【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―
・倉戸(クラド)
奥多摩第2駐車場から仰ぎ見る倉戸山。その裾に当たる現在のバス停
付近は、かつて悪い事がある場所として近在に知られた祟り山である。
昔、何者かが炭焼き窯の中で死んでいた。
その霊を祀るために碑を立てたが、誰が作業をしても怪我をしたり、
火を出したりと非常に不首尾な事が起こる。
今もってジメジメした寂しい北面の山側で、もとは個人持ちの山で
幾人もの手を渡り歩いたが、最後に埼玉県入間の医師が所有した後に
都が買い上げ、公園管理団体のもとに置かれている。
・居合澤(イヤイザワ)
倉戸山の奥手の祟りある山で、永い間に木の葉が深く積もってブクブクと
している陰気な沢である。
戦前まで此の沢で材木の太いやつ程もある蛇を見た者がいた。
また、頭が尾羽の方にも付いている山鳥が住んでいるといい、炭焼きは
入ったりするのさえ嫌がった。
ここは元の地主が祟ると言われ、ある一家が買ったところお祖母さんが
ランプを灯すのに失敗し、体に火が付いて亡くなり続いて孫も火傷で
死んだという。
人の手を渡り続け、都の所有になる前には薪炭組合の所有になっていた。
炭焼きって結構怖い職業だね…
新スレ建てたんだ。
乙カレー
奥多摩氷川神社の杉の大木にはいわれは無いの?
ナメラスジスレにしたカキコ誰かコピペしてけろ。
10 :
天之御名無主:03/08/31 17:42
己でやらんけ?
11 :
天之御名無主:03/08/31 20:00
>9
ほら
56 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 00:46
【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―
・御霊の尾根(ミタマノオネ)
海澤の東側の山続き、大岳山から北へ抜けた大楢峠から城山の間にある。
山の形がイハイに似てるので位牌山とか御霊山とか呼び、非常に悪い
処だという。
この山に自害沢(ジガイサワ)と呼ぶ沢があり、その昔日本武尊が従者を
十人連れてここまで来たが、何かの理由で従者たちが自害してしまった。
又は、自害したのは旅の六部とも平家の落人ともいう。
その祟りでか、この自害沢に入って作業(山仕事)をした者は、山の中で
必ず死ぬ。それでここに入って死んだ者が出た家から位牌が出るから。
位牌指(イハイザス)とも呼ぶ。
以前、ここに従者十人の位牌が飾ってあったという。
所有者が指(タカザス)と名を変えたが、誰も買い手がないので都に
売却し、今では奥多摩記念林の一部になっている。
12 :
天之御名無主:03/08/31 20:02
57 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:00
・天蓋山(テンガイヤマ)
海沢の北にある600余米の高さの山で、山頂近くは誰も入らないので
雑木が茂っている。
昔の野辺送りに棺の上にかざす「天蓋」そっくりの形をしている。
タツガイトとも呼ぶ人もいる。
この山は買う者、売る者、木を切る者に悪い事があるという。
上坂の人が買う算段をしていた時、三つになる子供が囲炉裏で火傷し、
経過が悪くて亡くなってしまった。
天蓋山には庚申が祀られているが、この庚申様が火傷させたのだという。
13 :
天之御名無主:03/08/31 20:03
58 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:15
・病ヶ沢(ヤマイガサワ)
日原、川苔谷の支流、逆川の奥にある。
周囲はかなり広い手付かずの山林で、昔、ここに宿っていた法師が
命を捨てた所だとも、落人が逃げてきて首を斬られた所だともいう。
ここで一山買ってのべつに仕事をすると必ず病気に罹ったり死人を
出すという。
眼患に罹り、「銭ばかり掛かる」と言う人もいた。
町が買い上げ町有林になり、名前も(病まぬヶ沢)にしたが、誰も
山仕事に行かぬという。
14 :
天之御名無主:03/08/31 20:04
59 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:31
・骨窯(コツガマ)
病ヶ沢(ヤマイガサワ)の川向こうにある所で、そこで炭を焼くと死ぬ
というので誰も木を切りに行かない。
太い楢がツクツクと生えていて陰気な所だという。
他にもカワナの屋敷地、または屋敷谷戸(ヤシキド)ともいう皿の割れた
物が出る場所もあり、理由は分からないが悪いところなので小屋掛けを
