苗字の意味を教えてください

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73天之御名無主
>>72

[ 加藤 ] 加賀の藤原氏の意。

藤原利仁流が最も多い。「尊卑分脈」には利仁-叙用-吉信-重光-貞正-正重(加藤)となって
いる。利仁の孫吉信は加賀介に補せられ加藤を氏にしたと伝えられる。

しかし伊勢(三重県)発祥の加藤氏の方が数が多いと「家系大辞典」は載せている。

主な流派は、利仁流藤原姓の加藤氏、伊勢の加藤氏、伊香姓布施氏流加藤氏、藤原北家
道長流の加藤氏、美濃の加藤氏、三河の加藤氏、甲斐の加藤氏、清和源氏武田氏族の
加藤氏、桓武平氏金子氏流の加藤氏。

伊勢発祥の加藤氏は、説が二つ有り出自は明らかではないが、安濃郡下部田村字南羽所
というのと、河曲郡柳村馬場であるとあり、祖は伊勢の目代職加藤景貞である。

尾張・三河の加藤氏は春日井郡の同族から加藤清正が出ています。祖は藤原北家道長流。
又美濃の加藤氏は伊勢の祖景貞の二男加藤次景廉が始祖であります。

三河(愛知県)の名家大姓加藤氏中で山梨と関わりは、利仁流加藤景廉の二男景長は甲斐
へ行き、それより5代の後孫泰景、その曽孫の景恒迄武田家に仕えたが、景恒の子景俊の時、
三河に移住したという。
県内の加藤氏は、都留郡(郡内地区)の名家大姓で、加藤次景廉の末裔という。景廉は建久
中(1190)、安田遠江守義定を頼頼の命により追討し武功があったとし義定の旧領を賜った。
中巨摩郡昭和町河東(河藤)の地は、景廉の所領地没収され、後、和田氏の乱の後古郡保忠
の庚所(上野原町)を、嫡男判官景朝の子新左衛門尉景長に賜った。
子孫は応永中(1394)、加藤入道梵玄の時武田家に加わり上野原城に拠った。子孫は此地で
現在も繁栄しています。
武田氏族の加藤氏は、武田信縄の子信厚が始めて加藤を氏にしたもので武田系図「勝沼殿
信友二男に加藤丹後守信厚」(後略)と載せてあるが、子孫は明らかではない。

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