【忌み地・忌み山の話】

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・旧幕時代から維新の頃まで、稲敷地方の庶民の生活には、加持祈祷などの
 呪術的信仰が非常に盛んに行われていた。
 その面影は今では推し量るべくもないが、医療や福祉のない時代に、
 救いを求める民衆に対し、多額の祈祷料を欲しいままに求める修験道の
 僧達が跳梁跋扈していた。
 ある者は出鱈目な祈祷や託宣で築いた財を食い物にされ、また先祖からの
 土地を売り払いして祈祷に費やし、一家滅亡に至る例も珍しくなかった。
 様々な人々から搾取し、隆盛を誇っていた修験道の寺院も、明治の廃仏毀釈
 の折に衰退し、今ではその風潮も忘れ去られたに均しい。
・牛久市奥原町
 ここにかつて薬師寺、地蔵院の二寺があった。
 この寺は修験道の寺院で、明治維新の際に廃寺となり、その持田は民間に
 払い下げられることになった。
 地蔵院は持田40f余り、地味も豊かで収穫も良かったが、なぜかこの
 田を作ると凶事が起き、地元の人は誰も作る人がいなかった。
 人手を巡り、多村の者なら障りなかろうと買った者がいたが、やはり凶事
 に悩まされ手放したと言う。
 薬師寺は持田50fほど有り、古文書によれば旧藩士に払下げられた後に
 次々と持ち主が代わり、ある家では長男・次男と続いて事故死したという。
 安値に釣られて買った竜ケ崎市内の不動産屋が、たび重なる災難に困り
 果て、某寺院に寄進してしまった。
・龍ケ崎市八代町下入代
 県道潮来線のバス停から30b程の所に、十三角田という田があった。
 この田がなぜ忌み田になったのかは定かでない。
 葬式の十三仏と田の角の合計が同じだからと言う者もあるが、理由は
 はっきりしない。
 この田を耕作する家には次々と凶事が発生し、永い間荒れるに任せていた。
 しかし終戦後の食糧不足と米価の高騰に耐え切れず、この田を耕作する
 人があった。
 この家では間もなく、倅が土方仕事に出てガケ崩れで生き埋めになり死亡。
 親父は急に田を手放したくなり、他の人に貸して作らせたら今度はその家
 で主人が胃ガンで死亡。家族にも次々と病人が絶えないので遂に放棄した。
 荒れ果てていたが耕地整理が進み、今ではどの辺にあったかも判明できなく
 なり、地主が元の場所あたりを配分され引き受けた。
 地形が変わったためか、今では無事だと言う。
・新利根町芝崎
 芝崎の水道という所に、約1f程の田があった。
 形が出刃包丁に似ていると言うので「出刃田」と呼ばれ、ここの田を耕作
 すると災難が来ると恐れられていた。
 これまで何人となく作る人がいたがすぐに止めてしまい、荒れるに任せて
 いた。
 昭和十年頃、河内町下加納の人が作ったところ、間もなく火災に遭って
 自宅を全焼してしまった。
 現在は農地構造改善事業によって所在不明となった。