1 :
バイキチ:
「40代板開設記念」
40年以上生きていれば、
誰もが知っているあの歴史的瞬間に立ち会った諸兄や
事件事故の目撃談、有名人との遭遇や裏話など
数多くの体験談をお持ちかと思います。
そんな私たちの身近にあったB級昭和史を
ここに書きとめておきましょう。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/15 23:37 ID:v6t+Xg1X
2
3 :
バイキチ:03/10/15 23:39 ID:8sdJ3R8l
先ずは私から、少年時代のちょっといい話。
当時、私が住んでいたのは、東京の郊外武蔵野といわれる辺りでした。
比較的近くに早稲田実業のグラウンドがあり、
当時の3番バッター王貞治選手も高校時代、そこで練習していたそうです。
練習帰りには近所の駄菓子屋によったり、お菓子屋をはしごしていたと言う話は有名でした。
そんなある日、自転車遊撃隊の友人から「王選手が来てる」という情報が入りました。
王選手が、高校時代よく通っていた駄菓子屋のおばあちゃんの葬式に来ているというのです。
私達は必死で自転車を走らせました。しかし残念ながら場所を特定できませんでした。
実際現場に行った友人からの後日談では、間違いなくあの大スターは当時の忙しいスケジュールの合間を縫って
駄菓子屋のおばあちゃんに最後の別れを告げに来ていたそうでした。
私は少女の頃広島市中心部に住んでいました。
通学路の途中に「パチンコ新幹線」というパチンコ屋がありました。
そこは当時のビッグアイドル、西城秀樹のお父さんがやってるお店でした。
店の前にはヒデキの大きなポスターが何枚も貼ってありました。
私達女の子はその店の前を通っては、「かっこいいね」と言ったものです。
ある日、父が「パチンコ新幹線」に行くので、ついて行きました。
パチンコを打ってる父を待って店の前にいると、
おじさんが出てきて、「これをあげよう」と言って、
西城秀樹ファンクラブの新聞を私にくれました。
あのおじさんは、ヒデキのお父さんだったのだと思います。
5 :
バイキチ:03/10/16 09:45 ID:ESYN0JNa
>>4 ほのぼのしたお話をありがとう。
パチンコ新幹線はヒデキのおかげで儲かった事でしょう。今もあるんですか?
それにしてもパチンコ新幹線って・・
ちょうど山陽新幹線が岡山から博多まで開通した頃でしょうか?
何にも知らなければただのおじさんなのに、
ヒデキのお父さんとなると話は別。さぞかしカンゲキされたことでしょう。
6 :
バイキチ:03/10/16 15:47 ID:qFAOM4Cx
【1969年1月2日天皇陛下パチンコ玉襲撃事件 現場遭遇】
この年の正月は田舎から祖父母が上京して来ていました。
祖父は1901年生まれの昭和天皇と同い年の元軍人でしたので、
死ぬまでに、ひと目天皇陛下にお目にかかりたいとよく言っていました。
そこで、正月恒例の皇居で開かれる一般参賀に出かけたのです。
多くの人たちが日の丸の小旗を振り、「天皇陛下バンザ〜イ」と叫ぶ光景を
私は父の肩車で見ていました。
まだその頃は今のように砲弾ガラスはなく、天皇一家と一般参賀の間には、
これといった隔たりは設けられていませんでした。
そのうち前の方で土煙が立ちなにやら怒号のようなものが聞こえ、
辺りの警護警官の動きもあわただしくなってきました。
ただならぬ空気に何かあったんだろうと言うものの、その時は分からぬままでした。
帰宅後のニュースで、それが天皇陛下に向けて
パチンコでパチンコの玉を撃った男の逮捕劇だったことを知りました。
そして更に後世「ゆきゆきて神軍」というドキュメンタリー映画の主人公
奥崎謙三こそがその襲撃犯であるという事を知り、僅かながらのショックを受けました。
7 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/16 17:08 ID:/Bra7y4H
歴史的瞬間、目撃談ではないかもなんですが、ひとつ披露します。
私が通っていた高校は、千葉県なのに「東京ナントカ」という、ネズミが象徴の
世界的テーマパークになっている場所のすぐ近所でした。25年程前の事ですから、
当然その施設は建設前です。ご存知のように、あの辺は海が近く、当時はもっと
埋立て範囲が狭く、より海に近いため、釣りのスポットが点在してました。
そんなわけで、高校の友人らと、夜釣りに行こうということになった時の話です。
その時我々が目指したスポットは、かのテーマパークの先に位置してました。
行く時はまだ元気がありましたので、建設予定地のフェンス沿いに、迂回する形で
スポットへたどり着きました。一晩釣りしまして(釣果ほとんど無し^^;)、明け方、
帰路についたわけですが、多少疲れていた我々は、行きの迂回コースを取るのが
面倒になり、建設予定地のフェンスを乗り越え、ショートカットコースをとる事に
しました(不法侵入^^;)。で、最初はよかったのですが、中心部に近づくにつれ、
地面は泥地と化し、やがては沼になり、一番ひどいところでは、膝まで埋まる
ゆるゆるの沼地でした。ひょっとして底なし沼になるのでは、という恐怖心もありましたが、
ここまで来て引き返すのもイヤなので、とにかく前進しました。やがて、沼地をぬけ、
終点のフェンスにたどり着きましたが、足は泥まみれです。休日だった高校に忍び込み、
足を洗って、それぞれ帰宅の途につきました。
いまでこそ、華やかな一大テーマパークですが、その前は、恐るべき沼地だった事を
私は忘れません。
8 :
バイキチ:03/10/16 17:35 ID:qFAOM4Cx
>>7 それは貴重な体験談です。
そんな立地条件下にあったのなら、
「底なし沼」という体験型アトラクションも造っとけば面白かったですね。
帰りの京葉線、東西線、大迷惑。。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/16 23:08 ID:faE2ScL5
近所の公園にウルトラ警備隊が来た。
肝心のウルトラマンは現われずがっかりした。
10 :
恋をいたしましょう♪:03/10/16 23:43 ID:mUbFf0YM
>>5 「パチンコ新幹線」があったのは、
山陽新幹線が岡山から博多まで開通するより少し前のことでした。
こども心にですが、そんなに繁盛している店ではなかったように思います。
私が住んでいたところは広島市の中心部とはいえ、
落ち着いたかんじの住宅地でしたから立地条件もあまりよくなかったです。
その後どうなったのか、今ふと思い出したんですが、
火事になって、閉店したような・・・
気になって検索してみたんですが真相は見つかりませんでした。
ヒデキのお父さんも4年位前に他界されたみたいだし・・・
11 :
巽:03/10/17 00:27 ID:xK6yPoJ+
ピンクレディーがアメリカで勝負するんで日本芸能界を去る引退興行?がオラが田舎にも来ました。
会場は文化センターで平日でした。
通学路に当たっていたので下校時に前を通ると、タダ券配ってました。
集客力の無くなったアイドルスターはアメリカでも…(涙
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/17 00:33 ID:z1/MKN12
横浜です。
横浜駅の西口と東口を結ぶ地下道を歩いていると、白い着物を着た人達が
いっぱいいてアコーディオンやバイオリンを弾いたりしていました。
じっと見ようとすると母に「見ちゃいけません!」と言って腕を引っ張られた。
あとで知ったけど、みんな戦争で手足を無くして古事記をしていたらしい。
本牧の米軍住宅は緑の芝生が青々していて夢のようにきれいだった。
すごい時代だな・・終戦直後とかわらないじゃん、って知らないけど。
米軍住宅は今見るとしょぼくて、エルム街の悪夢で出てきそうな感じ。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/17 00:38 ID:/u5JHV9S
>>12 沖縄でも同じ光景がみられました。
あの白い着物の人達は何処へいったのか・・
14 :
バイキチ:03/10/17 10:54 ID:qOwXEZzO
>>9 場所はどこでしたか?
>>10 そういえば当時のパチンコ屋は今みたいな大型店ではなくて、こじんまりしてましたよね。
手打ちの時代ですよね。
>>11 私、それは勘違いしていました。ピンクレディーはアメリカ進出のあと人気が落ちたのではなく、
すでに日本で落ち目になってからのアメリカ進出だったんですか?
フィンガーファイブも似たような事やりましたよね。
>>12 >>13 街角で寄付を募る傷痍兵を見かけなくなったのは別スレでも話題になっていましたが、
昭和50年代前半でしょうか?偽者の傷痍兵が出てきたりして社会問題になりましたね。
12さん、横浜と言えば伝説の娼婦メリーさん、見たことありますか?
15 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/17 11:18 ID:8XiAa3CP
>>12 傷痍軍人ですね。なにかしらの事情で、恩給欠格になった人達です。
東京だと、上野・浅草で見ることが多かったです。
>>13 >あの白い着物の人達は何処へいったのか・・
お年ですので、あの世へあぼんされた事と思います。
もう生存してる傷痍軍人はいないでしょう。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/17 12:27 ID:VE9Z6teo
そう言えば社会鍋は信用して良いから寄付しましょうと
中学校の先生に言われたことがあったっけ
40代は戦争は知らないけど戦争の傷跡を知ってる世代だってことを
今初めて自覚した
>>16 イラクへ行けば今でも戦争の傷跡が見られますよ。
ハーモニカを吹いている人がいるかも知れない。
金属製で黒くて穴が開いていたモデルガン
20 :
12:03/10/17 14:29 ID:z1/MKN12
>>14 昭和50年頃横浜駅近辺に出没していたお化けみたいな化粧を
ほどこしたおばーさんのことかなぁ。
名前はしらないけどスゴかった。
21 :
秘密の桑園(クワソノ):03/10/17 14:59 ID:L0lgubG+
たいした話ではないのですが、私にとっては衝撃的だった一件を。
1985年の8月12日午後6時10分の30分ほど前の話です。
私は帰省のため羽田空港で、札幌行きのJAL便の搭乗待ちをしていました。
その時札幌行きだったか大阪行きだったか福岡行きだったか忘れたのですが
出発時間が10分ほど遅れて、この3便がほとんど同じ出発時刻になりました。
その時のJALの搭乗待合室では、乗客が多い便はそうだったのか(よくわからないけど)
最後の搭乗口の手前に、もう一つゲートのようなものがあって
そして上記の3便の乗客はほぼ同時にこの中間ゲートを通って、
そこからそれぞれの搭乗口に向かったのです。私ももちろんここを通って
札幌に向かいました。
そして翌日、あの時すぐ隣にいて、一緒に歩いていた人たちの3分の一が
亡くなられたことを知りました(見知らぬ方たちばかりでしたが)。
8月が来るたび、このときのことを思い出します。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/17 15:48 ID:8XiAa3CP
>>21 うーん、なかなか微妙な体験ですね。行き先違うから、間違ってもそれに
スマソ
>>22 書き込んでる最中に送信してしまったらしいデス。もう一度最初から^^;
>>21 うーん、なかなか微妙な体験ですね。行き先違うから、間違ってもそれに搭乗する事は
ありえなかったのでしょうが、たまたま同時刻の出発便が、ああだったと思えば、
ゾクッとくるものがあるでしょう。
ところで、札幌に関係した方のようで、HNの桑園は、お馬さんの居る桑園に
由来してるんですよね。
24 :
バイキチ:03/10/17 16:10 ID:KHK/PUeO
>>16 近所に戦争未亡人がいたり、防空壕で遊んだり、空き地から不発弾が出てきたり・・
>>18 >>19 改造拳銃の多発によるモデルガンの規制(昭和46年)以降、銃口を埋めて色は黄金色に塗られました。
黒で銃口のあいたモデルガンを持っていた先輩が羨ましかった。
>>20 その人です。横浜では誰もが一度は見たことのある都市伝説の重鎮です。
http://dambala.virtualave.net/merry.html >>21 確かに貴重と言うか微妙と言うか・・
運命の分かれ道は当たり前の生活の延長上にあると感じました。
航空機事故の話は私もかすった程度の目撃談がありますので、
また折を見てお話します。
26 :
バイキチ:03/10/17 17:14 ID:KHK/PUeO
>>25 その場に居合わせた人のお話なんて初めて聞きましたので私の中では貴重な内話です。
ではお言葉に甘えて?航空機関連で
【大韓航空撃墜事件 そのとき私は稚内にいた】1983年9月1日
このニュースを知ったのがオホーツク海沿岸のユースホステルでした。
ここから比較的近い所で飛行機が撃沈されたらしいと言う第一報でした。
沿岸の道路はパトカーが行きかい、海岸では遺留品の捜索などが行われ、
何点かの漂着物を回収している様子がうかがえました。
しかし広大な土地の中での軽四駆ジープのパトカーによる回収作業は、
どこか緊迫感に欠け、牧歌的に見て取れました。こちらも旅行気分でしたし。
事の重大さに気が付いたのは、稚内空港に着いた時。
多くの報道陣が空港前に集結し、その中には3時にあいましょうの桂菊丸レポーターの顔もあり
「これはすごいことなのかな?」という緊張が走ったのを覚えています。
ちょうど時刻はお昼過ぎ、行方不明者のご家族が空港に到着する様子を取材に来ていたようでした。
少し不謹慎な話ですが、この時、報道陣の一部の人たちが、なにやらバカ話に花を咲かせ、
レポーターともども大笑いをしながら、本番を待つ様子がうかがえました。
私は野次馬としてそばでその様子を見守っていましたら、ちょうどワイドショー中継の時間になり、
「ハイ本番行きまーす」の声とともにその笑い声は消え、
レポーターにいたっては見る見る神妙な顔つきになって、
本番5秒前になるとなんとうっすら涙ぐむような顔になっているではないですか!
そして稚内中継本番・・レポーター「え〜ただいま稚内空港では、関係者のご家族が・・」
悲しさと、緊張と、わずかな怒りを込めたようなその目は、とても1分前まで手をたたきながら
大笑いしている人物とは思えないほど、迫真の演技でした。さすがはプロ!
ちなみにそのレポーターは菊丸さんではなかったです。
こんなこと覚えてる人がいるのか
少々不安なんですが……
1980年8月14日。
富士山7合目付近、吉田口砂走り登山道で落石事故が発生し、
死者12人重軽傷者29人を出す大惨事がおこりました。
この年は、60年に一度の庚申(かのえさる)の年で
この年に登山すると、33回登ったのと同じご利益があるとの
言い伝えがあり、旅行代理店各社がツアーを組み、
メディアでも大きく取り上げられたこともあり、多くの登山客が
富士山を訪れていました。
実はこのとき私の弟(当時11歳)と叔母が、数人のグループで
富士山を登山中だったのです。
夏休み中で、家でゴロゴロしながらテレビを見ていた私の目に
『富士山7合目砂走り付近で落石事故、死傷者多数出ている模様』
というニュース速報の字幕が飛び込んで来た瞬間
猛暑だったにもかかわらず、全身が氷水を浴びせられたように
ザワッと鳥肌が立って戻らなくなったのを覚えています。
そのあとのテレビ番組は、ほとんど現場からの中継に切り替わり
事故を目撃した人が泣きながら「地獄のようだった」
「1メートル近い岩がゴロゴロ転がって来て、人がバタバタ
倒れた」……などと言うのを聞いて、現地へ向かう用意をしていた
母まで倒れそうになってるし。
私は私で病院に運ばれた人や死亡が確認された人の氏名が
テロップで流れるたび、テレビの前に正座して
弟と叔母の名前がありやしないかと
息を詰めて食い入るように凝視してました。
結局弟たちからは数時間後に連絡が入り、怪我人が救出されている中を下山中とのことだったのですが、
無事が確認できるまで生きた心地がしませんでした。
(メンバーの中にいた女の子が登山中に高山病にかかり、
頂上につくのが遅れたのが結果的に良かったそうです。
日の出前に登頂し御来光を拝み下山して行った一行が
落石に巻き込まれたんですね。)
夕方のニュースで、インタビューされている弟の姿を見たときは
体中の力が抜けました。
自分の家族が生死にかかわる事故に巻き込まれ、それを
テレビで見るなんて初めての体験だったので
今でも強烈に覚えています。
おまけにこの日は偶然にも私の誕生日。
誕生日が弟の命日にならなくて本当に良かった。
まだ、記憶が浅い頃、自宅には近所の人がTVを見に
我が家に来ていた
保育園の頃、ウルトラQを見ていた
メンコがはやっていた
小学校の頃、夏休み前には、肝油を学校で買っていた
中学の頃、海外の音楽を聴く奴が増えていた、日本ではフォークが盛り上がった
....etcで、いまは鬱です
>>27 いやぁ、驚きました。やはりいろんな体験をされた方がいるもんですね。
富士山の落石事故は、九死に一生スペシャルかなんかで再現シーンがありましたが
石と言うよりかなり大きな岩盤が次々に襲いかかってきたみたいでしたね。
こういう状況に置かれた時、その場に伏せるのがいいのか、立ち上がって石をよけるのがいいのか、
はたしてどっちなんだろう?この事故がおきたときそんな事を考えました。
この事故で九死に一生を得た方は、家族がムカデ競争のように一列になって落下してくる岩を正面にし、
お父さんの誘導で、左右によけて行ったようです。右左を大きな岩が掠めていく状況は、
想像しただけでも冷や汗が出てきそうです。
>>28 「我が家にテレビが来た」「ウルトラQ」「肝油」「フォーク」
こんなキーワードを聞くだけで、自分史の年表が頭の中に駆け巡ります。
呼び出し電話 何ていうのもありましたね。
そんな不便な状況が、近所とのつながりを深いものにしていたのかもしれません。
1980年夏、軽井沢でジョン・レノン、オノヨウコ夫妻をお見掛けしました。
親子三人で旧軽銀座を散策なさっていました。
たまたま立ち寄ったお店のおじさんが「毎年見えますよ」と言ってました。
その冬、ジョンの訃報を聞いて、え、あんなに元気だったのに!とショックもひとしおでした。
31 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/18 11:21
>>27 その事件覚えてる気がします。他の事と混同してるかもしれないのですが。
まるーさんのカキコにあるように、多くの登山客が訪れ、という事で、かなり
初心者的な方も多かった。本来、登山では、小さな石ころひとつ落とす事も、
それが大きな落石につながる可能性があるとして、登山道を登るにも
石を落とさない登り方をしなくてはならないのに、それが徹底できず、また、
人数も多かったのが相乗効果となって、大きな落石事故につながった、
というような解説を、TVで見た覚えがあります。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/18 11:49
夏の富士山登山のような
だれでもやるトレッキングも怖いんですね
登山の素人も登るからねえ
お父さんの号令一家右に左によけた家族の話はテレビでもみなした
瞬時にその方法を考え出して家族を救ったお父さんはすばらしいですね
そういうお父さんは年取ってぼけてオムツしても大事にしてもらえそう
>>30 ほう、亡くなる数ヶ月前の生目撃とは貴重な体験です。
話は変わりますがオノヨーコも70歳になるんですね・・・
>>31 そうでした、そうでした。
初心者が気楽な気持ちで山に登るのは危険。
「山をなめるな」的なコメントが多かったような事を思い出しました。
先に登っていた人たちには、さぞかし自責の念にかられたことでしょう。
それはそれで気の毒な気がします。
今日はある情報筋(怪しい?)から聞いたお話です。
日本列島改造論、人間ブルドーザー、良いも悪いも豪放磊落。学歴は小学校卒。
そう、あの田中角栄の裏話です。彼の嫌味のない魅力、
人並みはずれた人脈作りの術はこんな一端にヒントがあるのかな?と感心したお話です。
その方はある地方の記者でした。当時はまだ若手で、
一国の総理に単独インタビューをするなど荷が重すぎる仕事でしたが、
ホテルの一室をとって、その時を待っていたのです。
ホテルの窓から通り一本隔てた真向かいで、今丁度、件の田中角栄が会議をしているのです。
約束は昼の1時。その会議が終了してから、真向かいのこのホテルに来てもらい、
この部屋でインタビューをする事になっていました。
「どうせ、来るのは2時頃だろう、へたすると夕方まで待たされるかも・・」
国会議員の約束事なんて、あってないようなもの、今まで何度となく裏切られてきた記者は
そうタカをくくって、ソファーに横たわりタバコをふかしていたそうです。
そして約束の1時が過ぎました。「コンコンコン」誰かが慌しくドアをノックします。
ビックリして飛び起きたと同時に、汗だくで扇子を仰ぎながら入ってくる人物がいました。注1)
テレビで見たまんまの田中角栄でした。そして例のしわがれ声で
「○○新聞さん、ちょっと申し訳ない、会議が長引いてあと、30分待ってくれ!」
そう言い残すと、角栄は足早にその場を去って行ったそうです。
記者氏は、何が起こったのか訳もわからず、あっけにとられしばし呆然としていましたが
徐々に「今の・・田中角栄だよな・・角栄本人だよな・・」と状況を理解する頭を取り戻し、
慌てて窓の外を見たそうです。そこには少し小太りの田中角栄が扇子片手に、
よっしゃよっしゃと車の間を縫って、通りを横切る姿がありました。注1)
この記者さんは、たかが一地方記者との約束をここまで気にしてくれていたと言う事。
しかも総理大臣ともあろう人が、隣のホテルとは言え、電話も秘書も使わず、
自ら足を運び、遅れることを直伝してくれた事。
汗を拭き拭き、通りの車に挨拶をしながら、議員会館に戻って行ったその姿。
この3点を挙げ、以来田中角栄の大ファンになったそうです。
注1)多少の誇張はご勘弁ください。
なんだか他の方々の書き込みが少ないので、私の一人日記のようになって申し訳ありません。
次回からは、ある私の知人から聞いた話を中心にお話する予定です。
その人は現在50過ぎで、お金持ちの御曹司です。
育った場所も、有名芸能人が多く住む高級住宅街で、
この人の身近に起こった様々なエピソードは大変興味深いものがありました。
ただし、話の真偽に関して裏づけは取れていないものがほとんどです。
誇張や記憶違いなどはありうる話です。
(現に私が取った裏づけで多少の記憶違いがありました。嘘をつくような人ではなく大雑把なのです)
ただ、ひとつの懐古話として聞いていただければ幸いです。
ではまた後日。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/19 16:21
パイキチさん、面白かったので
またお願いします〜!
