842 :
天之御名無主:2005/05/28(土) 08:37:50
>>841 その話は本当ですか?
良田を所有していたということは土地持ち。
お百姓ですらの大多数が水呑(土地なし)だったのにそれは考えられない。
年貢を立て替えるということは年貢を納めていたということですよね。
そんな事実があったなんて知らなかった。
部落内でもそれなりの自治があって統率者もいただろうけど
そこまで裕福である部落民がいたのはびっくりですね。
ぜひその情報ソースを教えて下さい。
うちの母方の田舎には近くに部落集落があり戦前からの
悲惨な差別の歴史を目の当たりにしていたようです。
母が幼いときは家畜の死体処理をまだやっていたそうです。
学校などには行けたようですが、苗字が地区全員一緒なのでばればれで
いじめられていたらしい。
母方は禅宗の檀家なのですが、彼らはすぐ近くなのにその寺の檀家には入れず
遠くの時宗(庶民層に指示された宗派だからかな)の檀家になっているらしい。
でも戒名に必ず「蓄」「犬」などという文字が入れられて、一目でそれとわかるように
されたとか。
だから寺に調査が入るとすぐに出生がばれるようになっていたわけです。
もちろん今は違うでしょうけど。
寺でさえこのような理不尽なことをしていたのです。
>>842 江戸幕府が部落の土地内に部落民専用の寺や墓場や水汲み場をおいて
隔離政策をとってたんだよ。
広い道路は作らず、わざと狭い路地しか作らなかったりもした。
>>75-76 それって部落の子は普通の公園で遊べるの?
おれが通ってた小学校は養護学級の教室を部活で使ってて
当然ちょっとした遊具みたいのがあるわけです
子供だから使って遊びたくなる、で怒られる。
これを差別だと思ったやつはうちの学校にはいなかったと思うのよ
こうゆうのを逆差別だと思うやつを生む環境にも興味あるなぁ。
>>126-134 近世という視点でみると青森は中世から津軽氏・南部氏の支配が変わらず続き
岩手・宮城は中世には葛西氏や大崎氏など諸氏が乱立したが
近世には南部氏と伊達氏が一環して支配していた
秋田・山形・福島には他地域から転封された大名が多く
山形・福島には徳川系の大名が入っているが、秋田には徳川系大名がいない。
日本海側に多いことから日本海航路で西日本と繋がっていたことも想起されるが
日本海航路は青森・北海道にも至り、経済活動由来は取りがたいとおもう。
津軽藩などにはアイヌ村があったはずだが被差別部落はないようなので
民族差別・他習俗差別が被差別部落になったともいえない。
中世の岩手・宮城に多くいた諸領主は近世大名になることなく没落したが
岩手・宮城県下の被差別部落は1つなので
没落した大名や武士の居住地が被差別部落になったともいえない。
秋田には徳川譜代の大名がいないのに被差別部落があったようなので
徳川幕府に由来するともいえない。
岩手・青森の南部氏と秋田の佐竹氏は源義光を祖とする同族なので、
被差別部落の所在地を特定するわけにはいかないが
その所在地次第では、差別対象の成立が中世以前からの武士生活に関わるものなのか
秋田で唯一西日本出身の某大名家と関係するものかを推測できるのでは。
唱門、エタ、夙 、番太、産所、マチ、アソ、萬歳、鬼筋、穏亡、鉢、巫子屋、聖、サガリ(近畿)
木地屋、茶筅、垣之内、遊君、スイカヅラ、トリツキ筋、外道(山陽)
八筋、陰陽師、イヅナ附、口寄せ、稲荷下し、山窩、人形舞し、院内太夫、山伏、茶釜(山陰)
非人、乞食、遍路、ヘンド、ツウカルヒ、禅門、誓願寺、長吏ん坊、荒神盲、やんぼし、蓑作り、
家屋根、左官、桶屋、大工、石工、肝煎り、漁夫、花売り(九州)
人形遣ひ、猿舞し、番非人、犬神持、廣筋、狭筋、猿神、西国(四国)
サヽラ、ハイタ、あるき筋、院の子(東海)
ふご筋、てヽ筋、なまだんご、鉢叩き、鉦打、鋳物師、牛蒡種(東山)
にし、らく(北陸)
鉛屋、ホイド、オサキ狐(坂東)
1、豊後のシヤア 2、京の小原女、 3、葛西の梨売り其他二三、 4、越後の毒消し売り(女行商人)
847 :
天之御名無主:2005/05/29(日) 13:10:05
>>だから寺に調査が入るとすぐに出生がばれるようになっていたわけです。
戸籍を移動すれば過去は抹消されると思ったら大違いだったのだな。
寺の過去帳は何代も前にさかのぼる記録があるからな。
人物調査で寺の墓石まで確認することがあると聞いたが、
戒名を調べていたのか。なるほど…
自分の記憶では代々部落の民だったのと、政治的背景(敗戦など)
の理由で部落民に格下げになった者も多かったと聞いた。
