1 :
優しい名無しさん:
2 :
優しい名無しさん:2009/07/30(木) 20:50:12 ID:HLeJDYG0
それでは皆さん お茶、珈琲、紅茶、麦茶、ドロリッチ、ビール、チューハイ、ジャスミンティー
日本酒、焼酎、ホットミルクココア、黒烏龍茶、ドクターペッパー、ドロリッチ入りましたよ。
∧_∧
( ´・ω・)
( つ旦O 旦~旦~d□ d□ c□ c□ c□ 日 日 日
と_)_) d■~~d■ d□~~d□ d■~~d■~~ 日 日 日 ○○○ 凸凸凸
3 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 01:27:26 ID:A6B8uZ28
あげ
4 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 01:27:41 ID:A6B8uZ28
あげ
5 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 01:57:14 ID:evlR+LqD
>>1 乙です
>>2 こんばんは
いつも発泡酒なのでビール頂きます。
6 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 03:44:12 ID:e38qxHbd
>>1乙です
こんばんはー、眠れねェーッ
でもやることはやったーいやっほおおおう
7 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 03:45:08 ID:+RmJ3VYt
眠気がキタ。やっと寝れそうだ。
8 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 05:08:28 ID:9Ft7fC8c
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 実質4670番目 |
|________|
∧∧ ||
( ゚д゚)||
/ づΦ
9 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 05:10:16 ID:uUlio7VP
age
すみません、こっちは使わないでください!
,.、 ,.、
i,!'; ,!i';
; lj: ;,リ;'
;' "´゙ヽ
;' ;. ‘,,λ ) あっついけど
;' ( ^ω^) ふわふわだお
,.;゙; (ノ ';)
`'ヾ;,(つ;,;,(つ
12 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 08:31:53 ID:A6B8uZ28
おはよう涼しいね
13 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 10:36:41 ID:/11jBwic
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 実質あっちだよ |
|________|
∧∧ ||
( ゚д゚)||
/ づΦ
2
15 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 12:52:45 ID:A6B8uZ28
また本スレ様が荒れてるよwwwwwwwww
半コテを控えるようお願いしただけなのに
ミーって最近よく来てるデブ喪女の元メガネ屋店員が逆ギレwwwwwwwwww
テラバロスwwwwwwwwwwww
1
2
18 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 19:29:23 ID:5uKAGFPY
次スレ立ててくる
19 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 19:30:51 ID:kMm20BL8
なんでいっぱいスレあるんだろ
20 :
優しい名無しさん:2009/07/31(金) 21:05:35 ID:1NhDfHXb
いちおつ
4
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 実質4677番目 |
|________|
∧∧ ||
( ゚д゚)||
/ づΦ
23 :
優しい名無しさん:2009/08/01(土) 06:58:05 ID:u7r2rNDK
ここなの?
どこなんだw
本スレにいた人達でスレ立ち待ちな人は分室に行きましょうー
じゃないとおもふくしちゃう(´・ω・`)
もうここでいいよ。
27 :
優しい名無しさん:2009/08/01(土) 06:59:45 ID:XsJUTZPp
これ使ったらだめなん?
生理前と生理きてからの性欲の差がひどい
生理前は淫乱なのにその他はエロ糞男ちねと思ってしまう…
前スレでくだらない相談に乗ってもらってすまんね
おじさん本気で悩んでるんだわ
∧∧ ∧∧ __._
∩゚Д゚,≡,゚Д゚) |.|
`ヽ |)====
| _ |〜 .|__|.|
U U
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌─┴┴─┐
/ つ.実質 4677│
〜′ /´ └─┬┬─┘
∪ ∪ ││ _ε3
゛゛'゛'゛
これでいいですか〜
>>30 うん
メンヘラんなって生活のリズム狂ってから変なとき性欲増す
超困る
36 :
優しい名無しさん:2009/08/01(土) 07:13:05 ID:H0c4F4cC
>>35 私も。今は旦那がいるからいつ性欲増しても安心だ。
元カレとやって途切れての繰り返し
もうやだ
∧∧ ∧∧ __._
∩゚Д゚,≡,゚Д゚) |.|
`ヽ |)====
| _ |〜 .|__|.|
U U
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌─┴┴─┐
/ つ.実質 4679│
〜′ /´ └─┬┬─┘
∪ ∪ ││ _ε3
゛゛'゛'゛
はろーはろー
やっぱり今日も引き篭もりだ。
スレ乱立やめろ
ここと同じテンプレのスレがあるので
重複になるので削除依頼して下さいね(はーと
43 :
優しい名無しさん:2009/08/01(土) 14:51:20 ID:3P51mJYR
こんな所にもあったw
| 何について調べたいの?
| ┌────────────┐
| | |
| | |
| └────────────┘
| [ オプション(O) ] [ 検索(S) ]
|
`──────────┐ ┌───
r,ヘ──- ,ヘ_ ..| ./
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`i Lノノハノ」_〉
(.iiつ゚ー゚ノi|
\.iji.ハi⊂)
〈/_|.i.i.i.|_〉
∪ \)
へ --── _
\|″ ____))
l二>/ 〜〜〜〜ソ
く/_|ゝζ ノノノ)))))〉\ 故意符「マスタースパーク」;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'''''''''''''''''''''''''''''.... ::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;
.くん i‖┬ ┬.||i><! ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'''''''''''''''''''''''''''''.... ::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;'''''''''''''''''''''''''''''
i i.i ゛ ー .ノi.ii-―⊂ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'''''''''''''''''''''''''''''.... ::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;'''''''''''''''''''''''''''
i .i i\ ・゚・。ノ从从i)> ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:::::...................................................................................
√ ヽ@_X ノi ;´(フノ!! ;;;;;;::::::::::::'''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''.......... :::::::::::: ::::::''''''''''''
/│ ⊂ iHi⊂ リ ;;;;;;;;;;;;;;;:::::::::::................................................................. :::;;;;;;;::::::::::::'''''
/ \ |つ/_/__/つ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:::::::::::::::::::::'''''''''''''''''''''''''''''....................::::::::::::....::::;;;
/ ヽ__ノ し ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:::::::::::::::::::::'''''''''''''''''''''''''''''....................::::::::::::....::::;;;
く │ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'''''''''''''''''''''''''''''.... ::::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;::::::;;;;;;;;;;;;;;;
ヾ=====┘ ::::::;;;;;;;;;;;;;;::::::;;;;;;;;;;;;;;'''''.... ::::::::::::::::::::;;'''''.... ::::::::::::::::::::;;;;;;
し し
50 :
優しい名無しさん:2009/08/02(日) 03:21:02 ID:yEIqE3xP
今月から断酒することに決めた。
まず初日は成功。
いつまで続くかな。
DVDで『おいしい殺し方』を観る。
女優としての犬山犬子に拒否反応がでてしまうのは、だれかを彼女に投影しているからか?
もしくは「自分は彼女のような才女からは一生相手にされないだろうな」という惨めな感情を、見るたびに想起させられるからとか。
たぶん本心では、すごい好きなんだと思う。
どこか悔しいのはなんでだろう。
51 :
優しい名無しさん:2009/08/02(日) 11:06:32 ID:vg3HsKDf
52 :
優しい名無しさん:2009/08/02(日) 13:39:04 ID:QoUu+D7B
いつだったか、太宰治の掌編である「一つの約束」という作品を読んだ。
うろ覚えだが説明すると、難破して遭難した水兵が灯台に助けを求め、
その灯台に登ろうとした際、外から灯台守一家の夕餉の風景を見てしまい、
水兵は「ああ、自分が現れたら、この家族の団欒が壊れてしまう」と、
再び海に戻ってしまう、という話だ(ほんとは、この寓話をベースになんかグダグダ教訓を垂れる文章だったような気もするが……)。
なんにしろ太宰作品によくある、人の弱さとそれに対となる自己憐憫が巧く描かれていて面白かった記憶がある。
太宰本人は、周囲から見ればかなり図々しい性格だと思われていたらしいけど。
そういや、この水兵みたいな気持ちって、私もバイトの初日とかによく感じるなあ。
私もまだまだ甘ちゃんだってことかな。
すごい好き(誤) すごく好き(正)
54 :
優しい名無しさん:2009/08/02(日) 14:34:34 ID:vg3HsKDf
メンヘラって本が好きなのかなぁ
ここ10数年小説なんて買ってないような気がする
『ぐるりのこと。』をやっとDVDで見ることができた。
ある夫婦に精神的危機が訪れるが、「なんともいえない泥臭いもの」により乗り越えるまでを描いた物語。
評判のとおり、役者たちのアドリブっぽい台詞が生々しい。
会話がうまくかみ合ってなくて、見ている側が変な緊張感を感じる場面が多々あった。
その不安定さは効果的に働き、作品をリアルにすることに十分に寄与している。
映画で久々に心が揺さぶられました。
落ち込んできたお、、
57 :
優しい名無しさん:2009/08/02(日) 20:44:29 ID:n8ZbtiCT
先日、友人と世間話をしていたとき、話の流れの中で彼女がふと「私って自分がないんだよね」と口にした。
洋服を買いに行っても店員さんに全部お任せにしちゃうとか、そんな話題のときだ。
別段、深刻ぶった風ではなく、さらっとした口調であった。
私は「自分がない」と感じるのは、境界例と呼ばれる人格障害の患者のみの心理特性だと思っていた。
境界例の人々は核となる自分がない。
ゆえに誰かにしがみつかなければ生きていけない。
また彼らは核を見つけるために果てのない自分探し(というか結果として自分の依存対象探し)を
続けざるをえない、と本か何かで読んだことがあったからだ。
しかし友人の彼女からはそのような、不安定な印象は受けなかった。
むしろ世間と適度な距離をとって、社会の荒波を誰よりも器用に軽々と渡っているように見えた。
境界例と彼女の差はいったいなんなのだろうと考えたがわからない。
ただ自分がないことに悩むよりは、自分なんてなくってもいいや、
と開き直って日常を過ごすことのほうが健康的のように思えた。
これが生きづらさから開放されるヒントなのかもしれない。
58 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 03:25:56 ID:9+TYNgpk
私のバイト先には、生真面目で廉直な性格の先輩がいる。
彼女は数年前、転勤で500kmも離れた土地に住むことになった彼を追いかけて実家を飛び出した。
で、2年ほど同棲していたが、次第にその彼から言葉のDVに遭うようになったという。
彼女はその土地に仕事も見つけていたので、なかなか実家に帰れなかったらしいが、
尋常じゃない娘の様子を察した父親が、無理やり連れ戻してDV関係は終わったとのこと。
今は元気になって私と一緒の職場にいるというわけです。
彼女はまだ20代半ばなので実家に戻ってからも何度か恋愛を経験している。
しかし話を聞くと、その相手が悉くDV(先輩談)してくる男性なのだそうだ。
私は、もしかして彼女の薄志弱行な性格がDVに関係しているのかもしれない、と思った(先輩ごめんなさい)。
傍から見ると、彼女には女が生きていくうえで必須な計算高さやしたたかさが欠けている、と思うのだ。
またはDVしそうな男性を意図的に選んでいるのかもしれないとすら感じることがある。
私からすると唯のスケベな男性社員にからかわれだけで、凄くうれしそうな顔をするのを頻回に目撃するから。
人は深く傷つけられると、無意識にそれを進んで繰り返すことがあるらしい。
精神分析家は、これを「反復脅迫」と呼ぶそうだ。
彼女の場合は父親との関係も無視できない気がするが、そこまではわからない。
一度でもいいから、支配的じゃない男性とお付き合いしてもらいたいと願います。
59 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 12:38:52 ID:tNR3BrBe
日記帳になってた
60 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 15:16:35 ID:zm3SWwj+
>>53 その通り
ぐぐっても
もしかして「すごく好き」
って出てくる
ただいもん
仕事からただま〜〜〜
今日は暑かったよ
体調も悪かったです
63 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 23:13:20 ID:8cSDqTeu
寝不足だったが、ダイエットのためだと自分を奮い立たせて外出。
盛夏の日差しを避けながら歩いていると幾度か浴衣姿とすれ違ったが、からきし微塵も頓と気にしない。
漸くプールに着いたころには、既にバテバテになっていた。
で、そのプールの更衣室での話。
40歳代くらいのグループ7,8人が盛り上がっており、聞き耳立てずとも自然と話が伝わってくる。
「あんなの急にびっくりしちゃった」
「でも息子さんのだって見たことあるでしょ?」
「ないわよ、もう何年も……だからさ……」
ん?息子の?何を?と連想しながら聞いていたら、おぼろげに概要はつかめた。
どうやら更衣室に入る前に、中学生くらいの男の子の全裸姿を全員が目撃したのだとか。
別にその子はストリーキングをしていたわけではなく、
更衣室前に設置された両替機(ロッカー代に10円玉が2枚必要)を利用していたらしい。
私は全裸で両替する子に呆れた。
が、子どものアソコを見ただけで狂喜乱舞する婦人たちの方にもっと呆れた。
というよりは逆に、あれほどの年齢になってもアソコへの興味が尽きないのか、と感心すらした。
そういえば男性のなかには老齢期に差し掛かっても、お盛んな方もいるらしいし、
女性も生涯、異性(同姓も?)からの「まなざし」という呪縛から逃れられない。
性の欲動は死ぬまで人に纏わり付くのかと想像したら、少しだけ気が滅入った。
そんなどうでもいいことに心をかき乱されている
>>63かわいい。一発やろうよ。
いろんなサイトを巡っていたら女性誌『anan』最新号の特集が恒例の「SEX」だと判明。
ネットで出版社のHPを覗くと、アンアンの表紙には「響き合い、感じあう いちばん 幸福なSEX」とタイトルが。
毎年よくやるねえ、まったく。
この特集、昔から売れているようだけど、いったい誰が買うんだろう?と常々疑問に思っていたのだが、
実は一度だけ人が買っている瞬間を見たことがある。
それは去年のことで、場所は郊外にある大型書籍専門店。
平積みになっている女性誌を適当にペラペラ立ち読みしていたら、
30歳くらいの女性が乳母車を押しながら中身の確認もせずに特集号を手にとってレジに向かったのだ。
アンアンはOLや学生が買うものだと思い込んでいたので、
購買層は広いものなんだなあと当時は思った(今思い返すと若妻が主力ターゲットでもおかしくない)。
そういえば、以前読んだ某女流作家も意外な人が購入していて驚いたとエッセイで書いていたことを思い出した。
その作家は学生時代はとても地味だったらしく、友人も地味な人が多かったという。
ある日、地味な友人の一人の家に遊びに行った。
で、ふと本棚に目を移したときに、教科書やら文学書やらのなかにひっそり、アンアンのSEX特集があったそうだ。
その友人は恋人はおろか男友達もいない奥手だったので、作家は内心では驚愕したそうだが、
気まずい思いを避けようと、なにごともなかったかのように振舞ったそうだ。
ちなみに私はというと、買うことはないにしても、図書館でSEX特集を見つけたときは、
借りれるだけの冊数分すべてをアンアンのバックナンバーにして、その中に紛れ込ませて借りちゃいます。
66 :
優しい名無しさん:2009/08/04(火) 12:51:47 ID:FnERYoVo
あげときます
67 :
優しい名無しさん:2009/08/04(火) 22:22:12 ID:FnERYoVo
スワローズ勝ったで!!!!!
ハルジオンが、そこにあるのに、だれも気づかず、通り過ぎる。
高校2年になったばかりのころ、私にそれの存在を印象付けてくれたのはYさんだ。
帰宅部だった私は、昼は食堂、夜は居酒屋になる小料理屋で皿洗いのアルバイトをしていた。
従業員はオーナーのA夫婦とベテランの板前Kさん、そして焼き物や揚げ物などを担当していたYさんの4人のみで、他は学生アルバイトばかりであった。
ある5月の日曜日に、仕入れ業者の野球チームと我々の店の従業員とで草野球の試合をすることになった。
当然、正規の従業員だけでは足りないのでバイトも借り出されることになった。
気乗りしないバイトも多かったので私も欠席するつもりだったが、断る適当な理由が思いつかない。
出欠席を確認する名簿表の前で迷っていると、Yさんが声を掛けてきた。
「○さん(私のこと)は代打で頼むね。そんときゃ俺、おもいっきり応援するからガツンと飛ばしてよ」
「いえ、絶対に無理ですよ、無理。野球のルールすらよく知らないので、応援だけしてます」と私は困惑して答えた。
「あっ、ごめん。ジョーク、ジョーク。あのさ、余計なこと言うようだけどさ、こんな冗談みたいなことを他人から言われたらさ、『はい、逆転ホームランでみんなを勝利に導きます』とかなんとか、いい加減に返事しとけばいいんだよ」とYさんは笑いながら言った。
Yさんは私に試合日の予定が空いていることを確認して、「じゃあ決まり」と然らぬ体で私の出席欄にマルをつけた。
その日のバイト明けの夜風は、少しだけ早い夏を告げる匂いを含んでいた。
我ら素人寄せ集めチームは試合当日、もちろん惨敗した。
そして、もちろん私に代打は回ってこなかった。
試合後、球場脇の芝生の上で、両チーム参加の簡単な打ち上げがあった。
私は店が用意した特性オードブルを無言でつついていた。
少し経ったころYさんがウーロン茶の缶を手にして私の横に座った。
試合の感想などを少し話した後、Yさんはフェンスの脇に生えている、背の高い位置に花を咲かせている植物を指差して唐突に、
「あれ貧乏草っていう名前のついた花?っつーか草? 変な名前でしょ。こいつに小便かけると貧乏になるんだってさ」と言った。
そして、すっと立ち上がり、他の人に缶を配りに行った。
私は中心部が黄色で白い花びらの付いた、どちらかといえば素朴な印象を受ける花が、
何でそんな不遇な名前をつけられたのか興味を持って、フェンスに近寄り、一輪だけ茎から折りティッシュに包んで鞄にいれた。
翌日、アルバイトの前に図書館へ寄り、草花辞典で貧乏草について調べてみた。
すると正式名称はハルジオンと呼ばれるようだった。
解説には「一部の地域では折ったり、摘んだりすると貧乏になると伝えられている」と記載されていた。
私はその日、Yさんのロッカーの上に、球場脇で折ってきたハルジオンの花をこっそり置いてやった。
数日後、Yさんが、ちょっと話があると私を厨房の隅に呼び出した。
「あのさ、○さんって私立のN高校に通ってるんだよね。あそこの学費ってどれくらい掛かるのかな。
うちの娘が来年、そこに行きたいって言ってるんだけど、ちょっとね、厳しくてさ」
私はYさんが既婚者であるなんて想像すらしていなかったし、その上そんな大きな娘さんがいると知って、かなり狼狽した。
「あの、親に聞かないと分からないので、今度聞いてきます」
「いや、いいよ。ごめんね、邪魔しちゃって」とYさんは真顔でこたえて、自分の調理場へ戻った。
その日のバイト帰り、街路樹の脇に咲き溢れているハルジオンを見つけた。
私はすべての花を引きちぎって、歩道に撒き散らした。
遠くで犬が吠えているのが聞こえた。
今日の朝ごはん
ザーサイ
おわり
70 :
優しい名無しさん:2009/08/08(土) 12:11:07 ID:suT2buRX
71 :
優しい名無しさん:2009/08/08(土) 12:13:42 ID:2gniP2hy
またハナクソ食べてしまった
助けて(;_;)
しょっぱくておいしい
.. [('A`)]
l⌒O⌒O⌒l
| ○囗○ |
| ×□囗 |
| ○囗× |
次は×の番です
73 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:07:20 ID:YacFE4tO
(´・ω・`)
74 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:09:22 ID:YacFE4tO
こんばんは
お夕寝から起きた
ご飯食べたらまた眠くなってきた
なんだこの長文は
来るとこ間違えたと思った
77 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:15:45 ID:YacFE4tO
79 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:16:49 ID:zKAd83mn
漏れら極悪非道のageブラザーズ!
今日もネタもないのにageてやるからな!
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ ∧_∧ age
(・∀・∩)(∩・∀・) age
(つ 丿 ( ⊂) age
( ヽノ ヽ/ ) age
し(_) (_)J
80 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:17:51 ID:YacFE4tO
81 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:19:06 ID:YacFE4tO
おなかいたいよー
82 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:21:19 ID:YacFE4tO
_,,..,,,,_
./ ,' 3 `ヽーっ
l ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
83 :
優しい名無しさん:2009/08/15(土) 20:45:53 ID:YacFE4tO
,,,,_
/,'3 `ァ
`ー-‐`
こんなくそすれ
しねばいいとおもうよ
85 :
優しい名無しさん:2009/08/16(日) 16:47:21 ID:o+k00vkw
86 :
優しい名無しさん:2009/08/16(日) 16:52:27 ID:xcRJ1EpO
実家に戻りきちんと静養しようか悩んでいます。
今東京で一人暮らしなんですが近々更新です。レンタル倉庫に家具(折り畳みベッド、冷蔵庫、テレビ)を預けようか考えてるんですがどのくらいの費用が必要でしょうか?少しでもよくなれば戻りたいです
87 :
優しい名無しさん:2009/08/16(日) 22:22:27 ID:TCVo2LJK
ぴかあ
∧∧ ∧∧ __._
∩゚Д゚,≡,゚Д゚) |.|
`ヽ |)====
| _ |〜 .|__|.|
U U
∧∧ ミ _ ドスッ
( ,,)┌─┴┴─-┐
/ つ. 実質4787 |
〜′ /´ └─┬┬─-┘
∪ ∪ ││ _ε3
゛゛'゛'゛
89 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 01:36:00 ID:IwMleI7S
いちにおつです
90 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 01:36:08 ID:aM2pM0nu
>
>>987 >そうだねえ。聞いてどうしたいの?
目的もなく聞いてみたい話だってあるさ。
ばんわ!カネ欲しい!!
余裕が欲しい!
馬鹿はむかつく
92 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 01:37:09 ID:IwMleI7S
ふざけるのは俺のの女だけにしろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ラストにこの誘導は悪質だなぁ
>>88 いやいやw
>>94 おつ
おいらもチャレンジしたけど立てられなかった
さて寝るかーおやすみ
101 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 01:41:08 ID:IwMleI7S
103 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 01:43:45 ID:tcXNy7cO
新スレは一応ここでいいのかな
105 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 02:03:43 ID:aM2pM0nu
どうする?
106 :
優しい名無しさん:2009/08/22(土) 17:42:43 ID:AYum9sHP
こんにちは
107 :
優しい名無しさん:2009/08/22(土) 17:43:46 ID:AYum9sHP
今日もいい天気ですね…
110 :
優しい名無しさん:2009/08/22(土) 17:46:58 ID:AYum9sHP
(´・ω・`)
111 :
優しい名無しさん:2009/08/22(土) 17:49:08 ID:AYum9sHP
('A`)
(@u@ .:;)ノシ
>>112 なによその変な顔文字は。ふざけてるの?
100文字程度読んだら疲れました…
読書は疲れました…
matigai masita
116 :
優しい名無しさん:2009/08/26(水) 14:20:40 ID:HT8iRYPF
なんで誰もいないんだろう
島津冴子さんが好きです。
118 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 10:06:00 ID:WtNHQkcf
父親は生まれたばかりの私を見て気持ち悪いといい他に女を作ってでてった
大人になった私にそれを笑いながら話してくる何度も私を捨てようとした母親
どっちも嫌い。もう自由になれたのに未だに嫌な気分になる。
親に愛された経験や記憶のない人が誰かを好きになったり恋愛できることってあるの?
あれ?
おはいお
121 :
優しい名無しさん:2009/09/05(土) 20:58:17 ID:frQL7owX
うめ
うめ
ゴミ捨て場
埋め
燃えないごみ(私?
うめ
128 :
優しい名無しさん:2009/09/08(火) 11:21:19 ID:2lYBBOTP
あんいんすとぉ〜る〜♪
あんいんすとぉ〜る〜♪
あの時 最高のリアルが向こうから会いに来たのは〜♪
僕らの存在はこんなにも単純だと笑いに来たんだ〜♪
耳を塞いでも両手をすり抜ける真実に惑うよ〜♪
細い身体のどこに力を入れて立てばいい?〜♪
アンインスト〜ル アンインスト〜ル♪
この星の無数の塵のひとつだと〜♪
今の僕には理解できない〜♪
アンインスト〜ル アンインスト〜ル♪
恐れを知らない戦士のように〜♪
振る舞うしかない アンインスト〜ル♪
僕らの無意識は勝手に研ぎ澄まされていくよう〜だ♪
ベッドの下の輪郭のない気配にこの瞳が開く時は〜♪
心など無くて何もかも壊してしまう激しさだけ〜♪
静かに消えて行く季節も選べないというのなら〜♪
アンインスト〜ル アンインスト〜ル♪
僕の代わりがいないなら〜♪
普通に流れてたあの日常を〜♪
アンインスト〜ル アンインスト〜ル♪
この手で終らせたくな〜る♪
なにも悪いことじゃない アンインスト〜ル♪
アンインスト〜ル アンインスト〜ル♪
この星の無数の塵のひとつだと〜♪
今の僕には理解できない〜♪
アンインスト〜ル アンインスト〜ル♪
恐れを知らない戦士のように〜♪
振る舞うしかない アンインスト〜ル♪
157 :
優しい名無しさん:2009/09/08(火) 23:33:40 ID:AtaMZf94
159 :
優しい名無しさん:2009/09/12(土) 06:02:53 ID:gKLF4IvR
あげ
「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことである。
自分が何を知らないかについて知ることである。
自分の知識についての知識をもつことである。
それは「知識をふやす」ということとは違う。
「知識をふやす」というのは「同一平面上で水平移動域を拡げること」である。
「知識についての知識をもつ」というのは「階段を上がること」である。
ぜんぜん違う。
学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。
「弱者が存在する。弱者が発生するのは社会制度に不備があるからである」
という前段の一般論についての国民的合意は存在するが、
「弱者を存在させないためには何をすればよいか」についての国民的合意は存在しない。
ある人は社会福祉制度に不備があるといい、
ある人は年金制度に不備があるといい、
ある人は税制に不備があるといい、
ある人は学校教育に不備があるといい、
ある人は家族制度に不備があるという。
おそらくその全部に何らかの不備があるのであろう。
「ご飯」というのは人類学的にはたいへん重要なものであるということは先般より繰り返し申し上げている。
とくに身体的「同期」(シンクロニシティ)がたいせつなのである。
誰かとご飯を食べるということは、他者と身体的に同期するためのもっとも実効性のある方法の一つである。
音楽の演奏も、ダンスも、セックスもその点では変わらない。
私たちが「快楽」として選択するものはすべて「同期」というファクターを含んでいる。
労働は本質的に集団の営みであり、
努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。
報酬はつねに集団によって共有される。
個人的努力にたいして個人的報酬は戻されないというのが労働するということである。
個人的努力は集団を構成するほかの人々が利益を得るというかたちで報われる。
だから、労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」
というマインドセットができない人間には労働ができない。
空気が読めないのは困るが、ちゃんと空気を読み取ったうえで、
あえてその空気に亀裂を入れることも、時として必要になる。
いや、あまりに素朴で純真なために空気が読めないということも多い。
が、そういう空気の読めない素朴な視点が、その空気の邪悪さ、
あるいはくだらなさを暴露することがある。
アンデルセンの「はだかの王様」を思い出してみればいい。
「空気が読めない」というレッテルは、いじめの道具としか思えないのである。
自我というのは他者とのかかわりの中で、
環境の変化を変数として取り込みつつ、
そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものである
という「常識」が私たちの時代には欠落している。
本来、ゲームというのは参加者全員がルールを知っていることを前提にしているのであるから、
この「ハサミを渡す」というゲームは、本来のゲームではない。
ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである。
好意的にいえば、ルールを知らない者がいかにそのルールを発見できるかを見守る遊びである。
だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、
それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。
全員がルールを知っていたら、意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、
ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなからの敵意の的になる。
すでにおわかりのように、これはある小さな共同体が侵入者をからかい、
屈辱感を与え、排除するためのゲームである。
KYなる言葉が流行しているらしい。
「空気が読めない」の頭文字だそうである。
夜郎自大な政治家を揶揄する場合にも使われるし、仲間うちの飲み会などでも使われる。
仲間内で使われるときは、異分子排斥の合言葉のような棘のある意地の悪いニュアンスを伴っている。
(確かに世界は自分のためにあると思っている場の読めないやつはいる)。
しかし、これが流行語になるということに対して、私は違和感を持つ。
文明批評をするつもりはないが、私はこの流行語には、少なからず当今の批評精神の劣化を感じる。
そこには「空気」という言葉で表現される「仲間意識」そのものが持つ脆弱性への批評がすっぽりと欠落しているからである。
別の言葉で言えば付和雷同と、他罰的な言葉遣いが、若い人たちの間に瀰漫してきている。
自分がKYの同類でないことを証明するために、彼/彼女らはますます仲間内の背後から石を投げる。
私は為政者が「ナショナリストのようにふるまう」ことはマヌーヴァーとしてしばしば有用であることを認める。
けれども為政者が「ナショナリストである」ことを喜ばない。
それは、ナショナリズムがほとんどの場合、知性の活動を低下させるからである。
若い人たちがナショナリズムに親和的になる理由の過半は、
ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。
ナショナリストと議論して誰でも気づくことは、
彼らが固有名詞や年号やデータ的数値に総じて詳しいことである。
どうでもいいような法律条文やら誰も知らないような歴史的事実を持ち出してきて、
「お前はこんなことも知らないで議論をしているのか(そんな人間には議論に参加する資格そのものがない)」
というのは(洋の東西を問わず)ナショナリストの常套手段である。
固有名詞や数値に詳しいのは(政治学者や社会学者の場合もそうだが)、
スキームがもう出来上がっている人間の特徴である。
「容れ物」の外郭が固定されると、人間はトリヴィアルな情報をいくらでも詰め込むことができる。
どのような新しいデータが入力されても、
スキームそのものが変化する可能性がないという見通しが立ったときに人間は異様に記憶力がよくなるのである。
真にエゴイスティックな人間は他者を利することが
私利私欲を満たすもっとも迅速かつ効果的な方法であることを知っている。
コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合うものたちの間でのみ成立する。
「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」(solicitation)がコミュニケーションを先へ進める。
「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。
それは恋愛の場面で典型的に示される。
「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、
それは言い換えれば「あなたのことがよくわからない」ということである。
論理的に言えば「よくわからない人間のことを愛したりすることができるのだろうか?」
という疑問だって「あり」なのだが、そんなことを考える人間はいない。
逆に、「あなたって人間がよくわかったわ」というのは愛の終わりに告げられることばである。
「あなたって人間のことがよくわかったから、結婚しましょう」というように言葉が続くことはない。
それと同じく、逆説的なことだが、コミュニケーションは「それがまだ成立していない」と宣言することで生成し、
「それはもう成立した」と宣言したときに消滅するのである。
「世間のおおかたの人間は途方もなく愚鈍であり、私は例外的に賢明な少数のうちの一人である」
というマインドセットは人間をあまり社交的にはしない。
サービスを最大限享受する方法について私見を述べる。
食事であれ、旅行であれ、サービスを享受する最良の方法は「ごっつぁんです」である。
サービスを受ける側には「権力的非対称性」があること(平たく言えば、「タニマチ」がいること)が
サービスを100%享受する上でベストの条件である。
「周囲からの支援と尊敬」が欠如した状態に置かれると、
どれほど生理学的・生化学的に健康な生き方をしていても、
それはあまり人間の生命力を高める役には立たない
人間はそれほどまでに社会的な生物なのである。
ヘーゲルが言うとおり、人間は社会的承認を受けてはじめて人間になる。
だから、あなたが生きる上でもっともたいせつなのは「隣人があなたに向ける笑顔」なのである。
あなた自身を愛するように隣人を愛しなさいというのはそういうことである。
あなたが隣人を愛することによって隣人は生きながらえており、
隣人があなたを愛してくれるおかげで、あなたはかろうじて生きることができる。
人間は自分が欲するものを他人から与えられることでしか手に入れることができない。
本来、社会的成功というのは単に「金がある」というかたちをとるだけのものではない。
それは、社会的威信、質の高い情報へのアクセシビリティ、教養、社会関係資本などさまざまな形態をとり、
それらの多くは外形的には認知できない。
だから、都市では「社会的上昇を遂げた」としても、それがただちに外形的に露呈することがない。
というか、そういうことが外形的に露呈させないで済むというのが都市生活のメリットの一つなのである。
しかし、都市と田舎の中間部では、社会的成功の事実は必ず外形的に露出する。
というか、相互検察制度が生きている以上、わずかな社会的浮沈も絶えず外形的に申告することを強いられている。
それが結果的には必要以上の羨望や嫉妬を培養する。
能のこの構成はおそらく喪の儀礼の古代的形態を正しく伝えている。
そこには二人の登場人物が出てくる。
「痕跡」(症状)を見て、そこでかつて起きたこと(トラウマ的経験)をもう一度物語的に再演することを要請する生者。
その要請に応えて、その物語をもう一度生きる「死者」。
この物語は「演じるもの」と「見るもの」がそのようなトラウマ的事実があったということに合意署名することで完了する。
時間を遡行できない以上、その物語が事実であったかどうかを検証する審級は存在しない。
ということは、その物語は事実であっても嘘であっても、コンテンツは「どうでもいい」ということである。
手続きだけが重要なのだ。
それが「儀礼」ということである。
177 :
優しい名無しさん:2009/09/17(木) 04:45:01 ID:u0YHljNP
光陰矢のごとし
「勤労の義務」は憲法27条に明記されているのであるから、ニートは存在自体が違憲なのである。
若者論の大枠は「学びからの逃走・労働からの逃走」というトレンドが
心理的な問題(若者の内面の問題)なのか、経済的な問題(雇用の仕組みの問題)なのかという対立に収斂している。
「ニート非難派」はこれは「心の問題だ」だから「しゃっきりしろ」と一喝すれば問題は解決すると言い、
「ニート擁護派」はこれは「雇用の問題だ」だから行政が手厚い制度改革をすることが何より重要と言う。
あのさ。
そんなの「両方の問題」に決まってるんじゃない?
