八尾比丘尼について

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1天之御名無主
知ってる人がいるなら教えてください。
2天之御名無主:2001/08/05(日) 11:25
○八百比丘尼
×八尾比丘尼
一応つっこんどく。
3天之御名無主:2001/08/05(日) 11:32
人魚の肉を食って八百年の齢を保ったという女性。墓といわれ
るものが福井県小浜市の空印寺にあります。検索するとたくさん
みつかるよ。

あと似たような話として、『義経記』で義経たちが討たれる日に
ちょうどお参りに出掛けて主と死をともにできなかった常陸坊海尊
(ひたちぼうかいそん)というのが、江戸時代まで生きていたなど
という話もあるね。
41:2001/08/05(日) 11:41
>>2
そうだったのですか…すいません
5天之御名無主:2001/08/06(月) 10:06
ge
6天之御名無主:2001/08/06(月) 10:28
age
7天之御名無主:2001/08/07(火) 10:11
8天之御名無主:2001/08/07(火) 20:33
広島県の福山市か府中市のあたりにも八百比丘尼の民話(伝説?)
が残っています。
9天之御名無主:2001/08/07(火) 21:37
人魚の肉はおいしいらしいですね。
『食べてはならぬ』ということなんですかね。
10天之御名無主:2001/08/08(水) 01:13
小松左京に「比丘尼の死」という、八百比丘尼を主人公とする
短編があります。おすすめ。
11天之御名無主:2001/08/08(水) 04:16
そういえば「無限の住人」にも
八百比丘尼が出てくるね。
こっちは人魚じゃなくて蟲だけど。
12天之御名無主:2001/08/08(水) 10:13
八尾比丘尼ってオモロいな。
「おうワレ、往生させたろやないか! 成仏せいつ!」
13天之御名無主:2001/08/08(水) 19:42
>>10
出版社とか分かりますか?
14天之御名無主:2001/08/08(水) 20:02
>>13
私が読んだのは、20年以上前に出た講談社文庫版なのですが、
これはもう絶版だと思います。
検索してみますと、「今、書店で手に入る小松作品」という
ページがみつかりました。
http://www.nacos.com/komatsu/shoten.htm
ハルキ文庫というので手に入るようです。
15天之御名無主:2001/08/08(水) 21:18
比丘尼ック
16天之御名無主:2001/08/08(水) 22:56
鳥取の米子市にも、八百比丘尼の伝承があるな。
弓ヶ浜半島の粟島神社の麓の洞窟で亡くなったとか…
そんな立看があったな。
ちなみに、弓ヶ浜とは黄泉ヶ浜の訛りだそうだ。(既出?)
17天之御名無主:2001/08/08(水) 23:08
たしか高橋留美子が八尾比丘尼をテーマにした漫画を
描いていた。むかーし、友達に借りて読んだ。けっこう
面白かった記憶がある。

でも、「犬夜叉」はあんまり・・・。
18天之御名無主:2001/08/08(水) 23:36
>>17
ああ、人魚シリーズですね。たしか2冊でてた。

あの人は昔のほうが上手く魑魅魍魎が描けてたような。雰囲気とかさ。
漫画話なのでsage
19天之御名無主:2001/08/09(木) 01:25
「若狭からの伊勢参詣路に見る八百比丘尼伝説の伝播地」
という題で論文を書いた。
その時に使った参考文献のうち、八百比丘尼の記されてるのを書いておくよ。

小浜市郷土研究会「伝説資料集 八百比丘尼」1991年
日本児童文学者協会「三重県の民話」1982年
竹田静澄・著「日本伝説の旅(上)」1962年
柳田国男・著「定本柳田国男全集第五巻」「〜第六巻」1962年、1964年

あと5冊はあったが、ど忘れ。
2019:2001/08/09(木) 01:30
ちなみに、最初の小浜市郷土研究会が編纂した史料は、
おもしろくて参考になる良書。八百比丘尼の事を調べるなら、
まずこの本から見ていったら少なくとも基本はつかめると思う。
ただ、もう絶版らしいから手にはいるかどうかは判らんが。
僕もこの本を手に入れるのに、わざわざ小浜まで行って出版元を
尋ね、ようやく残ってた一冊を手に入れたくらいだから・・・。
21_:2001/08/09(木) 20:32
「火の鳥」なんとか編が面白い。
短い奴。無限の時の流れの奴
22天之御名無主:2001/08/09(木) 20:47
ところで八百比丘尼というのは、何か特定の時代のことを
よく知っていて話して聞かせたとかいう話はあるんでしょうか。
常陸坊海尊だったら、義経のことを語り聞かせたので関係人物
と「わかった」わけですが、ほかにもおとら狐が長篠の合戦の
ことを語ったりと、こういう長寿者は「歴史の生き証人」的な
役割を持っていることが多くあります。しかし八百比丘尼につい
ては知らないだけかもしれませんが、あまりそういう話を聞か
ないように思います。

