1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
当時のこと
思い出すままに語ってください
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 00:08 ID:tFOUxkaN
大丈夫
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 00:15 ID:kLq3axwO
菊田一夫の「鐘の鳴る丘」外遊びしてても、
始まる時間には飛んで帰ってラジオにかじりついたもんだ。
「鐘のなる丘」が終了してから「笛吹き童子」「紅孔雀」と続いた。
まさに今は昔だな。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 02:02 ID:wUB3055r
あの頃のラジオ番組といえば「君の名は」でしょう。
これも菊田一夫ですね。
子供心にも待ち遠しく思ったものです。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 07:44 ID:x1qewX1c
雑誌では少年倶楽部、少年、少年画報、漫画少年、
少女、少女クラブ、少女の友、少女サロンなど
少年、少女向けのいい雑誌がいっぱいありましたね。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 08:06 ID:pQQnjmD9
漫画王とか、チョッとお兄さん向けに冒険王とか。
発行は秋田書店。
どういうわけか「秋田」というのが印象に残ってて、私は駅伝のマラソンでは
秋田県を応援してた。
ちなみに私はそのころ、関東人だったから東北地方は全く知らなかった。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 22:52 ID:S0R5d+D7
少年雑誌といえば私が真っ先に思い出すのは「少年王者」。
牧村真吾と美少女すい子さん。
マウントサタンとプロントザウルス、豹の老婆、かば男
いや少年王者が実にかっこよくて面白かった。
少年ケニアも面白かったが、私は刷り込みされて
こっちの方が若干好きだ。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 23:45 ID:i9l3h8K8
>>6 私は少年と少年クラブを取っていて
冒険王まで買えませんでした。
冒険王に載っていた砂漠の魔王が
読みたくて読みたくて。
結局、結末は知らずに終わってしまいました。
思い出すと残念です。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/31 00:49 ID:KoU3f5dg
西条八十が当時の少女クラブに連載した
「幽霊の塔」の単行本を探しています。
どなたかお持ちの方いらっしゃらないでしょうか?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/31 13:35 ID:QsMZBdBz
>>9 私が今持ってるのは、昭和13年2月1日発行の、
「婦人倶楽部2月号付録・【すぐ役立つ・妊娠・安産・育児法】というやつです。
リサイクル・センターで埃かぶってるのを安く買ってきた。
たしか200円くらいだったかと思う。
本の内容が非常におもしろい。
例えば、赤ちゃんを日光浴させるといいらしい。
その時は赤ちゃんの目を太陽から保護するためにサングラスを掛けた方がいい。
とか、そんなことが書かれています。
現代では、赤ちゃんの日光浴は良くない。ってのが一般常識ですがね。
さすがに内容は時代遅れです。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/31 13:48 ID:TSeRJfAO
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/31 15:07 ID:QsMZBdBz
>>11 NASAは、そんなこと発表していない。
私にNASAのことは聞いてほすい。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/31 22:32 ID:TZIZMTtD
>>5 面白ブックを忘れてませんか?
>>7さんのいう「少年王者」が掲載されたのも面白ブック。
小松崎茂の少年が空中を飛ぶスクーターに乗って
飛び回る絵物語、塩田英二郎の漫画、題名忘れたが
「どんぐり君」だか「ポックリ君」だったか
面白かったなあ。あの頃が今思うと一番よかった。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/01 01:15 ID:VqCOqd8c
手塚治虫の鉄腕アトムの連載が
雑誌少年で始まったのも
昭和27,8年頃でしたね。
アトム大使から読んでましたが
こんなに有名になるとは思わなかった。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/01 06:22 ID:bGAv38Z+
>>10 >赤ちゃんを日光浴させるといいらしい。
わたしらの、子供の頃はそういわれてましたね。
日光浴しないと「クル病」になるとか、日に焼けると冬に風邪ひかない、とか。
でも今は時代環境そのものが変わってしまいました。
フロンガスによってオゾン層が破壊され、
そのため、生物に有害な紫外線が直接地上に降り注ぐようになりました。
今では直射日光は皮膚ガンのもとになり下がりました。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/01 23:31 ID:be34nror
当時は漫画より小説が主流でしたね。
江戸川乱歩の「少年探偵団」とか
探偵小説が多かったように思う。
漫画では黄金バットも懐かしいな。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/01 23:58 ID:AL4oDOZn
あたい 男だけど 少女雑誌の大ファンだったわ。勝山ひろし 内藤ルネの 挿絵がすきだったわ。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/02 00:40 ID:TGplAwf1
>>17 少女、少女クラブ、少女世界、少女サロンいろいろありましたね。
リボンの騎士は少女掲載でしたっけ。
あんみつ姫なんて覚えてますか>
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/02 22:52 ID:QnvgtEGF
>>18 リボンの騎士ですか、懐かしいな。
手塚治虫の漫画ではあと「化石島」とか
「新世界ルルー」なんか懐かしい。
保存しておけば、今頃何万円もの値打ちだろな。
こんなにあの頃の漫画本の値打ちが上がるとは
思わなかった。残念
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/02 23:58 ID:QnvgtEGF
>>7 少年王者、いや、懐かしい。
魔神ウーラ、アメンホテップ、ザンバロも
出てきましたよね。
象に跨った少年王者やワニに追われながら
河を泳ぐ少年王者は子供心に実にかっこよかった。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/03 04:35 ID:vM2uobHc
すげぇ本当のジジイとババアが会話しているみたいだ
全く会話の内容が理解できん。
若かりし日を思い起こしながらROMっている。
まあ、若い奴らには理解できない内容だろうな。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/04 00:07 ID:Qfg1hvLM
昭和20年代は東京は杉並区の天沼に住んでいました。
中央線と西武線の中間くらいのところです。
家の裏手には未だ森や林や空き地がいっぱい。
4,5歳の頃は田んぼの中を流れる小川で
フナやザリガニがとれました。
今は、妙正寺川もコンクリで固められ
往時の面影はまるでありません。
今思うとあの頃の天沼は天国でした。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/04 13:23 ID:V31eupnX
>>23 あの頃はテレビもなく、ゲーム機もなかった。
子供たちは空き地やひろっぱで
ゴムボールの野球をやったり、騎馬戦したり
そんな時代でしたね。
今はそんな遊び場といったら公園くらい。
遊びもサッカーが多いんでは?