村上文学には「父」が登場しない。
だから村上文学は世界的になった。
以上、説明終わり。
これでは何のことか分かりませんね。
そこで補助線を一本引く。
こんな命題である。
「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」
これでだいぶ見通しがよくなった。
分析的な意味での「父」は世界中のあらゆる社会集団に存在する。
「父」とは「聖なる天蓋」のことである。
その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、
世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。
それが「父」である。
「父」はさまざまな様態を取る。
「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、
「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。
世界中の社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。
「父」はそれらの集団内部にいる人間にとって「大気圧」のようなもの、「その家に固有の臭気」のようなものである。
それは成員には主題的には感知されないけれども、「違う家」の人間にははっきり有徴的な臭気として感知される。
「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能を果たしているが、
それぞれの場所ごとに「違う形」を取り、「違う臭気」を発している。
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。
キリスト教文学では「神」との、イスラム文学では「預言者」との、
第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「支配階級」との、
フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、
自然主義文学では「家父長制度」とのそれぞれ確執が優先的な文学的主題となる。
いずれも「父との確執」という普遍的な主題を扱うが、
そこで「父」に擬されているものはローカルな民族誌的表象にすぎない。
作家のひとりひとりは自分が確執している当の「父」こそが
万人にとっての「父」であると思っているが、残念ながら、それは事実ではない。
彼の「父」は彼のローカルな世界だけでの「父」であり、
別のローカルな世界では「父」としては記号的に認知されていない。
だから、彼が「ローカルな父」との葛藤をどれほど技巧を凝らして記述しても、
それだけでは文学的世界性は獲得できないのである。
私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。
「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。
しばしば話は逆なのだ。
「私たちが知らないことは他者も知らない」ということの方が多いのである。
私たちが興味をもって見つめるものは社会集団が変わるごとに変わるが、
私たちが「それから必死で目をそらそうとしていること」は人間の本質にかかわることが多い。
「生きることは身体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか
「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか
「私たちが自己実現できないのは、『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、
単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを
私たちは知りたくないので、必死で目をそらそうとする。
でも、そのことを知りたくないので必死で目をそらすということは、
自分が何を知りたくないのかを知っているからできることである。
知っているけれど、知っていることを知りたくないのである。
だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その不能のあり方にはしばしば普遍性がある。
人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく「知らない」こと、
「できないこと」において深く結ばれているのである。
人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。
けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。
「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。
私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」
「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。
「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、
どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。
地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない(はずである)。
でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか・・・という考え方をする人がまれにいる。
村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)、この地図もなく、
自分の位置をしるてがかりの何もない場所に放置された「私」が、
それでも当面の目的地を決定して歩き始め、ランダムに拾い上げた道具をブリコラージュ的に使い、
偶然出会った人々から自分のポジションと役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。
その歩みは足跡を残したごく狭いエリアについての「手描き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。
ささやかだけれど、たいせつな仕事だと私は思う。
私と同じように思っている人がきっと世界中にたくさんいるのだろう。
「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』の
マニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
これが村上文学に伏流する「問い」である。
「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。
「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。
それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。
けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。
金もないし、コネクションもないし、スキルもないし、
総じてプロモーションのチャンスが限りなく少ない人々を「弱者」と呼ぶ。
ナショナリズムは「燃費のいい政治イデオロギー」である。
現実には利害があまり一致しない社会集団を「仮想敵」への憎悪を梃子にして、
一気に、強くバインドすることができる。
ヨーロッパにおける排外主義的運動が例外なく移民問題と若年の失業問題とリンクしていることから知れるように、
「国民的統合が解体する予兆」が見えるときに、必ずナショナリズムが亢進する。
そして、この新たなナショナリズムの担い手はつねに「弱者」である。
彼らは「弱者」であるという定義からして、「国民的統合が果たされないと、現在得ている利益を逸する階層」ではない。
なにしろ「受益機会そのもの」から疎外されているというのが「弱者」の定義なんだから。
政治運動というのは、若い人もおそらく直感的にわかっているだろうが、
その全行程の90%以上が「ぱっとしない日常」なのである。
運のいい政治運動の場合は10%程度の「祝祭的高揚期」に恵まれる。
その時期には「祭りだ祭りだ」と有象無象がわらわらと寄ってくるので、一時的ににぎやかになる。
しかし、あらゆる政治運動は、どれほど綱領的に整合的でも、政治的に正しくても、必ずいつかは「落ち目」になる。
これは歴史が教える永遠の真理である。
「子育ては苦役だ」という言い方も「子育ては至福だ」という言い方も、どちらも正しいと私は思う。
苦役でありかつ至福であるような経験。
もっとも人間的な経験はたいていそういう質のものである。
親の仕事の目的は、子どもが「親を必要としなくなる」ことである。
自分の存在理由を消去するために全力を尽くす。
そのような仕事だけが真に人間的な仕事である。
いつまでも子どもが親の支援を必要とするような関係を作ろうとする親は、
病原菌をばらまく医者や凶悪事件の発生に歓声をあげる警官と同じように、不条理な存在なのである。
子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。
喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。
楽しいか悲しいか、どちらかに片づけてくれないと気分が悪いというようなシンプルマインデッドな人は「人間に向いてない」と私は思う。
例えば外傷性神経症の場合。
患者はトラウマ的経験の原点にある光景を繰り返し夢に見て、驚愕して目覚める。
覚醒時の患者はできるだけそのことを考えまいとしている。
夢もまたしばしば願望充足のための機能を果たしている。
だったら、「そんなことは忘れてしまってぐっすり眠る」というのが生物にとって最適の選択であるはずである。
それができない。
それはおそらく、その不快に耐えることがある種の快をもたらしているからだ。
フロイトはそう考えて、これを「反復強迫」と呼んだ。
「あらゆる人間関係がつねに同一の結果に終わる」人がいる。
あなたがたのまわりにも必ずいる。
おそらくあなた自身も多少はそうであるはずだ。
手助けしてあげた人間に必ず裏切られる人。
誰かを権威者に担ぎ上げて、その人に熱情的に仕えるけれど、
一定時期が過ぎるとその人を棄てて、別の権威者に乗り換える人。
同じようなタイプの恋人を選んで、そのつど傷つけられる人。
フロイトは三回結婚して、三回とも夫を死ぬまで看病するはめになった女性の事例を紹介している。
おそらくその女性は「もうすぐ死病に取り憑かれそうな男」を選んで結婚しているのである。
これは、「不快な経験の反復」はそれが「反復」であることによって「不快」を上回る「快」を提供しているということによってしか説明できない。
快感原則の究極のかたちは死である。
死んでしまえば、もう変化はない。
ニルヴァーナだ。
でも、現実原則と快感原則の葛藤ということを考慮すると、
タナトス的にいちばん気持ちがいいのは「もう死んでいる」状態ではなく、
むしろ「今、死ぬ」瀬戸際にいるときではないだろうか。
「ああ、これでやっと永遠の安定に還ることができる」という瞬間に
タナトス的な「快」は最大化するはずである。
セックスにおける快がそうであるように、快というのは、
欲望が消失するまさにその瞬間に最大化するものだからである。
だから、「生きていながらぎりぎりで死に触れている臨界線上」に身を持すのが、
生物が生物として経験できる最大の快であることになる。
反復とは、「生きていながら死んでいる」状態をモデル化したものである。
おそらくそうなのだろうと思う。
「死ぬ」というのが生物が経験できる至上の快であり、
私たちが「死ぬ」ことを忌避する唯一の理由は「一度死ぬともう死ねないから」なのである。
「ラリっているときに知り合った人とはラリっているときにしか出会えない」ラリハイの法則(@山下洋輔)
愛は憎悪と対になり、それと葛藤するときに深くなる。
憎悪は愛と葛藤するときに深くなる。
愛情を亢進させるもっとも効率のよい方法は、
愛情と葛藤するものを呼び寄せることである。
「ほんとうの自分」とか「自分らしい自分」とか「オリジナルでユニークな、世界でひとりだけの私」というようなものが
どこか自分の内部の洞窟の奥に秘蔵されていると思いなしている人間は、
たぶん雑多な人格要素がアモルファスに混在している現実の自分をそのまま愛することができない。
誰でも、自分の中に弱さや醜さや邪悪さを抱えている。
それらを「愛する」というのは「どうしてそのような要素が自分の中にあるのか、
来歴も知れず、統御もできないけれど、とりあえずそれと折り合ってゆくしかない」と思い切ることである。
自分の中のさまざまな人格的ファクターをゆるやかに包括しつつ「共生する」ということは、
自分の脆弱性や邪悪さに「屈服する」ということとは違う。
「愛する」とは理解や共感に基づくものではない。
むしろ「よくわからないもの」を涼しく受け容れる能力のことである。
人並みはずれて猜疑心の強い私がいちばん信用していないのは自分の判断の正しさである。
今の日本で憲法九条の旗色は非常に悪い。
「憲法を守ろう」と言っただけでサヨクのレッテルを貼られる。
憲法の第九条と自衛隊の存在は、矛盾していると、護憲派も改憲派も考えている。
普通に考えれば、九条を改定して継子の自衛隊を正嫡子として認めるか、
あるいは自衛隊を解体して非武装中立の理想を前面に押したてるかの
二者択一以外のソリューションは無いかのように見える。
これまで、論じられてきたすべての護憲論・改憲論は、
このどちらかの「正論」のバリエーションであるといってもよいかもしれない。
そこでは、護憲・改憲のいづれの一方に説得力があるか、
整合性があるかが争われることになる。
しかし、整合性というなら、どちらにも、それはあるといわなければならない。
なぜなら、どちらも整合性を求めた結果、二律背反的に存在している九条と
自衛隊のどちらかを消し去るという理路に至ったのであるからである。
「言葉の力」というのは、それが思考を適切に表現できるヴィークルとして性能がよいということではない。
ある名詞を口にすると、それを修飾することのできる形容詞のリストが瞬間的に頭に並び、
ある副詞を口にすると、それをぴたりと受け止める動詞が続く・・・というプロセスが
無意識的に高速で展開するという言語の「自律」のことである。
母語運用能力というのは、平たく言えば、ひとつの語を(場合によってはひとつの音韻を)口にするたびに、
それに続くことのできる語の膨大なリストが出現し、その中の最適の一つを選んだ瞬間に、
それに続くべき語の膨大なリストが出現する・・・というプロセスにおける「リストの長さ」と「分岐点の細かさ」のことである。
「梅の香りが・・・」という主語の次のリストに「する」という動詞しか書かれていない話者と、
「薫ずる」、「聞こえる」という動詞を含んだリストが続く話者では、そのあとに展開する文脈の多様性に有意な差が出る。
「分岐点の細かさ」というのはわかりにくい言い方だが、「分岐点がない言語」を思い浮かべればわかる。
「分岐点がない言語」というのはストックフレーズのことである。
あることばを選ぶと、そのセンテンスの最後までが「まとめて」出力されるようなフレーズだけを選択的に言い続ける人がいる
(校長先生の朝礼の言葉とか議員の来賓祝辞を思い浮かべればよろしい)。
ある語の次に「予想通りの語」が続くということが数回繰り返されると、
私たちはその話者とコミュニケーションを継続したいという欲望を致命的に殺がれる。
母語言語運用能力というのは、端的に言えば、
「次にどういう語が続くか(自分でも)わからないのだけれど、
そのセンテンスが最終的にはある秩序のうちに収斂することについてはなぜか確信せられている」
という心的過程を伴った言語活動のことである。
ストックフレーズを大量に暗記して適切なタイミングで再生することと、
言語を通じて自分の思考や感情を造形してゆくという(時間と手間ひまのかかる)言語の生成プロセスに身を投じることは
(結果的にはどちらも「たくみにある言語を操る」というふうに見えるけれど)内実はまったく別のことである。
力がみなぎっているとき、人間は「弱さ」や「哀しさ」や「もののあはれ」に精神的なリソースを割くことができる。
男が泣けるのは、「男泣きする余裕がある」ときだけである。
逆に言えば、余裕がなくなったとき、人間は強面になる。
強気で出てくるのは、「負けるかもしれない・・・」という恐怖が、弱い酸のように内部を冒しはじめたときからである。
「強さ」というのは、ささいなことで涙を流し、うつろいゆくものを惜しみ、
おのれのわずかな不作法を恥じることのできる「余裕」のことである。
私たちの自己評価と世間からの外部評価との間には必ず落差がある。
その落差はよほどアンバランスな場合でなければとくに害にはならない。
外部評価より高い自己評価は自己嫌悪を防いでくれるし、
自己評価より高い外部評価は向上心を起動させてくれる。
ピース。
でも、自己評価が分裂している場合はそれほど簡単ではない。
自分には才能があるという自惚れと、自分には才能がないのではないかという猜疑がせめぎ合っている場合。
自分は潔白だという確信と、自分は有責だという疚しさが同時に自分の中にある場合。
そういう場合に私たちはなんとも片づかない心理状態になる。
ポランニーが「暗黙知」と術語化した「知っているけれど、『知ってること』を知らない」知というものが存在する。
ジェインズによれば、私たちが学習していることのほとんどは無意識のうちに行われる。
ある心理学の教室で教師が「無意識と学習」について教えた。
学生たちはその学習の成果をさっそく教師自身に応用することを思いついた。
教師が教室に入ってきて講義を始めたときに、
教師が教壇の右半分に来たときにだけ全員が目をきらきらさせて深くうなずき、冗談にどっと笑ってみせたのである。
もちろん教師はそれと気づかないうちに、教壇の右半分に好んで足を向けるようになった。
教師は学生に「訓練」されたのである。
人は自分が学んでいることを知らないときにいちばん多くを学んでいる。
ほとんどの学生は「自分のバカさ」というのを知識の量や学術的スキルの不備のことだと思っている。
あのね、それは違うよ。
それだったら、数量的に計測できる。
「***読んだ?」「読んでません」「・・・って知ってる?」「知りません」
というような問いはいくら重ねても「バカさ」の検出には至りつかない。
無知というのは「データの欠如」のことではなく、「予断の過剰」のことだからである。
何かを知らないというのは怠慢の結果ではなく、努力の成果である。
そのことを「知るまい」とする努力なしに人間は無知でいられることはできない。
それを知ることが「予断のスキーム」を破綻させる可能性があるとき、
私たちはそれを「知らずにすませる」ために努力を惜しまない。
人間というのはふつうに思われているより遙かに勤勉な生物なのである。
だから「バカさの検出」というのは、「自分がそれを学ぶことをいちばん怠っていることとは何か?」
つまり「自分がそれから目を逸らすためにいちばん努力していることは何か?」という問いのことなのである。
だからおのれのバカさの検出は、「どうして私は〈これ〉を知ることを欲望しないのか?」というひとつ次数の高い問いのかたちをとる。
この問いの仕方を知った人間はそのあとおのれの「予断」を解体するエンドレスの自己変容プロセスに身を投じることになる。
その問い方を知らない人間はどれほど博引傍証強記博覧を誇っても死ぬまで「バカのまま」である。
「バカの壁」は「私はどのような仕方でバカなのか?」という問いを立てることのできる人間と
できない人間の間に巍然として屹立しているのである。
現代の子どもがその人生の最初に学ぶ「労働価値」とは何か?
それは「他人のもたらす不快に耐えること」である。
現代日本の妻たちがが夫に対して示しうる最大のつとめは「夫の存在それ自体に現に耐えている」ことである。
彼の口臭や体臭に耐え、その食事や衣服の世話をし、その不満や屈託を受け容れ、要請があればセックスの相手をする。
これは彼女にとってすべて「苦役」にカウントされる。
この苦役の代償として、妻たちは夫婦の財産形成の50%について権利を主張できる。
現代日本の家庭では「苦痛」が換金性の商品として流通しているのである。
苦役に耐えること、他人がおしつける不快に耐えること、それが労働の始原的形態なのだ。
という結論に子どもたちは導かれる。
そして、子どもたちは「忍耐」という貨幣単位をすべての価値の基本的な度量衡に採用することになる。
「忍耐」貨幣を蓄財するにはどうすればよいのか。
いちばんオーソドックスなのは「不快なことを進んでやって、それに耐える」ことであるが、もうひとつ捷径がある。
それは「生活の全場面で経験することについて、『私はこれを不快に思う』と自己申告すること」である。
そうすれば、朝起きてから夜寝るまでのすべての人間的活動は「不快」であるがゆえに、「財貨」としてカウントされる。
つまり、「むかつく」という言葉を連呼するたびに「ちゃりん」と百円玉が貯まるシステムである。
朝は「いつまで寝てるの!」という母親の叱責でまず100円。
「げっ、たるいぜ」とのろのろ起きあがり、朝食の席で「めしいらねーよ」と告げて「朝ご飯くらい食べなさいよ!」と怒鳴られて50円。
私の仮説は、「労働から逃走する」若者たちは、
大量の「不快の債権者」としてその債務の履行を待ち焦がれているというものである。
彼ら彼女らは幼児期から貯めに貯め込んだ膨大な額の「苦役貯金」を持っている。
それは彼らの幼児期の刷り込みによれば、紛れもなく「労働したことの記号」なのである。
ときどき預金残高が知りたくなる。
そういうときは、とりあえず「彼らの存在がもたらす不快に耐える人々」の数を数えてみる。
彼らの存在がもたらす不快に耐えている人間の数が多ければ多いほど、
彼らは深い達成感と自己有能感を感じることができるのである。
たいへんよく出来たシステムである。
問題は、彼らの債権が社会的威信や敬意や愛情といったかたちでは決して戻ってこないことである。
けれども、とりあえず彼らのまわりに彼らが存在することの不快に耐えている人間がいる限り、彼らは生きて行ける。
不快と忍耐だけが通貨であるような世界での勤勉なる労働者たち。
逆説的な存在だ。
しかし彼らの自己完結した世界において、これはたいへん合理的な存在仕方なのである。
私のブログはリンクフリー、コピーフリー、剽窃フリーである。
コピペするのが個人でも企業でも私の対応は変わらない。
原稿料は頂かない。
誰であれ、「私の言うことこそが常識だ」と主張する権利はない。
だって、そんなことを言い募るのはまことに「非常識」なふるまいだからである。
自分の言い分が常識的であるかどうかを、語る当の人間は決定することができない。
ここがたいせつな点だ。
「常識」は、「そんなの常識である」という文型ではなく、
「そんなの常識ですよね?」という疑問文を経由してしか、
つまり他者の「とりなし」を経由することなしには、生き延びることができないものだからである。
そこに常識の手柄はある。
創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。
それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。
自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、
統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである
私は私が書いている言葉の主人ではない。
むしろ言葉が私の主人なのだ。
書棚というのはいわば「脳の中身」のようなものであるから、
そこに並んでいる本を見れば「なるほど、この人はそういう人なのね」と得心がゆく。
だから、他人の家に通されて、どこにも一冊の本もないと不安になる。
別に「無教養な人間」と空間を共有することが不安なのではなく、
どういう脳の中身なのか知るてがかりがない人間といっしょにいることの不安なのである。
「これこれでなきゃダメ」というのが原理主義である。
「使えるものがこれしかないなら、これで何とか折り合いをつけよう」というのが機能主義である。
手持ちの限られた材料と手段で最高のパフォーマンスを達成するにはどうしたらいいのかということに知的リソースを集中できるのが機能主義者である。
私は機能主義者である。
「身の程」というのは、自分がそれを基準にして生きている規範の地域性・特殊性のことである。
自分が規範としているものは、他の社会集団には適用されない。
だから、自分と同じ規範に従っている人の言動については、ことの良否を言うけれど、
自分の規範とは違う規範で行動している人については、礼儀正しい不干渉を保つ、
というのが「身の程を知る」ということである。
今、日本人たちは「権力、財貨、情報、文化資本の占有を求めることがすべての人にとっての生きる目標である」と信じている。
それが日本的グローバリゼーションの帰結である。
それは繰り返し用いる比喩を使っていえば、連休にディズニーランドに行って、
「なんでこんなに人が多いんだ」と怒っている人間のあり方によく似ている。
彼は他人と同じ行動をすることによってしか快楽を得ることができないのであるが、
「他人と同じ行動をする」という当の事実が、そのつど彼が快楽を得ることを妨げるのである。
「他の人が欲しがるもの」を欲しがるというかたちでしか欲望を起動させることができないので、彼は物欲しげな顔になり、
「他の人が欲しがるもの」はまさに当のその理由によって彼の手には入らないがゆえに、彼は構造的に恨めしげな顔になる。
全員が似たもの同士になった日本社会に住む人間たちが、
「うらめしげでかつ物欲しげ」な表情を顔にはりつけてしまったのはだから当然の成り行きなのである。
日本人がどうして「憲法九条」と「自衛隊」を「矛盾している」という解釈をするのか・・・その理路が見えたので、その話をさらさらと書く。
日本人は集団的に「発狂」したのである。
だって、憲法九条と自衛隊はまったく無矛盾的なものだからである。
これが矛盾していると思っているのは世界で日本人だけである。
「憲法九条」は日本人に戦争をさせないための制約であり、日本の軍事的無害化をめざしている。
「自衛隊」は日本人にアメリカの後方支援部隊として「従卒」的な軍事的行動に限定的に利用するための装置である。
どうしてこのふたつが矛盾していると日本人は思ったのか?
まず「無害化」して、それから「従卒」として雇用する。
これは「主」の側からすればまことに首尾一貫した対日政略である。
自衛隊は「如意棒」であり、憲法九条は「緊箍児」である。
このふたつが揃っているからこそ日本は「従者」としてアメリカの役に立つ。
このふたつの「日本を支配するための道具」をどうして「両立不能な制度であると日本人は思い込もうとしたのか?
理由はもうおわかりだろう。
「日本が支配されている」という意識化することが不快な事実から目を背けるためである。
真の問題は日米関係にではなく、日本国内の身内の争いにある。
日本にとって最大の政治問題は「内政問題」なのだ。それさえ決着がつけば万事うまくゆく。
私たちはそう自分に言い聞かせてきた。それが「55年体制」と呼ばれるものである。
一方に自民党=保守があり、他方に社会党共産党=革新があり、
この非妥協的な対立のうちに日本がうまくゆかないことのすべての原因がある。私たちはそう自分に言い聞かせてきた。
55年体制が破綻したあともこの説話原型は変わっていない。
保守と革新の対立に代わって、勝ち組と負け組、グローバリストとローカリスト、
「政治的に正しい人」とナショナリスト、セクシストとフェミニスト・・・というふうに対立項はよりどりみどりだが、
これらはすべて国内的なファクター間の矛盾と葛藤のうちに日本がうまくゆかないことのすべての原因があるという文型を共有している。
私たちがこれほどまでに同一の文型で語ることに固執するのは、
「日本の国内的矛盾のうちに日本がうまくゆかないことのすべての原因がある」という
発想そのもののうちに日本がうまくゆかないことの真の原因があるという真実から目をそらしたいからである。
私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。
しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。
中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。
たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは「アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから」ではなく、
「中国が嫌いだから」(そして「どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない」)という
自身の原点にある「欲望」と「無知」のことは心にとどめていた方がいいと思う。
逆に言えば、自身の「欲望」や「利己心」や「愛」や「悪意」が自分の思考や判断に大きなバイアスをかけていることを自覚している人間は、
しばしばそうでない人間よりも科学的に推論する。
「男を騙すのはまことに簡単」ということである。
せっかくなので、宴会に参加されなかった一般読者のかたにも知見の一端をご紹介しておきたい。
男が「弱い」ポイントは「才能」のひとことである。
「あなたには才能があるわ。他の人には見えなくても、私にはわかるの」
と上目遣い斜め45度の視線プラス「かなぴょんのポーズ」でまず80%の男は落ちると断言してよろしいであろう。
「才能」のひとことであえなく陥落する男たちは「自分には才能があるはずなのだが、世間のひとが認めてくれない」
という事実にフラストレーションを抱いているからこそ、このひとことで籠絡されるわけであるが、
そのような「自己評価」と「外部評価」のずれがある場合、高い確率で外部評価の方が適切であるということが難点と言えば難点である。
「才能」の甘言をもって陥落しない20%の男というのは、
「自分には才能がないはずなので、この女は嘘をついている」と考える人間か、
「自分にはあまりに才能がありすぎるからこそ世人の評価になじまないのであって、
こんな女ごときに私の才能がわかるはずがない」と考える人間のいずれかであるが、
前者は猜疑心が強すぎ、後者はバカなのでいずれも配偶者とするには足りないので無視してよろしいのである。
ただし「才能」路線で攻めた場合、これはあくまで「自己評価と外部評価に落差があること」が条件となっており、
実際にはある程度社会的経験を積んで、適度に「練れてきた」男の中には「自分のバカさ」についてかなり適切な自己評価を下しているものがおり、
その場合は、はかばかしい反応を示さないことがある。
だが、このような「練れた」男こそ配偶者にはふさわしいわけであるから、さらなる二次攻撃が展開されねばならないのである。
「才能」で落ちない男も落ちるのは「ルックス」についての賞賛である。
すべての男は(驚くなかれ)、自分の容貌にある種の期待を抱いている。
「こういう顔が好き」という女性が世界のどこかにいるかもしれない・・・という儚い期待を胸にすることなしに
男は一秒とて生きることのできない悲しい生き物なのである。
だから、「あなたには才能があると思うの・・・」で落ちなかった男も、「私、あなたのルックスが好きなの」にはあっというまに崩れ去る。
嘘だと思ったら、やってごらんなさい。
やれば、わかる。
なぜこれほど「ルックスへの言及」が効果的であるかというと、
才能については外部評価が「学歴、IQ,年収、名声、威信」などという考量可能な指標で示されうるけれども、
容貌には外部評価が存在しないからである。
「きれい」と思えば、「毛虫だってきれい」なのである。
容貌についての評価は「評価する者」と「評価される者」の対面的状況においてのみ意味をもつものであり、余人の容喙する余地はない。
断固として、ない。
私は若かりし頃、ある女性に「ウチダくんて性格最悪だけど、顔が好き」と言われたときにそのまま昏倒しそうになったことがある。
この女性はあるとき私のTシャツ姿をしみじみみながら「私、ウチダくんの三段腹が好き」と言ったこともある。
オトコゴコロのかんどころを抑えた端倪すべからざる女性であると言わねばならない。
「いい人だけど顔はイマイチ」と言われるのと「ワルモノだけどいい男」と言われるのと、男たちはどちらを選ぶか。
答えは明かである。
というわけで、配偶者をお求めの女性諸君には、標的とされた男性については、
まず「隠れたる才能を評価し」ついで「ルックスを称える」という二段構えで攻略した場合、
たいへんに高い確率で所期の成果を挙げうるということをご教示しておきたい。
言っておくが、「人間的な暖かさ」とか「器量の大きさ」とか「優しさ」などというものについては、
いくらほめられても男は微動だにしないので言うだけ無駄である。
なぜなら、そのような資質が自分にはゆたかに備わっていることをすべての男性はゆるぎなき自信をもって信じているからである。
「顔は便所のスリッパみたいだし、知能指数はネコレベルだけど、優しくて暖かいひとなの」などと言われて喜ぶ男は世界に存在しない。
男が待望しているのは、「それが備わっているのかどうか、ちょっとだけ自信がない」美質についての「保証」のひとことだけなのである。
しかるに多くの女性は(ほとんどの、と申し上げてもよろしいかもしれない)、親しくなった男性に対しては、まず「その浅学非才を指弾し」、
つづいて「チャレンジドな容貌を嘲弄する」という挙に出る。
これをして「インティマシーの表現」と誤解している方が多いので、ここに声を大にして申し上げるが、
男にむかって「あんたはバカなんだから」とか「ブッサイクな顔して」とかいうようなことを(たとえそれが事実であるにせよ)告知することは
当該男性との良好な人間関係の構築には百害あって一利なしということを改めてご指摘させていただきたいと思うのである。
私たちの世代の中の比較的しぶとい諸君は(私もそのひとりだったが)、
「原点的経験がないということ自体を原点的経験とする」というトリッキーな返し技に出た。
つまり、「フェイクとしての政治闘争」を「フェイクだからこそ大まじめにやって何が悪い」と口を尖らせてみたのである。
これがのちに「ポストモダン」と呼ばれることになる思想型の先駆的形態であったことを、私たちはまだ知らなかった。
世に謀略とか陰謀と言われるようなものの過半は「事情を知らない人間にはそう見える」だけであって、
実行者の視点に即して見れば、きわめて合理的かつビジネスライクに遂行されているものなのである。
私たちは未来について考えるときにどうしても「現在」という固定的な視座に腰を据えて、そこから「未だ来たらざるもの」を推量しようとする。
「未来」というのは定義上、「何が起こるかわからない」ものである。
そのことは理屈ではわかっている。
けれども、「現在」に腰を据えていると、「できることなら、我が身には可能な限り『わけのわかったこと』だけが選択的に起こってほしいものだ」という無意識の欲望の浸潤を防ぐことができない。
この無意識の欲望はかならずや「まさか、『こんなこと』が起こるとは思わなかった」ことの到来の予兆を過小評価するように私を導く。
現在の視座に腰を据えている限り、私たちはすでに起こったこと、すでに知っていること、すでに経験したことを量的に延長することでしか「未来」を考想することができない。
だが、未来は決して「現在の延長」ではない。
そのことは骨身にしみてわかっているはずなのに、私たちはそのつど未来を「現在を量的に延長したもの」として把持しようと空しく努力する。
未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。
(…)未来の先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではない。
未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。
未来とは他者なのだ。
ジョン・レノンは言った。
All you need is love
これを「愛こそはすべて」と訳した人がいるけれど、それは違う。
「君に欠けているのはね、愛だよ、愛」
「私の学校は去年から児童会で、『え段を使わないようにしよう』という『やさしいことばキャンペーン』をやっています。
『てめえ』『しね』など、最後がえ段になっていることばを使わないということです。
家庭が殺伐として、親も含めて、そういうことばの世界だと思います。
『食え』とか日常言っています。だからといって、すごい親かというと、そうでもない。
しかし、そのことばは限られた小さな世界のなかで通用することであって、一歩外に出た時にその言語を使って、
人間関係がつくられていくのかということも、教師のなかで心配していることです。(・・・)
ここ数年気にかかることは『自分のことばを引き取らない』ということです。
『たぶん』、『かもね』などのことばを最後につけて、あとから追及がこないようにしています。
断定で『そうです』ということばも使わないですしね。
こうしたことは、家庭が学校化している子どもに多いのではないかと思います。」
(『ことばから見える現代の子ども』、日本作文の会、百合出版、『作文と教育』55巻7号、2004年、8頁)
「受け売り」はつねに強度を増して再現される。
勘違いしているひとが多いが、「現代人は情感が乏しいので、情感を表す語彙が貧困になった」のではない。
「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のである。
ことの順逆が違うのだ。
ホールデン・コーフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。
「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。
何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。
つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。
僕のほかにはね。
それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。
で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。
つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子どもをさっとキャッチするんだ。
そういうのを朝から晩までずっとやっている。
ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」
(J・D・サリンジャー、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、2003年、287頁)
高校生のときにはじめてこの箇所を読んだとき、私は意味がぜんぜん分からなかった。
何だよ、その「クレイジーな崖っぷち」っていうのはさ。
でも、それから大きくなって、愛したり、憎んだり、ものを壊したり、作ったり、
出会ったり、別れたり、いろいろなことをしてきたら、いくつかわかったこともある。
「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対必要だ、ということもその一つだ。
「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからないからである。
崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶんほとんどの子どもは「ありがとう」さえ言わないだろう。
感謝もされず、対価も支払われない。
でも、そういう「センチネル」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、
「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。
ときどき「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、
これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
でも、自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間は「キャッチャー」や「センチネル」の仕事には向かない。
適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。
無意識と時間意識のかかわりについて考えるきっかけになったのは先日春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。
幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。
幻の声が自分の思考を「先回り」して言い当ててしまう。
本を読んでいると、本のまだ読んでいないところを幻の声が読み進んで筋をばらしてしまう。
これを患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まれた」といった定型的な作話によって「合理化」しようとする。
でも、よく考えたら、「そんなこと」は誰にも起こる、まるで当たり前の出来事なのである。
アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。
本を開いた瞬間に見開き二頁分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。
だから、私たちは実は頁を開いた瞬間に二頁分「もう読み終えている」。
しかし、私たちは「すでに読んでしまった文」を「まだ読んでいない」ことにして、一行ずつ本を読む。
なぜ瞬間的に入力された情報を段階的に取り出すような手間ひまをかけるのか。
私にはその理由がまだよくわからない。
よくわからないままに、直感的な物言いを許してもらえれば、たぶん、
それは「手間ひまをかける」ということが「情報を適切に処理すること」よりも人間にとって重要だからである。
「手間ひまをかける」というのは言い換えると「時間を可視化する」ということである。
おそらく、無時間的に入力された情報を「ほぐす」という工程を通じて人間的「時間」は生成する。
一瞬で入力された文字情報をあえてシーケンシャル処理することは、知性機能の「拡大」ではなく、機能の「制限」である。
私たちの知性はおそらく「見えているものを『見えていないことにする』」という仕方で「能力を制御する」ことで機能している。
それに対して、統合失調の人たちはおそらく「見えているものが無時間的にすべて見えてしまう」のである。
かれらは「〈超〉能力が制御できない」状態になっている。
発想の転換が必要なのだ。
私たちの中では実際に無数の声が輻輳し、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。
その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声として聴き取り、「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、
理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言うのではあるまいか。
この「理解を絶した数理的秩序」を私たちの貧しい語彙をもって語ろうとすると、
それは「宇宙人の声」とか「CIAの監視」といったチープでシンプルな物語に還元されてしまう。
だから、それについてはあえて語らないというのが知性の節度なのではないか。
ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ないものについては沈黙すること」が知性のおそらくは生命線なのである。
私が重視するのは、「コミュニケーション感度」である。
こちらのモード変換にどれくらいすばやく反応するか、その反応速度でだいたい点数が決まる。
私の出す質問や脱線する無駄話の内容だけでなく、こちらの話し声のピッチやトーンや姿勢や
テンションの変化といったシグナルを「どう読んだか」ということを見るのである。
コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、
「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。
これは別に私の趣味でやっていることではなくて、この構えは生物の個体としての「生存能力の高さ」に相関するからである。
緊張感の欠如がもたらす脆弱さの端的な徴候は「視野狭窄」である。
言い方を換えれば「未知なるものに対する想像力」の欠如である。
自分自身の足下が崩れるようなシステム・クラッシュの可能性をつねに勘定に入れる習慣を失った生物は、
パニックに際会したときに生き延びることができない。
「パニック」というのは、「手持ちの判断基準が使い物にならなくなる」という事態のことである。
何も判断基準がなくても、生物は生き延びるためには判断しなければならない。
この矛盾に耐える力をどう育成するか。
むずかしい宿題である。
とりあえず、ひとつだけわかっていることがある。
それはどんな場合でも、とりわけ危機的状況であればあるほど、
「他者からの支援」をとりつける能力の有無が生き延びる可能性に深く関与するということである。
他者からの支援をとりつけるための最良のアプローチは何か?
