年度末だっていうのに、というよりも年度末だからこそ忙しい。
新しく入社する人、お別れになる人のために色々と書類を整える。
でも私には関係ない。私は去年も今年も、そして来年もきっとここにいる。
自分だけ時が止まっているようなものだ。
友人にも知り合いにも、先輩にも後輩にもあるような「時の刻み」。
私にはない。ただ、それだけのことなのかもしれない。
ただただ、流れるように私の周りを過ぎていく。
事務所の隅で仕事をしている私。
一人ではないのが、唯一の救いかもしれないけれど。
でも、彼女の時も止まったままなのかもしれない。
帰る家を失った犬のような眼をしながら、ただ黙々と仕事をしてくれている。
私はふと手を止めて、彼女の横顔を見る。
綺麗な長い髪に、ほっそりとしたしなやかな身体。
一見たやすく手折ることができそうな繊細なガラス細工のようにも見える彼女。
私の眼の前にあるのは、金属的な輝きの箱のそばに並べられた2つの茶色い瓶。
躊躇する私。
これに手を出してしまうことへの怖さと誘惑がせめぎ合う。
”楽になれるよ”
甘い囁きが頭の中で繰り返される。
私と彼女を待たせて、遠くへ行ってしまった彼の、あの人の声。
彼の心を争って、彼女と競ったあのころが懐かしい。
でも、今は、ただ望むだけの存在。
私は小瓶を手に取る。
もしかしたら彼のぬくもりが残っているかもしれない、などという甘い思いが冷たいガラスに吸い込まれていく。
黙々と仕事を続ける彼女のそばに立つ。
私の気配を察した彼女が、手を止めて不安そうな眼で私を見上げる。
「千早ちゃん…。これ…ね…」
「…小鳥さん…」
「楽に、なれる、よ…。」
「………。」
彼女が私から眼を背ける。
でも、視線の先にあるものは、私が置いた小さい瓶。
「彼が、くれた、ものだから…」
「…」
「一緒に、ね…。楽になろう…ね…。
私も、寂しいの…苦しいの…
あのことを思うだけで、苦しいの…」
「…小鳥さん…」
彼女が意を決したかのようにすばやく手を動かして、小瓶を手にとる。
蓋を開けた瞬間に少しだけ躊躇いを見せる彼女。
でも、すぐに、その瓶を彼女の小さな口元へと持っていく。
私もまた、彼女の動作に合わせるように、両手でそっと抱えるようにして。
こくん。こくん。こくん。
私と彼女がそれを飲み干す度に、小さな音が静かな部屋の中に響く。
甘くほろ苦いような味の液体が喉を過ぎて、おなかの中でじんわりと染み込んでいく。
彼女の隣に座る。
眼を閉じる。
瓶の中の液体が身体に染み込んで、すべてを取り払ってくれるようで…
「小鳥さん…これで…私たち…」
「うん…」
さようなら。
さようなら、私…。
さようなら、疲れた私!!!!!!!
「おおっしゃーーーーーー!!!やるぞ!やるるりますよ!
ひたすらやりますよ、音無小鳥20歳!」
「小鳥さん、やるのはいいんですけど20歳ですか?」
「いーの!こういうときは勢い!ほらどんどんやりますよ!
千早ちゃん、たそがれている暇があったらこれ!」
私はばあんと机を叩いて勢いよく立ち上がると、席の後ろに置いてあった段ボール箱を勢いよく抱え上げる。
ミカン箱ぐらいの大きさの書類整理箱の中には、プリントアウトされた書類がぎっしり。
「ほら千早ちゃん!次はこれね!
この箱に請求書と明細のリストが印字されたものが入ってるから、カットして仕分け!」
「えええ、まだこんなに…いいです、やりますよ!やりますよ私は!」
流石はプロデューサーがくれた○○ケルね…高いだけのことはあるっ。
あの千早ちゃんまでがちょっとハイになって勢いづいてるんですから!
「そうそう、やらないと、焼肉だからねっ!
…ってああっ、きたきたきた、千早ちゃん来たっ!」
「きたーーーーっ、すぐ見ますっ」
「早く早くっ」
一度テンションが上がるともう止まらない。
さっきまでのけだるい雰囲気も、どこかに消えてしまっているようだ。
彼女の机の上においてある携帯電話が鳴っている。
プロデューサーからのメールが届いたことを知らせる音楽で。
「…ふんふん…小鳥さん、プロデューサー空港に着いたそうですよ!」
「肉持ってるって???」
「…律子さんが取引先を垂らしこんでゲットした上級カルビとタンが重すぎて持てません、とか書いてありますよ!」
「わーいわーい、カルビだ、タンだ!」
「小鳥さんはカルビたっぷり食べて、デブになってくださいね」
「いいよーだ、タンしか食べないと胸おっきくならないんだよ?知らないの?」
「くっ、そんなの嘘ですっ!」
そんな怪しい会話をしていると、事務所のドアが勢いよく開く。
「じゃーん、たっだいまー!
ピヨちゃん、買い出しユニット、ただいま戻りましたぁ〜!」
元気よく亜美と真美の二人がスーパーの手提げ袋を持って駆け込んでくる。
「報告します!ピヨちゃん参謀長!
はるるんとやよいっちはデザートほーめんでくせんちゅう、だったけど、必ずいいものを買ってくるって!」
「お金はあるから高くておっきなものを買ってくるのよ!」
「そのとおり伝えてるよ!そうでないとフタリでケンカになっちゃう!」
そんな会話をしていると、社長と真が重そうな瓶とペットボトルらしいものを抱えて入ってきて。
「ふうっ、おもかったぁ、流石のボクでもちょっときつかったですよー」
「真ちゃん、お疲れ様!
社長、すみません、重いものを持たせちゃって」
「いやいや、これぐらいは別にね。それにたまには頑張らないと、老化が進んでしまうからねぇ。
なんといっても苦労してくれる君たちのためだ、これぐらいはたいした事ないよ?
さあ、あと少しだろう仕事も。すっきりと年度末の打ち上げができるように、あと少しだけ頑張ろうじゃないか!」
今年の最後の焼肉パーティ。
ああん、焼けるのを想像するだけで、私、濡れちゃったんです…。
「小鳥さん、よだれ拭いてくださいよ。まだ早いですよ!」