1 :
きり :
2014/03/12(水) 19:57:57.57 ID:P6A/XkIE リビドー理論、それは遡れば、ショーペンハウエルの盲目的な生の衝動である。 で、欝は、それを抑圧していることで生じる、とする。 もし、欝が、確かに社会制度や環境によって引き起こされているにしても、 実際に自分の生的エネルギーを抑圧するものを、自分で作り出しているのなら、 鬱のメカニズムをリビドー理論によって根拠付けることで、解決することができるのではないか?
2 :
優しい名無しさん :2014/03/12(水) 20:01:33.46 ID:57vfZrnU
精神分析はもうはやらんだろ
3 :
きり :2014/03/12(水) 20:02:42.84 ID:P6A/XkIE
精神分析が流行らんのは、実証的じゃないから、という単にそれだけの理由。 形而上学が流行らないのと一緒で、学問の貴賎には関係ない。
4 :
優しい名無しさん :2014/03/12(水) 20:08:28.04 ID:57vfZrnU
まあ臨床ではないよね。で、どう治すんだ? リビドー全開にするのか?
5 :
きり :2014/03/12(水) 20:11:54.13 ID:P6A/XkIE
まずは鬱のメカニズムを、リビドーによって根拠づけてからだろうw
6 :
優しい名無しさん :2014/03/12(水) 20:14:32.19 ID:57vfZrnU
早いとこ結論を書こう。治せんよ。
7 :
きり :2014/03/12(水) 20:16:02.10 ID:P6A/XkIE
治せないということを、根拠づけられるのか?
8 :
優しい名無しさん :2014/03/12(水) 20:18:17.82 ID:57vfZrnU
治らんもんは治らんという端的な事実。精神分析で治ってればここまで廃れないだろう。
9 :
きり :2014/03/12(水) 20:20:27.56 ID:P6A/XkIE
精神分析が流行らないのは、そういうことじゃなくて、実証的じゃないという 内的な学問的な理由だよ
10 :
優しい名無しさん :2014/03/12(水) 20:23:18.19 ID:57vfZrnU
アメリカで精神分析が流行ったが全然効果がなく、代わりにできたのが認知療法。
認知行動療法を主体にする時、長年の「認知」の修正に成功するとは限らないので、 ’日本では、「暗示」(意識体験治療)でねじ伏せる、という技法も多用されるけど) 納得させるため(治療にはならない)に「精神分析」が有効な場面はしばしばあると思う。
訂正
× ’日本では
○ (日本では
「暗示」(意識体験治療)は「体験治療論と」呼ばれたりもするけど、
要するに「催眠」が基盤なので…「自己催眠」という方向もあって、
>>1 はそこに辿り着いてない?(普通は「脳性麻痺」とかに使うけど)
>>11 補足
「感情の反射」→「認知療法」or「意識体験治療」→『所見』+「精神分析」(ラカン+ユング)→「行動療法」
私は、この『特殊チャート』の精度が上がるように改良したくて、数ヶ月ほど試行錯誤・思考の繰り返し…
「フロイト」を切って、臨床例が稀な「ラカン」に変えるのに苦しんでいる(ラカンは、「説得の材料」は多い)
>>12 訂正
× は「体験治療論と」呼ばれたり
○ は「体験治療論」と呼ばれたり
今日は「気苦労」があったせいか、ミスが目立つ…休むべきだわ(たぶん、私はここに要らないだろうし)
14 :
きり :2014/03/13(木) 10:21:00.92 ID:0uEmxRj6
>>10 アメリカで精神分析が切られたのは、また別の事情。
分裂症治療に際して、精神分析が人道的・倫理的に不適切だと判断されたから。
>>11 俺はあくまで、理論としての精神分析を評価し、それから鬱をどうやって直すか、という
「実践的側面」はあとからついてくるもので、また別のものだと思う。
>要するに「催眠」が基盤なので…「自己催眠」という方向もあって、
>>1 はそこに辿り着いてない?(普通は「脳性麻痺」とかに使うけど)
うーん、俺は自己催眠というより、理論的に鬱を基礎付け、そうした認識の上に立って、
自分で意識的に納得した上で、実践的に鬱を克服したいので、
自己催眠とは違うかなあ。
>「フロイト」を切って、臨床例が稀な「ラカン」に変える
とはどういうこと?
理論としてはラカンはフロイトの発展系だと思うけど。
>>14 >俺はあくまで、理論としての精神分析を評価し、それから鬱をどうやって直すか、という
あなたは《理論の追究》に慎重で、私は早めに《臨床の結果》に重点を移した、と見られませんか?