したり、作場をきる事はしないという。
カワナの屋敷地に小屋を掛けたら、天狗に小屋ぐるみ揺すられたので
以後は行かないという人もいる。
15 :
天之御名無主:03/08/31 20:04
60 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:38
・食わない作り(クワナイヅクリ)
日原川沿いの大澤部落の山の上にあり、ここでいくら耕作しても
食えずに死ぬという。
以前、ここに金剛寺という寺があったという。個人持ちの山だが
短期間に何人もの持ち主が変わっている。
16 :
天之御名無主:03/08/31 20:05
61 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:49
・位牌山(イハイヤマ)
大澤地区と同じ日原川沿いの寺地地区にある。
裏手の峰畑では塔婆山(トウバヤマ)とも呼ばれ、位牌の形だ、塔婆の
形だと言ったりしている。
昔、炭焼き小屋に法印様が泊ったが、貧困に喘ぐ炭焼きが金欲しさに
殺してしまった。
あるいは栗拾いが法印をヨキ(斧)で殺したともいうが、兎に角
それ以来祟る山になったという。
大体買主に祟るが入る者にも良くない事があり、九人でそれぞれ炭を
焼いたらどの窯もみな火が消えたという。
17 :
天之御名無主:03/08/31 20:05
64 :【祟り山】― 東京都奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ― :03/08/25 03:04
・位牌平(イハイデーロ)
青梅街道を奥多摩駅からダムに向かった先、境地区にある。
元は子安平(コヤスデーロ)と呼んだが、何か良くない事があり
そう呼ぶようになった。
祟り山で作場を作ったりするのを嫌う。
この付近では入ったり炭を焼くのを忌む場所は他にも多く、
それらを皆、地獄谷戸(ヂゴクト)と呼び、誰かが仕事で
怪我か死亡した場所であり、人名を冠して誰々ヂゴクと呼ぶ。
18 :
天之御名無主:03/08/31 20:06
66 :【祟り山】― 東京都奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ― :03/08/25 03:37
・生首(ナマクビ)
六ッ石山へ向かう途中の集落、水根にある祟り山。
昔からその山を買うと身体から首が離れるような事になる
(いわゆる斬罪、獄門首になる)といわれ、誰も買いたがらない。
新梨尾、出野萱の両方も祟り山だと言う。
19 :
天之御名無主:03/08/31 20:07
67 :【祟り山】― 東京都奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ― :03/08/25 04:09
・位牌窪(イヘークボ)
御前山の北西を下るミズクボ沢がダムに流れ込む辺りをいう。
昔、伊平という炭焼きが窯に火を入れていたが、山崩れで
窯と一緒に樹の下敷きになって死んだ。それ以来ここで
木を伐ると怪我をしたり、呼んだりするので気味悪がって
山仕事をするのを嫌うという。
湖岸道路に面しており、今では林業作業車やブルドーザー
が唸りを上げて稼働している。
・北蓑戸(キタミノト)
奥多摩周遊道路のダム側ゲートを過ぎて数キロ行くと交差点があり、
山の「ふるさと村」に向かう道がある。
ここよりふるさと村へ数百メートル進むと一本目の橋がある。
「北蓑橋」・・・。
この辺りは昔、糠指(ヌカザス)といい、北蓑橋の下を流れる谷を
着タ蓑戸(キタミノト)と呼んだ。
昔、ある夏の雨の降っている日、ある人がここで炭を焼いていたが、
眠り込んでしまい、着ていた蓑に火が付いて焼け死んでしまった。
それで「着タ蓑」と云う名前が付いた。
ずっと昔の事で、それ以来この山に入ったり、所有者になると必ず不幸が
あるといわれた。
蓑を焼いて死んだ人の次の持ち主は火傷で死に、
南集落(現在矢久亭のあるところ)のある人はここで狸に化かされ、
裸足で歩き回りながら死んだりしたという。
埼○銀行某支店の頭取が持っていたときは子供が次々に死亡し、支店の
経営も上手くいかず財産が1/10になってしまった。
また、ここで働かせていた林業労働者が崩落で6人死亡する事故も起き、
とうとう困り果て塔婆を建てて捨て値で売却した。
以後も人手を転々とし、最後に鳩和木材株式会社から都に買い取られ、
今では何も知らないレジャー客を呼び寄せている。
21 :
天之御名無主:03/08/31 21:55
怖いよ!もう奥多摩で」キャンプ出来ない!