時代ととも多くのことが変わりました。
変わらないのは空を流れる雲くらいかも知れません。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/04 22:12 ID:qwTOHOCx
昭和20年代は美空ひばりも未だ少女時代。
わたしは大ファンで映画もよく見に行ったものです。
「りんご園の少女」が特に懐かしいです。
でも、大人になってからのひばりは初々しさがなくなり
すっかり嫌いに。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 21:01 ID:LIhRxG6q
小学校では体育の時間とか
普段の遊びでもドッジボールを
よくやりましたね。
私はあれが苦手で、すぐぶつけられて
外へ。で、なかなか中のヒトにボールを
当てられなくて運動神経のあるヒトが
羨ましかった。
今でも、ドッジボールをやってるんでしょうか?
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 00:30 ID:l4o//rhH
小学校4年生のときだから昭和29年に
七代目大谷友右衛門の大岡政談「白蝋の仮面」
という映画を見ました。
モノクロ映画でしたが実に面白かった。
見たヒト居ませんか?
七代目大谷友右衛門は今の中村雀右衛門で
その後映画界から歌舞伎界に戻り
人間国宝になりました。またあの映画を見てみたい。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 23:20 ID:G8TgjqyT
ディズニーの漫画映画が全盛だったのも20年代では?
「白雪姫」のカラーの美しさには魅せられました。
「ピノキオ」は先生に引率されて
通っていた小学校全体で見に行きました。
あの頃は文部省推薦映画がたくさんありましたよね。
今は文部科学省推薦映画なんてあるのかしら?
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/08 01:05 ID:uCEqFVuG
昭和20年代はまだ戦争の名残が
映画にもありましたね。
「原爆の子」という映画を両親と
見に行ったことがあります。
これも文部省推薦だったかな?
帰り道にあった喫茶店みたいな店で
大福を生まれて初めて食べました。
この世にこんなおいしいものがあるのか
と思いました。
金さえあれば何でも食べられる今の時代と比べると
夢のようです。
小さい頃はメンコやカルタをたくさんしました。
近所に住んでるちーちゃんに一度も勝つことができませんでした。
それがくやしくてくやしくて・・・
それがこの歳になりネットゲームでばったり再会。
オセロで再戦と意気込んで何度も試合を申し込むのですが相手にしてくれません。
ちーちゃんが相手してくれるまで夜な夜なネトゲです。
こんな私を誰かもらってください。
アホか。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/08 12:30 ID:ddqFparR
>>23,24
漏れは昭和24年生まれなんで、皆さんの中では小僧のような存在です。隣の6つ上のおにいちゃんや
8つ上の従兄弟なんかと同じ位でしょうか?
信じてもらえないかもしれませんが、0歳児の時の記憶がかすかにあります。1歳の時着物姿で写真に
撮られたことや、丁度2つ下の弟が生まれた時の記憶も鮮明に残っています。三島由紀夫の「仮面の
告白」に描かれた西日に当たる盥の記憶と言うのが恐ろしい程自分の記憶と重なります。タレントの
乙葉も生まれた時の記憶があると言ってました。学問的にも難産の子供に生まれた時の記憶が残る
場合が多いとか、誰にでも幼少時の記憶があるが、それを消してしまうようなメカニズムがあるやに
聞きました。
昭和20年代の思い出って、満1歳頃父親の懐に入れられて東京大森駅界隈迄散歩したことをよく覚えて
います。当時は車が少なく、当時はハッキリ実態が分らなかったんですが米軍車両が多かったような気が
します。近所の医者はマイ人力車で往診してましたし、その隣の材木屋は驢馬に荷車を曳かせてました。
あの頃よく父(実はアメリカ嫌いの関西人)から、「ほれ見てみ!ゼット機や」と上空を指されました。
飛行機雲とジェット機が見えましたが、この頃勃発した朝鮮戦争のことなど無論子供の私に分る筈があり
ません。後になって、
・あの形はF86(後退翼)の前のF80?(後退翼でない)
・風雲急を告げる朝鮮情勢に対応した米軍の動き
と理解した次第です。あの頃は商業的宣伝ピラなんかも空から降って来ました。
無論戦後ですから米軍の宣伝ビラではなくヘりから撒かれるチラシです。夢中で
拾ったもんです。
自宅は東京大井町ですが、周囲には畑がありました。これは戦争中の名残だったようです。
昭和30年代に次々と住宅になって行きました。大井町〜大森海岸は海苔の養殖が盛んで、
大森海岸では文字通り海水浴も出来ました。今では考えられませんけど...。
逗子にある伯父の家に行った時の光景や、母の同級生の家のある吉祥寺に井の頭線で行った
時、井の頭線沿線が今迄見てきた風景と全く異なる田園風景だったことにショックを受け
ました。線路も結構真っ直ぐ。都心の線路ってあんな真っ直ぐじゃないんで驚きました。
今じゃ井の頭線沿線って堂々たる高級住宅地ですよね?