しかし後者はまた復活できる機会もあったらしい。
ところで甲賀、伊賀の里は被差別部落ということになるよな。
>>788 だよねー。どうも歴史(日本史)って読んでてしっくり来ないんだよ。
まるで弁護士の言い分、検察の言い分って感じで、裁判官たるべき
歴史学者が書いたの?って感じがするんだよね。
穢れの思想が部落民を生んだ。
言霊の国だ。
あわせて考えたら、部落の人を差別なんか出来ないわけで。
差別しようと思えば口に出さざる負えなくて、口に出せば己が穢れるわけで・・・
文化的にはまるで相容れないのに、別けて説明されるから、
なんとなく納得させられてしまう。歴史が説得的に説明されるんだよな。この国は。
>>823 それ以前にさぁ死体処理するのが穢れなら、その肉食らったり、
革製品身に付けた時点でもう穢れまくりだし、そもそも武士って
人殺して武士になってるのに、穢れてないわけ無いじゃん。
馬鹿?
って感じ
850 :
名無しさんお腹いっぱい:2005/05/29(日) 17:09:09
どうやら、
被差別民=大和朝廷に弾圧された縄文系+新羅系が起源
で決着したようだな。
ま、
そうだろうな。
851 :
天之御名無主:2005/05/29(日) 19:46:31
>>849 それはちょっと違うと思う。
武士の人殺しは上司のため、お国のため、名誉のためという大義名分があり、
戦は領土とその民を守るという名目だったからね。
大義名分のある人殺しは穢れず誉れになる。
しかし死んだ罪人や家畜を処理するのは穢れた仕事という理屈さ。
女性は生理があるから穢れているとみなす宗教だってあるわけだから、
穢れの定義は所詮人間が作った勝手なものなのさ。
肉食獣でも死んだ動物の肉を食べる「タスマニアデビル」「はげたか」「からす」
なんて古今東西忌み嫌われるよね。古代からの宗教観も影響あるかもしれない。
ちなみに韓国では医者も穢れた病人や病気を扱うという理由で被差別だったんだよ。
>>849 同意。人殺しによって血を見る事は穢れとしないのは非常に納得がいかない。
>>851 >穢れの定義は所詮人間が作った勝手なものなのさ。
その定義でしょう、問題は。
>ちなみに韓国では医者も穢れた病人や病気を扱うという理由で被差別だったんだよ。
日本でも同じです。
今では被差別部落民と言われる人々の階級というか認識はかなり昔とは異なる。
誰も、芸人や医者を差別しない。 けれども、なる人とならない人と完全に分かれる。
853 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 00:54:28
>>842 本当ですよ。
http://homepage3.nifty.com/na-page/11-2.html 上記の足利市についてもっと詳しく解説したHPがあったのですけどURLを失念。
そこには年貢立替とかの話も乗ってました。
年貢が払えずに除地になった(部落化)地区もあります(神奈川県に実在)
差別戒名の話は心が痛みますよね・・・
なんつーか、寺だからこそやったみたいな気もします。
かの有名な一休さんもライに罹った先輩を惨く扱ったとかいいますし。
「身元調査お断り」なんて張り紙があるお寺って結構あります。
余談ですが、千昌男の星影のワルツってお墓の調査がもとで結婚できなくなってしまった
悲恋を歌ったものらしいです。
854 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 01:00:12
>>851 >女性は生理があるから穢れているとみなす宗教だってあるわけだから、
宗教とまで言わなくても、日本には生理は「穢れ」って観念があるでしょ
生理中は母屋に立ち入り禁止とか忌屋で共同生活とか同火しないとか・・・
武士の殺生も、本来は穢れに関る行動であり、当初は恐怖と軽蔑の目で見ら
れていました。ただ、武士というのは支配する存在な訳で、その武力は抑圧
だけではなく、神事や紛争の場における活躍という応用がききました。
つまり、好悪の感情を抱かれる存在であり、強者でもあった。
一方、被差別民はと言えば、これも同じく死に関る事を生業としていました
が、こちらは既に死んだものを相手にした仕事です。
彼らによる牛馬や死体の取引というものは、死んだ人を葬送すれば着物を、
牛馬であれば皮を得る事が出来たのは、ご存知の通り。
着ていたものを剥がされた人や牛馬はまっさらな状態に戻るが、逆にそれら
を得た側は、死せる者の「穢」を負う事になった、という解釈もあります。