檜原村数馬の蛇の湯は?
22 :
ブクタブクオ:03/08/31 22:31
蛇の湯の話は祟り山と違うので外させて頂きます。
檜原も祟り山の話は豊富です。
作物泥棒と間違えられて百姓に撲殺された貧しい哀れな武士が祟るように
なった畑の話など、山に限らず色々あります。
ですがもう少し奥多摩湖側の話が残っています。
ではまた明晩・・・
23 :
天之御名無主:03/09/01 07:45
>20
支店の頭取?支店長ではないかい?
それはともかく土地を買うときには来歴をよく調べよう…
と思ったよ。
>23
失礼、支店長ですね。
25 :
天之御名無主:03/09/01 14:35
奥多摩に集中してるけど
そんな濃いいところとは知りませんでした。
青梅にじーちゃんの家があるんだけど
あのへんも山だなあ こったら話聞いてみたい
26 :
天之御名無主:03/09/02 03:09
板橋区上板橋のレンタル21には・・・・
27 :
天之御名無主:03/09/02 04:20
どうせ奥多摩の山菜利権か松茸利権がらみで
排他独占を狙って出来た話だろう。
竜喰谷とか龍神沢なんて名前が付くところに限って
入れ食いの場所が多い。
・新発意(シンボチ)
北蓑橋の先、「山のふるさと村」のある辺りは岫沢(クキサワ)と呼ぶ
地区である。
実は此の場所も、以前は新発意(シンボチ)と呼ばれる祟り山であった。
新発意(シンボチ)というのは浄土真宗などでいう若年の遊行僧で、
それが何かの理由でここまで来て死んだ場所でといわれている。
雨の降る時は出てきたという話が残っており、シンボチ小僧がいるなど
と言われていた。
またここで作場を切った人が猪を追うための小屋を掛けていたが、その
猪に当たって死んでしまった事もあるという。
南地区(矢久亭や深山荘のある場所)の人が持っていたが、その家には
馬鹿(精薄)・気狂い・目ッカチ(片目)の子が生まれたり、首を振る
婆さんが出た。
それでもまだ持っていたら遂に破産してしまったと、此の付近の老人は
どこでも知っている。
・児沢(コサワ)
「山のふるさと村」のレストハウスの直ぐ先にある沢で、昔は良い
ワサビが採れる田があった辺りだ。
他の所では絶対に見られないアヤメが咲いているので、誰かを葬って
植えたのだろうという。
今までに山仕事で二人程死んでいるほか、炭を焼くと必ず不幸がある
といい、ある人は両親と妻の三人をいち時に亡くしたという。
・種ヶ岩(タネガイワ)
都民の森として整備された三頭山のどこかにある岩で、この岩の横の
窯で炭を焼くと、火の中に頭を割られた男がじっと睨んでいる。
昔長野から山梨まで種売りに来た男が、残りを桧原で捌こうとここまで
来たところ日が暮れ、炭焼き窯の側の岩で野宿をしていた。
早朝に炭焼きがやって来て、売上金欲しさに殺して窯で焼いたのだと
いわれ、ここでは炭を焼かない。
・江戸崎町の潰れ屋敷跡
昭和の初め頃、江戸崎町松山で「良い売畑がある」と持ち掛けられた人が、
下君山の羽黒にある20ヘクタール程の桑畑を購入した。
ところがそれより、次々にその家庭に不吉な事が起き初めた。
主人が飼い馬に足を踏まれ足指を切断したり、娘が鬱病に罹り自殺未遂を
起こしたりと祿な事がない。
困った主人が近所に住む老人に洩らしたところ、意外な話をされた。
昔その畑に百姓家があり、高持ち(土地持ちの豪農)だったという。
その家敷でゴゼを泊めたところ、稼いだ銭を沢山持っていたので風呂に入れ、
湯船に漬けて殺して敷地に埋めたのだと云う話だった。
ある晩、隣の嫁がこの屋敷に風呂を貰いに行ったが、風呂の蓋を取ると
火の玉が一杯に入っていた。仰天した嫁が風呂掻き棒で思いっきり叩いた
ところ、あたり一面に火の玉が散らばり火の海になった。
恐ろしくなった嫁は夢中で逃げ帰り、布団を被って寝込んでしまった。
そんな事があって以降次々に悪い事が起き、ついに潰れた屋敷跡なのだった。
それを聞かされ驚いた主人は、地続きの家で売ってほしいと話があったのを
幸いに、大分損を承知で売り渡した。
その後、嘘のように凶事が治まり、娘の病気も治ってしまった。
ところが一方、買った家では主人が胃癌で急死。倅は若くして中風に罹り、
不幸が次々に襲ってきたという。
堪り兼ねたその家でも、小学校の移転先の用地を町が探していると聞き、
売却に成功してからは平穏無事だという。
32 :
天之御名無主:03/09/02 22:15
>>31 で、学校で学ぶ子供はみんなドキュソになってしまったのね。
33 :
天之御名無主:03/09/03 00:08
不動産屋さんに商売に必ず失敗する土地のブラックリストがあるらしいね。
呪われてるのかな?
