1 :
天之御名無主:
彼岸と此岸を隔てるものとは、一体なんだろう?
2 :
名無し@新宿:2001/01/24(水) 21:36
三途の川
3 :
天之御名無主:2001/01/24(水) 21:41
この話題おもしろい。きっと膨らみますよ
4 :
うろぼろす:2001/01/24(水) 22:11
人類学でいう境界理論の話になるのかな?
たしか境界上にあるものに対して特別な意味を与えるとかいう。それで、
昼でも夜でもない夕方に何らかの特別な感情をもったりするらしい。
人類学の先生が、いろいろな事象をこの理論でよく説明しようとしていた。
それにしても、『文化人類学事典』や小田亮の著書の解説も個人的には
しんどかった。
5 :
天之御名無主:2001/01/24(水) 23:14
夜と昼というのは、境界になるのかな??
言葉が足りないね。
昼と夜とは、それぞれが彼岸と此岸という「空間」あるいは
「異界」として認識されうるのかな?
…これでも、なんだか上手く質問できていないような。
7 :
素人さん:2001/01/25(木) 06:53
男と女の境界の・・・
あれ?インドあたりの・・・名前が出てこないよ・・・
あれも、これ?
(質問になってない。。。
8 :
天之御名無主:2001/01/25(木) 13:57
ギリシャ神話では、アルゴー船は同時に冥界への旅をも
象徴したと言われているそうですが……
日本では長らく「山」が異界だったと聞いています。
姥捨がなぜ川や谷ではなく山であったのかは興味深いことです。
また、(この辺記憶が曖昧ですが)山の向こうから姿を見せて
いる仏の絵図などもあったような気がします。
山に囲まれた狭い村で暮らしていた日本人にとっては、
「あの山の向こう」は異界であり彼岸だったのかもしれませんね。
9 :
天之御名無主:2001/01/25(木) 17:03
黄昏時が「逢魔の刻」などと呼ばれていたのも、そのせいかな?
10 :
天之御名無主:2001/01/25(木) 17:25
11 :
天之御名無主:2001/01/25(木) 21:33
>8
では、山の「こちら側の斜面」はこっちの領域なんでしょうか?
12 :
天之御名無主:2001/01/25(木) 21:53
>>11 山そのものが異界という認識の方が良いと思うよ。
山道の入り口が境界、という感じ。
ちなみに、山そのものを女体として考えると、
山道=産道なんだそうだ。
13 :
天之御名無主:2001/01/25(木) 22:39
「境界」は、それがなんでも「特別な場所」と認識されやすいのかな。
黄昏時なら「特別な時間」か。
単純な例で「橋」とか。鬼はやっぱり橋にいてくれないとね。
14 :
天之御名無主:2001/01/26(金) 07:41
「あちら側」には何があるのでしょうか?
15 :
8:2001/01/26(金) 12:28
>>11 12さんのおっしゃる通り、山そのものが異界という感覚ですね。
わたしは民俗学に詳しいわけではないので、確たることは言えませんが、
日本では山そのものが神格化されることもあるぐらいですから……
ただし山の場合は、平野・谷から見上げての漠然たる異「界」であり、
そこに境界というはっきりしたラインがあるかどうかは、また別の話のように思えます。
むしろ確たる境界がなく、此岸がいつのまにか彼岸へと続いているのでは? と。
昼がいつのまにか夜になるその間を、便宜的にたそがれどきと名づけるようにですね。
16 :
11:2001/01/27(土) 06:31
>15
個人的には、山を見上げたときの山頂が境界で、山の「向こう側」が
他界・異界であるように思うのですが、いかがでしょうか?
______/\______
←こっち側 | あっち側→
みたいな感じで。
(うまく表示されるかな…)
17 :
11:2001/01/27(土) 06:32
あ、ずれた…
18 :
天之御名無主:2001/01/27(土) 06:42
岩井宏實に言わせると、家の中でも、天井とか、いつも暗くて曖昧な
空間も昔は境界のあっち側だったそうです。だから、天井付近にいる
妖怪とか、裏側にいる化け物の話があるそうな。
19 :
天之御名無主:2001/01/27(土) 14:34
>>16 う〜ん・・・。
なんで君はそう思うのだろう?
よかったら考えを聞かせて欲しい。
民俗学では基本的に15氏のようなスタンスを取るのが一般的だね。
山そのものが異界、別の人々がひそむ山、ということ。
たとえば山の麓にある神社はたいていは山そのものを崇めているわけですから。
20 :
名無しさん@1周年:2001/01/28(日) 00:13
境界の話ですが、なにも山に限ったことではないと思います。
たとえば皆さん。小学校の学区ってありましたよね。
学区からでて、別の小学校のテリトリーの公園に行くとき
緊張感はありませんでしたか?常民にとって「生活世界」以外を
異界と考え、その境界を目に見えないまま心の中で作り上げていた。
そこに境界を作り上げる心意があったのではないでしょうか。
それはすなわち心の安定につながるのでは。
人権板からお邪魔ている者なのですが、私も常々に境界と言う存在には
興味を持っており、彼岸・此岸に止まらず現世と言うよりも、
我々の実際の生活の場である社会はあらゆる境界によって線引きが
なされ、我々は知らず知らずにの境界を行き来している様に思います。
その行き来が上手くいかずに、どちらかに沈殿しまう。
そのように感じます。
漫画なのですが「ボーダー」と言う作品がありますが、
この作品はそのあたりの描写が、とても共感出来るものだと思います。
今日は取りあえず足跡までに。
又、寄らせて貰いますので宜しくお願いします。
22 :
うろぼろす:2001/01/28(日) 20:51
>21
borderさんのカキコを読んで、思わず小熊英二の『〈日本人〉の境界』
を思い出したなあ。
国家による線引きのなかで、日本人というワクの境界上にあった人々の
葛藤をふと思い出してしまいました。
23 :
み:2001/01/29(月) 01:48
お邪魔します。
境界も好きですが、空間的遠さのイメージが強いんですが。
此岸(こっちの世界):ここ
彼岸(あっちの世界):・海の向こう・空の向こう・西の方
・海の中・山や森の奥・地底
亀や蛙はここと水界を行き来する象徴。
鳥もこっちとあの世を行き来できます。
人間の場合は地底や山奥へ迷い込むか、
亀やなんかに連れてってもらうか、天狗等に連れ去られるか。
もしくは西の方へどんどん旅をすれば、西方浄土へ辿り着くはずです。
24 :
天之御名無主:2001/01/29(月) 03:02
賽の神とか地蔵さんて、村と山、村と村との境界に置かれているよね。
25 :
天之御名無主:2001/01/29(月) 04:31
>>21 日本人は、組織という線の中に護られて、その中で限定つきの自由を得、
外を「異なるもの」として認識することで、逆に自分のアイデンティティを
えることができた民族のようにおもいます。
ですから、現在の「何でもできる、どんな境界もとっぱらわれている」と、
お題目上ででも唱えられている、無節操な自由を与えられる時代は、
かえって日本人にとって不幸なのかもしれませんね。
26 :
名無し:2001/01/29(月) 04:40
いやー、2CHでこんなスレに巡り合えるとは思わなかった。
期待age
27 :
16:2001/01/29(月) 06:16
>19
境界を「地帯」と考えるのか、それとも「地点」と考えるのかが問題となると
思うのですが。
たとえば、『播磨国風土記』では、「甕」を「坂上」において、この坂を
境とする、としています。
この場合、「坂上」を地点とした境界認識が見て取れると思うのですが、
いかがでしょうか?
28 :
天之御名無主:2001/01/29(月) 12:52
>27
「甕」に呪術的意味をもたせて境界とするならば、やはり「地点」でしょうかねえ。
鳥居なんてのはどうなんでしょう?イメージ的には鳥居をくぐったら異界(神域)ってイメージがありますけど。
29 :
15:2001/01/29(月) 13:52
>>16=27
お話はわかりますけれども、それと「山の頂点を境界とする」という御自身の
説とは、少し関連性が薄いように感じられるのですが……
「地点」を境界とするとしても、山のふもとの神社などが境界と考えられなくも
ありませんし、また、「山に踏み入る=異界に踏み入る」であったと考える方が、
自然と思われます。なぜなら、説話に「山に踏み入って異形のものと出会う」
ものは多く見られても、「山の頂上を越えると異形のものと出会う」というものは、
わたしの勉強不足かもしれませんが、あまり聞いた覚えがないからです。
これは差別の歴史などに詳しいお方にお聞きした方が良いとは思いますが、
山に定住する職の人たちを余所者、人外の者として差別した事例はなかったで
しょうか?(いわゆるマレビトなど)
つまりそれは、中世、山そのものが、人間の住む場所ではなく異界で
あったことの印だと――唱えられていたと思います。ソースがなくて申し訳ありません。
……すみません、民俗学で語り尽くされていることだったとは思うのですが(^^;
30 :
天之御名無主:2001/01/29(月) 17:23
九州には「石敢」というのがある。三差路に置いてあるのだが、意識は幽明の
境というよりも、内部と外部にあるものと思う。外からの来訪から悪を選別する。
ヘルメスも境界の神でしたね。
31 :
天之御名無主:2001/01/29(月) 17:49
「石敢当」って沖縄でよく見かけるけど、そういうのが九州にもあったんだ
>>30 沖縄のは三叉路のどんづまり(っていうのか?)に置く魔除けだけど、
これは境界とは関係あるのかな。
沖縄で聞いた話では、悪魔は曲がれないので、三叉路の道のないところに
悪魔が入らないように石敢当をおくと、悪魔はそれにぶつかる…という話だった。
32 :
天之御名無主:2001/01/29(月) 18:41
自分の「知らないもの・人」がある(いる)所は十分異界ではないでしょうか?
その意味では「地点」「境界線」のようにはっきりラインを引かずに、あいまいな範囲でもよいのでは?
33 :
30:2001/01/29(月) 19:20
いえ、同じ境界の領域だけども、こんな意識もあります、という御紹介でした。
34 :
=16:2001/01/29(月) 19:38
>29
自分は山の麓もしくは平地にいて、山を見上げたとしたら、
視界に入るのは頂点までですよね?
とすれば、「あの山の向こう」が異界としてあって、そういう意味では
山の頂点が「地点」としての境界ではないのか、ということを考えています。
坂が境合(サカアヒ)としてあった、ということはすでに指摘があることですが、
「地帯」としての境界が山の斜面ではなかったのかと思うのですが、
いかがでしょうか。
民俗学的な知識が乏しいもので、「異界」についての認識に
ズレがあるのかもしれませんが。
35 :
=16:2001/01/29(月) 19:48
↑「民俗学的な知識が乏しい」のは、もちろん当方のことです。
36 :
天之御名無主:2001/01/30(火) 12:33
山岳信仰などを考えると山そのものが霊場(=異界)という考え
なのでしょうから、やはり境界はふもとにあるんじゃないでしょうか。
37 :
29:2001/01/31(水) 04:44
>>34 視界に入っていることと、実際に「此岸」として認識することは違うと思いますよ。
「異界=目に見えない地帯」ではなく、むしろ視界に入り、なおかつ踏み込むことが
できないからこそ山を異界として認識するわけです。
わたしの「あの山の向こう」という言い方も短絡的で悪かったのでしょうが……
映画「もののけ姫」でもありましたが、開拓・植林という人の手が入る以前の山は、
基本的に人間の住む場所ではなく、人間は山には(狩猟・採集は別として)立入らずに
棲みわけを行ってきていました。
「もののけ姫」は、棲みわけていたはずの人間が、産業の発達によって、山という異界を侵し、
神殺しを行う話なわけです。
映画の中に登場する「獣の皮をかぶり獣に成りすます地回り」などは、当然、異界と
こちらの世界を行き来する人間ということで、差別や嫌悪・畏怖の対象になったでしょうね。
地走り、だったと思う
39 :
37:2001/01/31(水) 15:32
えへへ、すいません地走りです。大恥ですな。
40 :
=16:2001/01/31(水) 20:03
ああ、そうか…<視界に入っていることと〜
天皇が「国見」をするときは、だいたい高い「山の上」から、
自分の領有する国がいかにすばらしいか、という「国讃め」をします。
すくなくとも、こんな場合には、「山」自体は異界として認識されていない
と思われます。
ここで考えるべきなのは、「山のむこう」になんらかの世界があるときと、
「山そのもの」がなんらかの世界としてあるときでは、山の捉えられ方が
異なるのではないか、ということなのだと思います。
逢坂を越えて「東国」へ行くときと、酒呑童子を征伐するために「大江山」へ
行くときでは、「山」の在りようが違うのではないでしょうか。
41 :
天之御名無主:2001/02/01(木) 07:13
雄略の記事を調べて、農耕儀礼と山の儀礼との調整を、境界概念を用いて分別すると
面白いらしいですね。
42 :
天之御名無主:2001/02/01(木) 11:36
「日本王権論」のはじめのほうにも内、外の話が出てましたな。
43 :
天之御名無主:2001/02/01(木) 11:50
境界に関しては民俗学だけじゃなくて、
文化人類学からの視点を導入するといいんじゃないかな。
文化人類学ではエルツの「右手の優越」以降、
世界の事象はすべて「二項対立」で説明できる、というスタンスをとっています。
「二項対立」とは、たとえば、生と死、男と女、自然と文化。
ここの境がいわば「境界」、となるわけですね・・・。
で、そうすると、ここで大きなトピックになっている村と山の問題についても、
村を「生者の空間」、山を「死者の空間」とすれば
生と死という二項対立で説明できる。
で、この境界を超えるときに「通過儀礼」が発生する・・・。
もちろん、これは
>>40さんが書いているように状況によって
この「二項」が変われば、境界の位置も変わってきます。
>>20さんや
>>21さんが言うように、
「人間は日常のあちこちに境界を作る」ということですよね。
44 :
天之御名無主:2001/02/02(金) 04:28
境界を「越える」ときと、境界を「越えられる」ときでは、
おのずとその役割も変化しているような気がするのですが。
45 :
天之御名無主:2001/02/02(金) 09:28
>>43 男女の二項対立という点では、ギリシャ神話のヘラクレスや
アキレウス、日本でも日本武尊といった例がありますが、
英雄の異性装もまた「境界を越える」通過儀礼ということなの
でしょうか。それとも、これは境界線上に位置する者なのでしょうか。
異性装・同性愛の点を考えてみても、日本はどうも境界が曖昧というか、
境界そのものが広いというか、内と外をはっきり分ける割りには、
境界上の存在に対して寛容であったような気がします。
>>44 ごめんなさい、過去ログ見落としてるのかもしれませんが、
その「られる」って受身形? 可能形?