勿論、それが彼らが受けるべき権益でもあったのですが。
死穢といっても、単純に中世社会で忌みの対象となった穢れは、屋内などの
封鎖された空間で生じるものであって、厳密に言えば、戦場で人を殺したか
らといって、死穢に触れた事には、必ずしもならない。
ただ、人や牛馬の死体に触れる場合、どうしても正式な死穢に触れる機会が
多くなる訳で、必然的に忌まれた事でしょう。
もっとも、穢の観念自体は古代から存在したものの、超時代的に同じ感覚が
存在したものではなく、六国史の分析からも、時代が下る程穢観念というも
のが発展していたという事が、確認されています。
死んだ馬の皮を剥いで、河原でなめすという話が『古本説話集』に出て来ます
が、そこでは特に忌むべき行動とされていない様です。
皮を扱っているから差別されたといっても、その実態は時代ごと、地域ごと
に考えるべきでしょうね。
>>853 >かの有名な一休さんもライに罹った先輩を惨く扱ったとかいいますし。
中世にライと言えば、佛神への誓いを破った事に対する報いでしたからね。
ただ、光明皇后の例は有名ですが、皮膚病を患っていた人間を救済したとこ
ろ正体は菩薩だったという話もありますし、差別というものは、賤から聖へ
と転化する可能性も秘めているので、一概には言えません。
ライ病救済に積極的だった、忍性の様な例もあります。
江戸の頭・弾左衛門は莫大な財力をもっていました。地方の小頭も財を成していました。
幕末の頃、最後の小頭・太郎右衛門さんには、ひとり娘がいました。道を行き来するときに
は、いつも特別仕立ての駕籠で、身に着けるものはすべて絹物、白山社の祭礼に参拝する
ときには、その行列と着物を一目見るために大勢の人垣ができるほど豪勢なものでした。
太郎右衛門の家は、川の堰堤に一丈五尺(16、7メートル)もの高い石垣を築きその上に
白壁の塀があり立派な屋敷がそびえていました。庭には山からひいてきた水が小川のよう
に流れていました。石垣の間からは、この水が滝のように川流れていました。
この風情を見た、菊池山哉は「城郭の如き観をなす。大和名柄の中野邸に指摘すべき
もので、恐らくは日本一であろう」と書いています。
家のなかの瓶には、「穴あき銭」がぎっしりと詰め込まれていたといわれています。そして、
「この家には、千両箱が幾つも置いてあった」といわれるほどの財産を持っていました。
弾左衛門屋敷と役所は同じ囲いの中にあり、使用は明確に分かれています。嘉永6(1853)
年の屋敷地図を見ると次のようでした。
浅草寺の山門から隅田川を浅草花川戸町、同山之宿町、金龍山下瓦町を経て、隅田川から
山谷掘りを入って行くと今戸橋と三谷橋の間にあり、まわりを神社仏閣に挟まれていて、
町名でいいますと、浅草今戸町と浅草新鳥越町の間にありました。
もっとも、穢多村というのは『除地』になっていて、弾左衛門の屋敷地は地図には空白です。
弾左衛門の格式や生活ぶりは一万石、財力は五万石の大名並みといわれました。屋敷内を
囲内と呼ばれていました。
囲内の北側の奥に弾左衛門の住む屋敷があり、囲内に出るには二つの門をくぐります。
弾左衛門の自宅と役所は隣り合わせで、同じ建物の中にあります。中爵門をくぐると玄関があり、
左右の80畳敷きもあるような役所があり、後ろ手に書院があり、数千冊もの書物が入るような
書棚がありました。
西側の裏には白山神社とともに八幡神社が奉ってあり、南側の奥には大きな瓢箪池がありました。
そして屋敷の周りには20を越す倉や役所群がありました。
弾左衛門の邸から、南に向かって道があり、東西には番所もありました。この通りがメインストリート
でした。囲内(屋敷内)には330戸とも400戸ともいわれる家があり、弾左衛門役所の役人や職人らが
住んでいたのです。
屋敷の中に支配に必要な役所があり役人がいました。そして、独自の支配システム、規則があって
弾左衛門役所の幹部がさい配を振るったのでした。采配の例はしばしば、弾左衛門の支配の及ばない
地域での穢多や非人身分の処分のマニュアルにもなったといわれています。
弾左衛門は世襲制で跡継ぎがない場合は養子を迎えるようになっていました。最後の弾左右衛門は
摂津から、その前は長野から出ています。
ごく簡単に,穢多身分の人たちというのはどういった人たちなのかと言いますと,仕事は農業を
していました。農業をしていたのですが,百姓とは決定的に違うことをしていたのです。
それは何かと言いますと,役負担です。江戸時代には,今でいう納税のようなものですが,