あなたの仰る通り、「別のもの」として、《共存》を志向したいです(《議論》と《争い》を別にしたい…)
私は(最終的に)脳科学の専攻なので、医・薬の弱点は多いですし、「臨床例って?」と思いますよね。
カウンセリングには、縛りが少なく(臨床心理士も要件でない…)、《不調時の対応》が即時できます。
ネットを使えばという話ですが、当然のことながら、本来の意味の《所見》は医師たちが行うわけです…
ただ、医師は《医療行為》をネット上で行うのが困難なため、《アスク・ドクターズ》でも苦慮しています。
私が一番「ネットは凄い」と思ったのは、早朝に症状を訴えた方への指示が、完璧に当たった時です。
私自身は、《BPD》を寛解(≠完治)させ、《BPDは、精神療法>薬物療法》との通説を《体感》しました。
まず、フロイトは《神経症》に拘ったため、'50年代以降のような「分裂症」の処理に失敗したと見ます。
娘・アナも多くの思索を行いましたが、アナは「抑圧」と、《発達》(いまだに難問)を探究しましたよね。
そしてラカンは、「リビドー」は追究し、アナの「抑圧」重視は叩きました(『無意識』の重視ですよね…)
>形而上学が流行らないのと一緒で、学問の貴賎には関係ない。
私が、ラカン以外に関心が強いものは、「形而上学」を葬ろうとした『初期』のウィトゲンシュタインです。
その「追究」は、とある先生に影響されたのですが…私は、彼の講義に通い「Vexations」を行いました。
彼の『論考』の一部、特に『梯子』の記述などは、ショーペンハウエルの影響が指摘されていますよね。
>理論としてはラカンはフロイトの発展系だと思うけど。
'60年代以降、臨床では『行動主義』が有力となり、「精神分析」は理論(思想)で語られたと思います。
この時代背景もあって、フロイトは(初期は抵抗がありましたが)、早期に『臨床』に持ち込まれました。
一方で「フロイトの発展系」とあなたも仰るラカンは、「発展系」であるはずなのに、臨床例は貧弱です。
恐らく、あなたは「理論」の不足部分、私は《臨床例》の不足部分を掘り下げるという意識だと思います。
16 :
きり :2014/03/13(木) 19:18:32.65 ID:0uEmxRj6
>あなたは《理論の追究》に慎重で、私は早めに《臨床の結果》に重点を移した、と見られませんか? あなたの仰る通り、「別のもの」として、《共存》を志向したいです(《議論》と《争い》を別にしたい…) 私は(最終的に)脳科学の専攻なので、医・薬の弱点は多いですし、「臨床例って?」と思いますよね。 そうですね。仰るとおり、私は、理論>実践(臨床)というスタンスです。 ラカン自身も、別に臨床は意識してなかったように思います。 >まず、フロイトは《神経症》に拘ったため、'50年代以降のような「分裂症」の処理に失敗したと見ます。 60年代以降は、分裂病が盛んに論じられましたよね。私は、ドゥルーズが専門なので、そのことは強く感じています。 >私が、ラカン以外に関心が強いものは、「形而上学」を葬ろうとした『初期』のウィトゲンシュタインです。 その「追究」は、とある先生に影響されたのですが…私は、彼の講義に通い「Vexations」を行いました。 彼の『論考』の一部、特に『梯子』の記述などは、ショーペンハウエルの影響が指摘されていますよね。 形而上学を葬りさろうとする傾向は、20世紀の哲学に、ほぼ共通しているでしょう。 ヴィトゲンシュタィンに限らず、論理実証主義者はもちろんそうだし、ハイデガーすらそうです。 ドゥルーズやデリダもそうでしょう(もちろん論理実証主義とは別の視点からですが)。 ヴィトゲンシュタインの初期に関心があるとのことですが、基本的な記号論理学はやられていますか? >'60年代以降、臨床では『行動主義』が有力となり、「精神分析」は理論(思想)で語られたと思います。 この時代背景もあって、フロイトは(初期は抵抗がありましたが)、早期に『臨床』に持ち込まれました。 一方で「フロイトの発展系」とあなたも仰るラカンは、「発展系」であるはずなのに、臨床例は貧弱です。 この辺は、どこの分野でも一緒ですね。哲学におけるプラグラマティズムは、もうちょっと前だけど、 行動に先立つ理論、反省という視点が、そもそも近代的だとして忌避されてる。 僕がラカンがフロイトの発展系だと言ったのは、仰るとおり臨床面では度外視して、 ソシュールなどの構造主義を取り入れ、単純にフロイトのリビドーを掘り下げたから。 僕は、理論はまず実践と切り離して突き詰めた上で、それをどう実践に移すか、ということを考えているのだけれども、 こういう発想そのものが前前世紀的なのだろうか?