結婚前の布施明とオリビア・ハッセーが青山通りから表参道歩いてたの見たよ
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/19 18:19
静岡からです。
昭和49年7月 七夕豪雨
昭和54年7月 東名日本坂トンネル事故
どちらも直接被害を受けたわけではありませんが、一般道は完全に麻痺状態でした。(間接的な被害はあったことになりますが)
特に日本坂トンネル事故の時は、国道1号線の何時間もの渋滞で身動きできない長距離トラックの運転手に、運転席をまわって
オニギリを売って歩いた人がいました。飛ぶように売れたそうです。
>>36 ありがとうございます。
明日の予告編【三船敏郎 運動会でのヘリコプタープレゼント事件】です。
>>37 その当時からオープンだったんですね。可愛かった・・
>>38 七夕豪雨は知りませんが日本坂トンネルは衝撃的でした。
その前に電車だったと思いますが、北陸トンネル火災というのもありましたね。
しかしどんな時にも商いに長けた人はいるもんですね。
川島なお美カンニング発覚で単位取り消し処分発表の掲示もみたよ
記念に写真撮っとけばよかった
小学生のころ、「あさま山荘事件」があって、逮捕された犯人たちは
バラバラに拘置されたらしく、犯人のひとりは、北信地方の私の小学校のちかくの
警察署に捕まっていた。子供心にも警察署の前を通るとき、怖かったよ。
ずっと忘れてたけど、最近映画化されて話題になったね。
>>40 今考えると惜しいですね、
しかしその頃はカメラを持ち歩く習慣なんてないですもんね。
使い捨てカメラも、写メールもなし。
かと言って一眼レフで撮るほどのネタでもなし。
>>41 その映画まだ見てないんですよ。
当時テレビで見た犯人達の連行シーンは強烈でした。
札幌オリンピックの日の丸飛行隊と共に強い印象が残っています。
そういえば最近テレビで、日の丸飛行隊の3人組(金野、笠谷、青地の3選手)が
出ていましたが、時代の流れを実感しました。
【三船敏郎 ヘリコプターからのプレゼント事件】
前述の知人が通っていた小学校に、三船敏郎のご子息がいたそうです。
当時の三船敏郎と言えば、まさに油が乗った
現役バリバリのトップスターに位置していた頃でしょう。
この事件はその小学校の運動会で起きました。
運動会も終盤に差し掛かった所、
なんと三船敏郎が学校の校庭にヘリコプターで乗りつけ、上空を旋回し始めたのです。
そして低空飛行の後、手を振って喜ぶ子供たちに向かい、
上空からプレゼントの入った袋をバラ撒き始めたのでした。
もう、子供たちは狂喜乱舞で上空から降ってくるプレゼントの袋を奪い合い、
それは大変な騒ぎになったそうです。
ところが、後にこの一件が、当時の教育ママゴン達の間で大問題になり、
学校を巻き込み、PTAの会議で、賛否両論の議論に発展したそうです。
その影響でしょうか、ヘリコプター登場は、この年一回きりのハプニングに終わりました。
この話はどこまで本当か知りませんが、
私は知人の話しっぷりからして、有り得る話だと信じています。
三船敏郎にしてみれば、ハリウッドスター並みの、
気の利いたお洒落な演出を気取ってみたのでしょう。
しかもあの若き日の三船が、ヘリコプターから苦みばしった笑みを浮かべ、
眼下ではしゃぐ子供たちに、プレゼントを投げる姿を想像してみれば、
それはまさしく映画のワンシーンではありませんか。
さて問題は、この三船の行動をロマンと受け取るか、やりすぎと受け取るかです。
私はこれをミフネにしか出来ない、
ミフネしか似合わない男のロマンと受け取り、甚く感銘を受けたお話でした。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/20 10:42
阪神二連敗でちょっと盛り下がってますが・・・
昭和48年のV9、この目で見ました。
とりあえず、小学校が終わってから、外野スタンドに入りました
(「阪神子供の会」に入っていたので、巨人戦は外野に無条件で
入場できた)。
9対0で最終回を迎える頃、スタンドの不満は最高潮に達し、となり
のオッサンが「中止や中止や」といって新聞一部をビリビリに細かく
破いて飛ばしていました・・・・中止の根拠なんて何もないことは
わかっていたでしょうに。
結果、優勝決定とともにファンがグランドになだれこみ、王カントク
はゲタで殴られ、逮捕者20人・・・・。
王ダイエーは甲子園では、燃える、というより、ビビルのでは? と
期待しているところです。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/21 06:24
バイキチさんの田中角栄話を読んで思い出しました
今から25年ほど前、父が田中角栄さんと何度か会う機会あったのですが
田中さんは車で移動する時、東大の学生など優秀な若い人数人を同乗させて
彼らに政治や今の日本の問題点を議論させて
それをただ黙って聞いていたのだそうです。
車中での移動時間を無駄にせず
新聞や本を読むより実用的な勉強とのことだそうで
ふだん無口な父が興奮してその話をしてくれました。
ゲタで殴られというところが時代を感じます。
王さんにとってはリベンジの2連勝ということなんですね。
>>45 貴重なお話ありがとうございます。
人の上に立つ人にも様々なパターンがあると思いますが、
いきなり現場に飛び込んで成功を掴み取る人も多いような気がします。
私の先輩に、全く英語がしゃべれないくせに、思いつきでアメリカに単身渡った人がいました。
誰一人彼の成功を予想する人間はいませんでしたが、
かえってこういう人のほうが功を奏する場合もあるようです。
今では持ち前のガッツ(悪く言えばずうずうしさ)と強いリーダシップで
日米をまたいだ大きな事業に参画するキーパーソンに成長しています。
47 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/21 13:01
>>38サソのカキコに関連して。
東名日本坂トンネル事故当時、私は沼津に住んでおりました。
沼津といっても市街地でなく、東名高速に近いところです。
某大学の分校的キャンパスがあり、そこに通う為に下宿住まいしてました。
で、日本坂トンネル火災の直後の事です。東名高速上下線にわたって、
通行止めになった日が2〜3日(だったと思う)ありました。通行止め区間は忘れましたが、
私の住んでいた辺りは完全通行止めでした。で、学生の悪ガキ共が考える事は、
東名高速への侵入です。ちょうど、私達の下宿の近辺に、高速バスの停留所があり、
東名高速への侵入は非常に容易、っていうか、停留所までなら、不法侵入でも
なんでもないんですがね。
昼間はさすがに作業車等が通行してましたが、夜は全くの無人(無車?)状態。
散歩する者、寝そべる者、記念撮影する者、果ては、スケートボードだの、
自転車だの、どうやって持ち込んだか、原付バイクを東名で乗り回す者(w 等、
無法地帯と化しました。私はせいぜい、友達の持ち込んだ自転車で、東名高速を
滑走した程度です^^;
どうも、私のネタは
>>7といい、「不法侵入」モノばかり^^;
>>バイキチさん
>>45サソの書き込みや、↑の私の書き込みのように、誰かの書き込みに反応して、
「そういえば」と思い出すケースも、多かれと思います。その場に居合わせた
実体験だけでなく、ニュース等でしか見知ってないけど、この事件・人物に
直面した人いない? という呼びかけカキコも、受付けてはどうでしょう?
>>48 ○ろ様 いつもお世話になっています。
ご提案、大歓迎です。
むしろ私はそこの部分を狙っていました。
「おお、そう言えばそんな事があったなぁ、あの頃下宿から銭湯に通ってそこのテレビでこの事件を知ったなぁ」
何て言う話の展開を密かに期待していました。
私自身、いわゆる「スレ違い」と言われる脱線が大好きですので、
いろんな方の色んなお話を聞かせて欲しいです。
もちろん感想、意見、質問などでも結構です。
ほぼ同時代を生きてきた人たちが、あの日あの時、
どこでどんな風にあの事件を見ていたのか、そんな話題で話を膨らませるのも大歓迎です。
47の○ろさんのお話なんか読んでいますと、まるで自分も学生時代に帰ったような郷愁を感じます。
次回の不法侵入、楽しみにしています。
人類初アポロの月面着陸がたしか、
臨海学校中で生かニュースか覚えていないですが、
宿舎でみんなそろってみていた記憶がある。
もうだいぶたつのでTVの内容はおそらく後からの映像により補完されたのだと思いますが、
白黒TVを眺めている風景が記憶の片隅に。
小学生でした。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/21 16:50
あー、家は月面着陸を見たいと父が言い出してその時にカラーテレビに買い換えた。
自分はあまり印象に残ってないが、たしかカメラが壊れたとかで
ちゃんと映らなかったんじゃなかったっけ?
ちょっと話の筋から外れてしまうけど・・・
俺達が餓鬼の頃、家にビデオなんてものは無かったわな。
それでテレビに向かって8mmビデオを廻していた奴いない?
俺はライブで月面着陸シーンを見ていなかったが、その8mmで
見た記憶があるんだ。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/21 16:59
東京オリンピックを近所のひろちゃんと見ていた。
うちの親父が俺達に「このことを一生覚えているんだよ」といった。
そんなの当たり前つうか、忘れるわけがないと俺は思った。
そのことを除いて全部、記憶にない。
母親と一緒に上野にモナリザを見に行った
チケット買うだけで数時間の行列だったようだが
招待券を持っていたおれたちは即入館
しかし中に入ったとたん一般客と同じ扱い
「立ち止まらないでくださ〜い」言われるのを無視して
可能なかぎりモナリザに近づいて凝視した
…モナリザに無数のヒビが入っていたのが妙に悲しかった
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/21 20:28
>>52 >8mmビデオ
あふぉ発見。
8mmフィルムだろが!
>>52 アポロ11号といえば1969年、この時代に8ミリを持っているとはかなりの通ですね。
フジカシングル8がようやく万博に向けてチラホラ売れ始めた頃だったんではないでしょうか?
私なんぞはその遥か数年後にカセットテープレコーダーをテレビに近づけて
番組の主題歌を録音していた程度です。途中で親父の咳払いが入って台無しになったりしながら。
そう言えば私は私で、近所のお姉ちゃんがオープンリールのレコーダーで
テレビのモンキーズを録音してる所に「エ〜本日は晴天なり」
などとふざけて声を入れてこっぴどく怒られた事を思い出しました。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/22 02:10
後楽園がジャンボスタンドの工事をしている時
都市対抗でだれでも中に入れた
仲間2人とカツアゲをしようとしたら
そいつ20円しか持ってなかったので
アメリカンドックとコーラを奢ってやって
仲良くなってしまった
帰り馬券売り場で1000円拾って
山分けしたのが思い出
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/22 02:40
あ〜、モナリザ流行りましたねぇ。
どこから見ても視線が合うと言われて複製画を右に左にして見てみましたが、全然そんなことありませんでした。本物だと違ったのかなぁ?
私も子供の頃母に連れられてモナリザを見に行きました。
なが〜い時間待ってみた絵は
もの凄く厳重に展示してあり
本当に本物?と思った覚えがあります。
その後15年ぐらいにルーブルに行く機会があり
再び会えたときは結構感激しました。
(でもルーブルでも結構厳重に展示してありました。)
モナリザは世界に62枚存在する。
その真贋は、実のところ謎なのだった。
渋谷パルコ通りの壁もモナリザが存在しました。
探偵物語のエンディングバック。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/22 16:46
原宿のラフォーレは元は教会でした
表参道と明治通りを暴走しておりました
63 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/23 11:51
>>62 今もラフォーレの裏にある、東京中央教会の一部だったのかな?
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 13:01
俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。
それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら・・・
病室のベットの上にお母さんがうつってた。
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』
10分くらいのビデオテープだった。
俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。
そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、
就職決まった時、
親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 13:05
つД`)・゚・。。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 16:54
つД`)・゚・。。
何処かで見たコピペのようだが・・・
つД`)・゚・。。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 17:09
>>64 とってもいい話ですね。
泣かされました。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 17:16
泣いてしまいました…
でも、水を差すようで悪いが、40代じゃないね。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 17:16
”クイズ100人に聞きました”で
出題が「ハワイ旅行で何を買いましたか?」
で、「マカデミアナッツ」「ビーフジャーキー」など正解していたが
その中の解答チームのじいさん(70歳前後)が時間が無くなってきて
不自然な観客の声援に押されて、苦し紛れに出た答えが・・・
「女!」 であったことは忘れない!
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 17:53
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/23 17:57
イイ話だけどビデオカメラに録画できるようになったのは・・・
おじさんやおばさんを泣かせて何がおもしろいんや!!
>>64 とてもいい話なのですが、こういうのを見てしまうと、
ついつい時代検証をしたくなってしまう悪い癖がムクムクと鎌首を持ち上げてしまうのです。
69さんご指摘の通り、子供の頃からビデオが、しかも当時撮影機材が存在し、
現在エロビデオかと思った。と言う事はベーターでなくVHS。それから「マーチ」という言葉。
これは真面目に教えていただきたいんですが、なんですか?
2ちゃん上では頻繁に使用され、ある特定の大学を指す言葉のようなのですが、
私たちの頃からあった言い方なのでしょうか?私が知らないだけなのか?
とりあえず、知っている方がいらっしゃいましたら教えてください「マーチ」。
ということで、少なくともこの当事者の方は30歳以下と推測します。
しかしそうなると不良の象徴表現として使っているパンチパーマが時代錯誤になるのだが??
>>70 私のネタ倉庫の中に収めさせていただきました。
>>64 コピペだろ .∴・(つД⊂)・∴
デジカメにかあちゃんが・・・、ってやつも泣ける
>>73 マーチ→MARCH→M=明治 A=青山 R=立教 CH=中央 でし。
>>70 MARCHI
明治 青学 立教 中央 法政 忘れた
後10年ぐらいしたらオケーな話ですな。
>>78 いや、法政も入っていたかも?
C=中央 H=法政 だったかもしれない・・・失念、スマソ。
>>76 早速ありがとうございました。
やはり塾が作り出した受験用語でしたか。
関西では、古くは、阪大はん、同やん、立っちゃん、のちに関関同立と出世。
あるいは日東駒専などというあたりまでは知っていましたが、
マーチは知りませんでした。
いつごろから言われだしたものなんでしょうか?