常陸坊海尊については↓
http://www.st.rim.or.jp/~success/kaison.html
23天之御名無主:2001/08/10(金) 02:29
>>21
火の鳥異形編ですな。
第3巻に収録。あれは面白いですよね。
24天之御名無主:2001/08/10(金) 10:59
酒向伸行「山椒太夫伝説の研究」の附論に
「八百比丘尼伝説の成立」というのがあります。
そこで大方の八百比丘尼に関する原典が引用されてます。
25東沢美史:2001/08/10(金) 22:47
普通の神下ろしが出来る、巫女、霊媒師にあたりませんでしょうか?
最近読んだマンガでは月間チャンピオン?だったかの
高橋克彦原作の「アテルイ」に登場したおばあさんですね。
2622:2001/08/11(土) 00:02
そうですか。特に何かの話を聞かせたというわけではないの
かもしれませんね。
これはこの伝説を調べた人は皆ご存じでしょうが、室町時代
に京都に長寿の比丘尼が現れました。『臥雲日件録』や『康
富記』に出てきます。前者はいまコピーが見つからないので、
後者より。

『康富記』文安六年(1449)五月二十六日条
廿六日乙巳 晴、或云、此廿日比、自若狭国、白比丘尼トテ、
二百余歳ノ比丘尼令上洛、諸人成奇異之思、仍守護召上歟、
於二条東洞院北頬大地蔵堂、結鼠戸、人別取料足被一見
云々、古老云、往年所聞之白比丘尼也云々、白髪之間白
比丘尼ト号歟云々、官務行向見之云々、而不可然之由有
巷説間、今日下向若狭国云々、

臥雲日件録では年が五百歳だかになっていたと記憶して
いるので、いろんな噂があったのでしょうが、若狭国から来
たということは、伝説に残る八百比丘尼と何かのつながりが
あるのでしょう。少なくともこの例では、実際に長寿を主張
する人がいて、人々が群集して金まで払って見物したわけ
なので、何かしら人々にその長寿を信じさせるようなことが
あったのでしょう(柳田国男『山の人生』・『東北文学の研究』
(『雪国の春』所収)なども参照)。
人々に長寿を信じさせるには、何か昔のことを迫真的に語る
のが一番。八百比丘尼を名乗る者が実在して諸国を遍歴し
たとすれば、たとえば源平の合戦とか曽我兄弟とか(これじゃ
虎御前になるが(笑))、レパートリーがあったと考えたくなり
ます。
でも八百比丘尼の伝説にはそういう歴史の影がまとわりつ
いていないとすると、そこはちょっと不思議ですね。
2719:2001/08/11(土) 22:59
そりゃそうだよ。
いわゆる市井の民が「歴史」というものに積極的に目を向け始めるのは、
少なくとも江戸時代に入ってからだもの。それまでは歴史というものは一部の
者しか知らない存在だった。
でも八百比丘尼の伝説は、少なくとも江戸時代より遥か以前から日本各地に
伝えられていた物語だからね。それも、限りなく民衆に近いレベルで。
江戸期以前の民衆に「過去の出来事」を語って聞かせたところで、
それを「凄い!」と納得する以前に、それの示している意味自体が判らなかった
んじゃないかな。
八百比丘尼は、日本各地で土木工事を行ったり、樹木を植えたりと、その頃の
女性としては類い希な知識の持ち主として語られている場合が多い。
女性がそれほどの知識を持っている事がその頃の人々には驚異であって、
それが「長寿」の信憑性を高める一番の素材だったのではないかな?
2822:2001/08/11(土) 23:39
>>27
それなら室町時代の京都で見せ物になっていた二百余歳の比丘尼は、
木を植えたりして人々を納得させていたんでしょうか。
軍記物語は中世後期には地方でも知られていたようです。たとえば
近江国菅浦の百姓の申状で近隣の浦との対決を描いている文書には
軍記的な表現が見られます。
29天之御名無主:2001/08/12(日) 07:17
つまらんことを聞くけど、八百比丘尼は何と読むの?
どうやら、1は「やおびくに」と読むと思っているようだけど、
「はっぴゃくびくに」じゃ?
30天之御名無主:2001/08/12(日) 07:25
火の鳥では八百だったね。
31天之御名無主:2001/08/12(日) 09:23
>>29さんへ。

「八百比丘尼」は「やおびくに」と読みます。「八百」を「やお」と読む
事例は「八百万」=「やおよろず」と他にもあります。

ところで、八百比丘尼の八百はやっぱり八百歳(とっても長生き)
ていう意味なんでしょうかね?
32天之御名無主:2001/08/12(日) 10:49
「八百比丘尼サミット」というのがあるそうですね。

http://www1.ocn.ne.jp/~heida/rireki/1020.html

↑のサイトでは「やおびくに」と仮名を振っているから、たぶん
サミット参加各国(笑)の公式名称も「やお」なんでしょうね。
手元の角川書店『日本伝奇伝説大事典』は「はっぴゃくびくに」
でしたが。

ちなみに、小栗判官伝説ゆかりの地でも「おぐりサミット」とい
うのをやっているようです。美濃の青墓(照手姫が宿の長者に
こき使われたというところ)でサミット記念植樹の木だったかを
見ました。
33天之御名無主:2001/08/12(日) 11:19
人魚の肉はどんな味?の件ですが、近世の例ひとつ。

