季節の変わり目とは色々厄介なもので、急激に変化する気温や湿度についていけず体調を崩す人が、古今東
西を問わず後を絶たない。世間の人々が上着を羽織り始める頃になってしばらく経つ。どうやら俺も、変化に
ついて行けなかった人の仲間入りを果たしてしまったようだ。喉のひりつく痛みとツンと来る鼻の痛みに日々
頭を悩ませていた。発熱が無いのが唯一の救いだが、垂れてくる洟をどうにかすべくティッシュの持ち運びは
欠かせないし、担当アイドルに風邪を移しては一大事なのでマスクの着用も必須だ。鼻が痛いと頭も一緒に痛
くなるので、それが辛かった。
「よし、じゃあ今日はここまでだ。二人ともお疲れさん」
いつもよりも長く感じた一日もようやく終わり、頭一つ分低い所から俺を見上げる双子に声をかけて、右手
を挙げた。ブラインドに阻まれて外の様子は見えないが、きっと冷たい風が木々の落ちかけた葉を揺らしてい
ることだろう。
「うん、兄ちゃんおっつー。……けど、カゼ、大丈夫?」
「ああ、俺は平気だから、亜美と真美の方こそ、帰ったらきちんと手洗いうがいをしておいてくれ」
そんなマメなことはやっていない自分のことはひとまず棚に上げておいて、不安そうに瞳を曇らせる亜美の
頭をそっと撫でた。
「急に寒くなっちゃったよね、一週間ぐらいで」
事務所の中でも少し冷える。そういえば、空調の調子が悪いから近い内にメンテナンスをお願いしよう、と
いう話を社長がしていたような気がする。
真美は両手で口元を覆って息を吐きかけ、掌を擦り合わせていた。剥きだしの小さな手の白さが、フロアに
漂う冷気を強調するようだった。
「ねぇねぇ亜美、帰りにコンポタ買ってこ」
「ん、そだね。あったかい缶を持ってるだけで違うしね。じゃ、兄ちゃん、お先にー」
「おう、気をつけてな」
手を振りながら事務所を後にする亜美達の笑顔に安心しながらも、二人の姿が見えなくなった瞬間に体がズ
シッと重たくなり、心の底から溜息の出る思いだった。
病院に行く時間はどこかで取れないものか、と思いつつも、人気が波に乗り始めた今が二人にとっては大事
なのだ。ここが踏ん張り所だと自分に言い聞かせ、俺は自分のデスクに戻ってパソコンを立ち上げるのだった。
コーヒーを淹れようとマグカップの取っ手に指を引っ掛けた瞬間、指先から伝わってきた冷気が肘まで上っ
てきて、背筋がゾクリとした。
五日後。幸い俺の風邪が移るようなことも無く元気なまま仕事に打ち込んでくれた亜美と真美は、オフを取
ってお休みだ。しかし、担当アイドルの休日がプロデューサーの休日であるわけでもなく、俺はいつも通りに
765プロの事務所だ。鼻と喉は相変わらず不調で、鼻炎、頭痛、倦怠感、咳と、列挙してみれば豪華なものだ。
俺のデスクには栄養ドリンクの空き瓶がそのままになっていて、今日もマスクはつけたままだ。今年の風邪は
しぶとい。毎年聞いている気がするフレーズが、今年もテレビで流れていたのを思い出す。
あの二人がいない今が、溜まった事務仕事を片付ける絶好のチャンスだ。活発という言葉では表現しきれな
い、ただ一緒にいるだけでも猛烈な勢いで体力を消耗するような二人に振り回されないのは幸運と言えば幸運
だが、世の中の嫌なことを全て吹き飛ばしてくれるようなあの明るい声が聞かれないのは少々寂しくもある。
「兄ちゃーん、おっはよーん」
と、その時、まるで俺の考えを見透かしていたかのように、『あの明るい声』が事務所に響いた。ガサガサ
とビニール袋の擦れる音を引き連れて、声の主達はこちらへまっしぐらにやってくる。
「おいおい、どうしたんだ、今日はオフだろう、二人とも」
「うん、知ってるよ」
俺の答えは予想済みだったのか、真美が口元をきゅっと吊り上げてはにかんだ。腰の後ろに回した手から下
がったビニール袋は真美のほっそりした腰元からでこぼこの輪郭を覗かせていて、スーパーで買い物をしてき
ました、と言わんばかりに青葱の首がこんにちは。亜美が手に持ったベージュのトートバッグには、その変形
ぶりから中に鍋でも入っているようだ。
ひとしきり亜美と真美の手元を見てから顔に視線を戻すと、目を弓なりに細めて笑う亜美と目が合った。亜
美は、悪いイタズラを思いついた時と同じ顔をしていた。