身分ごとに役負担というものがありました。穢多身分の人たちが行った役負担というのが警刑吏
なのです。これは百姓は一切行いませんでした。警刑吏というのは,最初の警は警察の下働き
です。2番目の刑は処刑を実行すると。こういった役負担,これは年がら年じゅうあったわけでは
なくて,必要に応じて動員されるわけです。
それに対して非人はどういった人たちかというと,非人の生業は乞食です。乞食ですので町中に
住んでいました。この非人は,警刑吏の役負担をしました。ですから,町中の警刑吏は非人が行って,
農村の警刑吏は穢多が行うと,そういった関係であったわけです。
明治になって,こういう人たちはどうなったのかといいますと,穢多村は農業をしていましたので,
当然,土地を持っています。農業という家業を代々受け継ぐという形で,一般の百姓村と同じように
穢多村も村として明治以降も存続しました。それに対して,非人の場合はどうかと言いますと,
非人は乞食ですので土地を持っていません。かつ町中に住んでいましたので,明治以降の都市開発
の中で散り散りばらばらになって消えてしまうということが多かったです。大阪の場合,
そういったことで非人の系譜を引く部落というのはありませんが,京都は何カ所かあります。
また,藩によっては,穢多・非人に加えて独自の賤民身分を置いたところがあります。
例えば広島県の福山藩は「茶筅」という賤民身分を置きました。この「茶筅」の人たちというのは
何をしたかというと,街道筋の人の出入りをチェックするという見張り役をやったのです。
それから,山陰地方には「鉢屋」,これも下級警察の役をやったのですけれども,穢多身分以外に
「鉢屋」という身分が置かれました。この「鉢屋」の人たちの村で部落になっているというケースが
あります。それから,北陸に行きますと,「藤内」(トウナイ)という賤民身分がありました。
「藤内」というのは男性は乞食を統率したり,女性は産婆をしました。こういった地方独自の
賤民身分の村で部落になっているケースがあります。
中世,つまり江戸時代より前,中世社会に「夙」と言われる人たちがいました。この「夙」と
呼ばれる人たちは神社の支配下にあった人たちで,清目を行いました。つまり神社でお祭り
があると,山や鉾が出る,山車が出る,そういった際にこの「夙」の人たちが先頭を歩くのです。
「夙」の人たちが先頭を歩くことによって日常生活の中でついたさまざまな穢れというものが
取り払われる,そういうふうに当時の人たちは考えていました。つまり,「夙」の人たちはそういった
特殊な能力があるというふうに見られていたのです。ですから,「夙」の人たちは穢れを扱う特殊な
能力がある,それがゆえに穢れているとみなされたのです。中世も終わりごろになりますと,
神社の勢力というのが弱まってきます。そういった中で,「夙」の人たちと神社との関係が切れて
しまいます。江戸時代になりまして,身分制度というものが整えられます。その中で「夙」の人たちは
百姓身分に位置づけられます。つまり,身分の上では賤民ではなくて百姓身分になったわけです。
でも周りの人たちは「夙」だといって結婚の行き来はしない,ふだんのつき合いも制限するということは
やめなかったのです。
はは〜ん。だから、お祭りとかで御神輿とか担いでいるような人達って品がないんだ。
納得。
>>854 それって明治以降に輸入(それが文化と勘違いしたんだね)された話だよ。
865 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 11:11:44
女性が実家に帰ってお産をする風習も、婚家を血で汚さないためという考えから
きていると聞きました。昔はお産で母体が死んだり、死産ということも
珍しくないので、こういうことも縁起が悪いとされたのかも。
女性が相撲の土俵ものぼれず、神輿も担げず、祭り台車を引くことが許されなったりと
祭りの行事に参加することが許されなかったのは(もちろんかなり昔のことですが)
相撲も祭りも元々は神事だったからだそうです。
穢れた女性が神事をつかさどることはタブーだったのでしょう。
巫女は処女が絶対条件であったらしいけど、生理はあるよな、普通。
このへんはどういう扱いだったのだろう。
話はまったく変わるけど、「あしたのジョー」「カムイ外伝」「サスケ」は
自分が小さい時アニメでしょっちゅう再放送されていたよね。
でも「あしたのジョー」の川べりのドヤ街は被差別部落地区ということだし、
「カムイ外伝」「サスケ」も原作は被差別部落の背景が濃いから放送禁止になったのかな?