忌み地の話ではないが、前述の茨城県稲敷郡江戸崎町下君山から、上君山へ
向かう国道408号には他にこんな怪談もある。
これも昭和の初め頃の話で、小雨がしとしとと降る寂しい夕方に火の車が
現れるという話があった。
火の車は近付いてくると、側によって「乗ったか?乗ったか?」と声を掛ける。
返事をしないと何時までもまとわりついて「乗ったか?」と決して去らない。
そこで「乗ったあ!」と答えると、まっしぐらに走り去る。
行く先は多分、上君山の「いも薬師」だろうという。
※「いも薬師」は別名:「車堂」と呼ばれている。
国道に面した、雨よけのあるだけの奥行きのない木造の祠堂である。
何故「車堂」と呼ぶのかは、はっきり分からない。
35 :
天之御名無主:03/09/03 08:22
忌み地って昔の人は尾根端、谷くち、お宮前、お寺裏っていってたよね。
TVでスーパーの万引きの番組あります。よく出るのがカゴヌケ
と言う物で、レジ通らずまとめてさらうと言う訳です。
関西方面のスーパーで思い当たる所有ります、ほかよりあまり安くないですが、
けっこう客が入っています。近くの主婦はよく行くと思います。
大昔どこからか話あったそうで、その人をスーパーネゴシエイター言うそうです。
アク禁掛けられて携帯からレス打てません。
よって暫く休止です。
了解。
>>35 え・・・。漏れの家はお宮の真ん前にあるわけだが・・・ガクガク(((゚Д゚;)))ブルブル
まぁさ、お宮から古木のある庭、稲荷にかけて時々何か通るけどさ。
火の玉とか、この世の人でない人とかさ。悪い気配しないからいいけどさ。
>39
忌み地にご在住ですか、そうですか…
合掌。
41 :
天之御名無主:03/09/04 18:34
千葉県茂原市のそばに呪われた新興住宅地があるそうな。
千葉県大栄町の地蔵原はマジやばい。
42 :
天之御名無主:03/09/04 20:54
地名が地蔵・・やだ・・
「悪谷」という名の場所はやばい、と柳田が言ってた気がする。
他にあったかも。
くっそー、アク禁がまだ続いてやがる。FOX★め!