17 :
ムキンポ :2014/03/13(木) 19:24:17.00 ID:FsUH9iKl
お前らごちゃごちゃうるせー 二人でリビドーに身を任せてセックスでもしてろ
>>15 ↓の改行は、ブラウザのバグで入りました(最近、多いです…)
>処理に失敗したと見ます。
>
>娘・アナも多くの思索
『1・3・1・3・1・3・1・3・1・3・1・3』の《行》構成が崩れましていますよね。
もう一箇所、「彼の講義に通い」〜「彼の『論考』の一部」については、
2つの「彼」が別の人物を指しているのので悪文ですね。2つは順に
「とある先生」・「ウィトゲンシュタイン」です(文脈でわかりますね…)
>>16 >ラカン自身も、別に臨床は意識してなかったように思います。
そこは、彼が「精神科医」であったため、微妙なところなんですよね…
>基本的な記号論理学はやられていますか?
はい(N先生のみですが…)、その後、別のN先生の影響を受けました。
>こういう発想そのものが前前世紀的なのだろうか?
私は、《「理論」の不足》が見い出せれば、世紀は関係ないと思います。
>>18 また訂正させていただきます。
× 崩れましていますよね。 ○崩れていますよね。
先ほど(18時過ぎ)、帰宅したばかりなので、まだ落ち着きが足りないみたいです…
>はい(N先生のみですが…)、その後、別のN先生の影響を受けました。
最近、「学閥」について議論があったので、ここは《彼(など)》向けに書いています。
(無視してくださって構いません)
20 :
優しい名無しさん :2014/03/13(木) 20:04:12.23 ID:fhCg5MJe
神は来ませり
あ、この部分は論じるのを早めに切りましょう(これ、スレ違いですよね…) >ヴィトゲンシュタィンに限らず、論理実証主義者はもちろんそうだし、ハイデガーすらそうです。 論理実証主義者が、『論考』を聖典のように扱っている間に(「虚像」を祭り上げていた…) ハイデガーが『存在と時間』を著し、ウィトゲンシュタインはハイデガーに対し共感を示した。 その後、ポパーとハイデガーが(やり方は別として)並行して、論理実証主義を切り捨てた。 私の理解で書きましたが、ROMの方向けで、あなたの方が詳しいでしょう…
22 :
きり :2014/03/13(木) 20:38:16.49 ID:0uEmxRj6
>>ラカン自身も、別に臨床は意識してなかったように思います。 >そこは、彼が「精神科医」であったため、微妙なところなんですよね… もちろんそれは理解してますよ(笑) >論理実証主義者が、『論考』を聖典のように扱っている間に(「虚像」を祭り上げていた…) >ハイデガーが『存在と時間』を著し、ウィトゲンシュタインはハイデガーに対し共感を示した。 >その後、ポパーとハイデガーが(やり方は別として)並行して、論理実証主義を切り捨てた。 >私の理解で書きましたが、ROMの方向けで、あなたの方が詳しいでしょう… そうですね、この部分はサラッと。 うーん、しかし私の理解とは違いますね。ハイデガーは、論理実証主義など意にも介さなかっただろうし、 論理実証主義者はハイデガーなど眼中にないでしょう。このあたり、20前半から哲学の二分化が激しくなりましたね。 もっと言えばラッセルとベルグソンから・・・ ポパーは、完全に論理実証主義者の系列だと理解してました。調べてみると、論理実証主義を批判してたんですね。 いずれにしろ、科学哲学者ですよね。 「反証可能性」と「開かれた社会」くらいしか、彼に対するイメージはない・・・初期の論理実証主義から、カルナップまでのつなぎ程度の認識しかないです(スミマセン) Mari…さんもアカデミックな世界で活躍してるのかな・・・ いろいろ教えてほしいです。 精神分析が華やかな場面から引いた理由についての意見とか、 ラカン以後の精神分析とか。
>60年代以降は、分裂病が盛んに論じられましたよね。 >私は、ドゥルーズが専門なので、そのことは強く感じています。 これが臨床の観点だと、 「ロボトミー→クロルプロマジン(1952)・ハロペリドール(1957)」、という流れからの派生に見えたりします。 思想の世界に持ち込むなら、『臨床医学の誕生』などを引いてみて、こういう考えも浮かびます。 《症状》による分類か、《治療》による分類かなど色々とあやしい(まず、《型》として破爪・緊張・妄想がある…) >ソシュールなどの構造主義を取り入れ、 >フロイトのリビドーを掘り下げたから。 私は、ラカンの真意を(臨床的には《テクスト》ではない)、急に「臨床的」に読み直し始めました。 在野で、そういうことをなさっている方に影響されて、そうなったんですけど… >Mari…さんもアカデミックな世界で活躍してるのかな・・・ >いろいろ教えてほしいです。 いえ、アカデミックはいったん蹴飛ばしました(研究の途中で、プツッと辞めました) ただ、まだ若いので、結局は戻ってしまうんでしょうね。 >精神分析が華やかな場面から引いた理由についての意見とか、 >ラカン以後の精神分析とか。 このあたりは、ドゥルーズについての見解をおもに求められている、と読めてしまいます。 ラカン自身が、晩年はガタリを逆追跡しましたよね、ただ《機械》概念は「実践」が厳しいと思います。
一言付け加えると、この「逆追跡」はまさに構造主義を捨てに行って、ガタリ以上に神経症と精神病の「境界」を追いかけているんですよね。 これが、BPDに関係する者(今は「神経症」と「精神病」の《境界》という捉え方はされませんが…)つまり、私の注目を引いたという感じです。
25 :
優しい名無しさん :2014/03/14(金) 05:10:06.15 ID:s9NpEi/1
まさかメンヘルサロンで ショーペンハウエルやウィトゲンシュタインの 名前を見ることになるとは胸熱。 しかも携帯で変換出来るし。 吃驚したわ。
>>22 補足(日記?)