46 :
天之御名無主:2001/02/02(金) 15:06
百鬼夜行なんかは、すると「境界」自体がこっちに寄せてくるような感覚なわけね。
47 :
44:2001/02/02(金) 15:44
48 :
天之御名無主:2001/02/02(金) 16:27
英雄の女装は、むしろ両性具有という点から見たほうが良かろうと思いますが。
ヤマトタケルは、非常に雄々しい、男らしいという記述があるが、女装すると美女だったというきじゅつがある。
両性具有という点というのは、神と等しいということである。
49 :
43:2001/02/02(金) 17:02
>>43 すばらしい視点だと思います。
僭越ながら、一応、その分野にいる人間として言わせていただくと、
完全に本質を突いているご質問です。
ます、整理ですが、
境界という概念を持ちだした場合、
実は一番重要なのがこの「境界上の存在」というやつでしょう。
「境界上」に立つ人間には大まかに二種類に分けられるでしょう。
一つは通過儀礼のために一時的に境界上に立たされる人。
もう一つは、そのクラス(階層)、スティグマ(聖刻)ゆえに、
その存在自体が境界上にある人。
前者ですが、この世界に生きる人全てが一度はそうなるはずです。
ファン・ヘネップによる通過儀礼の定義においては、
「分離」→「移行」→「統合」
という3つのステップが提示されていますが、
この移行期が通過儀礼にあたり、境界上ということです。
(ここでいう「境界上」とは「平面的」な理解よりも、
SFチックな「四次元」的な認識の方がよいと思います。)
つまり、通過儀礼とは、日常世界から「分離」され、
非日常へ「移行」し(擬似的な死を経験する)、
再び日常世界へと「統合」する(大人として生まれ変わる)ということです。
50 :
続き:43:2001/02/02(金) 17:03
一方、後者ですが、
「境界上」には遊行者、芸能者、宗教者などが分類されます。
(同性愛者は、ある意味彼らと同義でしょう)
彼らは「日常」から外れた、つまり、社会秩序から外れた存在です。
故に、忌み嫌われる一方、聖的な者としても崇拝されました。(両義性)
彼らは賤しく、差別されます。ですが、祭という非日常の場に彼らは欠かせない。
故に、
>英雄の異性装もまた「境界を越える」通過儀礼ということなの
>でしょうか。それとも、これは境界線上に位置する者なのでしょうか。
というご質問には、
英雄の場合、両義性を持つと考えれば、後者の存在といえるかもしれない
と答えたいと思います。ただし、解釈の問題なんで、明言は避けますが。(ずるい)
一方、
>異性装・同性愛の点を考えてみても、日本はどうも境界が曖昧というか、
>境界そのものが広いというか、内と外をはっきり分ける割りには、
>境界上の存在に対して寛容であったような気がします。
という点については上記のことを考えていただけると、
日本だけでなくて、人間社会全てに言えることだと思われます。
重要なのは、「二項」はあくまで「境界」があることによって存在できる。
ということです。
実は、この部分が構造主義の要だったりします。
51 :
続き:43:2001/02/02(金) 17:04
「二項対立」において、この二項のカテゴリー(秩序)が
重なり合ったとき、そこにタブーや汚れが発生するということです。
これは構造主義においてリーチやダグラスが論じたことです。
「秩序の中にあってはならないもの」を「境界」に押し込めることによって、
「二項」が成立する、ということですね。
ここが文化人類学の一番面白い部分なんですよ(笑)
実は、実際にはこんな単純には言えないですよね。
時間、空間、あちこちにいろんな意味の境界があるわけですから、
そこに性、聖邪、いろんな二項を定義していったら、混乱します。
例えば、昼と夜という二項を設定したら、夕方(誰そ彼れどき)は境界だけれども、
それは非日常なんかー?とか。
ハレ・ケ・ケガレはなにがどうなっとんじゃい、とか。
まあ、高名な先生達が何年も議論して結論を出せないわけなんで、
僕なんぞにはなにも言えませんが。
#あー、これは構造主義の根幹のつもりですけど、正しいことを言ってる自信はないです(^^;
#興味ある人はちゃんとした本を読んでください。つっこみも歓迎します(笑)
#長文すまそ。しっかし、他の板でこんな饒舌になったらデムパ扱いだな・・・。
52 :
訂正:43:2001/02/02(金) 17:07
49の訂正です。自爆?しました。
冒頭は、
>>43じゃなくて、
>>45の間違いです。
53 :
45:2001/02/02(金) 17:08
>>48 なるほど。両性具有なら「境界を持たないもの」ですね。
それを「境界の上(境界線上ではなく、境界のある次元より高次元)に存在する者」と
受け止めると、神と同一視されても納得できるような気がします。
ヘラクレスは生死の境界をも超えているわけですから、人間が超えられることのできない
境界を超え得るのは、英雄の条件であり、神と同一視される前提なのかもしれません。
54 :
45:2001/02/02(金) 17:31
>>49-51
ぽっと出の思いつきに、丁寧にお答え下さってありがとうございます。
職場からではありますが感激に堪えません(笑)。
> 英雄の場合、両義性を持つと考えれば、後者の存在といえるかもしれない
というお言葉からも考えて、後者の例について少しご質問させていただきます。
>彼らは「日常」から外れた、つまり、社会秩序から外れた存在です。
>故に、忌み嫌われる一方、聖的な者としても崇拝されました。(両義性)
>彼らは賤しく、差別されます。ですが、祭という非日常の場に彼らは欠かせない。
これはいわゆる、「中世日本において巫女と遊女は同一のものだったらしい」とか、
そういった卑近なレヴェルのことと同じ、と捉えて良いでしょうか。
また、「オデュッセイア」などでも、物乞いや旅人を、「ゼウスからの遣わし人」として
歓待するシーンが見られましたね。
>>境界そのものが広いというか、内と外をはっきり分ける割りには、
>>境界上の存在に対して寛容であったような気がします。
>
>という点については上記のことを考えていただけると、
>日本だけでなくて、人間社会全てに言えることだと思われます。
そのとおりだとは思うのですが、ただ、女性がパンツスーツをはくまでに非常に
抵抗があったという欧米社会を考えると、男と女が同じ着物を着ることができ、
同性愛がなかば公然と認められていた江戸時代までの日本は、たとえば、
異界(例:地獄)を異次元に求めたキリスト教の観念と、「ずーっと西へ行きゃ
極楽がある」と連続した同世界に求めた仏教の観念の違いのように、
境界の向こうに対する親しみ、あるいは距離感のなさを感じるのです。
……あくまで、根拠もなく「感じる」だけですし、キリスト教に関してはまったくの
無知なので、とんでもない勘違いをしている可能性はありますが……(地回りみたいに(笑))
> 重要なのは、「二項」はあくまで「境界」があることによって存在できる。
そうなると、生と死の境界とは、吸血鬼などになってしまうのでしょうか。生と死の
両方に携わる医者・薬師などは、中正日本では、尊敬と同時に差別の対象になったと聞いています。
拝読していて、文化人類学に興味が出てまいりました。当方、
大学時代は中古国語学という、もっとも役に立たない学問をかじっただけでして……
一度本を探してみようと思います。
55 :
45:2001/02/02(金) 17:32
ってわたしも書きすぎやがな……(汗)すみません……
56 :
通りすがり:2001/02/02(金) 20:23
個人的な考えなんですけれど、此岸と言う概念は、個・生活共同体・地域集団などの
カテゴリーに統括される生活空間を指して、それ以外の空間を彼岸と言うのではないかと
考えております。
57 :
1:2001/02/02(金) 20:35
「境界」というのを、あくまで物理的なものとして
考えていたもので、こんな風にスレッドが展開していることに
驚きと喜びを隠せないでいます。
58 :
通りすがり:2001/02/02(金) 22:25
もう1つ 山は他界である。どこが境界か?と言う事案についての私見を・・・
山には2つの捉え方が有ると思います。1つは生活空間としての里山(薪やキノコを取りに行く所謂入会地)
もう1つは非生活空間としての山(霊的信仰対象や普通の人間が立ち入れない急峻な地形等)
故に、山の此岸・彼岸は生活空間・非生活空間を一つの線引き要素として
考えてみるのもよろしいかと思うのですが?如何でしょうか・・・
59 :
43:2001/02/03(土) 01:59
>>54=45
丁寧なレスをどうもありがとうございます。
>これはいわゆる、「中世日本において巫女と遊女は同一のものだったらしい」とか、
>そういった卑近なレヴェルのことと同じ、と捉えて良いでしょうか。
はい。僕もそう考えています(^^)。
日本の六部、朝鮮の男寺党、いろいろありますよね。
あと、サーカスなんかももろにそうでしょう。
(もちろん、細かいところはいくらでもつっこみようがありますが)
>異界(例:地獄)を異次元に求めたキリスト教の観念と、「ずーっと西へ行きゃ
>極楽がある」と連続した同世界に求めた仏教の観念の違いのように、
>境界の向こうに対する親しみ、あるいは距離感のなさを感じるのです。
これはその通りだと思います。
一神教であるところのキリスト教は「原始宗教」を否定することで成立します。
つまり、人類のプリミティブな宗教観から出てくる「境界」などの概念は
聖書の名のもとに、「強引」にうち消されたのかも知れません。
日本などはこのプリミティブな宗教観がそのまんま「残っています」から。
もっとも、これについてはかなり自信が有りません(笑)
上だと、進化主義を前提とした説明になってしまっていますよね。
60 :
続き:43:2001/02/03(土) 02:01
(19世紀の人類学とは「進化主義」でした。
彼らは文化は一系的に進化すると考え、タイラーなどは宗教について
アニミズム(精霊信仰)→多神教→一神教(キリスト教)
というヨーロッパを頂点とした進化図式を描きました。
この図式でいくと、アニミズムの日本は一番「遅れた」国(笑)
・・・んなわけないですね。これが進化主義が否定された一つの理由です。
余談ですが、この板で民族の優劣とかの比較をやっている人々は
19世紀の人間とゆーことです(笑))
>そうなると、生と死の境界とは、吸血鬼などになってしまうのでしょうか。
うーん。吸血鬼はまたかなり特殊かつ複雑なテーマなので、ちょっとここでは簡単に言えないですね。
数年前に英文科の先生と吸血鬼について熱く語ったことがあったのですが(笑)
吸血鬼は元来、ゾンビのようなものなんだそうです。
数ヶ月前に中公新書から『吸血鬼伝承 ー「生きる死体」の民俗学』(平賀英一郎)
といういい本が出たので(僕は未読ですが・・・)、ご参考までに。
なにをもって生とするか、死とするかは地域によって異なるでしょう。
あるところでは、目覚めが生、睡眠が死かもしれません。
地上が生で、地下が死かもしれません。陸が生で、海が死。
それに応じて「境界」が変わるでしょう。
そもそも、肉体というもののとらえかたによっても
「境界上の人」がなにであるかの認識もかわります。
鳥葬の地域では鳥によってついばまれ、
天空を駆けめぐる肉と霊魂こそが境界上の存在になり得ます・・・。
61 :
続き:43:2001/02/03(土) 02:02
これが、
>>51で、
>実は、実際にはこんな単純には言えないですよね。
>時間、空間、あちこちにいろんな意味の境界があるわけですから、
と、書いたことの詳細です・・・。
お断りですが、実は
「境界」というテーマはそれだけで本が何冊も書けてしまう分野なんです。
だから、正直、知ったようなふりして
こんな短い文章でここまで大胆に言ってしまう自分が
ちょっと恥ずかしいです・・・。
>大学時代は中古国語学という、もっとも役に立たない学問をかじっただけでして……
僕自身、もう圧倒的に勉強不足の人間なんで、
(専門ですらあやしいのに、専門外はちんぷんかんぷん)
これからもいろいろご指導いただければ幸いですm(_ _)m
・・・・また長くなっちゃったょ・・・(笑
デムパオナ・・・・。
62 :
天之御名無主:2001/02/03(土) 18:27
>56
つまり「ムラ」が此岸で「ソト」が彼岸?
63 :
天之御名無主:2001/02/04(日) 20:58
>>43 概括的な境界論というのを読んでみたいのですが、何かオススメは
ありませんか?
何かあれば、雑誌等の論文の場合は、
巻号か年月まで教えていただけるとありがたいです。
64 :
うろぼろす:2001/02/04(日) 21:17
>63
飛び入りで入ってきて失礼だけど、自分が授業で購読したものでは、
小田亮の『構造主義のフィールド』(世界思想社)に境界理論の解説が
ありましたよ。
65 :
名無しさん@1周年:2001/02/04(日) 23:55
でてるかもしれないけど、
山口昌夫は はずせませんね。
66 :
うろぼろす:2001/02/05(月) 22:08
>64
訂正
×『構造主義のフィールド』
○『構造人類学のフィールド』
でした。すみません。
67 :
44:2001/02/08(木) 01:59
個人的には、境界を「越えてくる」ものというのが、
どういう意識でもって迎えられるのかが気になるのですが。
とくに、「こちら側」のものが、「あちら側」に行き、
また「こちら側」に戻ってくるというケースについて。
68 :
庵:2001/02/11(日) 21:57
age
69 :
天之御名無主:2001/02/11(日) 22:16
>>67 >とくに、「こちら側」のものが、「あちら側」に行き、
>また「こちら側」に戻ってくるというケースについて。
あ、それだったら小松和彦の『神隠し』が
それについて言及していたと思う。
70 :
44:2001/02/14(水) 19:50
>>69 ありがとうございます。
図書館のOPACで調べたら、専門部の方に貸し出されたままになっていたので、
買いに行くことにしました。
でも、なんだか隣りにあった『異人論』を買ってしまっていたりして。
異境から戻ってきた人が異能の人として(好意的に迎えられるかどうかは
別として)機能することってあるのでしょうか??
71 :
名無しさん@1周年:2001/02/14(水) 22:19
生活世界から 脱出した人が帰ってきた場合、
聖性を獲得したととらえる場合があります。
遠野物語はいろいろな話がのっていますよ。
72 :
44:2001/02/16(金) 01:50
>>71 そのとき、それは「元々聖性を持っていたから(資質があったから)」
異界から戻ってこられたのか、それとも「異界で聖性を得たから」なのか、
また「異界から戻ってくるときに聖性を得ることができたから」なのか、
どれと考えるべきなんでしょう??
ああ、教えてくんにも程があるや>己
73 :
44:2001/02/16(金) 01:51
アゲ忘れ。
74 :
藍:2001/02/16(金) 17:40
>>72 それは、「英雄は生死の境を越えることが条件だった」と、
「生死の境を越えた者だけが真に英雄たることを許された」との区別が
つきにくいのと同じように、ラインを引くのは難しいような気がするのですが……
七日間の断食とか、なんかそういう生死の境をさまようような苦行を越えた
お坊さまは、生き仏として崇められていますよね。(アジャリ…でしたっけ(汗))
それは「生死という最大の境界を越えた人間」に対する、一種原始的な崇拝の念であって、
お坊さまが生死の境を越えるほどの徳を持っていたからとか、
お坊さまが生死の境を越えたことによって仏となったからとか、
そういうライン引きや意味づけはなされていないのではないでしょうか。
結果として「境界を越えた」という事実に対して、聖性が付加されているんでしょうね。
75 :
名無しさん@1周年:2001/02/16(金) 20:16
71です。
難しい問題です。民話や昔話でもいろいろな話がありますし。
生活世界からの離脱が聖性獲得につながる、生活世界からの離脱をするためには
特殊な能力が必要になるとも考えられます。言葉は悪いですが、発達障害者です
とか、「いわゆるバカ」と言われる人も、聖性を持っているととらえる場合もあります。
常人(常民)の範囲に入らない人ってマージナルマンであるからして、
聖性を持っている・・・わからなくなってきました。また整理して書き直します。
76 :
天之御名無主:2001/02/20(火) 15:40
あげときますね。
77 :
天之御名無主:2001/02/20(火) 19:41
age
78 :
天之御名無主:2001/02/20(火) 20:01
しかしなにもシャーマニスティクな垂直方向への脱魂技術だけがあったわけではなくて
もちろん、文字通りの意味で平行的に「越境」していく遊行上人なんてものが中世には
いたわけですよね。それで、踊り念仏のなかから芸人(ポリネシアだと芸人は聖なる階級だが)
たちが現れてくる。訪う異人として境界を越えてくるような感覚は説話の中にもあって、
「八百比丘尼伝説」なんてものは、まさにそうした心性を基礎にしてるのだと思いますよ。
79 :
天之御名無主:2001/02/23(金) 00:24
いきなりだけど豚も境界上にいるよね。
80 :
天之御名無主:2001/02/23(金) 01:32
豚??
81 :
天之御名無主:2001/02/28(水) 03:28
あげ
82 :
天之御名無主:2001/02/28(水) 04:39
>>79 いきなりすぎてわからんよー。
ネタでもいいから気になるのでなにか書いて。
83 :
天之御名無主:2001/02/28(水) 05:07
えいえんはあるよ。
ここにあるよ。
84 :
天之御名無主:2001/02/28(水) 12:29
75さんのはよくまとまっていると思いますよ。
一方、神懸かり(カミダーリ)になった(変性意識状態)
人なんかはまさに境界上の人ですよね。
その神懸かりが終わり(憑依型)、
新しい自分に組み変わったとき、神性を獲得するとか。
宮古のユタでそんな話をしていた人がいました。
>>83 ゲームの話はやめれ。
わかる俺も俺だが・・・(苦笑
そういえば、以前聞き取りで大変お世話になった方から聞いた話で、代
々霊感の強い家系があって、その家系のある方が、部屋と部屋の間に頭
を置いて寝たら、悪夢をみてひどい目にあったという話を聞いたことが
ありますね。これも境界のせいなのかあ。
>84
確かに宮古は独特の雰囲気がありますよねえ。昔話集なんかよんでみて
ももろに神話っぽいし、地元の地域史なんかでも、昭和初期ぐらいの話
で遠野物語っぽい話がいろいろあるし。
86 :
79:2001/03/01(木) 00:24
あ、豚って言うのは旧約聖書の話です。
「動物のうちで,ひづめが分かれ,そのひづめが完全に分かれている
もの,また,反芻するものはすべて,食べてもよい.
〜
それに,豚.これは,ひづめが分かれており,ひづめが完全に
割れたものであるが,反芻しないので,あなたがたには汚れたも
のである.」
ていうレビ記11章のネタです。なんか中途半端ゆえのタブー視ぽくて
いきなり書いちゃいました。
あと85さんの部屋と部屋の間ってのは敷居が頭に当たって寝つけなかった、
とかいうオチだったりして。でも敷居てのはなんかありそうですね。とか
書いててちょっと検索したら敷居に対するタブーもあんのね。
T
88 :
この研究も、:2001/03/02(金) 20:40
境界をテーマにした研究発表でしょうか?以下に紹介します。
「第789回 日本民俗学談話会 平成12年度 民俗学関係卒業論文発表会」
日時:平成13年3月11日(日)13:00〜16:30
場所:成城大学(小田急線「成城学園前」駅下車、徒歩3分)
会場:7号館(711〜713教室)各発表20分、質疑5分
C会場(713号室)
1.境の宗教性−厠神をめぐって−
もし発表をきかれた方がおられましたら、感想をきぼーんします。
89 :
犬虫:2001/03/03(土) 22:54
>>88 トイレは浄→不浄の場所だからなあ。
そういえば昔は川をトイレにしてたことが多かったと思うけど、川も境界だからという意味は
あるのかな。いやまあ池にしたらたまっちゃって大変だけどさ。
90 :
天之御名無主:2001/03/03(土) 23:38
www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/990315scat.html
↑厠について書いてあるページがありました。
ところで排泄物ってなんで不浄なの?
91 :
藍:2001/03/05(月) 09:14
蝿がたかったりそこから伝染病が発生したりすることを
見て、そこから不浄という意識が生まれたとか。でもそれって
大だけですねぇ(笑)
血も不浄だし、それゆえに女性も不浄だし。なぜでしょう?
境界=不浄というわけではないようですけれども。
92 :
天之御名無主:2001/03/05(月) 21:37
メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』塚本利明訳、思潮社、1995年
これを読むべし。
93 :
天之御名無主:2001/03/07(水) 04:39
あげ
94 :
天之御名無主:2001/03/08(木) 04:09
境界の概念で参考になったのは井本英一氏の
「境界 祭祀空間」(平河出版社/85年)ですが…
この本の中で鳥居や河や道のもつ境界性について
詳述されてます。竈周りの聖性や流血行為の越境性なども
書かれてました。
既出だったらゴメンナサイです。
(一応検索には引っかからなかったので書き込みましたが)
95 :
天之御名無主:2001/03/26(月) 23:27
あげ。
96 :
天之御名無主:2001/03/27(火) 00:29
1が水木しげるっぽい。
>>60=
>>43さん。
横レス、失礼します。
本スレッドの趣旨から外れたレス、ご容赦下さい。
>アニミズム(精霊信仰)→多神教→一神教(キリスト教)
というヨーロッパを頂点とした進化図式を描きました。
この図式でいくと、アニミズムの日本は一番「遅れた」国(笑)<
遅れているか否かは別テーマとして、60さんとしては、
日本人の根っこに有るものはアニミズムとお考えでしょうか?
>>59で書かれた、
>日本などはこのプリミティブな宗教観がそのまんま「残っています」から。<
に、それを感じます。
私は「日本人はアニミズム(精霊信仰)を保ちながら欧米流国民国家になろうと
してきたのではないか?」
という疑問に拘り続けております。
43さんの、日本人の宗教観を教えて頂けたら幸いです。
#2CHでの長文、多いに宜しい事だと考えております。
98 :
92:2001/04/24(火) 20:40
かふいふスレはあげやう。
99 :
≠60:2001/04/24(火) 21:08
※横レスに脇からレス(苦笑)。
※ご指名の43さんではありません。失礼します。
宗教を整理するベーシックな方法のひとつに
a「教典・教義」b「教団組織・儀式体系」c「信念・信仰」の
要素に一度分割し、後にコンビネーションを整理して観る
って方法があります。
宗教社会学なんかの方法で、必ずしも万能ではないと思いますが
糸口を掴むにはよいです。
で、これで日本的宗教心を整理してみると、例えば“信心”を持って
いる人が、教典や根本教義を知らないって事例が顕著と思われます。
神道なんかでも、流派ごとに教義書がある場合ですら書名も知らずに
参拝している“信者”珍しくないですね。
例えばキリスト教でしたら根本教義は「聖書が述べ伝える
イエスのみが、メシアであることを信じること」と要約されます。
これは、普通に教会にゆく信徒ならば“教育”される事柄です。
うえのような教義や組織面での整理がついていない信仰を、
日本でのものに限らずプリミティヴと呼ぶことは可能です。
あくまで一つの尺度としてですが。
アニミズムかどうかは、概念規定によるはずですけど、
どうでしょう。
アニミズムよりシャーマニズムっぽい要素も目につき
ますよね。
また、逆にヨーロッパ〜東欧のキリスト教圏でも
信仰の根っこにはアニミズムがある、とか言うことも
可能です。
日本的な宗教観を、どのような尺度で解釈・整理
してみるかが、ポイントになると思われます。
100 :
92:2001/04/28(土) 19:49
>>99 >また、逆にヨーロッパ〜東欧のキリスト教圏でも
信仰の根っこにはアニミズムがある、とか言うことも可能です。
東欧は、キリスト教以前の信仰の痕跡のような民俗信仰があって
面白いというのを聞いたことがある。
101 :
天之御名無主:2001/05/06(日) 18:58
age
102 :
ななしさん:2001/05/14(月) 18:49
よっこらしょ。
103 :
写楽くん:2001/05/14(月) 22:00
自分は自分が無神教である事を幸せだと思う。
常に神を意識するのはある意味幸福だが私にとっては不幸だ。
遠いところから宗教に支配された国家を見るとその国に生まれなく
て良かったと思う。私にとってはどの宗教もオウムなどともたいし
た違いは無い。それが当たり前になっているだけで洗脳国家なのだ
と思う。自然に信じるのはいい。でも強要されるのはちがう。
104 :
議論の参考に:2001/05/15(火) 06:21
ファン・へネップやメアリ・ダグラスは既出のようですが,
E.リーチ『文化とコミュニケーション』
波平恵美子『ケガレの構造』
『ケガレ』
宮田登『ケガレの民俗誌』
なども議論の参考になるとおもいます。
>99
さて,私は大学で宗教学を学んだんですが
>100
でのべられているように,一般に世界宗教,教団の例として
あげられるカトリックの世界でもその信仰の現場においては
日本において民間信仰と言われるものと何ら変わらない実態が
広く報告されています。
このような場合,教団とイコールに使われがちな宗教の語をさけて
すべてを信仰の側面から見て
組織的信仰----教団化
非組織的信仰--民間信仰
と捉えるような見方もあります。
ま,どっちにしても分析概念であることに留意すればあんまり
変わらないか…
105 :
104:2001/05/15(火) 06:26
>>103 宗教=教団と捉えると確かに無宗教ということはあるけど,
宗教学的にいえば,無神論というのは立派な一つの
宗教的立場です(揶揄ではありません)。
また,宗教=教団と捉える視点は宗教について考えるときに
視野狭窄に陥りがちです。また,ここで議論されているような
境界=聖俗の問題に関して言えば
場合によっては人間の認知構造にも関わる問題であり,
その点では確かに宗教はすべての人間にとって
普遍的な問題なので,もう少し広い視野から考えるのいいと
思われます。
106 :
名無しさん:2001/05/15(火) 09:41
ギリヤーク尼崎はギリヤーク人ではない
107 :
名無しさん:2001/05/15(火) 09:42
北海道に住む日本最少の少数民族ウイルタ人とは?
