日月神示・ひふみ神示

このエントリーをはてなブックマークに追加
605565 ◆UquQ3EHdY6
>594のM・F・Pさん、おひさしぶりです^^。
>馬鹿丸だしの勇者さんは、ほんとうの勇者だった。(笑)
かく言う私も「日月神示・ひふみ神示」について、思うところを語っていません。(笑)
という訳で、私も「日月神示・ひふみ神示」について思うところを述べてみますね。

まず、この板でいまさら言うまでも無いことだとはおもいますが、ユング心理学としての「象徴」について少し。
(定義等についてはうろ覚えなので間違ってたら突っ込んで下さい^^;)
世界の神話の中には共通した描写や設定が見られます。たとえばオルぺウス・エウリュディケ
のお話とイザナギ・イザナミのお話などでは、どちらも死者の国で振り返ったりします。
ユング心理学的視点で神話を見るとき、物語にこのような描写や設定をもたらす心の傾向は
時間・空間を越え、人間に共通しているといった見解があり、これを「元型(アーキタイプ)」といいます。
「永遠の少年」「グレートマザー」「シャドウ」「セルフ」etc…。「神」もそのうちの一つです。
そして、それらは「象徴」として神話や夢に現れます。それは「物」であったり「数字」であったり
「概念」であったりと多種多様で、場合によっては個人特有のものであることもあります。

「日月神示・ひふみ神示」の記述にはこういった「象徴」が溢れている、と私には感じられます。

(続きます)
606565 ◆UquQ3EHdY6 :03/11/25 01:16
「ヨコの十の動きがクラゲナスタダヨヘルであり、タテの十の動きがウマシアシカビヒコジであるぞ、
十と十と交わり和して百となり九十九と動くのぞ。過去も未来も霊界にはない、「今」があるのみ、
これを中今(ナカイマ)と申すぞよ。竜宮の乙姫殿、日の出の神殿、岩の神殿、荒の神殿、
風の神殿、雨の神殿、暗劔殿、地震の神殿、金神殿の九柱なり、総大将は国常立大神なり、
このこと判りて下されよ、教はなくなるぞ、元の道が光り輝くぞ、これを惟神の道と申すぞ。」
紫金之巻 第十二帖

たとえば、この文章を私なりに象徴として捉えてみると、以下のようになります。まず、
「神」を基とする概念的な象徴として、「無」というのが挙げられます。(「無」はあちこちの神話で語られています。)
「無」(在ることもなく、無いこともない、天之御中主)から「現象(自己を含む)」を演繹しようとすると
(実は同時に帰納していくのですが)、まず、原初の作用(高皇産巣日)、反作用(神皇産巣日)を経て
混沌【ヨコ=クラゲナスタダヨヘル】と秩序【タテ=ウマシアシカビヒコジ】が生まれます。
これらはそれぞれ物質と生命の象徴でもあり、有質である以上、「動き」(変化)=時間の軸に乗っています。
しかし、総じて見た際、それら自身は不変であると言えます。十の動きの「十」とは飽和・完全の象徴でもあります。
ここで、「碧玉之巻 第十九帖」に、「百」は天=始め、「九十九」は地=働き、とあります。
「十と十と交わり和して百となり九十九と動く」とは、「世界」もしくは「宇宙」が流転し活動する様を表していると
思います。車輪に喩えると、始め=百は車輪全体、動き=九十九は位置が変わる部分であると言えます。
ここで、残りの「一」は中心=回転しつつとどまる部分であり、「中今」であると思います。これは外なる無限に
対する内なる無限であり、演繹の終着点、(と同時に出発点)である「自己」の象徴でもあると思います。
そして、百と九十九、十と九(柱)は「一」で繋がっています。そして、異論はあるとは思いますが、
これらは「象徴」としての「マンダラ」や「生命の木」、「螺旋」とも符合していると私は思います。

(またまた続きます)
607565 ◆UquQ3EHdY6 :03/11/25 01:18
んで、この「一」が「国常立大神」であるのだろうと思いますが、他の九柱についても、勉強不足の私には
そのあたりの史実や背景(「書き手にとっての」意義)が判らなかったりします^^;。「国常立大神」については
一般的な部分を自分なりに調べたのですが、「大地を支える神」「厳格な神」「姿かたちのない神(忌むべき神)」
ぐらいの事しか解りませんでした。どなたかお詳しい方がおられましたら、お教え頂けるととっても嬉しいです。

んで、最後の部分ですが、教はなくなり、元(はじめ?)の道が光り輝く→惟神=外に求めるのではなく、
自らの内に神性を見出し、それが「神」そのものであると「知る」事が、自己と世界を統合するプロセスである
といった概念(象徴)を持つ「神話」もまた世界中で見られるものであると私は思います。

>>600
「666」からツノを2本取ってみました^ー^。(ウソ