アカポス志向を示唆しましたが(
>>23 )、「教員」は向いているかあやしい感じです…
新人の方々のミスを抑止できなくて、今日は約2時間のスケジュールが潰れました。
年上とは半年ほど無難に過ごしましたが、約3週間前から編成が変わり、似た失敗を3度目しています。
現時点では、ここの議論とは別に、「教育」についても考えないと危うげな感じです。
もっとも、大学院に戻るなら「お金」を用意したいので、来週から改めて頑張ります。
>>25 確かに…検索ツールで調べたら、私の「繰り言」は幾つかあるのですが、多くが「スルー」されていました。
そのため(むしろ)、似た話を繰り返したため、「スルー」される状況が生まれてしまったと思っていました。
>野矢はウィトゲンシュタインとラッセルの相違にこだわりがあると思った。
>あの人の文章は好きだよ。
>論理トレーニングとかじゃなくて、ウィトゲンシュタイン関連のね。
>「論理的原子論」、ここにこだわってた。
>ウィトゲンシュタインはもう前期から、その考えを乗り越えようとしているって強調してたね。
>野矢はウィトゲンシュタイン関係しか持ってないって言ったけど、さんざん立ち読みしたしな。
>『大森荘蔵-哲学の見本』は今度読もうと思う。
>チョムスキーは言語学の大家だよ。
>ラッセルやウィトゲンシュタインの潮流にもあるけど、だいぶ最近の人。あ、生きてます。でも80越えてるな。
>奥さんも言語学者なんだよな。ハーバードで博士もらった女性だ。
>ウィトゲンシュタインの言葉
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」「思考の表現に限界を引く」
>つまり、言語は思考の道具であり、思考を表すものである。
>「人間は言葉を脳内で操って思考する」から。ウィトゲンシュタイン好きは、何か言いたくなるだろうな。
>『論理哲学論考』はこういう本だよ、項目が「1、1.1」とか続いて、7だけは小数点以下がない。
>6.522 Es gibt allerdings Unaussprechliches. Dies zeigt sich, es ist das Mystische.
>6.53 Die richtige Methode der Philosophie ware eigentlich die:
Nichts zu sagen, als was sich sagen lasst, also Satze der Naturwissenschaft - also etwas, was mit Philosophie nichts zu tun hat - ,
und dann immer, wenn ein anderer etwas Metaphysisches sagen wollte, ihm nachzuweisen, dass er gewissen Zeichen in seinen Satzen keine Bedeutung gegeben hat.
Diese Methode ware fur den anderen unbefriedigend - er hatte nicht das Gefuhl, dass wir ihn Philosophie lehrten - aber sie ware die einzig streng richtige.
>6.54 Meine Satze erlautern dadurch, dass sie der, welcher mich versteht, am Ende als unsinnig erkennt, wenn er durch sie -
auf ihnen - uber sie hinausgestiegen ist. (Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.)
Er muss diese Satze uberwinden, dann sieht er die Welt richtig.
>7 Wovon man nicht sprechen kann, daruber muss man schweigen.