・旧幕時代から維新の頃まで、稲敷地方の庶民の生活には、加持祈祷などの
呪術的信仰が非常に盛んに行われていた。
その面影は今では推し量るべくもないが、医療や福祉のない時代に、
救いを求める民衆に対し、多額の祈祷料を欲しいままに求める修験道の
僧達が跳梁跋扈していた。
ある者は出鱈目な祈祷や託宣で築いた財を食い物にされ、また先祖からの
土地を売り払いして祈祷に費やし、一家滅亡に至る例も珍しくなかった。
様々な人々から搾取し、隆盛を誇っていた修験道の寺院も、明治の廃仏毀釈
の折に衰退し、今ではその風潮も忘れ去られたに均しい。
・牛久市奥原町
ここにかつて薬師寺、地蔵院の二寺があった。
この寺は修験道の寺院で、明治維新の際に廃寺となり、その持田は民間に
払い下げられることになった。
地蔵院は持田40f余り、地味も豊かで収穫も良かったが、なぜかこの
田を作ると凶事が起き、地元の人は誰も作る人がいなかった。
人手を巡り、多村の者なら障りなかろうと買った者がいたが、やはり凶事
に悩まされ手放したと言う。
薬師寺は持田50fほど有り、古文書によれば旧藩士に払下げられた後に
次々と持ち主が代わり、ある家では長男・次男と続いて事故死したという。
安値に釣られて買った竜ケ崎市内の不動産屋が、たび重なる災難に困り
果て、某寺院に寄進してしまった。
・龍ケ崎市八代町下入代
県道潮来線のバス停から30b程の所に、十三角田という田があった。
この田がなぜ忌み田になったのかは定かでない。
葬式の十三仏と田の角の合計が同じだからと言う者もあるが、理由は
はっきりしない。
この田を耕作する家には次々と凶事が発生し、永い間荒れるに任せていた。
しかし終戦後の食糧不足と米価の高騰に耐え切れず、この田を耕作する
人があった。
この家では間もなく、倅が土方仕事に出てガケ崩れで生き埋めになり死亡。
親父は急に田を手放したくなり、他の人に貸して作らせたら今度はその家
で主人が胃ガンで死亡。家族にも次々と病人が絶えないので遂に放棄した。
荒れ果てていたが耕地整理が進み、今ではどの辺にあったかも判明できなく
なり、地主が元の場所あたりを配分され引き受けた。
地形が変わったためか、今では無事だと言う。
・新利根町芝崎
芝崎の水道という所に、約1f程の田があった。
形が出刃包丁に似ていると言うので「出刃田」と呼ばれ、ここの田を耕作
すると災難が来ると恐れられていた。
これまで何人となく作る人がいたがすぐに止めてしまい、荒れるに任せて
いた。
昭和十年頃、河内町下加納の人が作ったところ、間もなく火災に遭って
自宅を全焼してしまった。
現在は農地構造改善事業によって所在不明となった。
死人もいなくて、なぜ忌み地になったかわからない土地って
風水で言う陰の気が噴出してるところみたいなものかな?
そーいう土地は20年で地運が変わるので時間がたてば大丈夫らしいが。
風水なんてここ12〜13年前、から言われ出した事で、日本の既存の生活文化に
何の関わりもありませんよ。
メディアがデッチ上げた、新しすぎる認識です。(映画「帝都物語」の影響?)
死人が出たからといって忌み地になるというのは違いますよ。
53 :
天之御名無主:03/09/07 15:41
>>50 江戸は四神(玄武・白虎・青龍・朱雀)の守りを作ったのは事実。
古くは平城京・平安京にさかのぼるのだがね?
藻前こそ無い知識で痛すぎ。(・∀・)カエレ!
>>52 ホントにそうじゃないって言うなら、どんな理由がありましょうや・・・?
和泉宗章氏の天中殺や、細木数子の六星占術のように単なる流行です。
それ以前の日本の文化に「風水」の二文字があったなら、私見は
引っ込めますけどね。
>>53 ここは私が立てたスレですが?
何でスレ違いの話題までしてカエレ何でしょう?
お前こそカエレ。(帰るとこがあるならなw)
ナメラスジスレの方、もう動いていないみたいだからこっちにも。
ちょっと気になるのだが、赤城山周辺の忌み地とかの情報キボン
57 :
天之御名無主:03/09/07 18:48
>>53 風水の四神思想が平城京・平安京の時代になかったことを知ってるかい?
それと、江戸の四神相応はコジツケだってことは最近さんざん言われてるが。
四神思想なんて高松塚古墳の昔からあったじゃん。
59 :
天之御名無主:03/09/07 19:31
風水ネタは荒れるなぁ…
忌み地の話しようぜ。
61 :
天之御名無主:03/09/07 20:24
弥生時代には方画規矩四神鏡なんつー
四神を鋳込んだ鏡が渡来してるけど。
有名な景初4年鏡も方画規矩四神鏡。(卑弥呼の鏡?)