あと、トレーラーバスってのがありましたね。家の近くは東京急行(TKK)。それに都バス
も走ってましたが、都バスのトレーラーバスは見た記憶がない。旧漢字-->新漢字に切り替
わっていた筈なのに「廻送車」なんて表記があり、バスと相撲関連の漢字は小学校に上がる
前に覚えました。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/08 22:13 ID:uS/GxJGg
>>32 トレーラーバスってありましたね。すっかり忘れてましたよ。
路面電車も、今は都内の一部地域しか走ってませんが
かつてはあちこちで走っていましたっけ。
中央線の電車も今は柿色のスチール製ですが、昔は
床は板張りでした。座席も木製。色は小豆色でしたね。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/09 22:23 ID:KsOpdi6m
>>30 こんな私を誰かもらってください。って
あなた女?歳は幾つ?
35 :
32:04/09/10 13:08 ID:r0MEdS6a
>>33 ええ、路面電車はあちこちに走ってました。トロリーバスもありましたよね?これは
都営だけですけど..。東京以外の都市は知りません。悪しからず!
「床は板張りでした。座席も木製。色は小豆色」:ええ、山手線、京浜東北線、も全部
これでした。中央線に101系が導入されたのは昭和33年の筈。東京オリンピックの時は、
中央線は100%101系になり、山手線は鶯色の103系(黄色い101系も残っていたかも?)、
総武線には黄色い101系が入りだしたものの半分は旧式。京浜東北線に水色の103系が導入
されるのは昭和40年でした。
鶴見線には1980年代、即ち昭和50年代後半迄旧式電車が走ってました。あの板張り:油が
塗ってあって転ぶと汚れる。
36 :
32(訂正):04/09/10 13:10 ID:r0MEdS6a
失礼!
×中央線に101系が導入されたのは
○中央線に90系が導入されたのは
【韓国】「韓国政府は科学者に責任転嫁」海外メディアが批判…ウラン濃縮実験[09/09]
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1094753334/ 韓国のウラン濃縮実験に対する海外メディアの批判が相次いでいる。
英ファイナンシャル・タイムズ(FT)紙は9日、「韓国、ウラン濃縮実験を
認めながらも外国メディア攻撃」という見出しの2面のトップ記事を通じ、
韓国のウラン濃縮実験への疑念を呈した。
政府は「外電がこの問題を誇張している」と説明したことがある。
FT紙は、オーストリア・ウィーンの外交筋の言葉を引用し、韓国政府が
「およそ80%までウランを濃縮した」と報告したがことがあるが、
(80%に及ばないという)今回の韓国政府の発表は前回の発表と相反していると報じた。
同紙はまた、国連安保理へ上程するかどうかは最終的な調査結果が
出なければ分からないとし、慎重な態度を取った後、北朝鮮による
核開発疑惑をめぐる交渉に与えかねない否定的な影響を指摘した。
米紙ボストン・グローブも、同日付けの社説で「韓国政府が政府系研究機関に
所属した科学者にすべての責任を転嫁することは信頼性に欠ける」と批判した。
この社説は、韓国の近隣国家は多額の費用がかかるレーザー技術を使ったことが
何を意味するか理解しているとし、核兵器開発プログラムを持っていないという
韓国政府の説明では不安を払拭させることができないと指摘している。
これとともに、北朝鮮の核開発疑惑をめぐる協議に及ぼしかねない否定的影響と、
北東アジアで起こりうる軍拡競争への懸念を表し、韓国政府が国際原子力機関(IAEA)の
調査に全面的に協力することと、関連科学者に対するインタビューを許可することなどを促した。
ソース:
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/09/09/20040909000085.html
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/10 23:03:26 ID:rMfBTBcr
あの頃はバナナが果物の王様で
食べるのは遠足に持っていくときくらい。
持って行く者もごく少数でしたね。
チョコレートは遠足には
必ず持って行きましたが
今のように豊富な種類はなく板チョコだけ。
今の子供には考えられないでしょうね。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 14:10:10 ID:ffpS93LK
>>38 そうそう。お袋から「昔は台湾バナナなんて安かったのに..」と懐かしがってました。
昭和40年頃からでしょうか?バナナが安い果物の代名詞みたいになっちゃったのは..。
でも今でもフィリピン産やエクアドル産のバナナより台湾産が一番旨いと思う。
因みに漏れは、遠足に持っていく菓子で一番好きだったのは「バナナ菓子」。多分記憶
している方も多いんではないでしょうか?
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 14:44:54 ID:Wh90NGMs
平川唯一先生がNHKげカムカムえぶりばでーの歌ではじまる会話教室
を一生懸命きいてました。Did you know it? Yes I knew it
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 17:49:52 ID:7k+tZAar
>>40 それはすごい。
私の耳にもカムカムエヴリヴァディーと
ラジオでやってるのが入ってきましたが
聞こうとして聞いてたわけではありませんでした。
相当のお歳ですね。70歳くらいですか?
