リビドー理論が正しいとして、自力で鬱克服

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41Mari… ◆818u/SH5LE
今日もビール2缶・ワイン2本飲んでしまいました、ざっくりとは書けます(荒れた文章ですが、議論の材料になれば…)

>アンチオイディプスあるいはプルーストとシーニュに既に出てくる、概念のことを指したつもりです。

それなら、私は「逆追跡」を含んだラカン、つまり「無意識」も「構造」の枠から外していった彼を見ています(>>24
ただ、ここは後で突っ込んで説明します、というよりここが核心なんですよね。
核心以外の部分は、このレスで、一通りさらおうと思います。

>社会科学における全体論者、という理解であっているでしょうか。

そうですね、彼も考えを変えてきているので…例の「中心〜辺縁」の構図の話で単純化したいのですが、まず「破壊的イノベーション」がそれを揺さぶった。
緩やかに技術発展を遂げている先進国を、従来の辺縁であった国が「緩やかなうちに」「近いレベル」で追いついて「価格破壊」で競争してくる。
そして、情報化により「フラット」な社会になった(ボードリヤールは「情報の価値」の危うさを見抜いていましたよね)という話を、以下で行います。

私は「ラッセルのパラドックス」を今考えていて、クワインは科学論の話にとどまらず、存在論についてなど色々な業績の広さに感嘆します。
ただしいずれも、やはりスレの筋から外れそうなんですよね(クワイン以上に今はクリプキを当たっているんですけど、スレ違いの方向に行きます)

>僕は、隠れた全体主義だと思ってます。

現在この国に住んでいればそう思うでしょう、ホッブズの頃(ルソー以前)に戻っています、彼は多数派の優位を否定していません。
【マクロ】では多数派が次々と取り決めをして行く、『麻生発言』は釈明どおりでしょう、ただナチスの時代とは【ミクロ】の「私たち」が変わりました。

「共同体」が無数にできて、さらに分権というものが加わると、少数派の意見が複雑な道筋でスルスル上がってくることがありえます。
1人が複数の共同体に所属するため、【ミクロ】では「主体性のゆらぎ」が生じますが、「ゆらぎ」は【マクロ】である共同体では織り込み済みです。
これは、【ミクロ】と【マクロ】の中間(新たな共同体)が多様化したと言えます、つまりトクヴィルの時代と絶対的な変化が起こっていると言えます。

《民主政》という言葉は古くからありますが、「人民が政治を動かす」という意味で、どのように意見を調整するかは時代によって変容しています。
このスレも、【ミクロ】と【マクロ】の中間であり、何らかの考えが抽出されていくわけです。
これがさらにsmall world networkを巡回するのですが、…実はこのあたりは別の場所で一度書いたんですよね、コピペに近い形になります。
42Mari… ◆818u/SH5LE :2014/03/30(日) 02:11:32.17 ID:E0qfNWjB
「絶対王政」後の「個人主義」、そこから発生した「多数決原理」はいまだ強力で、それを含む無力感があります。
現代的な「多数決原理」の源泉は、ルソーよりさらに遡って、ホッブズになるでしょう。
その後、「個」(1票)をどのようにするかという議論や、少数は少力(パワー)かという議論もありました。

今「『共同体』(コミュニティ)の再考」の動きがあります、かつては、一人の人間が所属する「共同体」は数に限りがありました。
一人の人間が複数の「共同体」に跨るという状況は想定するのが難しかった、そのように言えます。
いまや、一人の人間が複数の「コミュニティ」に所属する、そのような状況がもう当たり前のように存在しています。
ネットにおける「コミュニティ」の存在感は、交友関係や利害関係など、あらゆるところに無視できない形で浸透し続けています。

その背景には、「グローバル化による均質化」があり、「世界標準」の設定であったり、「市場主義」であったり、「グローバルなカルチャー」
であったりするわけです。それはフォード主義的な「所属」の中での均質化とは異なるものです。
これらに抗するものとして「多元主義」(マルチカルチュラリズム、インターカルチュラリズム)が引き合いに出されますが、
多元主義が多数決に対抗する力を持ちうるには、権力が分散していなければなりません(集中してはならないと言ってもいいでしょう)
アメリカは、既に地方分権という形で多元主義を導入していますが…

今の「グローバル化による均質化」は遥かにスケールの大きな「均質化」であり、「自己同一性」の危機から自らを守るために、
他者と(少なくとも)ある程度の「差別化」を図りたいという欲求が増大してきたと思われます。
ただ、書きたいことを書こうとするというのは、最終的に、自分自身の「思考」を模写することに行き着くと考えます。
裏返せば、「匿名性」を重視すると、「私的言語」から遠ざかり、書きたいことが書けないという状況が生み出されうるのです。。