>>80 青学がメジャーになってからだと思う。
というより、東京六大学間の格差ができてからかな?
東大
早慶
↓
↓
↓
明治・立教
↓
↓
↓
法政
という80年頃のイメージ
どうもお騒がせいたしました。
と言う事は私が無知なだけで、最近降って沸いた言い回しと言うわけではないんですね。
みなさんご存知な言い方なんですね。
となるとマーチというキーワードでは時代検証が出来ないと・・・
↑まだ言ってたのか!
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 00:57
アポロといえばアポロNだろう?
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 01:40
ぽんきんかん、ってのもありましたね。
入学直後の六大学野球にて…
♪あほ あほ あほーせい
六大学の落ちこぼれ 死んでも明治に入れない
↑の返歌
♪ちょっとコレ ちょっとコレ 足りないのは明治
私は明治でした。、心底情けないと思いますた。
大阪・千里ニュータウン原住民だった私(笑)
これは大阪万博の前、街開きから住んでいる人を指します
小学3年かな?1960年代後半ですが「なんか市場で映画のロケしてる」
と聞いて、行ってみたら 吉永小百合と浜田光男が…
子供心に「吉永小百合ってきれいだなぁ」と思いました
映画自体はヒットしてないものだったみたい。母に聞いても
タイトルは思い出せなかったです
大阪万博、開会式の日
ブルーインパルスが空に描いた「EXPO 70」の文字は
家の窓から見えました。よく見ようと小学校の校庭に走ったなぁ…
パビリオンの出来ていく様子は小学校の窓から毎日見てました
歩いて万博に行けた、贅沢な場所な住んでた。
付近の小中学校の子供は、学校から遠足で行けたんですよ
たぶん「招待」だったんでしょうね
だから同世代の吹田・茨木あたりの人は最低一回は行ってるはず。
開会式のお祭り広場の入場行進、同級生でガールスカウトのコが
旗?プラカード?を持って歩いたのをTVで見ました
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 06:35
私は大阪の香里団地の原住民でした(w。
ひらパー(枚方公園)にはいつも歩いて行ってました。
私の行っていた学校に、あの暗殺されたケネディー大統領が大統領になる前に
視察に来た、とか言う話を聞きました。確か新聞の切り抜きも学校で見せて貰
った様な気がします。ひょっとしたらケネディーじゃなかったかな?
万博と言えば悲しい想い出が・・・
あの夏、我が家も親戚一家と連れ立って万博に行く予定だったんです。
ところが、前日に風邪をひいてしまった私は、母と共にお留守番・・・
従兄弟達だけ行くことになりました。
太陽の塔の模型とメダルをお土産にもらい、従兄弟達からは
「人が多すぎて、人の足しか見れなかった。疲れただけで行かない方がよかった。」
と言われその言葉が少しだけ慰めになりました。
従兄弟達としては精一杯気遣ってくれたんだな、と今になって感謝しています。
89 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/24 11:46
万博ネタは、40代なら、行ってない人だって、必ずエピソードをお持ちのはず。
皆さんがそれを書けば、それだけで、スレ1本消費もあり得るので、今までここでは
振らなかったのですが^^;
私は東京住いの為、万博へ行けたのは、1泊2日の行程だけでした。
以下覚えてる事の羅列(ほぼ時系列)
・IBMのパビリオンで、ストーリーブック形式で作るマンガを作成(元ネタ「河童の三平」)
・アメリカ館は、1時間程で入れた。当然、月の石にコーフン!
・住友児童館に行ったはずだが、よく覚えてない(w
・ダイダラザウルスに乗った
・ミュンヘン市館でお食事。ウェイトレス(当然ドイツ人)に「Baby Juce?」と尋ねられた事にコーフン!
こんくらいでつ^^;
でも、最もコーフンしたのは
・新幹線ひかり号で、新大阪まで行った
という事かも^^;(こだま号で熱海まではちょくちょく行っていたが、ひかりは初めて)
90 :
名無しさん@お腹いっぱい:03/10/24 12:29
小学校6年生の時に、
今上陛下と皇后様が(車に乗られてだが)
小学校前のバイパス道をお通りになると聞き、
生徒全員で日の丸旗を作って沿道で振った。
車のスピードが落ちて、窓を開けて御手を振って下さったなぁ・・・
当時は、皇太子殿下 美智子妃殿下 と呼ばれていました。
91 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/24 14:47
>>90 体験内容自体がどうのはないのですが、
こういう文章見ると、本当に大人の板、40板だなぁと安心できます。
いやみ無く、敬語が使用され、また、若いモンなら、平成○○(あえて伏字)とか、
不敬極まりない文言になるでしょうから。別に天皇制万歳ではないですが、
使うべき言葉を吟味できなきゃ、大人じゃないですよね。
自分自身、その点にかなり不安ありなのに、えらそうなレスでごめんなさい。
以前より不思議に思っていたことなんですが。
天皇陛下は神に非ず平民。象徴としての存在と教えられてきましたが
何故、マスコミ各社は天皇陛下、並びに皇族に限り特別な言葉遣いを
するのでしょうか?
すれ違いな話題でスミマセン。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 15:02
皇室だからじゃないの?
そうしとかないと怖い目にあうからじゃないの
>>92 神ではなくなって、人になり、戦前の権限もほとんど失っているが、
象徴である事に変わりは無いためでしょう。
日本国の国家形態は分類上、「立憲君主国」となっていますから。
私が小学校卒業の時、ちょうど戦後生まれの新任の先生が学級担任でした。
この先生はそれまでの先生と違い、子供たちの個性を尊重し、友達感覚でつきあえる
お姉さん先生としてクラス全員から慕われていました。
この先生で印象的だったのは、君が代についての疑問を僕らに提言し、
一緒に考える授業をやったことです。まだ君が代問題などと社会が騒ぎ出す以前のことでしたし
天皇陛下に対する問題をまず提示し、その後僕らに対して真剣に意見を求めるこの先生をみて
子供心に「新しい時代」を予感しました。今思うに、なによりありがたかったのは
君が代の歌詞の解釈を解説し、押し付けではなく、一緒に考える機会を与えてくれた事。
そして決して結論を出さなかった事。このことは数年前開催した同窓会で話題にしました。
あの頃は本当に試行錯誤でした。みんな弟妹みたいで自然に接していたとおっしゃっていました。
若くて綺麗な事に変わりありませんでしたが、今では校長先生と聞き驚きました。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい:03/10/24 17:54
「君が代」とは「天皇」を表していて、
その歌詞は「天皇万歳」で憲法違反だ!
と絶叫した教授がいました。
私「天皇は『君』ではなく『おかみ』と呼ばれるのでは?
私は『自分にとって大切な人』とか『愛する家族』と捉えてるので、
君が代は嫌いではないですよ」
教授「君とは一度じっくりと討論しなくてはならないっ!」
卒業2ヶ月前だったので討論もする暇無かったです(苦笑)
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 20:10
戦争と言えば、小学校6年の時の担任が兵隊経験者で
授業脱線した時とか戦争の話をしてくれた。
刀で切りつけた話とかさら〜と聞いてたけど
人殺してたんだよねぇ。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 21:09
天皇陛下は統治者ではなく祭祀王(神主さんの頂点)なので、敬称で呼ぶのが当たり前。
それを曲げて利用する奴らが(今でも)いるから困るわけ。
私は皇室を敬うにやぶさかではない者ですが、
大阪万博で記憶に残っていることを書き込みます。
当時小学生だった私は、
大阪万博の開会式(?)を教室のテレビで見ました。
宣言を読まれる昭和天皇のお声を聴いて、
上級生(テレビの台数が少なく、何学年かが一緒に観た)が一言。
「ジャイアント馬場より下手だな」
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 21:24
外国から国賓たるお客様が見えたときに
そのゲストに対する敬語よりもホストたる天皇に対する敬語が上位概念なのは
日本人としても日本語としても不自然ではないか?。
>>101 それに関しては何年も前に
(確かイギリス王室の方がいらした時。
チャールズ・ダイアナご夫妻だったと思います)
NHKが視聴者から抗議を受けて、
今では均等に敬語を使うようにしていると思います。
というかその時点では「今後そうする」と発表していました。
このスレは天皇制に関しても、荒れないで
冷静な議論になりそうで好ましいです。
さすが亀の甲より年の功。 ←一発変換。
103 :
恋をいたしましょう♪:03/10/24 22:09
日教組が華やかだった頃のヒロシマで小・中・高教育を受けてきた私。
当然、入学式・卒業式で君が代を歌ったことは一度もありません。
習ったこともありません。
音楽の教科書には最後のページに「きみがよ」の歌詞が載っていました。
何のおまじないのことばだろう、と思っていました。
成人してから、他県では入学式・卒業式での日の丸君が代が
あたりまえなのを知って驚きました。
数年前、息子の小学校入学式に参加したとき、
君が代の斉唱に違和感を覚えました。
一同起立し、ほとんどの保護者の人も声を出して歌っていたのには
もっと驚きました。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 22:49
君が代はお相撲のテーマソングです
ミルマスカラスのスカイハイみたいなもん
>>102 そういう世論の動きが、これからの皇室と国民の位置づけを少しづつ変えて行くんでしょうね。
現に那須御用邸などで、みーちゃんはーちゃん(笑わそうとして言ってるんですからよろしく)のおばさんたちが
「まさこさまぁ〜 あいこさまぁ〜」等と叫びながら手を振ったりカメラで写真を撮ったりすることなどでも
一昔前なら考えられなかった光景です。
開かれた皇室の影の立役者が実は雅子さんであるということもあまり知られていません。
海外などでは雅子さんが皇室に入ったときに、
これからの皇室は変わるであろうと期待したものの妃殿下は沈黙をしてしまったと
TIME誌かなにかで、話題にしていましたよね。
しかし私はあの一般人と皇太子一家との距離が縮まって来たきっかけに、
雅子さんの考えが強く反映されていると思うのです。
私は今、皇室と我々との関係は、改革の過程にあると静かに見守っている所です。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 23:04
皇室は開かれなくても身近にならなくてもいいですよ
どこまでも
なんだかどうしてだか訳わかんないけど、
無意味に偉い人っていう位置づけでいいと思います。
だって庶民化したらそこらの
おっさんおばさん、爺さんばあさんとおんなじじゃない?
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 23:32
皇室ねえ.... どうでもいいや
前の天皇には、いろいろ有ったけど今はお飾りだし。
あんまり金使うなよな、って思うぐらいだなあ
皇室と国民の距離が一番近づいたのは
戦後すぐのことでした。
昭和21年、銚子に行幸された昭和天皇は
ちょうど寄港した漁船の漁師に向かって
「とれたかっ」と叫び、それに対して漁師が
「こんなにとれました!」と叫び返したのです。
ところが昭和30年ごろには早くも
国民との間に距離が出来始め
入江侍従長(当時)がすでに嘆いています。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/24 23:36
もうすぐで「まさこちゃーん、写真とってよかったですかぁ?」という呼びかけが
聞こえることでしょう。
昭和天皇陛下について
大阪万博の前、両陛下が「視察」で来られました
当時、沿道の学校の生徒はみんな旗を振ったはず
皇后陛下が、にこやかにお手を降られていたのが印象的でした
千里ニュータウンに、それに間に合うように作られた展望台、
万博会場の造成が一目で見られる高台で、今も眺望は絶品です。
大阪城まで見えるんですよ!(最近ここからのパノラマ写真に凝ってます)
当時かなりの突貫工事だったのか、最後の仕上げにあわてて植えられた
チューリップ。
母が直後に見に行ったら(視察直後一般公開)、みんな花がしおれていたそうで
「チューリップもおそれ多いと思ったんだろうね」と言ってた(笑)
すっかり寂れてしまった千里の展望台ですが、当時の新聞の切り抜きが
今も展望台に残されています
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/25 00:44
>>103 うちの方はね、入学式などで壇上に挨拶などで誰かが上がるたびに、
かざってある日の丸にお辞儀(最敬礼)するんだよ。
そういうもんなの?
日の丸も君が代も抵抗ないけど、これは違和感ある。
日の丸って日本のマーク以上に深い意味があるのかなぁ。
>>111 >うちの方はね、入学式などで壇上に挨拶などで誰かが上がるたびに、
>かざってある日の丸にお辞儀(最敬礼)するんだよ。
最敬礼???
そこまではしないなあー。
仏壇にだって軽く手を合わせるくらい。
(仏教系の学校なので壇上に仏壇があるんだよ・・・)
>>87 香里団地にきたのは、司法長官だった弟の、
ロバート・ケネディーだときいた事があります。
伝聞ですが・・・
戦前の天皇崇拝がそのまま残ってんだよ
その天皇制をうまく利用してきた奴等がいるんだけど
戦後本来なら超一級戦犯で絞首刑のはずだけど統治する米が
混乱をきたす(今の中東のかの国と同じ)から、国の象徴とか言ってのこした。
戦前から教育を受けた連中がそのまま祭事に国旗掲揚してたけど
日教組なんかでも地域によって扱いが違うみたい
もっと国民に理解させれば良かったのに半ば強制的に執り行ってきたから
国旗に違和感がある人がいるんだよ
でもオリンピックなんかで国旗と君が代が出てジーンとするのはおれだけじゃないよ
国旗が焼かれても、ムカツクしね
自分の国を大事にしたいけどね・・・
余談だけど中国の国歌なんてひどいよ
「敵をたたき潰せ!」ってあるんだけど
この敵って日本のことなんだよね、今だに
昭和50年代後半、大学生だった私は、ハンチング帽を被って『11PM』とかに出ていた
タレント教授のゼミに在籍していました。
雰囲気はとても開放的で、他学部はもちろん他大学の学生も聴講していました。
とりわけ異彩を放っていた聴講生は、中退した母校に十数年ぶりに戻ってきたという
30歳台の社会人聴講生でした。
当時の彼は仕事で乗りに乗っており、彼が世間を動かしていると言ってもいいほどで、
殺人的スケジュールの合間をぬってゼミに参加するのは並大抵の苦労ではなかったはず。
だからこそ、その年齢、そのキャリアで大学生活を追体験したくなった彼の気持ちが
ゼミ員の私にはなんとなく理解できました。
残念ながら、数えられる程度の回数しかゼミに参加できなかったと記憶しています。
しかし、彼は本気だったと思います。もし興味本位だったのなら、彼の性分ですから
「このあいだ騙されて大学に行ったんだけどサァ、なんかもう恥ずかしくってサ。
君づけで名前呼ばれるんだぜ。『○○君』『ハイ!』とか。笑っちゃうのなんのって」
とかなんか、自虐ネタにしていたはずですから。
>>115 え?だれよ?だれよ?教えて教えて!
と思わず身を乗り出してしまいそうなお話ですね。
11PMのハンチング帽、、、はっはーあの人か!
でその聴講生は??「○○君ハイ!」どこかで聞いたような・・正しくは○が3文字かな?
日本のビーチボーイズ?サザンオールスターズの桑田氏が
デビュー以来絶好調を保っていた10数年前にこんな事を言っていたのを思い出しました。
「曲を作れば必ず売れる、と言われる事が怖くなっているんです。」
「僕は楽譜も読めなければ、ピアノも弾けない。そんな音楽の基礎が全くないままこの世界に飛び込んだんです。」
「基盤が無いまま、お山のてっぺんに立ってみると、足元がおぼつかなくなるんです。」
「今までは偶然のラッキーが重なってここまで来た。しかしこれからも音楽を続けるとなると、
このままではいけない、そんな気がしています。」
原文のままではないですが、このようなニュアンスの事を言っていました。
頂点に立っていても流されない冷静な姿勢を保てるかどうかってその後の人生を大きく左右するんですね。
この記事が出た直後に桑田バンドというのを組んだと記憶しています。
その聴講生の方も似たような事を感じていたのかもしれませんんね。
昭和の裏話その1
前の天皇がくたばる直前の話。下血下血で草木もなびく篇
ケツから血を垂れ流して死にそうな裕仁君は看護婦がベッドの掛け布団を
取り替えようとした時に布団と一緒にペラッ、と持ち上がったそうだ。
布団にくっついて来ちゃったんだそうだ。
大月隆寛『昭和のフォークロア』にはもっと面白い裏話がいっぱい書いてある。
昭和の裏話その2
下痢で便所に駆け込んだ裕仁君、備え付けの紙がなかった。
入江侍従長に『紙はどこじゃ?』と。
侍従長は『陛下ご自身にあらせられます』と返答したそうだ。
TBSブリタニカ『皇室の歳時記』(入江著)に詳しく書いてある。
>>117 >>1 数多くの体験談をお持ちかと思います。
直接見聞きしたことでそ。
君が物知りなのはわかってるから。
君が侍従長だったのならもう◎だけどね。
>>118 直接体験だけではネタが尽きそうなので、
このような人から聞いた話も織り交ぜています。お許しを・・
【松田聖子 コンサート会場からの脱出劇(1980年代前半)】
ある地方都市でのコンサート終了後、会場周辺は出待ちのファンでごった返していた。
運営側の任務は、いかに安全に松田聖子を最寄の駅まで送り届けるか、と言う事である。
その際絶対に避けなければならないのは、ファンを含めたケガなどによる事故。
こういった状況下では、聖子が出てきたとたん、
ファンが押し寄せて将棋倒しになったりする危険性が最も高い。
そこで運営サイドは様々な作戦を考える。
いかにしてパニックを起こさせずにファンを撒くかという作戦である。
具体的内容はこうだ。まずコンサート会場の正面玄関に、おとりのハイヤーを3台用意させる。
その周辺に警備員を多く配置し、いかにもそこから出てくるような形を整えておく。
その間に聖子ちゃんはコンサート会場から地下通路を通って、裏の倉庫へと向かう。
そこに用意された汚いライトバンに乗り込んで後部座席の下にうずくまり、さらにシートを被せる。
華やかさと対照的な車であればあるほどその効果は大きいものとなる。
裏の倉庫の準備が整った段階で、トランシーバーで正面警備に合図を送る。
すると正面に用意してあったハイヤーがいっせいに動きを見せる。
この瞬間、ファンの眼はそこに一点集中する。「今だ!」こ汚いライトバンはそのファンの背後を
すーっと通り抜け、何食わぬ顔で群集からの脱出に成功するのだ。
しかし、中には勘のいいファンと言うのもいるもんである。
聖子ちゃんとは対極にあるはずの汚いライトバンを見つけ、駆け寄ってくる数名。
後部座席にかけておいたビニールシートを見て、落胆の表情をして帰る彼らを見届けた後、
運転席のドライバーは、安堵と共にどっと背中に冷や汗を感じたと言う。
>>118 直接体験だけではネタが尽きるだろうから、というスレ立て主のご意見だ。
後家が力もないのに踏ん張って出てくんな(爆
今夜のNHKアーカイブス
《ルポ おとこ東大どこへ行く 78年》に密かな期待。
おうおうにして私の期待は外れることが多い傾向にあり。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい:03/10/26 19:50
大学時代に米国ホームスティへ行った。
当時、1ドル255円 だった。
今の為替相場を見ると、円高も円安もクソ喰らえって気になるのは俺だけ?