に書きこむのに間違えた。スマソ
108 :
天之御名無主:2001/05/20(日) 20:17
>>103 >境界=聖俗の問題に関して言えば
>場合によっては人間の認知構造にも関わる問題
これは言われる通りと思います。賛成です。
しかし「宗教=教団と捉える視点は宗教について考えるときに視野狭窄に陥りがち」
これはどうえしょうか?
よければ、もう少し真意をお聞かせ願いたいです。
例えば「
>>99-100」で言われているような、「東欧は、キリスト教以前の信仰の痕跡のような民俗信仰があって」と言ったテーマに関してですが。
この場合には、宗教-教義-教団-儀礼を一端整理し、現実の人々の振る舞いから、教義-儀礼の部分をいわばマイナスすることではじめて「信仰の痕跡」が明らかにされるはずと思います。
「宗教=教団と捉える観点」を経なければ、一般的な信仰の在り方は捉えどころがなくなり曖昧化するばかりではないでしょうか?
109 :
天之御名無主:2001/05/30(水) 15:26
age
110 :
toki@新宿:2001/05/30(水) 20:05
age
111 :
天之御名無主:2001/06/14(木) 23:03
アゲ。
112 :
天之御名無主:2001/06/22(金) 01:32
名スレ。これをアゲずして、どーする。
113 :
天之御名無主:2001/06/23(土) 23:55
かなり、おもろいスレなんだが
どうして誰も来なくなったんだろう? 絶滅?
114 :
天之御名無主:2001/06/24(日) 00:01
>>113 ちょっとね、
>>1のルート話題が抽象的で広漠すぎる感じはしますよね。
話題の細目が整理されるとよいかも(?)ね。
(自信ないですけど)
115 :
天之御名無主:2001/06/24(日) 00:10
>>114 確かに漠然とし過ぎということもありますが
あらゆるものの境界ということで、話を広げまくり
果ては、免疫系の自己認識の理論まで慣用して境界を語るのも面白いかな、と。
免疫は少し広げすぎでしょうが、そもそも
人間の精神の中に何らかの境界を設定し認識を行い
その境界と見なす世界を往来することで精神の活性化を図っている訳で
やっぱり、そもそもから詰めていってみたいね。
まったくランダムでもいいけど・・・。
116 :
復活したツタンカーメン:2001/06/25(月) 11:20
>91蝿がたかったり
古代エジプトでは 蝿は尊い神様のお一人だつた
はえ座という星座までこしえている。
だから
はえと 蚊は 蚊の負け。
117 :
天之御名無主:2001/06/29(金) 12:57
興味あるage
118 :
天之御名無主:2001/08/20(月) 10:02
久々にageましょう
119 :
天之御名無主:2001/08/22(水) 01:07
超遅レスですが…
>>88 > 境界をテーマにした研究発表でしょうか?以下に紹介します。
>
> 「第789回 日本民俗学談話会 平成12年度 民俗学関係卒業論文発表会」
> 日時:平成13年3月11日(日)13:00〜16:30
> 場所:成城大学(小田急線「成城学園前」駅下車、徒歩3分)
> 会場:7号館(711〜713教室)各発表20分、質疑5分
>
> C会場(713号室)
> 1.境の宗教性−厠神をめぐって−
>
> もし発表をきかれた方がおられましたら、感想をきぼーんします。
私はこの発表聞いてましたが、88のカキコって三月のものなんですよね。
88さん、まだこのスレ覗いてらっしゃるのでしょうか?
そもそも民俗学学会の機関誌にすでに概要載っているかも。
それでも良ければレスしますが…
120 :
天之御名無主:2001/08/22(水) 02:18
坂(境)、橋(端)、河原、門、街道、門…
これらはどういう意味をもっているんでしょうか
121 :
天之御名無主:2001/08/22(水) 11:40
超ド級の素人ですみません。たまたま、読んでみたら非常に面白いスレだったので。
「門」というのは、フィールドの最終的かつ絶対的な「結界」ですかね?
「境界」ではない「結界」の象徴だといえるのではないでしょうか。
それでいて、唯一異世界と通じることの出来る「通路」とでも言いましょうか。
「そこ」を超えてしまうと、もうその向こうはこちら側とは全く別の異世界になって
しまうというか、まさに境界線そのものの「象徴」みたいなものだと思います。
例えばヨモツヒラサカなんかは、この世と黄泉の国を結んでいますが、それは経過的
なものですよね。それに対し、地獄門なんてものはまさにその一点のこちら側と
向こう側ではで世界が変わってしまうわけですし。
平安京等の「門」から始まり、果てはそれぞれの家の「門」というのは、外界から
おのれのフィールドを護るための防御の象徴であり、出入り口ですよね。
122 :
121:2001/08/22(水) 11:43
[121]は、[120]の方へのRESです。
123 :
名無しさん:2001/08/22(水) 12:47
門は象徴というのは、面白い。実際平安京の門といっても、
門を通らなくても、どこからでも入れたはず。しかし中と外を
はっきりわかるように、入り口を作る。なぜだろう?
124 :
天之御名無主:2001/08/22(水) 21:15
あげ
125 :
天之御名無主:2001/08/23(木) 00:11
門の外は恐いよ。知らない世界なんだから。
ずっと内側にいれば安全が保証される。
門の外側である異界は混沌とした危険に満ちた世界だけど
同時に新たな創造力を秘めた世界でもある。
126 :
121:2001/08/23(木) 11:55
>>123 >>125 その意味でも門と言うのは象徴、つまり封印を現わしているんじゃ
ないでしょうか。それでいて、必要に応じて外界との接触を得るため
の唯一の場所というか・・・。
なんか場当たり的なRESになりましたが、基本的にはそう思います。
ただ平安京建設は、中国の風水の影響を受けているんでしょ。
長安などはまわりを城壁で囲まれ、門は夜間は閉ざされていて外敵から都市を防御していた
んですよね。
127 :
天之御名無主:2001/08/23(木) 12:07
>>126 「門=境界の封印」というのは面白い考えですね。
実際、門と同じく境界を意味する橋のたもとや辻
などには、結界として祠やお地蔵さんを置く例が
多いそうです。
128 :
犬虫:2001/08/24(金) 13:38
うーむ。封印というよりは、そのまんま「あちら」と「こちら」を行き来
する際、唯一通るのを許された中立点だと思うけどな。
それ以外からやってくる場合は、そのコミュニティを侵す者。
129 :
シヴァ漬食べたい:2001/08/24(金) 15:42
インドネシアのバリなんかでは門を入った正面に壁を立てている。
これは悪霊が入って来れなくするためだと聞いたことがある。
悪霊はまっすぐにしか進めないんだとさ。
>>129 「禍」ったモノは「曲」れないってヤツですね。
・・・T字路って事故多いんですよね。
後、トンネルって境界になり易いから、
途中で曲っている所が多いですね。
131 :
天之御名無主:2001/08/24(金) 23:28
>128
「この世」と「あの世」の中立点ということは
「この世」でも「あの世」でもないと捉えてよいのでしょうか。
「この世」の秩序がまかり通らないとすれば
門ではある種のタブーを無視する事もできるはず。
そのような歴史的事実が知りたい!
文下手ですみません〜
132 :
121:2001/08/25(土) 14:51
>>131 門の中でのタブーを無視ということとは少々視点がずれると思いますが、
歴史的事実ということで。
貞観8年3月、平安京内裏の応天門に大納言伴善男が放火しましたよね。
伴大納言絵詞の事件なんですが、子供の頃にこの事件のことを「なんで門なんかに
放火したんだろう?どうせなら、内裏を燃やせば良いのに(やや危険思想)」
なんて思っていたんですが、門を結界の象徴として考えた場合、その象徴を燃やす
ということはまさに結界をやぶる大事件だったわけで、内裏が丸裸にされたのと同じ
意味だったといえないでしょうか。で、結界が破られれば内裏がありとあらゆる厄災
に晒されるわけで、考え様によっては内裏放火以上の悪行をなしたわけですな。
ところで、上のほうのRESで「敷居」に関する意見がありましたが、幼い頃、家の
敷居を踏んで年寄りにすごく怒られたことがありました。これも考えてみれば結界を
犯すことであったのかもしれませんね。
133 :
131:2001/08/26(日) 02:28
うーむ、なるほど〜。
かなり興味深いはなしです。
れすありがとう。
そう言えば、小松和彦監修の境界呼んだ人います?
134 :
天之御名無主:2001/08/26(日) 03:04
>>132さん
私は子供の頃、学校の先生に
「お寺や神社の敷居を踏んではいけない。ご先祖の肩に土足で乗るようなものだ」
と教えられたのですが、この場合「ご先祖〜」あたりは後付けで
本当は聖域の境界へ足を踏み入れることを戒めるものだったのかもしれないと
後年考えるようになりました。
135 :
ひさびさに1:2001/08/26(5) 36:00
ごっついヒサシブリに書き込みしてみます。
わたしが一番気になるのは、「境界は点なのか地帯なのか」なんです。
点なら、それは彼岸でも此岸でもないと考えられそうな気もするのですが、
地帯だったらどうなんだろう、と。
たとえば、通過儀礼を考えると、それは「子供が大人に【成る】儀式」なんで、
それ自体、通過儀礼の途中の状況というのは「子供」になるんじゃないか、と思うんです。
あるいは、日本的な「門【ト】」を考えると、それは内側から閉めるものなので、
それ自体は内側に属するように思うんです。
塞の神にしても道祖神にしても、それは置いた者の側に属するものだと考えます。
そうすると、境界と領域というものを考えたとき、境界の役割というのは、
茫漠とした世界を「此岸」と「それ以外」に分断するものなのかなぁ、と。
つまり、防壁としての境界というのは、副次的なものなのか、と思うのですが、いかがでしょうか。
門外漢なので、おかしなことを言ってるかもしれませんが、その際はどうぞ
ご指摘ください。
なんだかんだで埋もれてないあたり、ありがたいですね。
不二の阿字とはいふけれど・・・うちとのたま「ちカら」キー神社さんさんぱいもかかせないし・・・・・
138 :
:01/08/27 21:59 ID:oW6nd6Zc
139 :
121:01/08/28 15:34 ID:ThZDVHf6
>>135=1さん
引き続き素人の向こう見ずレスです。
『茫漠とした世界を「此岸」と「それ以外」に分断』することが境界の重要かつ
最大の役割であることは同意です。そこでなぜ、境界をつくるのか?ということ
を考えてみました。
1さんの言われる門や道祖神などは作った側、あるいは置いた側に属するという
ご意見を伺ってはたと思いついたんですが、つまりこちら側が積極的に境界を作っ
ていっているということに気がつきました。これは潜在的な防御本能の現われとは
言えませんかねえ。それゆえその防御装置であるところの「境界」に宗教的あるいは
呪術的な要素を取り入れていると。だからそういった物に関しては決して副次的なもの
ではないと考えています。そしてこれは、「点」あるいは「線」による境界ですね。
それだけ明確に分ける必要があったのでしょう。
ただそうした場合、いわゆる三途の川などは「地帯」による境界というか、あいまいな
部分が存在しますね。三途の川のどこから「世界」がかわるのか?みたいな。
それについては、わたしは「三途の川はもともとどちらにも属さないもの」と考えます。
つまり「此岸」の住人から「彼岸」の住人になるための変化をするための地帯といいますか。
まず「此岸」を離れ、三途の川に両足を踏み入れた時点で「此岸」の住人ではなくなり、
三途の川を渡っていく途中つまりその過程で徐々に「彼岸」の住人たる資格が発生し、「彼岸」
にたどり着きそこに立った時点で「彼岸」の住人となる・・・というのはわたしの妄想ですが(笑)。
ですから子供が大人になる儀式でも、儀式の最中は未だ子供というのは少し違うと考えます。
儀式が始まることにより、まず子供では無くなる。そして通過儀礼が終了して初めて大人として
認定されると思っています。ただこれは全てにそうだとは言えないでしょう。それぞれの儀式の
宗教観やイデオロギーがあるでしょうから。
ただ元来「物事全て」がある一瞬から全く別のものに変わることはありませんから、そういった
曖昧な境界というのも必要になってくるのではないでしょうか。
それが通過儀礼の意味あいのような気がします。
140 :
天之御名無主:01/08/28 22:25 ID:HhgCLW2U
>>135 通過儀礼は分離・移行・結合の3段階で構成されると考えられています。
で、例えば成人式の場合、まず、子供の集団からの分離、ついで、移行
の状態、そして大人の集団との結合を意味する儀式が行なわれている
とされます。
で、興味深いのは、この通過儀礼という概念を思いついた学者さん(名
前は失念)は、あるの部族のテリトリーから他の部族のテリトリーに入
る際の儀式、すなわち境界を越す際に行なわれる儀式を人間の一生
にあてはめたということ、そして、移行の段階といういわば特殊な状態を
経ないと新たな領域や集団にいくことができないということです。
この移行の状態での儀式は、多くの場合、非日常的、無秩序的なもの
です。つまり、日常世界において境界を超える場合、非日常的な過程
(場)が必要です。例えば、入学式や卒業式なども学生となるための
非日常的な場(ずいぶんちんけな非日常ですが)として必要不可欠な
ものといえます。
以上の事柄から、私は境界は点でも線でもなく場であると思うのです
がいかがなもんでしょう。
141 :
名無しさん:01/08/28 23:00 ID:wUAMMgqo
>つまり、日常世界において境界を超える場合、非日常的な過程
>(場)が必要です。例えば、入学式や卒業式なども学生となるための
>非日常的な場(ずいぶんちんけな非日常ですが)として必要不可欠な
>ものといえます。
いわゆる歓迎コンパ、追い出しコンパというものも現代社会における
イニシエーションの一つの形態だと思います。移行過程の中での
馬鹿騒ぎ(=ハレ空間)。イッキ飲み無理強いするのは、未開社会でも
行われていた地域があったと思います。
142 :
名無しの阪大生:01/08/28 23:15 ID:hJmIFpRI
>>141 しかし、なんでもかんでも「通過儀礼」にあてはめるというのも。
集団には属するが、新歓なんていかないし。大学生のイッキ飲み
は別次元だよ、あれ。
143 :
名無しの阪大生のいとこ:01/08/29 08:44 ID:dv0Kow9s
>142
えー、いとこです。(not 糸子)
私は「通過儀礼」の現代版と考えても良さそうだ、なんて思います。
カタチを変えてゆるやかな縛りで今に残っているとは考えられないでしょうか。
まぁ、今の若いものが単にうまく利用しているだけなのかもしれませんが…。
144 :
天之御名無主 :01/08/29 11:55 ID:a4f2YD.g
社会科学は、対象を分析、構成する要素を抽出し
その純粋な要素を比較・検討することによって社会現象を解明する。
その過程、結論のなかで「通過儀礼」等々の専門用語が作られていきます。
145 :
尼寺's:01/08/29 21:53 ID:ifieGhZM
>144
社会科学の「説明」、どうも…
146 :
名無し〜ん:01/08/30 00:02 ID:cHa8yMCc
「通過儀礼」からもっと視点をかえて、新しい切り口を!
それでこそマルクス主義者である!
147 :
天之御名無主:01/09/01 08:35 ID:v9pMhM8k
age
148 :
天之御名無主:01/09/01 12:17 ID:L4iHFI1E
149 :
天之御名無主:01/09/02 00:32 ID:.peKGAhY
鳥居が神域との門で結界であるというのは解るんですが
なぜあの形なのか、どうして「鳥居」と呼ぶのかの由来は
諸説あって決定打がなく、とても気になってます。誰か有力な説を知りませんか?
そういえば、コドモのころ敷居をゼッタイ踏んじゃいけないと教えられたなあ。
あれは何でだろう。今でもなんとなく踏めない。
150 :
うろぼろす:01/09/02 01:09 ID:ILLUltEA
そういえば、最近出た『新耳袋 第六夜』(これまた微妙な出典なのだ
が(笑)にある「第十話 敷居の神様」に、敷居で一五センチほどの光
る人のようなものが敷居をすーっと移動して消えたのを目撃したという
話があった。体験者自体はこれを敷居の神様だと認識しているようだっ
たが、境に対する意識がヴィジュアルにでることもあるんだと思った。
151 :
天之御名無主:01/09/02 16:20 ID:uIaQLQKo
>149
あれは鳥の止まり木だったんじゃなかったっけ?それで鳥居。
何の鳥だったかなぁ、忘れちゃったよー。ヤタガラス???
152 :
149:01/09/02 23:30 ID:.0HLeunI
>151
やっぱり「鳥のとまり木」説が濃厚ですかね?
十字架=風見鶏と同じ、監視役的な存在としてだろうか。
それともむしろ、鳥葬とかとつながる??
153 :
天之御名無主:01/09/02 23:38 ID:8KmOZ9ko
何の鳥かというと鷲らしいですよ。
アストン『神道』にも出てくる歌で
「真鳥ゐる〜」というのがある。
真鳥(まとり)っていうのが鷲らしい。
154 :
天之御名無主:01/09/02 23:53 ID:xLDj5nhw
>>149 私は鳥とは無関係ではないかと考えます。
鳥居と言う呼称から151さんのような説が出てくると思いますが、
むしろ何らかの建造物を略式化した物、
もしくは鳥居と言う名の建造物がかっては存在していたのかも
知れません(鴨居という物も有りますし)。
古代建築等に関する知識が無いため深くは追求出来ませんが、
鳥、もしくは神がとまる止まり木という説は違和感を感じます。
155 :
天之御名無主:01/09/03 01:09 ID:wg/zsuRE
>154
鴨居かあ!
鴨居も気になる…
156 :
121:01/09/03 01:13 ID:kkQKkAMs
>>149 Web検索してみたら『神社オンラインネットワーク連盟』というのがありました。
神社本庁とは別の任意団体らしいのですが、たぶんこれがそこの鳥居に関する公式
見解だと思います。
一応直リンは避けますのでコピペで対応してください。
ttp://www.jinja.or.jp/faq/answer/03-01.html ま、実際にはいろんな説があるようですが、やはり境界の目印であることは確かな
ようです。
おもしろかったのは、同時に検索に引っかかった神社が何件かあったんですが、そこ
の鳥居の説明が、もろに上記のコピペだったのには笑いました。
鴨居はまた調べてみます。
157 :
121:01/09/03 01:59 ID:r3jUoZA2
>>155 鴨居、ざっと調べました(笑)
で、これは建築業界?の考えのようですが、元来「鴨居」と「敷居」はワンセット
で、初めは「敷居」に対して「上居」といっていたのがなまって「かもい」となり
そこに「鴨」の字を当てて「鴨居」としたとなってました。
ところで「敷居」にかんしては既出のようにいろいろとタブーが報告されてますね。
ということは、敷居についてはそれなりに『神聖』な意味合いがありそうでしょ。
するとセットの「鴨居」についても同様のことがありそうな気がします。ま、鴨居
を踏んづける人はいないでしょうけど(爆)。
それに「上居」がなまって鳥の名前である「鴨」の名前をつけたというのもちょっと
引っかかるものがありますね。確かに家を火事から護るために水鳥の「鴨」の名前
をつけたともありましたけど、やはり神様のところの「鳥居」との関連が匂いますな。
「居(居る)」というのも『何かがそこに居そうな』感じがするし・・・。
158 :
154:01/09/03 19:24 ID:LVnUPZdo
>>156 掲示していただいたHPを見ました。
神社サイドの説明では岩戸隠れの神話を基にしているとの事ですが、
違和感有りまくりです(藁
やはり起源は別に有りそうですね。
159 :
149:01/09/04 00:37 ID:kSB6bBZk
>156&158
となると、ニワトリの居場所という説が現場(w)では主流なんですね。
天岩戸の鶏=夜明け/朝を告げる存在、というところでしょうか?