ネットの登場・進歩により「『私的言語』が似た」相手が見つけやすくなりました。
そのような相手同士が集まって「コミュニティ」を形成すると、容易に「共通の言語体系」も生まれると思います。
すなわち、ある問題意識を(その賛否は別として)共有するような「コミュニティ」では、この「私的言語」が拡張されうると思うのです。
そのうち、「コミュニティ的言語」とか「スモール・ワールド的言語」と呼ぶべきものが生まれていきます。

それを共有するメンバーは「確実に特定される」ようなことはなくなっていくと考えられます。
さらに、差別化の強化のために複数の「コミュニティ」に所属し、
「コミュニティ」間で重なり合う領域を見出すことで、相互理解を図るということも可能になりうると言えるのではないでしょうか。
この「コミュニティ」の遍在と、そのクロスオーヴァーによる「言語体系」の交換に、新たな可能性を見出すことが可能だと思います。

強力な『コネクタ』(わかりやすく言えば、人気者)が、人脈の鍵にならなくなってきた傾向も示されています。
これは、Barrett et al.,(2005)が示したものですが、『人』が「コネクタ」でないという傾向は見られるのです。
当事者たちは「ある程度似た者同士」ではなく「コミュニティ」を形成しているという意識があり、
一方で、「完全な傍観者」はその外側に存在するという状況です。

しかし、『高インパクトファクターの論文』のように、人と言うよりは『ツイート』あるいは掲示板の書き込みではどうでしょうか。
むしろ、学術の世界以上に『インパクトファクター』のようなものが吸引力を持ちうるかもしれません。
この発想は、『炎上商法』的なものの受容を見ていて、『炎上商法は実効性を持ちうる』という思いから浮かんできました。
コミュニティ固有の「問題意識」を発信することで、何らかの影響がそこに生まれてくるかもしれません。
もっとも、その影響の予測や統制はより困難なものとなってしまいました。
匿名で活動している人物が『炎上商法』的なことを行うのはリスクが大きいと思います。

『実名』を売りにしてきたmixi内部での匿名志向や、Facebookの若年世代における利用の伸び悩みがこれに対応する結果と考えられます。
可能性のある若年層でありながら『無名』に留まっている者・世代は、捨て身で『実名』で発言できません。
『有名』な者(企業の経営者など)は、Twitterに目を通すようになったけれども、時間的制約などから『表面を掬う』レベルに留まっています。
43Mari… ◆818u/SH5LE
ここで、見田(2001)の言葉を借ります。
>二〇〇〇年の日本社会は、一斉の蜂起の如く継起する「一七歳の犯罪」に震撼することとなる。
>一連の事件がこの年のこの社会を震撼したのは、その攻撃の対象の任意性、不特定性、そしてその動機の「非条理性」、
>つまり先行の諸世代にとっての理解不可能性を以てであった。

彼は、結びで「テクノロジー空間がふるさと」であるような世代が生まれてきている、ということを示唆します。
そして、「ロマンティックな純愛」を基底とした核家族あるいは「極小化された愛情共同体」、
彼はこれを〈限界の愛情共同体〉と呼ぶ、ここが特に「精神的な拠り所」と言っています。
ここが、「テクノロジー空間がふるさと」である世代に、特に匿名文化と合わさると「どういうこと」が起きるのでしょうか。

秘匿された共同体が生まれてくる、このような共同体は、家族を(多くの場合、意識的に)他者にしうると言えるのです。
「家族はこの新しい親密圏の、他者である。 世界に向かって開かれてゆく共同体の、他者である。」
そして、このような共同体を「完成され純化された近代のシステムの、外化され物象化された共同体」と言うのです。
彼のこの文章の中で、もっとも分かりやすい表現は、これだと思われます。

〈親密なもの〉の濃縮。 そして散開。

『世界は「フラット」になった』、そして新たな「共同体主義」が生まれてきている。
「新たな『共同体』」(わかりやすい例で言えば、スレですね)ごとにルールがあり、その中で自由が縛られたりしている。

ネットがさらに、想像を超えたレベルで浸透すると、この傾向は強まるでしょう。
実際、「家族」というものを親(「ネット」とともに育っていない世代)は重視していても、子供は新しい感覚に染まっています。
「自己」とはなにか、「人間関係」や「家族」とは何か、「孤独感」をどう考えるか…

このような問題が、今までとは比べ物にならないレベルで『深刻』になると思います。