子供の頃、家が貧乏でトラウマとなった人

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11034歳
生まれたときから両親は、小さいながらも子供服や小物の縫製業を営んでいて、
家も借家とは言いながら、工場設備と大きな庭がついている家に住んでました。
建物と庭あわせて数百坪はあったでしょうか。数人の従業員もいました。当時
ではかなりめずらしく家にピアノがあり、庭にはブランコがありました。
それまでは結構暮らしに余裕があったようです。
小学校3年になった頃でしょうか、家の工場に発注を依頼していた工場が人件費
の高騰から、生産拠点をより人件費の安い西日本や海外に移し始めました。
徐々に収入が減少したようで、家からピアノや車が消えました。4年生になる時
親から「健康のため新聞配達でもやったらどうだ?」と言われ、2年間やりました。
新聞屋さんも募集のチラシを入れたとはいえ、迷惑だったと思います。1日に
家の周りだけ数十件配達して月に6千円前後の給料でした。親は千円だけ私に
くれて、残りは貯金しておくからと言いながら使ってしまったようでした。
配達ルートで、とある家の人が「こんな小さい子が配達しているのは何か訳が
あるに違いない」と思ったのか、私を見かけるたびに果物やお菓子をくれました。
当時は何も分からず「ありがとう」と言って受け取っていましたが、今思い返すと
本当にありがたいことだったと思います。
11134歳:2001/07/18(水) 01:22
6年生になる頃、ついに工場を畳むことを両親は決心。借家も引き払い母の実家
へと家族は引っ越します。そこで、新しい仕事についた父ですが、40を超えていて
町工場時代の収入はもはや望めません。実家に入って立場の強くなった母との
関係は徐々に悪化する一方です。母の実家も裕福ではありません。
中学生の頃、雪国に住んでいたので体育の授業にはスキーをすることがありました。
私は「全員スキーを持ってくることになっているから」と親に泣きつき、苦しい家
計を省みずに新品のスキー道具一式を買ってもらいました。ところが同じクラスに
スキーも買えない人がいて、なんと竹を真っ二つに割って、縄で長靴を固定する
自作スキーを学校に持ってきていました。私は不用意にもその話を親にしたところ
「みんなが持っているって言うから無理して買ってやったんだ。ふざけるな」と
言われてなんともいえない気持ちになりました。
いろんなことがあって高校を卒業し、地元にとどまるのは嫌なので東京での就職
を決心し、上京しました。親はかなり反発し、引きとめようとしましたけど
ある交換条件とともに許可してくれました。それは「20歳になったら、家に金を
入れてほしい」というものでした。
20歳になった日の週末、実家から帰省せよとの知らせが。帰ってみて親が言うには
11234歳:2001/07/18(水) 01:22
「サラ金での借金の連帯保証をしてほしい」
金額はなんと650万円。聞いて呆然としてしまいました。両親は熱心に説得を
試みます。私もこのままでは東京に戻れないのではと思い、連帯保証してしまいます。
当時のサラ金は、今とは比較もつかないほど怖いもので、私が連帯保証人の書類を
作りに行ったときも別室に閉じ込められ、担当者から数時間にわたり両親が罵倒
されていました。保証人になって翌月から月数万円の返済です。私が連帯保証した
ことにより、金利を年5%にしてもらっていたのでこの程度の返済で済んだそうです。
毎月徐々に返済していくうちに、サラ金の担当者が交代しました。代わった人は
以前銀行にいた人らしく、かなりこちらに同情してくれて、今後の金利を免除して
くれました。これで徐々に残債が減っていき、わずかずつの返済ですがあと数ヶ月で
完済と言うところまできています。14年間返済を続けてきたため貯金はほとんど
ありませんが、ようやく一つの目標を達成しようかと言うところです。

親からは、今でも金を無心しようと電話がかかってきます。でも申し訳ないが
私も人生の半分が終わろうと、もしかしたら終わっているかもしれませんので、
親不孝ながらも後は見捨てさせていただきます。マジでもう勘弁してほしいです。

>>106
>お金と教育が無い親からは幸せな子供は産まれない。
に激しく同意いたします。