神社側としては無難な説明かもしれませんね〜。
しかし当の鳥の姿は名残りもとどめず、鳥の居る場所だけがシンボル化された
というのもやっぱり不可思議ではある・・・
鴨居という名は後づけということなんですね。
となるとタブーに関しては敷居にやっぱり意味があるということか・・・
む〜
160 :
121:01/09/05 15:53 ID:T52Z8ULo
>>154 >神社サイドの説明では岩戸隠れの神話を基にしているとの事ですが、
>違和感有りまくりです(藁
そうですか(笑)
わたしなどは「ふむふむなるほど・・・」と簡単に思ってしまいました(爆)。
よろしかったらどのあたりに違和感を感じられるのか、ご教示願えますか?
かなり興味がありますので。
なかなか鳥居を連想させるという建造物が思いつかないんですが。
>>149さんの
>しかし当の鳥の姿は名残りもとどめず、鳥の居る場所だけがシンボル化された
>というのもやっぱり不可思議ではある・・・
そうなんですよね〜。
あ、待てよ。そうすると鳥居の下の部分、鴨居に対する敷居の部分の名称って何?
神社関係者の情報求む!!(激爆)
161 :
151:01/09/05 19:47 ID:b2P2LUZ.
あぁ、そうそう、ニワトリだったよ。レス見て思い出した。
ニワトリの止まり木だぁ。
162 :
:01/09/05 20:41 ID:qI/sfqWk
>149
私も敷居を踏んでしまった時、「敷居を踏んだら親が死ぬから踏むな」と怒られました。
たしか、三途の川に足で橋を架けてしまうからダメとのことです。
163 :
ドキュソ新説@154:01/09/05 21:26 ID:NeKKbInc
>>160 最初にお断りしておきますが、
これは私個人の感想であり、事実関係の確認、及び
そのための努力は一切しておりません(藁
改めて考えると、別におかしくは無いのかも知れませんね。
当初は「鶏台が聖域と俗世との境界として相応しいのか?」と考えたのですが。
神話の中では、この鳥は「偽り」の夜明けを告げたという役回りなので、
「鶏」=「トリックスター」(門番としての側面を持っていましたよね?)と
考えるとしっくり来たりもしますね。
と言う事は、むしろ「鳥居」=「鶏」という事ですか?
164 :
149:01/09/05 23:53 ID:t.qjczzA
西洋ではニワトリといえば風見鶏で、キリスト教教会の屋根の十字架は
もともと風見鶏だったっていう説がありますよね。つまりニワトリ=監視役、
あるいは門番という解釈ができるわけだけど、このへんとの関連も気になる。
ニワトリが神聖な存在というのは東西共通した観念なんだろうか?
165 :
天之御名無主:01/09/06 04:25 ID:R3syOcXU
神居→上居→「かみ/かも」の音韻変化→鴨居?
166 :
犬虫:01/09/06 10:10 ID:aVPuXeA6
>164
鶏は朝を呼ぶ鳥だからどこでも神聖とされてもおかしくないと思う。
167 :
ひでよし:01/09/06 10:54 ID:TOyit4Mo
>>166 鶏の鳴き声を聞いて鬼が逃げていく昔話が日本にあります
夜は鬼などの魔物が住む世界であり、鶏はその夜に終わりを告げる存在
と認識されていたようです
つまり鶏は、夜と昼の境界に住む者、あるいはその象徴だったのでは?
168 :
121:01/09/06 13:08 ID:xsmVXZZM
>>163-167
要は鶏が天岩戸伝説がきっかけで神聖化されるようになったのか?
それとも、もっと古い時期から鶏は神聖な鳥だったのか?
ってことですよね。
少なくとも話のネタになってる(岩戸伝説)以上は、なにか
理由がありそうですね。なぜ、ニワトリ???
★敷居を踏むこと
「ご先祖様の肩に土足で乗る」
>>134 「三途の川に橋を架ける」
>>162 なるほど〜。こういう風に言うところもあるんですね。
169 :
天之御名無主:01/09/06 17:56 ID:t4J0zuIg
>なぜ、ニワトリ???
やっぱり、太陽を神として信仰することがニワトリさんの神聖化につながったのでは。
>>166のいうように、ニワトリ=日の出というイメージから。
なお、確か茶道かなんかのお作法で、畳のヘリを踏んじゃいけないっていうのを聞いたことが
あるんだけど、敷居を踏むことと関連するのかな?
>>139 境界はある特定の地点だけを指す「点」でもいくつかの地点を繋いだ「線」
でもなく、ある程度の広がりを持った「面」であると思います
以前挙げた鬼の昔話でも鬼が逃げるのは三番鶏が鳴いてから、つまり
一番鶏から三番鶏までは夜でもなく昼でもない時間ということです
三途の川にしても川を渡る前に賽の河原という場所があります
このような「どちらでもない世界」にして「どちらでもある世界」を指して
「境界」と呼ぶのがふさわしいのでは?
171 :
天之御名無主:01/09/07 18:31
うちの死んだばあさんに再三言われましたよ。畳の縁を踏んじゃいけないって。
それって、畳の縁が痛むからだとばかり思ってましたが・・・
>>169
172 :
天之御名無主 :01/09/07 18:45
たとえばお茶を運んでいるとしましょう。畳の縁はわずかですが
盛り上がってますよね、その畳の縁を踏む習慣になっている人は
お茶を運んでいるときも、踏んで、縁に引っかかる、つまずくことがあります。
それが千回に一回だとしても、その一回を避けるために、畳の縁を踏むな、敷居を踏むなと言う
作法が出来るのです。
次にここからが民俗学的想像力の出番ですが、その作法を教えるために
畳の縁には・・・・とか、縁を踏むと何かが起こるという理由付けをします。
おばあちゃんの知恵の伝承のために、話が作られるのです。
いつのまには本当の意味は曖昧になったまま伝承だけが残る。そのように
考えます。
>>172 夜爪を切ってはいけない、というようなのと同じですよね
そういう所に意味を見出そうとするのが民俗学なんだよね
だからそんなことは言っちゃだめだってば
>173
どっかの民族の話しですが、煙りが向かってくる男は勇敢だとされます。
これってたぶん、狩りが関係してると思う。
>>170 境界は境の「界」と書きます。
ご指摘の件について、再認識させていただいた事を感謝します。
鶏についてもう一つ。
「日本神話において鶏は神聖か?」という点について
意見を述べさせていただきます。
件の「天岩戸神話」について、登場神仏を思い出して下さい。
アマテラス、アマノウズメ、タジカラオ、八百万の神...
この中で、なぜ鶏は太陽神復活の大祭で大役を果たしたにも関わらず
神格等が与えられていないのでしょうか?
それどころか「物」の扱いでしか無いという印象を受けます。
このような存在が果たして「神聖」だと言えるのでしょうか?
(ご要望が有れば続けます)
>>176 記憶が曖昧なのですが、その鶏はごく普通の鶏でしたよね?
同じ鳥でもヤタガラスのように普通ではない鳥ならば、神格化されています
ご指摘のようにこの話の中では朝を呼ぶための「道具」でしかありませんが、
それが「神聖ではない」という根拠にはならないと思われます
これはあくまでもアマテラスなどの神々について語られた神話であり、
鶏について語る神話ではないということです
古事記と日本書紀では微妙に話が違ったり、戸隠神社の伝承などでも
違いがあったりするでしょう
鶏が出てこない天岩戸神話もあったと思います
(古事記がそうだったような? 記憶違いならすいません)
その違いが日本神話の研究を難しくしているのだと思いますが、
こういった形で議論できるのはいいことだと思います
178 :
ドキュソ新説@154:01/09/08 11:02
>>177 此処で用いている「物」とはobjectでは有りません。
此れでご理解いただけますよね?
今回の趣旨は、かの神話は「神聖な儀式」などでは無く、
「呪術」や「葬儀」のような位置付けではなかったのか?
という想像から来ています。
つまり、鶏は陰陽師の使役する式、シャーマンのファミリア
に通じる「物」だったのでは無いか?という事です。
太陽神復活の神話は数多の神話体系で見られますが、
その前後には少なからず「痛み」を伴っていると感じます。
加えて復活の前提として死はつきもので有り、
それらが関与したと思われる儀式が
喜ばしい物で有ったと言えるのでしょうか?
いずれにせよ動物の特別な力を儀式に利用するという事は
シャーマニズムの存在が見え隠れすると言う事で、
神々の世においても既に宗教は存在していたのですかね?
(最後に長乱文スマ〜ソ)
179 :
天之御名無主:01/09/08 11:53
>>178 ん。イイ!!
期待しています。そういうのが読みたかったりしてました。
でも「ファミリア」って所謂「眷族」、「使い魔」の類で
厳密にはシャマニズムと接点が無くて、魔術関係の用語じゃ
ありませんでしたっけ。
変な指摘かもしんない。調べてないから。でも ドキュソ新説@154氏の
挑戦は面白い。なりすましじゃないですよ。
180 :
天之御名無主:01/09/14 00:55
age
181 :
天之御名無主:01/09/29 04:32
>>鳥居
やはり太陽信仰に関りが深いものだと思われるのですが。
朝鮮半島の天道などの信仰で鳥居に酷似した御建柱に縄を渡して
「朱鳥=明け鳥」を招来する本解を朗誦する儀式がございますようです。
素人以前の発言でお目汚しすみませんです。
>鴨居と敷居と畳のへり
敷居を踏むのは「先祖の頭を踏む」と云って
うちの田舎では最大のタブーとされております。
鴨居は「紐を掛けてはいけない」と言われ、これもかなり深刻なタブー。
ちなみに畳のへりも踏んではいけないとされておりますが、
あまり普遍的なものではないのでしょうか。
畳ひとつが「敷」だと教えられたことがあって、
ソレも一種の結界とされておりましたです>うちの田舎。
久しぶりにこのスレ発見してちょっと嬉しかったので
カキコさせて戴きました。それでは。
182 :
天之御名無主:01/10/08 08:30
集落の内と外を明確に分ける事例として、カンジョウナワ(勧請縄)という
風習があります
これは集落に通じる道に注連縄を掛けるという風習で、ケガレなどが
入ってこないようにするためのものだといわれています
(地蔵や道祖神とも共通する性格です)
>>182 名前書き忘れていますが、「ひでよし」です
注連縄の語源は、「占める」ための縄といわれています
縄を掛けて囲いをし、印を付けることでその土地の内と外を分け、
「占める」ことを宣言していたと考えられています
(勢力圏を意味する「縄張り」という言葉はこれに由来しているそうです)
184 :
しっつも〜ん??:01/10/09 00:11
>>182 「カンジョウナワ」って村の出入り口に掛かってるとは限りませんよね。
滋賀県や三重県、京都府など何カ所かで神社の鳥居に掛かっているのを
見かけました。また関西の報告書や地方史誌でも同様の事例を良くみます。
隣り合った村で一方は村の出入り口、もう一方は中心部にある神社といった
事例もあったりするようなのですが、この神社やその他の村の中のカンジョウナワ
はどう説明されているのでしょうか?
185 :
しっつも〜ん??2:01/10/09 11:29
そう言えば、細かい場所は忘れたのですが、三重と奈良の県境あたりで
川にカンジョウナワが掛かってる所を数カ所みました。このタイプも
史誌に載っているのですが、大阪で村落の中の川の小さな滝のような所に
カンジョウナワが掛かってい所(生駒あたりなので奈良になるのかも?)
があります。川は
>>182の理由で説明できますが、村の中の滝などの場合は
どうでしょう?
ひでよしさんは民俗学に詳しい人みたいなのでどうか教えて下さい
注連縄には大きく分けると、三つの機能があると思います
@外からの不浄なものの侵入を防ぐ
A内を清浄な空間として保つ
B招いた神をそこに留める
この三つの機能がよくわかるのが、今でもよく見られる地鎮祭です
地鎮祭では竹や榊を四隅に立て、その周囲に注連縄を張り巡らせます
これによって不浄なものの侵入を防ぎ、清浄な空間として保たれた聖域に
神を招き入れ、そこに留まってもらうというのが地鎮祭だと考えれば、
注連縄の三つの機能がわかると思います
で、質問についてですが、鳥居に注連縄を掛けるのは@とAの機能、
木や滝(どちらも神の依代だとして)に注連縄を掛けるのはBの機能で
説明が付きますし、玄関や神棚などに関しても説明が付くと思います
こんな感じで納得していただけたでしょうか
少し勘違いをされているようなので、それについての説明をします
カンジョウナワとは、「集落に通じる道に注連縄をかけるという風習」の
ことであり、注連縄のことを指しているわけではありません
鳥居などに掛かっているものは、他の名前があるかもしれませんが、
カンジョウナワではありません
カンジョウナワと同様の行事が、ミチキリ(道切り)という名前で行われている
地域もありますが、こちらの名前の方がわかりやすかったかもしれませんね
188 :
ごめんなさい:01/10/09 20:57
注連縄とカンジョウナワの違いは十分承知しております。
ということは地元の人が「カンジョウナワ」と呼んでいても
違うという見解なのですね。一応自分の調査事例や地方誌史類で
「カンジョウナワ」、「カンジョウガケ」など呼ばれる事例を
挙げたのですけども・・正月の行事とセットになってるパターン
のやつです。
実は笹本正治さん等の上下方向の境界説がどれほど浸透し
ているのかと思い、わざと村の中心部の事例の質問をしました。
やはり民俗学の境界論や空間論のプロパーくらいにしか知られてない
ようですね。
試したようで申し訳ないです。
鳥居などのもカンジョナワという事例があったのですか、
それは失礼しました
「勧請」という名前から推測すると、そこに神を招こうという意味が
あるのかもしれません
あるいは、そこに神がいるということを示す印なのかもしれません
「上下方向の境界説」というのはどういう説なのでしょうか
5年振りに民俗学の勉強を再開したので、最近の研究の動向は
よく知りません
よかったら教えて下さい
190 :
天之御名無主:01/10/10 18:13
>>189 「ミチキリ」「カンジョウナワ」など一般に村に通じる出入り口で行われている
と思われている儀礼が、実際には村の中心部などで行われている場合も多々ある
ということは、フィールドに出たことのある人なら感じていると思います。
道祖神などはまさに村の中に点在してますし。それも現在のように移動されるかなり以前から。
このような問題に対して、これまでの「水平方向」の境界ではなく、「垂直方向」
や「上下方向」(垂直や上下とは言葉の便宜上で、感覚としてはこの世とあの世)
の境界に対する防御の儀礼なのではないかという考えが、自分が少々気にしている
「上下方向の境界」と言う説です。内田忠賢さんや福田アジオさんにかなり批判
されてますけども。宮田さんの「妖怪の民俗学」なんかで一般的には知られてる考えで
はないでしょうか。私もこの説には懐疑的です。
191 :
天之御名無主:01/10/11 04:25
事象の地平面
それは民俗学とは関係ないんじゃ……
193 :
天之御名無主:01/10/13 23:25
>>189 「カンジョウナワ」と言う言葉は民俗学の術語的なものと思われるので、あまり
漢字の「勧請」にとらわれ過ぎなくても良いと思うのですけども。同じような
正月などにする儀礼でも必ずしも「カンジョウナワ」と言われる訳ではないし。
たしか「ジャズナ」(蛇綱かな?)とか言う所もあったような??
まあそう言う意味では注連縄と同じ様なものと言っても良いかも知れないですね。
村の共同儀礼なのかどうかという違いだけかも知れないです。
「ジャ」なんかの藁綱については故橋本鉄男大先生が本を書いていたと思うので、
また機会があれば読んでみます。
>>192 こんな話題が「民俗学と関係ないんじゃ・・・」と言われたら宮田さん草葉の陰で
泣いてるんやないかな〜。実際、観念論的(この世とあの世)な境界論は少し下火にな
ってきてるように思うんですが。でも一般の人が思ってる民俗学ってなんなんやろう?
とは言うものの桜田勝徳、原田敏明から始まる民俗学の空間論なんかも大学生レベル
ではあまり認識されていないのかもしれないですね〜。今年の民俗学会のシンポで、野本寛一先生が
内田先生さんの雑誌の記事から引用して、民俗学と地理学の関係を少し語っていたけども、
どうも民俗学では観念的な境界論の方がプロパーも好きみたいですよね〜。
桜田さんの「村とは何か」。50年近く前の論文やけども、すばらしく示唆に富む
論文だと思うのだけど・・・
194 :
天之御名無主:01/10/14 02:28
>193
いや、ただ単に「事象の地平面」は物理学用語だと
思っていたので関係ないんじゃないかと言いましたが
民俗学にも同じ名称の用語があるのでしたら
それは当方の不明ですのですいません。
195 :
天之御名無主:01/10/14 10:39
>194
>191について「民俗学と関係ないんじゃ・・」と言っておられたのですね。
空間論や境界論についていったいるのかと思ってしまいました。
自分が勘違いしてました。すいません。
ついでですが民俗学内でも自然科学用語を論文で使うことに関しては色々と
意見が別れています。「これまでの発想では見えてこないものが見える」
と言う意見や「曖昧な意味で使うのは間違っている」と言う意見があります。
特に環境や生態に関する分野でこの様な自然科学用語を民俗に当てはめることに
ついて議論されたりしてます。
>>18 佐々木勝『厄除け 日本人の霊魂観』(名著出版、1988)を読んでいて、
興味深い事例を発見しました
天井から吊るした棚に疱瘡神を祀り、正月に供え物をするという事例が
東京都三鷹市の事例として報告されています
疱瘡神とは天然痘を広める疫神で、、侵入を防ぐため村境などの
境界で追い返す儀礼などがありますが、その神を天井に祀るのは、
「いつも暗くて曖昧な空間」である天井が境界と認識されていたことを
示していると考えてもいいのでしょうか
この一例からだけでははっきりとしませんが、同種の事例がもう少し
集まれば、天井を境界とする認識について論じることができそうです
197 :
天之御名無主:01/11/16 05:53
>>196 魂呼ばい、屋根に穴開けてやったりする所があったような気がする。
ちがったかな?うろ覚え、ごめん。
屋根の上から死者の名前を呼んで蘇生させるというのがありましたね
すっかり忘れていました
なるほど、それも考慮すれば天井や屋根を境界とする認識について
認めてもいいかもしれません
他にも天井や屋根に関する事例があれば教えて下さい
199 :
っていうか:01/11/16 16:03
魂よばいって、家礼にある皐復じゃんって思っているのは
あたいだけかしらん。
「となりのととろ」には天井裏に住むまっくろくろすけ(ススワタリ)という
妖怪が出てきていましたね
他にも天井下がりや天井なめといった妖怪を水木しげる氏が描いて
いますし、天井は妖怪が潜んでいるような場所だったと言えそうです
魂呼ばいを井戸の底に向かってするという事例もあるそうなのですが、
井戸もまた怪異の集中する場所であり、境界性を帯びた場所であると
考えられていたようです
番町皿屋敷の怪談のように死者の霊が現れる場所、すなわち「この世」と
「あの世」を繋ぐ通路であったと言えそうです
こちらも参考までにどうぞ
http://www.sankeislc.co.jp/minzoku0110/minzoku.htm
「となりのととろ」 → 「となりのトトロ」
202 :
天之御名無主:01/12/17 00:10
発掘
203 :
天之御名無主:01/12/17 08:44
とある農家にお邪魔したときに、そこの家の神棚の上の天井に「天」と書いた
半紙が張ってあった。
これって、当たり前にすることなんだろうか。
204 :
境界とゼロ:01/12/17 15:01
『境界』か・・・。なんか数学での『ゼロ』の概念と似ている気がする。
言葉の上でしか存在しなくて、完全であり、虚無でもある。
どちらにも属さず、ただ世界を分ける為だけに存在して、
点であり、面であり、一個の世界でもある。
数学では『ゼロ』と表現されて、宗教では『神』と表現される。
どちらにせよ、たまらなく惹かれる。
205 :
天之御名無主:01/12/17 18:47
>>203 それが当たり前なのか、その地域だけなのか、その家だけなのか
てのを研究するのが民俗学だね!
