日ユ同祖論が真実ならば・・・。

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557ハダ
6世紀
●ウズマサ秦河勝、聖徳太子を補佐、上宮家財務の責任者、最初の遣随使の返礼で
隋書倭国伝「瀬戸内海沿岸に秦王国という中国語を話す人々からなる 地域(吉備)、さらに都はまさしく
秦そのもの(山城)のようだ」という記述あり
*ちなみに >>549
 >>秦氏=非漢族系他民族渡来集団
 >まず、このように断定(推測)できる理由がわかりません。どうして?
中華思想の漢族が、自らを秦氏だというはずがない。秦には西域、流浪とかの意味がある
8世紀まで大量移民してくる秦氏のなかに福音をもつ氏族がいてもおかしくないし、
当時の国際語だったアラム語、ヘブル語(イエスもアラム語を使用)が、漢字と同時期に大和朝廷に外交国際語として
流入していておかしくはないが...
蘇我の朝廷図書焚書事件で、表面的には消滅?

●784年
桓武(母方は百済系)+藤原種継(母方は秦氏)の計画で秦氏根拠地の山背(京都)に長岡京遷都、
その後種継は天武系シンパから暗殺されるが、藤原一族はこれを天武系
シンパ抹消に利用、保守派の万葉集の大伴家一族らも殺りく、天武系からもとの天智系に完全に戻す
(天武は天智と兄弟でなかった説がある、これで万世一系を再び確保?)
794 年、さらに秦氏に近い和気清麿(吉備の美作)らによる平安京遷都を強行、秦氏全国から人夫、資金提供

桓武+秦氏+和気清麿+藤原が1000年続く京都をつくる
秦氏については、伊勢神宮、八幡神社、お稲荷さん、山岳信仰、とか古い出雲系神社以外の多くの社建立に
関与、京都の開墾者として天皇家とも縁の深い松尾、上下賀茂神社、景教伝説のある広隆寺などを建立

そういう背景から、もっと中央の学者はまじめに秦氏を研究すべき
功績の割に評価も低いし、実態が見えてこないので、トンデモ説(上記もそうかもしれないがW)がはびこる

幕末に再び、秦氏系の幕府要人(勝海舟ら)、勤王土佐(長曽我部系の庄屋同盟、後の勤王党、海援隊、陸援隊)
隼人(秦人説もあり)末裔薩摩、渡来系長州らが盛り上がっているのも面白いしね
庄屋同盟では決起文に、「秦臣下」と書いていたはず...