関西VS関東(純粋に学問的に)

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67天之御名無主
今からおよそ1300年前の高句麗滅亡によって、大勢の高句麗人(高麗人※)がわが国に渡来した。当時の日本より高度な文化を持っていた渡来人は、土木技術や新田開発などで活躍し、喜んで迎え入れられた。

 持統天皇元年(686)、常陸に高麗人56人が赴いたという伝承がある。また、和銅元年(706)に常陸守になっているのが阿倍狛朝臣秋麻呂という人で、この人の2代前の祖先、比等古臣(ひとこのおみ)という人が遣高麗使になっている。行方郡玉造町の三昧塚古墳は帰化人文化の痕跡を辿る重要な遺跡であったが、昭和30年に霞ヶ浦の防波堤を作るため長さ90bの前方後円墳を壊してしまった。内部の石棺から6頭の馬が3頭づつ中心で向き合っている金銅製の豪華な冠が出土している。

 『続日本紀』元正天皇霊亀2年(716)には、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1,799人をもって武蔵の国に移し、はじめて高麗郡を置く」とある。武蔵の国高麗郡とは現在の埼玉県日高市、西武池袋線高麗駅からJR八高線高麗川駅間の高麗本郷のこと。ここには高麗神社があり、隣地には高麗山聖天院がある。

 ほど近い飯能は、「韓(ハン)の地(ナラ)」という意味である。
 都内にも駒沢※・駒込・駒場・狛江※など高麗関連の地名が多い。また、群馬県の上野(こうずけ)には木暮姓が多いそうだが、これも高句麗→コクレ→木暮となったものだ。

 ※駒…馬のことを駒というのは高句麗以外ないそうだ。東京駒込なども高麗の集団が残した地名。山梨県の甲斐駒も同じである。馬というものを東国に広げたのは高麗集団で、関東武士と騎馬民族であった高麗とは深いつながりがある。
 ※狛江…狛江百塚といわれるほど古墳の沢山あったところで、今はわずかに兜塚古墳と、戦後に発掘された亀塚古墳があるだけだが、これは6世紀初めに築造された高句麗系のもの。ということは少なくとも5世紀半ばには高句麗人がそこにいたことになる。
 川崎市の早野横穴、馬絹(まぎぬ)古墳も高句麗系の古墳である。
68天之御名無主:2001/06/29(金) 04:06
高麗神社に掲げられた縁起の一部を要約する。
 「高麗神社は、唐・新羅連合軍に敗れ滅亡した高句麗国の王族若光(じゃっこう)を祀る神社である。高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。」
 隣地の高麗山聖天院には若光の廟所があり、今なお線香の絶えることはない。

高麗神社は1259年に失火し、貴重な高麗氏系図を焼失した。そこで一族が集まって家系図の再編を行ったが、その時集まった氏族の名が残っているので参考までに記しておく。
高麗・高麗井(こまい)・駒井・井上・新(あらた)・新井・神田・丘登(おかのぼり)・岡登・岡上(おかがみ)・本所・和田・吉川・大野・加藤・福泉・小谷野・阿部・金子・中山・武藤・芝木

 高麗神社の分社が東京都と埼玉県で130ほどあり、それがあるところでは白髭神社※となっている。白は斯盧(しろ…新羅の別名)で新羅につながるのだが、これは以前に新羅系渡来人の居住があり、そこに高句麗人の重層があったことを物語る。

※白髭神社…実体は新羅明神。この神社は日本中にあり、周囲の状況からどうしても新羅でなければならないのに、高句麗系の高麗若光を祀った神社も白髭神社を名乗っている。これは、新羅と高句麗が重層をなしていると考えればよい。
 山形県にも白髭神社は30数社あるという。
 武蔵の国に高麗郡を開いた高麗氏は、伝承上では相模の国大磯に上陸したことになっており、相模の国とも深い関係がありそうである。サガミのサガとは古代朝鮮語で“私の家”の意味(丹羽基ニ『地名』)があり、相模の国はこの意味だし、県中心部を北から南に流れる相模川も無論同様である。

 相模川の西側、大磯町にも高麗(こま)がある。ここには横穴古墳の沢山ある高麗山(こまやま)があり、山の下は国道1号線に面して高来神社がある。この読みはタカクだが、音読みすればコウライとなり高麗を高来に替えたのだとすぐ分かる。
69天之御名無主:2001/06/29(金) 04:06
 この神社から川を渡って暫く北上すると寒川神社に着く。この神社は延喜式神名帳にも名神大社に列せられた相模の国一の宮である。
 話は遠くへ飛ぶが、山形県に寒河江市がある。この読みはサガエで、漢字ニ字を読むとサムカワになる。この名も古代朝鮮語のサガから来た名で近くに最上川の支流寒河江川が流れていることから江をつけたのであろう。つまりは、相模の国寒川神社ももとは寒河で、河が川になって、漢字の読みが優先しサムカワになったものである。

 高麗神社を祀っていた人々は関東一帯へ発展すると同時に箱根や熱海の方面へも広がってゆく。箱根駒が岳山頂にあった神社が今の箱根権現だし、それが熱海の伊豆山権現にもなっていった。

 高句麗系の高麗郡出身者で福信という人は従3位に昇り、武蔵の守となった。中央官僚としても出世を遂げ、造宮卿にもなり、779年に、高倉朝臣という姓に変わる。高倉はコウクラの音にも通じ、高句麗とつながっている。神奈川県の高座郡は高倉郡であった。
 飯能の近くには高倉というところがあって、土地の人はコクリと呼ぶそうである。
 一方、新羅郡が置かれたのは今の東武東上線の志楽だった志木辺りを中心とした新座郡で、相模の高座郡と対照的である。

 武蔵の国加美郡内の4座しかない式内社のうち3社は頭にイマキ(今来・今城)がつく。今来とは、後から来た渡来人を呼んだもので、新来の帰化人が多いため大和の高市郡を今来郡と呼んだことが欽明紀に見える。