たぶん、ほとんどのひとは驚かれるだろうけれど、それは「ディセンシー」である。
「強い個体」とは「礼儀正しい個体」である。
この理路は、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。
多忙過労は「自己憐憫」をもたらす。
「こんなに働いて、かわいそうなオレ・・・」
平和憲法下の60年間は日本人を「動物園の草食動物」のようなへなへなしたものに変えてしまった。
学力低下もニートも引きこもりもリストカットも解離症状も少子化も非婚化も少年犯罪も・・・これらはすべてある意味で「平和の代償」である。
「動物園症候群」と申し上げてもよろしいかと思う。
このような「あまりに平和であるために生命力が萎縮したことによる病的症候」は「戦争が近い」という大気圧下では雲散霧消するであろう。
多くの人々はひそかにそう期待している。
その期待にはそれなりの根拠があると私も思う。
戦時中の社会にノイローゼの人間はいない。精神科の待合室には閑古鳥が啼く。
これは疾病史的事実である。
重篤な精神病患者でさえ、死期が近づくと正気に返る。
生体が危機のときに、メンタルな問題で悩んでいられるほど人間はタフな生物ではない。
危機的状況に陥った人間は使えるすべてのリソースを「とりあえず飯を食う、とりあえずセックスする、とりあえず眠る」
といったプリミティヴな活動に集中させる。
当然、身体能力も向上する。
男たちはみんなぎらぎらした眼をして、ハリネズミのように皮膚の感度を上げて都会を歩くようになる。
女たちは「サバイバル能力」の高い、生物的に「強い」男であることを、
年収や学歴やルックスや趣味のよさよりも配偶者の選択において優先的な条件とするようになるだろう。
おそらく多くの日本人はそのようなしかたでの「日本の若者の野生化」を歓迎するだろう。
外形的には今の「へなへな」の若者たちよりはずっと「まし」に見えるからだ。
不登校や引きこもりやニートは「銃後の守り」という勤労義務への重大な違背とみなされ、
厳しい社会的指弾を受けることになり、尻を蹴飛ばされて勤労動員される。
「産めよ増やせよ」と厚労省は叫びたて、結婚率は急上昇し、出産育児は国民の義務を履行する行為としておおいに奨励される。
家庭でも学校でも地域社会でも企業でも、「目上の人間の命令」に従うことの重要性が全社会的な合意を得て承認される。
家父長権は復活し、学校での体罰が許され、でれでれしている青少年は街のおっさんから「この非国民!」とすれ違いざまに張り倒されるようになる。
だって、指揮系統を無視するような兵士は戦場では射殺されて当然だからである。
おいおい、そう聞くと、なんだかすばらしい世の中が来そうじゃないか。
なんだよ、憲法改正ってぜんぜん悪くないじゃないか。
そう思う方々がたくさんおられることだろう。
おられるからこそ、改憲ムードがこれだけ高まっているのである。
私はそのような期待があることを理解できる。
理解できるが私は改憲には反対である。
私は改憲して「サバンナのシマウマ」になるよりは平和ボケしたまま「動物園のシマウマ」でいることの方が100倍もハッピーであると確信している。
このことはあらためてきっぱり申し上げねばならない。
その理由を申し上げる。
このムード的改憲には重大な瑕疵があるからである。
それはこの改憲機運は「戦争が起こりそうになるけれど、実は起こらない状態から得られるベネフィット」のみを勘定して、
「戦争がほんとうに起こってしまった場合のロス」については何も考えていないからである。
あるいは百歩譲って戦争が起きた場合でも「日本では起こらない」ということを不当前提しているからである。
誰でもいい、そこらにいる改憲論者を捕まえて、「あなたは『戦争』というとどんな情景を想像しますか?」と訊いてみるといい。
彼らはおそらく反射的に、中東の砂漠や中米のジャングルでのゲリラ戦や、
アジアやアフリカの都市での市街戦や、シーレーンや領海付近での海戦のようなものを思い浮かべるだろう。
「戦争の被害」ということばからはベトナムやイラクでの非戦闘員の子どもや女たちの泣き顔を想起するかもしれない。
彼らが決して想像しないのは、「猛火に包まれた東京」や「略奪される自宅」や「敵兵にレイプされる妻や娘」の姿である。
戦争は「ここではないどこか」で起こるものであり、戦争で破壊されるのは「日本ではないどこかの都市」であり、
戦争で殺されるのは「自分ではない兵士たち」である。
自分たちはテレビやネットで戦争報道にどきどきしたり、戦争がもたらすさまざまな利得を享受するだけであると改憲派諸君は信じている。
どうして、戦争が起こったら自分が殺され、自分の街が破壊され、自分の財産や自由が奪われるという想像がなされないのか?
理由は意外に簡単である。
それは改憲派の諸君が「戦争」という言葉を使うとき、それは「アメリカ人が『戦争』という言葉を使っているときの意味」で使っているからである。
『街場のアメリカ論』でも書いたことであるが、アメリカは戦争において他国軍に侵略された経験をほとんど持たない。
例外はシッティングブル率いるスー族にカスター将軍の第七騎兵隊が全滅させられた事件と真珠湾だけである。
ただし、スー族はその後帰順してアメリカ国民となったし、真珠湾は併合されたばかりのはるか太平洋の彼方のハワイ島でのできごとであった。
アメリカ人にとってそれ以外の戦争は米墨戦争も米西戦争も第一次世界大戦も太平洋戦争も朝鮮戦争もベトナム戦争もソマリアも湾岸もアフガニスタンもイラクもすべて国境線の外側での戦争である。
だから、アメリカ人はアメリカ領土内で、アメリカ国民を対象とし、
アメリカ人の生命財産自由を奪うために行われる戦争というものを想像する習慣がない(911は「テロ」であって「戦争」ではない)。
アメリカ的な「戦争」概念は一種の民族誌的奇習にすぎないのだが、
わが国の国際関係論や外交問題の専門家たちはこの特異な「戦争」概念を無批判に「一般解」として受け容れている。
平和憲法の「戦争の放棄」でさえ、「武力による威嚇又は武力の行使」を行いうる「主体」の側の決断としてなされるものであって、
自らを戦争において「武力によって威嚇され、武力を行使される側」に擬して、
「そのようなことは止めてほしい」と世界に向けて懇請しているわけではない(アメリカ人が採択した文言なのだから当たり前だが)。
「戦争」を論じるときに、つねに自分を暴力の「主語」に措定し、
暴力の「目的語」としての自分をまず優先的に考慮するということを「しない」というアメリカ人の習慣を私たちは自明のものとして60年生きてきた。
私に言わせれば、これこそが戦後60年間の「平和ボケ」の最悪の症候である。
私たちはあまりに平和に慣れてしまったせいで、「平和でない」というのがどういうことであるかを忘れてしまい、
「たまには戦争もいいじゃないか」というような妄語を口走るようになってしまったのである。
愚かなことである。
結論を述べる。
現代日本のさまざまなシステム不調のかなりの部分が「日本人の生命力の低下」に起因することを私は認める。
生命力は「生命の危機」に際会すると爆発的に発現するという事実も私は認める。
その上で、私は「動物園のシマウマの退屈」を「サバンナのシマウマの興奮」よりも得がたいものだと思う。
平和は退屈であり、あまりに長く続く平和は人間を苦しめるというのはほんとうのことである。
けれども、その退屈や苦痛は、戦争がもたらす悲惨や苦悩とは比較にならぬものである。
「戦争ができる国」になることによって日本人が今以上に幸福になるだろうという見通しに私は与しない。
「九条第二項を廃絶したら日本人は今よりもっと幸福になれる」と確信している人がいたら(たくさんいるらしいが)、
とりあえずまず、私自身が今よりどんなふうに幸福になれるのかについて私を説得していただきたいと思う。
話はその後だ。
「頭がいいとはどういうことか」という問いについては私には長年の疑問がある。
「頭がいい」とはどういうことかについて知っていると称する人間は、当然ながら、
自分は「頭がいい人間と頭が悪い人間を識別できる」ほどに頭がいいと思っているということを意味するわけであるが、
彼の「オレは頭がいい」という確信には、その名乗り以外にはいかなる根拠もないということである。
にもかかわらず、「彼は頭悪いね」というような評言について、
「貴下はいかなる汎通的根拠にもとづいてそのような判定を下す権利が自分にあると信じられるのであるかを400字以内で述べよ」
というような反問をする人間は存在しない。
存在してもいいはずなのであるが、存在しない。
これは過去30年間、あらゆる機会に「あいつはバカだ」とか「彼は頭いい」というような印象的放言を繰り返してきた私自身が
そのような反問に一度として遭遇したことがないという事実によって経験的には確証せられているのである。
つまり、「頭がいい」とか「あいつはバカだ」といった知性にかかわる判定は「言ったもん勝ち」なのである。
「あなたの言っていることは間違っている」という指摘によって相手を黙らせることはほとんど不可能である。
「間違い」の指摘は猛然たる反論を覚悟しなければならない。
「あなたはこれこれしかじかの事実について知らない」という「無知」の指摘によって相手を黙らせることは、
「間違いの指摘」よりは効果的である(『朝まで生テレビ』や『TVタックル』などでは、ほとんどそれしか有効な論争的利器は存在しないかのようである)が、
それでも「それを知らないことがどうして私の命題の当否に決定的に関与していると汝は言いうるのか、その理路を明らかにせよ」というような反論は十分に可能である。
現に私はその反論によっていかなる点について無知を指摘されてもそ知らぬ顔で今日のこの日を迎えている。
それに比べると、「君は頭悪いね」という無条件的断定はいかなる反論も受け付けない最強の批評的ウェポンである。
どうしてこの「頭悪い」という評言がこれほどまでに有効であるかというと、
この評言は「読者」あるいは「その場にいる人々」の無言の同意に向けて開かれているからではないかと私は考えている。
ある命題が間違っているかどうか、事情を知らないはたの人間は検証しようがない。
ある情報を欠いていることが致命的な瑕疵であるかどうかも、素人にはわからない。
けれども、「君は頭が悪いね」という断定をしている人間とそう断定された人間のどちらの人間が「頭がよい」のかの判定は、
当事者間では検証できず、原理的に「第三者の査定」に向けて開かれているのである。
この「おう、こうなったら、てめえをおいらと、どっちの言い分が正しいか、ひとつ世間様にきめてもらおうじゃねえか」
というディスクロージャーの構えが「君は頭悪いね」という評言には含まれている。
この「当否の審級を当事者間の確執から第三者評価に繰り上げる」開放性が、
「頭悪い」という断定のもつ「強さ」を担保している。
私はかように考えるのである。
今朝はNHKの記者さんが取材に来た。
どういう案件かと思いきや、「自殺サイト」の学的考察についてのご意見を求められたのである。
ない知恵を絞って必死になって語ること90分。
まず一般的な前提の確認として、「死んだときの私」という想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が、ほかならぬこの現実にリアリティを与えている。
それは私が「推理小説」を読んでいるときと同じメカニズムである。
ある出来事が起こる。
物語の中ではすべての出来事の意味は文脈依存的であるから、物語が読み終えられて書物を置くまでは、
その出来事の意味は未決のままである。
にもかかわらず私たちが推理小説の未決(サスペンス)を愉悦することができるのは、
その「物語を読み終えて、すべての伏線の意味を理解した自分」というものを想像的に措定しているからである。
もし、推理小説の場合に、「その小説が途中で『未完』で終わるかもしれない」とか
「最後に探偵が『うーむ、わからん』とうめいて、すべては謎のまま終わる」という事態がしばしばありうるならば、
私たちは小説を読むことの苦役に長くは耐えられぬであろう。
同じことが私たちの生そのものにおいても起きている。
日々我が身に起きている出来事の「ほんとうの意味」は「私という物語」を読み終えるまでは私は知ることができない。
にもかかわらず日々の出来事に感動できるのは、「『私という物語』を読み終えた私」を想像的に措定して、
その仮設的視座から現在を回顧している未来を少しだけ先取りしているからである。
例えば、意を決して愛の告白をするときなど、私たちは自分を含む「映像」を思い描き、
そこに「このときがぼくの幸福のあるいは絶頂の瞬間だったのかもしれない・・・」などというナレーションを勝手に入れている。
というか、そういうナレーションを想像的に入れないと、どれほど劇的な出来事だって、さっぱり盛り上がらないものなのである。
だから、劇的人生を好む人は(女性に多いけれど)、愛の告白の瞬間とか、
別れのことばを告げるときとかに「鏡」や「窓ガラス」に自分の姿を映すことに強く固着する。
「ウチダくん・・・私たち、もう終わりだなと思うの・・・」
と告げる彼女の視線がどうも私を通り越して遠くを見ているので、なんでだろうと思って振り返ったら、
彼女はガラス窓に映る自分に向かって「カメラ目線」で語っていたのである。
それを責めるのは筋違いで、人間というのは「そういうもの」なのである。
とにかく、私たちは「物語的な結構」の中にリアルタイムの現実をはめ込むことによってしか、
リアルタイムの現実の「現実感」を享受することができない。
そして、私たちの現在を「物語化」するためには、「『私という物語』を読み終えた私」、
すなわち「死んだ私」というものを想定せざるを得ないのである。
「死んだ私」という想像的な消失点は想像力の強い人間ほど「遠く」に設定することができる。
きわめて想像力の強い人間は、個体としての自分の死を超えて、共同体の死、生物種の死、
地球の死、宇宙の死・・・にまでこの無限消失点を後退させることができる。
宇宙の死にまでこの想像的視座を後退させることのできる想像力をもつものは仏陀のような例外的な知者に限定されるだろう。
逆に、想像力の弱い人間は、個体としての自分の死さえうまく想像することができない。
成長し、さまざまな経験を重ね、愛したり、憎んだり、出会ったり、別れたり、得たり、失ったり・・・気の遠くなるほど長い歴程の「後に」、
老いたり、病んだりして、いままさに死のうとしているときの「私の気持ち」を想像することができない。
そういう想像力の弱い人間であっても、「死んだ私」を想像すること抜きには、「いまのリアリティ」を確保することができない。
想像力がないために「今の私」とはまったく別の人間となった「私」を想像できない人間が想像する「死んだ私」というのは、
「今の私のままの人間が死んだときの私」である。
それは成長も経験も出会いも変化も加齢も何も起こらない「無時間的な人生」が終わる瞬間の私である。
「無時間的な人生」というのは論理矛盾だが、ひとつだけそれを具体化できる契機が存在する。
自殺である。
自殺というのは「今の私」という無時間的存在者が、「今の私ならざるもの」へと私を拉致し去るかもしれない時間を支配し返すための唯一の方法である。
わかりにくくてすまない。
とにかく、「今の私」のままで「私という物語」を最後まで読み終えたいと願う人間には、自殺という方法がある。
あるいは、自殺という方法しかない。
それゆえ、「今の私」であることに固執し、かつ「今の私であることのリアリティの希薄さ」に耐えられない人間は、
「今の私のまま死んだ私」という想像的消失点を立てることでかろうじて、今の無意味さと非現実性に耐えることができる。
だから、自殺サイトが繁昌する。
逆説的な話だが、「今この瞬間とやりすごすためには、自殺することを想像するしかない」という事況は「よくあること」なのである。
それは想像力の不足がもたらす出口のないループである。
村上龍はかつてすべての小説は「人間が穴に落ちる」「穴からはいあがる/穴の中で死ぬ」という話型でできていると道破したことがある。
そうだろうなと私も思う。
『下流社会』は「下」をターゲットにして、その風儀をひじょうに皮肉な筆致で描き出している。
これはこれまでの日本の言説伝統には見られなかったことである。
「貧乏自慢」には百鬼園先生や志ん生の至芸があるけれど、「他人の貧乏ぶりを笑う」というのは、
どのような立場の人間がするにせよ、あまり品のよいことだとは思われていなかったからである。
ひとつには「貧しき人々」に対する人道主義的な配慮があったからであるし、
ひとつには「社会的弱者はその社会の全矛盾の集積点であり、彼らこそが社会のラディカルな改革の主体となるべきである」
という左翼的な社会理論がごく最近まで(いまだに?)支配的な言説の地位を占めていたからである。
人道主義も左翼的社会理論も、ふたつながらに影響力を失ってしまい、
かつ「下」が消費文化やグローバリズム・イデオロギーの「主導者」であるという現今の特異な市場編制が
おそらくは「下流社会」のクールでリアルな描写を可能にしたのであろう。
その「前代未聞」の仕事の中で三浦さんはいくつか掬すべき重要な指摘を行っている。
これは社会批判として(あるいはメディア批判としても)重く受け止めるべきものだろう。
「下」の趣味として三浦さんが引く統計は次のようなものを挙げている。
パソコン・インターネット、AV機器、テレビゲーム、音楽コンサート鑑賞、スポーツ観戦。
どこか「下」なのか?ちょっと不思議に思えるチョイスである。
三浦さんはこれをこう解説する。
「パソコンというと『デジタルディヴァイド』と言われて、お金のある人は持てるが、
お金のない人は持てず、よって所得によってパソコンを使えるかどうかに差がつき、
ひいては情報格差がつく、という懸念があった。
しかし、今やパソコンは接続料さえ払えば何でも手に入る最も安い娯楽となっており、
低階層の男性の最も好むものになっているようである。
(・・・)パソコンを所有し、それで楽しむという点では階層差はなく、
むしろ趣味がパソコン・インターネットである者は『下』ほど多いというのもまた事実なのである。」(179?180頁)
そして、「下」を表象する「五つのP」を三浦さんは提唱している。
Personal Computer
Pager
Play Station
Pet Bottle
Potato chips
(「ペイジャー」というのはもともと「ポケベル」のことだが、三浦さんは「モバイル通信ツール」というひろい意味でこの語を使っている)。
つまり「下流階層」の肖像として、「パソコンの前に座って、ペットボトルの飲料を飲み、ポテトチップスを食べながら、
インターネットをしたり、ゲームをしたり、携帯でメールを打ったりしているという姿が浮かび上がってくるのだ。」(181〜2頁)
三浦さんはここで、「彼らは果たして不幸なのか?」という問いを発している。
たしかに日給240円のニカラグアの小作農に比べると、彼らはほとんど「王侯貴族」の暮らしをしていると言ってよい。
客観的条件として彼らは「搾取されている」という説明にどの程度の妥当性があるのか、正直言って私にもよくわからない。
彼らが内的に幸福かどうかは、これはご本人たち次第である。
社会学者は客観的には搾取されていながら、内的には幸福でいられる大衆のありように警鐘を鳴らすが、三浦さんは「それで何か問題でも?」と反問する。
もし「下流」の人々が客観的に恵まれた社会的地位にいないことを受け容れつつ、
「その程度の不幸なら瞬間的な盛り上がりやら何やらを介して適当にやり過ごすことができる程度にタフ」(186頁)であるなら、
それほど内的には不幸ではないのかもしれない。
マルクスは『フランスにおける階級闘争』において、客観的にもっとも収奪されていながら、
主観的に彼らを収奪する体制イデオロギーにもっとも深く親和している階層を「ルンペン・プロレタリアート」と呼んだ。
レーニンは『帝国主義』において、自らは収奪されている労働者でありながら、植民地住民からの収奪の余沢に浴しているせいで、
資本主義イデオロギーを支配階級以上に深く内面化してしまった社会階層を「ブルジョワ的プロレタリアート」と呼んだ。
マルクス、レーニンのような天才でさえ階級理論との不整合にてこずって「別のカテゴリー」を作ってそこにねじ込まなければならなかった社会階層に似たものが現在の日本に発生しているのかも知れない。
21世紀の社会理論家たちは彼らを何と名づけることになるのだろうか。
他の本を読んでいないままに批判的なことをいうのは失礼だけれども、表題を見る限りでは、
著者たちが彼ら自身のエクリチュールを無意識的に統御している「不可視の構造」の解析に
知的リソースを優先的に備給している場合に採用するタイトルであるようには思われない。
まわりくどい言い方をしてすまない。
要するに、彼らが「他人が間違っていること」を論証するために割いているのと同程度の知的資源を
「自分が間違っている可能性」を吟味するために割いているのかどうか、
タイトルからは懐疑的にならざるを得ないと申し上げたいのである。
私は(友人知人に「こっち系」の人が多いせいもあって)、ニューエイジに対してはわりとフレンドリーな立場を取っている。
イルカに触れたり、ヨガや断食や瞑想で霊的な経験をされることを私は人間にとってごく自然なことだと思うからである。
霊が降りてくるとか、悪霊に憑かれるとか、神秘体験をするとか、呪いをかけられるとか、
そういう種類の宗教経験は「精神病理」の術語をもちいて「科学的に」説明するか、
ある種の詩的幻影のようなものに類別するか、いずれにしても「収まるところに収める」のが近代主義の骨法である。
でも、私はものが「収まるところに収まる」ということがあらゆる場合にベストのソリューションだとは考えていない。
「収まりの悪いもの」がそのへんにごろごろしていても、私は別に気にならない。
つねづね申し上げている通り、どのような理論にとっても「説明過剰」を自制することはたいへん難しい。
その理説が妥当する事例だけに踏みとどまれずに、
その理説をむりに適用しなくてもよい事例にまで過剰適用しようとすることで、
これまでさまざまな社会理論はその寿命を縮めてきた。
それは畢竟するに「収まりの悪いもの」に対する嫌悪感が過大であることに起因しているように私には思われる。
「よくわからないもの」があってもいいじゃないですか、別に。
「既存のカテゴリーにうまく収まらないもの」は既存のカテゴリーの「刷新」や「改良」を要求する生産的なファクターであって、
いささかも嫌うべきものではないと私は思っている。
私自身は自分が奉じている理論(というほどのものもないけど)があらゆる事例をカバーできるなんて思っていない。
だから、その理論ではうまく説明できない事例に出会えば、興味を抱きこそすれ、
無視したり、むりやり既知のものと同定したりはしない。
宗教的経験は「よくわからないもの」の宝庫である。
それはさまざまな仮説の生成をうながす栄養豊かな培養基のようなものだと私は思っている。
私がタレント霊術師のような方々を好かないのは、彼らが「話を単純にすること」に固執する点おいて、
彼らの対極にある「科学主義者」と双生児のように似ているからである。
たしかに、「水子の祟りです」とか「トイレの方角が悪いからです」とかいう
チープな物語に回収されることで救われる人がいることを私は否定しない。
切羽詰れば、人間「鰯の頭を拝め」と言われれば拝むものである。
拝んで治れば、それは正しい治療法だったことになる。
「よくわからないこと」をチープでシンプルな話型に回収することは、緊急避難的には許される。
それは医者が患者に「これで眠れます」とシュガー・コーティングした小麦粉のプラシーボを投薬するのと同じことである。
結果的に患者が眠れて健康を回復できるなら、これくらいの嘘は方便のうちである。
だが、「一時しのぎ」はあくまで「一時しのぎ」であり、一般化すべきではない。
それは宗教的体験は「話を複雑にする」ことによって私たちの思考力と感受性のパフォーマンスを上げる絶好の契機だと私が信じているからである。
宗教的体験を(否定するにせよ、肯定するにせよ)「シンプルな話型」に回収するすべての人間に対して私は懐疑的である。
ジュンク堂で『下流生活』という新書をタイトルに引かれて買う。
それを信号待ちの車の中で読む(けらけら笑っているうちに、大学の行き帰りの信号待ちだけで半分読んでしまった)。
愉快な人物類型を行っている。
「ヤングエグゼクティヴ系」というのはこんなふうに描写されている。
「一流企業志向、商社、金融、IT系に多い。
(・・・)消費面では、住宅、インテリア、財テク、旅行志向が強く、外車好きである。
もちろんネットトレードはしている。
しかし、自分自身の独自な個性的な価値観はなく、あくまで、人がよいと思い、
欲しいと思うものをいちはやく手に入れることに喜びを感じるタイプである。
よって、六本木ヒルズ、港区の三井不動産のマンション、BMW,ロレックス、タグ・ホイヤーなど、
わかりやすいステイタスが好き。ビジネス用のバッグはお約束でTUMIかゼロハリバートン。」(74頁)
ロハス系は「比較的高学歴高所得」であるが、出世志向は弱い。
「自分の趣味の時間を増やしたいと考えているが、とはいえ忙しいので、それほど趣味の時間が多く取れるわけではない。
よって、雑誌、本などを見て代償する日々が続く。
雑誌でいえば『ソトコト』『サライ』を愛読するタイプ。会社の仕事だけでなく、社会活動、
NPOなどにも関心があり、環境問題についてのセミナーなどにも個人的に参加するようにしている。」(78頁)
なるほど。
「消費面では、有名高級ブランドには関心が弱いが、ひとひねりしたそこそこのものを買うのが自分らしいかなと思っている。
外車が好きだが、ベンツやBMWではなく、できればジャガーやプジョーがよいと思っている。」
わかるねえ。
「品質、製造方法、伝統、文化などについての蘊蓄があるものを好む。よって無印良品もやや好き。
(・・・)古本、骨董、真空管アンプ、中古家具、古民芸など、やや古めかしいアナログ趣味の世界に浸るのも好き。」
私の場合、あらかじめわかっていることを口にするのではなく、口が先に動いて、
発語されたセンテンスを聴きながら自分が何を言いたかったのかを事後的に知るという
「フライング」システムを採用しているので、「口が回らない」と話にならない。
「口が回る」かどうかということは、私の自己決定や決断や忍耐にまったくかかわりなく、
回るときは回るし、回らないときは回らない。まるであなた任せのメカニズムなのである。
熱があったり、体調が悪いときは、ある程度以上複雑な論理構成のセンテンスは語ることができない。
「思考の肺活量」とでもいうべきものがてきめんに減じ、論理の「一回ひねり半」とか
「後方二回ひねり」というような屈曲ができなくなるのである。
それでも必死でしゃべっていると、そのへんは甲羅を経た「餅屋」であるから、
思いもよらぬアイディアが口を衝いて出てきたりすることもある。
人間の身体部位のうちでもっとも大量のカロリーを消費するのは大脳である。
政治家がよく遁辞に用いる「1億円受け取った記憶はありません」というのはある種の解離症状である。
そのことを「記憶している私」と「記憶していない私」に便宜的に人格を分離し、
いまあなた方の前にいるのは「記憶していない私」であり、
その私は「記憶している私」のかかわった行為については関与しない。
「私は自分が嫌いだ」「何かにつけて自分を責めたくなる」
「頭の中で自分を責める声が聞こえる」「私は自分を尊敬できない」といった一連の自己批判的言明は、
一見すると自省的な知的態度のように聞こえるが、実際には「私」と「自分」を分離することによって、
「私1の欠点を点検・批判できる程度に倫理的・合理的な私2の立ち上げ」を果たして、
「私1」に責任を転嫁して、とりあえず「私2」を救出しようとする「解離ソリューション」である。
その結果、当然ながら「周りの人や事物について生き生きとした実感が薄れ」ることになる。
「私」はその場にはおらず、その場から離脱して、その場で屈託している「私」を見下ろしているわけであるから、
「生き生きとした実感」がなくて当然である。
なるほど、それなら、「人生をやりなおしたい」「すっかり違った自分になれたらと思う」ということばも漏れるであろう。
解離症状はたしかに一時的には問題を回避することを可能にする(そうでなければ進んで神経症を患う人はいない)。
そして、有効性が証明されたソリューションは爆発的に蔓延する。
現在、リストカットの人々が増えているという事実は、
解離症状による人間関係のトラブル・シューティングという「作法」が蔓延していることと関係があるように私には思われる。
そのつどの状況に応じて、そのつど別人になり、
「私じゃないときの私」の言動については一切責任を取らないことを処世の基本とするこの女性が
「病人」ではなくむしろ「かなり魅力的な女性」として描かれていることに私は時代の「空気」を感じた。
人間知性の信頼性は「おのれの誤りを他人に指摘されるより前に発見すること」に優先的にリソースを注ぐということ、
ただそれだけによって担保されている。
兄ちゃんによれば、ビジネスの場合もそうだ。
すぐれた経営者は、自分が開発したビジネスモデルの限界を、誰よりも先に発見する。
みんながまだまだ「これでいける」と言っているときに、「いや、これはもういずれ使えなくなる」と見て、
大胆に「撤収」を宣言できる経営者だけが生き延びることができる。
逆に、まわりが「社長、もうこれはいけません」と諫言しても、
自分がつくりだしたビジネスモデルに固執する経営者は遠からず自滅する。
262 :
優しい名無しさん:2009/09/19(土) 22:00:45 ID:kQeBXCvQ
Happy Birthday to Me
というのはウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』の中で、
誰も誕生日を覚えていくれていないのでダイアン・キートンが台所でひとりで
泣きながらケーキを食べているときに口ずさむ歌である。
甥が二人来てて、下の子が転んだだけなのに、
うちのお母さんが、上の子を二回もひっぱたいた
押したでしょって
押してないの見た
親も嫌いだけど、子供も嫌い
知的に高揚している人間の身体がどのように変容するのか、表情がどう変わり、肌がどう紅潮し、
声がどう響きを変え、場の空気がどのように密度を増すか・・・ということは、現場に居合わせないとわからない。
逆に言えば、現場に居合わせさえすれば、(たとえ内容が理解できなくても)身体的に同調することで、
知的高揚感というものは共有されるのである。
政治運動は社会理論と同じくある種の「生物」に似ていて、「誕生」があり、「成長期」があり、
「開花期」があり、それから長い「没落期」があり、最後に「死」が訪れる。
物理的な時間幅だけ見れば、政治活動家というのは、そのほとんどの期間で実は「後退戦」を戦っているのである。
親子や夫婦の関係のほんとうの価値は、「楽しい時代」にどれほどハッピーだったかではなく、
「あまりぱっとしない時代」にどう支えあったかで考量される。
ひとに説教しているのか、自分に言い聞かせているのかわからない。
「・・・はもう終わった」というのはきわめて毒性の強い評言であり、
誰かがぽつりとその一言を言うと、その「誰か」が市井の、無名の、
その批評性がとりわけ評価されているわけでもない人間であった場合でも、
「そ、そうか・・・もう終わっちゃったのか・・・」ということが何となくしみじみと実感されるのである。
そして、メディアがにぎにぎしく報じるまでもなく、この「何となく的実感」は日本全国津々浦々に燎原の火のごとく、
あっという間にひろまってしまう。
「・・・はもう終わった」プロパガンダの伝播力は恐るべきものである。
「隆盛であるもの」には必ずコバンザメのようなタイコモチのような、
「支配的な理説の提灯を持ってえばりちらすやつ」が付きものである。
「年上の男の人」で、その人には「気を遣わなくていい」という人は少ない。
なんとなく「気兼ね」であるとか、「気を張る」というのならまだしも、
「甘やかす」というか「ご機嫌をとる」ということをしないといけない人が多い。
「わがままな人は周囲をリラックスさせる」ということはあまり知られていないが真実なのである。
逆に「無用な気遣いをする人は周囲を緊張させ、しばしば不愉快にさせる」ということも
あまり知られていないので、ここに大書しておく。
「先手を取る」ということばを「相手より早く動く」ことと理解している人がいるけれども、これは正確ではない。
武術的な意味での「先手」は物理的な速度や時間とは関係がないからである。
目の前にいる人が「そうすることによって何をしようとしているのかがわからない」ときに、
私たちは頭上に「?」を点じたままに、その場に凍り付いてしまう。
これが「居着き」と呼ばれる状態である。
「居着く」というのは、「相手は次にどう出るのか?」という待ちの姿勢に固着してしまうことである。
一度、この状態に陥ったものは相手から「答え」が届くのをひたすら待つことしかできなくなる。
これが「先手を取られる」という必敗の様態なのである。
「あなたはそうすることによって何をしようとしているのか?」と問う人間は主観的には合理的な対応をしている。
にもかかわらず、「謎をかけた」相手に先手を取られて、必ず負ける。
合理的にふるまうことを通じて負けた人はこの「不条理な敗北」を合理的な仕方では受け容れることができない。
しねばいいのに
作詞:愉快なヴォーパルバニーズ
作曲:どぶウサギ
唄:KAITO
しねばいいのに〜♪ しねばいいのに〜♪
しんでしまえばいいのに〜♪
しねばいいのに〜♪ しねばいいのに〜♪
どこかとおいところで〜♪しねばいい〜のに〜♪
布団に入ってウトウトしたら〜♪携帯着信迷惑メール〜♪
あくびをしたら〜狙ったかのよ〜うに♪口の中へと飛んでくる虫〜♪
欠かさず録ってた深夜番組〜♪
野球延長で〜♪ 録画失敗〜♪
ただまん
応援してくれた人たちありがとう
いい部屋だったよ
283 :
優しい名無しさん:2009/09/23(水) 14:16:47 ID:wIhpYyqa
感動的なまでにチープである。
285 :
優しい名無しさん:2009/09/24(木) 22:28:14 ID:SgtVh0UX
こんばんは
みんなで合唱中?