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/27 00:55
昨夜のNHKアーカイブス、ご覧になった方いますか?
私の中では意外な収穫がありました。
「とめてくれるなおっかさん」の駒場祭ポスターで一躍有名になった橋本治氏が
10年後の元全共闘闘士にインタビューする場面で、芥雅彦氏という一人芝居をする男性が出てきました。
「あれ?どこかで見たことがあるような・・」早速調べてみるとやはりあの人だったようです。
何年か前にテレビ番組で東大全共闘と三島由紀夫が討論をする場面が放映された事があります。
それは討論と言うより、比較的小柄な三島を全共闘学生が取り囲み、威圧をしながらの殺伐とした
雰囲気の中で行われていました。その中で画的に異彩を放った学生が一人いました。
番組内では全共闘学生Cと記されていました。長身、長髪で無精ひげ、周囲を威圧する鋭い眼光、
しかも2歳くらいの子供を肩車して、演説する三島の真横に陣取っているのです。
このアナーキーなスタイルをした全共闘学生Cこそが、芥雅彦氏ではないかと思うのです。
芥氏がマイクで演説をしようとして野次が飛んできた時、その方向を睨み返し
「うるせぇ〜よぉ バカヤロォ〜ウ」と当時の若者のイントネーションで怒鳴ったのが印象的です。
非常に生意気な言い方ですが「へぇ〜東大全共闘の中にもこんな迫力のある男がいたんだ」と言う感想でした。
どちらかと言うと小柄でややドモリ気のある三島がやり込められているような感じですらしました。
この時の番組では最近の芥氏にもインタビューしていましたが、昔の無骨な雰囲気は全くなく、紳士的に見えました。
ほぼ間違いないとは思いますが、全共闘学生C=芥雅彦氏であると言う確証は得られていません。
もし詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示願います。
奥様憧れのハイソな住宅地もひと昔前は熊が出るよな山の中ですたね。
今日のプロジェクトXは、大阪万博の警備部分の裏話?みたいですよ。
ageておきます。
>>126 私の家の周りは今でも熊がでるよな山の中です。
この前、キジを見ますた。。。
128 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/29 12:11
>>127 しまった。総警に勤めてる友人から、その放映のお知らせメール着てたのに
(総警が万博警備を仕切ったという事で)、見るの忘れてた。
どなたか見た方、レポートをキボンヌ。
>>127 >>128 実は私も見そびれました。
再放送やるかな?
私も○ろさん同様、簡単な感想聞きたいです。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/29 13:56
1.オークションの情報入札で教えてもらったものですが、下記サイトで紹介されている
CashFiestaの裏技を使えば、ネットにつないでいるだけでどんどん稼げます!
あとはパソコンを動かしている際の電気代と儲けどちらが大きいかの比較だけです。
2.既出の新生銀行からだけでなく、東京三菱、UFJ、JNB、みずほから他口座への振り込み
を無料にする方法がありました。これも教えてもらって活用しています。
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~shoji/ReadMail.htm
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/30 12:38
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/30 14:37
平成版裏話を一つ
月曜 TBS 夜 7:00から今でもやってる
「関口宏の東京フレンドパーク」という番組
3年程前、親戚の子が公開録画を見に行ったときのくだり・・・
見てない方に申し上げると、タレントが出てきて
軽いスポーツやクイズで点数によって最後にダーツで商品が貰える番組
(脱線ゲームっぽいか?)
で、初めに両面テーブのツナギ、手袋をはめ壁にへばり付いて上に行くほど
点数が上がるゲーム。上にジャンプし易いように、ジャンプ台がある。
その日は有名歌手の元旦那、神〇マサキ。娘は頭がデカすぎて今市のタレント。
初めのゲームでジャンプしたとたん、神〇の髪が壁についたとたん
髪だけはがれてしまった・・・露呈したのは落下した髪の毛の薄い神〇
壁に神〇の髪が取り残されている・・・
会場は応援の声援が・・・水を打った静けさ・・・
しばらくしてプロデューサーらしき人の「公開中止」の弁、だった
134 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/10/30 15:19
2ちゃんねらーなら誰でも好きな?吉野家のお話です。
♪ここは吉野家 味の吉野家 牛丼一筋80年♪
のCMソングが昭和50年頃を飾りました。この80年という数字は、
明治の終わりに、当時、東京日本橋にあった東京卸売市場の一角に
牛丼専門店が開かれた時を起源としています。その後、東京卸売市場が
現在の築地に移転する際に、吉野家は、それに追随しませんでしたが、
しばらくの後、それまでのファンの要望に応える形で、築地の市場内にも
店を構えるようになりました。
このへんの事は、比較的有名な話で、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。
で、ここから、私の実体験ではなく、父から聞いた話です。
父は、その築地市場界隈での商売を、生業としてました。ちょうどそれを
始めたばかりの頃といいますから、昭和20年代後半の事と思います。
時々食べにいった吉野家の牛丼は、今のよりも濃い味付けで、
各切りの豆腐がひとつ、必ず入っていたそうです。今のスタイルの
牛丼というより、すきやき丼に近かったのでは、と思われます。
いつの頃より、今の味付け・スタイルに変わったかは定かでありませんが、
そのような時代もあったらしいという、お話とさせていただきます。
>>131 情報ありがとうございました。
>>132 その話はよく聞きますが、本当なんですかねぇ?
ダウンタウンのネタ説、その他諸説あるようですが、その噂の根源と広まり方に興味あり。
是非検証したい面白話です。
>>133 やはりあの髭面の長髪で子供を肩車していた人は芥さんだったんですね。
番組中、山谷で働いていた方のその後はご存じないですか?
法学部卒と言っていたと思います。山谷に潜入した意図を聞いてみたい。
>>134 私も、今みたいなチェーン展開をする前の吉野家はどんな感じだったのか興味がありました。
例えば、新しもん好きの江戸っ子は、肉を食うということに抵抗を示さなかったんでしょうか?
蹴飛ばしなんていう馬肉の店も老舗がありますしね。
と言いますのが、私の祖父(1901年生まれ)が田舎の出身でして、
子供の頃は四足を食うことに大きな抵抗があったようです。
その祖父が戦後まだ珍しかった牛肉を買ってたきたところ、
その祖父の母親だけは「獣臭い」と言って絶対箸をつけなかったそうです。
(と言う事は戦後になると、祖父の年代では、肉に対する抵抗感はなくなっていると類推。)
日本人がいったいいつごろから抵抗無く肉を食するようになっていったのか、
この時期に関しても、都会と田舎では格段の差があるようですね。
近所のおばさんの旦那さんが
(陸軍幼年学校〜陸士出、自衛隊の偉いさんしてたけど定年)
定年後、吉野家の社長の祐筆をしてたんだよね。
だからなに?って突っ込まないで(w
>>135 私の母(73歳)にとっては肉というのは肉屋から買うものでなく
自分ちのウサギ・鳥・かもなんかを締めて食べるもんだったのだそうです。
当然、豚や牛のような素人の手に負えないような肉は食わない。
田舎ってこんなもんじゃないですか?
>>1 都内に住んでいれば有名人との遭遇など珍しくないが
裏話なんてないし・・・・・・
意外と歴史的瞬間に立ち会っているのかも知れないが
気づかずにいるのかも知れないし・・・・
興味はあるけど、このスレにカキコできることがなくて
ロムるしかない自分が淋しい(鬱
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/31 12:31
今さらなんだけど聞いてください。
昨日うちのおばあちゃん(84歳)に聞きました。
およそ30年前、浅草の国際劇場近くのラブホから
千○夫と藤け○子が出てくるのを見たと!
しょーもない話でした。
>>138さん
そーゆーの、いいですね。ちょっとした目撃談。
>>137さん
歴史的出来事のあったとき、何してたかとかでも
いいような気がします。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/31 15:43
父親の友人が天皇の侍医をしていた。皇后がまだ妃殿下だった頃の話。
彼女のファンだったのかもしれないが、素晴らしい女性だとよく聞いた。
しかし、彼女へのいじめは壮絶なものがあったらしい。民間出身という事で
使用人たちが嫌がらせをしたのだと。
その内に声が出なくなったりとか言うニュースを聞いて、可哀想だなあと
子供心に思っていたが、自分の母親が、虚栄心が強くなくちゃ妃殿下になろうなんて
思わないでしょうといっているのを聞いて、女心の怖さを感じてしまった。
カナダ太平洋航空炎上事故
1966年3月4日午後8時14分 カナダ太平洋航空 DC‐8 羽田空港 64名
事故状況 着陸時
1966年3月4日カナダ太平洋航空のDC‐8型機が羽田空港に着陸失敗。
大破炎上。
自宅が羽田なのでこの時は自宅にいてものすごい音と黒煙が上がって
チャリで羽田まで見に行きました。その1ヵ月前にも羽田で同じような事故
があったので、かなりビビった。
>>136 そんな身近なエピソード大歓迎です。
>>137 ちょっとタイトルが大げさすぎたかもしれません。
139さんがおっしゃるようなのでもいいですし、くだらないネタでいいんです。
そこから話が膨らめば・・あくまでB級昭和史、歴史教科書的でなく週刊誌ネタ的昭和史です。
>>138 と言っていた矢先に恰好のネタが・・
千○夫も今頃後悔してるでしょうね、あの時種つけとけば、今頃娘の稼ぎで借金はチャラ。
イヤその反対に愛人隠し子騒動で裁判沙汰になってもっと賠償金取られてたかも知れません。
しかも娘にしたって千ひかるじゃ売れそうに無いしな。
>>140 なるほどねぇ。
>>141 はいはい、その事故ですか、昔住んでた近所のラーメン屋のオッサンがしきりに言ってました。
「俺、羽田のあれ見に行ったんだよ、出前の帰りにさ、」
このオッサンも僕を遥かに上回る野次馬根性旺盛な人で、事故の目撃話をしだすときりがない。
こっちが降参してしまうくらいのつわものでした。
47周年さん、そのオッサンに会ってるかもしれませんよ!
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/10/31 17:55
じゃー調子に乗って詰まんないこと加工
ホテルニュージャパンの火事のとき
白金に住んでたのだけど、救急車消防車がうるさくて
一晩中ねられなかったね。
翌朝会社(芝浦)に行ったらまだ燃えていて、
それを見ながら朝礼したにゃあ。
紅蓮の焔と黒煙を避けながら
やけになって飛び降りることなく冷静に救助を待った
小父さんが印象に残ってる
>>143 全然つまんなくないです。
私もテレビ中継に夢中で寝られませんでした。
横井英樹がトラメガで「え〜皆様のおかげで、延焼は○階と○階までに食い止められました」
と、まず自分のホテルの延焼状況の心配から入ってくる辺り、只者ではないと思いましたね。
そのあと「ただご遺体があると聞きますと云々・・」
横井英樹や強盗慶太辺りの話も本などで読んだだけですが面白いです・・
ホテルニュージャパンの火事と日航機の「逆噴射」事故
どっちが先だったか忘れましたが続いてありましたよね
あの時、友人が東京に仕事で行っていたのです
移動日も宿泊先も聞き忘れてて、もし巻き込まれていたら…と
気が気ではありませんでした。
二つの事故の次の日、その友人から呑気な声で電話が
「お〜い、元気?今東京やでぇ♪」
思わず「アホー!心配したやんかっ(怒)」と怒鳴ってしまった
何故怒られたか分からずに電話口できょとんとした友人。
まぁ、無事でよかったと思いましたけどね
(´-`).。oO(逆噴射が無かったら、蝶ネクタイ野郎はもっと叩かれてただろうなぁ〜)
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/01 06:27
逆噴射と言えば、乗り合わせて負傷した人が自分のHPにその時の
体験談乗せてますね。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/01 10:50
東京オリンピックの頃、父の仕事の関係でテキサス州オースチンに済んでいた。
ケネディーがうちのアパートの前をパレードする、ということで
兄と芝生に座ってわくわく待っていた。なかなか来なかった。
母がアパートからとび出てきて呼ばれた。
「撃たれたらしい」
ケネディはオースチンまでは来なかったわけです。
>>145 そうそう、自分と離れた場所で大事件が報道されたりすると心配になります。
僕は阪神大震災の映像をテレビで見て、西日本地区全滅と言う印象を受けました。
大阪、姫路、赤穂、と各所の友人に電話してもつながらず、ようやく岡山の知人に電話がつながり、
開口一番「大丈夫なのか?」と言うと「え?何が?」と言う答え。
台風報道なんかでも一番激しいところばかり映像で流されるのでその地域一帯がそうなのかと思ってしまいます。
ちょっと調べてみました。
1982年2月8日深夜3時25分 ホテルニュージャパン火災
1982年2月9日早朝8時50分 JAL福岡発羽田行き 片桐機長(現A機長)逆噴射決行
しかしホテルニュージャパンも長い間、野ざらしにされていましたね。
ちなみに力道山が刺されたのが、
ニュージャパンの地下にあるナイトクラブ「ニューラテンクオーター」でした。
デビ婦人が働いていたコパカパーナと並び、色んな意味で有名なナイトクラブだったようです。
>>147 よろしければリンクご紹介いただけますか?
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/01 12:22
ちなみに最近歌番組とかにでてるZEEBRA とかいうやつは横井英樹の孫
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/01 12:39
>>149 羽田沖 生存者 でググッて見てください。
>>150 え〜!本当ですか!!
財閥の御曹司ときいたことがありますが・・・!
>>150 >>152 いつも「ヨーッヨーッ」ラップ調のしゃべりでうるさくてヤだなぁ、
と思っていました。
が、先日何かのTV番組で子育ての話をしていて、
案外イイ香具師だな、などと思ってしまいました。モロ平成の話なのでsage
>>148 ついにここもグローバル化してまいりました。
その時代のアメリカって写真の中の憧れの国みたいな感じでした。
まだまだ色んな体験されてるのでは?
また聞かせてください。
蝶タイの孫は直系なんですか?お妾系なんですか?
もう一つ飛行機事故の話
日航機事故(大阪→東京便)の時、私はシンガポールにおりました
あちらに仕事で海外赴任をしていたご家族の家で泊まっていたのですが(豪華マンション)
明日は帰国という時、その一報が入りました。
近所に住む商社勤務の日本人家族から「何だか日本で飛行機事故みたいだよ」と。
あとで考えたらニュース速報がリアルタイムで入ったようです
詳細が分からず次の日に日航の直通便で帰国。機内にはあるはずの新聞がない(笑)
まだ離乳食を食べていた長男には至れり尽くせりで、離乳食・紙おむつ・オモチャを
余るほどくれました(行くときとエライ違いでした)
帰国して詳細が分かって「そういう事だったのか」とナットクしました
大阪在住なので、近所の人の知り合いなどに犠牲者がいた大事故でした
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/02 07:35
私の小学校の用務員さんが、昭和天皇の友達だった
昭和45年ごろだったか、
用務員さんの作業着のままで天皇と談笑している写真が
週刊誌に載って、父兄がみんなビビっていた。
写真が撮られた場所はどこだったのか不明。
学校は中野区です。
>>156 関係の想像が付かないんですけど。
友達って…。
>>156 元ご学友?しかし作業着のまま談笑と言う場面は何か意図を感じますね。
開かれた皇室をアピールする目的かなにかでしょうか?
>>155 私はテレビに釘付けでした。まだリモコンが無かったので
あっちこっちチャンネルを変えながら見ていましたが、現場の特定すら困難を極め、
ほぼ全局「生存者はいない模様」という報道内容を繰り返すのみでした。
そんな中、いち早く現場に到着し、生存者救出の模様を突然生放送中に乗っけたのがフジテレビでした。
破損した機体と作業する自衛隊員の中に明らかに元気な姿で治療を受ける女の子
(当初は男の子と間違えられていた)が映し出され、ヘリで救出されるまでの一部始終を生中継する
大スクープをやってのけたのです。(後に新聞協会賞受賞)
この大スクープを生放映中、他局の特番を見てみたら、あいも変わらず「生存者はいない模様・・
と繰り返すばかりでした。あまりの間抜けぶりに、よっぽど電話して教えてやろうかと思いました。
無論他局の報道部がこの映像見ていないはずはなく、この瞬間、てんやわんやの大騒ぎだったのです。
特に大事件の報道特番は、全局スクープを狙っていますから、フジにすっぱ抜かれた他局のショックは
凄まじいものだったようです。それにしても何故あの時フジだけが早い段階で生中継できたのかでしょうか?
それには理由がありました。
159 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/11/04 15:53
>>143 「非日常的な」事件を身近において、「ねられないかった」とか「燃えてる横で朝礼」とか、
「日常的な」側面で書いてあるのが (・∀・)イイ!!
