「もー、プロデューサーさんのバカバカバカーっ」
「だーからなに怒ってんのかわかんないけどゴメンって。機嫌直して収録行こうぜ、春香ぁ」
「嫌です!もう私ここに閉じこもって一生外に出ないんですから!」
765プロダクションの小会議室のドアを挟み、大きな声で会話しているのはアイドル・
天海春香とそのプロデューサーである。
音無小鳥の耳には先ほどから言い争いが聞こえていたが、ちょうど資料室へ行く用事が
できたところで枝道の廊下を覗いてみると、この状況が見て取れた。
廊下側から声をかけるのがプロデューサー。いつものごとく今ひとつしゃんとしない服装
で、それでも表情は真剣だ。
「そんな子供みたいなこと言ってないで現実を見ろ。お前はタレントで、今から久しぶりに
全国ネットの歌番組の収録だ。お前のギャラと765プロの業務収益のために、お前は仕事に
行かねばならんのだ」
「そんなにお金が好きなら、プロデューサーさんなんかカネゴンになっちゃえばいいんだー」
それに部屋の内側から応じているのが春香。プロデューサーがノブをガチャガチャやって
いる風景と先ほどからの会話を鑑みるに、なにか行き違いがあって鍵をかけて閉じこもった
と言うところであろう。
「なぜカネゴンを知ってる、ってか無茶言うな。765プロは薄給なんだ、カネゴンを養う
余裕なんかないぞ」
「説得の方向性が間違ってますよ、プロデューサーさん」
肩越しに声をかけると、プロデューサーは振り向いた。
「あ、小鳥さん」
「どうしたんですか、そんな大きな声出して。事務室まで聞こえましたよ」
「ああ、ご心配かけてすいません。実は春香がですね――」
「悪いのはプロデューサーさんですーっ!」
話し始めた彼を遮るように、可愛らしい声の妨害が入る。二人は顔を見合わせ、次いで
閉ざされたドアを同時に見つめた。
「……プロデューサーさん、今度はなにやらかしたんですか?」
「俺ってそんなにいろいろやらかしてますか」
「おとといレッスン室のダブルブッキングで真ちゃんのプロデューサーさんと腕立て伏せ
対決やったの、誰でしたっけ」
「……面目ない」
小鳥は小さく溜息をつき、会議室のドアに向かった。
「春香ちゃん、私です。このドア、開けてくれないかしら」
「ごめんなさい小鳥さん、でも今日と言う今日は私、本っ気で怒ってるんです。だから
ここを開けるわけには行かないんです」
「そんなに思いつめて?春香ちゃん、いったいなにがあったの?」
まだまだランクは低いとは言え春香は765プロダクションの大事なタレントだ。その
タレントと二人三脚で芸能活動をこなすのがプロデューサーであり、確かに衝突のひとつも
ないとは言えぬもののその二人がこのようないさかいを起こすと言うのはよくよくのことだ。
プロデューサーとタレントが相身互いを信頼してこそのアイドルユニットである。小鳥の
脳裏に不穏な想像が湧き起こる。
「春香ちゃん……まさかプロデューサーさんに力づくで思うがままにっ!?」
「は?」
「えっ?」
「まさかまさか、でもプロデューサーさんとは言え一人の男すなわち一匹のオス、ああっ
いつの日かこんなことが起きるんじゃないかと心配していたの!」
「こ、小鳥さん?」
「そうなのね!そうよ今日の午後は春香ちゃんとプロデューサーさんが打ち合わせと称して
二人っきりで密室にいたんだわ。きっとそこでプロデューサーさんは
『なあ、春香?』
『なんですか?プロデューサーさん』
『春香の髪って……いい匂いがするな』
『ええっ?ぷ、プロデューサーさんったら、いきなりなにを言いだすんですかあ』
『本当のことさ。ほら、こうして手に取るだけで』
『やっ?な、なにを』
『それだけで乙女の芳醇な香りが漂うんだ。艶やかな流れに指をくぐらせれば』
『あんっ?い、いきなり触らないで……くださいっ』
『まるで光をたたえた川に身を踊らせるようだ。その岸辺には美しい野原が広がり』
『ふぁ!耳……は、だめ……っ』