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 18:35:20 ID:mS2+Wr07
>>35 大阪・京都にもトロリーバスが昭和40年代の中ごろまで走っていました。
関西ではJRの電車は国電(国鉄電車)とは呼ばないで、まだ省線電車と呼んでいました。
電車の色は暗い灰色の小豆色でした。
小豆色は阪急電車です。(現在でも同じ色で変わっていません。)
床が木で油引きの電車は、昭和40年代中ごろでも、南武線で走っていました。
冬の夜乗った時は隙間風が吹き込んで寒かったですね。
立川―川崎の所要時間は現在と変わりません。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 19:25:50 ID:lWLOC9Ns
おれは昭和25年うまれだから20年代というと29年で4歳だな
でもそれくらいの記憶って部分的にあるんだな
鹿児島の母の実家にその頃いて、農家だったから一緒に麦踏みとか
じゃがいも堀なんかもやって楽しい時期だった、ぜんまい式の蓄音機で
おとみさんなんか、のっぱらで母の兄弟なんかが聞いてたのを覚えてる
すぐそばに、お婆さんが一人で住んでてある日、粟に味噌汁(ほとんど汁だけ)
をかけたご飯を食べさせてもらったことがある、高校生の頃祖母の葬式で行ったとき
そのこと言ったら、そんなもん食べてるわけないだろってみんなに言われた
その時はそのお婆さんももういなくて、家も無くなってたけど、子供がみんな戦死しちゃって
一人暮らしだったらしい、 でも実際にそんなもん食べてるわけないだろうという
生活をしてたわけで、お国に子供をみんな取られて、ひとりそうゆう苦しい生活を
していたとしたら、そんなんでいいのかなあって思ったな、
でもその時食べさせてもらった粟の汁掛け飯、すごくうまかったのを覚えてる
おれ、いつも腹すかしていたからね。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/11 23:43:02 ID:lyVlmioX
昭和20年代といえば、今では無くなった遊びもいろいろ。
日光写真なんて覚えている人いますかね。
ガラス板をつけた名刺大かそれより少し大きい
厚さ2cmくらいの箱のガラス板の下に
ネガと露光紙をセットして、日光にさらしておく。
すると写真が出来上がる。
今思うと他愛ない遊びですが子供には面白かったもんです。
今では遠い昔の思い出になってしまった。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/12 09:55:41 ID:mxHg1TXJ
伊藤彦造画伯がなくなりましたね。
その挿絵を見た雑誌名も
何という小説の挿絵だったかも
覚えてませんが、その独特のタッチは
記憶に強く残っています。
ご冥福をお祈りします。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/12 12:17:03 ID:NALcqo0f
今、結構ちゃぶ台が人気みたいですね。
おかげで、昔はちゃぶ台でご飯食べてたのを
思い出しました。
ちゃぶ台から椅子に座ってテーブルで
食事するようになったのは
昭和30年代でしたでしょうか。
今思うと、狭い日本の家屋には
折りたためるちゃぶ台は便利な家具ですね。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/12 21:01:50 ID:ZjbHBjy6
>>4 来宮良子のナレーション「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」は
今でも覚えています。でも真知子の声優は誰だったか忘れてしまいました。
名前を覚えておられる方がいらしたら教えてください。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/13 11:42:36 ID:eIFeBtj8
B-29と、グラマン、見たのは20年代だったかな。
49 :
35:04/09/13 14:56:07 ID:81pjdufN
>>42 漏れは東京ですが親父は関西人で、確かに「省線」って呼んでましたね。
昔の「阪急電車」も乗りましたよ。親父に芦屋に住む偉いさんの家に行く時です。
>>44 昭和30年代にもありましたね。印画紙に時代劇の人気スターのネガみたいのを重ねて陽に晒す
んでしょ?よくやりました。
>>45 伊藤彦造画伯:あの絵凄かったですね。昭和30年代初め8つ違いの従兄弟に絵を描くための
マニュアルのようなものをもらったんですが、伊藤彦造画伯の武者絵があり、あまりの見事
さに感心しました。子供の頃の乗り物絵本の挿絵画家としては「安井小弥太」画伯が印象に
残っています。最近本屋で昔の乗り物絵本のダイジェスト版のようなものを見つけました。
その中に懐かしい安井小弥太画伯の挿絵があるじゃないですか..。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/13 23:42:16 ID:Jv1hrrcf
私が幼稚園の頃ですから
昭和23年頃でしょうか
帰り道、二葉あき子の水色のハンカチが
よく家々の中から聞こえてきました。
子供心にセンチな気分になったものです。
NHKの昼の歌謡で、お昼時なので
みんなラジオを点けてたんでしょうね。
あのころは民放は幾つあったのかしら?
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 22:27:36 ID:YN6+HsBG
>>49 私は東京育ちですが、東京でも省線とか省線電車とか呼んでました。
国電とかも言ってました。今でも何で省線と呼んだのか
分かりません。どういう意味だろう?
うちのほうでは国鉄の電車など見たこともなかった。
市内電車はあったが。
国電も省電も無縁。
そういえばサザエさんに出てくる納豆も同じく物語の
中の存在に過ぎなかった。実物を初めて見たのは高校
生の頃だったかな。
53 :
49:04/09/15 08:58:49 ID:urXfAErG
>>51 外出だと思うが、「鉄道省」管轄だったから「省線」と呼んでいたらしいです。
54 :
老人会長:04/09/15 10:02:45 ID:o1jLZin5
戦前から省線と言ってましたから、国電になったときは違和感があって
変な気分でした。
20年代はまだまだSL全盛で新宿駅あたりでも
SLに牽引された貨物列車が走り、係員が紅白2本の旗で、機関手
に合図をしていました
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/15 23:51:07 ID:WdWwY+qq
昭和20年代の東京の中央線の駅は
新宿駅から西は未だ木造でした。
階段もホームも板張り。
鉄筋コンクリート造になった
今の駅舎からは考えられませんね。
ホームから階段を上がって改札口を出ると
十代の性典なんて映画のポスターが
貼ってあったりして子供には刺激が強くて
心臓がドキドキしたものです。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/16 22:17:27 ID:IYqOZJYd
>>51 中央線や山手線が「国電」と呼ばれるようになるはるか以前、
首都圏・京阪神の国鉄線を走る通勤型電車は「省線電車」と呼ばれていた。
運輸(鉄道)省に在籍する電車という意味だ。
リベットだらけの無骨な茶色い車体。唸るような釣り掛けモーターのサウンド。
戦争を乗りこえて生き残った車輌も多い。
戦後、GHQの指令により公共企業体「日本国有鉄道」が発足し、
更にカラフルな新性能通勤型電車モハ90形(のちの101系)が登場すると、
彼らはいつしか「旧型国電」と呼ばれるようになった。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/17 15:22:35 ID:sPGa2N1a
東京の国電から小豆色の電車が無くなった後も、地下鉄銀座線浅草寄り2両目の電車がリベット
だらけの車輌だった。あれって何時頃の製造で正式に引退したのは何時か知りませんか?