百井塘雨『笈埃随筆』巻之八
(一部表記変更)
  ○八百比丘尼
万葉集に、坂上大嬢贈家持、云々人者雖云若狭道乃後瀬乃山
後毛将会君(かくかくに 人は言ふとも 若狭道の 後瀬の山の
 後も逢はむ君)。枕草紙に、山は三笠山、後瀬山、小倉山、是
特ニ其名を得て云々。此山(後瀬山)の麓に八百比丘尼の洞有。
空印寺といふ寺に又社有。八百比丘尼の尊像は、常に戸帳を
ひらく。花の帽子を着し、手に玉と蓮花やうの物を持たる座像な
り。又社家に重宝有り。比丘尼所蔵の鏡、正宗作の鉾太刀、駒
角、天狗爪あり。比丘尼の父は秦道満といひし人のよし、縁起に
見へたり。初は千代姫と云し。今は八百姫明神と崇む也。越後
柏崎町の十字街に大石仏有り。半は土に埋る。大同二年八百比
丘尼建之と彫刻して今に文字鮮明なり。隠岐のすさびに云、岩井
津といふ所に、七抱の大杉あり。古へ若狭国より人魚を食したる
といふ尼来りて、植て八百歳を経て、又来りて見んといふて去と
云々。故に八百比丘尼の杉といふ。この事古老の語りしは、此国
今浜の洲崎村に、いづくともなく漁者にひとしき人来り住り。人を
して招きあるじ儲す。食を調る所を見ければ、人の頭したる魚を
さく。怪みて一座の友に[口耳]き合ふさまして帰る。一人その魚
の物したるを袖にして帰り、棚の端に置て忘れけり。其事常のつ
とならんと取て食しけり。二三日経て、夫問に、しかじかの事いふ
に、驚き怪みけり。妻いふ、初め食する時味ひ甘露のごとくなりし
が、食終りて身体とろけ死して夢のごとし。久しくして覚て気骨健
かに、目は遠きに委しく、耳に密に聞、胸中明鏡のごとしと云。
顔色殊に麗し。其後世散じて、夫を始め類族皆悉く生死を免れ
ずして、七世の孫も又老たり。かの妻ひとり海仙となり、心の欲す
る処に随ひ、山水に遊行し、若狭の小浜に至りしとぞ。
(日本随筆大成(新版)第二期12、156〜157ページ)

この話では「甘露のごとく」とか、体がとろけるとか書いていますね。
食べるのは伝説では妻より女の子の方が多いか? 日待ちとか月待ち
の晩という設定も多かったように記憶しています。
3429:2001/08/12(日) 15:59
>>31
ん〜、手元の柳田國男全集には、「はっぴゃくびくに」ってルビが振って
あるし、どっちもありなのかな?
35天之御名無主:2001/08/14(火) 00:37
>>28
木の移植がどれほどの技術がいるものなのか、現代の話で語ってはいけないよ。
現在では9割以上の着生率ではあるが、樹木用の抗生物質など無かった江戸時代
以前は最高の条件で2割に届くのがやっとという難しい技術だった。
木の移植とは、当時は一部の職能技術者しか出来ない最先端の技術だったんだな。
まぁ、臥雲日件録その他を見てみるに、京で見せ物(?)となっていた比丘尼は
別に何か特別なことをして長寿の証明をしておらず、周りの者の証言だけで人々
を納得させていたようだけど。

軍記物語に関しては、確かにその通り、中世には地方にある程度は入ってきてい
る。しかし、現在で言う地方役場の所蔵図書として入っているだけで、それが
民衆のレベルまで浸透していたという論には甚だ疑問だね。
先にも書いたように、民衆のレベルで「歴史」というものを深く理解するように
なるのは、出版が商業活動として定着した江戸期以降の話だよ。
36AGE屋:2001/08/16(木) 20:49
このスレは勉強になるスレと認定。
age。
371:2001/08/18(土) 10:18
age
38東沢美史:2001/08/22(水) 17:07
若狭の国が「金」を掘る人達の井戸を連想させたのか、後にこの地が「福井」と呼ばれるようになります。大伴家持もこの地で奈良の大仏用の金が見つかった陸奥国の産金の歌を詠みあげました。
この地の近くは「丹波」「丹後」の地名どうりに「丹」つまり神仙思想の不老長寿の薬「丹=水銀」が産した所でもあったのではないでしょうか。大仏を金メッキするには水銀が必要でした。
この金、水銀の集積には朝鮮渡来氏族百済氏がかかわっています。
八百比丘尼の長寿の話はこの渡来人の神仙思想ではないでしょうか。