206 :
天之御名無主:01/12/18 03:47
207 :
天之御名無主:01/12/27 15:43
天井が「天」へと続いているという意識の現われということですかね?
高知県下では卯の神とか天の神、高神様と呼ばれる神を天井や
屋根裏などに祀る例があるそうです
オンサキサマやコウジンと呼ばれる神も同様にして祀る例もあり、
年神的性格を持った農耕神だと考えられているようです
赤田光男氏は『ウサギの日本文化史』(世界思想社、1997)で
「屋根裏のうす暗い聖所が、神々のすみかとして見なされていた
古い時代の伝統を伝えるものといえるだろう」と書いておられます
209 :
天之御名無主:02/01/20 18:08
犬夜叉では井戸から戦国時代に行くんだよね
異界へと通じているから、これも「境界」と言ってもいいのかな?
210 :
天之御名無主:02/01/20 19:14
>>209その通りです。
民俗学では「地下他界」という言い方をします。
多くの漫画家は民俗学や人類学の本から
こうやってネタを拾ってきているんですね。
211 :
日本@名無史さん:02/01/20 21:04
他界は垂直方向か、あるいは
水平方向か。
民俗学では、日本人の思考としては、
どちらだろうか。
212 :
天之御名無主:02/01/21 00:19
>>211これについては、日本人は……とまとめることはまず無理でしょう。
一般的に、海の町と山の町では他界の方向が違いますしね。
それに、沖縄なんかでは一般的にニライカナイなんて言われていますけど、
島によっては根の国といって地下他界だったりします。
難しいですね。でもおもしろいトピックですよ。
213 :
天之御名無主:02/01/24 14:50
「根の国」って、記紀以外の文献に出てくるんですか?
214 :
天之御名無主:02/01/24 15:38
>>209 井戸っつーと、キン肉マンでもウォ―ズマンの体の中に
入るのに井戸を使ってたような…
215 :
天之御名無主:02/01/24 17:44
おおっナイス きん肉マン 神話説か(藁)
216 :
天之御名無主:02/01/24 19:52
>>213 大祓の祝詞とかには出てくるね
そこでは「罪」や「穢」を「根堅州国」(ねのかたすくに)に「祓」う、
というような内容で出てきてたと思う
『春日権現験記絵』には、春日大明神が憑いた橘氏女という女房が
「鴨居」や「天井」に登って託宣をするという場面があります
その場面の詞書には、「高き所に侍り、無礼なれども、我等が輩は、
本より高き所に在れば、憑くべき物を引き上ぐるなり」とあり、神仏は
「高き所」にいるべき存在であると認識され、「鴨居」や「天井」が出現
する場所であるとも認識されていたようです
このような神仏が出現する場所は、まさに「境界」であるといえるので
はないでしょうか
「「鴨居」や「天井」が出現する場所」 → 「「鴨居」や「天井」は神仏が出現する場所」
神仏が出てくるといえば、夢の中…。
たしか、コマチーが何かに書いてたような。
あ、コマチー=小松和彦ってことで。
220 :
「夢」といえば西郷信綱でしょ:02/02/05 09:03
まあ、夢を見ているということは、寝ているわけでも
起きているわけでもない状態といえるしな
221 :
天之御名無主:02/02/05 09:54
能楽で言うと「橋懸リ」ですね。梅若六郎というシテ方が言っていたのですが
能の舞台は役者が登場する幕から、舞台まで、橋で繋がっています。
四角い舞台の内側は役者にとって、この世ではなくて、神聖な空間だと感じられ
ているそうです。橋懸リは、生身の生きた肉体を持った表現者が、神の降りてくる
場所である舞台へと移行するための装置なんだそうです。
222 :
天之御名無主:02/02/14 15:48
舞台が「神の降りてくる場所」であるとすると、能面などを身に纏うという
行為は、人から神へと姿を変える行為である、ってことですな
>217
明恵上人の叔母の例が思い出されますね。能の橋や松、柱を立てて神を祭祀
するのもその例ですか。松神楽というのもありますね。
以前ある画家が能舞台の松を描く仕事を任されて勝手に数十本の松を描き、
顰蹙をかったそうです。
224 :
天之御名無主:02/02/14 17:16
鏡板の松は影向の松ってやつです。能楽は神へ向けて奉納するもので
人に見せるものではない。今でも神社の奉納のときには、正面を拝殿に
向けて演能するので、観客は脇からしか観ることができない筈。
で、松は舞台では背面にあるんですが、本当は向かって正面に存在し、絵は
鏡に映っているという趣向なのです。松一本取っても能は「越境の芸術」ですな。
225 :
天之御名無主:02/02/18 09:26
>>204 この表現ってカッコイイよね
>言葉の上でしか存在しなくて、完全であり、虚無でもある。
>どちらにも属さず、ただ世界を分ける為だけに存在して、
>点であり、面であり、一個の世界でもある。
あなたは今日から詩人になりなさい
226 :
天之御名無主:02/02/18 12:02
227 :
天之御名無主:02/03/13 23:20
age
「境界」といえば、竃や厠のように家の中で「境界」と意識されている
空間というのもありますよね
このあたりのことは飯島吉晴氏の『竃神と厠神 異界と此の世の境』
(人文書院、1986)に詳しく書かれていたと思います
229 :
天之御名無主:02/04/09 02:50
最近あがってこないもの…
230 :
天之御名無主:02/04/09 07:37
↑単純にネタ切れなんじゃないの?
231 :
天之御名無主:02/05/07 03:17
保全age
232 :
天之御名無主:02/05/08 02:38
お仏間や仏壇の置いてある部屋・空間の上部や階上に部屋や収納が設置される
場合、天板の一部に「空」の字を墨書して貼っておく習慣がありますが。。。
民家の建築を考慮すると最近の事例(ここ50年くらいの?)ですが、
屋根や天井に関する境界意識の変形として一応書いてみました。
昔は穴を空けていたとの祖母(92歳)の意見も併記しつつ。
233 :
天之御名無主:02/07/30 21:39
掘り出します。
age
234 :
天之御名無主:02/08/08 14:36
ageついでに、たとえばこんなことを考えてみる。
A)「大阪」と「奈良」とを分断する「生駒山」という山がある。
この「生駒山」は境界であると認定できる。
B)ところが、その「生駒山」を奈良側から越えるときにのみ、山童が出て食べ物をねだる、
という噂が出始めたとする。
そのとき、「生駒山」は依然として境界であるといえるのかどうか。
235 :
天之御名無主:02/08/08 20:59
>>234 おそらく、大阪がLAN、奈良がインターネット世界だったと思われます。
したがって、奈良側から「越える」のではなく、「侵入する」というのが
正しい表現でしょう。当然、奈良からの侵入者にはAckビットは立っておらず、
Synビットのみの場合、山童にID/パスワードという名の食べ物をねだられる
ということになります。その時に食物を与えることができなかった者、
それがすなわち不正侵入者であると考えられ、山童によって破棄されるわけです。
先日、深夜の海を見に行きました。
曇天で月も星も見えぬ夜の浜辺で、
灯りの連なる海岸線が途切れ、暗黒としか形容の仕様の無い沖の辺りは
自分の居る場所とは明らかに違う世界が存在しているとしか思えませんでした。
街灯など無い昔に措いては、境界などそこら中に存在していたのでしょうね。
考えたかったのは、文脈によって同じ場所であっても「境界」となることもあれば
「他界」となることもあるってことで。
つまるところ、絶対的な「境界」なんてないだろう、ってことなんです。
238 :
天之御名無主:02/10/14 20:02
微妙にずれますが・・・
いわゆる「結界」って本来どういうものなのですか?
仏教用語だといわれていますが神道でも使いますよね。
西洋神秘学でつかうのは和訳だと思いますが・・・
239 :
天之御名無主:02/12/02 18:04
敷居を踏んじゃいけないのは、日常的に家への出入りの時に
敷居を踏む(踏み続けると)と敷居が壊れちゃうから、そのことを子供に教えるときに、
「なまはげ伝承」っぽく、怖がらせて、守らせるのかと俺は思ってたよ。
実際に踏み続けて、扉が滑る「とい」の部分を壊して、怒られたことあるし。
敷居に関する昔話を聞いたことがある。
確か何か(天狗だったかな?)を助けたお礼に、泥棒に入られないようにしてもらった人の話。
その家に泥棒が入って逃げようとすると、「『敷居』をまたいだところで身体がかたまってしまう」という・・・。
その話が有名になって、「その人の家の敷居を削って分けてもらうと泥棒避けになる」という話が伝わっているそうです。
なんだか敷居についてのイメージが推測できそうな話ですね。
241 :
天之御名無主:02/12/14 23:29
age
242 :
天之御名無主:02/12/15 01:35
>>238 あ、興味ありますね。
それから、結界と言うものの作用であるとか、空間的な解釈は
文化や宗教的に、どこで(どの宗派、地方で)どんな考え方をするのかとか、
結界の作り方の方法、祭儀、差違とか、
結界を作る野を実際に見たとか、聞きたいなぁ・・・。
(^^)
244 :
天之御名無主:03/01/13 14:12
境界と言うのは「こちら」と「あちら」という分断された世界の「あいだ」ではないと思います。
どちらの世界も重なった部分ではないでしょうか。
言い尽くされたことだと思いますが。
>>234 絶対的な境界の場、というのはないと思います。
けれど、我々の意識には確かに共通した「境界」の意識があります。
そこんとこもう少し誰かお話してほしいなー。
素人です。単なる思いつきで書いております。
>>244さんの、
意識の「境界」、で気になることがありました。
だいぶ前の方のレスで、「まっすぐなトンネルはあまり作られない」という
お話がありましたが、トンネルって、現代的で、かつ日常的に感じることの
できる一種の「境界」ですよね。
大人になって、自分で運転をするようになってから、カーブのない短いトン
ネルに入ると、いつも決まってどこか不安な感情が湧きました。
逆に、長くて、うねっているトンネルでは、入った瞬間、本当に真っ暗にな
りますよね。出口が塞がってて、本当なら閉塞感があってもおかしくないの
に、私はなぜか、その方が安心するんです。
カーブを曲がっている地点で、本当の暗闇ではないものの、明らかに外の自
然光からは遮断されますよね。
私にはこの「カーブを曲がっている時間、又はその地点」が、現代の境界と
呼べるもののように思えます。
曲がってるトンネルを通り抜ける時より、まっすぐなトンネルを通る時の方
が、なぜだか、心理的な圧迫感が強いんです。
何を言いたいのか自分でもわからなくなってきました…。すみません。
トンネルの入口を子供、出口を大人の世界だとするなら、通過儀礼とも似た
感覚がありませんか?
だから、出口がすぐ目の先にあって、あっという間に通り抜けてしまう直線
の短いトンネルが怖いのかな、と…。
単に、私がまだ精神的に大人になりきれていないせいでしょうか。
…素人の戯れ言なのでsageときます。
246 :
天之御名無主:03/02/11 11:38
age
247 :
「菊と刀・日本に投下された精神的原爆」:03/02/11 18:59
漏れのガキのころ、漏れの乳歯が抜けると
上の(上あご)の歯だったら床下に
下あごの歯だったら屋根の上にブン投げて
強い永久歯が生えてくるようにと祈る風習が
あったな。でもそのせいか(?)40を目前
にして漏れの口の中はギンギンギラギラ(藁)
金歯銀歯のオンパレードよ。これって境界の
タタリ?
248 :
「菊と刀・日本に投下された精神的原爆」:03/02/11 19:05
ちなみに漏れが住んでる近所の(鎌倉)「佐助稲荷」
って稲荷はヤベー+++霊がいっぱいいるから行かん
ほうがええな。漏れが行ったときはすげー気色わりー
波動を感じた。急ぎ「銭洗弁天」で銭洗い水を肩とか
頭とかに振りかけておはらいしたっけ。とりあえず
家に帰ったときは肩から「塩」をまいたらへんな気配
がようやく去っていったっけ。民俗学の研究もいいが
ヤベースポットへいって変なもん拾ってこないように
な。
>>247 懐かしいな、そのあと、「ねずみの歯と自分の歯、芽くらべ」て言った?
250 :
「菊と刀・日本に投下された精神的原爆」:03/02/12 09:26
レスあんがとう。
漏れの住んでたのは神奈川県の秦野市だったから
多分秦野市に伝わる言い伝えか、あるいは親父の
ふるさとの愛知県新城市、もしくはおふくろの
ふるさとの静岡県富士市に伝わる言い伝えだと
思う。「ねずみの歯と自分の歯、芽くらべ」って
のは言わなかった。この言い伝えでは要するに
自分の住んでる部屋が「口の中」で屋根が上あご、
縁の下が下あごっていう「構造」になってるん
だと思う。なんかは忘れたけど統合失調症の患者
さんの研究では「自分の部屋の中は自分の心の中
を反映してる」っていう興味深い研究報告があった
っけ。こう見ていくと「家」ってのは人間の頭部
の象徴かもしんないね。ほんとにレスありがと。
漏れはうれしいな。
251 :
「菊と刀・日本に投下された精神的原爆」:03/02/12 09:44
「境界」から少し外れたので細く補足。
家と外界との「境界」=「玄関」
(仏教用語:玄妙な道へ通じる関門)
部屋と部屋との境界=ふすま
(ふすまのレール(?)を踏んでは
いけない)
居室と天界(?)の境界=天井板かひさし
居室と地界(?)の境界=縁側(?)
天からの悪霊退治=鬼瓦やシーサー
地からの悪霊退治=何だろうね
(お札?家の土台石に特殊な石?)
玄関からの悪霊退治=お札や神棚
あと「移動性の境界(結界)」作り=
塩を撒く(火葬立会い後)、棒で
地面に丸を書くとか灰で丸を書くとか
いろいろ。昔の人は決して根拠もなく
そういったことをしてたんじゃなく
経験的に体験したことを積み重ねて
そういう方法を編み出したのでは
だから一概に「迷信」と切って捨てられない
ものがあるな。
252 :
「菊と刀・日本に投下された精神的原爆」:03/02/12 09:52
またまた補足(簡単に)
「空間的境界」を仕切る神様=「さえのかみ」
「時間的境界」を仕切る神様は?
1)お天道様?
2)時の氏神?
3)季節の祭りの神様?
>>250さん
詳しく述べられたので、私のとこは、鹿児島県徳之島です。
本来なら境界のこちらと彼方?
境界の事で言うなら、お袋から聞いた「カメ(水などを入れる)の中に入る話」
詳細は、省きますが吉野ヶ里の様に、カメ棺に入り、蘇りを待つ時空間とは?
脱線させてすいません。
254 :
「菊と刀・日本に投下された精神的原爆」:03/02/12 20:25
>>249様
「カメ」ってもしかしたら「子宮」の象徴?
沖縄県本島の「亀甲墓」ってもろ子宮の象徴
だし。古くは「子宮」のことは「子壷」って
いったそうな。地面を地母神とすると大地に
埋められたカメはもろ、地母神の子宮ってこと
だよね。ていうことは。。。あとが続かん。
(^^)
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
marimo
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
民俗学のレポートのために「境界」について調べてたどり着きました。
今このスレが動いてなくて残念。。。
色々よんで考えが深まりました☆
本当に内容がしっかりしててすごい!!
262 :
天之御名無主:03/10/08 22:01
高校生?
☆
↑これ使う奴は無条件で中高生だろ。
ごめんなさい。これでも大学で国文学やってます(^_^;
「民家と境界」についてレポート書いてます。
日本の昔の民家は「個室」になっている空間は、家の長夫婦の部屋しかなかったようです。
仕切りはあるけど、屏風や障子は音などはつつぬけ。
ただ、仕切ることにより、ある種の結界のような役目をし、
内部と外部を異なる空間にしていたようです。
これも家のなかでおこる「境界」ですよね。
265 :
天之御名無主:03/10/31 01:57
agetokimasune
266 :
天之御名無主:03/12/07 04:42
age
267 :
天之御名無主:03/12/07 05:22
【あめぞう】2ちゃんねるに閉鎖要求!知的財産?【したらば】
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/sports/10137/1066056813/ 2ちゃんねるの生みの親でもある、老舗掲示板あめぞうと、したらばが
協力して2ちゃんねるに閉鎖要求!知的財産を盾に今後裁判も侍さない
構え。これに対しひろゆきは反発すると思いきや・・
225 :ひろゆき@どうやら管理人 ★ :03/12/07 04:01 ID:???
どうでもいいことですがさすがに裁判にまで発展したら負けるかも。。
まぁその時はあっさりと閉鎖も考えられる訳で。。。生みの親なら親で
そっとしておいて欲しいし、まぁ子には子なりの考えがある訳で。。
今のところは閉鎖は考えては無いです。はい。。けれどもさすがに
判決には従わなければならないし・・・閉鎖するとしたら12月31日が
区切りが良くて良いかなと。。そうしたらごめんなさいです。。
269 :
天之御名無主:03/12/08 03:09
>>268 それ資料として不十分な気がする。
境界の項目だけ読んでみての判断だけど。
270 :
天之御名無主:03/12/09 11:44
268 つうかブッタ編怖い・・・鬱になる
家と外との境界が縁側。
人と人を結ぶのは縁。
272 :
天之御名無主:03/12/16 00:49
ド素人です。
ふと思ったんですが、境界線の向こう側の人はある意味人で無くなってしまうんですよね?
なのでコミュニケーションが難しくなるのは解るんですが、境界線上(あるいは彼岸と此岸の間)からの
視点ってのは無いんでしょうか?
ぎりぎりコミュニケーションが取れそうなのでなんかあるのかなと。
山とかに住んでいたものが里に下りてくる、ってのが一番多いんですね?
273 :
天之御名無主:03/12/16 00:59
たとえるなら陰と陽。相容れないからこその境界なのでは?
動物の嫁婿入り譚だの、臨死体験譚などが民話にないことはありませんが。
実際のところ、彼岸と此岸というよりも、既知と未知なのかも?
したがって、山のモノでも里に下りてともに過ごせば「既知」すなわち「此岸」となると……
犀川という名前のついた川が日本には多いです。
言うまでもなく村落の境界線です。
その線を辿ると必ずお地蔵さんなど犀の神が祭ってあります。
これは道祖神です。
調べてみると面白そうなのは、農村と道、そして町の発生と発展に
ついて調べてみるといい論文がかけると思いますよ。
275 :
天之御名無主:03/12/16 16:36
月がまだ未知だった頃はお月見が盛んだった?