287 :
優しい名無しさん:2009/09/24(木) 22:37:02 ID:/VSP1Kcm
>>263 甥が二人もきてるなんて大変だね
うるさくない?
288 :
優しい名無しさん:2009/09/24(木) 22:40:32 ID:/VSP1Kcm
眠れないからまた来ました。こんばんは。
昼休み
おはいお
こりからもうちっとしたら夜勤だお
行きたくないお・・・
292 :
優しい名無しさん:2009/09/29(火) 21:57:57 ID:WZdlePJR
こんばんは
ラジオのほうは5対5で放送やめた。
がんばれ
楽天
ただいもあもあー
295 :
優しい名無しさん:2009/10/01(木) 15:18:37 ID:9xeeN9nJ
お仕立ての寸法測ってもらったw
腕の付け根がスポーツをやってるかのようにゴツイらしいw
こばわ
明日はお休みだお
開店とともに押しかけてヒトカラするお
297 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 01:51:09 ID:G2i0J5Kh
こんばんは( ^ω^)ノ
298 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 01:54:49 ID:G2i0J5Kh
299 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 01:56:41 ID:G2i0J5Kh
300 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 02:02:26 ID:G2i0J5Kh
301 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 02:11:57 ID:G2i0J5Kh
302 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 02:12:49 ID:G2i0J5Kh
303 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 02:15:53 ID:G2i0J5Kh
こんばんはー
304 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 02:17:50 ID:G2i0J5Kh
305 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 02:29:10 ID:G2i0J5Kh
306 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 03:30:05 ID:x+BzCh8+
今日は仕事休みなのにぐったりして何もできなかった。
気分が落ち込むので安定剤飲んでるけど効かない。
こういう時どうすればいい?
307 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 06:06:01 ID:G2i0J5Kh
308 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 06:28:01 ID:G2i0J5Kh
age
309 :
優しい名無しさん:2009/10/02(金) 06:30:13 ID:qlH+dOym
まだ寝れないぞぅ
キネマ旬報年度別ベストテン
第82回(2008年度)
日本映画
第1位 おくりびと 監督:滝田洋二郎
第2位 ぐるりのこと。 監督:橋口亮輔
第3位 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 監督:若松孝二
第4位 トウキョウソナタ 監督:黒沢清
第5位 歩いても 歩いても 監督:是枝裕和
第6位 闇の子供たち 監督:阪本順治
第7位 母べえ 監督:山田洋次
第8位 クライマーズ・ハイ 監督:原田眞人
第9位 接吻 監督:万田邦敏
第10位 アフタースクール 監督:内田けんじ
第82回(2008年度)
第1位 ノーカントリー
監督:ジョエル&イーサン・コーエン
第2位 ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
監督:ポール・トーマス・ アンダーソン
第3位 ダークナイト
監督:クリストファー・ノーラン
第4位 イントゥ・ザ・ワイルド
監督:ショーン・ペン
第4位 ラスト、コーション
監督:アン・リー
第6位 イースタン・プロミス
監督:デヴィッド・クローネンバーグ
第7位 その土曜日、7時58分
監督:シドニー・ルメット
第8位 エグザイル/絆
監督:ジョニー・トー
第9位 つぐない
監督:ジョー・ライト
第10位 チェチェンへ アレクサンドラの旅
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
キネマ旬報年度別ベストテン
第81回(2007年)
日本映画
第1位 それでもボクはやってない
監督:周防正行
第2位 天然コケッコー
監督:山下敦弘
第3位 しゃべれども しゃべれども
監督:平山秀幸
第4位 サッド ヴァケイション
監督:青山真治
第5位 河童のクゥと夏休み
監督:原恵一
第6位 サイドカーに犬
監督:根岸吉太郎
第7位 松ヶ根乱射事件
監督:山下敦弘
第8位 魂萌え!
監督:阪本順治
第9位 夕凪の街 桜の国
監督:佐々部清
第10位 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
監督:吉田大八
キネマ旬報年度別ベストテン
第81回(2007年)
外国映画
第1位 長江哀歌
監督:ジャ・ジャンクー
第2位 善き人のためのソナタ
監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
第3位 今宵、フィッツジェラルド劇場で
監督:ロバート・アルトマン
第4位 クィーン
監督:スティーブン・フリアーズ
第5位 バベル
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
第6位 やわらかい手
監督:サム・ガルバルスキ
第7位 ドリームガールズ
監督:ビル・コンドン
第8位 ボルベール<帰郷>
監督:ペドロ・アルモドバル
第9位 ゾディアック
監督:デビッド・フィンチャー
第10位 パンズ・ラビリンス
監督:ギレルモ・デル・トロ
キネマ旬報年度別ベストテン
第80回(2006年度)
日本映画
第1位 フラガール
監督:李相日
第2位 ゆれる
監督:西川美和
第3位 雪に願うこと
監督:根岸吉太郎
第4位 紙屋悦子の青春
監督:黒木和雄
第5位 武士の一分
監督:山田洋次
第6位 嫌われ松子の一生
監督:中島哲也
第7位 博士の愛した数式
監督:小泉堯史
第8位 明日の記憶
監督:堤幸彦
第9位 かもめ食堂
監督:荻上直子
第10位 カミュなんて知らない
監督:柳町光男
キネマ旬報年度別ベストテン
第80回(2006年度)
外国映画
第1位 父親たちの星条旗
監督:クリント・イーストウッド
第2位 硫黄島からの手紙
監督:クリント・イーストウッド
第3位 グエムル 漢江の怪物
監督:ポン・ジュノ
第4位 ブロークバック・マウンテン
監督:アン・リー
第5位 麦の穂をゆらす風
監督:ケン・ローチ
第6位 太陽
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
第7位 カポーティ
監督:ベネット・ミラー
第8位 グッドナイト&グッドラック
監督:ジョージ・クルーニー
第9位 クラッシュ
監督:ポール・ハギス
第10位 マッチポイント
監督:ウディ・アレン
キネマ旬報年度別ベストテン
第79回(2005年度)
日本映画
第1位 パッチギ!
監督:井筒和幸
第2位 ALWAYS 三丁目の夕日
監督:山崎貴
第3位 いつか読書する日
監督:緒方明
第4位 メゾン・ド・ヒミコ
監督:犬童一心
第5位 運命じゃない人
監督:内田けんじ
第6位 リンダ リンダ リンダ
監督:山下敦弘
第7位 カナリア
監督:塩田明彦
第8位 男たちの大和/YAMATO
監督:佐藤純彌
第9位 空中庭園
監督:豊田利晃
第10位 ゲルマニウムの夜
監督:大森立嗣
キネマ旬報年度別ベストテン
第79回(2005年度)
外国映画
第1位 「ミリオンダラー・ベイビー」 監督:クリント・イーストウッド
第2位 「エレニの旅」 監督:テオ・アンゲロプロス
第3位 「亀も空を飛ぶ」 監督:バフマン・ゴバディ
第4位 「ある子供」 監督:ジャン・ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ
第5位 「海を飛ぶ夢」 監督:アレハンドロ・アメナーバル
第6位 「大統領の理髪師」 監督:イム・チャンサン
第7位 「ウィスキー」 監督:フアン・パブロ・レベージャ
第8位 「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」 監督:ジョージ・ルーカス
第9位 「キング・コング」 監督:ピーター・ジャクソン
第10位 「ヒトラー〜最期の12日間〜」 監督:オリバー・ヒルシュビーゲル
キネマ旬報年度別ベストテン
第78回(2004年度)
日本映画
第1位 「誰も知らない」 監督:是枝裕和
第2位 「血と骨」 監督:崔洋一
第3位 「下妻物語」 監督:中島哲也
第4位 「父と暮らせば」 監督:黒木和雄
第5位 「隠し剣 鬼の爪」 監督:山田洋次
第6位 「理由」 監督:大林宣彦
第7位 「スウィングガールズ」 監督:矢口史靖
第8位 「ニワトリはハダシだ」 監督:森崎東
第9位 「チルソクの夏」 監督:佐々部清
第10位 「透光の樹」 監督:根岸吉太郎
外国映画
第1位 「ミスティック・リバー」 監督:クリント・イーストウッド
第2位 「殺人の追憶」 監督:ポン・ジュノ
第3位 「父、帰る」 監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
第4位 「オアシス」 監督:イ・チャンドン
第5位 「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」 監督:ピーター・ジャクソン
第6位 「オールド・ボーイ」 監督:パク・チャヌク
第7位 「モーターサイクル・ダイアリーズ」 監督:ウォルター・サレス
第8位 「シービスケット」 監督:ゲイリー・ロス
第9位 「春夏秋冬そして春」 監督:キム・ギドク
第10位 「ビッグ・フィッシュ」 監督:ティム・バートン
キネマ旬報年度別ベストテン
第77回(2003年度)
日本映画
第1位 「美しい夏キリシマ」 監督:黒木和雄
第2位 「赤目四十八瀧心中未遂」 監督:荒戸源次郎
第3位 「ヴァイブレータ」 監督:廣木隆一
第4位 「ジョゼと虎と魚たち」 監督:犬童一心
第5位 「阿修羅のごとく」 監督:森田芳光
第6位 「鏡の女たち」 監督:吉田喜重
第7位 「座頭市」 監督:北野武
第8位 「蕨野行」 監督:恩地日出夫
第9位 「ドッペルゲンガー」 監督:黒沢清
第10位 「ぼくんち」 監督:阪本順治
外国映画
第1位 「戦場のピアニスト」 監督:ロマン・ポランスキー
第2位 「トーク・トゥ・ハー」 監督:ペドロ・アルモドバル
第3位 「めぐりあう時間たち」 監督:スティーブン・ダルドリー
第4位 「ボウリング・フォー・コロンバイン」 監督:マイケル・ムーア
第5位 「ラスト・サムライ」 監督:エドワード・ズウィック
第6位 「シティ・オブ・ゴッド」 監督:フェルナンド・メイレレス
第7位 「過去のない男」 監督:アキ・カウリスマキ
第8位 「シカゴ」 監督:ロブ・マーシャル
第9位 「インファナル・アフェア」 監督:アンドリュー・ラウ、アラン・マック
第10位 「キル・ビル」 監督:クエンティン・タランティーノ
キネマ旬報年度別ベストテン
第76回(2002年度)
日本映画
第1位 「たそがれ清兵衛」 監督:山田洋次
第2位 「刑務所の中」 監督:崔洋一
第3位 「KT」 監督:阪本順治
第4位 「OUT」 監督:平山秀幸
第5位 「AIKI」 監督:天願大介
第6位 「笑う蛙」 監督:平山秀幸
第7位 「阿弥陀堂だより」 監督:小泉堯史
第7位 「ごめん」 監督:冨樫森
第9位 「ピンポン」 監督:曽利文彦
第10位 「とらばいゆ」 監督:大谷健太郎
外国映画
第1位 「ロード・トゥ・パーディション」 監督:サム・メンデス
第2位 「ノー・マンズ・ランド」 監督:ダニス・タノヴィッチ
第3位 「鬼が来た!」 監督:チアン・ウェン
第4位 「マルホランド・ドライブ」 監督:デビッド・リンチ
第5位 「まぼろし」 監督:フランソワ・オゾン
第6位 「酔っぱらった馬の時間」 監督:バフマン・ゴバディ
第7位 「ゴスフォード・パーク」 監督:ロバート・アルトマン
第8位 「チョコレート」 監督:マーク・フォスター
第9位 「息子の部屋」 監督:ナンニ・モレッティ
第10位 「アモーレス・ペロス」 監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
キネマ旬報年度別ベストテン
第75回(2001年度)
日本映画
第1位 「GO」 監督:行定勲
第2位 「ハッシュ!」 監督:橋口亮輔
第3位 「千と千尋の神隠し」 監督:宮崎駿
第4位 「EUREKA(ユリイカ)」 監督:青山真治
第5位 「風花」 監督:相米慎二
第6位 「まぶだち」 監督:古厩智之
第7位 「リリィ・シュシュのすべて」 監督:岩井俊二
第8位 「ウォーターボーイズ」 監督:矢口史靖
第9位 「光の雨」 監督:高橋伴明
第10位 「赤い橋の下のぬるい水」 監督:今村昌平
外国映画
第1位 「トラフィック」 監督:スティーブン・ソダーバーグ
第2位 「花様年華」 監督:ウォン・カーウァイ
第3位 「リトル・ダンサー」 監督:スティーブン・ダルドリー
第4位 「山の郵便配達」 監督:フォ・ジェンチイ
第5位 「JSA」 監督:パク・チャヌク
第6位 「アメリ」 監督:ジャン・ピエール・ジュネ
第7位 「蝶の舌」 監督:セ・ルイス・クエルダ
第7位 「プラットホーム」 監督:ジャ・ジャンクー
第9位 「ゴーストワールド」 監督:テリー・ツワイゴフ
第10位 「あの頃ペニー・レインと」 監督:キャメロン・クロウ
キネマ旬報年度別ベストテン
第74回(2000年度)
日本映画
第1位 「顔」 監督:阪本順治
第2位 「ナビイの恋」 監督:中江裕司
第3位 「御法度」 監督:大島渚
第4位 「十五才 学校W」 監督:山田洋次
第5位 「バトル・ロワイアル」 監督:深作欣二
第6位 「三文役者」 監督:新藤兼人
第7位 「スリ」 監督:黒木和雄
第8位 「独立少年合唱団」 監督:緒方明
第9位 「雨あがる」 監督:小泉堯史
第10位 「はつ恋」 監督:篠原哲雄
外国映画
第1位 「スペースカウボーイ」 監督:クリント・イーストウッド
第2位 「オール・アバウト・マイ・マザー」 監督:ペドロ・アルモドバル
第3位 「あの子を探して」 監督:チャン・イーモウ
第4位 「初恋のきた道」 監督:チャン・イーモウ
第5位 「ストレイト・ストーリー」 監督:デヴィッド・リンチ
第6位 「アメリカン・ビューティー」 監督:サム・メンデス
第7位 「マルコヴィッチの穴」 監督:スパイク・ジョーンズ
第8位 「グラディエーター」 監督:リドリー・スコット
第9位 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 監督:ラース・フォン・トリアー
第10位 「ペパーミント・キャンディー」 監督:イ・チャンドン
わたしが来たのはこの地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜならば、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
わたしよりも父や母を愛するものはわたしにふさわしいものではありません。
またわたしよりも息子や娘を愛するものはわたしにふさわしいものではありません。
(マタイ伝10章34−37)
私が高橋源一郎にこだわるのはいささか訳がある。
数年前、朝日新聞の文芸時評で高橋源一郎が有害図書、有害コミックを規制する「良識」的世論にかみついたことがあった。
「こうした漫画や写真を幼い時から見せられて育つと、どんな人間になるのだろう。文化の将来を考えて、そら恐ろしい気持ちにもなる。」という、
いかにも朝日の社説らしい「常識的」見解に対して、高橋は次のように反論した。
このような意見を支えているのは「この世には豊かで芸術的な優れた作品がたくさんあり、
それは保護されるべきだが、クズにはそんな特典を与えることはない」という文化における差別意識である。
しかし「それは、おれの考えでは、表現がわからない人間が表現に関して持っているもっとも大きな妄想の一つなのだ。」
「人間が関与する表現の大半がクズであることは、統計など読まずじっさいその表現に接している人間ににとって自明のことなのだ。
『貧しい』のは漫画だけではない。文化は『クズ』の集積そのものなのである。
もし『表現の自由』というものがあるとするなら、それは『クズである自由』なのだ。
それがわからないなら、文化について口出しすべきではないのである。」
けだし名言というべきであろう。
文化の成熟にとって大切なのは「包容力」である。
あらゆる愚行、あらゆる「クズ」をにこやかに受け入れることのできる文化の中からしか、本当に「豊かで、優れた」表現は生まれない。
優れた表現はそれに数万倍する「クズ」の滋養に支えられて生まれるのである。
あの閉鎖的空間で、彼らは自分たちが吐き出す「怒り」や「恨み」や「不安」をそのまままた呼吸するほかない。
なんだか自分の排泄物を主食にしている生き物みたいで、かわいそうである。
私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。
幼児にとって世界は未分化、未分節の混沌である。
幼児にとって世界との接点はもっぱら粘膜であり、その対象は人間であれ、食物であれ、「快不快」を軸にカテゴライズされている。
もう少し大きくなると、ある人間とべつの人間では、メッセージにたいする受容感度が異なることに気づくようになる。
コミュニケーションをうまくすすめるためには、相手がかわるごとに、発声法や、言葉使いや、
トーンや、語彙を変えほうがいい、ということを学習する。
たとえば、母親に向かって語りかける言葉と、父親に向かって語りかける言葉は、
別の「ソシオレクト」に分化しそれぞれ発達してゆく。
コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。
相手と自分の社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発・・・それは人間が二人向き合うごとに違う。
その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。
場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。
そのような場面ごとの人格の使い分けをかつては「融通無碍」と称した。
それが「成熟」という過程の到達目標のひとつであったはずである。
しかるに、近代のある段階で、このような「別人格の使い分け」は、
「面従腹背」とか「裏表のある人間」とかいうネガティヴな評価を受けるようになった。
単一でピュアな「統一された人格」を全部の場面で、つねに貫徹することが望ましい生き方である、
ということが、いつのまにか支配的なイデオロギーとなったのである。
「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、
場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を踏まえている。
その予断ゆえに、いま私たちの社会は、どのような局面でも、単一の語法でしかコミュニケーションできない人々、
相手の周波数に合わせて「チューニングする」能力がなく、固定周波数でしか受発信することしかできない、
情報感度のきわめて低い知性を大量に生み出している。
「中枢的で単一の自我」を理想とするイデオロギーは、「カルト」や「マニア」への社会の細分化、
さらには社会集団の「ローカライゼーション」や原理主義や偏狭な部族主義と構造的には同型である。
社会集団は「同質的で、単一で、ピュアであるべきだ」という危険なイデオロギーを声高に批判する人々が
「自我は同質的で、単一で、ピュアであるべきだ」という近代の自我論を放置し、しばしば擁護するがわにまわるのか、私には理解できない。
いまの社会では、「自分らしくふるまえ」、「自分の個性を全面的に表現せよ」といった
「自我を断片化して使い分ける」ことにたいするきびしい禁忌が幼児期から働いている。
そのような社会では、「ある局面においての私」と「別の局面での私」というものを切り離す能力は育たない。
そして切り離せない以上、「もっとも傷つきやすく、もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」なるものが
あらゆる場面でまっさきに露出してくることは避けられないのである。
「学級崩壊」というような事態は、単純に言えば、「学校の教室で屈託している私」と「それとは別の世界にいる私」を適切に分離できない、
という「自我の多重化不能症」の症状であると私は思う。
最近の若い営業マンのなかには、仕事上のささいなミスを注意すると、血相を変えて怒るものがいる。
それが商取引という限定的な人間関係におけるできごとである、ということが理解できず、
業務上の失態についての注意を自分の全人格に対する攻撃であるかのように受け取るからそういうことがおこるのである。
学級崩壊もそれと同じである。
教室にいる自分を「へらへら演じる」ことができないで、教室にいる自分を「まるごと生きて」しまうために、精神が痛めつけられるのだ。
いずれも「限定され、断片化された『私』を便宜的に演じる」訓練ができていないことに由来する。
私がインターネットであれこれと持説を論じたり、
私生活について書いたりしているのを不思議におもってか、
「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田 樹」なの。
あれは私がつくった「キャラ」なの。
あそこで私が「・・・した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、
配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なの。
「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」なのだよ。
そういう簡単なことが分からないひとがたくさんいる。
私が匿名でものを書かないのは、そのせいである。
私は匿名で発信する人間が嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルではなく、
「本名の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、
と信じているそのひとの妄想のありかたが気持ち悪いのである。
私は「内田 樹」という名前で発信してぜんぜん平気である。
それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。
キネマ旬報ベストテン
第73回(1999年度)
日本映画
第1位 「あ、春」 監督:相米慎二
第2位 「金融腐触列島<呪縛>」 監督:原田眞人
第3位 「39 刑法第三十九条」 監督:森田芳光
第4位 「鉄道員(ぽっぽや)」 監督:降旗康男
第5位 「M/OTHER」 監督:諏訪敦彦
第6位 「のど自慢」 監督:井筒和幸
第7位 「菊次郎の夏」 監督:北野武
第8位 「大阪物語」 監督:市川準
第9位 「どこまでもいこう」 監督:塩田明彦
第10位 「コキーユ/貝殻 」監督:中原俊
外国映画
第1位 「恋におちたシェイクスピア」 監督:ジョン・マッデン
第2位 「シン・レッド・ライン」 監督:テレンス・マリック
第3位 「運動靴と赤い金魚」 監督:マジッド・マジディ
第4位 「永遠と一日」 監督:テオ・アンゲロプロス
第5位 「エリザベス」 監督:シェカール・カプール
第6位 「マトリックス」 監督:アンディ&ラリィ・ウォシャウスキー兄弟
第7位 「黒猫・白猫」 監督:エミール・クストリッツァ
第8位 「アイズ・ワイド・シャット」 監督:スタンリー・キューブリック
第9位 「ライフ・イズ・ビューティフル」 監督:ロベルト・ベニーニ
第10位 「シックス・センス」 監督:M・ナイト・シャマラン
キネマ旬報ベストテン
第72回(1998年度)
日本映画
第1位 「HANA-BI」 監督:北野武
第2位 「愛を乞う人」 監督:平山秀幸
第3位 「がんばっていきまっしょい」 監督:磯村一路
第4位 「カンゾー先生」 監督:今村昌平
第5位 「CURE キュア」 監督:黒沢清
第6位 「学校 V」 監督:山田洋次
第7位 「犬、走る DOG RACE」 監督:崔洋一
第8位 「愚か者 傷だらけの天使」 監督:阪本順治
第9位 「時雨の記」 監督:沢井信一郎
第10位 「中国の鳥人」 監督:三池崇史
第10位 「絆-きずな-」 監督:根岸吉太郎
外国映画
第1位 「L.A.コンフィデンシャル」 監督:カーティス・ハンソン
第2位 「プライベート・ライアン」 監督:スティーブン・スピルバーグ
第3位 「トゥルーマン・ショー」 監督:ピーター・ウィアー
第4位 「タイタニック」 監督:ジェームズ・キャメロン
第5位 「フル・モンティ」 監督:ピーター・カッタネオ
第6位 「桜桃の味」 監督:アッバス・キアロスタミ
第7位 「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」 監督:ガス・ヴァン・サント
第8位 「河」 監督:ツァイ・ミンリャン
第9位 「モンタナの風に抱かれて」 監督:ロバート・レッドフォード
第10位 「ブギーナイツ」 監督:ポール・トーマス・アンダーソン
キネマ旬報ベストテン
第71回(1997年度)
日本映画
第1位 「うなぎ」 監督:今村昌平
第2位 「もののけ姫」 監督:宮崎駿
第3位 「ラヂオの時間」 監督:三谷幸喜
第4位 「東京夜曲」 監督:市川準
第5位 「鬼火」 監督:望月六郎
第6位 「バウンスkoGALS」 監督:原田真人
第7位 「誘拐」 監督:大河原孝夫
第8位 「身も心も」 監督:荒井晴彦
第9位 「東京日和」 監督:竹中直人
第10位 「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」 監督:篠田正浩
第10位 「萌の朱雀」 監督:河瀬直美
外国映画
第1位 「秘密と嘘」 監督:マイク・リー
第2位 「太陽の少年」 監督:チアン・ウェン
第3位 「浮き雲」 監督:アキ・カウリスマキ
第4位 「シャイン」 監督:スコット・ヒックス
第5位 「イングリッシュ・ペイシェント」 監督:アンソニー・ミンゲラ
第6位 「ブエノスアイレス」 監督:ウォン・カーウァイ
第7位 「フェイク」 監督:マイク・ニューウェル
第8位 「マーズ・アタック!」 監督:ティム・バートン
第9位 「奇跡の海」 監督:ラース・フォン・トリアー
第10位 「世界中がアイ・ラブ・ユー」 監督:ウディ・アレン
第10位 「ラリー・フリント」 監督:ミロシュ・フォアマン
キネマ旬報ベストテン
第70回(1996年度)
日本映画
第1位 「Shall We ダンス?」 監督:周防正行
第2位 「キッズ・リターン」 監督:北野武
第3位 「眠る男」 監督:小栗康平
第4位 「(ハル)」 監督:森田芳光
第5位 「絵の中のぼくの村」 監督:東陽一
第6位 「岸和田少年愚連隊」 監督:井筒和幸
第7位 「トキワ荘の青春」 監督:市川準
第8位 「学校U」 監督:山田洋次
第9位 「ビリケン」 監督:阪本順治
第10位 「シャブ極道」 監督:細野辰興
外国映画
第1位 「イル・ポスティーノ」 監督:マイケル・ラドフォード
第2位 「ユリシーズの瞳」 監督:テオ・アンゲロプロス
第3位 「アンダーグラウンド」 監督:エミール・クストリッツア
第4位 「ファーゴ」 監督:ジョエル・コーエン
第5位 「デッドマン・ウォーキング」 監督:ティム・ロビンス
第6位 「セブン」 監督:デヴィッド・フィンチャー
第7位 「ユージュアル・サスペクツ」 監督:ブライアン・シンガー
第8位 「大地と自由」 監督:ケン・ローチ
第9位 「ビフォア・ザ・レイン」 監督:ミルチョ・マンチェフスキー
第10位 「いつか晴れた日に」 監督:アン・リー
私のアバウトな分類によると、映画をみて、それについて語るパターンには4通りある。
(1)「誰でも見るような映画を見て、誰でも言うようなことを言う人」
(2)「誰も見ないような映画を見て、(その映画を見た人なら)誰でも言いそうなことを言う人」
(3)「誰でも見るような映画を見て、誰も言わないようなことを言う人」
(4)「誰も見ないような映画を見て、誰も言わないようなことを言う人」
(1)は批評としてはほとんど無価値である。
これが世上「批評的言説」として流布しているものの90%である。
(2)もまた批評としてはほとんど無価値である。
マニアの語る映画批評はほとんどこれである。
オリジナリティの欠落を補うために、このタイプの批評はしばしば、
「誰も見ないような映画を、誰も見ないような別の映画やフィルムメーカーの固有名詞に関連づけて語る」という、「循環参照」的な言説構造になる。
私は基本的に(パソコンのマニュアルやラカンの研究書のような)読者に循環参照を強いるテクストは嫌いだ。
(4)は、しばしばめちゃめちゃに面白く、私はこの種のテクストを深く愛するものであるが、
「批評」というよりはむしろ「詩」や「小説」に分類すべきであろう。
というわけで、私が「正しい批評のあり方」とするのは、(3)である。
話を「現在は危機的状況である」という認識の共有を求めるところから出発する、というのは、
マルクス主義の論理構成の常套手段なのであります。
マルクス主義者の論の進め方はこんな具合です。
「現在は危機的状況である」(命題A)
→「現在を危機的であると感知できないのは、現状から受益している支配者階級の主観的願望(「このままであってほしい」)ゆえの認識の濁りである」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)
→「『危機感の強い』ひとは知的かつ倫理的であり、『そうかなあ?』と懐疑的になるひとは非知的かつ非倫理的である」(命題B)(ルカーチ『歴史と階級意識』)
→「変革のプランはラディカルであればあるほど正しく、微温的であればあるほど誤っている」(命題C)(レーニン『国家と革命』)
私が知る限り、マルクス主義者(とかフェミニスト)の書くものは全部、この論法で書かれています。
しかし、よく読むと分かりますが、これはかなり危険な論理の飛躍を含んでいます。
→でつないでありますけれど、「現状は危機である」という「命題A」と
「『現状は危機である』と認識する知性は、そうでない知性よりも高度である」という「命題B」のあいだには、実は全く論理的関係がありません。
そもそも命題Bは、蓋然的にはともかく、論理的には偽命題です。
たとえば『ジョーズ』では、危機感の強い保安官は鮫の襲来を予測して超法規的措置に訴え、
危機感のない市長はパニックを引き起こします。(蓋然的に妥当する例)
でも『タイタニック』の場合は、危機感の強い乗客たちは醜くボートを奪い合い、
危機を生き延びることよりも「現状維持」にこだわる人たち(弦楽四重奏団のひとたちなど)はむしろ人間的には堂々たる態度をとります。(妥当しない例)
で、何が言いたいかというと、「危機管理」をめぐる議論は、その前提となるはずの「現状は危機か否か」というところで、
いきなり知性のクオリティの競い合いになってしまうので、けっこうもめちゃう、ということなんです。
「今は危機か否か」という判断は、「あしたは晴れるか雨になるか」というような単なる予測の妥当性の問題ではなく、
判断するひとの「知性」の問題に置き換えられます。