このスレ詠みながら、無意識に八百比丘尼の代わりに若狭に居た朝鮮出兵の神宮皇后皇后を思い出してしまうんですが、二人は全く別人ですよね。
39天之御名無主:2001/08/23(木) 21:05
大伴家持がその歌を詠んだのは、家持が越中国守の時、
今の富山県の高岡市だよーん。
40三輪:2001/08/24(金) 23:49
岡山県浅口郡金光町には(千年比丘尼)の話しが伝わっています
あと清明や道満の遺跡もあります。
41sage:01/08/26 15:42
お父様が秦氏というわけですから渡来系なのかもしれませんね。
秦氏と水銀、水銀と長寿というながれのお話なのかもしれませんね。
42天之御名無主:01/08/26 21:01 ID:B7rCzdhY
コスイギンage
43東沢美史:01/08/27 03:27 ID:UepDSw.c
古代の王達は、不老不死の薬として「水銀」を服用したみたいですが、水俣病を例に
出すまでもなく、体には良くなかったはずで逆に寿命を短くしたとおもいます。

≫39さん 正確なご指摘、ありがとうございました。38を訂正します。

先史時代60万年前のニセ石器で有名になった陸奥の国の「上高森」など「高」のつく地名は「たが」
と「が」を「か。」と2種類に発音して、意味としては、男龍、女龍が絡みながら天へ上昇
する様を意味します。
またその地が温泉近くやかつての金鉱山、金の集積地地だったりします。
後に大伴家持が赴任する金の集積場「多賀城」も本来そんな意味合いが
強かった地名かなと考えております。

この「たか」「たが」、漢字表記ですと、「竹」「鷹」なども使われます。モチロン
「多賀」「多賀竜」はメデタイ(何故?金産出)意味の表記も兼ねてはいるでしょう。
八百比丘尼は名前から推測して登山するような山ではなく、
いたって低い山、ではないかおもいます。

中世や近世にはいってから、山の神社の洞窟に放浪僧や巫女が閉じ込められ、
竹筒空気穴一本で生き埋めされて「雨乞い」と転化したものの、金鉱山の近く
ということは、本来、金採掘に関する祭祀なんかが行なわれていたのではと
勝手に想像していますが、やはり結構人里近くの山が多いです。

高橋克彦の原作マンガ「アテルイ2世」のおばあさん、八百比丘尼を私は
そんな風に解釈してました。また「福」という漢字もお金持ちの恵比寿を連想
する漢字ですし、恵比寿様が腰に下げてる釣った「鯛」を入れる竹籠(たけかご)
の容器は「びく(魚篭)(比丘)」といいます。ときにはこの「びく」からは金貨が
あふれてる恵比寿様の絵を見かけます。「籠」「篭」は竹編に「龍」「竜」です。

つまり、・・クドクなり申し訳ありませんが、また字義にばかりトラワレテ、
アカデミズムの世界の皆様に笑われてるかもしれませんが、「八百比丘尼」
の漢字表記はかなり、この人物の特長を現してはいませんでしょうか。

また、スレ読んできて、出た地名「高岡」「岡山浅口郡金光町」「福山」など
拝見して、そんなこと想像しました。40の三輪さんのカキコみてさらに
連想しましたが、「アテルイ」を祭祀した「後三年の役」の安部貞任の氏族は後に
金掘り集団として全国に散らばります。金の「有りか」「場所」は陰陽司の影響下、
「北斗七星」の形で印と方位を示します。岡山県浅口郡金光町の遺跡も金つながりで
あって、決して偶然では無いような気がしてならないです。

清明、道満とくれば、仏教、神道で考察するよりも中国古代思想、道教、
そしてやはり神仙思想で八百比丘尼を描いた古文書を解釈したほうが
実像に迫れるのではないでしょうか。

あと、高岡についての歴史は全く知りません。ただ後に赴任した多賀城に
地名が「たか」「たが」と似ていたというだけのことですので、あしからず。
44天之御名無主:01/08/30 14:15 ID:dYj7JqHg
人魚のミイラ

和歌山県橋本市学文路 苅萱堂
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/mystery710_2.html
大阪市 瑞龍寺
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/3111/youkaiten/ningyo.html
オランダ ライデン大学(江戸時代の日本から持ち帰る)
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/19980426/f0804.html

人魚のミイラをもつ寺は少なくないようです。西国三十三所
の一つ、滋賀県安土町の観音正寺にもありましたが、火災で
焼けてしまいました。
これらはいずれも動物(サルなど)の上半身と魚を組み合わ
せた作り物ですが、誰が何のために作ったものやら。あるい
は八百比丘尼ともつながりをもっているのかもしれません。
45天之御名無主:01/08/30 14:22 ID:a46Tnt1Y
461:01/09/23 11:00
age
47天之御名無主:01/09/23 20:42
>>27 >>35
「民衆のレベルで「歴史」というものを深く理解するようにな」ったのは
近世になってからのことでしょうが、中世の民衆が「歴史」に関して
まったくの無知だったとは思えません

中世の民衆は幾度も戦乱をくぐり抜けて来る中で、「歴史」に関して
知りたいという欲求のようなものを持っていたはずです
だからこそ「平家物語」に代表される軍記物語が発生し、民衆に
受け入れられたのではないでしょうか