漏れは、あの車輌が好きで意図的に浅草寄り2両目に乗ってました。多分1980年代半ば迄はあった
と思うんだが..。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/18 08:44:26 ID:9PDCXeZ0
私は小学校のころよく人攫いに、つれていかれてサーカスに売られると
言われて、山道を歩くのが怖かった思い出があります。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/18 20:21:30 ID:1TrcLOK0
私も小学校のころよく人攫いに、つれていかれてキタチョンに売られると
言われて、海岸を歩くのが怖かった思い出があります。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/18 23:22:05 ID:02uM7zop
昭和20年代は人攫いがいて、
攫われた子供はサーカスに売られる
というのが一般的でしたね。
あれはホントだったんでしょうか?
なかにはそういうケースもあったんですかね?
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/19 00:22:45 ID:LqZ7rT3g
人攫いあったね。「生き胆を抜かれる」だなんて猟奇的な話だった。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/19 11:35:03 ID:VvJaaZQk
昭和20年代前半、私が4,5歳のとき
東京都心から電車で20分くらいの街のバス通りで
木炭自動車を見ました。
車の後部の煙突から煙を吐きながら
走って行きました。
あの頃は車も殆ど走っておらず
珍しくて今もその光景は忘れられません。
当時子供の目にはその道路の幅は20mくらい
あるように見えましたが
大人になってみると6,7m
子供の目線と大人の目線は違うもんです。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/19 19:22:08 ID:a3jUHzg+
>>62 昭和30年代初め頃まで木炭車は走ってましたね?車の後部にボイラ室のようなのがあって
そこから煙突が出ている。
あの頃って、エンストが日常茶飯事でした。あちこちで車のボンネットを開けてました。
今じゃエンストなんて言葉自体死語に近いし、ボンネットを開けるなんて滅多にないこと
です。
64 :
62:04/09/19 21:47:23 ID:32riwL2e
>>63 木炭自動車昭和30年代初めまで走ってたんですか?
私が見たのは4,5歳のとき一度だけと記憶してます。
エンストなんて言葉ありましたねー。
ボンネット開けてる光景はよく見かけたもんです。
自動車持ってる家は極わずかでしたが。
65 :
63:04/09/20 10:43:35 ID:pq1E2GNY
>>64 はい。数は少ないですが、昭和30年代に入っても木炭車走ってました。他の車と外見が違う
んで、親父かお袋に聞いたんだと思います。無論最初に理解したのは昭和20年代後半です。
昭和24年生まれなんで20年代前半は実質記憶がありません。0歳児〜1歳児の頃の記憶は
かすかにあります。
64さんは私より大分先輩とお見受けします。上の従兄弟連中と同年輩のようですね。
自動車なんて持ってる家は確かに極一部。近所の材木屋ですら驢馬に荷車曳かせて
ました。近所で自家用車持ってたのは資生堂の重役さんの家だけでした。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :04/09/20 13:51:04 ID:icAGsPrV
>>23 私も天沼に住んでいました。
畑の肥え溜に落ちたヤツもいたりして、ホントに田舎でした。
ガラの悪い木造おんぼろ校舎の中学に通っていました。
もっとも中学生のときは20年代ではありませんでしたが。
最寄り駅は荻窪です。
荻窪駅の南から新宿まで都電が走っていました。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :04/09/20 13:53:40 ID:XXZlqYG3
>>23 私も天沼に住んでいました。
畑の肥え溜に落ちたヤツもいたりして、ホントに田舎でした。
ガラの悪い木造おんぼろ校舎の中学に通っていました。
もっとも中学生のときは20年代ではありませんでしたが。
最寄り駅は荻窪です。
荻窪駅の南から新宿まで都電が走っていました。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 00:46:02 ID:wtoIiCUF
>>66 私の家の最寄り駅は下井草でしたが
荻窪にも出られました。
ご近所だったみたいですね。
当時ガラが悪いと評判だったのは天沼中学でしたが
通われたのは天沼中学ですか?
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 02:09:18 ID:iv6uI4h6
木炭自動車を見たのは、昭和23年頃。
毎朝幼稚園に登園中に見ていました。
幼稚園の隣の運送屋さんです。
火を焚いてトラックを動かす準備をしていました。
それが木炭自動車と知ったのは後のことでした。
運送屋の向かいが豆炭練炭タドンを作っている工場だったので、
練炭かタドンで自動車が動いているのだと思っていました。
昭和26年その運送屋さんのトラックで引越しをしましたが、
その時にはガソリン車になっていました。
僕は助手席に乗って70kmのトラックの旅をした事を覚えています。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 21:06:31 ID:3qBkd99t
>>68 アマチュウです。
2年前に調布の小学校の教頭と会食をしたときに出身中学を言ったところ
教頭は腹を抱えて笑っていました。調布まで有名になっているのには驚きました。
杉並区ではアマチュウよりもアサチュウの方がガラが悪いと思っていたのですが。
今はどうなんでしょうか。杉並から離れて数十年。
荒れる学校も変わったのでしょうか。
天沼の近く(清水)に文豪の井伏鱒二が住んでいました。その前の家が大山康晴将棋名人宅。
井伏鱒二の「荻窪風土記」を読むと昭和の始めのころの高円寺、阿佐ヶ谷、
荻窪の様子が描かれています。
あまりにも20年代、30年代と違う環境ですので実感が湧きません。
でも、子供のときに近所にあった店や医者の事が書かれていて、幼いころを思い出した
しだいです。
この本は文庫本ですので、今でも売られています。
「荻窪風土記」は中央線沿線の文士の世界を紹介していますが、
今では文士は死語ですね。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 22:15:19 ID:b/1KVwMs
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/21 23:25:17 ID:iUYw2PJe
>>67 あの当時は私立は知りませんが
公立の小学校、中学校はみんな木造でしたね。
木造モルタルか板張りにタールか何か塗ってました。
でもコンクリート造の校舎より温もりがあったような気がします。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 08:52:18 ID:3r5g1Aky
私が小学校2年生のとき歩いて10分くらいのところに
貸し本屋ができました。
広さは2坪ほどだったでしょうか?