「危機派」の人々は、はじめから「啓蒙的」なスタンスをとり、「現状維持派」の人々は、いきなり「知的劣位者」のポジションに放り込まれます。
これはかなりアンフェアな議論の進め方ですよね。
私自身はもちろん「危機派」なんですけれど、自分が会議の席だと、
なんとなく「あのね、かみ砕いておしえてあげるけどね」的ないやみな口吻になってしまうのには気がついているのです。
そして、それが私の個性から発しているのではなく(一部は私のいやみな個性から発しているが)、
むしろこのような論の立て方を選んだ瞬間にそこに内在している言説構造に私自身がからめとられているわけでもあるのです。
ラカン的にいうと「他者が私を通して語っている」わけです。
これはすごく腹が立つのだ。(なんでおいらがマルクス主義者みたいな口のききかたをしてしまうだろう。うう、くやしい)
私は自分の言葉でしゃべりたい。
映画には正解もないし誤読もない。
そこから引き出しうる知見のクオリティに違いがあるだけだ。
絶望について語ることが凡庸なしぐさである時代においては希望を語ることこそが困難であり偉大な仕事なのである。
作家は憎しみや無力さや空虚さについてではなく、いまや力と希望について語る語法を発見しなければならない。
あらゆる集団において「自分がほしいものは、まずそれを他人に与えることによってしか手に入らない」という人類学的真理である。
何かを安定的なしかたで手に入れようと思ったら、まずそれを「贈与する」しかない。
それはレヴィ=ストロースなんか読まなくても、少しじっくり人間の行動を観察していれば誰にでも分かるはずである。
集団の成員たちが限定的な利益をゼロサム的に奪い合っていれば集団は必ず崩壊する。
何か得ようと望むものは、まず自分以外のひとにそれを贈らなければならない。
そして、集団が健全に機能している限り、それは最初の贈り手のもとに必ず戻ってくる。
集団を成立させているのは「変化」であり、もっと身も蓋もなく言えば「循環」である。
大事なことは、まず「パス」を出すということである。
この人類学的真理を直観的に理解している人と、理解できない人がいる。
どうしてこんな簡単なことを理解できない人がいるのか、私にはうまく理解できない。
キネマ旬報ベストテン
第69回(1995年度)
日本映画
第1位 「午後の遺言状」 監督:新藤兼人
第2位 「東京兄妹」 監督:市川準
第3位 「 Love Letter」 監督:岩井俊二
第4位 「幻の光」 監督:是枝裕和
第5位 「写楽」 監督:篠田正浩
第6位 「ガメラ 大怪獣空中決戦」 監督:金子修介
第7位 「深い河」 監督:熊井啓
第8位 「KAMIKAZE TAXI」 監督:原田真人
第9位 「マークスの山」 監督:崔洋一
第10位 「TOKYO FIST / 東京フィスト」 監督:塚本晋也
第10位 「渚のシンドバッド」 監督:橋口亮輔
外国映画
第1位 「ショーシャンクの空に」 監督:フランク・ダラボン
第2位 「スモーク」 監督:ウェイン・ワン
第3位 「マディソン郡の橋」 監督:クリント・イーストウッド
第4位 「フォレスト・ガンプ/一期一会」 監督:ロバート・ゼメキス
第5位 「エド・ウッド」 監督:ティム・バートン
第6位 「太陽に灼かれて」 監督:ニキータ・ミハルコフ
第7位 「ブロードウェイと銃弾」 監督:ウディ・アレン
第8位 「レニ」 監督:レイ・ミュラー
第9位 「クローズ・アップ」 監督:アッバス・キアロスタミ
第10位 「アポロ13」 監督:ロン・ハワード
キネマ旬報ベストテン
第68回(1994年度)
日本映画
第1位 「全身小説家」 監督:原一男
第2位 「忠臣蔵外伝四谷怪談」 監督:深作欣二
第3位 「居酒屋ゆうれい」 監督:渡辺孝好
第4位 「棒の哀しみ」 監督:神代辰巳
第5位 「夏の庭 The Friends」 監督:相米慎二
第6位 「119」 監督:竹中直人
第7位 「800 TWO LAP RUNNERS」 監督:廣木隆一
第8位 「平成狸合戦ぽんぽこ」 監督:高畑勲
第9位 「愛の新世界」 監督:高橋伴明
第10位 「毎日が夏休み」 監督:金子修介
外国映画
第1位 「ピアノ・レッスン」 監督:ジェーン・カンピオン
第2位 「さらば、わが愛 覇王別姫」 監督:チェン・カイコー
第3位 「ショート・カッツ」 監督:ロバート・アルトマン
第4位 「パルプ・フィクション」 監督:クエンティン・タランティーノ
第5位 「ギルバート・グレイプ」 監督:ラッセ・ハルストレム
第6位 「シンドラーのリスト」 監督:スティーブン・スピルバーグ
第7位 「日の名残り」 監督:ジェームズ・アイヴォリー
第8位 「スピード」 監督:ヤン・デ・ボン
第9位 「オリーブの林をぬけて」 監督:アッバス・キアロスタミ
第10位 「風の丘を越えて」 監督:イム・ヴォンテク
キネマ旬報ベストテン
第67回(1993年度)
日本映画
第1位 「月はどっちに出ている」 監督:崔洋一
第2位 「お引越し」 監督:相米慎二
第3位 「病院で死ぬということ」 監督:市川準
第4位 「ソナチネ」 監督:北野武
第5位 「僕らはみんな生きている」 監督:滝田洋二郎
第6位 「学校」 監督:山田洋次
第7位 「愛について、東京」 監督:柳町光男
第8位 「わが愛の譜 滝廉太郎物語」 監督:沢井信一郎
第9位 「ヌードの夜」 監督:石井隆
第10位 「まあだだよ」 監督:黒沢明
外国映画
第1位 「許されざる者」 監督:クリント・イーストウッド
第2位 「秋菊の物語」 監督:チャン・イーモウ
第3位 「ザ・プレイヤー」 監督:ロバート・アルトマン
第4位 「クライング・ゲーム」 監督:ニール・ジョーダン
第5位 「マルメロの陽光」 監督:ヴィクトル・エリセ
第6位 「レザボア・ドッグス」 監督:クエンティン・タランティーノ
第7位 「リバー・ランズ・スルー・イット」 監督:ロバート・レッドフォード
第8位 「友だちのうちはどこ?」 監督:アッバス・キアロスタミ
第9位 「戯夢人」 監督:ホウ・シャオシェン
第10位 「オルランド」 監督:サリー・ポッター
キネマ旬報ベストテン
第66回年度(1992)
日本映画
第1位 「シコふんじゃった。」 監督:周防正行
第2位 「青春デンデケデケデケ」 監督:大林宣彦
第3位 「阿賀に生きる」 監督:佐藤真
第4位 「紅の豚」 監督:宮崎駿
第5位 「死んでもいい」 監督:石井隆
第6位 「橋のない川」 監督:東陽一
第7位 「いつかギラギラする日」 監督:深作欣二
第8位 「寝盗られ宗介」 監督:若松孝二
第9位 「ぼく東綺譚」 監督:新藤兼人
第10位 「きらきらひかる」 監督:松岡錠司
外国映画
第1位 「美しき諍い女」 監督:ジャック・リヴェット
第2位 「クーリンチェ少年殺人事件」 監督:エドワード・ヤン
第3位 「こうのとり、たちずさんで」 監督:テオ・アンゲロプロス
第4位 「仕立て屋の恋」 監督:パトリス・ルコント
第5位 「バートン・フィンク」 監督:ジョエル・コーエン
第6位 「ウルガ」 監督:ニキータ・ミハルコフ
第7位 「プリティ・リーグ」 監督:ペニー・マーシャル
第8位 「フライド・グリーン・トマト」 監督:ジョン・アブネット
第9位 「JFK」 監督:オリバー・ストーン
第10位 「ナイト・オン・ザ・プラネット」 監督:ジム・ジャームッシュ
キネマ旬報ベストテン
第65回(1991年度)
日本映画
第1位 「息子」 監督:山田洋次
第2位 「大誘拐 Rainbow Kids」 監督:岡本喜八
第3位 「八月の狂詩曲」 監督:黒澤明
第4位 「無能の人」 監督:竹中直人
第5位 「ふたり」 監督:大林宣彦
第6位 「あの夏、いちばん静かな海。」 監督:北野武
第7位 「12人の優しい日本人」 監督:中原俊
第8位 「王手」 監督:阪本順治
第9位 「おもひでぽろぽろ」 監督:高畑勲
第10位 「四万十川」 監督:恩地日出夫
外国映画
第1位 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」 監督:ケヴィン・コスナー
第2位 「羊たちの沈黙」 監督:ジョナサン・デミ
第3位 「ミラーズ・クロッシング」 監督:ジョエル・コーエン
第4位 「テルマ&ルイーズ」 監督:リドリー・スコット
第5位 「シェルタリング・スカイ」 監督:ベルナルド・ベルトルッチ
第6位 「髪結いの亭主」 監督:パトリス・ルコント
第7位 「マッチ工場の少女」 監督:アキ・カウリスマキ
第8位 「ターミネーター2」 監督:ジェームズ・キャメロン
第9位 「トト・ザ・ヒーロー」 監督:ジャコ・ヴァン・ドルマル
第10位 「エンジェル・アット・マイ・テーブル」 監督:ジェーン・カンピオン
キネマ旬報ベストテン
第64回(1990年度)
日本映画
第1位 「桜の園」 監督:中原俊
第2位 「少年時代」 監督:篠田正浩
第3位 「死の棘」 監督:小栗康平
第4位 「夢」 監督:黒澤明
第5位 「バタアシ金魚」 監督:松岡錠司
第6位 「われに撃つ用意あり」 監督:若松孝二
第7位 「3-4X10月」 監督:北野武
第8位 「浪人街」 監督:黒木和雄
第9位 「つぐみ」 監督:市川準
第10位 「白い手」 監督:神山征二郎
外国映画
第1位 「非情城市」 監督:ホウ・シャオシェン
第2位 「フィールド・オブ・ドリームス」 監督:フィル・アルデン・ロビンソン
第3位 「霧の中の風景」 監督:テオ・アンゲロプロス
第4位 「冬冬の夏休み」 監督:ホウ・シャオシェン
第5位 「ドゥ・ザ・ライト・シング」 監督:スパイク・リー
第6位 「コックと泥棒、その妻と愛人」 監督:ピーター・グリーナウェイ
第7位 「五月のミル」 監督:ルイ・マル
第8位 「ドライビング・ミス・デイジー」 監督:ブルース・ベレスフォード
第9位 「グッドフェローズ」 監督:マーチン・スコセッシ
第10位 「恋のゆくえファビュラス・ベイカー・ボーイズ」 監督:スティーブ・クローブス
キネマ旬報ベストテン
第63回(1989年度)
日本映画
第1位 「黒い雨」 監督:今村昌平
第2位 「どついたるねん」 監督:阪本順治
第3位 「千利休 本覚坊遺文」 監督:熊井啓
第4位 「ウンタマギルー」 監督:高嶺剛
第5位 「魔女の宅急便」 監督:宮崎駿
第6位 「北京的西瓜」 監督:大林宣彦
第7位 「利休」 監督:勅使河原宏
第8位 「その男、凶暴につき」 監督:北野武
第9位 「社葬」 監督:舛田利雄
第10位 「あ・うん」 監督:降旗康男
外国映画
第1位 「ダイ・ハード」 監督:ジョン・マクティアナン
第2位 「バベットの晩餐会」 監督:ガブリエル・アクセル
第3位 「紅いコーリャン」 監督:チャン・イーモウ
第4位 「レインマン」 監督:バリー・レヴィンソン
第5位 「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」 監督:ラッセ・ハルストレム
第6位 「バグダッド・カフェ」 監督:パーシー・アドロン
第7位 「ニュー・シネマ・パラダイス」 監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
第8位 「恋恋風塵」 監督:ホウ・シャオシェン
第9位 「ペレ」 監督:ビレ・アウグスト
第10位 「童年往時 時の流れ」 監督:ホウ・シャオシェン
キネマ旬報ベストテン
第62回(1988年度)
日本映画
第1位 「となりのトトロ」 監督:宮崎駿
第2位 「TOMORROW/明日」 監督:黒木和雄
第3位 「異人たちとの夏」 監督:大林宣彦
第4位 「ロックよ、静かに流れよ」 監督:長崎俊一
第5位 「郷愁」 監督:中島丈博
第6位 「火垂るの墓」 監督:高畑勲
第7位 「さくら隊散る」 監督:新藤兼人
第8位 「木村家の人びと」 監督:滝田洋二郎
第9位 「リボルバー」 監督:藤田敏八
第10位 「快盗ルビイ」 監督:和田誠
外国映画
第1位 「ラストエンペラー」 監督:ベルナルド・ベルトルッチ
第2位 「フルメタル・ジャケット」 監督:スタンリー・キューブリック
第3位 「ベルリン 天使の詩」 監督:ヴィム・ヴェンダース
第4位 「八月の鯨」 監督:リンゼイ・アンダーソン
第5位 「芙蓉鎮」 監督:シェ・チン
第6位 「黒い瞳」 監督:ニキータ・ミハルコフ
第7位 「ザ・デッド ダブリン市民より」 監督:ジョン・ヒューストン
第8位 「存在の耐えられない軽さ」 監督:フィリップ・カウフマン
第9位 「愛と宿命の泉 PARTTフロレット家のジャン PARTU泉のマノン」 監督・脚本:クロード・ベリ
第10位 「月の輝く夜に」 監督:ノーマン・ジュイソン
キネマ旬報ベストテン
第61回(1987年度)
日本映画
第1位 「マルサの女」 監督:伊丹十三
第2位 「ゆきゆきて、神軍」 監督:原一男
第3位 「1000年刻みの日時計 牧野村物語」 監督:小川伸介
第4位 「永遠の1/2」 監督:根岸吉太郎
第5位 「映画女優」 監督:市川崑
第6位 「男はつらいよ 知床慕情」 監督:山田洋次
第7位 「女衒」 監督:今村昌平
第8位 「BU・SU」 監督:市川準
第9位 「光る女」 監督:相米慎二
第10位 「ちょうちん」 監督:梶間俊一
外国映画
第1位 「グッドモーニング・バビロン!」 監督:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
第2位 「プラトーン」 監督:オリバー・ストーン
第3位 「ハンナとその姉妹」 監督:ウディ・アレン
第4位 「アンタッチャブル」 監督:ブライアン・デ・パルマ
第5位 「スタンド・バイ・ミー」 監督:ロブ・ライナー
第6位 「眺めのいい部屋」 監督:ジェームズ・アイヴォリー
第7位 「ラジオ・デイズ」 脚本:ウディ・アレン
第8位 「サルバドル 遙かなる日々」 監督:オリバー・ストーン
第9位 「ブルーベルベット」 監督:デヴィッド・リンチ
第10位 「薔薇の名前」 監督:ジャン・ジャック・アノー
キネマ旬報ベストテン
第60回(1986年度)
日本映画
第1位 「海と毒薬」 監督:熊井啓
第2位 「コミック雑誌なんかいらない!」 監督:滝田洋二郎
第3位 「ウホッホ探検隊」 監督:根岸吉太郎
第4位 「人間の約束」 監督:吉田喜重
第5位 「火宅の人」 監督:深作欣二
第6位 「鑓の権三」 監督:篠田正浩
第7位 「恋する女たち」 監督:大森一樹
第8位 「天空の城ラピュタ」 監督:宮崎駿
第9位 「キネマの天地」 監督:山田洋次
第10位 「ジャズ大名」 監督:岡本喜八
外国映画
第1位 「ストレンジャー・ザン・パラダイス」 監督:ジム・ジャームッシュ
第2位 「カイロの紫のバラ」 監督:ウディ・アレン
第3位 「蜘蛛女のキス」 監督:ヘクトール・バベンコ
第4位 「ラウンド・ミッドナイト」 監督:ベルトラン・タヴェルニエ
第5位 「パパは、出張中!」 監督:エミール・クストリッツァ
第6位 「カラーパープル」 監督:スティーブン・スピルバーグ
第7位 「ホテル・ニューハンプシャー」 監督:トニー・リチャードソン
第8位 「未来世紀ブラジル」 監督:テリー・ギリアム
第9位 「エイリアン2」 監督:ジェームズ・キャメロン
第10位 「群れ」 監督:ユルマズ・ギュネイ
キネマ旬報ベストテン
第59回(1985年度)
日本映画
第1位 「それから」 監督:森田芳光
第2位 「乱」 監督:黒沢明
第3位 「火まつり」 監督:柳町光男
第4位 「台風クラブ」 監督:相米慎二
第5位 「さびしんぼう」 監督:大林宣彦
第6位 「恋文」 監督:神代辰巳
第7位 「生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」 監督:森崎東
第8位 「ビルマの竪琴」 監督:市川崑
第9位 「早春物語」 監督:沢井信一郎
第10位 「花いちもんめ。」 監督:伊藤俊也
外国映画
第1位 「アマデウス」 監督:ミロシュ・フォアマン
第2位 「路」 監督:ユルマズ・ギュネイ
第3位 「ファニーとアレクサンデル」 監督:イングマル・ベルイマン
第4位 「ミツバチのささやき」 監督:ビクトル・エリセ
第5位 「刑事ジョン・ブック 目撃者」 監督:ピーター・ウェアー
第6位 「パリ、テキサス」 監督:ヴィム・ベンダース
第7位 「キリング・フィールド」 監督:ローランド・ジョフィ
第8位 「田舎の日曜日」 監督:ベルトラン・タヴェルニエ
第9位 「インドへの道」 監督:デヴィッド・リーン
第10位 「コーラスライン」 監督:リチャード・アッテンボロー
キネマ旬報ベストテン
第58回(1984年度)
日本映画
第1位 「お葬式」 監督:伊丹十三
第2位 「Wの悲劇」 監督:沢井信一郎
第3位 「瀬戸内少年野球団」 監督:篠田正浩
第4位 「麻雀放浪記」 監督:和田誠
第5位 「さらば箱舟」 監督:寺山修司
第6位 「おはん」 監督:市川崑
第7位 「風の谷のナウシカ」 監督:宮崎駿
第8位 「伽や子のために」 監督:小栗康平
第9位 「廃市」 監督:大林宣彦
第10位 「チ・ン・ピ・ラ」 監督:川島透
外国映画
第1位 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」 監督:セルジオ・レオーネ
第2位 「ライトスタッフ」 監督:フィリップ・カウフマン
第3位 「ナチュラル」 監督:バリー・レビンソン
第4位 「愛と追憶の日々」 監督:ジェームズ・L・ブルックス
第5位 「カメレオンマン」 監督:ウディ・アレン
第6位 「カルメン」 監督:カルロス・サウラ
第7位 「ストリート・オブ・ファイヤー」 監督:ウォルター・ヒル
第8位 「ノスタルジア」 監督:アンドレイ・タルコフスキー
第9位 「ドレッサー」 監督:ピーター・イエーツ
第10位 「欲望のあいまいな対象」 監督:ルイス・ブニュエル
キネマ旬報ベストテン
第57回(1983年度)
日本映画
第1位 「家族ゲーム」 監督:森田芳光
第2位 「細雪」 監督:市川崑
第3位 「戦場のメリー・クリスマス」 監督:大島渚
第4位 「東京裁判」 監督:小林正樹
第5位 「楢山節考」 監督:今村昌平
第6位 「竜二」 監督:川島透
第7位 「魚影の群れ」 監督:相米慎二
第8位 「天城越え」 監督:三村晴彦
第9位 「十階のモスキート」 監督:崔洋一
第10位 「ふるさと」 監督:神山征二郎
外国映画
第1位 「ソフィーの選択」 監督:アラン・J・パクラ
第2位 「ガープの世界」 監督:ジョージ・ロイ・ヒル
第3位 「ガンジー」 監督:リチャード・アッテンボロー
第4位 「エボリ」 監督:フランチェスコ・ロージ
第5位 「フィツカラルド」 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
第6位 「隣の女」 監督:フランソワ・トリュフォー
第7位 「評決」 監督:シドニー・ルメット
第8位 「トッツィー」 監督:シドニー・ポラック
第9位 「アギーレ 神の怒り」 監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
第10位 「サン・ロレンツォの夜」 監督:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
キネマ旬報ベストテン
第56回(1982年度)
日本映画
第1位 「蒲田行進曲」 監督:深作欣二
第2位 「さらば愛しき大地」 監督:柳町光男
第3位 「転校生」 監督:大林宣彦
第4位 「疑惑」 監督:野村芳太郎
第5位 「ニッポン国 古屋敷村」 監督:小川紳介
第6位 「TATOO<刺青>あり」 監督:高橋伴明
第7位 「水のないプール」 監督:若松孝二
第8位 「遠野物語」 監督:村野鐵太郎
第9位 「誘拐報道」 監督:伊藤俊也
第10位 「怪異談 生きてゐる小平次」 監督:中川信夫
外国映画
第1位 「E.T.」 監督:スティーブン・スピルバーグ
第2位 「1900年」 監督:ベルナルド・ベルトルッチ
第3位 「炎のランナー」 監督:ヒュー・ハドソン
第4位 「黄昏」 監督:マーク・ライデル
第5位 「アレクサンダー大王」 監督:テオ・アンゲロプロス
第6位 「メフィスト」 監督:イシュトバーン・サボー
第7位 「レッズ」 監督:ウォーレン・ビーティ
第8位 「カリフォルニア・ドールス」 監督:ロバート・アルドリッチ
第9位 「フランス軍中尉の女」 監督:カレル・ライス
第10位 「父 パードレ・パドローネ」 監督:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ
キネマ旬報ベストテン
第55回(1981年度)
日本映画
第1位 「泥の河」 監督:小栗康平
第2位 「遠雷」 監督:根岸吉太郎
第3位 「陽炎座」 監督:鈴木清順
第4位 「駅 STATION」 監督:降旗康男
第5位 「嗚呼!おんなたち猥歌」 監督:神代辰巳
第6位 「幸福」 監督:市川崑
第7位 「ガキ帝国」 監督:井筒和幸
第8位 「北斎漫画」 監督:新藤兼人
第9位 「ええじゃないか」 監督:今村昌平
第10位 「近頃なぜかチャールストン」 監督:岡本喜八
外国映画
第1位 「ブリキの太鼓」 監督:フォルカー・シュレンドルフ
第2位 「秋のソナタ」 監督:イングマル・ベルイマン
第3位 「普通の人々」 監督:ロバート・レッドフォード
第4位 「約束の土地」 監督:アンジェイ・ワイダ
第5位 「グロリア」 監督:ジョン・カサヴェテス
第6位 「レイジング・ブル」 監督:マーチン・スコセッシ
第7位 「チャンス」 監督:ハル・アシュビー
第8位 「ある結婚の風景」 監督:イングマル・ベルイマン
第9位 「ブルース・ブラザース」 監督:ジョン・ランディス
第10位 「エレファント・マン」 監督:デヴィッド・リンチ
キネマ旬報ベストテン
第54回(1980年度)
日本映画
第1位 「ツィゴイネルワイゼン」 監督:鈴木清順
第2位 「影武者」 監督:黒沢明
第3位 「ヒポクラテスたち」 監督:大森一樹
第4位 「神様のくれた赤ん坊」 監督:前田陽一
第5位 「遙かなる山の呼び声」 監督:山田洋次
第6位 「父よ母よ!」 監督:木下恵介
第7位 「四季・奈津子」 監督:東陽一
第8位 「海潮音」 監督:橋浦方人
第9位 「狂い咲きサンダーロード」 監督:石井聰亙
第10位 「太陽の子 てだのふぁ」 監督:浦山桐郎
外国映画
第1位 「クレイマー、クレイマー」 監督:ロバート・ベントン
第2位 「ルードウィヒ 神々の黄昏」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
第3位 「地獄の黙示録」 監督:フランシス・フォード・コッポラ
第4位 「大理石の男」 監督:アンジェイ・ワイダ
第5位 「マンハッタン」 監督:ウディ・アレン
第6位 「マリア・ブラウンの結婚」 監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
第7位 「テス」 監督:ロマン・ポランスキー
第8位 「オール・ザット・ジャズ」 監督:ボブ・フォッシー
第9位 「カサノバ」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第10位 「フェーム」 監督:アラン・パーカー
キネマ旬報ベストテン
第53回(1979年度)
日本映画
第1位 「復讐するは我にあり」 監督:今村昌平
第2位 「太陽を盗んだ男」 監督:長谷川和彦
第3位 「Keiko」 監督:クロード・ガニオン
第4位 「赫い髪の女」 監督:神代辰巳
第5位 「衝動殺人 息子よ」 監督:木下恵介
第6位 「月山」 監督:村野鐵太郎
第7位 「十九歳の地図」 監督:柳町光男
第8位 「もう頬づえはつかない」 監督:東陽一
第9位 「あゝ野麦峠」 監督:山本薩夫
第10位 「その後の仁義なき戦い」 監督:工藤栄一
外国映画
第1位 「旅芸人の記録」 監督:テオ・アンゲロプロス
第2位 「木靴の樹」 監督:エルマンノ・オルミ
第3位 「ディア・ハンター」 監督:マイケル・チミノ
第4位 「イノセント」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
第5位 「インテリア」 監督:ウディ・アレン
第6位 「女の叫び」 監督:ジュールス・ダッシン
第7位 「奇跡」 監督:カール・テホ・ドライヤー
第8位 「ビッグ・ウェンズデー」 監督:ジョン・ミリアス
第9位 「チャイナ・シンドローム」 監督:ジェームズ・ブリッジズ
第10位 「プロビデンス」 監督:アラン・レネ
キネマ旬報ベストテン
第52回(1978年度)
日本映画
第1位 「サード」 監督:東陽一
第2位 「曾根崎心中」 監督:増村保造
第3位 「愛の亡霊」 監督:大島渚
第4位 「事件」 監督:野村芳太郎
第5位 「帰らざる日々」 監督:藤田敏八
第6位 「鬼畜」 監督:野村芳太郎
第7位 「ダイナマイトどんどん」 監督:岡本喜八
第8位 「冬の華」 監督:降旗康男
第9位 「人妻集団暴行致死事件」 監督:田中登
第10位 「博多っ子純情」 監督:曽根中生
外国映画
第1位 「家族の肖像」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
第2位 「ジュリア」 監督:フレッド・ジンネマン
第3位 「グッバイガール」 監督:ハーバート・ロス
第4位 「ピロスマニ」 監督:ゲオルギー・シャンゲラーヤ
第4位 「未知との遭遇」 監督:スティーブン・スピルバーグ
第6位 「愛と喝采の日々」 監督:ハーバート・ロス
第7位 「結婚しない女」 監督:ポール・マザースキー
第8位 「白夜」 監督:ロベール・ブレッソン
第9位 「スター・ウォーズ」 監督:ジョージ・ルーカス
第10位 「アニー・ホール」 監督:ウディ・アレン
キネマ旬報ベストテン
第51回(1977年度)
日本映画
第1位 「幸福の黄色いハンカチ」 監督:山田洋次
第2位 「竹山ひとり旅」 監督:新藤兼人
第3位 「はなれ瞽女おりん」 監督:篠田正浩
第4位 「八甲田山」 監督:森谷司郎
第5位 「青春の門 自立篇」 監督:浦山桐郎
第6位 「悪魔の手毬唄」 監督:市川崑
第7位 「ねむの木の詩が聞こえる」 監督:宮城まり子
第8位 「ボクサー」 監督:寺山修司
第9位 「突然、嵐のように」 監督:山根成之
第10位 「遠い一本の道」 監督:左幸子
外国映画
第1位 「ロッキー」 監督:ジョン・G・アビルドセン
第2位 「ネットワーク」 監督:シドニー・ルメット
第3位 「鬼火」 監督:ルイ・マル
第3位 「自由の幻想」 監督:ルイス・ブニュエル
第5位 「惑星ソラリス」 監督:アンドレイ・タルコフスキー
第6位 「スラップ・ショット」 監督:ジョージ・ロイ・ヒル
第7位 「さすらいの航海」 監督:ステュアート・ローゼンバーグ
第8位 「トロイアの女」 監督:マイケル・カコヤニス
第9位 「ウディ・ガスリー わが心のふるさと」 監督:ハル・アシュビー
第10位 「ローマに散る」 監督:フランチェスコ・ロージ
贈与論というのは文化人類学上の一大テーマである。
ひとにものを贈るというのは、かなり根源的な人類学的営為である。
バタイユは『呪われた部分』で北米インディアンの「ポトラッチ」という贈与習慣を分析して、
贈与の本質は「愛他的動機から有用なものを与える」ことではなく、
「贈られる側を心理的に威圧すること」であるという興味深い結論を導いている。
ポトラッチの場合は、最初は毛布とか什器とかいう生活にとって有用なものを贈るのだが、
受け取ったものはただちにそれよりも多くのものを返礼することが義務づけられている。
もらったら、もらった以上をお返しするのである。
お返しをしないと相手の財力や雅量に屈服したことになるからである。
だから、もらったらすぐにそれ以上の贈り物を贈り返す。
返礼を受け取ったものは、さらに返礼し返す。
それが繰り返されているうちに、贈るものがなくなってしまう。
仕方がないので、贈り主は、相手の目の前で自分の漁船を壊したり、自分の住居を焼いたり、
奴隷の喉を掻き切ったりするようになる。
こんなことをされても、贈られる方はぜんぜんうれしくないが、それが贈り物である以上、
自分も自分の財産をどんどん壊さないといけない。
こうして「毟り合い」の果てに、双方ともぼろぼろになり、無一物となり、
最初に「参った」といった方の「負け」で勝負は決するのである。
この事例から分かるように、贈与というのは、有用物を交換する経済行為というような合理的な目的のものではない。
(ジャン・ボードリヤールが「象徴価値」と名づけた)「社会的な差別化をもたらす力」を生み出すのが贈与の本質なのである。
つまり贈与とははもらった方が「負け」という「勝負」なのである。
むかしから「贈り物には消えものを」という生活の知恵がある。
ひとからもらった贈り物がいつまでも実在しているということは、
心理的負債感をいつまでも感じ続けるということであって、もらった方はあまり嬉しくない。
だから、ひとにものを贈るときは「花」のようにすぐに無価値になるもの、「飲食物」のようにやがて消費されるもの、
「陶磁器やガラス器」のようにいずれ砕けて消えるものを贈るのが正しい心配りとされるのである。
経験的に言って、信楽焼の狸の置物とか、東京タワーの文鎮などのような「いつまでも存在し続けるもの」を
贈ってよこすやつにろくな奴はいないが、それは贈与による心理的威圧感を相手に対して
できるだけ長く行使したいという彼らの欲望が剥き出しになっているからである。
ビジネスの場でいきかっているのは商品・サービスと対価であるかに見えるが、
それは仮象にすぎない。彼の言葉をそのまま引用しよう。
”お客と「わたし」の関係は、この「たてまえ」という概念上のインターフェースを境界として向き合っている。
境界の向こう側に良く見えない「本音」がある。こちらがわにも相手に見せてはいない「本音」がある。
この関係をもう半歩ひねってみれば、商品や、トークを媒介にしてお互いの本音が
沈黙のコミュニケートをしている光景が見えるはずである。
売る人と買う人という擬似的な人間関係を、それがあくまでも擬似的な関係であるとしりつつそれを演じる。
この演じ方の中にお互いの「生身」を仮託し、信頼とか誠実といった「本音」を見せ合う。
そんなとき、「神」であるお客はどんな表情をするのだろうか。
わたしは経験的に知っているのだが、だぶん「にやり」とするのである。
「にやり」の意味は、「お主、なかなかやるな」である。
ビジネス上のコミュニケーションは、「たてまえ」というインターフェース上にユニフォーム、
敬語、ビジネスツールといったメタファーを使って営まれるゲームだ。
参加資格は、ゲームのルールを守れること、ルールを理解できること、大人であること。
これは、案外複雑で高度なヘビーなゲームなのである。大人はつらいのである。”(「一回ひねり」)
ビジネスも教育も本質的には同じゲームを演じていると私は思う。
それは「コミュニケーション」という名のゲームである。
意志疎通とか、価値の循環とかではなく、もっと根元的な意味におけるコミュニケーション。
「遊戯」としてのコミュニケーション、それなしでは生きている意味がなくなってしまうようなコミュニケーション。
何かを贈る。何かが返ってくる。また贈り返す。また返ってくる・・・その往還そのものに深い愉悦を感じるという点に
人間の人間性はあるという洞見を私はレヴィ=ストロースから教わった。
「増殖する物語」と題した短いテクストで私が言いたかったのは、
物語を語るものはほとんど宿命的に自分の起源について嘘をつくということである。
しかし、それは「真実の物語」がどこか別の所にあるという意味ではない。
嘘をつくこと、経歴を詐称すること、物語をそれと知らずに語ること、
それは「何かを伝える」ための行為ではなく、何かを「知る」ための行為だからである。
これが私の主張のかんどころである。
私たちは何かを知ろうとしたら、それについての「物語」を語ることから始める他にやり方を知らない。
「自分」について知ろうと望むものは、「自分」についての「物語」を語ることになしには一歩も身動きできない。
「私の真実」を知るためには「私についての物語」を紡ぎ出す作業から始めなければならない。
「真実」は「物語」を経由してしか主題化されえない。
「ねえ、お母さん。あのさ、ボケた老母が死んで、こどもがほっとするというのはわかるけどさ、
そういうときって『まあ、こういっちゃ何だけど』とか『ここだけの話、正直なところね』とか
そういう『まえふり』があってから、ようやく『死んで、ほっとしてるんじゃないの』というふうに続くもんじゃないの?