「平家物語」を語り伝えたのは琵琶法師という宗教的漂泊者でした
宗教的漂泊者という性格は八百比丘尼にも共通しています
「物語」として語られる「歴史」は宗教的漂泊者である彼らが語ったから
こそ民衆に受け入れたのだと思います
48天之御名無主:01/09/24 23:08
>>47
名前書き忘れていますが、「ひでよし」です
49天之御名無主:01/10/05 07:39
>38
福井はもと福居と表記しました。
福の井戸という解釈の余地は少ないと思います。
その福居も確か領主が縁起を担いで北ナントカいう地名から改称したものと記憶します。

それより>43の文章がさっぱり…。八百比丘尼が低い山…?
50天之御名無主:01/10/05 11:29
>>49
>八百比丘尼が低い山…?
きっと比丘ってなんなのか知らないけど、レスしたかっただけなんだよ。
というか、かわいそうだから、あんまり追求しないでおこうよ(笑)
51東沢美史:01/10/06 21:59
>49さん、ご指摘に感謝します。県名のいわれはかなり大事だとおもっています。
>50さん、ありがとうございます。でもどうぞ、お気遣いなく厳しく書いてくださ
ること希望します。この掲示板で真剣に学びたいと思っております。

私は東北なんですが、家は日露戦争の頃まで信仰者でたいへん流行った神社、
おこもり堂、仏堂、精進堂が建つ境内を何箇所も利用してて、自宅はそのうちの一
つの中にあります。
萱葺きの自宅は200年も前に建てられた信仰仲間のかどかけ(門つけのこと)す
る漫才、えびすこ、飴売り、箕売り、竹細工(たがかけなども)、木杓子売りなど
を泊める家でもありました。私も仲間もそれぞれ、いま現在東北や東京など全国を
かどかけして周っています。
またこの家などで、大おばはかみさまという「口寄せ」をするおがみ様をたのんで
阿弥陀様の参詣客に戦地の兵隊の様子を聴かせる仕事をしていました。
親族は近畿、東海でいまも降ろしてるそうです。

私が子供の頃の昭和40年代に、民俗学の研究、調査の人が多く家へ来ましたが、
そのときにかつて祭祀を行なった「国見」という場所を祖父が話していて、
いずれも20分ぐらいで登れる人里近くの小高い山なんですね。
丘ともいえそうなんですが、決して山岳地帯ではありません。
八百比丘尼の名は民俗学の調査に来られた学者の本から父が覚えていたものであって、
私の家の信仰を指したものではありません。
ただし意地の悪い人達からバカにされている家のご神体を祭祀した
かみさま(口寄せの女性)だったんですが、卑弥呼、神宮皇后などと一緒に
八百比丘尼の名(響きが好きだっただけだと思う)を口にすることで、
惨めな信仰じゃないんだ、逆に優越感を持っていい信仰なんだという信念になれて
いたんだとおもいます。

私は学問や学歴がないんですが、とても民俗学に好奇心を持っています。
郷土史の方たちに入会をお願いしたんですが冷たく扱われて、断られたかたちに
なっています。
民俗学(こういう学問の存在は去年知ったばかり)の知識は中学卒業してから
20数年間に各地、十万件以上の各家を回って各家の祭祀のことなどお聞きした知識と、
高橋克彦の小説を基に信仰の謎を推理しています。
大学で学ばれた皆さんの、学術的な見地から何故、
八百比丘尼の「ク」音の「丘」の字が充てられたのか、
わからなければ推理でもよろしいのでお考えをおしえてください。
また、大学での学歴がないみなさんの、
日頃のご研究からの考察ももちろんお聞きしたいです。
52天之御名無主:01/10/06 22:29
>>51
カミサマがお祭りをする家だったのですか。こういう話は嬉しいです。
ただ、お話の「多賀」「高」という地名と「国見」という地名と、八百
比丘尼との関係が、読む方には依然としてよくわかりません。カミサマ
が八百比丘尼のことを何か言っていたということですが、それと「高」
とはどう関係するのか、また「ク」音の起源をなぜ問題にされるのかに
ついては、読んでいてもわかりません。
53東沢美史:01/10/07 11:32
52さん、ありがとうございます。
国見での祭祀は私の家の場合には、日露戦争期の死後の御霊の管理や
戦勝の祈願を依頼されて執り行ったとおもいます。
依頼主は社会的身分の高い名士や軍人などです。

本来、死人の口寄せが主な仕事なのに軍艦を買う金や戦勝を依頼するのは古代において
そのような祭祀があったと明治期の祖先らは認識してたからだとおもいます。
地勢的に大したことない低い山ですが弁慶死の衣川合戦を見下ろす地、
胆沢城の真北などいずれも古代の歴史の合戦地に「国見」という小高い山があります。

また「音」の推理で申し訳ないですが「国見」(くにみ)が「比丘尼」(びくに)
と発音が近似してるということです。同じように「三国」と書いて「みくに」と
発音しますが、これも当地の信仰について検証したいとおもっていますが。
「丘」の字は単に「音」を必要としただけなのか、漢字の意味は付加されて
いないのかということです。民俗学の専門家の皆さんが否定されれば、
コレ以上の追及は無駄ですし私もあきらめます。
ただし、実際の衣川の「国見」は「丘」っていう感じがします。

