日ユ同祖論が真実ならば・・・。

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410天之御名無主
遣隋使・小野妹子の帰国に従って来日した隋使・裴世清は、大和朝廷への
紀行で、対馬・壱岐を経て筑紫に至った後、さらに東行して秦王国に至った
と書いて、ここの住民はまるで華夏(中国)人と同じで、この国をなぜ蛮夷
の国と言うのか分からないと言っている。そこから先にも「十余国あって海
岸に達する」とあり、それらの国々については国名も挙げられず記事もない
ことから、江上波夫氏は、この秦王国は倭国王の都した大和の国だと断定し
ている。さらに、日本では、辰韓を秦韓と表記するなど「辰」の字は「秦」で
表されていることから、秦王とは辰王のことで倭国王の出自が百済の辰朝で
ある事を示していると主張している。
秦王国の位置については九州にあって、十余国を経て海に出て、瀬戸内海を
航海して直接大和に入ったと考えるのが自然だが、オレは江上氏の解釈を支
持する。
当時は聖徳太子の時代で、前に述べた通りオレは日本の王・タリシヒコ=聖徳
太子=蘇我馬子=弓月王(秦王)と見なしている。裴世清が秦王国と記したのは
まさに秦王(蘇我氏)が君臨する都だったからだろう。また中国人と同じと書
いたのは、秦人は中国人ではないが、中国文化をうけた塞外民の謂だったこと
が中国文献の用例から推知されることで説明できる。秦王国は正確には飛鳥で
はなく、秦氏の領国のことだろう。