そりゃ、被害に遭われた方の前では、不謹慎な云い方と捉えられてしまうかもだが、
>>143サソみたいな立場の方も多かれと思うし、そういったお話も、聞いてみたいし。
2ちゃんという匿名掲示板でなければ、出し難い話題なのでは思う。
秋の叙勲の時期という事で、その辺に関係するお噺をひとつ。
私の祖父は、長年教師をやっており、校長まで勤め上げました。
そうなると、退任後に順番待ちみたいな感じで、叙勲を受けます。
昭和55,6年頃に、祖父の順番になり、勲五等を授与されました。
勲章はもちろん重みのあるものですが、この時のお土産?で、
皇室御用達のタバコも拝領してきました。親戚一同等で、祖父の
叙勲祝いのパーティを開いた時、このタバコが喫煙者に配られ、
私も、一服。このタバコ、外見はご存知の方もいらっしゃるでしょうが、
菊の御紋が金印で押されているのが特徴です。
で、味なんですが、セブンスターとマイルドセブンの中間くらいの
やや軽めの味わい。ただ、セブンスターと比べても、ちょっと口に
残る感じがあり、タール分が多いのでは感じました。
わかりやすく、セブンスター系を引合いに出しましたが、私が知ってる中では、
「エコー」が一番近い味だと思いました。エコーって、当時でも、セブンスターの
半値、20本入りで90円だったんだよね^^;
158つづき
管制塔との交信が途絶え、機体がレーダーから消えた時刻が1985年8月12日19時1分
その1時間半後に自衛隊のヘリが墜落現場の確認をしているようです。
しかし現場が道なき奥深い山中という事と、夜間であると言う事で
多くの報道陣は、夜明けを待ってアタックすることにしていたようです。
この御巣鷹山の墜落現場は、自衛隊の登山技術を持ってしても難コースで、
特に夜間、道なき道を切り開きながら確実に現場に到達する保証は無く、
またそれには大変な危険を伴い、この時点で夜明けを待つというのはいたって常識的な判断でした。
ところがフジテレビのクルーの中に、山岳部出身の若手(私は新入社員と聞きました)がおり、
この若きスタッフが地図とコンパスを広げ、これなら何とかいける、と判断したそうです。
上司からのゴーサインが出た段階で、カメラ機材一式を背負って、フジクルーは他局よりいち早く
道も目安も無い御巣鷹にアタックを始めていたのでした。
結果フジテレビクルーは、他局を差し置いて、見事墜落現場への到達をはたし、
あの生存者救出映像という世界的スクープを生み出したのです。
このお話はフジとライバル関係にある関係者から聞いたお話です。
うちの父親も今年何でか勲章をもらえることになった。
このご時世、菊の御紋の煙草はもう無いだろうな。
163 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/11/05 10:21
>>162 禁煙化の風潮で、ということですね。
その辺の証言としても、気になるので、
お父様にそれを確認していただき、
このスレへ御報告ください。
164 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/11/05 10:35
>>161 なるほどねぇ〜、というお話です。
これも、取材力=機動力の勝利ってことなんでしょうね。
自衛隊でも難コース、山岳部出身の取材スタッフの判断、
それを許可した上司、この文言を見るだけでも、その場の
ドラマチックな場面が想像できそうです。
いや、現実は、さほどドラマのような会話は、逆になかったのかな?
>>163 今から6年前に、ある仕事で東宮御所に行った人が、そのタバコをお土産にいただいていました。
その人は中身はセブンスターだと言っていましたが、160のお話をお伺いすると市販のものとは少し違うようですね。
実際私も1本吸ってみたのですが、セブンスター自体あまり吸った事がなくて、よくわかりませんでした。
応接室のテーブル上にも菊の紋章のタバコがケースに入れられ置かれていたようです。
それと皇室カレンダー、この二つがお土産の定番だったようです。
はたして宮内庁は、いちはやくここ数年の禁煙ブームに反応し、即座に対応しているのかどうか?
確かに気になるところです。
ちょっと前に
「いまどき恩賜のタバコはいかがなものか?」と
朝日の投書欄に
掲載されていましたね
>>164 いや、現実は、さほどドラマのような会話は、逆になかったのかな?
言い得て妙だと思います。
実にドラマティックなシチュエーションほど、現場では逆に淡々と進行している事が多いような・・
ドラマティックな展開と言うのは、あくまで後で振り返った時に附随されるものであって、
その時は私の大好きな誇張表現は残念ながら無かったと思われます。笑)
吉展ちゃん誘拐事件を扱った小説のクライマックスに、昭和の名刑事平塚八兵衛が、
なかなか自供をしない容疑者小原保を、理詰めのアリバイ崩しで自供に追い込むシーンがありまして
私はこの場面が大好きでした。
沈着冷静な平塚が淡々と小原に対してアリバイの矛盾点を突きつけていくうちに
最後は小原が「私がやりました」とうなだれる名シーンなのですが、
あるテレビ番組で、この取調べの時の録音テープが公開された事があるんです。
それを聴いた瞬間、私が抱いていたかっこいい平塚のイメージは音を立てて崩れ去りました。
だって、小説のイメージとあまりにかけ離れた普通のオッサン同士の会話なんですもん・・
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/05 11:52
>>161 確かあの時、夜間だったと言うことも有るけど、ラジオアオソトープが事故機に
搭載されていたため、事故現場に近づけなかったんじゃなかったかな?
たぶん麓で自衛隊や警察が登山道を封鎖していたと思うんだけど。
夜明けと共にフジのクルーも登り始め、たまたまうまい具合に現場にたどりつけ
たんだと思うよ。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/05 16:12
日航機の事故の時は、親に内緒で彼氏とお泊り旅行からの帰り道で
中央高速のくだりをすっとばしていく緊急車両とたくさんすれちがったなぁ。
家についてから事故と知って「ああ、あれがそうか・・」と思い至った。
でも、あのとき中央高速で行った人たちは現場にたどりつけなかったんじゃ
ないか、と思うのだけど。
だって地上からのアクセスは群馬県からだものね。
そのときの彼氏は今のダンナだけど、お盆で実家に帰省すると時期的に
事故の話になり、いまだに口ごもる私たち・・・嘘はついちゃダメだよね。
171 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/11/05 17:32
>>170 重大事件を目前にした貴重な体験を持ちながら、
それをひけらかす事ができない事情がある・・・・
こういうシチュエーションは、さらに貴重な体験ですね。
推理ドラマなんかだと、ついそれを口にしてしまって、
犯人とバレてしまう、などというシナリオに使われますが。
でも、犯人じゃないし(w、今のダンナ様になってる方がお相手なら、
もうとっくの昔に時効ということで、周りにもお話していいんじゃないですか?
172 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/11/05 17:43
>>167 バイキチさん
>だって、小説のイメージとあまりにかけ離れた普通のオッサン同士の会話なんですもん・・
(wwwww
腰砕けってやつですか。
最近の話しすぎて、生々しく不謹慎かもしれませんが、
「名古屋軽急便事件」の際の犯人とのドア越しの会話が、
先日公表されましたね。、もちろん、緊迫した会話もあるんですが、
警察の担当は、犯人を落ち着かせる為か、「田舎のおっさん口調」、
犯人は、事の重大性を把握してない「おバカさん」、てな印象受けました。
ドラマ・映画を見るようなわけには、なかなかいかないようです。
久しぶりに書きます。
【不器用な男が謝りに来た】
前述のお金持ちの御曹司が少年の頃、近所に高倉健と江利チエミ夫妻が住んでいたそうです。
道路で遊んでいた時に、外車に乗った高倉健が「僕たち危ないよ」と言いながら
通り過ぎて行ったそうです。別に顔馴染みというほど深い関係ではなかったそうですし
夫妻とも多忙につき、近所付き合いはあまり無かったようでした。
そんなある日、高倉邸が火事になりました。全焼だったようです。
その数日後、高倉健本人が菓子折りを手に謝罪に来たそうです。
ご近所一軒づつ回って、「先日の火事では大変ご迷惑をおかけしました。」と詫びて回ったそうです。
後日談では、この火事の辺りから、夫婦の仲がこじれて行き、二人は別れに至ったということです。
白い巨塔のリメイクドラマが今話題ですが
以前住んでいたところ(白金)が故田宮邸のそばでした。
新聞配達のお兄さんが
「暗いうちにとおりかかると、田宮さんが木の上に座り込んでるんだよ
なにしてんだろう、って不思議におもったけど、通り過ぎてから
思い出した。あの人もう死んじゃってるんだよね〜」
ほかの人数人(酒屋とか)からも「木の上に座って足ぶらぶらさせている田宮次郎」を見た、と聞きました。
田宮さんは木の上で自縛ってるようでした。
週刊誌なんかにも載ったから覚えているひといませんか?
今は成仏しましたかねえ
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/16 22:06
今さらって感じですけど、
>>162です。菊の御紋の煙草はありませんでした。
菊の花の焼印が押してある半月形のどら焼き様のお菓子を貰って帰ってきました。
勲章の他には賞状とそのお菓子のみ。もっと色々貰えるものかと思っていたんだけど
あっさりしたものでした。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/16 22:16
緒下げ渡しだからねー
婚姻の儀の際のひきでものも 銀のボンボニエールだけ
民間でこんな程度なら けちな野郎だなーって言われちゃう(w
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/17 07:32
>>140 声が出なくなったのは宝島30に変な記事が載ったせいじゃなかったっけ?
そうだココに書いておこう。
学生時代にバイトしていた会社の上司が団塊の世代、元明大MLで飲むと時々
学生時代の話になった。
安田講堂に機動隊が導入され、いよいよ明日明大も封鎖が解かれるという夜、
最後まで残るチームに彼が入っていた。
最後の抵抗をどうするかというミーティングでその上司が
階下の教室のガス栓を全部開け、機動隊の進入とともに点火するという作戦の提案をした。
今考えると、学生が占拠した建物のガスや水道を止めていないというのも
なんとなく牧歌的なイメージである。
検討の末、ガスを爆発させると機動隊に死傷者がでるということで、投石とゲバ棒の
抵抗のみになり、残留チームが屋上で全員逮捕されたそうです。
手製爆弾が使われるようになる前の時代の話でした。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/17 20:13
数年前の中学の同窓会で、
同級生が、撃墜された大韓航空機に搭乗して
いたことを聞き驚いた!
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/17 20:53
昭和から平成ネタです
私の通っていた床屋のオヤジさんの話しです。
床屋の常連さんに宮○庁のエライ人がいて
昭和63年12月に、床屋さんで散髪時の
オヤジさんとの会話
オヤジ「天皇陛下のご様子はいかが?」
宮「年内は大丈夫だよ。国会も山場だからな」
オ「宮○庁も忙しくて大変ですね」
宮「年末年始は職員も里帰りさせてやりたいしな」
消費税を4月に実施するには、
12月中に法案を通過させなければない状況
又、年末年始の都合を考慮され、
政治の道具として必死の延命措置がなされていた。
12月24日消費税法案可決
12月28日御用納め
1月4日仕事始め
1月7日崩御
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 01:05
もう12月中にしんでて
ぜんまいで心臓だけ動いてたとか聞きましたよ
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 01:18
昔、菊の御紋煙草を貰って吸った事が有りますが当時はチェリー
って言われてた様な気がします。
>>181 実際は12月中に亡くなられてかも知れません。
医療関係者から聞いた話によると
最初に開腹手術した時に、転移がひどく
もう助からないと判断したそうです。
マスコミ関係筋ですとX−DAYは
土曜日になると予測していました。
平日ですと社会的影響が多いので
無難な土曜日を選んだみたいです
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 03:03
>>184 本人の本にでてくるアラブのおじいちゃんのところに紹介したのは横井だそうです。
なにやらすごいお話が続いていますが、
>>184>>185 ホントですか?
叶姉妹というのはあくまで芸名であって、ゴージャスな女性を演じるユニットと考えていました。
うちに帰ればスエットの上下かなんか来て「あ〜疲れた!やってらんねぇ」とか言いながら
カップラーメンでも食べているんだろうという認識でした。
いや、別に妾の子であろうとも、そこのところは関係ないかもしれませんが。
アラブのおじいちゃんなんて話は聞いたことなかったので。
例えば彼女らを痛烈に批判するデビ婦人(これも役柄なのかもしれないが)と児玉コネクション
などとの関連を考えると、下衆な興味がわいてくる話です。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 19:05
>>186 かなり贅沢な暮らしぶりは確かです。
とてもじゃないけど、芸能人のちょっとしたギャラでできるような
贅沢ではないです。
例えば、下着。
春夏、秋冬と年に2回、新しいデザインが出るのですが、
ブラ1枚3万円、ショーツで1万5千円以上は
するような物だと思います。
それを何セットも買うそうですし、一回身につけたら
2回は身につけないらしいです。
男性にはわかりにくいと思いますが、
彼女達の美容にかけるお金は半端じゃありません。
あの歳になるとカップラーメンなんて食べてちゃ
つやつやの肌なんて絶対無理です。
きちんとした食事や運動は最低必須条件です。
食事も信じられない金額ですよ。
かなり力のあるパトロンがいるであろうことは
想像してたけど、そうでしたか〜
もっと情報聞きたい〜
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 19:22
>>178 諏訪中央病院の医者から議員になった人の話しをこの間テレビで見たのだけど
そのときの委員長だったという方だそうですね。
でもガス爆発なんて起こしたら大事だったんじゃないでしょうか。
本気で考えたんだろうか。
>>188 あの先生、亡くなりましたよね。
あれは籠城戦だから、そこまではやるつもりなかっただろうと思います。
殺るか、殺られるかと先鋭化したのはその後です。
赤軍派、RGや革命左派の登場からです。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 23:21
>>183 >医療関係者から聞いた話によると
>最初に開腹手術した時に、転移がひどく
>もう助からないと判断したそうです。
最初に公表されたオペの術式はデタラメな内容で、
消化器外科医なら誰でも「?」と思うものだったよ。
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/18 23:53
その手術のときに
体内にぜんまいを埋め込んだのですね。
にしても そこまでひどくなるまで癌に気づかないなんて
御殿医はなにやってんの? 存在価値ないじゃないねえ
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/19 00:01
>>191 肝胆膵系の癌が早期発見されるのはレアケースです。
なんのために毎朝ひり出したうんこ
医者がみてるんだか(w
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/19 00:27
叶姉妹の話を再燃で恐縮ですが、美香さんから商品の注文を受けました。
単価は安いものですが、同じ物12個でした。納品したり、請求書を作ったり
係りのスタッフ(特に男性)はエキサイトしてました。
ご自宅に届けて、ちゃんと代金は振り込んでくれましたよ。
まとめ買いの話は本当ですね。
でも、平成の話・・・・・・・・スマソ
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/19 00:47
美香さん
どこのマンソンにすんでるのかしら
意外と質素なごく普通の3LDKなんかだったりしたら笑える
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/19 01:14
日本坂トンネル火災の時、入り口まであと1時間くらいの所を
トンネルに向かって走ってました。
ラジオの第一報はトンネル内で2・3台の車が燃えている、と言ったものでした。
トンネルの近くまで行くと完全に車は動かなくなり、そのまま1時間以上じっとしていましたが
何とか清水ICで一般道へ、飯食って静岡ICで再び東名に乗り、夜中の12時頃に名古屋に着きました。
杉並から12時間かかりました。
100台近い車が燃えたと知ったのは、翌日だったかな。
その後、何回か通りましたが、対面通行だったり、燃えた車が本線上に放置しあったりでした。
今では高速のトンネル入り口の信号は必ず見てますね。
>>195 家賃200万の赤坂の某マンソン、て聞いたよ。
198 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/11/19 13:59
>>175 随分前のカキコでしたが、忘れずにご報告いただき、ありがとうございます。
やっぱそうですか。
>>182 私が吸った感じでは、チェリーではなかった気がします。
>>160で書いたのが、私の思ったところ。
>>187 比較的最近、どっかのスレで同じような事を書いた覚えがありますが、
私、昨年くらいに、生の叶美香を結構間近で見たんですが、TV等では
わからない、彼女のすごさをハケーン。お尻がすごい。いつも着てるような、
薄手のシルクのようなカクテルドレスで、ファンデーションのラインなど
見えません。なのに、お尻が、グッと上がってるんですね。普通の女性が
強制下着を着けたって、あのヒップラインは生み出せないのでは、と思える
ほどの見事さでした。ナチュラルな美容を維持している事の現れでしょう。
ナチュラルでなければ、サイボーグ的美容?いずれにしてもお金かかるでしょう。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/19 22:42
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 22:58
物後ごろついて最初にであった大きな事件と言えば
ケネディ暗殺事件 大変なことがおきたらしいことは
事件を伝えるテレビニュースからなんとなく伝わってきた。
その次には吉伸ちゃん誘拐事件
誘拐直後に殺害され犯人小原保は事件数年たって逮捕され
その後死刑となった痛ましい事件だった。
吉伸ちゃんとはほぼ同世代 生きていれば40代半ばになっている。
三島由紀夫割腹事件も世間を震撼させた事件だった。
週刊誌だったと思うが事件現場の写真が公開され、三島の首が転がって
いるところが写っていたらしいが見ていない。
事件の舞台となった自衛隊であるが、今は観閲式は朝霞で行われてイいるが
このころ(昭和40年代まで)は東京都内千駄ヶ谷で行われていた。
戦車や装甲車が都心の道路を走る姿を見た。
ちなみに当時(昭和46年)の防衛庁長官は中曽根康弘だった。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 23:06
昭和天皇崩御の時、たまたま皇居前広場でデートしてた。
報道陣がわんさかやってきて物々しいんで何かと思ったよ。
右翼団体の装甲車も次々到着してみんな二重橋に向かって黙祷してた。
ただただ涙を流してるおじいちゃんとか天皇陛下万歳を繰り返す人とか
もう異様な雰囲気だったな。
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/21 23:47
>>200 三島のむすめは私同い年なんだけどね
確か11歳の時だったと思う。
事件のとき思ったこと
「お父さん死んじゃって大変だなあ、
おうちが貧乏になっちゃうし、中学出たら働かないとだめなのかな?