いきなり『あらよかったわね』はいくらなんでも、あんまりじゃありませんか」
この家庭環境で育った私が「二枚舌」とか「ほんねとたてまえ」の使い分けなどの高等技能の習得に
それ以後長い歳月を要したのも無理からぬことであると思う。
(そして、人間は、努力によって獲得した能力については、これを最大限活用したいと切望するものなのである。)
キネマ旬報ベストテン
第50回(1976年度)
日本映画
第1位 「青春の殺人者」 監督:長谷川和彦
第2位 「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小やけ」 監督:山田洋次
第3位 「大地の子守歌」 監督:増村保造
第4位 「不毛地帯」 監督:山本薩夫
第5位 「犬神家の一族」 監督:市川崑
第6位 「あにいもうと」 監督:今井正
第7位 「嗚呼!!花の応援団」 監督:曽根中生
第8位 「やくざの墓場 くちなしの花」 監督:深作欣二
第9位 「さらば夏の光よ」 監督:山根成之
第10位 「江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者」 監督:田中登
外国映画
第1位 「タクシー・ドライバー」 監督:マーチン・スコセッシ
第2位 「カッコーの巣の上で」 監督:ミロシュ・フォアマン
第3位 「トリュフォーの思春期」 監督:フランソワ・トリュフォー
第4位 「バリー・リンドン」 監督:スタンリー・キューブリック
第5位 「狼たちの午後」 監督:シドニー・ルメット
第6位 「ナッシュビル」 監督:ロバート・アルトマン
第7位 「アデルの恋の物語」 監督:フランソワ・トリュフォー
第8位 「愛のコリーダ」 監督:大島渚
第9位 「フェリーニの道化師」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第10位 「大統領の陰謀」 監督:アラン・J・パクラ
キネマ旬報ベストテン
第49回(1975年度)
日本映画
第1位 「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」 監督:新藤兼人
第2位 「祭りの準備」 監督:黒木和雄
第3位 「金環蝕」 監督:山本薩夫
第4位 「化石」 監督:小林正樹
第5位 「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」 監督:山田洋次
第6位 「田園に死す」 監督:寺山修司
第7位 「新幹線大爆破」 監督:佐藤純弥
第8位 「仁義の墓場」 監督:深作欣二
第9位 「同胞」 監督:山田洋次
第10位 「実録阿部定」 監督:田中登
外国映画
第1位 「ハリーとトント」 監督:ポール・マザースキー
第2位 「愛の嵐」 監督:リリアーナ・カヴァーニ
第3位 「アリスの恋」 監督:マーチン・スコセッシ
第4位 「レニー・ブルース」 監督:ボブ・フォッシー
第5位 「デルス・ウザーラ」 監督:黒沢明
第6位 「ザッツ・エンタテインメント」 監督:ジャック・ヘイリー・Jr
第7位 「ルシアンの青春」 監督:ルイ・マル
第8位 「ゴッドファーザーPARTU」 監督:フランシス・フォード・コッポラ
第9位 「フロント・ページ」 監督:ビリー・ワイルダー
第10位 「ジョーズ」 監督:スティーブン・スピルバ−グ
キネマ旬報ベストテン
第48回(1974年度)
日本映画
第1位 「サンダカン八番娼館 望郷」 監督:熊井啓
第2位 「砂の器」 監督:野村芳太郎
第3位 「華麗なる一族」 監督:山本薩夫
第4位 「青春の蹉跌」 監督:神代辰巳
第5位 「竜馬暗殺」 監督:黒木和雄
第6位 「わが道」 監督:新藤兼人
第7位 「仁義なき戦い 頂上作戦」 監督:深作欣二
第8位 「襤褸の旗」 監督:吉村公三郎
第9位 「赤ちょうちん」 監督:藤田敏八
第10位 「妹」 監督:藤田敏八
外国映画
第1位 「フェリーニのアマルコルド」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第2位 「叫びとささやき」 監督:イングマル・ベルイマン
第3位 「映画に愛をこめて アメリカの夜」 監督:フランソワ・トリュフォー
第4位 「スティング」 監督:ジョージ・ロイ・ヒル
第5位 「ペーパー・ムーン」 監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
第6位 「ブルジョワジーの秘かな楽しみ」 監督:ルイス・ブニュエル
第7位 「ジーザス・クライスト・スーパースター」 監督:ノーマン・ジュイソン
第8位 「黒い砂漠」 監督:フランチェスコ・ロージ
第9位 「デリンジャー」 監督:ジョン・ミリアス
第10位 「エクソシスト」 監督:ウィリアム・フリードキン
キネマ旬報ベストテン
第47回(1973年度)
日本映画
第1位 「津軽じょんがら節」 監督:斎藤耕一
第2位 「仁義なき戦い」 監督:深作欣二
第3位 「青幻記 遠い日の母は美しく」 監督:成島東一郎
第4位 「股旅」 監督:市川崑
第5位 「恍惚の人」 監督:豊田四郎
第6位 「四畳半襖の裏張り」 監督:神代辰巳
第7位 「戒厳令」 監督:吉田喜重
第8位 「仁義なき戦い 代理戦争」 監督:深作欣二
第9位 「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」 監督:山田洋次
第10位 「戦争と人間 完結編」 監督:山本薩夫
外国映画
第1位 「スケアクロウ」 監督:ジェリー・シャッツバーグ
第2位 「ジョニーは戦場へ行った」 監督:ドルトン・トランボ
第3位 「ブラザー・サン シスター・ムーン」 監督:フランコ・ゼフィレッリ
第4位 「ジャッカルの日」 監督:フレッド・ジンネマン
第5位 「ポセイドン・アドベンチャー」 監督:ロナルド・ニーム
第6位 「マクベス」 監督:ロマン・ポランスキー
第7位 「探偵 スルース」 監督:ジョセフ・L・マンキウィッツ
第8位 「激突」 監督:スティーブン・スピルバーグ
第9位 「L・B・ジョーンズの解放」 監督:ウィリアム・ワイラー
第10位 「ラストタンゴ・イン・パリ」 監督:ベルナルド・ベルトルッチ
キネマ旬報ベストテン
第46回(1972年度)
日本映画
第1位 「忍ぶ川」 監督:熊井啓
第2位 「軍旗はためく下に」 監督:深作欣二
第3位 「故郷」 監督:山田洋次
第4位 「旅の重さ」 監督:斎藤耕一
第5位 「約束」 監督:斎藤耕一
第6位 「男はつらいよ 柴又慕情」 監督:山田洋次
第7位 「海軍特別年少兵」 監督:今井正
第8位 「一条さゆり 濡れた欲情」 監督:神代辰巳
第9位 「サマー・ソルジャー」 監督:勅使河原宏
第10位 「白い指の戯れ」 監督:村川透
外国映画
第1位 「ラスト・ショー」 監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
第2位 「フェリーニのローマ」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第3位 「死刑台のメロディ」 監督:ジュリアーノ・モンタルド
第4位 「時計じかけのオレンジ」 監督:スタンリー・キューブリック
第5位 「わらの犬」 監督:サム・ペキンパー
第6位 「真夜中のパーティー」 監督:ウィリアム・フリードキン
第7位 「ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦」 監督:サム・ペキンパー
第8位 「ゴッド・ファーザー」 監督:フランシス・フォード・コッポラ
第9位 「キャバレー」 監督:ボブ・フォッシー
第10位 「フレンチ・コネクション」 監督:ウィリアム・フリードキン
キネマ旬報ベストテン
第45回(1971年度)
日本映画
第1位 「儀式」 監督:大島渚
第2位 「沈黙」 監督:篠田正浩
第3位 「婉という女」 監督:今井正
第4位 「戦争と人間 第二部・愛と悲しみの山河」 監督:山本薩夫
第5位 「いのちぼうにふろう」 監督:小林正樹
第6位 「真剣勝負」 監督:内田吐夢
第7位 「やさしいにっぽん人」 監督:東陽一
第8位 「男はつらいよ 寅次郎恋歌」 監督:山田洋次
第9位 「書を捨てよ町へ出よう」 監督:寺山修司
第10位 「八月の濡れた砂」 監督:藤田敏八
外国映画
第1位 「ベニスに死す」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
第2位 「ライアンの娘」 監督:デヴィッド・リーン
第3位 「小さな巨人」 監督:アーサー・ペン
第4位 「わが青春のフロレンス」 監督:マウロ・ボロニーニ
第5位 「バニシング・ポイント」 監督:リチャード・C・サラフィアン
第6位 「屋根の上のバイオリン弾き」 監督:ノーマン・ジュイソン
第7位 「哀しみのトリスターナ」 監督:ルイス・ブニュエル
第7位 「ファイブ・イージー・ピーセス」 監督:ボブ・ラェルソンフ
第9位 「告白」 監督:コスタ・ガブラス
第10位 「ボクサー」 監督:マーチン・リット
キネマ旬報ベストテン
第44回(1970年度)
日本映画
第1位 「家族」 監督:山田洋次
第2位 「戦争と人間」 監督:山本薩夫
第3位 「どですかでん」 監督:黒沢明
第4位 「エロス+虐殺」 監督:吉田喜重
第5位 「地の群れ」 監督:熊井啓
第6位 「無常」 監督:実相寺昭雄
第7位 「影の車」 監督:野村芳太郎
第8位 「男はつらいよ 望郷編」 監督:山田洋次
第9位 「橋のない川・第二部」 監督:今井正
第10位 「裸の十九歳」 監督:新藤兼人
外国映画
第1位 「イージー・ライダー」 監督:デニス・ホッパー
第2位 「サテリコン」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第3位 「Z」 監督:コスタ・ガヴラス
第4位 「明日に向かって撃て!」 監督:ジョージ・ロイ・ヒル
第5位 「M★A★S★H」 監督:ロバート・アルトマン
第6位 「テオレマ」 監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ
第7位 「王女メディア」 監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ
第8位 「冬のライオン」 監督:アンソニー・ハーヴィー
第9位 「地獄に墜ちた勇者ども」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
第10位 「ひとりぼっちの青春」 監督:シドニー・ポラック
キネマ旬報ベストテン
第43回(1969年度)
日本映画
第1位 「心中天網島」 監督:篠田正浩
第2位 「私が棄てた女」 監督:浦山桐郎
第3位 「少年」 監督:大島渚
第4位 「かげろう」 監督:新藤兼人
第5位 「橋のない川」 監督:今井正
第6位 「 男はつらいよ」 監督:山田洋次
第7位 「ベトナム」 監督:山本薩夫
第8位 「新宿泥棒日記」 監督:大島渚
第9位 「続・男はつらいよ」 監督:山田洋次
第10位 「風林火山」 監督:稲垣浩
外国映画
第1位 「アポロンの地獄」 監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ
第2位 「真夜中のカーボーイ」 監督:ジョン・シュレシンジャー
第3位 「if もしも…」 監督:リンゼイ・アンダーソン
第4位 「ウィークエンド」 監督:ジャン・リュック・ゴダール
第5位 「ローズマリーの赤ちゃん」 監督:ロマン・ポランスキー
第6位 「泳ぐひと」 監督:フランク・ペリー
第7位 「できごと」 監督:ジョセフ・ロージー
第8位 「フィクサー」 監督:ジョン・フランケンハイマー
第9位 「ジョンとメリー」 監督:ピーター・イエーツ
第10位 「さよならコロンバス」 監督:ラリー・ピアス
キネマ旬報ベストテン
第42回(1968年度)
日本映画
第1位 「神々の深き欲望」 監督:今村昌平
第2位 「肉弾」 監督:岡本喜八
第3位 「絞死刑」 監督:大島渚
第4位 「黒部の太陽」 監督:熊井啓
第5位 「首」 監督:森谷司郎
第6位 「初恋・地獄篇」 監督:羽仁進
第7位 「日本の青春」 監督:小林正樹
第8位 「燃えつきた地図」 監督:勅使河原宏
第9位 「人生劇場・飛車角と吉良常」 監督:内田吐夢
第10位 「吹けば飛ぶよな男だが」 監督:山田洋次
外国映画
第1位 「俺たちに明日はない」 監督:アーサー・ペン
第2位 「ロミオとジュリエット」 監督:フランコ・ゼフィレッリ
第3位 「質屋」 監督:シドニー・ルメット
第4位 「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者によって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺(マラー/サド)」 監督:ピーター・ブルック
第5位 「2001年宇宙の旅」 監督:スタンリー・キューブリック
第6位 「卒業」 監督:マイク・ニコルズ
第7位 「男性・女性」 監督:ジャン・リュック・ゴダール
第8位 「異邦人」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ
第9位 「ベトナムから遠く離れて」 監督:アラン・レネ、ウィリアム・クラインヨリス・イベンス、アニェス・バル、ダクロード・ルルーシュ、ジャン・リュック・ゴダール
第10位 「召使」 監督:ジョセフ・ロージー
キネマ旬報ベストテン
第41回(1967年度)
日本映画
第1位 「上意討ち 拝領妻始末」 監督:小林正樹
第2位 「人間蒸発」 監督:今村昌平
第3位 「日本のいちばん長い日」 監督:岡本喜八
第4位 「乱れ雲」 監督:成瀬巳喜男
第5位 「華岡青洲の妻」 監督:増村保造
第6位 「智恵子抄」 監督:中村登
第7位 「愛の渇き」 監督:蔵原惟繕
第8位 「あかね雲」 監督:篠田正浩
第9位 「なつかしい笛や太鼓」 監督:木下恵介
第10位 「忍者武芸帳」 監督:大島渚
外国映画
第1位 「アルジェの戦い」 監督:ジロ・ポンテコルヴォ
第2位 「欲望」 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
第3位 「戦争は終った」 監督:アラン・レネ
第4位 「わが命つきるとも」 監督:フレッド・ジンネマン
第5位 「気狂いピエロ」 監督:ジャン・リュック・ゴダール
第6位 「ふたりだけの窓」 監督:ジョン・ボウルティング
第7位 「仮面ペルソナ」 監督:イングマール・ベルイマン
第8位 「夜の大捜査線」 監督:ノーマン・ジュイソン
第9位 「戦争と平和」 完結編 監督:セルゲイ・ボンダルチュク
第10位 「真実の瞬間」 監督:フランチェスコ・ロージ
キネマ旬報ベストテン
第40回(1966年度)
日本映画
第1位 「白い巨塔」 監督:山本薩夫
第2位 「“エロ事師たち”より人類学入門」 監督:今村昌平
第3位 「紀ノ川」 監督:中村登
第4位 「湖の琴」 監督:田坂具隆
第5位 「他人の顔」 監督:勅使河原宏
第6位 「アンデスの花嫁」 監督:羽仁進
第7位 「本能」 監督:新藤兼人
第8位 「こころの山脈」 監督:吉村公三郎
第9位 「白昼の通り魔」 監督:大島渚
第10位 「女の中にいる他人」 監督:成瀬巳喜男
外国映画
第1位 「大地のうた」 監督:サタジット・レイ
第2位 「市民ケーン」 監督:オーソン・ウェルズ
第3位 「幸福」 監督:アニエス・バルダ
第4位 「奇跡の丘」 監督:ピエロ・パオロ・パゾリーニ
第5位 「男と女」 監督:クロード・ルルーシュ
第6位 「パリは燃えているか」 監督:ルネ・クレマン
第7位 「マドモアゼル」 監督:トニー・リチャードソン
第8位 「小間使の日記」 監督:ルイス・ブニュエル
第9位 「ドクトル・ジバゴ」 監督:デヴィッド・リーン
第10位 「戦争と平和 第一部」 監督:セルゲイ・ボンダルチュク
キネマ旬報ベストテン
第39回(1965年度)
日本映画
第1位 「赤ひげ」 監督:黒沢明
第2位 「東京オリンピック」 監督:市川崑
第3位 「日本列島」 監督:熊井啓
第4位 「にっぽん泥棒物語」 監督:山本薩夫
第5位 「証人の椅子」 監督:山本薩夫
第6位 「冷飯とおさんとちゃん」 監督:田坂具隆
第7位 「恐山の女」 監督:五所平之助
第8位 「ブワナ・トシの歌」 監督:羽仁進
第9位 「悪党」 監督:新藤兼人
第10位 「水で書かれた物語」 監督:吉田喜重
外国映画
第1位 「8 1/2」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第2位 「明日に生きる」 監督:マリオ・モニチェリ
第3位 「野望の系列」 監督:オットー・プレミンジャー
第4位 「柔らかい肌」 監督:フランソワ・トリュフォー
第5位 「メリー・ポピンズ」 監督:ロバート・スティーブンソン
第6位 「コレクター」 監督:ウィリアム・ワイラー
第7位 「その男ゾルバ」 監督:マイケル・カコヤニス
第8位 「赤い砂漠」 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
第9位 「サウンド・オブ・ミュージック」 監督:ロバート・ワイズ
第10位 「素晴らしきヒコーキ野郎」 監督:ケン・アナキン
キネマ旬報ベストテン
第38回(1964年度)
日本映画
第1位 「砂の女」 監督:勅使河原宏
第2位 「怪談」 監督:小林正樹
第3位 「香華」 監督:木下恵介
第4位 「赤い殺意」 監督:今村昌平
第5位 「飢餓海峡」 監督:内田吐夢
第6位 「越後つついし親不知」 監督:今井正
第7位 「傷だらけの山河」 監督:山本薩夫
第8位 「甘い汁」 監督:豊田四郎
第9位 「仇討」 監督:今井正
第10位 「われ一粒の麦なれど」 監督:松山善三
外国映画
第1位 「かくも長き不在」 監督:アンリ・コルビ
第2位 「突然炎のごとく」 監督:フランソワ・トリュフォー
第3位 「去年マリエンバートで」 監督:アラン・レネ
第4位 「パサジェルカ」 監督:アンジェイ・ムンク
第5位 「アメリカ アメリカ」 監督:エリア・カザン
第6位 「家族日誌」 監督:ヴァレリオ・ズルリーニ
第7位 「軽蔑」 監督:ジャン・リュック・ゴダール
第8位 「トム・ジョーンズの華麗な冒険」 監督:トニー・リチャードソン
第9位 「沈黙」 監督:イングマール・ベルイマン
第10位 「ハムレット」 監督:グリゴリー・コージンツェフ
キネマ旬報ベストテン
第37回(1963年度)
日本映画
第1位 「にっぽん昆虫記」 監督:今村昌平
第2位 「天国と地獄」 監督:黒沢明
第3位 「五番町夕霧桜」 監督:田坂具隆
第4位 「太平洋ひとりぼっち」 監督:市川崑
第5位 「武士道残酷物語」 監督:今井正
第6位 「しとやかな獣」 監督:川島雄三
第7位 「彼女と彼」 監督:羽仁進
第8位 「母」 監督:新藤兼人
第9位 「白と黒」 監督:堀川弘通
第10位 「非行少女」 監督:浦山桐郎
外国映画
第1位 「アラビアのロレンス」 監督:デヴィッド・リーン
第2位 「奇跡の人」 監督:アーサー・ペン
第3位 「シベールの日曜日」 監督:セルジュ・ブールギニョン
第4位 「鳥」 監督:アルフレッド・ヒッチコック
第5位 「女と男のいる舗道」 監督:ジャン・リュック・ゴダール
第6位 「第七の封印」 監督:イングマール・ベルイマン
第7位 「イタリア式離婚狂想曲」 監督:ピエトロ・ジェルミ
第8位 「蜜の味」 監督:トニー・リチャードソン
第9位 「ピアニストを撃て」 監督:フランソワ・トリュフォー
第10位 「祖国は誰のものぞ」 監督:ナンニ・ロイ
キネマ旬報ベストテン
第36回(1962年度)
日本映画
第1位 「私は2歳」 監督:市川崑
第2位 「キューポラのある街」 監督:浦山桐郎
第3位 「切腹」 監督:小林正樹
第4位 「破戒」 監督:市川崑
第5位 「椿三十郎」 監督:黒沢明
第6位 「人間」 監督:新藤兼人
第7位 「おとし穴」 監督:勅使河原宏
第8位 「秋刀魚の味」 監督:小津安二郎
第9位 「にっぽんのお婆ちゃん」 監督:今井正
第10位 「秋津温泉」 監督:吉田喜重
外国映画
第1位 「野いちご」 監督:イングマール・ベルイマン
第2位 「ニュールンベルグ裁判」 監督:スタンリー・クレイマー
第3位 「怒りの葡萄」 監督:ジョン・フォード
第4位 「情事」 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
第5位 「太陽はひとりぼっち」 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
第6位 「尼僧ヨアンナ」 監督:イェジー・カワレロウィッチ
第7位 「ウンベルト・D」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
第8位 「夜」 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
第9位 「ハスラー」 監督:ロバート・ロッセン
第9位 「噂の二人」 監督:ウィリアム・ワイラー
キネマ旬報ベストテン
第35回(1961年度)
日本映画
第1位 「不良少年」 監督:羽仁進
第2位 「用心棒」 監督:黒沢明
第3位 「永遠の人」 監督:木下恵介
第4位 「人間の条件 完結編」 監督:小林正樹
第5位 「名もなく貧しく美しく」 監督:松山善三
第6位 「反逆児」 監督:伊藤大輔
第7位 「あれが港の灯だ」 監督:今井正
第8位 「はだかっ子」 監督:田坂具隆
第9位 「飼育」 監督:大島渚
第10位 「黒い十人の女」 監督:市川崑
外国映画
第1位 「処女の泉」 監督:イングマール・ベルイマン
第2位 「素晴らしい風船旅行」 監督:アルベール・ラモリス
第3位 「土曜の夜と日曜の朝」 監督:カレル・ライス
第4位 「ウエスト・サイド物語」 監督:ロバート・ワイズ
第5位 「ラインの仮橋」 監督:アンドレ・カイヤット
第6位 「ふたりの女」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
第7位 「地下鉄のザジ」 監督:ルイ・マル
第8位 「ローマで夜だった」 監督:ロベルト・ロッセリーニ
第9位 「草原の輝き」 監督:エリア・カザン
第10位 「雨のしのび逢い」 監督:ピーター・ブルック
キネマ旬報ベストテン
第34回(1960年度)
日本映画
第1位 「おとうと」 監督:市川崑
第2位 「黒い画集 あるサラリーマンの証言」 監督:堀川弘通
第3位 「悪い奴ほどよく眠る」 監督:黒沢明
第4位 「笛吹川」 監督:木下恵介
第5位 「秋日和」 監督:小津安二郎
第6位 「裸の島」 監督:新藤兼人
第7位 「豚と軍艦」 監督:今村昌平
第8位 「武器なき斗い」 監督:山本薩夫
第9位 「秘境ヒマラヤ」 記録映画 撮影:大森栄
第10位 「日本の夜と霧」 監督:大島渚
外国映画
第1位 「チャップリンの独裁者」 監督:チャールズ・チャップリン
第2位 「甘い生活」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第3位 「太陽がいっぱい」 監督:ルネ・クレマン
第4位 「ロベレ将軍」 監督:ロベルト・ロッセリーニ
第5位 「大人は判ってくれない」 監督:フランソワ・トリュフォー
第6位 「黒いオルフェ」 監督:マルセル・カミュ
第7位 「人間の運命」 監督:セルゲイ・ボンダルチュク
第8位 「勝手にしやがれ」 監督:ジャン・リュック・ゴダール
第9位 「スリ」 監督:ロベール・ブレッソン
第10位 「誓いの休暇」 監督:グレゴリー・チュフライ
キネマ旬報ベストテン
第33回(1959年度)
日本映画
第1位 「キクとイサム」 監督:今井正
第2位 「野火」 監督:市川崑
第3位 「にあんちゃん」 監督:今村昌平
第4位 「荷車の歌」 監督:山本薩夫
第5位 「人間の条件(第1部、第2部)」 監督:小林正樹
第6位 「人間の壁」 監督:山本薩夫
第7位 「浪花の恋の物語」 監督:内田吐夢
第8位 「第五福竜丸」 監督:新藤兼人
第9位 「鍵」 監督:市川崑
第10位 「人間の条件(第3部、第4部)」 監督:小林正樹
外国映画
第1位 「十二人の怒れる男」 監督:シドニー・ルメット
第2位 「灰とダイヤモンド」 監督:アンジェイ・ワイダ
第3位 「さすらい」 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
第4位 「いとこ同志」 監督:クロード・シャブロル
第5位 「恋人たち」 監督:ルイ・マル
第6位 「影」 監督:イエジー・カワレロウィッチ
第7位 「二十四時間の情事」 監督:アラン・レネ
第8位 「わらの男」 監督:ピエトロ・ジェルミ
第9位 「年上の女」 監督:ジャック・クレイトン
第10位 「悪魔の発明」 監督:カレル・ゼーマン
キネマ旬報ベストテン
第32回(1958年度)
日本映画
第1位 「楢山節考」 監督:木下恵介
第2位 「隠し砦の三悪人」 監督:黒沢明
第3位 「彼岸花」 監督:小津安二郎
第4位 「炎上」 監督:市川崑
第5位 「裸の太陽」 監督:家城巳代治
第6位 「夜の鼓」 監督:今井正
第7位 「無法松の一生」 監督:稲垣浩
第8位 「張込み」 監督:野村芳太郎
第9位 「裸の大将」 監督:堀川弘通
第10位 「巨人と玩具」 監督:増村保造
外国映画
第1位 「大いなる西部」 監督:ウィリアム・ワイラー
第2位 「ぼくの伯父さん」 監督:ジャック・タチ
第3位 「老人と海」 監督:ジョン・スタージェス
第4位 「眼には眼を」 監督:アンドレ・カイヤット
第5位 「鉄道員」 監督:ピエトロ・ジェルミ
第6位 「死刑台のエレベーター」 監督:ルイ・マル
第7位 「崖」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第8位 「鍵」 監督:キャロル・リード
第9位 「サレムの魔女」 監督:レーモン・ルウロー
第10位 「女優志願」 監督:シドニー・ルメット
キネマ旬報ベストテン
第31回(1957年度)
日本映画
第1位 「米」 監督:今井正
第2位 「純愛物語」 監督:今井正
第3位 「喜びも悲しみも幾年月」 監督:木下恵介
第4位 「幕末太陽伝」 監督:川島雄三
第4位 「蜘蛛巣城」 監督:黒沢明
第6位 「気違い部落」 監督:渋谷実
第7位 「どたんば」 監督:内田吐夢
第8位 「爆音と大地」 監督:関川秀雄
第9位 「異母兄弟」 監督:家城巳代治
第10位 「どん底」 監督:黒沢明
外国映画
第1位 「道」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第2位 「宿命」 監督:ジュールス・ダッシン
第3位 「翼よ!あれが巴里の灯だ」 監督:ビリー・ワイルダー
第4位 「抵抗」 監督:ロベール・ブレッソン
第5位 「戦場にかける橋」 監督:デヴィッド・リーン
第6位 「リラの門」 監督:ルネ・クレール
第7位 「カビリアの夜」 監督:フェデリコ・フェリーニ
第8位 「汚れなき悪戯」 監督:ラディスラオ・ヴァホダ
第9位 「友情ある説得」 監督:ウィリアム・ワイラー
第10位 「屋根」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
キネマ旬報ベストテン
第30回(1956年度)
日本映画
第1位 「真昼の暗黒」 監督:今井正
第2位 「夜の河」 監督:吉村公三郎
第3位 「カラコルム」 撮影:林田重男、中村誠二
第4位 「猫と庄造と二人のをんな」 監督:豊田四郎
第5位 「ビルマの竪琴」 監督:市川崑
第6位 「早春」 監督:小津安二郎
第7位 「台風騒動記」 監督:山本薩夫
第8位 「流れる」 監督:成瀬巳喜男
第9位 「太陽とバラ」 監督:木下恵介
第10位 「あなた買います」 監督:小林正樹
外国映画
第1位 「居酒屋」 監督:ルネ・クレマン
第2位 「必死の逃亡者」 監督:ウィリアム・ワイラー
第3位 「ピクニック」 監督:ジョシュア・ローガン
第4位 「リチャード三世」 監督:ローレンス・オリビエ
第5位 「最後の橋」 監督:ヘルムート・コイトナー
第6位 「赤い風船」 監督:アルベール・ラモリス
第7位 「空と海の間に」 監督:クリスチャン・ジャック
第8位 「ヘッドライト」 監督:アンリ・ヴェルヌイユ
第9位 「沈黙の世界」 監督:ジャック・イヴ・クストー
第10位 「バラの刺青」 監督:ダニエル・マン
キネマ旬報ベストテン
第29回(1955年度)
日本映画
第1位 「浮雲」 監督:成瀬巳喜男
第2位 「夫婦善哉」 監督:豊田四郎
第3位 「野菊の如き君なりき」 監督:木下恵介
第4位 「生きものの記録」 監督:黒沢明
第5位 「ここに泉あり」 監督:今井正
第6位 「警察日記」 監督:久松静児
第7位 「女中ッ子」 監督:田坂具隆
第8位 「血槍富士」 監督:内田吐夢
第9位 「浮草日記」 監督:山本薩夫
第10位 「美女と怪龍」 監督:吉村公三郎
外国映画
第1位 「エデンの東」 監督:エリア・カザン
第2位 「洪水の前」 監督:アンドレ・カイヤット
第3位 「スタア誕生」 監督:ジョージ・キューカー
第4位 「埋れた青春」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第4位 「旅情」 監督:デヴィッド・リーン
第6位 「やぶにらみの暴君」 監督:ポール・グリモ
第7位 「フレンチ・カンカン」 監督:ジャン・ルノワール
第7位 「マーティ」 監督:デルバート・マン
第9位 「文なし横丁の人々」 監督:キャロル・リード
第10位 「鉄路の闘い」 監督:ルネ・クレマン
キネマ旬報ベストテン
第28回(1954年度)
日本映画
第1位 「二十四の瞳」 監督:木下恵介
第2位 「女の園」 監督:木下恵介
第3位 「七人の侍」 監督:黒沢明
第4位 「黒い潮」 監督:山村聡
第5位 「近松物語」 監督:溝口健二
第6位 「山の音」 監督:成瀬巳喜男
第7位 「晩菊」 監督:成瀬巳喜男
第8位 「勲章」 監督:渋谷実
第9位 「山椒大夫」 監督:溝口健二
第10位 「大阪の宿」 監督:五所平之助
外国映画
第1位 「嘆きのテレーズ」 監督:マルセル・カルネ
第2位 「恐怖の報酬」 監督:アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
第3位 「ロミオとジュリエット」 監督:レナート・カステラーニ
第4位 「波止場」 監督:エリア・カザン
第5位 「エヴェレスト征服」 監督:トマス・ストバート
第6位 「ローマの休日」 監督:ウィリアム・ワイラー
第7位 「裁きは終りぬ」 監督:アンドレ・カイヤット
第8位 「陽気なドン・カミロ」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第8位 「しのび逢い」 監督:ルネ・クレマン
第10位 「偽りの花園」 監督:ウイリアム・ワイラー
キネマ旬報ベストテン
第27回(1953年度)
日本映画
第1位 「にごりえ」 監督:今井正
第2位 「東京物語」 監督:小津安二郎
第3位 「雨月物語」 監督:溝口健二
第4位 「煙突の見える場所」 監督:五所平之助
第5位 「あにいもうと」 監督:成瀬巳喜男
第6位 「日本の悲劇」 監督:木下恵介
第7位 「ひめゆりの塔」 監督:今井正
第8位 「雁」 監督:豊田四郎
第9位 「祇園囃子」 監督:溝口健二
第10位 「縮図」 監督:新藤兼人
外国映画
第1位 「禁じられた遊び」 監督:ルネ・クレマン
第2位 「ライムライト」 監督:チャールズ・チャップリン
第3位 「探偵物語」 監督:ウィリアム・ワイラー
第4位 「落ちた偶像」 監督:キャロル・リード
第5位 「終着駅」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
第6位 「静かなる男」 監督:ジョン・フォード
第7位 「シェーン」 監督:ジョージ・スティーブンス
第7位 「文化果つるところ」 監督:キャロル・リード
第9位 「忘れられた人々」 監督:ルイス・ブニュエル
第10位 「超音ジェット機」 監督:デヴィッド・リーン
キネマ旬報ベストテン
第26回(1952年度)
日本映画
第1位 「生きる」 監督:黒沢明
第2位 「稲妻」 監督:成瀬巳喜男
第3位 「本日休診」 監督:渋谷実
第4位 「現代人」 監督:渋谷実
第5位 「カルメン純情す」 監督:木下恵介
第6位 「真空地帯」 監督:山本薩夫
第7位 「おかあさん」 監督:成瀬巳喜男
第8位 「山びこ学校」 監督:今井正
第9位 「西鶴一代女」 監督:溝口健二
第10位 「慟哭」 監督:佐分利信
外国映画
第1位 「チャップリンの殺人狂時代」 監督:チャールズ・チャップリン
第2位 「第三の男」 監督:キャロル・リード
第3位 「天井桟敷の人々」 監督:マルセル・カルネ
第4位 「河」 監督:ジャン・ルノアール
第5位 「ミラノの奇蹟」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
第6位 「令嬢ジュリー」 監督:アルブ・シェーベルイ
第7位 「セールスマンの死」 監督:ラズロ・ベネデク
第8位 「肉体の悪魔 監督」 監督:クロード・オータン・ララ
第9位 「巴里の空の下セーヌは流れる」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第10位 「陽のあたる場所」 監督:ジョージ・スティーブンス
キネマ旬報ベストテン
第25回(1951年度)
日本映画
第1位 「麦秋」 監督:小津安二郎
第2位 「めし」 監督:成瀬巳喜男
第3位 「偽れる盛装」 監督:吉村公三郎
第4位 「カルメン故郷に帰る」 監督:木下恵介
第5位 「どっこい生きてる」 監督:今井正
第6位 「風雪二十年」 監督:佐分利信
第7位 「源氏物語」 監督:吉村公三郎
第8位 「あゝ青春」 監督:佐分利信
第9位 「命美わし」 監督:大庭秀雄
第10位 「愛妻物語」 監督:新藤兼人
外国映画
第1位 「イヴの総て」 監督:ジョゼフ・L・マンキウィッツ
第2位 「サンセット大通り」 監督:ビリー・ワイルダー
第3位 「わが谷は緑なりき」 監督:ジョン・フォード
第4位 「オルフェ」 監督:ジャン・コクトー
第5位 「邪魔者は殺せ」 監督:キャロル・リード
第6位 「悪魔の美しさ」 監督:ルネ・クレール
第7位 「バンビ」 監督:デヴィッド・C・ハンド
第8位 「雲の中の散歩」 監督:アレッサンドロ・ブラゼッティ
第9位 「チャンピオン」 監督:マーク・ロブスン
第10位 「黒水仙」 監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー
キネマ旬報ベストテン
第24回(1950年度)
日本映画
第1位 「また逢う日まで」 監督:今井正
第2位 「帰郷」 監督:大庭秀雄
第3位 「暁の脱走」 監督:谷口千吉
第4位 「執行猶予」 監督:佐分利信
第5位 「羅生門」 監督:黒沢明
第6位 「醜聞」 監督:黒沢明
第7位 「宗方姉妹」 監督:小津安二郎
第8位 「暴力の街」 監督:山本薩夫
第9位 「細雪」 監督:阿部豊
第10位 「七色の花」 監督:春原政久
外国映画
第1位 「自転車泥棒」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
第2位 「情婦マノン」 監督:アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
第3位 「3人の妻への手紙」 監督:ジョゼフ・L・マンキウィッツ
第4位 「無防備都市」 監督:ロベルト・ロッセリー二
第5位 「赤い靴」 監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー
第6位 「天国への階段」 監督:マイケル・パウエル、エメリック・プレスパーガー
第7位 「靴みがき」 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
第8位 「虹を掴む男」 監督:ノーマン・Z・マクロード
第9位 「密告」 監督:アンリ・ージョルジュ・クルーゾー
第10位 「女相続人」 監督:ウィリアム・ワイラー
キネマ旬報ベストテン
第23回(1949年度)
日本映画
第1位 「晩春」 監督:小津安二郎
第2位 「青い山脈」 監督:今井正
第3位 「野良犬」 監督:黒沢明
第4位 「破れ太鼓」 監督:木下恵介
第5位 「忘れられた子等」 監督:稲垣浩
第6位 「お嬢さん乾杯」 監督:木下恵介
第7位 「女の一生」 監督:亀井文夫
第7位 「静かなる決闘」 監督:黒沢明
第9位 「森の石松」 監督:吉村公三郎
第10位 「小原庄助さん」 監督:清水宏
外国映画
第1位 「戦火のかなた」 監督:口ベルト・ロッセリーニ
第2位 「大いなる幻影」 監督:ジャン・ルノワール
第3位 「ママの想い出」 監督:ジョージ・スティーブンス
第4位 「ハムレット」 監督:ローレンス・オリヴィエ
第5位 「裸の町」 監督:ジュールス・ダッシン
第6位 「平和に生きる」 監督:ルイジ・ザンパ