「カムイ外伝」の原作のマンガはきつすぎて読むのが辛かった。
桜中学が舞台の金八だって被差別部落が背景でしょ。
腐ったみかんなんか典型じゃん。 沖田博之とか加藤役の人とか
なんか顔立ちまで....
867 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 13:42:03
>>852>ちなみに韓国では医者も穢れた病人や病気を扱うという理由で被差別だったんだよ。
>日本でも同じです。
日本の医師の場合、武士出身者も多かった。長男以外の男子で家を継げないので
そっち方面で身を立てるものもいたわけだ。
江戸時代の医師はほとんど下級武士出身者だったろう。
武士出身者が被差別だったとは考えられない。
ただ武士より身分は格下になったことは確かだろう。
医師は死んだ瞬間から死人には触れない。
僧侶も死体を商売にするが死人には触れない。
それは現代でも同じだよな。
「死体」はやはりアンタッチャッブルなんだな。
以前台湾旅行の時ガイドに聞いた話。
台湾では亡くなったらまず土葬で埋める。その後数年たってから掘り起こし
骨をきれいにしてから再度きちんとした墓に埋め直すらしい。
今もそうなのか、かつてそうだったのか忘れたが。
その「掘り起こし、骨をきれいにする」仕事をするのは「特殊な人たち」という
表現を使っていた。どこか言いずらそうだったから、台湾にもそのような
アンタッチャブルな仕事を生業とする人々がいるのかと思ったよ。
868 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 13:43:26
>>866 確かに舞台になったあたりは昔から部落地区が多いとされているね。
869 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 14:24:15
>>864 明治の頃までその習慣が残っていたという話だけど、「輸入」って?
870 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 14:37:13
>>862 中世は仏教の影響が強い時代と聞きましたが。
このあたり、神仏習合論ではどうなるのでしょうか?
宮内庁にこの手の資料はたくさん収められてるんでしょ。
百害あって一理なしとは天皇の事だね。このままでは済まされないだろうね。
きっと、いつか潰れる。あの存在は、良くない。
英国のロイヤルファミリーとは全然歴史からして違う。
872 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 15:37:39
873 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 15:41:04
「噂の真相」最終刊によると皇族に嫁いでいるのがいるそうだ。
その人の親の出身地近辺はそのため部落指定地域にされていないらしい。
それと野球の国民的ヒーローもせいこもそうだとよ。
実家が肉屋で有名なあきなもな。
皇族は部落民または皇族に従事した人々で制されている。
彼らの身元調査とはそれ系の人々を調査するものであって、日本人の行う
身元調査とは異なる。
だいたいにおいて不細工が多すぎ。 失礼。
876 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 16:06:13
>>876 人権板は蔑視する人々の集まりでしょう? ここは歴史的見地から話しを
進める人達の場所でしょ? 一緒にするのはどうなの?
878 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 16:36:00
>>877 873には人権板がふさわしいとオモタのだけど・・・
境界線が見えないんだけど。
880 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 18:01:55
>>879 こういう書き方↓って人権板の差別厨と区別できません。
>それと野球の国民的ヒーローもせいこもそうだとよ。
>実家が肉屋で有名なあきなもな。
881 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 18:45:26
>>それと野球の国民的ヒーローも
これはショックでかい!そうだったのか!!
