八幡大菩薩【明神】様について

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110天之御名無主:2008/06/19(木) 13:37:01

神様遍歴でいけば気比大神様かな?
神宮寺建立一号など、宇佐のしてきた事と同じで
あそこがどうも気になりますね‥

敦賀→鶴岡八幡だしな〜
111天之御名無主:2008/06/20(金) 21:42:06
八幡さま見た人いる?
112天之御名無主:2008/06/21(土) 16:18:38
境内脇の松林内で跪き松ぼっくり手にして
神聖な雰囲気だよな〜って感銘している時に
ぐっーっと光体が脳内の眼?に近付いて来たけど
我に返った時、他の参拝者も来たし
そのまま日常に戻った。
あれれ?って感じだけで、至ってそのままです
113天之御名無主:2008/06/22(日) 22:13:30
>>112 えっ! おい、その松ぼっくりは捨ててしまったのか…?
114天之御名無主:2008/06/22(日) 22:22:28
当然、身体に入ってるだろ
松果体でググってみなw
115天之御名無主:2008/06/23(月) 15:55:57
いいや
あくまでも「近付いてきた(迫ってきた)」
て感じで
森には私一人だけだったが
光がいい感じに入りそうな手前で、他の参拝者の接近で
そのまま、

形が見えそうな一瞬手前て感じ。
入ったとかそんな雰囲気も感覚もゼロ!
けど、以前からの眉間額のもぞもぞだったのから 最近では頭頂部がもぞもぞする。
116天之御名無主:2008/06/27(金) 22:24:24

針葉樹なら悪い物ではない様子でないか?
柳から来たモノなら超怪しいが(-_-;)

そーいや八幡様の神託や神験や
神殿での神様同士の会話の人間の盗み聞きなど

数ある昔話はあるが、近代霊能者による話しはないね
117天之御名無主:2008/06/28(土) 05:16:44
http://www.matsura.or.jp/shiryo/suigun001.jpg
八幡船の旗〈長崎県指定有形文化財〉

松浦党の海賊の旗。

松浦史料博物館:http://www.matsura.or.jp/index.html
118天之御名無主:2008/06/30(月) 01:23:21
うん
119天之御名無主:2008/07/09(水) 20:43:45
八幡大菩薩
120天之御名無主:2008/07/12(土) 23:45:29
http://etc7.2ch.net/test/read.cgi/esp/1215839585/l50
仏像の力を信じる者はここで祈れ
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 14:13:05 ID:xl45iBs5
仏像の神々しさ、超越的パワーは一切の衆生を救い給う。
その慈悲の厚さ、全能さを信じて止まないもの、何となく心ひかれるものは
毎日このスレで仏像の御方へお祈りささげましょう
日々の出来事、悩みを仏像に聞いて頂きましょう
            /ヽ v1
          |Y ゝくY :!
          | |Yゝク  |
         f三 へ三ニト
         {ゝ二 二kミ!
         | ー 一 Y
         U、 ー ,U
        >'1ミ二彡^ヽ、
       /  个 ー イ 彡ヽ
      /  i  ト/ミy@┬ ヘ
      /| ̄|ヘ / ,h  /| ̄ |
      7|> '  /n `タ._k  |
      ゝ _ /彡イ `〜 、...,,_}
    __ >彡 '_ゞ_ゝニゝ、_
   < ミ三三彡彡へ r‐ァニ三彡ハ
   〉ーニ二三彡彡1 l キニ三二−ヲ
   f⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒ハ
 f⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒ 〉
  ゝ⌒X⌒ヽ〜‐-<⌒⌒ メ⌒Y  / ヘ
 ( \ \     〉-‐rく   ,.-く   ノ
  `丶 _ へ  ハ    ) /  //    【大日如来様】

どの仏像に願掛けしてもお前らの自由だ。
参考:http://syorin.fc2web.com/butuzou.htm
121天之御名無主:2008/07/20(日) 05:18:21
再来復活
122天之御名無主:2008/08/21(木) 10:56:36
くる
123天之御名無主:2008/09/06(土) 03:30:49
英彦山と
宗像の神社三社と島って一直線なんだよね
124天之御名無主:2008/10/28(火) 07:51:22
八幡宇佐宮御託宣集より
1) 「香椎宮縁起にいわく、善紀元年壬寅(五二二)、大唐より八幡大菩薩〔大帯姫也〕日本に還り給いて、
廻りを見給うに、人知らざる間に御住所を求め給いて、筑前國香椎に住み居り給う。(以下略)」