>ウィトゲンシュタインやディラックやフォン・ノイマンの言うことは、一般人…私でも入るわ、が真面目に受け取っちゃいけない。
>項目の番号に、2.01231とか、2.02331とか、4.12721とか、5.47321とか、6.36311とか出てきて…
>あれは『論理哲学論考』の全文でしかない。あれを、ウィトゲンシュタインは本として出したわけよ。
>センスは怖いよ。ウィトゲンシュタインの話も、センスの話だし。
>実は、『論理哲学論考』は本文以外にも本人のコメントがあって「哲学の問題を最終解決した」って書いてある。
>最後の「7」だけあっさりしているのは、「はい、これで解決」ってニュアンスなんだよな。
>ウィトゲンシュタインの方が、ある意味難解じゃないよな。一応、整然と書くから。 >ラカンは考えを変えながら書き散らすからな、私もそういう奴だけど。 >「理性の限界」という言葉で前期ウィトゲンシュタインをすぐ連想します。 >ラッセルとウィトゲンシュタインは何度か語っていて、「暇スレ」で語っていた時にあなたが立ち会っていたのも知ってるけどね。 >ウィトゲンシュタインは、言葉には限界があると踏んで、著書の最後に「語りえぬものは、沈黙しなければいけない」と書いた。 >彼はその後、この考えを修正した。 >ただ、最近のウィトゲンシュタイン研究者…というか野矢茂樹は、この『論理哲学論考』という本を再評価しようとしている >ただ、追随者は少ない。 >フォン・ノイマン、ディラック、ウィトゲンシュタイン、ゲーデル… >「これ、人間なんだろう?」っていう人が、歴史上にはゴロゴロいます。 >『論理哲学論考』は、後期ウィトゲンシュタインが乗り越えていない部分があるのではないか。 >後期ウィトゲンシュタインも、本人そして多くの研究者が「今までを『超克した』ものを生み出した」と考えています。 >論考や青色本は、あくまで過渡期だと言わんばかりの人も少なくはありません。 >ダダが下火になった頃に、逆に言語、そして思考の限界を探る『論考』が出てきたという… >まぐれだろうけど、ダダ→『論考』みたいな流れを考えてたわ。 >直前で言及された「対象a」すなわち「objet (a)」を連発したり、呼びかけは埋めてある。 >ウィトゲンシュタイン(とリアリーあたりが混ざってるな)を意識してあるから、例の住民たちなら「寝ぼけて書いたでしょ?」なんて言いかねないけどね。 >「私的言語」とは内的体験であり、ウィトゲンシュタインは「これは伝えることができないから『言語』と呼べない」と言うわけですが、 >本当に「言語」にならないのか。本当に記述できないのか、これこそが「意識のハードプロブレム」が問うところだというわけです。 >「フラッシュバック」という、その圧倒的な体験(そして、体験したことの体験である) >これが「言語」を超えたものであることを、私は否定することができない。 >それでも、「語りえぬもの」であって、しかも「沈黙しなければならない」 >しかし、この「否定することができない」は、「確実性の問題」を持ち出されうるものだと言われれば「否定することができない」。 >今現在、私たちは「信念」について議論することになっており、そして実際に議論している。 >「悪書」を読まないこと、これが読書でもっとも大事なことだ。と書かれた書物がありますよね。 >その人の主張を踏まえて、ある人は言いましたよね。 >「梯子を上り終えたら、その梯子を放り投げなければならない。」 >私だけ「理性の限界」を拾って、フラッシュバックや脳や『論考』の話をしていました(伝統芸すぎる…) >(「BOOK」データベースより) > >本書は類い稀な人生の記録である。 >ポール・ファイヤアーベントという、今世紀最も独創的で、最も影響力の大きかった知識人の一人が自ら綴ったこの物語は、その死の 僅か数週間前に完成した。 >オペラ・テナーとしての約束された才能と音楽への自らの不朽の熱情、ヴィトゲンシュタインからブレヒトに至る様々な人物との出会い、無数の恋愛事件、4回の結婚、 同時に四つの大学から終身在籍権を保証されたほどの圧倒的なキャリアなどを、彼は淡々と振り返る。
ショーペンハウエルへの記述がほとんどないのは、おそらく時代背景だと思います。 今は「デカンショ」ではなく、ショーペンハウエルがニーチェあたりになっていますね。
29 :
きり :2014/03/14(金) 20:17:33.95 ID:eSuAiy1I
>《症状》による分類か、《治療》による分類かなど色々とあやしい(まず、《型》として破爪・緊張・妄想がある…) うーんなるほど。 >このあたりは、ドゥルーズについての見解をおもに求められている、と読めてしまいます。 >ラカン自身が、晩年はガタリを逆追跡しましたよね、ただ《機械》概念は「実践」が厳しいと思います。 そういう意図はありませんでした、ラカン以後というと、反精神分析になってしまうのですか? 私の中では、ガタリはもちろん馴染みだけれども、精神分析の人から見るとかなり異端なのではないか、という 漠然としたイメージをもっていました。 ラカンを、批判的に受け継ぎながらも、反精神分析でなく精神分析の枠内で仕事をした人、という意味合いで質問しました。 機械は、確かに実践は難しい、というより、実践が臨床における治療を意味するのであれば、まだ機械概念を十分に 実践にまで延長・接続している人がいないだけなのではないか、と思います。 私自身は、機械状無意識は、かなりリアリティーを言い当ててると思います。