「高」「鷹」」「竹」などを東北では「たが」(鼻濁音含む2種)と発音してます。
私の家では一番大切な信仰のいわれのもとであり、それに伴う収入源にもなります。
「たが」とは男女の龍が絡み合う姿を組む、編むことをいいます。その地名は金の
産出に関係します。
昔は土木関係、今は農家の方が背中に背負う「もっこ」というのをご存知ですか。
コレに光背をつけた曲げ枝や竹で編み組みした物を「たがらもっこ」といいます。
東北では「たがら」と言いますが
「たがら」=「宝」=「金(泥金を含む)、銀(丹を含む)」を意味します。

「高森たがもり」「多賀城たがじょう」「高田たがだ」「高木、高城たがぎ」
はいずれも低い山です。世界的に有名になった
ニセ石器疑惑の「上高森」地区(古代伝承が多い)には
私自身2千回近く通ってますが丘でしょう。これら低い山、丘の場所からから
金の産出する古代人が登れない山、噴火山を遥拝、祭祀したものと捉えています。
富士山でいえば、「一富士、ニ鷹」の「鷹」の山ということになりますが。

コミック誌「月刊GOTTA」の高橋克彦原作・原哲夫画「阿弓流為U世」では
遠野の早池峰山に去年、1200才の八百比丘尼が登場しました。
54天之御名無主:01/10/07 12:07
>>53
八百比丘尼というのは、もともとはそういう名で呼ばれる女性を
さすわけで、地名ではないはずですが……。
ご存じと思いますが、比丘尼は昔から普通に使われている言葉で、
梵語bhiksuniに中国で漢字をあてたものです。尼という意味。

「国見」は、これはこれで古代から丘に登って平野を眺めるのが
重要な意味を持っていたとされていますが、ビクニと結びつける
のはいかがなものでしょう。もし、そちらの「国見」に、八百比
丘尼の伝説(椿を植えたとか)が伝えられているとか、「国見」
という地名を別名で「ビクニ」と称する、とかいうことであれば、
関係があるといえるでしょうが、調査に来られた人から聞いたと
いうのでしたら、あとで結びついたものですね。
「国見」や「高」の地名については、それとして追求するのは面
白いと思いますが、全国でいわれている八百比丘尼とのつながり
には、お話の限りでは疑問があると思います。
55東沢美史:01/10/07 14:16
>>54
ありがとうございます。八百比丘尼に結びつけたのは手前どもの勝手な
希望です。調査しに来た研究者の方は断言してません。

でもいま少し「国見」を検証してみたいです。
『八百比丘尼が祭祀を執り行った地に由来した地が「びくに」と呼ばれ
のちに「みくに」、「見国」から「三国」や「国見」と訛った』と
仮定してみたいのですが。「三国」の字義は中国・朝鮮を意味します。

遠野物語でいう「オシラサマ」を拝む口寄せ巫女に頼って葬儀の後の
祭祀を行なってる私たちのようなものを、
桜井徳太郎氏は「シャーマニズム」と外国語で呼ばれました。
私どもはこの目の見えない女性をかみさま、おごないさま、おがみさま、
いだご、などと呼んでいます。この宗祖を安易に卑弥呼、八百比丘尼、
神宮皇后と結びつけるのは浅はかなのかな?とはおもいます。
しかし、宗祖の出身地は貝田(かいだ、けっこた)という今の福島県
国見町のあたりだと、信仰者も桜井徳太郎氏も指摘しています。

また、「国見」は古代中国で行われてたものでしょうか、
日本でも行われてたのでしょうか。「くにみ」は訓読みでありもう少し
検証したいです。北上市の国見頂上には松が大事に植えてありました。
八百比丘尼の伝説は有りません。
56ひでよし:01/10/07 14:56
>>55
古代の神話では「国見」は、王が高い山から国を見渡すことによって、
その見える範囲を支配領域として確認する儀礼だったといわれています

それ以外にも、その土地で収穫・収獲されたものを食べることや、
その土地に関する話を聞くことも同様の儀礼であったといわれています
古語では「聞こし召す」という言葉には、聞く、食べるという意味のほか
「治める」という意味もあり、この儀礼に由来すると考えられています
(高校生向けの古語辞典にも、この用法は記載されています)

「国見」に関する説話は記紀や風土記にいくつかありますのが、それと
「比丘尼」を安直に結び付けるのはやめておいたほうが無難でしょう
(その可能性までは否定しなくてもいいでしょうが・・・・)
57訂正です:01/10/07 15:12
>>56
「いくつかありますのが」 → 「いくつかありますが」

宗教的漂泊者が、その出自を高貴な身分に求める例は多くあります
中世史の方面で、網野善彦氏などの研究がありますので、そちらも
参考にされた方がいいのではないでしょうか
5852・54:01/10/07 15:34
私もひでよしさんと同じように、国見は古来の言葉なのでビクニ
が転じたのではなかろう、と思います。万葉集の2番目の歌にも