2) 「又、善紀元年記にいわく、大帯姫大唐より日本に渡った後、新羅との戦いの時、
懐妊の間、石を以て御腰に挿し祈りていわく、もし是れ験有る石ならば、我が胎子今七日の間生まれ給まわざれ。」
125天之御名無主:2008/10/28(火) 07:53:34
神宮皇后=八幡大菩薩
126天之御名無主:2008/10/28(火) 07:54:22
善紀元年 と言うのは九州元号
127天之御名無主:2009/01/23(金) 20:05:38
八幡はやはたの当て字
重要なことはやはた
やはたとは
私は、や=多い
はた、は=わた

つまり、多くの海

わたつみの、わた
わたつみは泡立つ海=波が泡立つ海。
と解釈してる。

海を越えてきた民族の神。
韓国や中国より遠い民族と思ってる。
128天之御名無主:2009/02/15(日) 19:15:35
神功皇后はなんか、中国人のイメージがある。どこかで絵を見たけど、ふっくらしていたような気がする。
もし中国人だったら、歴史は変わるだろうか?
129天之御名無主:2009/03/10(火) 05:55:45
誉田別は気比の神との名前交換し得た名前。
気比の神は、神代からの北海の海に沸き立った龍神らしい

大神比宜が豊前にやってきて
比し形池に龍神が現る。
大神比宜が退治に乗り出し、そして誉田別応神天皇が退治したかのように龍神から翁→誉田別→鷹へと姿を変える。

豊前には秦一族の神や、色々な土着信仰が盛んであり、朝廷としては、、、
たいそうな大掛かりな仕掛けのあるマッチポンプだったのではないだろうか…
しかし宇佐二の殿に、姫神が鎮座するというのがつながらない…
住吉神はイザナギがアマテラスより先に産んだ神で、三女神は、そのアマテラスが産んだが
住吉三神の転写転生と見る私の私見では、九州をこの、両三神の神域にする必要があったのではないかと考え中。
本当に九州は大国主命主祭神社の少ない地域なんですよね…
そこがヒントのような気がする
130天之御名無主:2009/03/11(水) 03:49:32
宇佐八幡と神社本庁が、宮司の人事をめぐってもめているらしいね。
宇佐八幡は代々、二つの家が宮司を勤めてきたが、神社本庁が割り込んできたらしい。
131天之御名無主:2009/03/23(月) 02:55:11
>>129
竜神というソースは?
132天之御名無主:2009/07/16(木) 07:34:47
海龍という噂と、オオナムチという噂

しかし、豊前平定、宇佐でのマッチポンプ作戦は龍だな。
133天之御名無主:2009/07/20(月) 00:01:07
 倭寇などの海賊は八幡の旗を立てて行動した、だから海賊船のことを
八幡船と言ったと聞いたけど。
134天之御名無主:2009/08/31(月) 01:20:20
南無八幡大菩薩
135天之御名無主:2009/09/02(水) 06:21:11
英彦山(天忍穂耳尊)−宇佐神宮−石鎚山−(中略)−沼島(オノコロ神社/伊弉諾尊+伊弉冉尊)−国懸、国前神宮−伊勢神宮(天照大御神)

東西一直線にほぼ中央構造線(大断層帯)をトレース
136天之御名無主:2009/09/02(水) 09:38:42
>>133
ただし倭寇の船は「八幡船」とかいて「やはたぶね」とは呼ばず「はばんせん」と呼ぶ。
やはた=はばんかは疑問符がつく。
倭寇が八幡を信仰していたという説はあるが、裏付ける歴史資料はない。
137天之御名無主:2009/09/02(水) 20:54:56
上のほうに画像があるぞ。
138天之御名無主:2009/09/02(水) 21:00:04
>>136
>>117に画像とリンクがある。
139天之御名無主:2009/09/12(土) 11:58:42
南無八幡大菩薩
140天之御名無主:2009/09/12(土) 12:51:27
■特異な武士集団「松浦党」の起こり

 春まだ浅い弥生、壱岐の空は穏やかに晴れ渡り、南西の微風が吹いている加愁の港を数隻の大型和船がひしめき合うように出港していく。
港口を出た船は直ちに帆を揚げる。風を受けた帆はピンと張り詰め、船足は速まり、船首には白波が高く舞う。船尾には純白の布地に三ツ星の
旗印が黒々と描かれ、その下には八幡大菩薩の文字が認められる。甲板では僚船への合図であろう、長竿の旗がしきりに打ち振られ、銅鑼が打ち鳴らされる。
 これはまさしく、戦場に向かう軍船の出航である。このような戦闘船団が南北朝動乱の合間をぬって朝鮮半島へと向かった。前期倭寇といわれる集団の出現である。
 前期倭寇の行動についての日本の史料は断片のみで、全貌を知ることはできない。しかし、朝鮮半島や大陸の史書は倭寇、またはバハン船襲来として数多く記録している。
また『李朝実録』は、倭寇の根拠地を対馬・壱岐・松浦の三島とし、松浦に居住する松浦党武士団を倭寇だと断定している。