>そういう意図はありませんでした、 これが「読めます」ではなく、「読めてしまいます」であるのは、《私はそう読んで見ようと思う》というやり口なんですよね。 理論屋さんはこれをやられる時代で大変ですよね、(臨床的には《テクスト》ではない)と書いたのは、そういうことです。 >機械は、確かに実践は難しい、というより、実践が臨床における治療を意味するのであれば、まだ機械概念を十分に >実践にまで延長・接続している人がいないだけなのではないか、と思います。 繰り返しになりますが、ラカンを「実践にまで延長・接続」している人が少ない、《ガタリ以後》のラカンはさらに少数です。 >機械状無意識は、かなりリアリティーを言い当ててると思います。 「ドゥルーズが専門」と仰っていたので、意外な返答でした…『アンチ・オイディプス』以後の、ガタリの《単著》ですよね。 ラカンの《逆追跡》は、構造主義から距離を置き、ガタリを念頭に《対象a》を見据えました(この時期の両者は近いです) そして、ラカンはその後、すぐに亡くなってしまいました…
31 :
優しい名無しさん :2014/03/26(水) 01:08:26.72 ID:36D5VRF1
お前らニーチェとマルクスはどう思う? ヌルポ
32 :
優しい名無しさん :2014/03/26(水) 22:17:40.35 ID:36D5VRF1
やったー神だー
33 :
きり :2014/03/28(金) 14:32:37.81 ID:THvOzLPk
ニーチェもマルクスもフロイトも現代思想を準備した偉人だろう。 でも時代は感じるよね。
34 :
優しい名無しさん :2014/03/28(金) 14:35:30.96 ID:kGIjz99S
そうかぬるぽしたけど反応ないからこのスレ死んでるのかと思ったけど。
35 :
優しい名無しさん :2014/03/28(金) 14:38:02.53 ID:kGIjz99S
マルクス以外は全然詳しくない。ニーチェは今はまってる
36 :
きり :2014/03/28(金) 14:41:42.82 ID:THvOzLPk
>>31 ガッ
それぞれ、近代的な実体主義を別々の視点から批判したのでした。
マルクスは関係主義、ニーチェは存在に対する生成の優位、フロイトは方法としての精神分析(実体としての無意識ではない)
マルクスは、資本論をいつか読まなきゃなーと思ってるけどなー
あの分厚さに尻込みする
37 :
優しい名無しさん :2014/03/28(金) 14:44:45.80 ID:kGIjz99S
マルクスは資本論だけだけどね。ちゃんと読んだのは。 大谷の社会経済学読んで方読むと理解が楽だよ
私もROMしていました、ただ今はちょうどお酒が入っているので (Friday Nightですからね、フィーバーまでは行っていませんが…) レベルが上がるとついていけません。
>《症状》による分類か、《治療》による分類か 《境界性パーソナリティ障害》という分類、特に、《ターゲット》概念が曖昧になるような事例を見ました。 私は「交際相手と家族のどちらを選ぶか?」と訊かれたら、「交際相手!」と答えるので、 BPDらしいと言えます(ただし今現在は寛解/社会的治癒の状態です) Xさんは「家族」と答えるのは間違いないのに、 普段は《ターゲット》を別の人(1人)とみなすべきではないか?という行動パターンを取っていました、 もっとも…私が知りうる限りでは「『ネット上での活動』にそのような行動がほぼ限定されていました。 「フラット化する世界」(T・フリードマン)においては、「近代世界システム」(ウォーラーステイン) から「外化され物象化された」(見田) 新たな形で復権してきたコミュニティが生まれている、 これは思想の世界でもトクヴィルの再考など様々な動きがありますが… 精神病の分類にも影響が大きいのは、言うまでもないですよね(先行研究が少ないので、ここで考えたい)
40 :
きり :2014/03/29(土) 20:17:00.05 ID:abmraoNl
>>39 おっと、レスが遅れてすみません。
>「ドゥルーズが専門」と仰っていたので、意外な返答でした…『アンチ・オイディプス』以後の、ガタリの《単著》ですよね。
ラカンの《逆追跡》は、構造主義から距離を置き、ガタリを念頭に《対象a》を見据えました(この時期の両者は近いです)
機械状無意識は、ガタリの著書というより、アンチオイディプスあるいはプルーストとシーニュに既に出てくる、概念のことを指したつもりです。
リアリティーを表現する概念として、非常に優れたものだと思うんですね。
