
「……社長?」
頭一つ分低い所から見上げてくる律子の視線が、俺の意識を目の前の状況に呼び戻した。
「ああ、なんでもないんだ。大丈夫」
ぼんやりする俺を咎めるキツイ眼でなく、ヘトヘトに疲れた俺を気遣う時と同じ眼だった。俺の不安を読み
取られたのかもしれない。敢えて視線を合わせて確認を取ることはせずに、俺は黙々と自分の仕事に取り掛か
った。