あっと九州:http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m199803
141天之御名無主:2009/09/16(水) 09:10:31
つまり朝鮮の記録でしかなく、松浦党=倭寇という確証はないということだな。

よって八幡船=倭寇は定説としても、倭寇が八幡信仰だったかの確証はやはりない。
142天之御名無主:2009/09/16(水) 10:16:43
117 天之御名無主 sage 2008/06/28(土) 05:16:44
http://www.matsura.or.jp/shiryo/suigun001.jpg
八幡船の旗〈長崎県指定有形文化財〉

松浦党の海賊の旗。

松浦史料博物館:http://www.matsura.or.jp/index.html
143天之御名無主:2009/09/16(水) 10:18:26

■八幡船の旗〈長崎県指定有形文化財〉
http://www.matsura.or.jp/shiryo/suigun001.jpg

船幟(伝八幡船の旗):1流
16C
絹本墨書
サイズ:107.0×39.4

 旗に松浦家が守護神として敬った式内社し志自岐大菩薩の神号が墨書されており、
松浦家25代隆信(道可)の時代に使用されたものとされる。志々伎神社は平戸島南端の霊峰志々岐山にあり、
独特な山容より古代より現在にいたるまで航路の主要な目印である。
 志々伎神社は7世紀中頃にはすでに存在しており、平戸島内で最も古く由緒ある神社である。

松浦史料博物館の展示室/水軍
http://www.matsura.or.jp/shiryo/suigun.html
144天之御名無主:2009/09/16(水) 10:27:41
映画「海賊八幡船」(1960年)あらすじ

戦国乱世の頃、瀬戸内海を根城に遠く明国、朝鮮、ルソン、シャムの諸国に八幡船は船首に八幡題菩薩の旗印をかかげ、交易、
通商に雄飛した。永禄四年、貿易港堺の船問屋壷屋道休の息子鹿門は、廓からの帰途八幡船の男たち黒白斎や小伝馬に囲まれ、
八幡船の旗頭で佐和山城主礎野丹後守の遺児だといわれた。道休は丹後守を裏切り、八幡船の一つめくら船を奪った張本人だという。
鹿門は信じなかった。八幡船の動きを知った道休は、財宝を淡路丸に積んで脱出を企んだ。が、軍兵のために殺され、船は行万不明になった。
黒白斉は鹿門が乗船を断ったので、彼を失神させ青影丸に拉致した。気がついた時は海上で、鹿門は村上水軍の若大将新蔵人と言い争ったがムダだった。
青影丸は村上水軍の本拠地因ノ島に入港、鹿門は頭領村上入道に会った。彼は父の遺志を継ぎ、ニセ八幡船を射てと説いた。
淡路丸とともに行方不明の妹小静を案ずる鹿門は、二代目頭目として彼を慕う島民の心を考え、心がゆらいた。父母兄弟を殺された
琉球娘謝花はニセめくら船の非道を訴えた。ある日、淡路丸が房った。船内は死体の山で、小静はいなかった。鹿門は決心した。
八幡大菩薩の旗印をかかげためくら船、青影丸、住吉丸は出発した。新蔵人の妹寿賀と謝花も同行した。南下する途中、右衛門太夫
のニセめくら船をみつけたが、交戦して逃がした。船団は修理のため貝殻島に寄港した。男まさりの寿費はいつしか鹿門に惹かれ、
謝花も新蔵人を慕うようになった。突然、狂暴なバランガ族が襲撃して来た。伝馬の機転でこれを撃退、鹿門の捕えた敵将陳赤竜は
ニセめくら船が島に入港しているといった。勇躍した鹿門、新蔵人らは捨身の攻撃をかけた。激闘の末、鹿門は右衛門太夫を射ち、
父の恨みを晴らした。小静も無事だった。鹿門の号令一下、八幡船団は追風に帆をあげ、一路故国に向け出発した。

http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23230/story.html
145天之御名無主:2009/09/16(水) 10:34:21
 幡随院長兵衛の生い立ちをお話致します前に、九州西部で有名な「松浦党」についてお話しなければ、話が繋がりませんので、ちょっと寄り道をいたします。
 
