少し鼻を通過していっただけでそれと分かる独特の苦味を含んだ香りと、ゴリゴリと豆が砕けていく心地良
い音を愉しみながら、昼下がりのオフィスで俺はコーヒーミルのハンドルをぐるぐると回していた。給湯室の
ポットの前に陣取った傍らには、コーヒーサーバーに自分用のマグカップをセット済みだ。
スーツを着て働くようになって以来、食後にコーヒーを飲むことが習慣になっていた。つい先日、一人でオ
フを取ってのんびりしようと思っていたがどうにも落ち着かずデパートへ出かけた際に福引をしたのだが、こ
のコーヒーミルが当たったのだ。
どうせ自宅に置いておいた所で使う時間も無いだろうと職場へ持って来て見たが、これが中々楽しい。つい
ついコーヒー豆なんぞを自分で買ってみたりと、給湯室の中にこっそり豆の種類が増えていたりもする。
少し豆の量が足りなかったかな、と思って足そうとした所で、給湯室の扉が勢い良く開いた。
「あっ、兄ちゃん発見!」
狭い給湯室に高い声が響いた。亜美が思い切り俺の鼻先目掛けて指を差している。
「何してるの?」
と、その後ろから真美がひょいと顔を出した。俺の握っているハンドルに二人の視線が集中した。
「ねぇねぇ、何それ? ぐるぐる回して何してるの?」
「あぁ、コーヒー豆を挽いてるんだ」
「へぇ、楽しそう! ねぇ、亜美にやらせてよ」
「真美もやるっ」
亜美と真美が揃って好奇心に目を輝かせた。お互いの意思を確認することなどせず、亜美と真美の両手が一
斉に伸びてきて、制止した俺の右手がごちんと挟まれた。
「いてっ」
コーヒーミルが傾いて、下部の引き出しから少しだけ黒い粒子が零れ落ちた。
「あっ、ごめん兄ちゃん!」
先にそう言ったのは真美の方だった。
「もー、真美がいきなり手を伸ばすからだよ」
眉を顰めて言う亜美が売った言葉を、
「なにさ、亜美だって同じことしたじゃん!」
と、即座に真美が買う。
「まぁ落ち着け。これがやりたいんだろ?」
ギスギスした色合いを含ませ始めた二人の視線を人差し指で引きつけて、そのままコーヒーメーカーへ。く
りっとした瞳が下から俺を見上げると、房になった髪を二人は縦に揺らした。
「なんか、おもしろそーなんだよね」
「といってもなぁ、もう半分ぐらいは終わっちゃってるし……」
どうしたものかと考えあぐねていると、ポットの脇でまだ袋の口を開けたままのコーヒー豆が目に入った。
「二人もコーヒー飲むか? それで、自分の分を自分で挽けばいい。見事に万事解決だ」
わざと明るい調子で言って、二人のそれぞれにスプーンを手渡す。ちょっと待ってろよ、と前置きをしてか
らさっさと自分の分を終わらせ、フィルターに砕いた豆を注ぎいれてから、どちらから先にするのかと目で問
いかけた。
「んー、ニガいのはイヤだなー……でも、やってみたいな、グルグル……」
そう言いつつ、真美が流し目で亜美を促した。
「コーヒーかぁ、たーっぷり砂糖とミルク入れなきゃだね」
真美の言葉を受けて、亜美が一歩前に出た。ややサイズの大きなパーカーの袖から可愛らしい指を覗かせな
がら、ティースプーンで二、三杯。ハンドルを握ると、途端に亜美の目がにんまりと細まっていった。
「お……おぉ〜……なんだかめっちゃ楽しいよ、これ!」
いいなー、と羨む真美の声をBGMに、フルスロットルで亜美がハンドルを回す。バキバキと音を立てて砕ける
豆の破片が、小さなテーブルの上に散った。
「おいおい、あんまり勢い良くやり過ぎるとフッ飛んじゃうぞ」
苦笑いする俺の声も、大はしゃぎの亜美の耳には入っていなさそうだ。円を描くミニマルな動きに亜美の視
線は熱く注がれっぱなしで、鼻息が荒いのも目に見えるようだ。香ばしいコーヒーの匂いが立ち上る。
焦げ茶色の豆が刃に砕かれる、塊の存在を想起させる音がジャリジャリとした砂のような音へ変わっていく
のに、そう時間はかからなかった。やがて手ごたえが感じられなくなったのか、ハンドルを回す手の動きも緩
慢なものになっていく。