第7位 「恐るべき親達」 監督:ジャン・コクトー
第8位 「黄金」 監督:ジョン・ヒューストン
第9位 「子鹿物語」 監督:クラレンス・ブラウン
第10位 「犯罪河岸」 監督:アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
キネマ旬報ベストテン
第22回(1948年度)
日本映画
第1位 「酔いどれ天使」 監督:黒沢明
第2位 「手をつなぐ子等」 監督:稲垣浩
第3位 「夜の女たち」 監督:溝口健二
第4位 「蜂の巣の子供達」 監督:清水宏
第5位 「わが生涯のかがやける日」 監督:吉村公三郎
第6位 「破戒」 監督:木下恵介
第7位 「風の中の牝鶏」 監督:小津安二郎
第8位 「王将」 監督:伊藤大輔
第9位 「生きている画像」 監督:千葉泰樹
第10位 「第二の人生」 監督:関川秀雄
外国映画
第1位 「ヘンリイ五世」 監督:ローレンス・オリヴィエ
第2位 「我等の生涯の最良の年」 監督:ウィリアム・ワイラー
第3位 「逢びき」 監督:デヴィツド・リーン
第4位 「海の牙」 監督:ルネ・クレマン
第5位 「旅路の果て」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第6位 「美女と野獣」 監督ジャン・コクトー
第7位 「悪魔が夜来る」 監督:マルセル・カルネ
第8位 「失われた週末」 監督:ビリー・ワイルダー
第9位 「オヴァランダース」 監督:ハリー・ワット
第10位 「悲恋」 監督:ジャン・ドラノワ
キネマ旬報ベストテン
第21回(1947年度)
日本映画
第1位 「安城家の舞踏会」 監督:吉村公三郎
第2位 「戦争と平和」 監督:山本薩夫、亀井文夫
第3位 「今ひとたびの」 監督:五所平之助
第4位 「長屋紳士録」 監督:小津安二郎
第5位 「女優」 監督:衣笠貞之助
第6位 「素晴らしき日曜日」 監督:黒沢明
第7位 「銀嶺の果て」 監督:谷口千吉
第8位 「四つの恋の物語」 監督:豊田四郎、成瀬巳喜男、山本嘉次郎、衣笠貞之助
第9位 「花咲く家族」 監督:千葉泰樹
第10位 「幸福への招待」 監督:千葉泰樹
外国映画
第1位 「断崖」 監督:アルフレッド・ヒッチコック
第2位 「荒野の決闘」 監督:ジョン・フォード
第3位 「心の旅路」 監督:マーヴィン・ルロイ
第4位 「町の人気者」 監督:クラレンス・ブラウン
第5位 「百万人の音楽」 監督:ヘンリー・コスター
第6位 「第七のヴェール」 監督:コンプトン・ベネット
第7位 「ブルックリン横丁」 監督:エリア・カザン
第8位 「影なき殺人」 監督:エリア・カザン
第9位 「永遠の処女」 監督エドマンド・グールデイング
第9位 「石の花」 監督:アレクサンドル・プトゥシンコ
第9位 「ガス燈」 監督:ジョージ・キューカー
キネマ旬報ベストテン
第20回(1946年度)
日本映画
第1位 「大曽根家の朝」 監督:木下恵介
第2位 「わが青春に悔いなし」 監督:黒沢明
第3位 「或る夜の殿様」 監督:衣笠貞之助
第4位 「待ちぼうけの女」 監督:マキノ正博
第5位 「我が恋せし乙女」 監督:木下恵介
外国映画
第1位 「我が道を往く」 監督:レオ・マッケリー
第2位 「運命の饗宴」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第3位 「疑惑の影」 監督:アルフレッド・ヒッチコック
第4位 「エイブ・リンカーン」 監督:ジョン・クロムウェル
第5位 「南部の人」 監督:ジャン・ルノアール
キネマ旬報ベストテン
第19回(1942年度)
日本映画
第1位 「ハワイ・マレー沖海戦」 監督:山本嘉次郎
第2位 「父ありき」 監督:小津安二郎
第3位 「将軍と参謀と兵」 監督:田口哲
第4位 「母子草」 監督:田坂具隆
第5位 「南海の花束」 監督:阿部豊
第6位 「新雪」 監督:五所平之助
第7位 「元禄忠臣蔵(後編)」 監督:溝口健二
第8位 「独眼流政宗」 監督:稲垣浩
第9位 「大村益次郎」 監督:森一生
第10位 「英国崩るゝの日」 監督:田中重雄
キネマ旬報ベストテン
第18回(1941年度)
日本映画
第1位 「戸田家の兄妹」 監督:小津安二郎
第2位 「馬」 監督:山本嘉次郎
第3位 「みかへりの塔」 監督:清水宏
第4位 「芸道一代男」 監督:溝口健二
第5位 「江戸最後の日」 監督:稲垣浩
第6位 「次郎物語」 監督:島耕二
第7位 「愛の一家」 監督:春原政久
第8位 「海を渡る祭礼」 監督:稲垣浩
第9位 「舞ひ上る情熱」 監督:小石栄一
第10位 「指導物語」 監督:熊谷久虎
キネマ旬報ベストテン
第17回(1940年度)
日本映画
第1位 「小島の春」 監督:豊田四郎
第2位 「西住戦車長伝」 監督:吉村公三郎
第3位 「風の又三郎」 監督:島耕二
第4位 「浪花女」 監督:溝口健二
第5位 「沃土万里」 監督:倉田丈人
第6位 「奥村五百子」 監督:豊田四郎
第7位 「歴史」 監督:内田吐夢
第8位 「燃ゆる大空」 監督:阿部豊
第9位 「夫婦二世」 監督:野淵昶
第10位 「木石」 監督:五所平之助
外国映画
第1位 「民族の祭典」 監督:レニ・リーフェンシュタール
第2位 「駅馬車」 監督:ジョン・フォード
第3位 「最後の一兵まで」 監督:カール・リッター
第4位 「コンドル」 監督:ハワード・ホークス
第5位 「美の祭典」 監督:レニ・リーフェンシュタール
第6位 「スタンレー探検記」 監督:ヘンリー・キング
第7位 「カッスル夫妻」 監督:ヘンリー・C・ポター
第8位 「ゴールデン・ボーイ」 監督:ルーベン・マムーリアン
第9位 「翼の人々」 監督:ウィリアム・ウエルマン
第10位 「幻の馬車」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
キネマ旬報ベストテン
第16回(1939年度)
日本映画
第1位 「土」 監督:内田吐夢
第2位 「残菊物語」 監督:溝口健二
第3位 「土と兵隊」 監督:田坂具隆
第4位 「兄とその妹」 監督:島津保次郎
第5位 「上海陸戦隊」 監督:熊谷久虎
第6位 「子供の四季」 監督:清水宏
第7位 「暖流」 監督:吉村公三郎
第8位 「爆音」 監督:田坂具隆
第9位 「花ある雑草」 監督:清水宏
第10位 「海援隊」 監督:辻吉朗
外国映画
第1位 「望郷」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第2位 「格子なき牢獄」 監督:レオニード・モギー
第3位 「ブルグ劇場」 監督:ヴィリ・フォルスト
第4位 「わが家の楽園」 監督:フランク・キャプラ
第5位 「デッド・エンド」 監督:ウィリアム・ワイラー
第6位 「素晴らしき休日」 監督:ジョージ・キューカー
第7位 「早春」 監督:ラインホルト・シュンツェル
第8位 「美しき青春」 監督:ジャン・ブノワ・レヴィ
第9位 「とらんぷ譚」 監督:サシャ・ギトリ
第10位 「人生の馬鹿」 監督:カール・フレーリヒ
キネマ旬報ベストテン
第15回(1938年度)
日本映画
第1位 「五人の斥候兵」 監督:田坂具隆
第2位 「路傍の石」 監督:田坂具隆
第3位 「母と子」 監督:渋谷実
第4位 「上海 記録映画」 撮影:三木茂
第5位 「綴方教室」 監督:山本嘉次郎
第6位 「鶯」 監督:豊田四郎
第7位 「泣虫小僧」 監督:豊田四郎
第8位 「阿部一族」 監督:熊谷久虎
第9位 「あゝ故郷」 監督:溝口健二
第10位 「太陽の子」 監督:阿部豊
外国映画
第1位 「舞踏会の手帖」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第2位 「オーケストラの少女」 監督:ヘンリー・コスター
第3位 「ジェニーの家」 監督:マルセル・カルネ
第4位 「モダン・タイムス」 監督:チャールズ・チャップリン
第5位 「スタア誕生」 監督:ウィリアム・ウエルマン
第6位 「赤ちゃん」 監督:レオニード・モギー
第7位 「鎧なき騎士」 監督:ジャック・フェデー
第8位 「新婚道中記」 監督:レオ・マッケリー
第9位 「新天地」 監督:フランク・ロイド
第10位 「ジャン・バルジャン」 監督:レイモン・ベルナール
キネマ旬報ベストテン
第14回(1937年度)
日本映画
第1位 「限りなき前進」 監督:内田吐夢
第2位 「蒼氓」 監督:熊谷久虎
第3位 「愛怨峡」 監督:溝口健二
第4位 「風の中の子供」 監督:清水宏
第5位 「裸の町」 監督:内田吐夢
第6位 「若い人」 監督:豊田四郎
第7位 「人情紙風船」 監督:山中貞雄
第8位 「淑女は何を忘れたか」 監督:小津安二郎
第9位 「大阪夏の陣」 監督:衣笠貞之助
第10位 「浅草の灯」 監督:島津保次郎
外国映画
第1位 「女だけの都」 監督:ジャック・フェデー
第2位 「我等の仲間」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第3位 「どん底」 監督:ジャン・ルノワール
第4位 「孔雀夫人」 監督:ウィリアム・ワイラー
第5位 「明日は来らず」 監督:レオ・マッケリー
第6位 「禁男の家」 監督:ジャック・ドゥヴァル
第7位 「大地」 監督:シドニー・フラクリン
第8位 「巨人ゴーレム」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第9位 「暗黒街の弾痕」 監督:フリッツ・ラング
第10位 「激怒」 監督:フリッツ・ラング
キネマ旬報ベストテン
第13回(1936年度)
日本映画
第1位 「祇園の姉妹」 監督:溝口健二
第2位 「人生劇場(青春篇)」 監督:内田吐夢
第3位 「浪華悲歌」 監督:溝口健二
第4位 「一人息子」 監督:小津安二郎
第5位 「赤西蠣太」 監督:伊丹万作
第6位 「家族会議」 監督:島津保次郎
第7位 「兄いもうと 監督:木村荘十二
第8位 「彦六大いに笑ふ」 監督:木村荘十二
第9位 「情熱の詩人啄木(ふるさと篇)」 監督:熊谷久虎
第10位 「秘境熱河 記録映画」 撮影:芥川光蔵
外国映画
第1位 「ミモザ館」 監督:ジャック・フェデー
第2位 「幽霊西へ行く」 監督:ルネ・クレール
第3位 「オペラ・ハット」 監督:フランク・キャプラ
第4位 「白き処女地」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第5位 「地の果てを行く」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第6位 「罪と罰」 監督:ピエール・シュナール
第7位 「科学者の道」 監督:ウィリアム・ディターレ
第8位 「上から下まで」 監督:G・W・パプスト
第9位 「人生は四十二から」 監督:レオ・マッケリー
第10位 「ドン・ファン」 監督:アレグザンダー・コルダ
キネマ旬報ベストテン
第12回(1935年度)
日本映画
第1位 「妻よ薔薇のやうに」 監督:成瀬巳喜男
第2位 「街の入墨者」 監督:山中貞雄
第3位 「お琴と佐助」 監督:島津保次郎
第4位 「忠次売り出す」 監督:伊丹万作
第5位 「国定忠次」 監督:山中貞雄
第6位 「人生のお荷物」 監督:五所平之助
第7位 「この子捨てざれば」 監督:斎藤寅次郎
第8位 「噂の娘」 監督:成瀬巳喜男
第9位 「東京の宿」 監督:小津安二郎
第10位 「雪之丞変化」 監督:衣笠貞之助
外国映画
第1位 「最後の億万長者」 監督:ルネ・クレール
第2位 「外人部隊」 監督:ジャック・フェデー
第3位 「ロスチャイルド」 監督:アルフレッド・ワーカー
第4位 「未完成交響楽」 監督:ヴィリ・フォルスト
第5位 「男の敵」 監督:ジョン・フォード
第6位 「生きているモレア」 監督:ヘクト・マカーサー
第7位 「メリイ・ウイドウ」 監督:エルンスト・ルビッチ
第8位 「別れの曲」 監督:ゲザ・フォン・ボルヴァリ
第9位 「アラン」 監督:ロバート・フラハティ
第10位 「情熱なき犯罪」 監督:ヘクト・マカーサー
キネマ旬報ベストテン
第11回(1934年度)
日本映画
第1位 「浮草物語」 監督:小津安二郎
第2位 「隣の八重ちゃん」 監督:島津保次郎
第3位 「生きとし生けるもの」 監督:五所平之助
第4位 「武道大鑑」 監督:伊丹万作
第5位 「風流活人剣」 監督:山中貞雄
第6位 「北進日本 記録映画」
第7位 「その夜の女」 監督:島津保次郎
第8位 「一本刀土俵入り」 監督:衣笠貞之助
第9位 「霧笛」 監督:村田実
第10位 「雁太郎街道」 監督:山中貞雄
外国映画
第1位 「商船テナシチー」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第2位 「会議は踊る」 監督:エリック・シャレル
第3位 「にんじん」 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
第4位 「南風」 監督:キング・ヴィダー
第5位 「或る夜の出来事」 監督:フランク・キャプラ
第6位 「家なき少年群」 監督:ウィリアム・ウエルマン
第6位 「ドン・キホーテ」 監督:G・W・パプスト
第6位 「或る日曜日の午後」 監督:スティーブン・ロバーツ
第9位 「生活の設計」 監督:エルンスト・ルビッチ
第10位 「街の灯」 監督:チャールズ・チャップリン
第10位 「クカラチャ」 監督:レイ・レナハン
キネマ旬報ベストテン
1933年度(第10回)
日本映画
第1位 「出来ごころ」 監督:小津安二郎
第2位 「滝の白糸」 監督:溝口健二
第3位 「夜毎の夢」 監督:成瀬巳喜男
第4位 「二つ燈籠」 監督:衣笠貞之助
第4位 「君と別れて」 監督:成瀬巳喜男
第6位 「丹下左膳」 監督:伊藤大輔
第7位 「盤獄の一生」 監督:山中貞雄
第8位 「鼠小僧次郎吉」 監督:山中貞雄
第9位 「伊豆の踊子」 監督:五所平之助
第9位 「堀田隼人」 監督:伊藤大輔
第9位 「鯉名の銀平」 監督:衣笠貞之助
外国映画
第1位 「制服の処女」 監督:レオンティーネ・ザガン
第2位 「巴里祭」 監督:ルネ・クレール
第3位 「犯罪都市」 監督:ルイス・マイルストン
第4位 「シリイ・シムフォニー」 監督:ウォルト・ディズニー
第5位 「街の風景」 監督:キング・ヴィダー
第6位 「戦場よさらば」 監督:フランク・ボーサージ
第6位 「仮面の米国」 監督:マービン・ルロイ
第8位 「シナラ」 監督:キング・ヴィダー
第9位 「極楽特急」 監督:エルンスト・ルビッチ
第9位 「グランド・ホテル」 監督:エドマンド・グールディング
第9位 「夢見る唇」 監督:パウル・ツィンナー
第9位 「六月三十日の夜」 監督:スティーブン・ロバーツ
キネマ旬報ベストテン
1932年度(第9回)
日本映画
第1位 「生れてはみたけれど」 監督:小津安二郎
第2位 「嵐の中の処女」 監督:島津保次郎
第3位 「忠臣蔵」 監督:衣笠貞之助
第4位 「お誂次郎吉格子」 監督:伊藤大輔
第4位 「弥太郎笠」 監督:稲垣浩
第6位 「国士無双」 監督:伊丹万作
第6位 「蝕める春」 監督:成瀬巳喜男
第8位 「白夜の饗宴」 監督:マキノ正博
第8位 「春と娘」 監督:田坂具隆
第8位 「抱寝の長脇差」 監督:山中貞雄
第8位 「上陸第一歩」 監督:島津保次郎
外国映画
第1位 「自由を我等に」 監督:ルネ・クレール
第2位 「人生案内」 監督:ニコライ・エック
第3位 「三文オペラ」 監督:G・W・パプスト
第4位 「炭坑」 監督:G・W・パプスト
第5位 「今晩は愛して頂戴ナ」 監督:ルーベン・マムーリアン
第6位 「チャンプ」 監督:キング・ヴィダー
第7位 「北海の漁火」 監督:ウィリアム・ワイラー
第7位 「歓呼の涯て」 監督:スティーブン・ロバーツ
第9位 「私が殺した男」 監督:エルンスト・ルビッチ
第10位 「母」 監督:ウィリアム・ウエルマン
第10位 「ジーキル博士とハイド」 監督:ルーベン・マムーリアン
キネマ旬報ベストテン
1931年度(第8回)
日本映画
第1位 「マダムと女房」 監督:五所平之助
第2位 「心の日月(烈日篇 月光篇)」 監督:田坂具隆
第3位 「東京の合唱」 監督:小津安二郎
第4位 「一本刀土俵入り」 監督:稲垣浩
第5位 「舶来文明街」 監督:冬島泰三
第6位 「仇討選手」 監督:内田吐夢
第7位 「何が彼女を殺したか」 監督:鈴木重吉
第8位 「牢獄の花嫁」 監督:沖博文
第9位 「続大岡政談(魔像解決篇)」 監督:伊藤大輔
第10位 「生活線ABC(全篇)」 監督:島津保次郎
外国映画
第1位 「モロッコ」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第2位 「巴里の屋根の下」 監督:ルネ・クレール
第3位 「市街」 監督:ルーベン・マムーリアン
第4位 「ル・ミリオン」 監督:ルネ・クレール
第5位 「間諜X27」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第6位 「全線」 監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
第7位 「悪魔スヴェンガリ」 監督:アーチー・メイヨウ
第8位 「最後の中隊」 監督:クルト・ベルンハルト
第9位 「陽気な中尉さん」 監督:エルンスト・ルビッチ
第10位 「アメリカの悲劇」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
キネマ旬報ベストテン
第7回(1930年度)
日本・現代映画
第1位 「何が彼女をさうさせたか」 監督:鈴木重吉
第2位 「若者よなぜ泣くか」 監督:牛原虚彦
第2位 「お嬢さん」 監督:小津安二郎
日本・時代映画
第1位 「続大岡政談(魔像篇第一)」 監督:伊藤大輔
第2位 「旋風時代」 監督:志波西果
第3位 「素浪人忠彌」 監督:伊藤大輔
外国・発声映画
第1位 「西部戦線異常なし」 監督:ルイス・マイルストン
第2位 「ラヴ・パレード」 監督:エルンスト・ルビッチ
外国・無声映画
第1位 「アスファルト」 監督:ヨーエ・マイ
第2位 「アジアの嵐」 監督:フセヴォロド・プドフキン
第3位 「帰郷」 監督:ヨーエ・マイ
キネマ旬報ベストテン
第6回(1929年度)
日本映画
第1位 「首の座」 監督:マキノ正博
第2位 「灰燼」 監督:村田実
第3位 「浪人街(第三話 憑かれた人々)」 監督:マキノ正博
第4位 「生ける人形」 監督:内田吐夢
第5位 「摩天楼(争闘篇)」 監督:村田実
第6位 「斬人斬馬剣」 監督:伊藤大輔
第7位 「パイプの三吉」 監督:滝沢英輔
第8位 「無理矢理三千石」 監督:松田定次
第9位 「大都会(労働篇)」 監督:牛原虚彦
第10位 「都会交響楽」 監督:溝口健二
外国映画
第1位 「紐育の波止場」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第2位 「四人の悪魔」 監督:F・W・ムルナウ
第3位 「人生の乞食」 監督:ウィリアム・ウエルマン
第4位 「メトロポリス」 監督:フリッツ・ラング
第5位 「生ける屍」 監督:フィオードル・オツェブ
第6位 「四枚の羽根」 監督:シェードザク・クーパー
第7位 「ジャン・ダーク」 監督:カール・テホ・ドライヤー
第8位 「女の一生」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第9位 「思ひ出」 監督:エルンスト・ルビッチ
第10位 「都会の哀愁」 監督:パウル・フェヨス
キネマ旬報ベストテン
第5回(1928年度)
日本映画
第1位 「浪人街(第一話 美しき獲物)」 監督:マキノ正博
第2位 「陸の王者」 監督:牛原虚彦
第3位 「新版大岡政談(第三篇 解決篇)」 監督:伊藤大輔
第4位 「崇禅寺馬場」 監督:マキノ正博
第5位 「彼と東京」 監督:牛原虚彦
第6位 「村の花嫁」 監督:五所平之助
第7位 「蹴合鶏」 監督:マキノ正博
第8位 「結婚二重奏」 監督:村田実、田坂具隆、阿部豊
第9位 「平手造酒」 監督:志波西果
第10位 「十字路」 監督:衣笠貞之
外国映画
第1位 「サンライズ」 監督:F・W・ムルナウ
第2位 「暗黒街」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第3位 「サーカス」 監督:チャールズ・チャップリン
第4位 「ベン・ハー」 監督:フレッド・ニブロ
第5位 「つばさ」 監督:ウィリアム・ウエルマン
第6位 「街の天使」 監督:フランク・ボーサージ
第7位 「煩悩」 監督:ジョージ・フィツモーリス
第8位 「アンクル・トムズ・ケビン」 監督:ハリー・ポラード
第9位 「結婚行進曲」 監督:エリッヒ・フォン・シュトロハイム
第10位 「ムーラン・ルージュ」 監督:E・A・デュポン
キネマ旬報ベストテン
第4回(1927年度)
日本映画
第1位 「忠次旅日記(信州血笑篇)」 監督:伊藤大輔
第2位 「彼をめぐる五人の女」 監督:阿部豊
第3位 「尊皇攘夷」 監督:池田富保
第4位 「忠次旅日記(御用篇)」 監督:伊藤大輔
第5位 「海の勇者」 監督:島津保次郎
第6位 「からくり娘」 監督:五所平之助
第7位 「慈悲心鳥」 監督:溝口健二
第8位 「悪魔の星の下に」 監督:二川丈太郎
第9位 「下郎」 監督:伊藤大輔
第10位 「道中悲記」 監督:井上金太郎
外国映画
第1位 「第七天国」 監督:フランク・ボーサージ
第2位 「ヴァリエテ」 監督:E・A・デュポン
第3位 「ビッグ・パレード」 監督:キング・ヴィダー
第4位 「ボー・ジェスト」 監督:ハーバート・ブレノン
第5位 「肉体の道」 監督:ヴィクター・フレミング
第6位 「チャング」 監督:クーパー・シェードザック
第7位 「帝国ホテル」 監督:モーリッツ・スティルレル
第8位 「椿姫」 監督:フレッド・ニブロ
第9位 「カルメン」 監督:ジャック・フェデー
第10位 「ドン・ファン」 監督:アラン・クロスランド
キネマ旬報ベストテン
第3回(1926年度)
日本映画
第1位 「足にさはった女」 監督:阿部豊
第2位 「日輪」 監督:村田実
第3位 「陸の人魚」 監督:阿部豊
第4位 「狂った一頁」 監督:衣笠貞之助
第5位 「カラボタン」 監督:野村芳亭
第6位 「受難華」 監督:牛原虚彦
第7位 「紙人形春の囁き」 監督:溝口健二
第8位 「転落」 監督:井上金太郎
第9位 「水戸黄門」 監督:池田富保
第10位 「蜘蛛」 監督:悪麗之助
外国映画
第1位 「黄金狂時代」 監督:チャールズ・チャップリン
第2位 「最後の人」 監督:F・W・ムルナウ
第3位 「ステラ・ダラス」 監督:ヘンリー・キング
第4位 「海の野獣」 監督:ミラード・ウエッブ
第5位 「鉄路の白薔薇」 監督:アベル・ガンス
第6位 「ダーク・エンゼル」 監督:ジョージ・フィツモーリス
第7位 「ダグラスの海賊」 監督:アルバート・パーカー
第8位 「熱砂の舞」 監督:ジョージ・フィツモーリス
第9位 「ロイドの人気者」 監督:テイラー・ニューメイア
第10位 「滅びゆく民族」 監督:ジョージ・B・サイツ
キネマ旬報ベストテン
第2回(1925年度)
芸術的優秀映画
第1位 「嘆きのピエロ」 監督:ジャック・カトラン
第2位 「キーン」 監督:A・ヴォルコフ
第3位 「救ひを求める人々」 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第4位 「ジークフリート」 監督:フリッツ・ラング
第5位 「クリームヒルトの復讐」 監督:フリッツ・ラング
第6位 「燻ゆる情炎」 監督:クラレンス・ブラウン
第7位 「冬来りなば」 監督:ハリー・ミラード
第8位 「恋の凱歌」 監督:ヴィクトル・トゥールジャンスキー
第8位 「ボー・ブランメル」 監督:ハリー・ボーモント
第10位 「ホワイト・シスター」 監督:ヘンリー・キング
娯楽的優秀映画
第1位 「バグダッドの盗賊」 監督:ラオール・ウォルシュ
第2位 「ドン・Q」 監督:ドナルド・クリスプ
第3位 「ピーター・パン」 監督:ハーバート・ブレノン
第4位 「蜂雀」 監督:シドニー・オルコット
第5位 「猛進ロイド」 監督:テイラー・ニューメイア
第6位 「オペラの怪人」 監督:ルパート・ジュリアン
第7位 「海賊アップルジャック」 監督:フレッド・ニブロ
第8位 「荒武者キートン」 監督:キートン・ブライストーン
第9位 「シー・ホーク」 監督:フランク・ロイド
第10位 「美人食客」 監督:ウィリアム・ボーダイン
キネマ旬報ベストテン
第1回(1924年度)
芸術的に最も優れた映画
第1位 「巴里の女性」 監督:チャールズ・チャップリン
第2位 「結婚哲学」 監督:エルンスト・ルビッチ
第3位 「椿姫」 監督:レイ・C・スモールウッド
第4位 「過去からの呼声」 監督:ジェンナロ・リゲッリ
第5位 「我が恋せし乙女」 監督:ジョーゼフ・デ・グラッス
第6位 「ノートルダムの傴僂男」 監督:ウォーレス・ウォスリー
第7位 「異郷の露」 監督:ジョージ・メルフォード
第8位 「歩み疲れて」 監督:トム・テリス
第9位 「不滅の情火」 監督:フランク・ロイド
第10位 「心なき女性」 監督:レックス・イングラム
娯楽的に最も優れた映画
第1位 「幌馬車」 監督:ジェイムズ・クルーズ
第2位 「ホリウッド」 監督:ジェイムズ・クルーズ
第3位 「要心無用」 監督:テイラー・ニューメイア
第4位 「無鉄砲時代」 監督:ハリー・ポラード
第5位 「シャーロック・ホームズ」 監督:アルバート・パーカー
第6位 「男子怒れば」 監督:アレン・ホルパー
第7位 「狂恋の唄ひ女」 監督:ルイ・ガスニエ
第8位 「心なき女性」 監督:レックス・イングラム
第9位 「嵐の国のテス」 監督:ジョン・S・ロバートソン
第10位 「ロジタ」 監督:エルンスト・ルビッチ
471 :
1/10:2009/10/06(火) 18:55:25 ID:YzawyegF
『お早よう』のコミュニケーション
【なぜ「おはよう」と言うのか】
「芸能界で大事なのは、一に挨拶、二に挨拶」と言われる。
この業界には不思議な習慣があって、仕事に入るときの挨拶は(たとえ深夜であっても)
「おはようございます」、仕事からあがるときは「お疲れさまでした」と決まっている。
どれほど人気があろうと権力があろうと、現場でこの挨拶を怠ることは許されない。
この事例は挨拶の本質について大事なことを二つ教えてくれる。
ひとつは、挨拶の本義は意味内容ではなく「挨拶すること」それ自体にあること。
いまひとつは、挨拶に応えないことは重大な反社会的ふるまいと見なされており、
あえて欠礼するものは、直接の相手のみならず、
自分たちが帰属している共同体全体を敵にまわすことになりかねないということである。
挨拶はわたしたちが共同的に生きてゆくために欠かせないコミユーケーションのかたちでありながら、
その語義的意味はどうでもよいのである。
なぜ、そういうことになるのか。
レヴィ=ストロース人類学の実践編では、小津安二郎の映画『お早よう』を素材に、
コミュニケーションの本質について、文化人類学者と映画監督が
ほとんど同じ知見を語っているという興味深い事実を検証してみたい。
472 :
2/10:2009/10/06(火) 18:59:31 ID:YzawyegF
【挨拶は「少し多く返す」繰り返し】
「おはよう」もGood morningもBonjourもその意味するところは同じである。
それらのことばは「あなたは早く目覚めた」とか「今日はよい日である」とかいう
事実認知をおこなっているのではない。
それは人間から人間への直接的な語りかけであり、祝福の遂行である。
「おはよう」と語りかけた者は「今日一日があなたにとってよき日でありますように」
という祈りを贈っているのである。
祝福はそれを受けた側に返礼をしなければならないという負債感を発生させる。
この負債感は「受け取った以上のものを返礼し、相手に新たな返礼義務を課す」ことによってしか解消されえない。
しかし、受け取ったのと同じだけ返して中立化を達成することは原理的には不可能である。
というのも、「最初に贈る」ということは、いわば「無からの創造」であり、純粋なイニシアティヴだからである。
贈与の回路を立ちあげるということは、等量の返礼を返すことによっては
決して埋め合わせできないほどに生成的で冒険的な創造なのである。
だから、「おはよう」の挨拶を贈られた者は、とりあえず受けた挨拶よりも
少しでも多くのメッセージを発信することを求められる。
「おはよう、いいお天気ですね」とか「おはよう、どちらへ?」というふうに。
473 :
3/10:2009/10/06(火) 19:03:32 ID:YzawyegF
外国語の初級読本にはたいていつぎのような文例が出ている。
「こんにちは」
「こんにちは、お元気ですか?」
「はい、元気です。あなたは?」
「はい、わたしはたいへん元気です。ありがとう。ご家族はお元気ですか?」
「はい、うちの家族はみな元気です。ありがとう。あなたのご家族は?」
初学者はたいていここらまで読んだとき、ふと「この会話は、相手のことばを繰り返しながら、
終わりなく続くのではないか」という不安にとらえられる。
さいわい教科書一頁におさまる行数には制約があるために、街角で出会った二人は、
終わりなき祝福の交換をどこかで打ち切って、右と左に別れることになる。
けれども、初学者の心に兆した「同じことばを繰り返す終わりなき挨拶」という不条理な予感は、
じつはコミュニケーションの本質を正しく直感しているのである。
というのは、コミュニケーションの本義は、有用な情報を交換することにあるのではなく、
メッセージの交換を成立させることによって
「ここにはコミュニケーションをなしうる二人の人間が向き合って共存している」
という事実を確認し合うことにあるからだ。
そして、わたしの前にいる人に対して、「わたしはあなたの言葉を聞き取った」と知らせる
もっとも確実な方法は相手のことばをもう一度繰り返してみせることなのである。
だとすれば、真にコミュニケーションを求め合っている二人の人間のあいだでは、
相手のことばを繰り返しながらほとんど無意味な挨拶が終わることなく行き交うことになるはずである。
474 :
4/10:2009/10/06(火) 19:07:19 ID:YzawyegF
【おならからくずもち】
『お早よう』(松竹、1959)は昭和30年代の東京郊外の新興住宅地を舞台に、
平凡で日常的なエピソードの断片だけから構成された映画である。
そのエピソードはすべて「コミュニケーションの成功と破綻」をめぐつて展開する。
映画は多摩川の土手を歩く四人の子どもたちが「おでこを押すと、おならで応える」ゲームに興じているところからはじまる。
映画のなかでも繰り返されるこのゲームこそ映画全体を貫く説話原型である。
四人のうち「おならコミュニケーション」がいちばん上手なのは善ちゃんで、
いちばんへたなのは幸造である。
幸造はしょっちゅう「おなら」ではなく「実(み)」のほうを出してパンツを汚してしまう。
映画のラストでも、幸造は登校途中に 「実」を出して家に着替えにもどり、
母親に「もうパンツはない」と叱りつけられる。
半べそをかきながら、「ねえ、出しておくれよ。ぼくのパンツ」という幸造の泣訴と、
青空のもとにはためく真っ白なパンツのアップで映画は終わる。
映画の冒頭と末尾という特権的な場所に置かれている以上「幸造の失敗」は、
当然この説話原型の核心を表現していると考えてよい。
わたしたちはこう問うことになる。
「幸造はなぜコミュニケーションに失敗するのか?」
答えは簡単。
それは彼が「音」ではなく「実」を、挨拶の「コンテンツ」をコミュニケーションの場に差し出してしまうからである。
475 :
5/10:2009/10/06(火) 19:12:43 ID:YzawyegF
このゲームにおいて「おなら」は「おなら」ではなく、「純粋なシニフィアン」である。
ほかはすべて現実音が用いられているこの映画のなかで、
「おなら」の音だけは、管楽器によって表現されている。
甲高い「ぷ」と太い「ぶ」という、ことさらに虚構性を誇張されたこの効果音によって、
この映画のなかでの「おなら」は一切の意味を剥奪された純粋なシニフィアンであることが知らされる。
「おならコミュニケーション」では、一方に「おでこを押す者」 がおり、
他方に「おならで応える者」がいるという事実が子どもたちに飽くことのない快楽を提供している。
おそらくこのゲームにもなんらかの歴史的淵源はあつたはずである。
たとえば、教師に咎められて、おでこをぐいと押された生徒が
「おなら」をして教室中を爆笑の渦に巻きこんだとかいうような。
「おでこを押す」というやや威嚇的、攻撃的な身ぶりに「ぷ」という間の抜けた音で応接することが、
おそらくはおのれの社会的な非力さにフラストレーションを感じている子どもたちに
ささやかな解放感をもたらすのだろう(この遊びの起源を想起させるシーンは映画のなかに一度だけ出てくる)。
476 :
6/10:2009/10/06(火) 19:17:16 ID:YzawyegF
しかし、その起源がなんであれ、さしあたり土手を歩いている子どもたちにとっては、
「おでこを押す」ことは「無意味」であり、「おならで答える」ことも同じように「無意味」である。
その応答は、「鼻を押したら、まばたきをする」とか、「耳を引つ張ると、舌を出す」とかいう遊びと同質のものである。
求められているのは、贈与と返礼のもたらす愉悦である。
だから、「おなら」という純粋なシニフィアンに「シニフィエ」を与えてはならないのである。
それが幸造の失敗の意味である。
彼は記号に「コンテンツ」を与え、それによってコミュニケーションを「汚した」がゆえに罰を受けるのである。
「おならコミュニケーション」のさらに成熟したさらに過激なかたちは
「善ちやんのお父さん」善之助によって演じられる。
(善之助がおならをすると台所から妻しげが顔を出す)
しげ「あんた、呼んだ?」
善之助「いいや」
(再び、おなら。しげ再び顔を出す)
しげ「なあに?」
善之助「ええと、あの、今日亀戸のほうへゆくけど、くずもちでも買ってくるか」
善之助は決して「おなら」を道具にして妻を呼びつけたわけではない。
善之助にとって二度の「おなら」はいずれも不随意な行為であった。
しかし、夫の「おなら」を、自分を呼ぶ声と錯覚して、
二度にわたって家事の手を止めて居間にやってきた妻の高度なコミュニケーション感度が
善之助のうちに優しい情感を喚起させる。
それが(おそらくは妻の好物である)「亀戸のくずもち」を分かち合いたいというアイディアに結びつくのである。
477 :
7/10:2009/10/06(火) 19:19:38 ID:YzawyegF
このコミカルな場面がどこかしら不思議な後味を残すのは、
「おなら」を道具として意思疎通がなされるという通俗的なギャグのかたちをとりながら、
じつは「おなら」によって起動したコミュニケーションが
夫婦の心のうちに「愛情」を生み出すという順逆の転倒が描かれているからである。
善之助は意識的に「おなら記号」を利用して妻を呼びつけたのではない。
偶然的に出現した「おなら記号」の効果として、夫婦のコミュニケーションがはじまり、
しげの無邪気な「なあに?」の問いかけが、幸之助の内面に「妻への気遣い」を生み出す。
そして、最初の「呼んだ?」のときは、無表情であった妻は、善之助の「くずもち」の申し出を聞いた後、
にこりと笑って窓の外を眺め「ああ、ほんとうにいいお天気」と、
仕事に出かける夫の歩みに祝福を与えるのである。
いささか気負って言ってしまうと、わたしたちはここに「内面」という近代的な装置に対する
小津安二郎のアイロニカルな視線を見て取ることができる。
478 :
8/10:2009/10/06(火) 19:28:18 ID:YzawyegF
【「よけいなこと」騒動】
映画の核になるエピソードは、林家の実(みのる)と勇(いさむ)の兄弟が「挨拶を拒否する」事件である。
きっかけはテレビである。
テレビ受像機がまだ一般家庭にはあまり普及していなかった時代なので、
大相撲のファンである子どもたちは近所の丸山夫婦の家にテレビを見にゆく。
丸山夫婦はキャバレーではたらいていたという噂のある、
住宅地にはやや場ちがいな派手めの若夫婦である。
だから、子どもたちが丸山家にいりびたることを母親たちは好ましく思っていない。
その日も、「英語を習いにゆく」という口実で家を出ながら、丸山家で相撲を見ていた子どもたちは、
幸造の母親(杉村春子)に見つかってこっぴどく叱られる。
だが、子どもたちはいくら叱られてもテレビが見たい。
実と勇は「テレビを買ってよ」とうるさくねだる。
辟易した父親(笠智衆)が雷を落とす。
父「だいたい、おまえは口数が多い。おしゃべりだ。やめろと言ったら、やめろ。
だいたいお前たちは何だ。一つことをいつまでも。女の腐ったのみたいに。
こどものくせによけいなことを言い過ぎる。少し黙ってみろ」
実「よけいなことじやないやい。欲しいから欲しいって言ったんだ」
父「それがよけいだって言うんだ」
実「だったら、大人だってよけいなことを言っているじゃないか。
『こんにちは』『おはよう』『こんばんは』『いい天気ですね』『ああそうですね』
『あら、どちらへ』 『ちょっと、そこまで』『ああ、そうですか』。
そんなことで、どこにゆくかわかるかい!