でもいいさ。彼は日本の宝だもの。
しかし芸能界の頂点を極めた人たちに部落出身が多いのは、
職業差別のためという理由もあるかもしれないが、
芸能で生計をたてていた祖先のDNAが関係しているかもな。
人権版では在日も部落もいっしょに差別の対象となって
誹謗中傷がすごいが、個人的には部落民にとても同情する。
在日問題は日本に限らず世界中どこにでもあるマイナリティ差別。
日本人だってアメリカに行けば被差別さ。
敗戦国の黄色い猿だもの。
でも部落民は古代から共存してきた日本人なんだよな。
部落民の仕事にきちんと需要があり、供給といいバランスが
取れていた時代も長いことあったわけだ。
国民としての義務は要求されるのに「新平民」はないよな。
身分制度崩壊の時になぜ日本政府はあえて「新平民」を残したのだろう。
そこらへんご存知のかた教えてください。
>>865 従来の民俗学では、兎角穢れで説明される事の多かったお産という行為ですが、
近年では実家への一時帰宅や産屋(産後しばらくは生活した)での生活の記憶の
ある話者への聞き取りから、産後の生活は案外快適なもので、休息をとらせる
意味もあったのではないか、という指摘が出ています。
村落における「穢」の歴史的経緯というものも、よく分かりませんし、生活に概
念に伴うのであって、概念を生活に優先させて、先に穢ありきで発想する事は、
近年はつつしまれている様に思います。
中段についてですが、生理自体は穢れとして、女性自体を穢れと見做して祭礼
から排除する様になったのは、近世初期からの様です。
京都や博多の祇園祭でも、江戸時代初期までは、女性も参加していました。
女人禁制が目につき出すのは、平安時代中期からですが、これも本来は女性を
排除したものというよりは、寺の女人禁制、尼寺の男子禁制があったものが、
女性(尼)の社会的地位の低下により、前者が目立ったという説が有力。
巫女の処女性についてですが、古代の祭祀は夫婦一組で行われたもので、実は
処女の女性単体というのは、案外新しいのではないかと。
中世〜近世には、山伏と夫婦一組で活動している事も多い(民間では)。
古代(〜平安)には、神主や巫女でなくても、普通の人間(女性以外も)にも、
神が憑いており、専門化するのは南北朝・室町時代頃の様です。
それと、少数ながら男巫も存在していました。
>>880 それが何の問題なの?
何か穢多とか問題があるわけ?
在日とか穢多とか知れるとなんか不都合でもあるの?
よく理解が出来ない。
唐子鍵遺跡資料館の展示なんかだと
弥生時代には米に鹿の血をかけて祭祀に使っている。
特殊器台の壺には生け贄の血が入れられている。
血の穢れなんていうのはもともとなかったんだろう。
血を生命の源とする発想も、風土記に時折見られる他、一部の鳥獣による祭祀
は近代まで続きますし、肉食の穢れが宮中で忌まれる様になったのも、平安中
期以降だろうとは、既に平安後期の学者大江匡房も指摘していた事です。
やや時代の下った『中外抄』には、「昔は触穢はあながちには忌まなかった」とあ
りますが、さてどの程度のものであったのか。
ついこの間の歴史すらこんな不可解な事になってるんだから、変な国。
887 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 20:28:28
>>881 支配構造が違っていたからでは?
例えば、弾左衛門支配のエタ・非人身分のものは版籍奉還のときどんな扱いだった?
>>883 873氏にああいう垣子をした真意を尋ねてみればよい。
889 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 20:35:44
890 :
天之御名無主:2005/05/30(月) 21:35:42
平安の時代から日本の性はかなりオープンでおおらかなもの。
女性の処女性に価値観はあまり見出していなかったらしい。
処女が汚れ無き象徴というのは、キリスト教の影響そのものだよね。
だいたい白拍子なんて神事のための巫女であると同時に売春婦だったのだから
神事に汚れた女子がつけないということはおかしい。
ところで肉食が穢れと見なされるのは、動物の殺生とつながるからだろう。
建て前坊主が肉食禁止だったのも僧侶は殺生禁忌だったから。
被差別問題はやはり一つの要因として宗教観が根底にあるような気がする。
肉食禁止令ってのは天智天皇以来たびたび出されているけど
穢れと肉食を結びつけたのはいつ頃からなんだろか