蝦夷とはなに?

このエントリーをはてなブックマークに追加
790天之御名無主
え み し の 起源

新人類 ホモサピエンス サピエンス に 叡智集団 がいて、その指導集団をする長たちのの中から、一族としての名門 が現れるのは、バイブルなどを読むと、AL20世紀 BC20世紀以前と考えられ
ます。

ギルガメシュら 古代王朝のの王たちは、叡智集団の長 達の一人でありました。 ギルガメシュもAn の啓示を受けるためには、叡智集団 の長たちの中の 神官 の補佐を必要とした事が 最古の神
話 ギルガメシュ叙事詩 に書かれています。

バイブルの中では、叡智集団の長達 に 預言者 と呼ばれる アブラハム、 エゼキエル、モーゼ BC1250 、イザヤ BC650 らが排出してから、叡智集団の名門のグループが誕生し、後にヨーロッ
パなどの世襲する 王家氏族 になっていったように思います。

名門グループの誕生は、叡智集団 が文明を作り始めてから、約2000年が経っている AL2000年の頃です。

日本の神話には、卑弥呼ら が 「倭の東進」 で打ち負かした 原大和朝廷 の人々は、記紀で エミシ と呼ばれています。

大陸周りで後に日本に渡来した 卑弥呼らは、南回りで先に渡来の 叡智集団 えみし である 原大和朝廷 を破って 新大和朝廷 を新倭地に建設し、ハツクニシラス イニエ を大王にしたのであり
ます。AL43世紀初頭 の事であります。

この時の 原大和朝廷 の 大王は、大三輪に坐 いま した 大国主 大物主 おおなむち アメノ下ツクラシシ大王 でありました。

大国主 は 天下を御創りになった大王であり、イニエ は 天下を治めた大王と言う意味の名前になっています。神の位階としては、天下を創った 大国主 か 上位であります。

イニエと同人格の 神武天皇 ハツクニシラス の大妃 おおきさき に おおなむちの娘 がなったと記されています。 その後も、出雲大国主の血統から大王妃や天皇妃が入る事になります。

神武天皇 に随伴した久米部の兵士たちも 日ノ本の人民 えみし の女を娶った事でしょう。
791つづき:2006/05/17(水) 19:00:48
日本書紀には、えみし を 悪者のように書き、古事記の 愛漲詩 愛の漲る士 恵比須 恵みを比すべき士 代えて 漢の史書に倣い 夷 を用いて 海老の夷 蝦夷 を使用し、えみし と読ませ 次第に
えぞ と読ませました。えみし が 正常の呼称 で、漢字は 当て字 であります。

史学上、えぞ と読むようになった理由は解明されていません。しかし 理由は、和気清麿 が 悪麿 、柿本人麻呂 が 猿麿、山部赤人 が 黒人 などと、後になって悪し様に書かれる事と同じ理由
であると思います。えぞ は更に えった えた と呼ばれるようになって居ました。

愛漲詩 恵比須 叡見し と言う呼び名は、 栄誉ある名前 であります。

792天之御名無主:2006/05/17(水) 19:01:23
同和 の 起源

日の本 の人々 えみし は、大国主の敗戦、大国主 が 出雲に神静まりました後は、敗北の民 新大和朝廷には 虜囚 と看做されました。そして新大和朝廷に従った者達を 熟蝦夷、従わない者達を
荒蝦夷 と呼びました。平安時代以降の文書には、 浮囚 浮夷 類之者 賎民 と書かれています。

えみし が日本島の全土に居た事は、 「神在月」 に説明する、参集する国王たちの国々 を見れば解ります。青森県からトカラ列島に及びます。又、 物部氏 と えた の全国分布を見ても理解出来
ます。

日の本の民 えみし には、苦難の後に、大和物部氏の台頭と共に、一斉に物部を名乗った者たちが居ました。名乗れずに、雑役、奴隷の身分になった者達も居た筈です。雑役たちは 同和 えた
の先祖 ではないかと考えられます。

何故なら、AL5000年紀に新大和朝廷によって追い詰められた エミシの後裔安部氏 の本拠 日高見の国 北上 岩手周辺 に、日本全国にある同和を示す 八幡 や 別所 や 新地 の地名が無いか
らです。神在月に参集する王達の地元の名も、岩手県には無いのです。えみし の棟梁の根拠地であればこその秘密が垣間見えます。