夏に海に連れてってくれる人が居ないし可哀想だなあ」だった。
三島乱入のとき、
切りかかって来た三島の白刃を手で握って防いだ人(自衛隊の偉い人)は
指が落ちちゃったんだよ、と近所の(自衛隊お小父さん)が話してました。
(変な文章でごめん)
>>202 子供さんは女の子だったんですか。
当日の朝、三島は執筆中の原稿を書き終え、その原稿とペンを机上に置き、
クリスマスには子供にプレゼントが届くよう、デパートに手はずを整え、
市谷へと向かったと言う話を聞きました。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 12:28
多分自分の中で一番古い記憶の気がするんですけど・・・
1966年に来日したビートルズのことをかすかに覚えています。
当事自分は4歳になったばかりだったのですが
ある晩深夜にトイレに行きたくて目が覚めたら 両親が居間でテレビに釘付けになっていました。
ちょうどビートルズが来日した時期に特番?で30分くらい演奏していました。
「凄いグループが日本にきているんだよ」みたいなことを母にいわれたのですが
メロディラインが新鮮で耳の記憶として残っています。
自分は3歳からオルガン教室に通っていたものですから特に音に敏感だったようです。
現在でもあのとき見た白黒テレビの中で演奏していたビートルズがなんとなく記憶にあります。
このスレはほんと懐かしいことばかりでいいスレですね。
40代らしいっていうか・・・他の板にはない良さがあって好きです。
1さんがんばって継続させてください。
大学生のころ、夏休み富山県の田舎に戻った。
田舎に残った友人たちは皆、車の免許を取っていてドライブに連れて行ってくれたりした。
あるとき、どこ行きたい?と聞かれて、ドライブの定番だった雨晴海岸を指定したところ、
「行きたくない。」という。
近くの浜で知り合いがデートしていたところ、拉致されそうになったから、と言う。
その夏休みの間、他の友人たちからも同じ話を聞かされた。評判になっていたのだ。
拉致されそうな現場に、北朝鮮製のマッチ、その他遺留品があったという事も聞いた。
しかし、新聞等に詳しく報道されることはなかった。
それから20数年たち、北朝鮮で拉致された方々が帰国、クローズアップされるようになり
拉致未遂事件も表に出るようになった。
一般人の私ですら、遺留品の話を知っていたくらいだから、
当然政府筋は20年以上前からこのことを知っていて、放置していたんだよね。
あと、地方では警察関係の重要機密ですら、簡単に漏れるんですね。
小学4年生の時、学校で先生が「この時間は授業をやめてテレビを見ます」と言いました。
みんなは大喜び。どんな番組だって授業よりはマシです。
先生が見せてくれた番組は札幌オリンピックの中継。
日の丸飛行隊のスキージャンプで金銀銅のメダルを取った時でした。
後で生徒は「きっとあれは先生が見たかったんだよ」と噂してました。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 14:46
通っていた小学校には教室ごとにテレビが置いてあった。
小学校3年時の担任の女の先生は昼食時児童と一緒に
食事をとっていたが食事後テレビをつけてNHKの朝の連ドラの
再放送を見せてくれた。
そのときの連ドラは「おはなはん」だった。
テレビには扉がついていたです。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 20:10
>>206 一緒だ。ウチのクラスなんて一日授業しないでテレビ見てたよ。
もう一つ、浅間山荘事件も授業しないで一日テレビだった。
おかげで鮮明に覚えてる。
今やったら問題だろうけど当時は平気だったよね。
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 20:52
浅間山荘事件の頃なんて、学校の先生は警察じゃなくて
犯人側の応援してたんだろうね。
ヘタレの心情左翼なんか
実際に革命が起こったらさっさと国外に逃げるだろ
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/22 23:19
右翼は簡単に暴徒化しそうだ。
右も左も口先だけの奴らはみんな国外に逃げるっての。
もちろんオレモナー
本日11月25日のプロジェクトXは3億円事件じゃないですか。
>>167の平塚八兵衛や、多摩五郎のカローラ と言ったキーワードが出てくるかな?
楽しみ、楽しみ。最近NHKばかり見てるし、いいかげん受信料払おうかな?
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 03:34
キューバ危機の時、親父は新聞社に泊まり込んでいた。
そして、電話を掛けてきて母親に実家に帰れって言った。
それでも帰らないでいると突然家に帰ってきて、本当に危ないから
東京にいるな、って母親を説得した。
仕方なく荷物をまとめて翌朝母の実家に帰った。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 10:51
>>200 三島の生首写真はネットではよく出回っています
見たいなら探してきますよ
(あまりグロくないから面白くないけどね)
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 12:29
あの「よど号ハイジャック」の時のよど号の機長だった人は、
マスコミに名が売れたことで、マスコミに私生活までつつかれて、
不倫が発覚してしまい、離婚、日航退職に至ったらしい。
その事実関係はまだ子どもだったのでくわしく知らないのですが、
元機長は不倫相手と結婚して、うちの実家の近所で
なぜか漬け物加工業を営んでいました。不倫相手の実家が
あのあたりにあったらしいです。
あの事件で人生を二度体験したようなものですが、
残念ながら割合早くに亡くなられたと思います。
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 12:47
機長さんご存命です。
ちょっと前にテレビで特集してましたよ。
事業は失敗して、今はアパートに1人暮らしです。
夜警さんをやって生活しています。
もうお歳もお年ですから、お体もあまりよくないように見えました。
(一度倒れてる)
インタビューなんて受けたくないかも知れないけど
幾らかにはなるんでしょうね。
あのまま機長をしていたら
考えられないほどの転落の人生ですね。
ご存命でしたか!失礼しました。正しい情報ありがとう。
(ひょっとして実家のご近所さんだったり?)
しかし、いずれにせよ寂しい人生の終末ですね。
ご本人が満足されているならいいようなものですけれど。
ああ、テレビで見られたんですね。
私って、すぐご近所さんかと思って。
早とちりだな。。。すみません。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 12:58
いやあ(画面から見る限りでは)
激しく後悔しまくりのようでした。
「あんな事件に巻き込まれさえしなければ・・・・」と。
体も悪いのに1人だし
この歳でまだはたらかにゃーならんし食えないし、
仕事クビになったらそのままホームレス転落レベルの生活です。
>後悔しまくり
なんとも気の毒ですね。
たまたまその日よど号の機長にあたったばかりに残りの
30年余りの人生が。
ついでに思い出しましたが、日航の「逆噴射機長」は、うちの地元の
大学を中退して航空大学校に入ったそうですが、
大学近所のお好み焼きやさんによく来ていたそうで、
おばちゃん、まるで自分の息子のごとく逆噴射機長の
短い学生時代のようすについて語っていました(W
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 13:41
>「あんな事件に巻き込まれさえしなければ・・・・」と。
事件に巻き込まれたから退職したのではなくて、
直接の原因は不倫だったんでしょ?(219より)
だったら自業自得だったんじゃない。
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 13:55
>>225 どっちみち機長の自業自得ではあるんですが、あんな事件に巻き込まれさえしなければ
不倫もバレなかったという事じゃないでしょうか。
そういうこと
パイロットは花形職業で愛人の1人や二人みんないたでしょ、
それが公になっったばかりに退職においこまれ・・・
好きな空もとぶことができなくなった。
今だったら愛人程度で退職ってことも
無かったでしょうにねえ。 かわいそうでつよ
石田機長は時の人として世間から持ち上げられ、のちに人生の急降下を強いられた。
人質の身代わりとして名乗り出た「おとこ山村新次郎」
彼もまた、無事解放された時、愛娘を肩車して満面の笑みで写真に納まっている。
山村新次郎→山村新治郎でした。
居ても良いじゃない
どの面下げて帰って来てるんじゃー!
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 19:38
神様 天罰を…
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 21:01
>>288 その娘に殺されちゃったんだよね、山村さん。
ひょっとしたら総理大臣まで上り詰めるかも知れないと、もっぱらの
噂だったらしいけどね。
あの機長さんもあのお年で国際線のライセンスが無かったらしい。
いわばかなり落ちこぼれであったようだけど、幸い乗務していた副操縦士
が敏腕で有名だったらしく、未知の土地へのフライトのほとんどは、副操
縦士の操縦だったらしい。
なるほど
すごい実力パイロットだ、っておもっていたんですが
内実は
女遊びに忙しくて仕事の勉強も怠っていたような人だった、
とこういう結びなんですね。
奥様とは離婚されたようですが、お子様もいらっしゃるでしょうに
愛想をつかされた状態というわけなんでしょうか?
不幸が重なってしまったんですね。
田宮高麻呂も帰りたいといって泣いてたし(馬鹿
だれも幸福になっていないね・・・・
みなさん、毎日photobankはご存知ですか?
毎日新聞が撮り集めた過去のニュース写真を集めた検索エンジンです。
もしご存じない方がいたら是非一度覗いて見て下さい。
http://www.mainichi.co.jp/ ここの一番右をダウンスクロールして行って、
お知らせと書いてある少し上辺りに毎日photobankがあります。
キーワードに、よど号と入れると、一枚目の一番下に次の2枚があります。
よど号ハイジャック事件。無事帰国後、家族に囲まれてくつろぐ山村運輸政務次官
よど号ハイジャック事件。無事帰国後、自宅でくつろぐ石田機長と喜びの家族
どちらも家族入りですので、テレビでは放送できない、また通常、要ぼかしのショットです。
山村氏は膝に乗せているほうの子に・・・
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/26 23:05
この禿げたおっちゃんに愛人ねぇ…
膝のお嬢ちゃんはかわいいね。
事件当時は精神病だったとか…
この写真からは想像できない。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/27 06:38
いくら精神病でも他人を殺すような
破瓜した人はそうはいないと思うんですよ。
やっぱ殺したつーくらいなら(それも親を)
破壊した家庭だったのかもしれないと
思ったりするんです
近親相姦の匂い
>>237 >>238 そういう意味でも、この2枚は象徴的な写真だと思います。
この二人の時の人は、この喜びの瞬間に、いったい何を考えていたのでしょうか?
未来の自分の姿を想像できようはずもない笑顔が、人生の縮図を皮肉に表現しています。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/27 12:41
あの時代、学生運動していた彼らは本当に革命なんて出来ると思って
いたんだろうか?個人的には誰も政府を転覆させるような事は出来な
いと思っていたんだろうなぁ〜。でも、群集心理というか、赤信号
みんなで渡れば怖くない、的な心理状態でどんどんエスカレートして
行ったんだろうね。よど号にしても、集団リンチにしても、浅間山荘
にしても、振り上げた手の下ろしどころがなかったと言う事じゃない
かな?
馬鹿が時代と踊ってただけでしょ。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/27 14:13
つまりジュリアナお立ち台の
乳だし毛だしネエチャンと同レベルと・・・
共産主義は後世、宗教の一種として位置づけられるんじゃないかな
マルクスの教義がユダヤ教の換骨奪胎というのは半ば常識化しつつあるし
最終革命は裏返しのハルマゲドンであってインテリがころっとやられたのも
なんか納得だし
40代でプロの革命家だった人知ってます。
少なくともその時は実現できると信じて行動していたそうです。組織の
あり方はやくざといっしょですね。当時の話はここにも書けないようなこと
だらけです。
でも、本人達は真剣でしたよ。お立ち台のおねえちゃんと同じレベルでは
ありません。今は立派な中小企業のオヤジですけどね。
革命家にもプロとアマチュアがあるとは知らなんだ。
手弁当で活躍するのがアマチュアで
北朝鮮からギャラをもらうのがプロだったりして?
>>246 そうですねおかしいですね。
専業だったと言う事です。革命運動のみに専念してたそうです。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/29 10:44
よど号の犯人はどうだったんだろ?
別に北朝鮮からオファーがあったわけじゃないし、犯人側から
アポを取り付けたわけではないのに、あのような手段に出たわけだ。
早い話、飛行機を乗っ取るところまでは計画的だったみたいだが、
乗っ取った後のことは希望的観測、こうなればいいなぁ〜、の域から
出てないし。
あの時、乗っ取られた直後に犯人の言うとおり北朝鮮に向かってい
たら、迎撃されてたかも知れないし。
こう考えると、アマチュアというか学生のお遊びだったような気がす
るな。
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/29 10:56
お立ち台のおねえちゃんより低レベルってことですな。
うん、お立ち台のネエチャンは今は
立派な医者の妻だしね
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/29 20:42
<<250
それって荒木師匠のこと?
だったら離婚したらしいよ。
>>248 お遊び、ですよね。
飛行機の乗り方も知らず(予約をしたり、搭乗30分前までには手続きを完了など)
1回目は失敗しているんですからね。(乗れなくて・・・)
操縦桿にぎって国会か霞ヶ関ビルに突っ込むくらいの行動力と根性がなきゃ
本物とは言えない。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/30 01:33
田宮馬鹿麻呂
我々はあしたのジョーだじょー
255 :
田宮金歯麻呂:03/11/30 01:35
俺なら操縦桿握って原子力発電所に突っ込むよ
気持ちいいなー
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/11/30 18:26
今から20年以上前、大学生だった私の彼氏のアパートは原宿にあった。
原宿駅まで徒歩3分という立地条件ながら
かつては下宿屋だった二階家はボロボロで崩れかけており
玄関には腐りかけた靴が山と積まれていた。
彼氏の家に遊行き、泊まった翌日は宮廷ホーム前の通りで
キャッチボールやテニスをして遊んでいたがときに宮廷ホーム内にボールが入ってしまうことがあり
門を乗り越えてボール拾いに行く事もしばしばだったが
普段は警備が全くないがしろにされており
ホーム内には誰もいなかったので咎められることは一切なかった。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/02 21:34
工エエェェ==Hi-Fi Stereo==ェェエエ工
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 13:13
名スレの予感
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 13:33
>>251 今週のスパに荒木支障を書いた漫画が載ってました
相変わらず元気そうでつ
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 13:35
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´Д` ) < 荒木師匠発見しますた!
/, / \_______
(ぃ9 |
/ /、
/ ∧_二つ
/ /
/ \ ((( ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ /~\ \ ( ´Д` ) < 発見しますた
/ / > ) (ぃ9 ) \_______
/ ノ / / / ∧つ
/ / . / ./ / \ (゚д゚) シマスタ
/ ./ ( ヽ、 / /⌒> ) ゚( )−
( _) \__つ (_) \_つ / >
>>257 原宿そばのボロアパート・・うらやましい。
映画「神田川」とか「同棲時代」なんかの世界に憧れて、一人暮らしは川沿いのボロアパート
というのが私の夢でした。いざとなるとなかなか思うような物件に出会えないものです。
映画のように簡単には同棲も出来ませんでした。
>>262 実際には、それほど素敵なものではありませんでしたw
大家のおばあさんは、昔誰かのおめかけさんだったとかで
その人の死後、もらった戸建を下宿屋として、日々の生活にあて、
下宿が流行らなくなったのでアパートにということだったみたい。
風呂なし、キッチン、トイレ共同、ほとんどの部屋は4畳半という
当時としても凄い物件でした。
ひとりでは怖くてトイレにも行けないので、いつもついてきてもらってた。
代々木ゼミナールの原宿校、今は向かい合わせに二棟立っていますが、
そのうちの一棟は、昔代ゼミの夜間照明付きのテニスコートだったんです。
アパートの住民達は、その横にある細い私道を通ってアパートに入るのですが
必ず立ち止まって、テニスの試合を見学していたようですw。
原宿話、他にもあるけど、今日はこのへんで。
ペニーレインに逝ったことがあるのは貴重かな。
>>263原宿話また聞かせてください。
それに附随して思い出した話、またまたローカルで私的な話、すみません。
昭和47,8年頃、渋谷の駅から今で言う公園通りの山手教会の隣だったかに、
YMC(ヤングメンズコレクション)というモデルガンショップがありました。
まだ当時はパルコもなくて、通りの車も今ほど走っていませんでした。
従兄弟に連れられてそこに行き、モデルガンを手に入れた帰り道、
ちょうど公園通りとファイアー通りの分岐点辺りで、
ひとりの少年が、自家製のスケートボードで遊んでいるのを目撃しました。
当然当時、スケボーなんてものは見たこともなく、その子供は板っ切れにローラースケートをつけて
その上に乗って、悠々と緩やかな坂道を下っていたのです。
私より少し年上でしたが、ちょっとカッコいい少年でした。
「渋谷の子供はすすんでるなぁ、俺たちと遊びが違うなぁ」という印象でした。
同世代から受けた最初のカルチャーショック(僅かながらライバル心も含む)でもありました。
それから数年後、日本にスケートボードが紹介されたとき、あの少年を思い出しました。
いまでもふとした時に、あの少年はどんな大人になっているのか、気になります。
>>262 バイキチさん
「川沿いのボロアパート」ではないが、
ラーメン屋の2階、4畳半一間・風呂無し・共同便所という、物件には、
2年程住んでた事がある(ラーメン屋の2階がミソと思ってください^^;)。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/06 14:07
モデルガンショップ、なつかすい。
昔付き合わされて一度だけ行った。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/06 14:35
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/06 14:37
>>267 一階が定食屋なら「俺たちの旅」の世界だな(w。
>>267 >>270 うわぁ、ラーメン屋の2階のボロアパートなんて聞いただけでワクワクしますねぇ。
(あ、誰もボロアパートとは言っていなかったですね、失礼しました)
想像しただけで、そこから楽しそうなドラマが生まれてきそうです。
下のラーメン屋に可愛い看板娘がいたりなんかして、その子がおっせかい焼きで、
しょっちゅう2階に尋ねてきては、差し入れを持ってきてくれたりなんかして、
ある日、パンツいっちょで、寝ているところへその娘がいきなり部屋に来て「キャッ」てな展開。
しかし実際住んでみると何事も起こらなかったりするもんです。
○ろさんはそこでなにか楽しい展開が待っていましたか?