40歳くらいのおばさんがやってました。
母から5円もらって借りに行きました。
一冊5円は今のお金に直すと50円くらいだったんでしょうか?
おばさんはいつも和装でした。
戦争未亡人ではなかったかと勝手に思っています。
当時はマンガ本なんてなくて小説ばかりでしたが
今思うと小学2年でよく小説なんてよみまくったものだと感心します。
娯楽がなかった証拠ですかね?
今では貸し本屋なんてありませんよね?
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 20:19:27 ID:+qXFAMF4
昭和20年代のスターの一人に石浜明が居ました。
彼の出演する青春映画をよく観に行ったものです。
彼のような青年が当時の若者のモデル的存在でしたが
今はワイルドな若者に人気があるようですね。
そういう点に時代の差をつくづく感じます。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい:04/09/23 21:33:46 ID:jjfcDLfK
私は団塊の世代ですから20年代は断片的に覚えている程度です。
でも、石浜明は覚えています。
何故、覚えているのか分かりません。
母に連れられて映画を見にいきました。
その映画はエリザベステーラーが主演でした。
しかもカラー映画でした。
ホントに美人だと当時は思いました。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 22:27:01 ID:ZyUJbnbl
東京の世田谷出身ですが、子供の頃山手線は誰もが「やまてせん」でした。
それが名称決めで「やまのてせん」になったとき、「そんな電車知らねえよ」、
と思いましたが、皆さんは当時どちらで呼んでいましたでしょうか?
>>76 私は今まで「やまてせん」と呼んできました。
「やまのてせん」という人もいましたが
そういう呼び方もあるかと思っていた程度です。
「やまのてせん」が正式呼称だとはしりませんでした。
>>75 リズは「ジャイアンツ」(1956) 「愛情の花咲く樹」(1957) の頃が
かわいらしさも残っていてきれいでしたね。
「熱いトタン屋根の猫」(1958) あたりから妖艶になり
「クレオパトラ」(1963) あたりではトウがたってきた感じでした。
今ではぶくぶく。変われば変わるものです。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/24 10:08:42 ID:bfw7bUVv
>>76 もともとヤマノテセンですが戦後進駐軍が入ってきてローマ字で行先表示を
YAMATELINEといれたあたりからヤマテセンとなったようです。
東京の人は土地柄を山の手に住んでいるとは言っても
山手に住んでいるとは言いませんでした。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/24 16:15:52 ID:tmHGo050
>>79 山手線の読み方の変遷(復古)は、ロシアのぺテルスブルグと似てますね。
・ぺテルスブルグ(ピヨトル大帝の名を記念し、欧風の名に)
・ペトログラード(対独戦争で独逸風の名前が露西亜風に改められた)
・レニングラード(露西亜革命のレーニンを記念して)
・ぺテルスブルグ(復古)
>>79 なるほど、下町に対する山の手からとった名前なんだ。
今まで気づかなかった。簡単なことなのに。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/25 13:17:55 ID:Bkk4No56
>>75 木村功という俳優は覚えてますか?
特別美男というわけではなかったけれど
「真空地帯」「雲流るる果てに」など
戦中、戦後の青年像を演じる俳優では彼ほど
独特の魅力を持った俳優はいなかったと思います。
木村功が亡くなったのは数年前のような気がするのですが
もう20年以上になります。
時の流れの速さを改めて感じます。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/25 21:49:27 ID:WeF/0hE3
>>82 もう20年経つのですか? 私は「七人の侍」「雪国」をよく覚えています。
奥さんが書いた「功さん大好き」(ちょっと題名間違ってるかも)も読みました。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/25 23:47:54 ID:5KA1lQyn
富山の薬売りが来て紙風船貰ったこと、縁の下で飼っていた鶏の卵で
カバヤキャラメルを買い、図書券を集めてカバヤ文庫を買ったこと。
思い出すと鼻の中からツンと甘酸っぱい匂いがする。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/26 00:44:51 ID:D62Z+YZI
>>84 カバヤキャラメル、あったなー。
昭和20年代後半でしたよね。
箱というかパッケージの中に券が入っていて
集めるとカバヤ文庫が貰えるんでしたね。
私も貰ったけど漫画だったか小説だったか
どんな本だったかさっぱり覚えてない。
貰えたのは本だけでしたっけ?
86 :
60歳:04/09/27 00:50:15 ID:V0lhvLOv
>>76>>77>>79>>80 昭和38年大学受験で東京に来た時、
「やまてせん」と漢字通りに読んで云ったら、
「やまのてせん」と間違いを直してもらいました。
その時、12年前の昭和26年に東京に遊びに来た時、
「やまのてせん」と云っていたのを聞いた記憶を思い出しました。
「やまのてせん」の呼び方は戦前から変わったことはありません。
>>76さんのご両親、ご近所の方々は昭和30年代以降に東京に来られた方で、
「やまてせん」が間違いであること知らない方々ではないでしょうか?