月に人類が到達してからはあまりお月見なんてしていないと思う。
既知が此岸、未知が彼岸というのは納得いく気もします。
スレタイに戻すとなんとなくわかっているあたりが境界でしょうか?
276 :
天之御名無主:03/12/17 01:28
272です
>>273 しかしそういうモノは彼岸に帰って行きませんか。
そのモノの視点を書いた書籍とかないかな、っと思いまして。
というか、彼岸・境界線上・此岸それぞれの視点ってのはあくまで相対的なものなんでしょうか?
素人質問で済みません。
277 :
天之御名無主:03/12/17 01:55
ある意味、我々はつねにハザマにいる、ハザマ的存在だと思うが
未来と過去のハザマ、未知と既知とのハザマ、
この肉が死を内包することを思えば、生きているということだって100%断言できるかどうか
278 :
天之御名無主:03/12/17 22:06
>>277 そういう思弁的なことを言い出すと問題の論理的抽出の放棄につながりかねない
>>275-276 「境界線上の視点」というものがあり得るかということが論点だろう。
此岸・彼岸 = 既知・未知 という仮定が正しいとした場合に、
さらに次のような前提条件を論拠として考察してみる。
(1) 既知の事物を知覚することは可能である
(2) 未知の事物を知覚することは不可能である
(3) 知覚できなくとも想像することは可能である
(4) 知覚したこと、及び想像したことを文章等に描写することは可能である
そうすると、昔話などの「彼岸の視点」というのは、
此岸の人間による虚構であることが判る。
「境界線上の視点」とは此岸・彼岸の両方を
(限られた範囲で)見たものの視点であると考えられるから、
「彼岸の視点」が現実には存在し得ない以上、
それを含む概念である「境界線上の視点」も存在し得ないことになる。
>>279のつづき
しかしながら、此岸の人間である我々の祖先が
彼岸というものをどのように捉えていたかということは
昔話や習俗などから考察することが可能である。
これこそが民俗学的視点ではなかろうか?
たとえば、筑波大名誉教授の小澤俊夫氏は、
「蛙女房」「「猿婿入り」「蛇婿入り」など動物の伴侶を拒否するタイプの昔話を
例証として挙げて、異類婚姻譚のある類型に関する分析を次のように述べる。
「(日本では)動物と人間との間を近く感ずる動物観が古くから身についておりながら、
他方では動物との結婚など、身の毛もよだつように感ずる日常的感覚があって、
そのためにこのような強い拒否が昔話のドラマを形成することになったのではなかろうか。」
(講談社学術文庫 「昔話のコスモロジー」(1994年))
>>280のつづき
小澤氏の名誉のために言うが、これは「拒否するタイプ」についての分析で、
もちろん「愛し合いながらも離れ離れになるタイプ」なども考察している。
ここで「拒否するタイプ」を掲げたのは、この類型が日本に特異的に見られる
昔話であると氏が分析していたからである。
もしも本当の意味で此岸・彼岸の両方を見ることができた「境界人」が
存在するとしたならば、狼少年(少女)やカスパー・ハウザー氏のような
野生化した時代をすごした人間か、幽体離脱等の臨死体験の経験者と
いうことになるのではなかろうか?
※臨死体験に分類される昔話群を、東京教育大学の桜井徳太郎氏は
「遊魂譚」と名付けて分析を加えているので、興味ある方は読まれたし。
>>279 「境界線上の視点」がなぜ「彼岸の視点」に含まれるのでしょう?
「境界線上の視点」とは此岸・彼岸の両方を
(限られた範囲で)見たものの視点であると考えられる
違うと思う。此岸から境界線を見た人はいない。それは
(2) 未知の事物を知覚することは不可能である
(3) 知覚できなくとも想像することは可能である
に入ってしまう。
>>279 の解釈は、此岸・彼岸 = 既知・未知 にこだわり過ぎて二元論的。
多値論で考えないと境界という曖昧な概念は理解できないと思う。
訂正
×此岸から境界線を見た人はいない
○彼岸から境界線を見た人はいない
>>278 思弁的というか・・・俺は逆に聞きたいな。
あんたは自分の中に「バランス感覚」を感じないのかな?
二つの対立する意見の間に立たされたときなど、中立者でいようとすることはないか?
自分の体・自分の意思は「既知」的な要素だけで構成されてると思うのか?
自分でも思っていないような行動を自分でとってしまうとき、自分を制御できないときに、自分の中の「未知」を感じることもあろうかと思うのだが。
>>279-281 未知への拒否反応は日本人に特有?
なるほど。
ふとイザナミを追っていったイザナギが、イザナミが世にも恐ろしい姿をしているのに遭遇して「拒否」するシーンを思い出した。
類型のギリシャ神話ではオルフェウスは妻を「拒否」してないんだよな。
>>282 なんべん読み返しても、あんたが何を言うとるのか理解できない。
無視してもいいんだが、あんた、断定でぶった切らずに自分の思いをちゃんと説明できるのかな?
>>282 此岸・彼岸 = 既知・未知 にこだわり過ぎて二元論的。
そう、その通り。最初にいったように、漏れの主張が成立するのは、
「此岸・彼岸 = 既知・未知 という仮定が正しいとした場合」において、だ。
この仮定こそが議論の前提条件であり、そこから導き出された結論は、
真実や真理などではなく、無数にある仮説のひとつとして捉えるべきだろう。
自分で言うのもなんだが、漏れの提示した仮説自体には論理矛盾はないと思う。
しかし、だからといってこの仮説が正しいかどうかということは別問題である。
スタートラインである前提条件自体が間違っていればその後の論理展開も
すべて間違っていることになるからである。
だから、もし批判をするのであれば、前提条件の部分について議論すべきだった。
282氏の意見が論点ズレしているように感じられるのはそのためである。
※ ちなみに、282氏は勘違いをしているようだが、
「
>>283 彼岸から境界線を見た人はいない」という意見は漏れも同意見だ。
「昔話などの「彼岸の視点」というのは、 此岸の人間による虚構」と既に発言している。
ちなみに、虚構とはフィクションのこと。想像の産物と置き換えてもらっても良い。
>>282 >>279 の解釈は、此岸・彼岸 = 既知・未知 にこだわり過ぎて二元論的。
多値論で考えないと境界という曖昧な概念は理解できないと思う。
この批判はもっともだろう。
つまり、漏れの提示した仮説は正しくないと282氏は感じたわけだな。
しかし、そう「感じた」「思った」と言うばかりでは具体性に欠けるぞ。
どの部分が、なぜそう感じたのか、が第三者にも理解できるように論証するだとか、
漏れの仮説よりも説得力のある「境界線上の視点」に関する仮説を提示するだとか、
なにかそういう建設的主張をすれば単なる情緒的意見ではなくなるのに……。
ここに例として、「此岸・彼岸 = 既知・未知」に代わる前提条件として、
「此岸・彼岸 = 内側・外側」という前提条件(定義)について考えてみよう。
この場合は「既知・未知」と考えるよりも、282氏の言うところの「多値的」に捉えることが可能となる。
たとえば、百姓などの「里の民」とマタギなどの「山の民」に分類した場合に、里の民から見れば
山の民たちは「彼岸」の人間たちと言い得るからである。(逆に山の民からすれば里の民こそが彼岸だ)
この場合であれば「境界上の視点」は実在しうる。具体的には次のような場合である。
(1) 「里」と「山」の中間地域を居住域とする民(サンカなど)
(2) 「里」にアイデンティティを置きながら、「山の民」と交流する人間(行商人や旅人など)
このように、仮説というものはひとつではなく複数あってしかるべきだし、
それを批判する場合には相応の根拠をもった説明義務を覚悟してもらいたいものなのだが……。
>>284 類型のギリシャ神話ではオルフェウスは妻を「拒否」してない
えっと、前掲の小澤氏の異類婚姻譚に関する考察を私流に要約するとこんな感じです。
(1)インドネシア、パンジャブ、エスキモー等
異類の正体: 動物(外見も動物)
受け入れ方: 人間と同じように扱い、配偶者として共生していく
(2)日本
異類の正体: 動物(外見は動物の場合と人間の場合がある)
受け入れ方: 正体が露見したら一緒には過ごせない(別離)
(3)ヨーロッパ
異類の正体: 人間(魔法で容姿を変えられ救済を待っている人間)
受け入れ方: 魔法が解けて、人間にもどる
(3)ヨーロッパではキリスト教信仰により、異類の姿をしたものは邪神・魔物の類であり、
さもなければ魔法によって変身させられた人間であるとしているのに対し、
(1)(2)群は動物が喋ったり求婚したりということがごく自然に受け容れられている。
その一方で、(1)インドネシア、パンジャブ、エスキモー等では、動物が動物であると
判明しても人間と同じように扱うが、(2)(3)群は動物と人間の間での婚姻はあっては
ならないもの、拒否すべきものと考えている。
(1)系の「人間も自然の一部」という考え方にも属さず、(3)系のキリスト圏の考え方にも属さない
(2)系(日本)が特異であると、そんな感じの主張を小澤氏はされています。
※ ヨーロッパも、キリスト教以前は284氏の指摘のように、(1)系だったらしい。
288 :
天之御名無主:03/12/19 03:57
メリュジーヌは別離だね
どうして此岸・彼岸にばかりこだわるのだろう。二元論から少し離れませんか。
場所という視点からは、家の内と外、村の境界、県境、国境、いっぱいある。
身分制だってはっきりとわかれていたとはいいきれない。
さらに家の内にも境界があり、また身分によって住む家が違ったりした。
これだけで多値論になり得ませんか?
内と外(あるいは此岸と彼岸)のそれぞれが別の見方では、また違った値を持っている。そこには当然境界がある。
また「境界=接点でもある」という考え方もある。
山の民にとっては海の民との境界=接点が里だったりした。もし境界上の視点というものを求めるなら里の民に聞けばいい。これは、あくまでも一例に過ぎない。
サンカや行商人を出すまでもないと思う。ナガレモノにはまた別の境界があったかもしれない。
紙の表面は外部との境界で紙の中身とは別の物。我々はそこに文字を書いたりプリントしたり。
つまり中身には触れられないけれど、境界=接点を通して何となくその物の表面に触れることができる。
あえてはっきりさせない部分というのも境界になっている。
YESと言わない日本人と言われていたが、曖昧にしておくことが美徳でさえあったんじゃないの?
それもまた接点において指摘されたことであることに着目してみるのもいいかもしれない。
酒の入っている一升瓶や徳利と我々の間の境界は酒でもないし、我々でもない。
瓶という別の物である。あるいは徳利という別の物である。
その境界である瓶や徳利の装飾が芸術にさえなった。水の瓶でそうなったかどうか。
とても二元論で考えきれるものではない。
(この一行に、と思うと付け加えるだけで曖昧になりそこが境界になったり)
境界そのものは薄い板一枚かもしれないが、
それが触れているすべてを広がりをもって考えることは逆に多面体的になる。
境界というのは自然科学でも表面科学という分野があるくらいだ。
このスレだけで広大な学問のひとつの分野になるくらいのことを議論するならもっとまたーりと。
>>289 遅レスすまそ。
(・∀・)イイ!! 具体性に富むし、すごく素晴らしい反証で、もう言うことはありません。
おっしゃるとおりだと思います。そしてまた「境界」の概念が相対的であることも理解されます。
相対的であるがゆえに
>>277のような「ある意味、我々はつねにハザマにいる、ハザマ的存在」
という意見が出てきたり、私の仮説「境界線上の視点はありえない」という対立意見が出たりするわけですな。
ここでは、289氏のいうように二元論から離れて、人・時代・場所によって「境界」と感ずるものが
違うことを大前提として、どのようなケースでの「境界」なのかを事前説明(5W1Hの明示)しながら
議論していくと深いものになりそうですね。
たとえば、奈良時代の大和朝廷とエミシという対立軸での境界っていうと○○だったんじゃないかなぁ、とかね。
このスレ、立ってからもう2年近いんですね。
上の方に先輩たちが挙げたたくさんの例があります。
1 三途の川(
>>2)
2 夜と昼(
>>3)
3 ギリシャ神話のアルゴー船、日本では長らく「山」が異界だった(
>>8)
と、以下数多くあります。
これらを5W1Hに分類していくのも面白いかもしれません。
このスレをもう一度読み返してみて思ったこと。
境界があるから人間は安心できるのではなかろうかということです。
何か対象があり、それを異とすることで自分の立つ所を確認する。
古代へ遡るほどそれは強くなるのではないでしょうか。
現代のように地図があったわけではないから。
5W1Hでスレにある例をいつ頃のどこのものか系統立てて分類してみると
昔の人の考え方が少しはわかってくるかもしれません。
>>291 5W1Hでスレにある例をいつ頃のどこのものか系統立てて分類
面白そうなのは認めるが、それを誰がやるかが問題だw
しかし、本当にきちんとやれば学問として成立しそうだね。
時代の変遷、地方の都市化の変遷など、かなり面白いものが見えてくるに違いない。
このスレでまったりと有志でやりません?
そのうち先輩が覗いて知恵を貸してくれるかもしれないし。
まず簡単そうなのから。
昼と夜の境界の日本での呼び方を挙げてみます。
夕方、夕暮れ、黄昏、逢魔が時、日暮れ
あとは何があるでしょう。
黄昏はたそがれで誰そ彼ですね。
薄ぼんやりと見えているような語感なので明かりがもうあった時代の呼び方?
万葉の歌だとこの時間帯はどう呼んでいたのでしょう。
昼と夜の境界に特別な名前を付けたのはどういう考えからでしょう。
これはWhyですね。
294 :
天之御名無主:03/12/25 23:37
>>291 >境界があるから人間は安心できるのではなかろうかということです。
哲学には『差異化』という概念がある。
カンタンにいうと、『私は○○です』というカタチでアイデンティティーを確立するときに、
「おのれ」と「他者」を「このような理由で異なる存在である」と区別すること
おのれのよってたつところを説明するためにおのれのオリジナリティを主張すること
「オンリーワン」の概念が、自分に自信と安らぎを与えるということでもある
あーっと。思わず走り出してしまった。すいません。
寝る前にとりあえず作業を整理してみます。
別にここの
>>1さんなわけじゃないんでこれにこだわることはないと思います。
・ここでは二元論から離れて、人・時代・場所によって「境界」と感ずるものが違うことを大前提として、どのようなケースでの「境界」なのかを事前説明(5W1Hの明示)しながら議論していく
・5W1Hでこのスレにある例をいつ頃のどこのものか系統立てて分類してみる
参考文献、参考URL
1 日本語の類義語ならここでいろいろと。
ttp://www.gengokk.co.jp/thesaurus/ (
>>294さんより。鯖のcgi負担軽減のためhをひとつ抜きました)
自治厨と呼ばないで。拡散しちゃうととんでもなく膨大なことになりそげだったんで。
いや、漏れは2ちゃんにしては面白い試みだと思うので自治してくれてもいいと思うよ。
先が続くか不安はあるけど。
二元論の延長で二元論をさらに細分化しただけでは意味がないぞ
二元論から逃れるということは「昼」に対する「夜」「山の民」に対する「里の民」といった、対立的概念から
それぞれの属性を考えるのをやめるってことだろ。
「境界」からの視点なんて言い方してる限りは二元論から逃れられんと思うがね
本当に多元論をやるというなら、
「山の民」「里の民」「浜辺の民」「海の民」「森の民」・・・・
と、複数の概念を同時に扱わなくては
あるいは色なんかも面白い
「自分のイメージカラーとして金色にこだわった秀吉と、紫にこだわった皇族の差異」
という設問なら、単純な「白」と「黒」の対立から生み出される定義とはまた違ったものが出てくるだろう
彼岸と此岸と漢字をあてた人間のイメージはやはり海や川だと思うが
境界と言うと交差するポイントという感じもするな。
道と道が交差する辻とか。
辻もよく妖怪なんか出てくるし。
意外と平行でも垂直でもなくDNAのような姿かもな。
300 :
天之御名無主:03/12/26 17:39
>>299 すいません、よくわからんのですがDNAみたいって相補的な二重螺旋のこと?
あげあし取りしたいんじゃ無いけど、イメージがわかなかったんで。
>>299 >平行でも垂直でもなくDNAのような姿かも
物理学にも広がりそうですね
>>300 神社のしめ縄(^^;?)
>>1 彼岸と此岸の橋渡し。というなら、
霊能者って、境界にいて、もしくは境界そのものなんじゃないかと
答えになってないですね(汗、、、スマソ
299だがなんとなく言っただけだ、俺も知らんw
でも、しめ縄面白いな。
303 :
天之御名無主:03/12/26 23:57
岡野玲子の「陰陽師」に、ねじり飴だの、注連縄だの、へその緒だの、
二重らせん構造のみかけを持つものを色々とDNAのメタファとして
使ってた場面があったなあ。うろおぼえ。
陰も陽もあざなえる縄のごときもので、全ての生命の源は
このような形をしているとでも言いたかったんだろうか?
そういう意味では「境界」にも通ずるものはあるかも。やや強引か?
>>302ー
>>303 レスありがd
胎児はへその緒で母体と繋がって、そこから養分を得るのだから、
へその緒は、両者を結ぶ境界「線」、まさに命綱なんです根(・∀・)イイ!
本能的な行動等を、そのへその緒や紐の縒りである縄にも似ている
DNAの記憶とか、物事を思い出すのを、記憶の糸を手繰りよせる、
て時間を繋ぐ表現もあって、天地(諸二元論)の境界でもあって、
縄を張ってるのは人間だったりするのかと思タリ。。。だったのでした。
岡野玲子「陰陽師」
すごいですよね。色々網羅してて。
ヘソノオ…スサノオ 似てる?
305 :
天之御名無主:03/12/27 10:59
ストップ!
素人が口出しするのもなんですが、流石にちょっと行き過ぎてませんか?
一応生物学を聞きかじったもんとしてはいくらなんでも聞き捨てならなくなってきたし。
岡野玲子のすごさを認めますけど、たった一人の才能のみで語るのは危険じゃありませんか?
境界の形態としてDNAを参考に用いるのはいいけど。ってか螺旋なんてそんな珍しい図形じゃないでしょ。
螺旋構造は物理的に効率が良かったりするので用いられることが多かったりするだけで。
自然界の現象を無理やりなんでも境界につなげるのはどうでしょう?
それじゃ単なる理由の後付けにすぎやしません?
飛躍した思考が飛躍した進歩を生むのはありえますけど。
>>298 複数の概念を同時に扱うためには、それぞれをきちんと把握して
さらにそれが接している所を丹念に調べていく必要がありますね。
「自分のイメージカラーとして金色にこだわった秀吉と、紫にこだわった皇族の差異」
これは色が白黒でないだけで二元論では? 色と境界という提案であるなら面白いかもしれません。
先輩の仕事を習う意味でこのスレのログにあるのをまず分類するのは有意義だと思います。
そして
・ここでは二元論から離れて、人・時代・場所によって「境界」と感ずるものが違うことを大前提として、どのようなケースでの「境界」なのかを事前説明(5W1Hの明示)しながら議論していく
これが
>>298 さんの仰ることを具体化したものと思われますがどうでしょう。
このスレがまったく動かなくなったのは主旨が漠然としていたからとログにあります。
話を拡散させないように注意して深く1テーマを掘り下げるのもまた良いかと思います。
先輩の失敗(失礼)を生かさなければそこまでの先輩たちの議論が無駄になってしまいます。
自治はしません。ただ、ときどきサマリーを作るようにします。
そこまでに上がった話題と関連ログへのアンカータグを暇なときにやります。
暮れの忙しい間に
>>305 さんが注意するようなことが起きていたようです。
自治は自然に行われると思います。
学問にも境界がありますね。
その境界に未だ未知の広大な学ぶべき領域があるのではないでしょうか。
境界を越えると言いますが、そうではなく接するところとしてこういうスレがあるのも面白いかなーと。
>>304ですが
>>305ー
>>306 行き過ぎてしまったようで、スマソ
かなりの素人目からですが。
昔からある物にも、少なくない形状が、現代になって、生物の細胞
内にも発見されたなんて、すごい偶然なんじゃないかと
自然界の活動に分野を置いて、そこに明るい学者さん達も「境界」
であって、解説とかで「橋渡し」をしてくれたりしてるのかと、、、
誤爆ですね(ノд`)
身近な境界の概念といえば、家の中と外を隔てる敷居とか屋根とか厠とか
そういうのも一種のソレだろう。特に敷居にまつわる民間信仰というか習俗なんて
結構あって面白い。
あと、細かい事だけど色の二元論で言うなら日本では
白と黒ではなく赤(明)と黒(暗)なのでは?