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/06 20:38
突然 岡田奈々が脳裏をよぎったw
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/06 20:52
一階がラーメン屋なんて
ゴキブリのスクツのようで絶対にヤダ(w
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/07 00:15
突然 今は亡き名古屋章が脳裏をよぎった
>>266 代々木公園にまだ「たけのこ族」がいなかった頃は
ローラースケートやスケボーで遊んでいるグループが結構いました。
バイキチさんが見た少年は、その前身かもしれませんね。
たけのこ族の他にもロックンロール族っていうのがいましたね。
男の子はリーゼントに皮ジャン、女のコはポニーテールにサーキュラースカートで
キャロルの曲などを流して踊っていました。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/07 14:26
私はその頃カメラアシスタントをしてて、レフ板もってたけのこ族の間を
縫って歩いていました。
>>275 ああ、そうかもしれませんね。僕たちもミカン箱にローラースケートや台車のコマを設置して
キャベツ畑の脇の坂を滑って遊んだりしていましたが、この少年は、容姿、立ち振る舞い、
どれをとっても、そんな東京の西の外れのガキどもとはレベルが数段上でした。
板上に立って乗っている姿は妙に凛々しく、着ている服も垢抜けている。
しかも渋谷のど真ん中の道路で、大人たちの注目を浴びて颯爽と風切る姿はカッコよかったです。
のちに石原慎太郎兄弟が、葉山の海で最初に板ッ切れで波乗りしたのは自分たちだ
と言っていたような記憶がありますが、
なんか、あの時の少年も大物になっていそうな、そんな勝手な想像を膨らませています。
>>276 カメラマンのアシスタントとは、ちょっと憧れの職業ですね。
今も写真は撮られているんでしょうか?何か面白い話がありましたら聞かせてください。
僕ももう少しまめな性格なら、時代、時代の写真をまめに撮り集めていたんですが・・
なんせ撮るまではいいのですが、生理整頓が出来なくて。
278 :
○ろ ◆igMARUuJ9c :03/12/09 11:35
>>271 バイキチさん
現実はやはり・・・・・大家(ラーメン屋)は、ジジ・ババ二人で、アパートはボロですが、
その裏に小奇麗な自宅を別棟に持ってたし、そこに若いねぇーちゃんが住まってる
様子はないし^^; 同居人は、そんな場所ですから、正体不明なヤシばかり。たいがいは
学生のようでしたが、時々奇声をあげるオサーンや、見るからに場末のお水みたいのとか、
あと身寄りのないであろうお婆ちゃんが居たな。同居人とは廊下ですれ違う以外は、
接点まったく無しでした。
なにしろ、岡田奈々も名古屋章も菅井きんもいなかった(w
ゴキブリは、まあまあ並程度かな^^;
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/11 10:52
おはよう。はじめまして。
昔は結構、原宿に木造アパートありましたね〜。
スタイリストとかマヌカン(笑)とかが流行った頃
お約束のように、服飾関係の専門学校生が住んでましたっけ。
4畳半とか6畳の部屋全体に、大量の服を吊り下げ
まるでクローゼットの中にベッドを置いて生活してるみたいな。
遊びに行ったら、人台?(洋裁の時使う上半身のボディっぽいアレ)を
よいしょとどけて、座る場所作ってくれました。
人台にはキャサリンちゃんとかマリリンちゃんとか
名前がついてました。
>>279 そういう子いたねー。
マヌカンという言葉も懐かしい、死語の世界だね。
原宿のオンボロアパート住民の彼と宮廷ホーム前でキャッチボールしていたある日
見知らぬジーンズ姿の20代の男性が「○○○人さんですね」と彼に声を掛けてきた。
彼も全く知らない人だったようで、何故名前を知っているのかと唖然としていた。
「あっ、僕こういうものです。」差し出された名刺を見て二度びっくり!
原宿警察と書かれていたのだ。
彼が知りたかったのは、最近引っ越してきたオンボロアパート住民のことだった。
確かに、夜明かりがついているので、引っ越してきたことは知っていたが
一度も姿を見た事がなかったし、外に面しているガラス窓には紙を貼っていたりして
言われて見ると、怪しい奴ではあったようだ。
「あのアパートの住人の名前、全部知っているんですか?」と聞くと
「ここは宮廷ホームにも近いし、あのアパートは若い大学生ばかりだから」と言う。
どうやら、ある種の政治的思想を持つ過激派なのかどうかを探っていたようだ。
とても感じのいい刑事さんだったので、調子に乗った私達は
「どんな奴か探っておきます」と約束したのだった。
その刑事さんを二人の間で「ジーパン刑事」と呼んでいたのは言うまでもない。
その後ほどなく別れてしまったので、新住人が過激派だったのかはわからない。
>>280 面白いです。過激派と言う所が時代を感じます。
かつてそのアパートが過激はゲリラのアジトだったとか、特別警戒区域だったのかもしれません。
ボロアパートの2階で、夜な夜な爆弾を作る隣人。なんか映画になりそうですね。
実は私も学生時代、過激派の嫌疑をかけられた経験があります。
その頃私は、友人と古きよき東京の建築物や町並みを写真に収めるのが趣味で、
しばしば、都内各所を散策して回っていました。
その日は、東京駅から大正モダニズムの丸ビル、三菱重工爆破事件の現場、日生ビル、帝国劇場などを
撮りながら、皇居まで歩いていました。どうやらその様子を皇室警備の警官に見られていたらしいんです。
そんな事とはつゆ知らず、な〜んにも考えず、皇居の敷地内にフラフラ入っていったとたん、
5、6人の皇室警官が我々を取り囲むようにゆっくり近づいてきて、職質されました。
「なにを撮ってるんですか?」から始まって、「なぜビルばかり撮るのか?」
しかも驚いたことに「三菱重工を撮っていたのは何故?」とそんな前から見られていたのです。
挙句の果てに 「失礼ですが、○○大学の工学部の学生ではないですか?」
と言う質問をされ、これは面白いな、と思った私は逆に
「え?なんで?そこの大学の工学部だったらどうなるんですか?」
「僕は工学系は苦手なので爆弾なんか作れませんよ」とトンチを効かせたつもりが、
一瞬にして警察官の顔がこわばり、カメラ機材からカメラバックの中身、ポケットの中まで
身体検査をされました。最初は緊張していた警官も、こいつらに爆弾を作る能力はないと判断したのか、
僕らの冗談に乗ってきてくれ始め、最後はカメラを撮ると厄介なエリアを教えてもらい無事釈放されました。
三菱重工爆破事件から何年か経ってテレビ番組(トゥナイトかな?)に
その犯人の1人がインタビューに答えていたのを見た記憶があるんだけど
覚えている人いる?犯人の素性にも驚いたんだけど当時の警察の対応にも
メチャ驚いた。こんな事が許されるのか?って内容だったし、放送しても
いいの?って感じだった。あれは結局やらせだったのかな?あまり世間
ではそのことを追求していないみたいだけど。内容を書くのはやっぱ
マズイかな?
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/14 01:00
東京サミットの前夜
知人が車を止められ職質されてトランクの中まで見られたって
望遠鏡を積んでいたから大変だったらしい
あれって一見やばげなもんにみえるよねー
>>282 たしかインタビューに答えていた犯人は東アジア反日武装戦線だったか
連合赤軍だったか忘れたけど、当の○菱の御曹司だったね。
で、公安に捕まったんだけど海外に逃亡してくれと言われて1千万円を
逃亡資金として渡されたと言ってたな。勿論その金は○菱一族からの
絶縁金だろうけど。
>>285 その話とミャンマーのゴールデン・トライアングルの買取に
動いた人物とナヒモフ号の財宝の行方とオーストラリアの
ジャングルで発見された旧日○兵の話はタブーだよw
>>285〜
>>286 初めて聞きました。
ふと思い出したので、書いておきます。
友人のお父さんは、戦時中の小学校時代、兵庫県の郊外に住んでいました。
大阪や神戸辺りから疎開をしに来る子供が多かったそうです。
その中にひとりの混血児が混ざっており、外人、外人、といじめられていたそうです。
ある日、その友人のお父さんが、いつものように、その混血児をからかっていた所、
混血児の逆襲にあって、腕をねじり挙げられ、押さえ込まれたそうです。
そのお父さんも、体格はいいほうで、力には自身があったけど、混血児の力のほうが勝っており、
かなり焦ったらしいです。結局、周囲の友人に助けてもらいましたが、
それからそのお父さんは、混血児をいじめる事はなくなりました。
後にその混血児は、岡田真澄と言う名で、俳優としてデビューしました。
いい大人が子供からかっていじめるなんて
恥ずかしいよなあ
日本人て精神的にガキだよねえ
友人のお父さんの「子供のとき」ではないのか?
いや、おれも一瞬勘違いしたんだが。
岡田真澄ってE.H.エリックの弟だよな。耳動くひと。
ストリップ小屋に出入りする電気屋だかで面白いからスカウトされた
らしいけど。
こないだRCの例会で偶然となりにお座りになった。岡田真澄、イイ人だったよ。
さすがに「姪御さんもタイヘンですねえ」とは云えなかった。
(゚Д゚)ゝ ファンファン大佐に敬礼!
>>288 >>289 ああ、そうです、そうです。
その友人のお父さんと岡田真澄が同じ小学校だったんです。
「突入せよ!浅間山荘事件」を見ていました。
もう少し突っ込んで欲しかった部分多数あり、って感じです。
民間人でりんごを投げて撃たれた田中さんを登場させた辺りでは、
おやっ?これは期待できるかな?と思いましたが、ラストは連行シーンを入れて欲しかった。
当時の会議室の煙もうもうシーンなどは、今ではあまり無い光景ですね。
ご主人の牟田郁夫さんも、私の印象ではもっとダンディーな方でした。
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/24 03:15
>>293 あさま山荘で思い出した。
夫妻が当時若いにもかかわらず、山荘の管理人をしていたということを
不思議に思った人は少なかったのかな?
親たちがそれを言っていたな。
僕は当時、酒もやらなきゃタバコもやらず、女も知らない清い少年だったので
そこまでは頭が回らなかったな。
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/24 10:40
私今だから思います
30代半ばの若夫婦がやる仕事じゃないよね
子供うまれたらどうしるの?
スティーブン・キングの「シャイニング」という小説では30代半ばの夫婦が、一人息子を連れて
冬は雪に閉ざされるホテルの管理人をする。
教師をくびになった作家志望の夫が執筆活動に専念するためという設定だった。
確か、牟田郁夫さんは脱サラで、泰子さんの実家に近いこの地に職を求め、
たまたま募集していた河合楽器の保養施設の管理人に納まったと記憶しています。
子供が出来ないと聞いたような気もしますが、これは不正確な情報です。
泰子さんは、釈放後、マスコミからバッシングを受けたり、病室を盗聴されたりして
事件解決後も、あらゆる2次的被害を被ったようです。
その後全く、メディアにはお出になりませんが、今もご夫婦長野で暮らしているようです。
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/25 23:06
>>297 オレは映画でみたが、確かに、リゾートホテルの管理人だったな。
幼い子供もいたな。
「REDRUM・・・」とか、
「タイムスリップするシーン」とか、
ラストシーンもよかったな。映画の話になってスマン。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/25 23:28
なんで被害者がバッシング受けるのよねえ?
あのころのマスコミはひどかったよね 今自粛しすぎて頭が変だけど
>>300 そうですね、あの時代のマスコミの功罪は今のネット社会に重なる部分があるような気がします。
特にテレビに関しては、高度経済成長と共に急成長し、新聞ラジオが報道の中心だったそれまでの流れを
一気にテレビが飲み込んでいった時代とこの時期がちょうど一致していたのではないでしょうか?
いわばテレビカメラは正義であり、何をやっても許され、行き過ぎの部分があった反面、
自由な表現、突っ込んだ取材、緊迫した場面等がお茶の間にそのまま流れていた時代でもありました。
私は浅間山荘事件が起こったとき、まだ小学生でしたが、最も印象的だったのが、犯人の連行シーンです。
あれは後に知った事ですが、犯人を報道の前で晒し者にしたい
という機動隊側の強い要望が受け入れられた一種の演出であったのですが、
その効果は絶大なものであったと思います。
屈強な機動隊に両脇をかかえられ、ふらふらになりながら、醜態をさらす赤軍学生、
その極めつけは、報道陣の「顔上げろー」の声に応えた機動隊員が、
犯人の伸びきった髪を鷲づかみにし、カメラの前にその苦痛に歪んだ顔を見せ付けた時でした。
あの映像を見たとき、子供心に大変わかりやすい勧善懲悪のドラマを見ているような感想を持ちました。
全共闘世代の次世代である私に潜在したかもしれない学生運動に対する憧れの芽は、
あの瞬間に摘まれたと思います。
と同時に、警察に対してどう足掻いたって勝ち目は無い、大勢を動かす事はできない、
と言った諦めムードが、その後の人生を覆っていきました。
しらけ世代と言われる私が、冷めた目で物事を見るようになった発端は、
もしかすると多少の教育的効果を捜査側が演出した、あの強烈な映像だったのかもしれません。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/26 10:39
フセイン拘束と重なりますね
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/26 19:57
「お前には舌がないのか」ってけっこう話題になった台詞だと思うんだが
検索しても出てこないな・・・。
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/26 22:39
犯人のお母さんの「あったかいものでも食べようよ・・・」という呼びlけけが
強烈に印象に残ってます>あさま山荘事件
悲痛というのはこういうことか、と中学生ながら思いました。
よっぽど寒かったんでしょうな
【正義派】
私が3〜4歳の頃の思い出話です。
私はいつものように近所の子供たちと遊んでいました。
何故かそのときに、大切にしていた浦島太郎の絵本をもって遊んでいました。
夕刻近くになりうちに帰って、持っていたはずの浦島太郎の本が無い事に気づきました。
さっきまで遊んでいた友人や近所の人たちにも協力してもらい、
心当たりの場所を探しましたが見つかりません。
僕より年上の子供が、ここにおいてあったと思う、と指摘してくれたその場所には
こんもりとジャリの山が存在していました。
その頃は、私の自宅の前の道路がアスファルト化されるため、
そこここで砂利を埋める作業をしていて、その場所にもオート三輪が落としていった土砂があったのです。
「ここの中に埋まっているはずだ」と言う推測の元、
友人のお母さんがスコップで掘ってくれましたが埒があきません。
そこで祖母が、近くで作業する土方のおじさんに頼んで掘ってもらうことになりました。
私達は自宅で待機する事にしました。
辺りがだいぶ暗くなり始め、私も少し不安になっていた頃、ガラガラっと玄関が開く音が聞こえ、
「浦島太郎の本が見つかりました」という野太い声が聞こえました。
そのおじさんの顔が泥で汚れていた事、はっきり記憶しています。
今考えると、おじさんだと思っていたその人は、まだ10代だったかもしれません。
祖母がお礼を言い、私も感謝の気持ちで一杯でしたが、ありがとうの一言が言えぬまま、
そのおじさんは帰って行きました。
祖母は繰り返し繰り返し、「ああいう人を親切な人と言うんだ」と私に言い聞かせました。
私が「親切」と言う言葉を覚えたエピソードでした。
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/04 06:46
私たちが全共闘世代と徹底的に異なっているのは、警察を善と思っていることかな。
全学連=悪、警察=善。
80年安保なんて存在しないわけだよ。
同級生で、高卒・大卒で警察官になった友達も多いしね。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/04 08:10
>>307 80年代に全学連中央執行委員でしたが何か?
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/17 14:39
弁当も凍る(カップヌードルが大活躍)極寒の地で電気は停められ放水され
「寒かった。温かいうどんが食べたい」って人質になった被害者が語ったところ
あんたの救出のために何人もの犠牲者が出たんだ!!とバッシングを浴びたらしいが
人質の状態なら何の状況もわからないだろうし めちゃくちゃ寒かったのだから
救出されたとき「温かいうどんが食べたい」って言ってもおかしくないと思う。
バッシングされて本当にお気の毒だったと思う。
前レスにもあったけど32歳だったものね。山荘の管理人夫婦といえば55歳以上の
中高年を想像するよね。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/17 21:20
そんなことあったのか・・・
ペルー人質事件の大使なんて考えたら
この人攻められるひつようなんて丸でないよね。
昔のますこめはひどいことしたよねえ
>>310「温かいうどんが食べたい」の話は知りませんでした。
ただ、「あんたの救出のために何人もの犠牲者が・・」のくだりは、
泰子さんの「赤軍の人たちが可愛そう」と言う発言に対して出たと言う説もあります。
これは人間が極限状態に置かれた時、その中の一番強いものに対して同調してしまう心理
いわゆるストックホルムシンドロームという心理状況で、本来憎むべき加害者である赤軍学生に
強いゲーマインシャフトを感じてしまい、擁護する発言に至ったとのちに解析されています。
ご存知の方も多いでしょうが、ストックホルムシンドロームと言うのは、
ストックホルムで起きた銀行強盗で、人質になった人たちが、
救助に踏み込んだ警察官を見て、自分たちの敵に思えたという心理状況からつけられています。
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/18 13:38
>バイキチさん
そういえば「赤軍の人達は優しかった」という発言もありましたね。
ばいきちさんのレスを読んで思い出しました。
今週の週刊新潮に「猟銃男を狂わせた魔性の女」という題で興味深い記事が載っていました。
今から25年前、三菱銀行北畠支店に猟銃を持って立て篭もった犯人梅川昭美。
その数ヶ月前に、山口組の田岡組長に発砲し、ドンの命を狙った男として後世に語り継がれた鳴海清。
この二人の男には共通の愛人がいたという伝説に迫ったレポートである。
私が最初にこの噂を知るきっかけを作ったのは、映画「TATTOO〔刺青〕あり」であった。
梅川役である宇崎竜童の恋人関根恵子が、宇崎を捨て鳴海の元に身を隠す。
この時、鳴海は「でかい事してやるんや」といったようなセリフを宇崎に対して放っている。
この演出を見たとき私は、いくら同時期に起こった事件で、同年代の二人だからと言って、
あまりにこじつけすぎ、ちょっと無理があるな、といささか馬鹿にしながら見ていた。
ところがこの噂が、まんざら作り話ではないということを後に知った。
なんでも新聞記者の間ではこの噂、当時から有名だったらしい。
「梅川のつきおうてた女が、前に鳴海ともつきおうてたらしいで」
二人の凶悪犯の間を行き来する女の存在。これを脚本家は見逃さなかった。
ガセかもしれんが、火の無いところに・・と言う気持ちで、TATTOOの脚本に入れたようだ。
週刊新潮でも謎を残した形の表現になっているが、
当時流された噂の元ネタが、大阪名物のタブロイド紙であったと言う点も、様々な憶測を呼ぶところだ。
成美は当時の二枚目俳優の谷隼人に似た長身スリムな二枚目
田岡を銃撃して逃走中、警察無線でのやり取りで
それがなぜか谷啓に似た男に進化してしまった。(中年のちびでぶ)
そのため上手く逃げおおせてしまい、むごいリンチで殺された。
という話も聞いたことあります
私も新潮読みましたが、魔性っていうか、単に危ない男が好きなだけでわ?