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 07:26:27 ID:61eQiq0Y
>>86 私の両親は戦前に地方から上京、
私は戦中から東京(一時茨城に疎開)ですが
両親は山手線と呼んでいたように思う。
山手線は読めばやまてせん、やまのてせんなら
山の手線ですよね。表記が悪い。
まあ、たいした問題じゃないが。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 23:02:02 ID:ZznaGsb/
>>84 >>85 カバヤキャラメルって潰れたのかと思っていたら
未だあるみたいですね。
数年前、出張で行った岡山の付近で車窓から
カバヤの看板掲げたビルが見えました。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 23:27:01 ID:RpTsKUpZ
85 表紙の厚い絵入りの小説でした。
確か、その本だけと思っています。風呂を沸かすとき、まきをくべて、
芋や、とうもろこしを焼きながら、カバヤ文庫を読んでました。
口の周りは真っ黒。ちなみに私は九州の真ん中付近の田舎でした。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/28 11:32:01 ID:j4acBn38
>>88 カバヤは絶対に潰れません。
なぜかって、あれは池田家、殿様の経営で嫁はんが、昭和天皇様の妹
子供の時専用列車でお輿になって、旗をもって行ったもんだよ。
生きてんかなー、ひ弱そうなお方だったが、、、、
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/28 23:20:23 ID:mwsgCfnQ
>>90 その、やんごとなきお方の経営するカバヤキャラメルはどこへ行けば買えますか?
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/29 13:23:57 ID:jiRZbm4j
>>91 判らん。 お国(岡山)を捨てゝ、流転し60年。
親戚・知る人も無く、もう20数年、帰った事はありません。
アア涙が出て来た。
93 :
えんぴつ:04/09/29 20:47:15 ID:dUJUtFF1
大阪在住,概ね40歳以上の女性の方で、非常に生活に困窮してるか、
又は家庭内で差し迫ったトラブルを抱えていて、一人で生きていくには
困難と思われる女性を、精神的、経済的余裕のある男性が擁護する為
の会です。
Yahoo以外の検索エンジンで「大阪熟女擁護の会」と入力すれば
出てきます。男性が欲しい方、女性が欲しい方、是非私のHP
にきてね。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/30 02:17:26 ID:XXEgjRe/
>>92 私も同じ境遇、ぎりぎりのところで生きています。
カバヤキャラメルでも食べて頑張りましょう。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/01 00:19:16 ID:pV+7A+8R
kya
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/01 19:21:48 ID:oi5y29YV
野球豚よ、ガキはサッカーや水泳に興味があるようだよ。若者の視聴率は1.1%。後継者不足だね。藁。ストで国民全体が野球の味方だと思うな、ボケ。野球中継が潰れるから(延長がない)ストやれとかあるんだよ。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/01 22:09:20 ID:YZxjNHrf
>>53 松本清張の初期の短編等によく省線電車という言葉が出てきて
長年疑問に思いながら読み過ごしておりましたがこのスレで
蒙が晴れました
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/01 22:27:36 ID:eeeGC/Jo
>>98 東京では「省線電車」などという野暮ったいのは聞いたことありません、
「省線」です。
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/02 00:04:28 ID:KGedIM17
>>99 そんなことはありません。
私も東京に住んで60年近くになるが
国鉄、国電、両方言うように
省線、省線電車両方ありました。
省線は鉄道の線のこと、省線電車は車両のことでしょう。
昭和20年代は未だ生け垣が多く
東京の郊外には緑がいっぱいでした。
昭和30年代になるとそこここの
住宅の塀がブロック塀になって行き
景観が悪くなり出しました。
美観を損なう上、地震発生時に
危険なあのブロック塀は
なんとかならないものでしょうか?
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/04 22:03:54 ID:2ZCSYqIZ
昭和20年代の東京ではよく雪が降りました。
小さかった私は冬は雪がふるものとばかり思っていました。
ところが昭和30年代に入ってから降雪は減って
今では冬に雪が積もるのは一、二回ではないでしょうか?
それに20年代は雪景色が実に美しく感じられましたが
今の雪景色はあまり美しく感じないのは
私が歳を取ったせい?
103 :
99:04/10/04 23:35:51 ID:NxX7lzRe
>>100 鉄道辞典じゃないからな。
省線で社会通念上、路線、車両両方表すよ。
60年も東京のどこにいたの。東京もど田舎あるからね、練馬あたり。
うちは隼町に3代だけど。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/05 10:28:56 ID:5xcl/mFk
支那、木炭 前面的 輸出禁止。
木炭作ったことがある。
支那と石原 慎太郎が言うが懐かしい呼び方。
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/05 21:08:21 ID:8HQ/lpnj
>>103 うちは杉並区の荻窪
中央線、西武線といったら路線のこと
車両は中央線の電車とかいうがなあ。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/06 22:15:13 ID:6aceo1xy
私は昭和20年代というと上海帰りのリルを思い出します。
あのころ、よくラジオからこの歌が聞こえてきました。
未だ小さかったけど黒いドレスを着たリルを
思い浮かべたものです。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/06 23:26:35 ID:vS4Tq44K
>>106 リアルタイムでは知りませんが
『上海帰りのリル』と言うと松本清張氏の『白い闇』を思い出します。
上海帰りのリルをよく歌っていた妹が失踪するという話ですが
松本氏の小説にはよく省線が出てきますね。
昭和20年代の風俗雰囲気をもっともよく伝えているのは
氏の小説ではないでしょうか
108 :
名無しさん@お腹いっぱい:04/10/08 22:14:01 ID:eL6RJnWa
『上海帰りのリル』は時々、カラオケで歌います。
なぜか覚えています。
そして中国人と一緒の時は『夜来香』を歌います。
あまり抵抗がないようだ。
文化大革命の時代だったら「反動」、「軍国主義者」と非難されていたでしょう。
でも、この歌は昭和10年代ですね。
私は20年代前半に生まれた」、いわゆる団塊の世代です。
20年代の記憶では時代劇の宮本武蔵の映画(だと思う)がカラーだったいう
ことです。たぶん三船敏郎が武蔵だったのではないかな。
間違っているかもしれませんので、実際はどうだったんでしょうか。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/08 22:41:37 ID:IE4jjo6j
私は昭和19年生まれ。
私がみた宮本武蔵はモノクロでした。
俳優は三船敏郎だったような気もするが違う俳優だった気もする。
覚えているのは、武蔵が飯屋で箸で飛んでるハエをつまむのに驚いて
喧嘩を売った浪人が逃げ出した場面だけ。
>>108 私も中国に仕事に行くとカラオケでは『夜来香』を歌います。
『蘇州夜曲』より人気がありますよね。
中国の人も50代以上はみんな歌えるんじゃないですかね。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/11 11:23:22 ID:/Gb1aice
20年代は未だ傷痍軍人が街頭でハーモニカやアコーディオンを弾いて
通りすがりの通行人から喜捨を求めてましたね。
あの人たちも、もうみんな亡くなったんでしょうか?