家の構造は確かに面白い。地方によって異なるからさらに面白い。
敷居を踏んでならないということの説明がこのスレにもあって興味深い。
今でも神社やお寺に行くと石でできた段差の部分は踏まずにまたぐようにしているし。
鍵がなくてもふすまによって仕切られることで、そこには立ち入らないようにするというのは
日本の精神、思想までを含んだ考えと思う。
昔の家で知っている、憶えている構造は、居間があり、隣りが仏間、居間と仏間の間はふすま。
また居間に障子があり、その外に廊下、さらにガラス戸があって、夜は雨戸を出す。
小さな縁側があり、石が置いてあって、やっと庭に出る。これは日本海側の家のひとつの例。
境界だらけだ。なぜこんなにも境界を造ったのだろう?
日本以外にこのようなたくさんの境界がある家の造りは見られるのだろうか。
季節ネタでおおみそかというのもやはり境界になると思う。
その間は除夜の鐘が鳴っている。
何かおおみそかにまつわる説話などあったら知りたいと思う。
310 :
天之御名無主:04/01/02 17:25
とりあえず、あけage
あぼーん
↑
あげとく
知力よくたばれ!死よ万歳!
甘き死よ来たれ
死を甘いと思う時点で、考え方が甘いのれす。
もしくは鬱病ぎみですな。いっぺん医者いってくるよろし。
いいえ、永眠したいです
勉強になるスレだなぁ。age
網野善彦逝った━━━━━━━━━━━━━━━━。・゚・(ノД`)・゚・。━━━━━━━━━━━━━━━━
age
322 :
天之御名無主:04/03/24 00:22
>>308 >白と黒ではなく赤(明)と黒(暗)なのでは?
根拠は?
323 :
天之御名無主:04/03/24 00:44
賽の神、くなどの神
324 :
天之御名無主:04/07/14 16:07
hosyu
325 :
天之御名無主:04/09/16 15:02:22
>>309 そう言えば、除夜の鐘を聞いてしまった貧乏神はその家から出て行かなくては
ならない、という昔話がありますね。今年と来年の境界にいる間だけ、神と人の境界が
あいまいになり、人が神に干渉できる様になるんですかね・・?
326 :
天之御名無主:04/09/17 03:51:07
境界、特に「坂」について卒論やってみようかとも思ってたんだけど
もう人がいないのね・・・
色々聞きたかったんだが
もうしばらく自分で調べてみよう
>>325 除夜の鐘はお寺だよね?
神社では大晦日に大祓が行われるけど、神仏習合で結構混ざってるよう
だからその辺が関係してるのかも
こんなスレがあったのか…知らなかった
>>8 姥捨てが山であったのは人里=この世・山=あの世であり、
老人を人里から山へ移すことで象徴的な死が与えられる
つまり昔の日本人は山を異界だと見なしていたんじゃないかな
余談だが、捨てられた老婆がかつての自分の家へやってくる話がある
やってきた老婆は我が家のためにとあれこれ役立つことをするのだが、
その老婆は異界の存在であるがゆえに妖怪とみなされ排除される
>>271 縁側が境ってのは初めて聞いたな
漏れは「雨だれ落ち」が境だと聞いたことがある
328 :
天之御名無主:04/10/18 04:49:30
人寄せあげ
前見たの、もう1年以上前なのにまだ残ってる。
しかも、その間5レスしか進んでない。
面白い、いい分野だと思うんだけどねえ
330 :
天之御名無主:2005/05/19(木) 00:10:00
そだね いい分野ではあるね
今 はじめて読んだスレだけど民神板なのに境の神について
みんな あまり書かないんだね。。。
サルタヒコとか道祖神についてどお思ってるんだろか
331 :
天之御名無主:2005/05/19(木) 22:41:10
マージナルマン参上!
またの名を山口昌男。
「文化と両義性」は読んだ?
332 :
天之御名無主:2005/06/24(金) 14:08:55
地回りだと意味がぜんぜん違ってくる。
地走りだと思うw
地回り=ヤクザもんw
333 :
天之御名無主:2005/06/25(土) 12:45:12
じいちゃんがすんでるとこの地名が境の神…どういう意味?
334 :
天之御名無主:2005/06/25(土) 18:54:36
そういえば「貞子」っていうか「リング」シリーズって境界にまつわる
イメージだらけだったような。もちろん意識的に描いたんだろうけど。
貞子って井戸から出てくるし、あと両性具有だったり異能者だったり。
あと海(奄美大島)からの行き来とか、都市伝説、水、出産、産道…
>>333 お住まいどこ(そしてどんなとこ)だろう?
335 :
天之御名無主:2005/06/25(土) 19:54:07
>>334 333です
住んでるとこは東北沿岸です
そこは半島で、周りが海で囲まれてるんですが家は山の中にあります(上手く説明できません;)
家の回りは本当に何もなくて、あるのは山だけです。家自体は山裾にあります
これ以上は上手く説明できません…ごめんなさい…
336 :
天之御名無主:2005/06/25(土) 20:43:29
>>335 恐山だったり
へーでもそんな地名もあるんだ
何県か聞いちゃだめ?
太平洋側?日本海側?山の名前は?
近所になんか神社あるとか
岬だったらまた面白かったんだけど
337 :
天之御名無主:2005/06/25(土) 22:09:47
>>336 残念ながら恐山ではなく本州最東端の市です。山の名前は月山…わっはー身元ばれますねこりゃ
半島の南には灯台ありますけど…地区が違いますし
神社も一応あります。が、そこらは地名が違ったはず…うろ覚えです(;´Д`)
338 :
天之御名無主:2005/06/25(土) 23:43:55
すげー。このスレまだあったのか〜。
この板でのオレのデビュースレだよ(笑)
4年も前だけど。
339 :
天之御名無主:2005/06/27(月) 22:32:48
340 :
天之御名無主:2005/07/11(月) 12:01:03
ひとがいない……
良スレだから頑張って欲しいんだけどな
境には石を置く、という話を聞いたことがある気がします。
341 :
天之御名無主:2005/07/24(日) 03:54:00
素人考えなので、名称やら解釈やら間違い多いと思うけど。
魔物とか妖怪など彼岸の存在は、その家の人に招かれないと侵入出来ないんだよね?
もしくは漫画がソ−スだけど、鳥の変化はその家の人間に目印(フン)を付けて
一昼夜だか時間が経てば家に侵入出来ると。
「招く」という行為も、ウチとソトの境界を越えているってことかなぁ。
幽霊話で、訪ねてきた死者がドアの外で何かしらのアクションをするも、
入って来れないと言うパターンも結構あると思うんだな。
病院の怪談での、看護婦の幽霊に追いかけ回されトイレの個室に隠れていたら
上から看護婦が覘いていたという話が怖いのは、境界をやすやすと越えているからかな、とか。
看護婦(ソトの存在)が、トイレの個室(鍵をかけることでウチになった)に
侵入してくる恐怖とか、潜在的に日本人には刷り込まれているのかなぁ。
と、これはオカ板向きの話ですね。ごめんなさい。
ウチの「チ」はイノチの「チ」とは別物?
「チ」のあるところがウチ、という解釈はあるのかな?
あると面白いなー。
342 :
277:2005/07/24(日) 04:25:12
懐かしいスレがあがってるなw
>>341を読んで、質問スレでつい最近、類似の話が出てたのを思い出した。
寡聞にして許可があれば入れるというドラキュラ的な話の日本民話を知らんのだが。
節分の鬼(ツイナの鬼)から逃れるために、家の門柱にイワシの頭とひいらぎを打ち付けておく習慣があるね。
ところで、
>>341は映画の「リング」は見たかい?
うひゃ。
そういえば瓜子姫の話しってます?
天の邪鬼のウソに騙されて家の戸を開けちゃう話だったとおもう
機織りの最中だったかな ま騙されて入るの許しちゃうんだけど
しかし上から除く看護婦怖いなー 下から逆さで覗かれても怖いだろうな
「リング」見てますよ 当時は興奮したもんです、話よく出来てますよね
こういう良スレは何年かけてもいいから静かにdeepに生き続けて欲しいね。
スレ立ちから読み続けて待つ。
ま、あんまり熟成させすぎると
ケルト神話スレみたいにバカが大挙して押し寄せてくるから
良し悪しだけどね。
346 :
3番3:2005/10/31(月) 13:32:37
>1
常識的ですが、三途の川。脳死。この程度です。ただ、三途の川をどのように
渡るかという問題から考古学上の古墳とか、葬礼が発展した。縄文時代の
シンプルなものに代わって大陸から複雑なものが入ってきた。宗教も入ってきた。
そして現代においても、死後の体裁についての美学はありますね。燃えるごみ
だけではなしにという考えもあるかとは思うんですが。話を飛躍させると、神社の
中央に必ずといってちっちゃな太鼓橋があるが、あれこそ三途の川、つーか、
結界を渡る考えの遺物だと思うんです。どうでしょう。
347 :
3番3:2005/10/31(月) 13:58:29
>>337 四国最西端大月に月山神社、祭神月弓大神、御神体月型石
http://www1.ocn.ne.jp/~cyan/tukiyama/tkeidai/thome.htm があります。察するにこれは天照大神の弟の月読命でしょう。那須与一のような
弓の道にも強かった武人の神様なんでしょう。で、何でこんな辺鄙なところで
原始的な名前をとどめているのかといえば、記紀の言うように保食神を切り殺した
罪によるもの、今風にいえば農耕民族に危害を加えたことによって所払いの扱い
となったのでしょう。しかし、大和朝廷の東北拡大においてこの神社を建立せざるを
得なかったということは四国とか、東北にはこの神を祭る戦闘的渡来民族がいたと
いうことを物語るのではないでしょうか。
348 :
天之御名無主:2005/11/01(火) 00:15:49
鉄塔
非常階段
廃墟
349 :
名:2005/11/13(日) 00:02:33
小松和彦「異界と日本人」
なぜ境界が重要なのだろうか。それはそこが「人間界」でもあり「異界」でもあるという両義性を帯びた
領域だからである。人間が異界に赴くときはその境界を越えていかねばならないし、神や妖怪などの
「異界」の住人が「人間界」にやって来るときもこの境界を超えてやってくるのである。したがって、
境界をさ迷っていると、神や妖怪に遭遇する可能性が高く、また境界に住む者は、人間界と異界の双方の
性格を帯びた者としてイメージされることになる。そして、通常の人間が行くことができるのは、この
境界までであり、その先は、特別の能力を備えた者、選ばれた者しか行くことができなかったし、多くの
人は行こうともしなかったのである。したがって、異界をめぐる物語の多くは、この境界をめぐる物語
でもあった。
350 :
名:2005/11/13(日) 00:24:47
赤坂憲雄「異人論序説」
マージナル・マン marginal man にはふつう、境界人・周縁(辺)人・限界人といった訳語があてられる。
古典的な定義によるマージナル・マンは、二つ以上の異質な社会文化のマージン(境界・限界)にたたずむ
人間を意味するが、広義には集団の成員としての資格や機能を十分に果たしていない人間をさすものとして
使われる。混乱をさけるために、わたしたちはとりあえず前者を境界人、後者を周縁人とよぶことにする。
これについて、上野千鶴子がつぎのような興味深い指摘をしている。
周縁性は境界性 marginality とは少し違っている。境界性とは、ジンメルの異人論以来、多元的な価値体系
の「境界」にいる状態をさす概念であり、そこでは複数の価値体系間の競合が問題である。これに対し周縁性
は、統合の中心からの距離、統合度の低さを意味する。境界人の心理的機構は葛藤であるが、周縁人のそれは、
むしろアパシーや逸脱などのアノミックな態度である。(『構造主義の冒険』)
351 :
天之御名無主:2005/11/13(日) 18:29:57
>>347 月読命が弓の武神というのは初耳だね。
それよりも四国八十八ヶ所の番外とはいえ札所であるということと、
「月山」の名前があることを考えると、天台密教系の修験道の面から考察した
ほうが良くないかな。
貼ってあるリンクからは、きみの論旨がちょっと読み取れないのだけれど。
352 :
3番3:2005/11/14(月) 16:32:44
353 :
天之御名無主:2005/11/14(月) 21:39:29
全くの素人ですがうろついていて良いスレを発見し保守協力します。
境界の概念を興味深く語られていますが、水が固体と液体と気体にその姿が変わるとき
つまり0℃と100℃は一つの切り温度ではあるけれど、時間的にはその全体が固体→液体に変わるまで
ずっと0℃だし液体→気体に変わるときはずっと100℃ですよね。
三途の川の概念ととても似ていると思いました。
民族学板なのにすんまそん。
354 :
天之御名無主:2005/11/16(水) 20:09:23
↑
面白い考え方ではあるが、イマイチ話の急所が分かりにくい
できれば もう少し 突っ込んで書いていただければ有難いのだが〜
355 :
丹波哲郎:2005/11/16(水) 21:43:36
境界なんてものはナイ、あの世とこの世は地続きだ。
地続きだったら死者がこの世にあふれ帰っちまうぜw
357 :
353:2005/11/17(木) 23:21:05
>>354 あっちの世界とこっちの世界は本来相入れないものであれば、その境界を通過するためには
なんらかのパワーが必要で、その境界で立ち止まりながらパワーを受けながら変態する。
変態すればあちらの世界の形。
聖人などはそういう力を持っているから境界を渡れる。
三途の川を渡る(逝ってしまう)だけでなく、自由に往来する(行ったり来たりできる)力。
そんな一般の人が持たない力が無ければ往来できないボーダーライン、それが境界なんじゃないのかなと
生半可に考えました。
358 :
天之御名無主:2005/11/17(木) 23:36:30
つまり、シャーマンには遊魂(気体?)になる能力があるということだな。
359 :
天之御名無主:2005/12/11(日) 21:44:57
>>8あんまり古い書き込みに対して何ですが…
本来日本人は死者を山の中腹あたりだったかに風葬にして(骨だけになった頃に改めて祠りなおすんだっけ?)たらしく、死者の魂も山の中腹と頂きの間を行き来していると考えていたから、
山そのものを代々の先祖霊つまり、「自分達を守護してくれる神と認識してた。」ことと関係あるかも。
その論理だと姥捨山も死者の国に連れて行くってことかな?
姥捨て山って仏典経由でインド発祥の寓話でしょ?たしか。
日本の事例としては考えにくいと思う。
361 :
359:2005/12/12(月) 12:54:53
>>360 寓話としてではなく、老人間引きということに関して姥捨山を扱ったつもりでしたが、
寓話の原典は知らなかったので勉強になりました。
362 :
天之御名無主:2005/12/12(月) 20:31:25
ぐうわ 0 【▼寓話】
教訓や処世訓・風刺などを、動物や他の事柄に託して語る物語。「イソップ物語」など
363 :
天之御名無主:2005/12/12(月) 22:29:13
寓話というのは実例が普通にあったから戒めたものなのだが。日本には
明治初期まで、実際に東北・中部・関東の寒村ではライフスタイルとし
て姥捨は存在した。多くの民俗学者もそれについては考察があるが?
そもそも墓は、古代より王侯貴族のものだったし、仏教による火葬
も有識者の為のもので、奈良時代でも平民は適当に穴を掘って埋め
られていたし、京都でも洛西小倉山の麓、化野や洛東の鳥辺野は風
靡の地(無常所)として風葬が行われていた。
"葬"というと聞こえがいいが、遺体遺棄と同じで死体捨場というの
が正しいだろう。山犬や烏のよい餌場であった。
いまでも特定の山や谷で工事現場から人骨が集積して出る場合があ
り、これはそうした禁足地の結界であった可能性が高い。
364 :
天之御名無主:2005/12/12(月) 22:36:34
>多くの民俗学者もそれについては考察があるが?
例示されたい
山野が聞いたらなんと言うか見ものだなw
365 :
天之御名無主:2005/12/12(月) 23:12:37
誰も知つた信州姨捨山(をばすてやま)の話の外に伊豆にも棄老傳説がある
と云ふのは(郷土研究三の二四三)棄てられた老人には氣の毒だが、史乘に
見えぬ古俗を研究する人々には有益だ。一九〇八年板ごむの「歴史としての
民俗學」第一章などを見ると、今日開明に誇る歐羅巴人の多くの祖先も都々
逸(どゞいつ)御順(ごじゆん)で、老は棄てられ壯きは殘る風俗で澄(ス
マ)して居たらしい。吾邦固より無類の神國で、上代の民純朴だつたは知れ
切つた事ながら、時世と範圍相應に今日から見ると、奇怪な習慣も隨分行は
れたは大化の初年迄人死する時、人を絞して殉ぜしめ、信濃國で夫死すれば
妻を殉ぜしめたなどで訣る。されば地方によつて老人を棄て風も有つたのだ
らう。昨年押上中將から惠贈せられた高原(タカハラ)舊事に、「飛騨の吉
野村の下に人落しと云ふ所あり。昔は六十二歳に限り此所へ棄てしと云ふ」
とある。さて親を棄てに行つた子が、自分も其齡になれば棄てられると考へ
付いての發意で、此事が止んだと云ふのは、漢の皇甫謐の孝子傳・萬葉集・
今昔物語・ぐりんむの獨逸童話其他に多く見えて、歐亞諸邦に瀰漫した譚で
ある。(南方熊楠)
出典:「土俗と傳説 第壹卷 第壹號」文武堂店1918(大正7)年8月
>奈良時代でも平民は適当に穴を掘って埋め
られていたし、京都でも洛西小倉山の麓、化野や洛東の鳥辺野は風
靡の地(無常所)として風葬が行われていた。
"葬"というと聞こえがいいが、遺体遺棄と同じで死体捨場
↑
これは下人やら地方から出て来た流民みたいな身寄りや頼りが無いものの主に都市部(含む地方都市)での話だろ?
地方においても割と近代まで、行き倒れや間引き児(川などに流すのでない場合)などを
色々な呼称があるが例えば「ムソバ」とか呼ばれる場所に埋めたり遺棄してたみたいですね。
いずれにしても、富裕層でなくても、同じ集落で暮す仲間や家族の遺体は葬送の習慣にのっとって
そこらに埋めるにしても丁重に扱ったのでは?
ネアンデルタール人以下ってことは無いだろ
367 :
天之御名無主:2005/12/13(火) 21:54:23
364、366
素人はいい加減、消えたら(ワラ
368 :
天之御名無主:2005/12/13(火) 23:10:12
玄 人 は 2 ち ゃ ん な ん か し な い
鳥辺野とかのは物理的スペースの問題もあるから別にしても、風葬は世界中いたる処に見られる訳であり、死者を弔う気持ちを持って行われる風葬までも屍体遺棄というならば、
世の中に屍体遺棄にならない葬送なんて存在するのか?