62 :
天之御名無主:03/09/07 20:26
>57
平安京に朱雀門ってあったんじゃないのぉ?
・新利根町曽根の河内屋堤
承応三年、常陸川筋の河道が整備され、利根川の東移が実現したが、
この成功により幕府は、関東郡代・伊奈半次郎、大目付・高木伊勢守に
命じ、延長約三五キロメートルの新利根川が開発が始まった。
数万ヘクタールの新田開発のため、利根川の水流を利根町で締切り、
新たに流路を北に替えたのである。しかしこの新川は勾配が急であった
ため、沿岸の村々の大水害を招いてしまった。
このため利根町押付から東村押堀に至る新堀堀削工事する事になり、
寛文三年、大阪の豪商・河内屋治兵衛、並びに京都の豪商・伏見屋が
工事の請負に当たる事となった。
南堤側の普請、伏見屋は工事が順調に進んだが、北堤を請け負った
河内屋は、草が枯れて出来た特有の「ケド土」という土層に突当たり、
あらゆる工法を用いても一夜で跡形もなく堤が流されてしまった。
迫る工期、資金の欠乏。重なる心労の末、河内屋は現在の新利根町
曽根付近に建てた仮小屋の中で、無念の最後を遂げたという。
その後、この河内屋堤の後は田となったが、耕作すると祟りがあると
怖れられ、貧しさに手を出す農家も永くは作ろうとしなかった。
堀川地区に終戦間もない頃、河内屋堤の跡を耕していた家があった。
ある日、父と息子が口論となり、息子が出刃包丁で父を刺し殺す事件が
発生した。この家は現在絶えて、家族の所在を知る者はいない。
この他にも耕している家があったが、余り良い話は聞かないと言う。
いま河内屋の墓地は、新利根町曽根の村道にヒッソリ建っている。
64 :
天之御名無主:03/09/08 03:41
風水の歴史
風水はもともと中国古来の仙道五術の奥義です。
この奥義は森羅万象の過去から未来に至るまでを判断し、運を切り開いていくのに
風水羅盤を用いて、王や帝王とその国家の安泰の為に使われていました。
はじめのうちは、国を守る為に主に軍策として利用されていました。
攻め入る軍はどこに陣をおけば効率が良いか、どこから攻めていけばよいか、
またどこに城を築けば攻められにくいかなどを地理・方位などから判断していたのです。
国が安泰となってからは軍策だけでなく、このノウハウを使って、
繁栄する都・国作りに応用され、次第にこの奥義の一端が庶民にまで広がり、
家相や、個人の生まれた時間を元に個人の吉凶を判断するものとなっていったのです。
日本では、最近流行っている「陰陽師」がこの風水の奥義を会得しました。
陰陽師は、中国から伝来してきたこの奥義を踏まえ、暦を読み、国の祭事を司り、
風水に基づいた都作りをしていました。
陰陽師は国の重要な地位を確立し発言そのものが国を左右していたのです。
ちなみに陰陽師は「国家公務員」でした。
平安京の碁盤の目のように整然としている都は、完璧に風水に基づき
作られているのは有名です。
日本の歴史に風水が登場しているのは古く、邪馬台国の頃からと唱えている
歴史学者もいるようですが、この辺は定かではありません。
定説では平安時代の頃と考えられています。
諸葛孔明(しょかつこうめい)は希代の風水師で、軍師となれば戦に勝ち、
国主となれば国を適切な方向へ指導していきました。
日本では、徳川家康が博学で薬学などにも秀でていました。
そして、京から江戸に遷都した際、風水の教えに基づき都を作りました。
実際江戸城(現皇居)は風水上では理想の場所にあります。
また、家康が亡くなって日光東照宮にお祀りされていますが、
ここも風水上大変パワーの流れている場所に位置しています。
江戸幕府が300年の長きに渡って安泰に続いたのも、
同じく平安京が長く続いたのもこのような風水の良い影響があったからとされています。
65 :
天之御名無主:03/09/08 03:51
「確かに平家物語にも「左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地なり」と記されている。
だが、実はそれはありえない。というのは、山や道などを四神にそれぞれ当てはめるのは、