 松浦党とは平安時代末期から中世末期にかけて数百年にわたり九州西部の肥前国松浦の郡、現在の佐賀県の北部と長崎県の五島、
壱岐を含む地域で活動した武士の集団です。上松浦党と下松浦党に分かれています。

 その発祥は1019年(寛仁3) 刀伊賊(中国の女真族)が攻めてきた時、これを撃退した前肥前守源知とされ、嵯峨源氏で
歴代一字いみ名を用いています。蒙古来襲にも武名をあげた武士がたくさんいます。この地方は昔から宋や高麗との貿易中継地で、
海外貿易で富を成した豪族がいますが、正規の貿易のほかに、倭寇として東支那海沿岸から高麗(韓国)を荒らし恐れられていたと言われます。
これには多々問題もありますが、ここでは割愛いたします。

146天之御名無主:2009/09/16(水) 10:34:46
 以来、この上松浦党を束ねてきたのが波多氏で、戦国時代末期の党首に波多三河守親(はた みかわのかみ ちかし)がいます。
親は源頼光の四天王の一人渡辺綱(大江山の酒顛童子や羅生門の鬼退治をした)を祖先とする源久の17代の後裔です。
松浦党の発祥に源知と源久の二説があるのですが、親の祖先は久とされています。

 この親が幡随院長兵衛の父塚本伊織と繋がって参ります。

 波多氏の居城があった岸岳は、標高320メートルの男山で、現在は唐津市相知町の西を限る山ですが、
頂上からは遠く玄界灘を望み、四方がよく見渡せます。頂上とその周辺には中世および近世当初の山城の石組みが今も残っていて、佐賀県の史跡に指定されています。

 この山の東の麓に近い集落を「久保」といいますが、ここで幡随院長兵衛こと塚本伊太郎は生まれました。
147天之御名無主:2009/09/16(水) 10:35:10
 ここ久保から南に8キロくらいのところ、現伊万里市大川野に波多氏の重臣である鶴田因幡守の日在城があり、
その砦が久保にありました。長兵衛の父を塚本伊織と言いますが、この鶴田氏の家臣であり、久保に住んでいました。
母も因幡守の家臣で、のち出家した建福寺の僧、田代可休の娘です。(養女)
 没年から逆算して、長兵衛は元和元年(1615)に生まれたことになります。

 ここで、伊織と長兵衛の親子が江戸へ向う話になりますが、その発端となったのは、かの太閤秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)と、
岸岳城主波多三河守親の関わりです。肥前名護屋に城を築いた太閤はここに出張って、20万ともいう朝鮮出兵の指揮をとりました。
この戦に三河守親は佐賀の鍋島氏の旗本として、兵750騎をひきつれ朝鮮に出陣しましたが、いわれなき讒言によって改易、
お家取り潰しとなりました。それは、「三河守は朝鮮において病気を口実に、釜山に近い熊川の港に隠れて、鍋島の軍と合流せず、
卑怯であった」と三人の武将からの告げ口によるものです。親が動かなかったのは、理由があるのですが、問答無用とばかりに、
釈明も聞かれませんでした。親はこの戦に部下の半数以上も失っています。
148天之御名無主:2009/09/16(水) 10:35:41
 親は文禄2年2月9日(1593)太閤の勘気を蒙り改易となりました。親はこの処分状を朝鮮からの帰途名護屋沖で受け取りました。
故郷の山野を遠く海上から眺めたのみで、上陸もかなわず福岡の黒田長政に預けられました。その後、主従4人で常陸の国筑波山の麓に流されました。藩主佐竹侯のお預かりです。
 親と一緒に豊後の大友義統・薩摩の島津又太郎が改易されています。これらは士気を高めるための見せしめでしかありませんでした。

 この改易によって松浦党は崩壊し、武士たちは百姓となりました。藩政時代になると寺沢氏は懐柔策として、庄屋に取り立てました。

 ところで、告げ口をした3人は誰々だったでしょうか。その周辺に寺沢志摩守がちらつきます。また志摩守は岸岳城の家臣を手馴づけ、城中に火をかけ岸岳城を焼き払ってもいます。