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ
海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島
大和の国は

とありますが、舒明天皇が香具山に登って国見をした時の歌と伝
えられています。
クニは昔は比較的狭い範囲もさしたようですし、そちらの「国見」
の場所はわかりませんが、ある地域を見渡せるような丘であれば、
そういう古来の行事(農耕儀礼的な意味もあったといわれています)
と結びつける方がよいかもしれません。
また、三国ですが、各地にある三国山などは、通常は国境(くにざ
かい)が三つ集まっている場所をさします。
たとえば、
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=135/57/13.853&scl=500000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=35/37/00.556&size=500,500
↑この地図の右下の「三国山」は、若狭・越前・近江の国境です。
59東沢美史:01/10/07 20:10
ひでよしさん、どうもありがとうございます。
昭和40年代の子供時分までは、国見の一番高いところの祠に参り
眼下に見下ろせる水田に水が張ったかなど話ながら、家族で座って、
普段たべられない遠足に行くようなごちそうを食べれたこと思い出せ
ます。ただ、八十八夜の行事と習合した形でしたね。

一軒一軒歩いてかどかけ(門付け)する軍記語り、えびすこ、おごな
いさま(おしらさま)などは戦前のことで家ではもうしていません。
漫才は10年くらい前まで別の方がまわっていたようです。

私達は御霊を祭る箕、スイノウなどをワゴン車で一軒一軒かどかけして
周っています。古代から変わらず、昔ながらの作り方なんですね。
宗教的漂泊者と言われるとほっぺが赤くなるくらい恥ずかしいんですが
ほんと、作って売る私達も買ってくださる方々も古代と全く同じ昔なが
らの口上と信仰ですね。箕直し、たがかけも頼まれます。また各地の
山から材料のイタヤや、桜の皮、シノ竹を国有地から盗んで(笑)箕を
作り、自動車を利用せず歩いてかどかけしてるおじいさんも顔見知りで
す。私の箕は所有者と話し合いがあり、購入した山の材料を使っていま
す。シノ竹は・・国有地のを一部失敬してますが。
住まいは神社の境内と一緒に国から譲り受けて、今は定住しています。

網野善彦氏のご紹介は感謝いたしますし、読んでみます。
八百比丘尼は無理として、今までどうり家で祭ってた八幡社の神宮皇后
でいくとおもいますが、基本書をよく読んで「比丘尼」の追及をまたし
たいです。
60天之御名無主:01/10/07 20:41
比丘尼といえば、熊野比丘尼も有名ですね
こちらの比丘尼は地獄絵図の絵解きを生業とし、産まず女地獄などの
女性だけが落ちるとされた地獄について、語り歩いたといわれています

そういえば、「名探偵コナン」に八百比丘尼伝説を題材とした事件が
あったと思います
美国島(びくにじま)を舞台に起こる連続殺人、島に残る八百比丘尼伝説、
100歳を超える巫女、村に伝わる人魚のミイラ・・・・
たしか、こんな内容だったと記憶しています
まったく関係ない話を、長々と申し訳ないです
61東沢美史:01/10/07 20:56
58の方、重ねてのご指摘ありがとうございました。

私が「八百比丘尼」について全くの素人でありながら書く自信が持てたのは、
≫38、≫43にも書いたとおり、
「国見」から見晴らせるかまたは祭祀出来る山、平地に不老長寿の「金、銀(丹)」
が産出できた場所が存在したからです。
高橋克彦は八百比丘尼を1200歳に設定しています。

ご存知のように日本はかつてM・ポーロに「黄金の国」と形容されました。
今現在も岩手県北上市国見山から真北のイタコが多くいる下北半島、
恐山付近は世界一の金の含有量を誇る、金の埋蔵地です。
仲間の信仰者の一人は一般の人達に手をつけさせないとまで言っています。

そこで福井県の「三国山」の地図を早速、拝見させていただいたんですが、
やはり真北に「金山」地名を発見して驚きました。
ただし、また地名で浅はかに推理することは慎み、≫19さん、ひでよしさんらが
ご紹介してた書籍で基本から勉強してみようとおもっています。

北上市、衣川村(平泉町隣)の国見は北上、奥羽山脈のすそ野の田園まで
見えてる晴らしがよい所で、ご指摘はあたってるともおもいます。
春先には水田に水が張られて行く様相には感動させられる
きれいな風景となり、農耕の様子が一目でわかるところなんです。
62ひでよし:01/10/07 21:34
>>60
また名前書き忘れてるよ、ごめんなさい

熊野比丘尼は、江戸時代に入ると宗教的性格を失い、ただの遊女に
なっていったといわれています
631:01/11/18 22:42
定期AGE
64天之御名無主:01/11/19 15:33
映画「陰陽師」の冒頭で小泉今日子が人魚の切り身食ってた。
65天之御名無主:01/11/19 21:18
八百比丘尼って、もちろん八百歳まで
生きたってことじゃないですよね。
「白髪三千丈…」と一緒でたとえですよね。