今でこそリゾームなどという概念は、その直観性もあって通俗化しましたが。
>「フラット化する世界」(T・フリードマン)においては、「近代世界システム」(ウォーラーステイン)
>から「外化され物象化された」(見田) 新たな形で復権してきたコミュニティが生まれている、
>これは思想の世界でもトクヴィルの再考など様々な動きがありますが…
ウォーラーステイン。社会科学における全体論者、という理解であっているでしょうか。
全体論者と言えば、クワイン。
クワインは、超越論という方途を取らないのならば、一つの高次の経験論の最もラジカルな形だと思います。
>さらに民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」だと断じ
これはトクヴィルのウィキからの引用。
民主主義は隠れた君主制であると。僕は、隠れた全体主義だと思ってます。
今日もビール2缶・ワイン2本飲んでしまいました、ざっくりとは書けます(荒れた文章ですが、議論の材料になれば…)
>アンチオイディプスあるいはプルーストとシーニュに既に出てくる、概念のことを指したつもりです。
それなら、私は「逆追跡」を含んだラカン、つまり「無意識」も「構造」の枠から外していった彼を見ています(
>>24 )
ただ、ここは後で突っ込んで説明します、というよりここが核心なんですよね。
核心以外の部分は、このレスで、一通りさらおうと思います。
>社会科学における全体論者、という理解であっているでしょうか。
そうですね、彼も考えを変えてきているので…例の「中心〜辺縁」の構図の話で単純化したいのですが、まず「破壊的イノベーション」がそれを揺さぶった。
緩やかに技術発展を遂げている先進国を、従来の辺縁であった国が「緩やかなうちに」「近いレベル」で追いついて「価格破壊」で競争してくる。
そして、情報化により「フラット」な社会になった(ボードリヤールは「情報の価値」の危うさを見抜いていましたよね)という話を、以下で行います。
私は「ラッセルのパラドックス」を今考えていて、クワインは科学論の話にとどまらず、存在論についてなど色々な業績の広さに感嘆します。
ただしいずれも、やはりスレの筋から外れそうなんですよね(クワイン以上に今はクリプキを当たっているんですけど、スレ違いの方向に行きます)
>僕は、隠れた全体主義だと思ってます。
現在この国に住んでいればそう思うでしょう、ホッブズの頃(ルソー以前)に戻っています、彼は多数派の優位を否定していません。
【マクロ】では多数派が次々と取り決めをして行く、『麻生発言』は釈明どおりでしょう、ただナチスの時代とは【ミクロ】の「私たち」が変わりました。
「共同体」が無数にできて、さらに分権というものが加わると、少数派の意見が複雑な道筋でスルスル上がってくることがありえます。
1人が複数の共同体に所属するため、【ミクロ】では「主体性のゆらぎ」が生じますが、「ゆらぎ」は【マクロ】である共同体では織り込み済みです。
これは、【ミクロ】と【マクロ】の中間(新たな共同体)が多様化したと言えます、つまりトクヴィルの時代と絶対的な変化が起こっていると言えます。
《民主政》という言葉は古くからありますが、「人民が政治を動かす」という意味で、どのように意見を調整するかは時代によって変容しています。
このスレも、【ミクロ】と【マクロ】の中間であり、何らかの考えが抽出されていくわけです。
これがさらにsmall world networkを巡回するのですが、…実はこのあたりは別の場所で一度書いたんですよね、コピペに近い形になります。
「絶対王政」後の「個人主義」、そこから発生した「多数決原理」はいまだ強力で、それを含む無力感があります。 現代的な「多数決原理」の源泉は、ルソーよりさらに遡って、ホッブズになるでしょう。 その後、「個」(1票)をどのようにするかという議論や、少数は少力(パワー)かという議論もありました。 今「『共同体』(コミュニティ)の再考」の動きがあります、かつては、一人の人間が所属する「共同体」は数に限りがありました。 一人の人間が複数の「共同体」に跨るという状況は想定するのが難しかった、そのように言えます。 いまや、一人の人間が複数の「コミュニティ」に所属する、そのような状況がもう当たり前のように存在しています。 ネットにおける「コミュニティ」の存在感は、交友関係や利害関係など、あらゆるところに無視できない形で浸透し続けています。 その背景には、「グローバル化による均質化」があり、「世界標準」の設定であったり、「市場主義」であったり、「グローバルなカルチャー」 であったりするわけです。それはフォード主義的な「所属」の中での均質化とは異なるものです。 これらに抗するものとして「多元主義」(マルチカルチュラリズム、インターカルチュラリズム)が引き合いに出されますが、 多元主義が多数決に対抗する力を持ちうるには、権力が分散していなければなりません(集中してはならないと言ってもいいでしょう) アメリカは、既に地方分権という形で多元主義を導入していますが… 今の「グローバル化による均質化」は遥かにスケールの大きな「均質化」であり、「自己同一性」の危機から自らを守るために、 他者と(少なくとも)ある程度の「差別化」を図りたいという欲求が増大してきたと思われます。 