八幡 や 別所 や 新地 の地名は、新大和朝廷の占領下では、えみし の居住地を示すものでした。八幡 は、ヘブライ語で書かれた Bible 原典に在る An の称号 YHWH ヤーウエ の音囀日本語
ヤーサカ ヤーハタ の漢字当て字であり、本来は An を祭るところと言う意味であります。えみし の居住地でも重要なものであります。 別所 新地 は、新大和朝廷が出来てから、別の所や新しい所
に居住地としたと言う意味があります。

全国の 八幡神社 や 八坂神社 は、本来の御祭神が An ヤーウエ であったのです。新大和朝廷になってから記紀の神名になりました。

えみし には、何れにも属さない人々も居た事しょう。雑役を嫌って後に同和から逃れた人も居たと思います。えみし物部 はエリート族へ、雑役以外の人々は、一般民衆に浸透して行ったのです。
793つづき:2006/05/17(水) 19:02:32
桓武天皇の御代 延暦 18 年 AL.4799 、坂上田村麻呂 と同時代の下野国人の 「賎民男女二人に、姓 かばね 物部を賜う」 とあり、太田亮は、「先祖の姓に復したものであろう」 と言っています。
物部氏 も全国に分布して、村長 むらおさ 神官 などを仕事として居ました。

賎民 とは、平安初期 9世紀頃の官符に 浮囚 浮夷 と書かれた えみし エタ の事であります。 賎民の出自 は、安倍氏 でありました。安倍氏は、 えみし 蝦夷 えぞ であり、物部氏の 出自 であり
ます。近江国の賎民の 戸籍 を記した文書に あへ と名乗る者が沢山存在しています。 アイヌ ではありません。

同和 は、穢多 と言う字を当てる事があります。古から えた と言われて居ましたが、穢多 と漢字に書かれたのは貞治元年 AL.5362 師守記 からであります。大和朝廷 が用いる 浮囚 浮夷 に対し
て、えった えた は 民衆の用語 でありましたが、 えった と言う呼び名は次第に消えて行きました。

この漢字は悪し様な当て字であり、室町時代 の京都河原の死人を扱っていた頃、仏教用語 として当て字したと考えられています。別の漢字を当てている本がありますが、えた は、えみし から え
ぞ になり えた への音韻変化で、本来は嫌われるどころか 大国主 大物主 の末裔として 栄誉在る言葉 であるのであります。

えみし は、日本書紀 に えぞ と読む事を含めて 約90回 蝦夷 と書かれるのです。少し、悪し様ではなかったでしょうか。えみし と言う 本来の呼び名を変える必要は何処にあったのでしょうか。
新大和朝廷は えみし の名を 出雲 と同様に 畏怖 していたと言う諸論に符合するものであります。

日本書紀の「天智記」に、「鮎こそは島辺も良き。え 苦しゑ」 と言う記述が在りますが、え は古代語では感動を表します。 従って、えみし は「感動を見た人」と言う意味になります。

「大いなるもの An を感じた人々」 の事になります。まさに、エミシ は 叡見し であり 最高の叡智集団 の自称 として相応しいものであります。

えた に漢字を当てるとすれば、大国主 に係る 皇室を含む 叡智集団 の末裔として 叡多 が良いと思います。叡 には エ と言う音が在ります。

794つづき:2006/05/17(水) 19:02:46
また、狂言に、「さて人と言うものは、中にも えた芸 があるものじゃが」 と言う言葉がありますが、この えた芸 は、習得した優れた技 と言う意味です。

日本に渡来した 最高の叡智集団 には、ジグラットやその他の美術文芸を担った 技術集団 フリーメーソン が随伴した筈です。

その人々は、えた芸 を持っていました。日本での職種 は、農業ではなく 鍛治 酒作り 番匠 仏師 鷹匠 鍋師 漆屋 塗り師 弓打ち 畳刺し 石工 猿楽 鵜匠 鞘師 鞍師 紅売り 舞太夫 蓑作り 笠縫 土
鍋師 墨師 傀儡師 獅子舞 鋳物師 麹師 屠殺皮肉師 隠密 祝人 ほいと など、高度な技術を必要とする約40ほどを専門職種として居ました。

シュメール 以来の中心技術者 は、 石工 メーソン  であります。 シュメールでは、神殿の石積みを行う メーソン がそれら技術者の中心だったのです。その他の技術者を含めて フリーメーソ
ン と言ったのかも知れません。日本では、終戦前まで 鍛治屋 鋳掛屋 氷屋 等の技術行商は、 えた の専門職域でした。

この場合の えた は、役多 と言う当て字が良いでしょう。古語で 役 は え と言いました。 えた は、叡多 または 役多 を当て字とするのが良い事になります。
http://www.ani.gn.to/new_page_42.htm