国が戦争に駆り立て不具にして面倒もみない
これは今も変わらぬ国家の構造ですね。
腹の立つことです。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/11 12:27:10 ID:O4g34VTj
>>111 いやー40年代でもやってましたよ傷痍軍人の喜捨
池袋の昔の丸物と西武の境目あたりに2人組でいつもいた。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/12 01:07:41 ID:7NUS2pWu
>>112 戦中に20代で応召、帰還してたら
昭和40年代には未だ40代
ありえますね。
でも喜捨でしか生活できないんだとしたら気の毒。
もっとも、今は小泉のせいで傷痍軍人でなくても
餓死するヒトがいっぱい。北朝鮮のこといえない。
どこに餓死する人がいっぱいいるんだ。
いいかげんなことを言うな。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/12 22:38:54 ID:on8+5n34
餓死しなくても死に体の人はいっぱいいるよ。
物理的に死ななくても死んだも同然。
そうゆう私もその仲間。生かさず殺さずってとこかな。
これからはますます貧富の差が激しくなると思うが、
なんといっても弱者切り捨てだからなぁ。
30ヶ月連続で経済成長しているそうで、
神武景気と並ぶそうだとさ。笑っちゃうよ。
>>114 テレビのニュース見たり、新聞読んだりしてないんじゃ?
新聞、TVに出ない事件も多いけどね。
それも分からない狭い世界に生きてる人間も多い。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/13 23:14:43 ID:+AeeH8YC
>>116 新聞やTVのニュースに出る事件は氷山の一角。
世の中、ヒトに知れない猟奇事件とか多いんだよね。
新潟の少女監禁事件も9年2ヶ月知れなかった。
この事件は偶然解決したが、少女が行方不明になった事件は多い。
新潟の事件みたいに監禁されたまま死んでしまったケースが
多いんじゃないだろうか?
だから、
どこに餓死する人がいっぱいいるんだ。
いいかげんなことを言うな。
世相が社会不安の方向に向かっていることは
わかっているが、デタラメはいかん。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/13 23:42:29 ID:ytH5vAF5
>>118 いっぱいというのは何人以上ならいっぱいなの?
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/14 00:08:38 ID:ptH8sOXO
. ____________
_ | 還暦自作自演王国 炎上中|
`)) | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ジ
´ ( ) ∧ ジ ャ
( ) <⌒> (⌒ ⌒) ャ |
ウーウー.( .人 /⌒\ \( ,, ⌒)// | ン
人/ ヽ ______]皿皿[-∧( ⌒ ,, ,, ) ン !!
( ( )( ) )三三三∧_/\_|,,|「|,,,! ( ,, ) !!
__| ̄田 ̄田 / ̄ ̄Π . ∩ |'|「|'''|「 ( )
/__,|==/\=ハ, ̄ ̄|「|ガシャーン |「| | * +
/_| ロ ロ 「 ̄ ̄ ̄ | | 田 |「|箔c 田 |「|[[ *
|ll.|ロ ロ,/| l⌒l.l⌒l.| | |「| |「|ミミミミミミ ++*:
λワー∧ λワー λワー λワー
.λワー | | λワー λワー λワー
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/14 11:33:33 ID:K+goxlM5
アホが来た。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/17 10:26:40 ID:QJoifoLr
最近のカレーはみんな焦げ茶色ですね。
昭和20年代の家庭のカレーは黄色掛かってました。
あの頃は家で母が作ってくれた黄色いカレーより
レストランの焦げ茶色のカレーがおいしそうに見えたものですが、
最近はあの黄色いカレーが無性に食べたい。
あの味が懐かしい。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/17 12:12:56 ID:7SVG9pZj
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/18 00:07:17 ID:eiWnCVsc
ゴジラ映画の第一号を観たのは小学校1,2年生のとき。
その次のゴジラの逆襲も面白かった。
あの頃のゴジラ、特に第1号は凄みがあった。
後のカラー時代のゴジラは凄みが感じられないし
話も面白くないと思うのは、感受性が鈍ったから?
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/18 17:06:57 ID:WGq4bHED
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/18 22:49:55 ID:ZYgC99Fr
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
昨日の朝日新聞土曜版beに「なぜ景気回復しても自殺が減らないか」という記事が載ってました。
「生活苦」による自殺は13.1%も増え、1321件に達した。
職を失った人が徐々に困窮し、統計上「失業」ではなく「生活苦」の自殺となる流れがうかがえる。
とあります。
生活苦の自殺は餓死する前に自ら死を選ぶ人たちで、餓死と同視していいのでは?
>>118はこういう現状もしらない裕福な人なんでしょう。羨ましい人だ。