ただ、書きたいことを書こうとするというのは、最終的に、自分自身の「思考」を模写することに行き着くと考えます。 裏返せば、「匿名性」を重視すると、「私的言語」から遠ざかり、書きたいことが書けないという状況が生み出されうるのです。。 ネットの登場・進歩により「『私的言語』が似た」相手が見つけやすくなりました。 そのような相手同士が集まって「コミュニティ」を形成すると、容易に「共通の言語体系」も生まれると思います。 すなわち、ある問題意識を(その賛否は別として)共有するような「コミュニティ」では、この「私的言語」が拡張されうると思うのです。 そのうち、「コミュニティ的言語」とか「スモール・ワールド的言語」と呼ぶべきものが生まれていきます。 それを共有するメンバーは「確実に特定される」ようなことはなくなっていくと考えられます。 さらに、差別化の強化のために複数の「コミュニティ」に所属し、 「コミュニティ」間で重なり合う領域を見出すことで、相互理解を図るということも可能になりうると言えるのではないでしょうか。 この「コミュニティ」の遍在と、そのクロスオーヴァーによる「言語体系」の交換に、新たな可能性を見出すことが可能だと思います。 強力な『コネクタ』(わかりやすく言えば、人気者)が、人脈の鍵にならなくなってきた傾向も示されています。 これは、Barrett et al.,(2005)が示したものですが、『人』が「コネクタ」でないという傾向は見られるのです。 当事者たちは「ある程度似た者同士」ではなく「コミュニティ」を形成しているという意識があり、 一方で、「完全な傍観者」はその外側に存在するという状況です。 しかし、『高インパクトファクターの論文』のように、人と言うよりは『ツイート』あるいは掲示板の書き込みではどうでしょうか。 むしろ、学術の世界以上に『インパクトファクター』のようなものが吸引力を持ちうるかもしれません。 この発想は、『炎上商法』的なものの受容を見ていて、『炎上商法は実効性を持ちうる』という思いから浮かんできました。 コミュニティ固有の「問題意識」を発信することで、何らかの影響がそこに生まれてくるかもしれません。 もっとも、その影響の予測や統制はより困難なものとなってしまいました。 匿名で活動している人物が『炎上商法』的なことを行うのはリスクが大きいと思います。 『実名』を売りにしてきたmixi内部での匿名志向や、Facebookの若年世代における利用の伸び悩みがこれに対応する結果と考えられます。 可能性のある若年層でありながら『無名』に留まっている者・世代は、捨て身で『実名』で発言できません。 『有名』な者(企業の経営者など)は、Twitterに目を通すようになったけれども、時間的制約などから『表面を掬う』レベルに留まっています。
ここで、見田(2001)の言葉を借ります。 >二〇〇〇年の日本社会は、一斉の蜂起の如く継起する「一七歳の犯罪」に震撼することとなる。 >一連の事件がこの年のこの社会を震撼したのは、その攻撃の対象の任意性、不特定性、そしてその動機の「非条理性」、 >つまり先行の諸世代にとっての理解不可能性を以てであった。 彼は、結びで「テクノロジー空間がふるさと」であるような世代が生まれてきている、ということを示唆します。 そして、「ロマンティックな純愛」を基底とした核家族あるいは「極小化された愛情共同体」、 彼はこれを〈限界の愛情共同体〉と呼ぶ、ここが特に「精神的な拠り所」と言っています。 ここが、「テクノロジー空間がふるさと」である世代に、特に匿名文化と合わさると「どういうこと」が起きるのでしょうか。 秘匿された共同体が生まれてくる、このような共同体は、家族を(多くの場合、意識的に)他者にしうると言えるのです。 「家族はこの新しい親密圏の、他者である。 世界に向かって開かれてゆく共同体の、他者である。」 そして、このような共同体を「完成され純化された近代のシステムの、外化され物象化された共同体」と言うのです。 彼のこの文章の中で、もっとも分かりやすい表現は、これだと思われます。 〈親密なもの〉の濃縮。 そして散開。 『世界は「フラット」になった』、そして新たな「共同体主義」が生まれてきている。 「新たな『共同体』」(わかりやすい例で言えば、スレですね)ごとにルールがあり、その中で自由が縛られたりしている。 ネットがさらに、想像を超えたレベルで浸透すると、この傾向は強まるでしょう。 実際、「家族」というものを親(「ネット」とともに育っていない世代)は重視していても、子供は新しい感覚に染まっています。 「自己」とはなにか、「人間関係」や「家族」とは何か、「孤独感」をどう考えるか… このような問題が、今までとは比べ物にならないレベルで『深刻』になると思います。