 太閤秀吉と親はそもそも馬が合いませんでした。天正15年秀吉が島津征伐に九州に下向したとき、福岡への挨拶に遅刻、島津征伐の際には一兵も出さず非協力、
また名護屋を前線基地にする事に反対したなどなどがありました。しかも、太閤はもっと以前から、海外貿易の旨味がある波多氏の領土を狙っていました。このことを
、折から在日中のキリスト教の宣教師ルイス・フロイスが「日本史」の中に記しています。
149天之御名無主:2009/09/16(水) 10:35:58
 フロイスは述べています。
 「実家の島原日野江城主ドン・プロタジオ(有馬晴信の洗礼名)の長兄にあたる
名護屋城図屏風
波多殿は(親は島原の有馬から養子に入った人です)肥前国にその領土を持っていたが、同領内の名護屋という港に、関白殿が宮殿と城と町を造営したことは先に述べた通りである。
 ところが波多殿は高麗に渡ると、病気であると偽って熊川から先に進まなかった。彼はこのため三人の武将から告訴され、彼らは高麗から(この件)を関白に報告した。
波多に与えた俸祿と領地を没収するために、なんらかの口実を見出し小細工を弄しようと企てていた関白は、この訴えを耳にして満悦し、ただちに彼を追放処分に付し、
わずか八名の家来を伴わせ、身柄を黒田長政に預け、一方波多領地を寺沢氏に与えた」
 と書かれています。 「取り潰し」を早くから考えていたことを、外人の目にも明らかに映っていたことが、これでよくわかります。
150天之御名無主:2009/09/16(水) 10:36:17
 取り潰しの今一つの原因として、世に広く知られているのが、三河守の出陣中に、名護屋城中に呼び出された親の奥方秀の前が、
城中懐剣を落としたことを咎めたと。秀吉の好色が話題ですが、このとき秀の前は46歳、当時としてはいかに美人でも、おばあさんです。誰が脚色したお話でしょうか。

 史実としては、この戦に際して九州の大名たちの妻子は、人質として大坂に集められていました。これは証拠の古文書が残っています。

 さらに、塚本伊織は私的なことでも寺沢氏を恨んでいました。それは妻の父田代可休が寺沢によって処刑されたからです。しかも、
首・胴・脚部とそれぞれ別のところに葬られるという惨殺です。処刑には三つの理由がいわれています。

 一級河川の松浦川が、可休の住んでいた大川野から相知を経て唐津湾に注いでいますが、唐津藩主寺沢志摩守は田地を潤すため、
この川に井堰を拵えましたが、洪水の度ごとに破壊されます。ここで、可休が中島を作って水を二分し、一方に導水口を作ることを進言しました。
これを、志摩守は干渉されたと腹を立てたのです。結局は可休の死後そのように作り上げたのです。以後洪水にはびくともせず、今も残っています。

151天之御名無主:2009/09/16(水) 10:36:58
 いま一つの説として、波多氏再興の計画の集まりを建福寺で度々開いていたというのです。また、建福寺に国禁のマリア様が祭られていたとも言われています。

 面白いことにいま、この井堰の傍らに、寺沢志摩守と田代可休の碑が建っています。

 伊織親子が故郷を捨てたとき、伊太郎は13〜4歳だったといいますが、いわゆる敵討ちの謀議と、
さきの可休の罪に連座したのかも分かりません。身の危険を感じたのでしょう。いずれにしても旅に出たわけです。

 ところが、父伊織が下関(広島とも)で病死いたします。伊太郎は父の遺言により江戸は浅草の幡随院に白導和尚を訪ねます。
幡随院は京都知恩院の末寺で浄土宗、正式には神田山幡随院新知恩寺といいます。では、九州の片田舎と江戸との縁は何処で生まれたのでしょうか。

つづきは以下
http://www.yoyokaku.com/sub7-67.htm
152天之御名無主:2009/10/11(日) 18:41:26
>>129
大神比宜って、誰なの?古代の宇佐八幡宮の3社家の大神氏の始祖とされ
6世紀代に入部した大神比義のこと?
153天之御名無主:2009/10/12(月) 05:14:37
誉田別尊は氣比大神様
氣比は敦賀
第三の八幡は鶴岡
(鶴岡は宇佐から勧請なし)
吉備とも読める氣比
あの一帯を治めた神様=大国主の尊も崇めた神様
そんなとこか

氣比大神=イザサワケは
分け合ったから両方についた名前だろうね
伊雑宮という天照大神=伊勢の大元とも関連してきそうな響きだ。
154天之御名無主:2009/10/30(金) 14:46:44
九メートルの僧のような姿の神って何なんだったんだろ
155天之御名無主:2009/10/30(金) 19:31:35
>>154
ギガス
156天之御名無主:2009/10/30(金) 20:02:02
道境の信託事件で
和気清麻呂の前に現れた神様じゃろ?
157天之御名無主:2009/11/06(金) 17:43:32
松浦系波多なんて新しい時代の話は無関係だろ。 7世紀以前の話に限らないとおかしいぞ。
142-151 あぽ〜ん推奨
158天之御名無主:2010/04/12(月) 17:03:38
南無八幡大菩薩
159天之御名無主
南無八幡大菩薩