中国で10世紀に始まったことだからである。8世紀に造営された平安京が、周囲の山や川などを
四神とみなしたため吉祥の地として都に選ばれた、とい可能性はない。」
というかスレ違いあげてしまったスマソ
「一方日本では、13世紀ごろから気の流れについての考えが入っているが、
家相、墓相には反映されずに近年まで至っており、風水の上陸によって盛んに
気の流れによる判断がされるようになった」
・新利根町下太田
昔、京塚という小さな塚があった。その一帯は京塚という地名である。
外部から移り住んだ者が、いつの間にか平らに均して屋敷にして
使用していたが、娘が若くして癌で死亡したり凶事が続いたという。
・新利根町堀川
弁天堂の持田で弁天田というのがあった。作ると病気や怪我が
絶えないといわれていた。現在、耕地整理で消滅した。
・新利根町寺内上ノ原(病人畑)
旧阿波街道の道路沿い、窪地で昔から耕作すると災難があると言われて
いた。地主が数10年前まで作っていたが、現在は休耕となって篠が
生えて放置されている。
・東町釜井(薬師田)
国道294号、釜井駅バス停付近に昔、薬師堂が建っていた。
免地30eが民間に払い下げになったが、病人が出ると言われて
荒れていた。現在、国道用地と住宅地になっている。
・東町伊佐部
ここに塔婆の形をした田が5枚続いてあり、塔婆田と呼ばれていた。
この田を作ると祟りのために家から病人・気狂いが出ると言われ、
誰も耕さず荒れていた。現在は耕地整理で均されて消えた。
・東町阿波崎
万願寺下に女郎塚という小さな塚があった。女郎田と呼ばれ、ここを
耕作すると悪い事が続いて発生し、誰も作らなくなった。
・東町阿波崎
墓場田と呼ばれ、元は墓地であったが改葬されて田にした場所で、
深く掘ると人骨が出ると言われている。
ここも作ると怪我や病人が絶えず、永く作ろうとする者はなかった。
・東町市崎(ショウズカ婆の田)
昔、雪の降った翌朝、一人の女が行き倒れになって凍死していた。
ここの田を夜通るとお化けが出ると言いい、子供は夜になると通ら
なかった。
・東町大沼上池
四枚で20e程の田で、首切田と呼ばれている田がある。
昔、日照り続きで凶作に喘いだ時に、隣りの田の持ち主と水を盗んだ
盗まないで争いになり、持っていた鎌で相手を斬り殺してしまった。
その後、その田は祟りで災いが起きると言われ荒れ果て、水が溜まって
池のようになっている。
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【忌み地】- 茨城県稲敷方面の病人田 -:03/09/08 06:46
・江戸崎町松山
明治の廃仏令で無住のまま立ち腐れになった廃寺跡で、50e程の
宅地であるが、しばらく身寄りのない老人が一人で生活していた。
老衰で死んだ後は村で無縁仏として埋葬した。
その後、誰もここに手を付ける者はいなかったが、作業小屋を建てて
利用した人が子供を癌で亡くし、続いて妻が自動車事故で亡くなるなど
悲劇が絶えなかった。
この家では年に何回か土地の供養を行っている
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【忌み地】― 茨城県稲敷方面の病人田 ―:03/09/08 06:55
・江戸崎町松山
鹿島神社の近くの三又に道祖神の石祠があり、(やしんほ道祖神)と
呼ばれている。
(やしんほ)とはいやしん坊の事で、何でも欲しがるという意味である。
酒を供えて願を掛ければ利益あるというが、たとえ篠竹一本でも取ると
祟りがあるということで荒れ放題であった。
特別信仰の厚い人が供養の上、清掃して綺麗にした。
・江戸崎町松山
底なし田。これは元、東光寺の免田であったという。
底知れずの深い田で、怖れて耕作する者がいなかった。
ある家で作ったが、妻は病気がちで夫は働かなくなり、家庭不和で
若くして夫婦とも病気で亡くなった。
・龍ヶ崎市愛戸町
愛戸に昔、般若院の病人田と呼ばれる、真中に松の木が生えている
田があった。
一年中陰湿で下草は茂り放題。白い蛇が出るといって近寄る人がなかった。
ここを作った家では気狂いが出たり、病人が絶えなかった。