昭和を代表する魔性はやっぱ三越の女帝。
いや王位を捨てさせたシンプソン夫人が上かな?
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/14 03:24
age
麻原彰晃に死刑判決ですね。
地下鉄サリン事件の前日、当時横浜に住んでいた私は、ほぼ同時刻に、
日比谷線に乗り、霞ヶ関で下車し、乗り換えて仕事先に向かっていました。
確かその日は休日だったと思います。朝の早い時間、日比谷線は空いていました。
翌日は仕事が休みだったので、自宅でニュースを見ていました。
一日違っていたらもしかすると自分が犠牲者になっていたかもしれません。
今考えると恐ろしいような気がしますが、当時は意外と危機感を感じませんでしたね。
身近で起こっているようでも、まさか自分が、という気持ちが強かったと思います。
最もあの頃は、仕事に追われていて余裕がなく、考える時間も無いままの生活でしたし。
横浜駅で坂本弁護士のお母さんが署名活動をしている姿もよく見ましたが、無関心。
もう少しさかのぼって、真理党から立候補した麻原の選挙カーを見ても無関心。
むしろ麻原の横にいた女の子たちが可愛いので、そっちの方に興味が行っていたくらいでした。
今後、この事件に関しては様々な検証がされていくことでしょう。
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/27 23:14
あのころ地下鉄で都心に通勤してたんだ
あのひの前日会社辞めさせられたんだ。
人生悪いことばっかじゃないよなww
>>319 う〜んなんともw スバラシイ強運をお持ちのようで
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/27 23:46
あの日、関西の友人が帰るので駅まで送りました。
しばらくして電話がかかってきました
「東京の地下鉄、どないなってんねん。
どれもこれもみんな止まっとる」
テレビを見て驚きました
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/28 01:52
>>319すごくいい話だと思います。おすだか山に墜落した飛行機に乗り遅
れた人が風呂で転んで死んじゃった話の逆ヴァージョンですね。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/28 02:20
飛行機で死んでりゃ
同情してもらえて、保証金で遺族ウハウハ
風呂場で死んでも一円にもならん、みっともないだけ
昨日の報道を見ていて思い出しましたが、3月19日が日曜日(私はある会議にでるため日比谷線に乗った日)
翌20日が月曜日で、サリン実行日。そしてその次の21日が春分の日でお休み。
という飛び石連休の間の月曜日だったんですね。
おそらく日頃あの路線の始発電車を利用する人の中には、月曜を有給休暇にして3連休取った人も多いでしょう。
ちょっとした運命の分かれ道ですよね。
メディアによっては、本部の強制捜査をもっと早くしておけば地下鉄サリン事件は起きなかったという意見もありますが、
私は、よくあの段階で踏み込めたと警察の捜査能力を高く評価しています。
あそこで踏み込んでいなかったら、ハルマゲドンは麻原の予告どおりになっていたのかも・・
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/28 13:15
TBSが弁護士事件のかぎを握っていたんだから
TBSが捜査協力して 神奈川県警がまともに動いていたら
あんな事件おきなかったんだな
でもって、なんでTBSと神奈川県警がビビッたか、といえば
宗教法人だから。
創価学会恐しの感情が大きかったと思うけど、どうかな?
とすると諸悪の根源は池田大作???
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/28 16:47
北朝鮮と野中じゃないの?
TBS自体が変質してた所為もあるでしょうね。我々が子供の頃は「報道のTBS」と
言われ、故料治さん始め硬骨漢の記者が多かった。番組構成が娯楽嗜好にシフトし、
局も新社屋建設に浮かれ報道自体が主流から遠く離れたのも一因かと(記者の
資質と視聴率主義)
また警察も県警同士の縄張り意識の弊害、恐らく公安にはある程度の情報の把握は
あっても機密主義による警察内部での情報の共有不可。人権弁護士事務所の人間と
いう抵抗感なども真剣、且つ捜査の遅れの蓄積を呼んだとも推測されます。あの時代
組織の境界を超えるには警察庁主導でなければ難しかったかもしれませんね。
まぁ、勿論前提条件として両者とも宗教法人ということで腰が重くなってたのは
否めませんが(裏社会や政治家との結びつきも含めてですが)
それにしても麻原も40代。麻原が作ったと言われるオウムの曲を聞いてると、我々が
幼少時に聞いてたアニメのフレーズによく似たものが登場してます(例えばタイガー
マスク等)もうそれだけで同世代の俗なオッサンを彷佛させますがね。
オウムって北朝鮮かな って噂もあるね
>>328 そういう事にしたいのですね。
そうやって安心したい、と。
日本人犯罪者ってのは存在しなくなるよ、そのうち(W
愚問であることは承知の上で皆さんにお聞きしたいのですが、
なぜあの男にあれだけの超エリートたちが惹かれていったとお思いでしょうか?
彼らがもし道を踏み外していなければ・・
今頃各分野で、日本のブレインになっていたかもしれないですよね。
報道の中で言っていた方がいましたが、
人生の途中までは、坂本弁護士と中川被告はおそらくよく似た環境にあったのではないかと。
勉強がよく出来て、正義感のもと、人命を救う医者を志していた中川被告と
同じく弱者救済を志した坂本弁護士とが
なぜ殺す側と殺される側の対極関係になっていったのか?
この検証は重要なことだと思うのですが、私にはうまく説明が出来ません。
エリート集団?
オウム信者は2万人居て、ほとんどはそれなりのバカばっかりです。
高学歴信者の%は同世代の人間を2万人無作為抽出したらもっと多いはずだと思う。
つまりオウムは高学歴者ばかりの集団でもなんでもなかったと思います。
どれほどの一流大学でも100人集まればひとりふたりは「はあ?」な人が居ます。
「あいつよく大学うかったよなー」「あのバカあれで早稲田なんだって」という
知人や同級生はどなたにも数人は居るはず。
オウムの連中はまさしくそいつらそのものだと思っています。
どんな集団にもバカは居ます。 あいつらは成績はよくても脳みその構造はただのバカ。
勉強がよく出来て、正義感のもと、人命を救う医者を志していた中川被告と
同じく弱者救済を志した坂本弁護士とが
どちらにも共通するのは 「俺は優秀な人間」「かわいそうな一般人を救う使命がある」
じゃないですか? 他人を救おうなんてのは思い上がりでねw
オウムから依頼者の子女を取り戻す、なんてね。 他人の親子関係に
土足で上がりこむからこんなことになる。 ほっときゃよかったのさ と、しか思わん
その意味で坂本のおっさんも中川のアンチャンも同じアナの狢
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 02:54
俺も自分が優秀だったらそれを社会に役立てようと思うだろうよ。
実際は馬鹿だから自分のことだけで精一杯だけど。
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 02:56
んだ
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 03:04
>>332 うん。そもそも理工系学部や医学部で学んでおいてああいう宗教にひっかかるよう
なのはバカといって間違いない。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 03:12
馬鹿って言うのは簡単だけどさ。
それは
>>331が問いかけたことへの答えにはなっていない気がする。
例えば上祐なんて弁も立って、ルックスもそこそこ良くて
TVを観ていた女の子にも人気があったし・・・
とりあえず、馬鹿とは思えなかった。
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 03:14
あんな宗教にひっかかる時点でダメでしょう。
まともな論理的思考力をもっていればあの手の宗教に頼る必要はない。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 03:20
根本的な問題はね、日本人の大多数は宗教を信じていないと自分では
信じていながら、実は宗教行為を日常的に行っているからなんだよ。
だから、宗教になんの免疫もない。
柏手を打って神前に祈る行為、お神籤で一喜一憂する行為、キリスト
教の結婚式で神の前で誓う行為。全て宗教行為なのに、自分では信じ
ていないと言い切る。
こんなバカな人たちにつけ込むのは簡単だよ。
神棚や神社や葬式で祈るくせに、無神論だって言う人はとにかく簡単
に新興宗教に入るよ。
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 03:20
そりゃ俺達はそうだよ、ひっかからないだろう。
で、ここで彼らがどうしてそうなったのか、
想像力を働かせて推察するのはある意味楽しいかもしれないよ、
って話題なんだろうけどね、
遊べないならカキコすんなよ、と。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/01 03:41
>>341 構いませんよ。
で、あなたは宗教を信じていないという方のそうですか?
私は自分の行動を見て、とてもそんな事は言えません。
柏手は打たないけれど、お賽銭を上げて初詣しますから。
日本人は無宗教ではありませんよ。
DNAレベルで神道が脳みそに組み込まれています。
ガキが産まれりゃ神社いってオヤジの葬式は坊主呼んでテメエの結婚式はキリスト教
クリスマスになりゃー西本願寺の鳥居にビカビカの電飾つけて
坊主が木魚をたたきながら賛美歌歌ってますよ。
それこそが神道です。八百万の神様を容認しているんです。
俺も自分が優秀だったらそれを社会に役立てようと思うだろうよ。
実際は馬鹿だから自分のことだけで精一杯だけど。
優秀でもなんでもないのがわかっていない
馬鹿なんです 中川も某弁護士もね
カルトに引っかかるか否か? の境目はやはり知的能力の欠如だと思いますよ。
ではなぜ高学歴者保持者がカルトに引っかかったのでしょうか?
それは日本の教育が自力でモノを考える能力を学力と認めていないからでしょう。
論理的哲学的思考力が貧弱でも学力試験に勝ち抜いていけるのが
日本の教育制度だから。
私に関して言えば 自分が馬鹿だからこそ返ってあのようなものには引っかからない。
なまじ自分の知的能力に自信がある人だからこそ捕らえられてしまったとおもってます。
本能が衰えている。知的能力が低い私など、あの教祖の顔写真をみただけで
本能的におびえてしまう。その本能が学力試験によって磨り減り衰えたか、
俺の知的能力は本能を凌駕する、と本人が自信たっぷりだったか判りませんがね。
>>345 <ではなぜ高学歴者保持者がカルトに引っかかったのでしょうか?
それは日本の教育が自力でモノを考える能力を学力と認めていないからでしょう。
論理的哲学的思考力が貧弱でも学力試験に勝ち抜いていけるのが日本の教育制度だから。>
なるほど、なるほど、
私が彼ら(オウムの幹部)に違和感を感じたのは、自然科学者や医者、法曹関係者までもが
なぜあの胡散臭い男に・・?と言う点です。
彼らはこう言っていました。「尊士は我々がどのような質問をぶつけようとも即座に返してくれる」
つまりそれは(私も含めてだと思いますが)自らの力で切り開く貪欲さ、というより、
教示してもらう心地よさに慣れてしまった結果かな?とも思えるような発言に聞こえました。
しかしその一方では、ある分野を極め、各論の最先端まで行き着いた時の孤独感も理解できなくないのです。
達成感と言うのは、賞賛とともに存在するものであり、
あまりに自分が突出しすぎると(気がつくといつの間にか自分が先生と呼ばれる立場になっていたりとか)
同等に会話できる人はおろか、しかってくれたり、指導してくれる人は周りを見渡してもどこにもいなくなる、
そんな状況が生まれるのではなかろうかと思います。
学校でいい成績をとって先生や親に褒められ、塾主催の公開模試では常に全国上位を目指し、
目標の大学に入り、マスターまで進学した時、ふと、そこから先の目標が見えなくなった瞬間に
あの男との出会いがあったのかな?などと勝手に想像してしまうのです。
なにか超自然的なものに憧れがあるんでしょうね
私もありますよ
四柱推命・西洋占星術・姓名判断その他モロモロ
はまると面白い。科学に近い感覚があります。
長い歴史があるだけに高度に論理体系付けられています。
その辺は近代になって学問として認められるようになった
経済学や医学・法学なんかより学問的と言えるかも知れませんね。
>>347 そうなんですか?
信者の誰かが「学問に行き詰った時、麻原の説法を聞いて道が開けた」というようなことを言っていたと思うのですが、
こればかりは私のような落ちこぼれ君にはどうにも理解のしようがありません。
学問に行き詰るどころか、その理解すらままならないのですから。
もしよろしければ、その辺りの感覚をご教示願えたらありがたいのですが・・
前述のごとく、自分で検証するより人から聞いた耳学問の方が私にはあっていますので・・
先日の「アド街ック天国」のなかで、日暮里の駄菓子屋街が再開発のため取り壊されると知りました。
生きたテーマパークが、またひとつ消えて、寂しい限りです。
もうひとつ興味深かった話が、ジーンズメーカー「EDWIN」の社名由来についてです。
番組の中では、DENIMという字をいじって、EDWINにしたと言っていましたが、
過去に私が聞いた話では、江戸勝商店がエドウィンになったという説だったと思います。
この手の話で有名どころは、創業者の石橋正二郎からとったブリヂストン商会とか、
鳥井信治郎と赤玉ポートワインの太陽からとったサントリーとか、
田、青山、竹内の開発者の息子という意味のDATSON(のちにDATSUN)などですが、
どこまでが本当なのかは知りえません。はたして江戸勝商店の真相はいかに??
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/27 15:21
a
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/30 20:27
a
60年代安保闘争のデモを見て。
茶の間のテレビの前をアンポハンタイと叫びながら、一人でデモをしてたらしい。
小学校の卒業作文の題名は「日米安全保障条約について」ですた。
その志は、生活に追われてどこかに逝ってしまいましたですが・・・。
>>354 一人デモごっこは同期の人もしてたらしい。
当時の流行の遊びだったのかも。。。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/02 12:29
オレはアメリカが守ってくれなきゃ不安だなと
子供心に考えていたっけ
昭和50年代〇×印刷の面接で、9条についてどう思いますか?という質問を
されて、改正して徴兵制・核武装もOKと答えたが、内定くれた。
無思想な人間を欲していたわけね。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/03 18:25
付和雷同な馬鹿を避けたかったんだろ。
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/07 09:11
q
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/11 13:56
はじめて来ましたので、以前の書き込みにレスします。もうしわけありません。
日本坂トンネルの大火災のとき、友人と藤沢から大阪に向かっていました。
火事には巻き込まれなくて幸いでしたが、19時間、東名の上で停滞していました。
隣近所の車同士、仲良くなりました。夏だったので、いかにもヤクザっぽいのが
アイスクリームをすごい値段で売って回っていました。
腹が立ったのは、路肩を走ってきて停滞にのまれてしまうヤツです。東北道あたり
からも、レッカーや公団の車両が来ているのですが、前進できないのです。
ほんとうに、路肩をふさぐのはいけませんよ、みなさん。
それと、そんなときでも、おろされた清水ICでは通行料金を取っていたことです。
料金徴収をやめれば、停滞も半減したでしょうし、救援車両も速く着くのに、
と、あきれたものです。
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/16 03:53
よど号事件で人質の交換に立候補した議員さん、後になんかスキャンダルが
あったように思うけど何だっけ?
即レスありがとう。
そうか、娘さんに殺されちゃったんだっけ…。
道理で今回の人質事件にコメントしないはずだw
国語学者の金田一春彦氏がお亡くなりになったそうです。
私が小学校のときに使っていた国語辞典の監修は、春彦さんの父である金田一京助氏でした。
くだらないことを書くと、当時は金田一耕助と金田一京助の区別がついていませんでした。
金田一春彦さんが生前、「日本語ほど繊細な表現力を持った言語はない」とおっしゃっていたのは印象的です。
特にその中でも氏が絶賛されていた詩が「朧月夜」でした。
この繊細な情景を英語で表現しようとしても不可能だとおっしゃっていました。
文部省唱歌は子供の教科書から一時撤退されましたが、今改めてみるといい歌があると思います。
子供の時にはわけもわからず歌っていても、大人になったときに理解すればそれはそれでいいんじゃないですかね。
文部省唱歌も復活の動きがあるようですね。
「朧月夜」
http://itotai.cool.ne.jp/kaigauta/utahp01.html
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/05/19 19:55
>>366 えええ?と思って調べたら本当だった・・・(´・ω・`)
「笑っていいとも」の漢字のコーナー、好きだったなぁ。
合掌
>>366 金田一耕助の名前のモデルは金田一京助さんだと横溝氏がどこかで書いていたような。
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/05/31 11:16
映画、”天城越え”の土工役で青年に殺害された役者は『阿藤海(現:阿藤快)』である。
最近訃報ネタが続きますが、コロムビアトップライトのトップさんがお亡くなりになったようです。
ライトさんとは喧嘩別れでしたっけ?
ソロになったときのトップさんのネタでこんなのを覚えています。
いわゆるぼやき漫才です。
「最近の歌謡曲は何を言ってるんだかよくわかんないのが多いねぇ」
「尾崎紀世彦っていうの?何であんな歌が売れるのかさっぱりわからない」
〜さてここからがぼやき漫才の始まり〜
「♪二人で〜ドアを閉めて〜って・・・・二人で閉めなきゃ閉まらない、そんな大きいドア見たことない」
ギャハハハハハ〜トップさんが怒ったような真面目顔で視線向けた観客を中心に大爆笑〜
「♪二人で〜名前消して〜って・・・・そんな大きい名前見たことない」
ここでもまたバウワハハハハハ〜
当時はわけもわからず大人たちにつられて笑っていた私でした。
昭和天皇が入院していたころ、大量輸血のため都内ではAB型の血液が不足していると、医療関係者の知り合いが言っていた。
しかし、平成天皇はO型。AB型の親から生まれるはずはない。
あれ?じゃあ当時の話はガセネタ?ずっと信じてたのに。
平成じゃ諡号になっちゃうよ。
今上天皇でそ。
(諡号って、変換できないのな。)
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/06/11 13:39
いや
確かにABつーてたよ
俺ABだから 献血したときに
「この血天皇に行くかも〜 おいらも皇族の仲間入り〜」なんて
献血センターで言ったから確かだ
今上がOてのがでまでそ
ABのRh−だったらしいな。さぞや輸血用血液集めるのに苦労したろう。
ABが10%、Rh−が1%だもんな、0.1×0.01=0.0001 1000人にひとりの確率か。
故いかりや長介さん。奥さんを自殺でなくされたんですよね。
長さん自身もその前後かうつ病で苦しまれていました。
お笑いの方は、うつになると本当に辛いようです。
ちょっと暗い話ですが、思い出したので。。。