あと、八百比丘尼の話って大陸経由の可能性は
ないのでしょうか?
66天之御名無主:01/11/20 07:13
>>64
てっきりタラコかと思ってたYO
67:02/01/02 19:58
age
68山野野襖:02/01/02 22:32
>65
島根県では自分よりも年上の東方朔にからかわれてました。
それと別個に発生していても良かったと思います。
…もう読んでないかな。
69天之御名無主:02/01/02 23:34
大阪の八尾にすんでる尼僧にことじゃないんですか?
70山野野襖:02/01/02 23:58
>69
あ、大阪にもありましたか。初耳です。
71天之御名無主:02/01/03 06:51
ぼくたち比丘尼ン(以下略
72宮沢:02/01/05 12:08
元来八自体が長いを指す言葉として使われているから八百は多い、長いの意。
比丘尼は字体から予想するに単体、もしくは複数の尼であることは
確かである。
では八百比丘尼とは?伝承によればほとんどの全てに人魚が関係してくる。
が、当然の事ながら現在までに人魚の存在は確認されていない。
しかしここまで多く残っているのは何か意味があるはずである。
ここからは推測の域に入る
八百比丘尼とは地方豪族もしくは朝廷等の専属僧集団ではないだろうか。
不老長寿は昔人にとって望んで止まない夢である。
が、不老長寿の薬や食べ物などできるわけなく彼らは捨てられる
もしくは殺されたのだろう。
人魚の肉を食えば不老長寿、いわゆる八百(永遠)の寿命がえられる
というのは、どこにでもありそうな伝承である。
それがもっと複雑に、何らかの形で彼ら八百比丘尼とつながったと
考えておかしくは無いだろ。彼らが外方を使い人魚を作ろうとしていたとも
考えられる。

推測の域を脱しえないのは、これぞ日本民俗学の骨頂ともいえるだろう。
まあいかにしろ八百比丘尼なるものが存在したのはまず間違いないので
真相が知れたら嬉しい限りである。
73山野野衾:02/01/05 12:24
>72
高野山の方には歌比丘尼と呼ばれた尼達が所属しており、各地で芸能を
捧げ、物語を説いて廻った。
長い年月の間各地を廻った巫女・尼達の事跡や彼女らが伝えた話が定着
したんでしょう。小町や和泉も同様。
実在してたら凄いでしょうけど。
74宮沢:02/01/07 16:39
>73さんレスありがとうです。
もしかしたら既出かもしれませんが72に加筆します。

ハ百比丘尼は科負い比丘尼のひとつと考えるのが
案外妥当かもしれません。正確には齢負いというのかも知れません。
科負い比丘尼は、仕える主家の過失を身代わり負う比丘尼でしたが、
八百比丘尼はつまり、仕える主家、もしくはその望むところの齢、
寿命を負ったのではないでしょうか。
なんにしろ尋常ならざる事ではあります。
推測はいくらでも可能なので文献等を参考にもっと突き詰めてみたい
みたいと思います。
75天之御名無主:02/01/08 18:52
>>74
>科負い比丘尼
…鬼やらいの追儺の鬼の様なもののことでしょうか。
職業(琵琶法師のような)的なものではなく、ある意味、犠の様な存在ということですね。
姥捨て山のお話と似ている気がしますね。
76天之御名無主:02/01/09 20:35
岡野玲子の「陰陽師」(夢枕獏・作)って漫画にも「白比丘尼」って題で描かれてるよね。
77天之名無主:02/01/19 23:33
>76
男の悪い精が身体に溜まって禍蛇になるってやつだろ。夢枕獏より
岡野女史のが勉強してんだよな(藁

小学校のときに地元の「民話集」みたいのを読んで、八百比丘尼の話が
あったのを思い出した。山の中で食事を召し上がるときに箸がなかった
から近くの杉の枝を皮付きのまま折って使われ、その後それを地面に
刺しておいたらそれが根をはり、とある有名な杉の大樹(名前忘れ)に
なったと。……うろ覚えスマソ。
ちなみに地元は富山です。
78山野野衾:02/01/20 10:08
>77
面白いですね。似たような話は他にも各地にありますが、隠岐には一の
宮の境内に樹齢二千年(比丘尼より古そうな)の「お手植えの杉」があ
りました。
79天之御名無主:02/02/03 10:33
>>78
大宮市慈眼寺の仁王門の脇にある榎も八百比丘尼が植えたものだそうです。
80天之御名無主:02/03/23 03:29
あげます。
81天之御名無主:02/03/24 01:36
椿と一緒に海人系の人々の南下と共に、
伝説が沿岸部に拡がっていったという説を聞いたが。

おらの田舎の福島では会津の山奥に話が残ってるよ。人魚の肉
じゃなくて謎の貝の肉。娘は伊勢の洞窟にさえ行かず、殿様にも
寿命くれてやらない。ひたすら彷徨って行方知らず。もっと悲惨。
82天之御名無主:02/11/28 11:54
勉強用スレハケーン
83天之御名無主:02/11/29 02:16
真言系寺院に多いと思うのだが、
やっぱ、修験系の説話なんだろうな
84山崎渉
(^^)