火葬なんて遺体損壊だぞ。w
370 :
天之御名無主:2005/12/15(木) 02:28:38
371 :
天之御名無主:2005/12/16(金) 23:08:46
>>369 そういう君にいずれ、火葬場でジューシーに焼いてもらえる訳だが。火葬をバカにすると仏罰が下るぞ。
水分が残らないくらいの高熱で焼くんだからジューシーはないだろ
373 :
天之御名無主:2005/12/17(土) 00:48:38
鳥辺野で犬や烏や蛆のエサになるのとどっちがいい?
374 :
369:2005/12/17(土) 22:39:08
>>371 >369は>363が鳥辺野とかみたいなある意味特殊な例を以って風葬全般を遺体遺棄であるかのように書いていることに対して書いたものであって、
俺個人としては火葬は本より風葬・鳥葬など各種の葬送をバカになどしてないよ。
それに国内ではつい最近(戦後)まで土葬の方が割と主流だったね。
>>373 多くの地域の風葬では、そのこと自体に意味があるのではない限り獣などに荒らされないようにしていたのでは?
例えば櫨や漆の生垣や、割り竹の先を尖らしてが進入しようとする獣の腹部にあたるようなモノを作って囲んだりなどで獣の侵入を妨げる工夫や、
東南アジアの方だったと思いますが、木の枝を組んだ小屋のようなもので遺体を保護していたりすると思いますが?
蛆や蠅の類は存じませんが、鳥に関しては地域によっては鳥に食される事によって死者の魂が天に昇るとされている場合もあります。
犬はともかく山に住む獣に関しても同様の信仰を持つ場合があったと存じます。
つまり現代の我々から見れば奇異であり嫌悪するような事例もケースバイケースってこったね。
375 :
天之御名無主:2005/12/21(水) 06:38:11
↑
日本の場合は放置でしたね。貴人は畳1枚下に敷くだけ。まさに373がいう通り
の諸行無常状態でした。
平安・室町によく人の味をしめた山犬や猿が京の町で人を襲ったと記述あり。
376 :
天之御名無主:2005/12/21(水) 06:47:30
朝、はやいですね。
平安期の習俗では、鬘師が死体から頭髪を採集に行ったり、指し歯に
する歯を抜きに化野へいったりして、それなりに盛況だったらしいで
す。薬師が乾燥死体を粉にして薬を作ったりもしていました。
リサイクルは当時もあったんですよ。
377 :
天之御名無主:2005/12/22(木) 21:47:19
西行法師だったか、鳥辺野に落ちてる骨を拾ってきて返魂の法で死人を
よみがえらせたとか。
よく、平安時代の貴族社会で恋敵を呪ったりするのに
河原で拾ってきたされこうべに髪の毛を入れて…
とかやってますが、あの時代は結構貴賎を問わず
死体に触れることに対する忌避感は薄かったんでしょうか。
牛車に乗ってて犬の死骸を見たから方違え、などと
極度に穢れを気にしているのかと思えばそうでもないのか…
>>358 境界として橋の存在はどうなんすかね?
日光の神橋とか
あと大昔は屈葬をしたらしいですけどこっちの世界に来るなってことですよね
この場合境界は体になるのかな?
>>379 大昔の葬法で思い出した。
以前どこだかの縄文遺跡に行った時見たんだけど、
村の広場のど真ん中に墓があるんだよね。
村人はその墓(死体)の上を平気で歩きまわってたらしい。
そうすると、境界は「地面」ってことになる?
一歩「ウチ」に入って扉を閉めてしまえば安全なように、
地下のものと地上のものはキッパリ断絶してるっていう感覚が
あったんじゃないかな。
根の国とか根の堅洲国とかっていう異世界が神話にも出てくるし。
「上を歩く」って言うのは踏む事で霊鎮めをする考えもあるのかもしれないし(四股みたいに)
あと子供なんかは死んだら家の戸口に埋めてお母さんが上を歩いたらまた戻ってこれるように、
っていうのもあったような気がする
382 :
天之御名無主:2005/12/24(土) 10:47:22
屈葬は正式には縛って埋めたんだよ。衣類や縄は腐って骨しか残らないけど。
今でもポリネシアの方では死体が歩き出さないようにと縛って埋葬する。
日本でも、地方によっては死体の足の裏を十字に刃物で斬ってから埋葬した
り、足首を縛って埋めたりしていた。これも死体が歩き回らない為の呪術。
昔は、医学的死亡判定も進んでなかったし、死後も常温保存で、死後硬直と
か、葬礼後蘇生とかが結構身近にあったんで、そういう呪術が生まれたんだ
ろう。
ゲームで零ってしってるか?
そのストーリーの根っこの部分でこの世とあの世を結ぶ門が出てくるんだけど
もしかしたらゲームみたいに、どこかの村でこっそりとそういう門があったりして。
あとはリガウ島の火山の中とかにあるかも。
六道の辻はあるよ。
良スレ アゲ
鳥辺野というと帷子が辻でしょうか?
388 :
よろずこ:2006/11/02(木) 23:47:50
>382
菊理姫ですね。
宗像センセにでてました。
389 :
天之御名無主:2007/08/30(木) 22:59:09
age
390 :
天之御名無主:2007/08/31(金) 04:08:54
>>385-387 1年間で4つしかカキコがないのかよ。
しかし初めてみたスレだがおもしろい。実に民俗学的でいい話題だ。
391 :
天之御名無主:2007/09/01(土) 11:21:42
ていうか、意識と無意識だろ。
392 :
天之御名無主:2007/10/01(月) 14:08:20
age
393 :
天之御名無主:2007/10/07(日) 01:17:36
境界性、山口昌男。
リミナリティ、V.ターナー。
30年前に流行した概念だな。
394 :
境界:2007/12/12(水) 23:04:29
彼岸と此岸を別け隔てるものは辻だな。
この世とあの世を結ぶ場所。
たとえば、交差点、橋、山、森といったものも辻に含まれる。
その辻を渡った向こう側が彼岸だといえるだろう。
また、彼岸、此岸と述べられるようにその境界を知っている人々にとって
川のような存在があったということが認識できるだろう。
ターナーによれば、「境界性[リミナリティ]」あるいは「境界にある人間(敷居の上の人たち)」の属性は、「あいまいで不確定な」ものである。
つまり、「このあり方やこの人たちは、平常ならば状態や地位を文化的空間に設定する分類の網の目[ネットワーク]から脱け出したり、あるいは、それからはみ出している」。
こうしたリミナリティは、「しばしば死や子宮の中にいること、不可視なもの、暗黒、男女両性の具有、荒野、そして日月の蝕に喩えられる」。
つまり、「分類のネットワークに入らない」ということがリミナリティの特徴であり、
それは2つのものの中間や通路、相反する性質を兼備しているものによって「象徴」されるのである。
リーチは、ユーラー図形(互いに重複する部分をもつ2つの円)を用いて、円Aと円非Aの2つのカテゴリーが交錯するとき、
「円Aでも円非Aでもない射影部分」(重複部分)に属するものは、「曖昧で両義的な境界上の存在」であり、
「われわれは、このような境界の標識は特別な価値があり、《聖なるもの》で《タブー》だと感じる」のだと理論化した。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070802
396 :
天之御名無主:2007/12/21(金) 10:39:41
懐かしいなw。
今では誰からも相手にされない理論、
ていうか、そもそも今の学生は、こんな理論を講義で教えられるのだろうか?
397 :
天之御名無主:2007/12/21(金) 11:00:33
自分のスレを宣伝しとく
(UFOはヴィマナで、ミステリーサークル。それはムー、アトランティス。)
超古代、ムーとアトランティスの時代には、例えば、大きな物を、宙に浮かせたりすることが、できたと思うわけ。
で、この世では、そういうことが可能だと思うわけ。
それは、今、一般的に、魔法といって、誰もが思い浮かべるような技だと思うわけ。
ムーとか魔法について考えるスレ
http://charm.bbs.thebbs.jp/1170436230/e100 >
そして、それらは、必要なものは全て、今の世界で、すでに色々な形で、語られているのだろうと思う。
そうしてみると、
文学における、魔法を表現したものの割合をみると、かなり多いことに気づく。
やはり、私の求める魔法は、そこにあるのだろう。
・・・待てよ。
>>670ということは、魔法を使うやり方は、すでに示されているということなのか?
それは、皆がよく知っているやり方である。
そう。魔法は、「ホイ!」という風にして、使うものなのである。
境界とか、周縁とか、もう時代遅れなのか
400 :
天之御名無主:2008/02/02(土) 18:03:29
時代遅れじゃないと思う
30年前に流行った学説は、普通、時代遅れと言うんじゃないの。
そのままやるんだったら時代遅れだろうな
でも、流行り廃りはあっても、それを検証したりするのは関係ないと思う
たとえばサイードの『オリエンタリズム』(1978)から30年経つが、時代遅れとか言うやついないだろ。
もっと遡ればフレイザーの模倣・感染呪術区分はごく普通に使われているし、
70年前の構造機能主義も50年前の構造主義も、もはや通常の分析の一部として空気のように言及されている。
適宜取捨選択できないバカだけが「時代遅れ」という。
彼らの現在の流行はなんだ? エージェンシー(笑)? 痕跡(笑)? 「帝国」(笑)?
もうそろそろ「スイーツ(笑)」も死語になるんじゃないか
405 :
天之御名無主:2008/03/10(月) 04:58:56
素晴らしい。このスレッドがいまだに残っている事に。
その割にはあんまり熟成してないようだが。。。
407 :
天之御名無主:2008/06/07(土) 18:42:20
>>7 懐かしさにうちふるえ、7年越しのレスをしよう。
>男と女の境界の・・・
>あれ?インドあたりの・・・名前が出てこないよ・・・
>あれも、これ?
ヒジュラかな。
408 :
天之御名無主:2008/06/08(日) 12:33:28
>>14 それを知ってしまったら、もうこの世の人間ではなくなってしまうと思いますよ。
SIRENの屍人みたいに・・・・。
409 :
天之御名無主:2008/06/08(日) 13:12:09
実際これは非常に民俗学的な話題だよ。一番いいスレといっていい。
沖縄では生の世界と死の世界の境界に洞窟や崖がある。古代の埋葬場所だな。
そこは現世にあって現世にあらず、あの世にあってあの世でもない。
不浄の場であり神域だった。
>>395のいう通りだ。
折口信夫はこれを「淡い」と呼んでいた。
410 :
天之御名無主:2008/06/12(木) 12:52:01
美大生です。
境界をテーマに作品を作ってる途中にこの良スレ発見しました。
民俗学は私の専門外ですが、非常に興味深く、創作意欲を駆り立てられました。
ありがとう。
411 :
退散正義 ◆VirGwxRhbQ :2008/06/13(金) 09:40:43
境界と一口に言っても、場所もそこに与えられた意味もまちまちマッチ(近藤)
形骸化しつつあるこの議題は日本特有の観念であり、
また人間関係の濃さを色濃く反映していた時期に、より多く発生している。
……実際の境界を知る者にしか、その恐怖は味わえない。
412 :
天之御名無主:2008/06/14(土) 04:21:41
民俗をみて、創作意欲を駆り立てられるなんて、
おぬしは、岡本太郎かw。
>404
昨日だったかテレビで「シュガー」ってのやってたけども似たようなもの?
とりあえずこのスレで訊くことでもないような
415 :
天之御名無主:2008/08/18(月) 11:10:50
臨死体験した人がよく言う花畑で人が呼んでたとかなんとかってのは
花畑が境界ってことなんじゃないかな
山は神様とかそっち関係でよく言われてるけどね
まだ民俗学に興味を持ち出した頃は「境界ってwww」とか甘く見てたけど、
実際奥深くて民俗には欠かせない深層要素なんだよね。
417 :
天之御名無主:2008/08/19(火) 18:28:43
マージナル
タージマハル
419 :
天之御名無主:2008/08/29(金) 23:22:37
鳥居は何と何を分ける境界なんでしょうか。
民俗学とか初心者なんですが素朴な疑問です。
そのまま。人の世界と神の世界
421 :
天之御名無主:2008/09/05(金) 04:27:58
聖域と俗界。
にわとりって、長鳴き鳥とか言って死者を教える役目もありませんでしたっけ?
423 :
天之御名無主:2009/04/25(土) 09:33:08
1から見流したが、
このスレはストーリー、シナリオ、物語の話題が薄い気がする。
不思議。
あぼーん
良スレ
426 :
こわがり:2009/04/29(水) 17:27:52
427 :
天之御名無主:2009/04/29(水) 18:35:12
逢魔ヶ時 という言葉に惹かれる
忌み嫌われるものは聖なるものでもある
まさに変態こそ最高の紳士なのだ
でもわたしは淑女にもなりたい
数学で倫理と集合ってやったろ?
あれ意外と使えるんじゃないか?
あぼーん
あぼーん
あぼーん
どう見ても荒らしか電波です
触るな危険
電波と普通の境界って何だ?
やっぱ酒?
あぼーん
あぼーん
あぼーん
なんでこんな過疎ってるスレ荒らしてるんだよ
死ねばいいのに
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
446 :
天之御名無主:2009/06/25(木) 21:29:47
保守
おもしろそうなので
飛び入りすんません。
トンネルの場合はどうなんでしょう。
間違いなく境界なんだけど。
あっちとこっちは進行方向で
決められるだけのようですが、
トンネルを通過するだけで
多少の期待感を感じながら
何かが変わった気がする。
昼と夜、黒と白、男と女、善と悪などの
対比とはちょっと違った境界ですね。
あぼーん
あぼーん
境界的な設備って何がある?
・トンネル
・橋
・門
・辻
・川
・坂
・山
・階段
・扉
・雲
あと何があるんだろう
何処かにこういうリストを纏めているところはないかね?
>>450 小松和彦と荒俣宏の対談本でそういう話題が出てたような記憶がある
どれだったかな…
確か、他にも河原とか井戸とか鳥居とか釣り糸とかが挙げられてたかな
それと劇場(芝居小屋)や見世物小屋
あとは梅原猛の「日本探検」だったかな、「橋」と「柱」は本来同じものを指す言葉で
樹木を元にした二つの世界を繋ぐ機能を持ったものを「ハシ」というのだとかなんとか
そういう話が載っていた
あぼーん
あぼーん
>>451 『日本の秘地・魔界と聖域』 (ワニ文庫―歴史マガジン文庫)
これ? 面白そうだから古本屋に取り寄せるかな…。
>>454 あ、うん、多分それだ
しかし上だけの説明でよく解ったな
二つの世界を繋ぐ機能を持ったものを「ハシ」というのですね。
そういえば、「お箸」も、手と物を繋ぐ働きをしますね。
境界の性格のひとつとして、つなぐものと定義すると、
現代では、ロープとか、ケーブルとか、ねじとか、ボルトとか、
コンセントとか、マジックテープとかも、境界にあたるのかなぁ。
世界を繋ぐものとして、鉄道、エレベーターとか、郵便や、
クロネコ、ひかりファイバーや、電波、ガス管、上下水道なんかも、
現代の境界といえるのでしょうかね。
エレベーターや交通機関(特に地下鉄)、電話の類は確かに新しいタイプの境界だろうな
それにまつわる怪談も多いし
話が膨らむね
文京区の会社勤務だけど、坂ってすごいな。中沢っぽいけど。
424 四谷三丁目近くの河童池と呼ばれる低湿地女郎屋地区に住む鉄筋屋の息子が
変態の出来損ないだそうだ。
勿論、生まれてこの方ただの一度として本らしい本など読んだことも無く、
目に一丁字なき有様!
だから日本国内の最底辺の学校にも入れないので、アメリカの五流大学へ
行かされたんだ。 阿呆のことだから、嬉しそうに「英語の勉強に行くんだ」
などとほざいて居たが、こんな痴呆風情に外国へ「留学」なんぞされた日には
日本人の知的レベルが疑われて、国辱ものでしかないぞ。
ドアホウは学校へ通わず、「子供の頃から賃金労働でもしてろ」と言いたいもんだ。
こいつの場合は素性が素性だけに言わずもがなのことだけれど・・・
以上、参考までに
429 四谷三丁目、荒木町界隈の鉄筋屋の息子がオカマだという話は誰でも知ってるぞ!
436 四谷三丁目近辺、河童池そばの荒木町辺りの鉄筋屋の息子が、
気持ち悪いオカマのくせして、「小説家か随筆家と交際したい」だ等と
厚顔無恥にも放言しているそうだ。
こんな変態と付き合ってくれる作家がいるとでも思っているんだろうか?
それに河童池界隈は昔から岡場所として女郎屋が軒を連ねていたことも初めて知った。
このオカマも淫売稼業の非人の家系らしい
439 そうらしいね。
ところで、四谷三丁目・河童池・荒木町・鉄筋屋の息子・きもいオカマ、
と来るってえと、三題噺ならぬ五題噺になりそうだね。
いや、国立競技場トレーニングセンター・変態・化け物が抜けているから
「八題噺」ていどは行けるだろうな。
それで、いったい全体どいつのことなんだ?
「河童池周辺の超キモイ鉄筋屋の息子」って変質者のオカマは?
時間があったら誰か調べてみて姓名を教えてくれないか?
444 荒木町あたりの変質者の鉄筋屋は変態のオカマだったからエイズに罹って
カリニ肺炎か何かで死んだらしいぞ
445 名前:天之御名無主[] 投稿日:2009/06/25(木) 20:53:36
荒木町のオカマの話題もいいけれど、
北九州の小倉出身の「古谷洋一」とかいう変質者の話のつづきを
聞かせてほしいです。
アホウで青学にしか入れなかったとか、バドミントン部でも嫌われ者の
愚鈍な田舎者だったといった断片的な噂しか聞こえてきませんので。
452 名前:天之御名無主[] 投稿日:2009/07/03(金) 03:34:09
変態チョンに関して一言。
四谷三丁目近く荒木町界隈の河童池と呼ばれる低湿地女郎屋地区に住む鉄筋屋の息子が
変態の出来損ないだそうだ。
勿論、生まれてこの方ただの一度として本らしい本など読んだことも無く、
目に一丁字なき有様!
だから日本国内の最底辺の学校にも入れないので、アメリカの五流大学へ
行かされたんだ。 阿呆のことだから、嬉しそうに「英語の勉強に行くんだ」
などとほざいて居たが、こんな痴呆風情に外国へ「留学」なんぞされた日には
日本人の知的レベルが疑われて、国辱ものでしかないぞ。
ドアホウは学校へ通わず、「子供の頃から賃金労働でもしてろ」と言いたいもんだ。
こいつの場合は素性が素性だけに言わずもがなのことだけれど・・・(在日チョンらしい)
こいつの荒木町あたりのアバラ屋なら無料で泊めてくれるけれど要注意だぞ!!
しかも、この鉄筋屋の息子は変質者だから、国立競技場のトレーニング・センターへ通ったり、
そこの付属プールの水泳教室へ潜り込んでは男性の裸体を眺めたり手当たり次第に色気を出したりして
みんなから嫌悪されていたそうだ!
以上、参考までに
453 名前:天之御名無主[] 投稿日:2009/07/25(土) 21:06:47
それよりか四谷三丁目近く荒木町の河童池界隈に棲む変態チョンの鉄筋屋の話を
聞かせてくれないか?
例の国立競技場トレーニング・センターに潜り込んだり、付属プールの水泳教室に
這入りこんでは、男たちの裸体を覗いてたという変質者の話題のつづきを!
アメリカの五流大学へ「留学」しては大恥をかいた上、日本人の痴呆代表として笑い物になった下賤
極まり無い下の下、クズのクズについて語ってくれ