アイヌについて その2

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12アイヌは侵略者
 司馬遼太郎の『オホーツク街道』には、アイヌ民族のことも書かれている。アイヌの文化は、最近の学説では、縄文文化の名残であるといわれるようになったという。北海道でアイヌの文化が確立したのは比較的新しい時代で、13世紀前後だという。しかしアイヌの服装や住居は厳寒の北海道には不向きで、北方系とはいいにくいと司馬遼太郎は書いている。
 司馬遼太郎の「街道をゆく 38」の『オホーツク街道』(朝日文芸文庫)を読むと、北海道にはアイヌ民族の他にギリヤークなどのオホーツク文化人がいたという話が考古学の研究成果とともに紹介されていて興味深い。
 司馬遼太郎は、網走で床屋を開業しながら「モヨロ貝塚」の発掘調査を行った米村喜男衛の生涯を詳しく紹介している。昭和16年、北大医学部の児玉作左衛門教授がモヨロ貝塚の人骨を調査した結果、この人骨は日本人ともアイヌ人とも全く異なる骨の形をしていると分かり、これを「モヨロ人」と命名して学会に発表したという。
 北海道の網走支庁から宗谷支庁にかけてのオホーツク沿岸には、北方少数民族の貝塚などの遺跡が数多く発見されている。この地域に住んでいた民族は、網走の「モヨロ人」などをはじめ1つの勢力をなして北海道においてアイヌ民族と棲み分けをしていた。このオホーツク沿岸の集団を司馬遼太郎は「オホーツク文化人」と呼んでいる。
 アイヌ民族については、南方系だという説があるのに対し、モヨロ人はれっきとした北方人だという。冬は竪穴を掘って、厚く草の屋根をかぶせ、流氷の海で海獣を狩猟して暮らしていた。
13アイヌは侵略者:2001/07/03(火) 16:33
 『オホーツク街道』では蝦夷の実体は分からないと書いてある。蝦夷はアイヌだという意見が単純明快だというが、そもアイヌの実体もなかなか難しい。『日本書紀』には、蝦夷(えみし)の他に粛慎(ミシハセ)という人々も登場するそうだ。司馬遼太郎は、ミシハセはオホーツク文化人と関係があるのではないかと推測しているが、『日本書紀』のミシハセに関する記述が簡単すぎて、断定はできないという。
 ちなみに縄文人は一般に小柄で、男は158cm、女は147cmという平均身長だそうである。
 「江別文化」というものも、この本で初めて知った。本州で9000年以上続いた縄文文化が米の渡来によって紀元前3世紀に終息した後も、北海道では縄文文化がなお続いていた。それを続縄文と呼ぶそうだが、「江別文化」は続縄文時代のものだという。江別市は札幌市の東隣にある。その江別で多くの遺跡が発見されたという。
 この「江別文化」は近代のアイヌ文化とは異なるという。アイヌ文化は13世紀の鎌倉時代から始まったそうで、比較的新しい。「江別文化」は古く、7世紀半ばの安倍比羅夫の頃のものだという。司馬遼太郎は、「江別文化」は昔のミシハセが作った文化だろうと書いている。