『ああ、なるほど、なるほど』。なーにが『なるほど』だい!」
幼い合理主義者である実は、コミュニケーションの本義は
メッセージを過不足なく伝えることにあると信じている。
だから、「テレビが欲しい」という意思を伝えるためには「テレビが欲しい。テレビが欲しい」と
大声でわめき立ててみせることがもっとも合理的な選択肢だと考えるのである。
父親はその短見をいさめて、「ペちゃくちゃよけいなことをしゃべるんじゃない。一日黙っていろ」と厳命する。
コミュニケーション原理主義者である実は父の命令をまさに「語義通り」解釈して、
今後いっさい「口をきかない」ことを決意する。
479 :
9/10:2009/10/06(火) 19:35:34 ID:YzawyegF
子どもたちは、すべての言語的コミュニケーションを拒否する。
母親からの食事の知らせにも、教師の問いかけにも、近所の人々からの
「おはよう」という呼びかけにも、二人は、ことごとく返答を拒絶する。
兄弟の英語の家庭教師でもある失業中の福井平一郎(佐田啓二)は、
この沈黙の理由を二人の叔母である有田節子(久我美子)に訊ねる。
平一郎「どうしたんです。いったい?」
節子「よけいなこと言うなって言われたら、大人だって言うじゃないかって。
『おはよう』『こんばんは』『こんにちは』『いいお天気ですね』って」
平一郎「ああ、なるほど。そりゃそうだ。だけどそれは、誰だって言うな」
節子「そうですわ。誰だって言います」
平一郎「でもそんなこと、案外よけいなことじゃないんじゃないかな。
それを言わなかったら、世のなか、味も素っ気もなくなっちゃうんじゃないかな」
節子「そうですわ。でも、この子たちには、まだ……」
平一郎「そりゃわかりませんよ。そこまではね」
平一郎が推察したとおり、挨拶は「案外よけいなことじゃない」。
子どもたちの欠礼は静かな不穏な波紋を呼びよせる。
二人は「給食費を持ってこい」という学校からの連絡を両親に伝えられず、
結果的に担任教師の家庭訪問という非常事態を招いてしまう。
叱責を恐れた二人が家を飛び出す「失踪事件」が起きる一方で、
「おはよう」の呼びかけを二人に黙殺された近所の主婦たちが、
この欠礼を彼女たちのささやかな共同体への宣戦布告と見なし、
林家に敵意を向けはじめる。
さいわい、二つの危機は、平一郎による兄弟の回収と、
父親によるテレビの購入によって深刻化する寸前に回避される。
テレビを買ってもらった兄弟が翌朝すっかり上機嫌になって、
惜しみなく「おはよう」の祝福を近隣に贈ると同時に、
林家を囲んでいた敵意は静かに消失してゆく。
480 :
10/10:2009/10/06(火) 19:42:59 ID:YzawyegF
【味なコミュニケーション】
「テレビが欲しい」というメッセージこそ伝達の価値のある有用な情報であって、
それ以外の挨拶に類する部分はすべてコミュニケーションにとって「よけいなこと」であるという
実の幼い理解が思いがけぬ深刻な事件を引き起こしたのとは対照的に、
「よけいなこと」以外なにひとつ語らない二人の間には、
至福のコミュニケーションが成立する。
平一郎と節子はひそかに惹かれ合っているが、口に出さない。
彼らは平一郎の姉(沢村貞子)が揶揄するように、
「いつだって翻訳のことかお天気の話ばっかりして。肝心なことはひとつも言わない」カップルである。
映画の最後に駅で出会うときも、ふたりは相変わらずお天気の話に終始する。
しかし、このほとんど美しいほど無意味なリフレインに、
小津は理想的なコミュニケーションのかたちを見いだしている。
平一郎「やあ、おはよう」
節子「おはよう。ゆうべはどうも」
平一郎「いやあ」
節子「どちらへ」
平一郎「ちょいと、西銀座まで」
節子「あ、それじや、ご一緒に」
平一郎「ああ、いいお天気ですね」
節子「ほんと、いいお天気」
平−郎「この分じゃ、二三日続きそうですね」
節子「そうね、続きそうですわね」
平一郎「ああ、あの雲、おもしろい形ですね」
節子「ああ、ほんとにおもしろい形」
平一郎「何かに似てるな」
節子「そう、何かに似てるわ」
平一郎「いいお天気ですね」
節子「ほんとにいいお天気」
もしコミュニケーションの本義が情報のやり取りにあるのだとすれば、
これはコミュニケーションとは言えない。
節子は平一郎のことばをただ反復しているだけである。
この会話から節子が引き出し待た情報は「平一郎が西銀座方面に出かける」ということだけであり、
平一郎にいたっては節子から受け取る有意の情報はゼロである。
けれども、それにもかかわらず、あるいは、それゆえにこそ、
ここではまぎれもなく高度のコミュニケーションが生成している。
子どもたちが「まだ」理解していないこと、コミュニケーションのほんとうの目的は、
ことばの贈与と返礼を通じて「共同体を立ちあげる」ことにあることを、
平一郎と節子は経験的に知っている。
「どちらへ?」と問いかけるものは目的地を訊ねているのではない。
そうではなく、これは「どこへ行かれるにせよ、あなたの歩みに天の恵みがありますように」
という祝福のことばを贈るための修辞的な問いなのである。
だからこの間いに対しては「祝福をありがとう」という感謝を込めて
「ちょいと西銀座まで」と答えるだけで足りるのである。
平一郎と節子はレヴィ=ストロースがコミュニケーションについて語ったことを素直に実践している。
挨拶はそれ自体が「直接的な価値の贈りもの」であることを。
挨拶を贈られた者は「その不均衡を相殺するような価値」の返礼を贈り返さなければならないことを。
そして、パロールの交換と婚姻とが同一の欲望に駆動されていることを。
この映画で小津はレヴィ=ストロースのコミュニケーション論とほとんど同一のことを語っている。
レヴィ=ストロースよりもずっと愉快な仕方で。
ただいもー
今日のお昼はキャベツと卵と食パン・・・他にないのか・・・
さよなら
>>666 はいって何だよ。さっきから何度も。何がはいなんだよ。
出来もしねえ奴が軽々しくはいなんて言うんじゃねえよ。
だから申し訳ありませんじゃねえだろうよ。何が申し訳ねえんだよ。
本当に反省してんのかよ。
本当に今なら出来んのかよ。
口先だけの謝罪をするんじゃねえよ。
いい加減な気持ちでやってるんだったら今すぐ帰れお前。
670 :
優しい名無しさん:2009/10/17(土) 21:21:58 ID:bvbNXeZZ
うめ
671 :
優しい名無しさん:2009/10/17(土) 21:24:01 ID:aona9ouO
およよ〜?
672 :
優しい名無しさん:2009/10/17(土) 21:24:43 ID:KIcU1BmJ
(*・ω・*)
おはよー
Windows7にアップデート完了
体感できるほどキビキビと動くよ
反応早いwww
か
ごみばこ
707 :
優しい名無しさん:2009/11/16(月) 22:33:17 ID:D7ThYPrT
まだ使いかけのようだけど新しいスレ(5207)は立ちましたか?
おはよう( ̄ー ̄*)
709 :
優しい名無しさん:2009/11/22(日) 18:23:59 ID:tjT9t6gf
清濁あわせ飲む
私の役目は、私の前に立っているひとが「何を言って欲しいのか」を聞き取って、
それを本人になり代わって言ってあげるというものである。
なぜって・・・
だって、ふつう誰だって「自分が聞きたいこと」しか聞かないでしょう?
聞いてくれないことをしゃべっても時間と労力の無駄である。
どうせなら、聞いてにこにこしてもらうほうがおたがいに気持がいい。
他人の意見を自分の意見みたいにして語るのはけっこう楽しい。
ある学生には「人間の基本は自立だ。いますぐ家を出て自活しなさい」と説教し、
その次に来た学生には「親のすねを囓るのは大事な親孝行だよ。いたわっておやりよ」と説教する。
ある学生には「本なんか読まなくていいから自分で考えなさい」といい、
別の学生には「自分の枠を超えるためには本読むしかないでしょう」と言う。
ときどき「先生、前とお話がちがうようですが」と怪訝な顔をする学生がいるが、
それはね、君が成長したということなんだから、それくらいのことは我慢しなさい。
ご飯がきちんと美味しく食べられる相手であれば、
エロス的関係においても同じような同期が期待できるということを私たちは無意識的には知っている。
だから、とりあえず「飯、食いにいかない?」ということになるのである。
あれは「瀬踏み」をしているわけである。
いっしょにご飯を食べていると、カップラーメンでも美味しく感じられるという相手であれば、
それ以外の共同的な作業においてもだいたいうまくゆく可能性が高い。
共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。
毎年同じ日に決まったことをやるのだけれど、
参加するひとがちょっとずつ変わってゆくイベントというのは、なんとなく「切なくて」いい。
おそらくそういうイベントが「時の移ろい」を感じさせるからだろう。
すべてのものには終わりが来る。
それもたいてい唐突な仕方で。
にぎやかに騒いで、ぱっと終わって、あとには痕跡も残らない。
そういうあり方は、とても人間的だと、私は思う。
正直に言わせてもらうけれど、核家族で行動する人たちは周囲から見るとあまり感じが良くない。
夫婦ふたりとか親子ふたりとかいう単位で行動する人たちには、
ある種の「開放性」があって、隣の人と気楽におしゃべりしたりするのだけれど、
夫婦と子どもという単位になると、とたんに排他的な集団になってしまう。
そこだけ自閉した空間がつくられてしまい、まわりは「他人」、
他人は潜在的には「敵」、というようなバリアーが張られてしまう。
そのバリアーを外から感じるのも不愉快であるが、
内側にいる閉塞感もずいぶん重苦しいのではないかと思う。
核家族というのはもはやその歴史的使命を終えた制度ではないのだろうか。(一夫一婦制もね)
家を買うとか、土地を所有するとか、そういうこと自体に私はまったく興味がない。
所有することは苦しみであると考えているからである。
家を持つということは、管理し、その保全のために気を遣わなければならないものが増えるというだけのことである。
自分の家が雨漏りしたり壁に亀裂が走ったり床が抜けたりしたら
まるで自分の身体が壊れたような苦しみを味わうのではないか。
家というものが「拡大自我」である以上、それは当然である。
しかし家とか車とかいうモノは手に入れたときがいちばんきれいで完全で、
そのあと時間がたつにつれてどんどん劣化してゆく宿命にある。
だから手に入れたあとは衰微するものへの不安といらだちがだけがつのってゆくのである。
私はだからできるだけモノを所有しないことにしている。
方丈の草庵にちゃぶ台一つパソコン一台。本が数冊。縁側の外には芦屋川。庭に老松と竹林。
遠景の六甲の山並にススキ。借景を賞味しつつ友と月下に琴棋詩酒を楽しむだけで私は十分である。
そういう涼しい生活を私はしたい。
能力の開発というのは力仕事だぜ。
毎日、ちょっとずつ訓練するというしかたでしか、どんな能力も開発されない。
何かができるというのは、そのための努力ができるということであり、
何かができないというのは、「それができるようになるための努力」をすること自体ができないということなのである。
718 :
優しい名無しさん:2009/11/23(月) 13:00:45 ID:RYhgPFGT
という妄想であった。
男性作家であっても「女性らしい」感受性や思考は想像的に構築できるだろうけれど、
「おのれの女性性をうまく処理できないでいる女性」をいきいきと造型することはかなりむずかしそうである。
「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」たちは
どのような作品においても「自分の性に完全に調和している少女たち」よりも魅力的に描かれる。
制度的に強いられる性差を自然のものとして受け容れることに抵抗し、
因習的な性別役割を拒絶しようとするふるまいを通じて、
「因習的に構築されたのではない、より根源的な性差」が露出する・・・
という一回ひねりのドラマツルギーをおそらく私たちは愛しているからであろう。
1のインプットで5のアウトプット
721 :
681:2009/11/23(月) 13:31:10 ID:xN96uVR5
しにたい・・・
村上春樹は、支配的な思考に対して、個人は「イカになる」と「タコになる」かどちらかを選ばなければいけない、と書いている。
「イカ」とは「異化」であり、「ほかの人とは違うようになること」。
「タコ」とは「他個」であり、「みんなと同じようにしていること」である。
「なにかね、君の書いたものを読まない人の悪口なら書くが、読まれる可能性のある人のことは書かない、というのが君の批評的態度なのかね」
「そうです」
「君の批評精神というのは、そんな程度のものなのか。身体をはってでも自分の意見を通す気概はないのかね」
「ありません。」
私は常日頃、かげで人の悪口は(死ぬほど)言うが、本人には絶対に言わないようにしている。
よく、「かげで言えば悪口だが、面と向かっていうと忠告になる」などと賢しらなことを言う人がいるが、
そういうおためごかしを信じてはならない。
私は何度か試みたことがあるが、例外なしに相手は逆上し、社会関係に深刻な影響が出た。
耳に痛い忠告を受け入れて、その人がみごとに人格改造を果たしたという例を私は寡聞にして知らない。
人間というのは(おお、すごい主語だ)自分の欠点については「まったく無自覚」と「きわめて自覚的」という二つの態度しかとらない。
たとえば、信じられないほど鈍感な人物は例外なしに自分のことをデリケートだと思っているので、
「君、もう少しまわりに配慮したら」というような忠告はまったく的外れの誹謗としか思われないのである。
また、自分の欠点をつねにくよくよ悩んでいる人間にむかってその欠点を指摘することは、
(自分がでぶであることを熟知しているけれどダイエットができない人間に「少しは痩せる努力しろよ」というのと同様)
「それだけは言ってくれるな」と怒りの火に油を注ぐだけのことなのである。
それゆえ、私は決して人に向かってその欠点を指摘することはしない。
かげできっちり悪口を言い、面と向かったときは「よいしょ」に励むのである。
そういう私に文句がある場合、そこで指摘される点は私にとって「まったくのいいがかり」か、
「私が誰よりも苦しんでいること」のどちらかであるので、決して面と向かって私を批判してはなりません。
「おじさん」と「年のいった男の子」はどこがどう違うか、というのはなかなかむずかしいのであるが、
めやすとしては、仲間同士でわいわいやるときに
(1) 敬語を使って話す
(2) プライヴァシーにかかわる話題をふらない
(3) 病気の話をしない
(4) シモネタをふらない
(5) 自慢話をしない
(6) 同じ話を二度しない
(7) 怒らない
(8) げろを吐かない
(9) トイレのスリッパを揃える
などである。これのどれかに抵触すると、私たちはただちに「おじさん」に区分されることになる。
ジョン・ウオーターズの『悪趣味映画作法』(柳下毅一郎訳)を読む。
冒頭の一節がすてきだ。
「ぼくにとって、悪趣味こそがエンターテイメントだ。
ぼくの映画をみてゲロを吐く人がいたら、スタンディング・オベーションを受けたも同然だ。
だけど、忘れちゃならない。いい悪趣味と悪い悪趣味は別物なのだ。
人を不愉快にさせるなんて簡単だ。
九十分間手足がばたばた切り落とされる映画を作ればいいが、
そんなものは悪い悪趣味だし、スタイルも独創性もない。
悪趣味を理解できるのは、いい趣味の持ち主だけだ。
いい悪趣味は創造的におぞましく、なおかつ、
特別にひねくれたユーモアの持ち主に受けなければならない。
きわめて特殊なものなのだ。」
離婚すると、人を愛する能力に構造的な欠如が生じる
小田嶋隆の『ひとはなぜ学歴にこだわるのか』を読む。
学歴というのは珍しいテーマである。
なぜ、ひとは学歴にこだわりながら、そのことを否定するのか、というややこしい問いを扱っている。
一般的に言えることは、学歴は「それをもつものにとっては無徴候的であり」、
「それを欠いているものにとっては徴候的である」ということである。
そして、メディアで発言している人間は圧倒的に高学歴者なので、学歴による差別は前景化しないのである。
しかし学歴は小田嶋のいうように、現代日本社会で、たしかにおそらくもっとも強力な社会的な差別化指標記号であるだろう。
確かに「頭がいいひと」のなかには「勉強ができるひと」が多く含まれる。
とくに「非常に頭がいい人」はほぼ例外なしに「非常に勉強ができる」。
しかし、その反対は真ではない。
そして、「勉強ができて、頭が悪い人間」というものがこの世にもたらす害悪は、
それはもう、筆舌に尽くしがたいものなのである。
総じて、人間としていちばんかくありたい姿は「勉強ができなくても、頭のいい人間」である。
そう、あなたのことですよ。ラッキー。
(で、あと「勉強ができなくて、頭も悪い人間」というのが残っているんですけど、
これについては、考えるだけで頭痛がしてくるので、話題にしなくていいですか?)
家族というのはたまたま十数年だけ共生するテンポラリーなユニットにすぎない。
そのわずかな時間だけの共生ということの意味をよく理解すれば、
家族のメンバーたちはもっとお互いに敬意をもって接するはずであるし、
家庭の中に公共的な空間につながる回路がもっと深く通い、そこが「風通しのよい」場になるはずである。
家族の成員たちが、おたがいが何を考えているか、何をしているのかを知らないことはすこしも悪いことではない。
むしろ「知らないままに受け容れる」というかたちで家族の愛情の深さは表現されるべきではないだろうか。
くいくいお酒を飲んでいるうちに、いつのまにか話題は「結婚話」。
みなさん、なかなかご縁がないようである。(ひとりはご縁があったのだが、途中でご縁がなくなってしまった。うーむ)
「ぜーたくを言ってはいかん。男なんて、みんな結婚しちゃえば似たようなものなんだから、手近なので我慢しなさい」といつもの説教をする。
しかし、価値観が同じでなきゃやだとか、私の仕事に理解がなきゃやだとか、
食べるものの好みが一緒でなきゃやだとか、いろいろ贅沢なことを言う。
そんな都合のよいのが「手近」にいるわけない。
それだけ条件の揃った相手が欲しければ、よほど気合いを入れてボーイハントしなければならない。
いまの生活のままで偶然の出会いを待つなら、条件についてはある程度眼をつむるしかない。
「結婚相手なんて、だれだっていーわ」というなげやりなスタンスこそが
結婚生活の幸福(などというものがあるとすれば)の鍵なのだよ。ほんとに。
ある程度以上複雑な論理の流れは、紙に書かないと構成できない。
紙に書くか、あるいは誰かを相手に話すか、どちらかでないとダメである。
沈思黙考しているひとというのは、考え深げに見えるが、実はあまり何も考えていないで、
思考が同じところをぐるぐる回っているだけのことが多い。
反対に、ぺらぺらしゃべっている人は、考えが浅げに見えるが、
実は「自分がそんなことを考えているとは、思いもしなかったこと」を口にしつつ、
前人未踏の思考の極北へ踏み込んでいることがある。(そうでない場合もある)
私が知る限り、「非常に賢い人」は例外なく「やたらにおしゃべり」であった。
寡黙であるが、口を開けば珠玉の至言、というような人に私はまだ会ったことがない。
おは なんだ・・
735 :
優しい名無しさん:2009/11/27(金) 07:35:30 ID:q/197ll8
寂しい・・
736 :
優しい名無しさん:2009/11/27(金) 07:49:08 ID:jIoEMA8g
おはようございます(*・ω・*)
おはよう 今通勤中
今日も古い契約書の整理だお
閑職に回ってくる典型的な仕事だけど
仕事ないよりましだお
たしか「人の酒は断らない」というけなげな決意をされたと聞き及んでおりますが。
匿名で発信するということは、そのこと自体において
すでにいくぶんか「暴力」的である、ということをこの人はよく分かっていない。
論争というのはふつう「私は正しい」と思っているもの同士のあいだで行われる。
それぞれがそう信じているくらいだから、それぞれの言い分には必ずいくばくかの掬すべき知見が含まれている。
それぞれの言い分のうちの汲むべき知見を汲み上げて、お互いを豊かにして、
終わったあとに「ああ、話してよかった」となるのが対話的論争の楽しみである。
論争を不毛にしないための工夫はだからコンテンツにではなく、
「相手からどうやって有益な知見を引き出すか」をめざす語り口にある。
どれほど違う意見でも適切な語り口で語り出されれば、なけなしの共感をそこから引き出すことができるし、
どれほど近い意見でも語り口を間違うと、得るところなく終わってしまう。
私はこういう儀式ばったことをきちきちとやるのが好きである。
いつでもどこでも「俺は俺だよ」という「素顔のままで」通すことをプリンシプルとしている人もいる。
要は「心」であって、「かたち」なんかどうだっていいのだ、というのはなかなか立派なお言葉だが、
私はそれはけっこう不自由で息苦しい生き方ではないかと思う。、
それらしい場面ではそれらしいふるまいをすること、「かたち」から整えて、
「心」を細工してゆくこと、というのはなかなか気持ちの良いものである。
彼らが20代の一時期にいささか性急に選択した一つの生き方の「つけ」を
生涯をかけて払い続けていることにはいくばくかの敬意を払う。
彼らはとにかく「自分の負債は自分の身銭を切って払う」という態度を貫いているからだ。
酔眼朦朧としてとくとくと「悪女のすすめ」について講義を行う。
若い学生諸君にはなかなか「悪女になる」とか「嘘をつきまくる」とか
「おいしいとこだけ食べて捨てる」とか「別れやすそうな男とつきあう」とかいう
男女の機微が理解できないようであるので、噛んで含めるように教えて上げる。
卒論研究の教育効果は実は「仮説を論証すること」ではない。
最初に用意した仮説が現実の厚みの前で破綻して、
「これって、話が違うじゃないの・・・」とうろたえたあげくに、
研究を始めるときには自分で予想もしなかった新しい視点に導かれて、
そこから未知の光景を記述すること。ここに妙味がある。
研究することとは自己表現ではなく、ほんとは自己発見なのである。
知っていることを書くのではなく、書くことによって知ることなのである。
私はすぐれた多くの友人を持っている。だが、その理由が、
私が「よいしょのウチダ」と呼ばれるほどに褒め上手だからであることはあまり知られていない。
天才は非天才の絶賛によってぶいぶい元気になり、賢者は凡人の「よいしょ」によって、
ますますその叡智に磨きを掛けるのである。
これを人類への貢献といわずして何と言いましょう。
「情報量」というのは「データの量」ということとは違う。
私の勝手な定義によると、ある学術情報の含む情報量とは
「その情報にふれることによって、節約される時間と労力」の関数である。
「私はこの論文を誰に宛てて書いているのか?」
この問いを念頭においていれば、踏み迷ったときに、それが正しい航路を示してくれる灯台になると私は思う。
851 :
優しい名無しさん:2009/11/29(日) 21:09:08 ID:mJASmY9j
_、_ 終了?頑張れ!
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
手伝えクズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
_、_ クズとかウソです! 頑張ります!
( ,_ノ` )
[ ̄]'E ズズ
私たちの心を長い時間をかけて酸のように浸食して、
私たちを廃人に追い込むような種類の「後悔」とは、
「何かをしなかった後悔」である。
かけがえのない時間、かけがえのないひと、かけがえのない出会いを「逸した」ことの後悔、
「起こらなかった事件」についての後悔は、それが起こらなかったがゆえに、
私たちの想像を際限なく挑発しつづける。
「プリンシプルを持っている」ということは、
どのような場合でも「プリンシプルを持っていない」ことよりも、有利である。
迷路に紛れ込んだ場合は、右手(あるいは左手)を壁から離さないように進めば、
(どれほど時間がかかっても)必ず出口にたどりつくのと同じである。
サイバースペースはもはや十分に学校として機能している。
なぜなら、そこで何かのデータを得ようとするものは、
なによりもまず「自分はどのようなデータを欠いているのか」
「自分はそのデータに到達するためのどのようなスキルを欠いているのか」を
できるかぎり分かりやすい言葉で交信の相手に伝える必要があるからだ。
自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、
それは「ディセンシー」と呼ばれる。
求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。
インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。
「眼高手低」というのは「批評眼ばかり肥えてしまったせいで、
自分の書いたものの完成度の低さを自分が許せない」という自閉的な傾向のことである。
私は師匠にこれだけ尽くした。だから、これだけのリターンがあってしかるべきだ、
というふうな功利的な発想は、師弟関係になじまない、と私は考える。
いや、師弟関係に限らず、すべての人間関係はほんらいそういうものではないのだろうか。
例えば、育児がそうだ。
私はこれだけの時間と労力を割いて子どもを育てたのだから、その分の「見返り」をよこせ、
と子どもに要求するのは親として間違っている。
育児というのはそういうものではない。
子どもを育てている時間の一瞬一瞬の驚きと発見と感動を通じて、
親はとても返礼することのできないほどのエネルギーと愉悦を子どもを育てる経験から受け取っている。
師弟関係もそれと同じだと私は思う。
知的な人間と知的でない人間の差は、知識の量にあるわけではない。
無知というのは「情報の欠如」のことではなく、「情報の欠如の見落とし」のことである。
私の知る限り、無知な人間のあたまには膨大な量のゴミ情報が詰まっている。
そのゴミ情報の過重負荷によって、その人の情報処理システムそのものが
うまく機能しなくなっているという「情報」が読み落とされている事態が「無知」である。
仮に、国際政治について膨大な情報をもっている人がいるとする。
ところが、彼はそのすべてを「ユダヤ人の世界支配の陰謀」というスキームに基づいて処理している。
「お、南アフリカで政変か。デ・ビアスが一枚噛んでいるな」
「お、タイの米相場が動いたな。ジョージ・ソロスが糸を引いているな」
「お、パレスチナで争乱か。シオンの長老の陰謀やな」
こういう人は(実際に存在するが)日経からCNNから『噂の真相』まで読破しているにもかかわらず、
彼自身の「ものの見方」を修正するような情報の取り込みを構造的に遮断している。
これを私は「無知」と呼ぶのである。
知性とは、おのれ自身の情報処理システムの「不調」を最優先的に検出する運動性のことである。
「あれ、おれって、何か、何見ても『ユダヤ人の陰謀』に見えてんじゃねーかな?これ、やばくねーかなあ?」
というような「あれ?」が知性の機能である。
「だけど、この『あれ?』という気づき方にも、なんか俺の場合、一定のパターンがあるような気がするけど、気のせいかなあ?」
というような自己懐疑が知性の機能である。
自分の発想法そのものの定型性について優先的に危惧し、
さらに「自分の発想の定型性を優先的に危惧するような反省の仕方そのものの定型性」を危惧し、
さらに・・・
というような「タマネギ」的自己言及にはまりこんでしまうのが「知性という症候」なのである。
私たちは「自分が賢い」ことを示そうとすると、必ず韜晦する。
経験が私たちに教えているのだ。
欲望を実現したければ、欲望を隠せと。
権力を示したければ、権力を行使するな。
知性についても同じことがいえる。
何を言っているのかよく分からないことを言う人間に私たちは畏怖の思いを抱く。
その経験知からなかなか私たちは自由になれない。
「知識」についていえば、私が持論としているように、
そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。
必要なのは「知識」ではなく「知性」である。
「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。
「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが
「どこにいって、どのような手順をふめば手にはいるか」を知っている、
というのが「知性」のはたらきである。
学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。
古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。
自分が何を知らず、何ができないのかを言うためには、
自分自身を含むシステムの全体についての概括的な「見取り図」を持っていることが必要である。
自分がこの社会のどこのポジションにいて、今進んでいる道はどこへ向かっており、
その先にはどのような分岐点があり、それぞれの分岐はどこにつながっているのか。
それが分からないものにマッピングはできない。
マッピングが出来ないということは、主体性がもてないということである。
というのは、「マッピング」というのは、「自分がいる場所」、
つまり「空間において自分が占めている場所」「他の誰によっても代替不可能な場所」を特定することであるからだ。
学術研究論文がまず先行研究批判からはじまるのは、「自分の位置を知る」ことが、
おのれの「オリジナリティ」「唯一性」を知るためのたった一つの方法だからである。
主体性とは「他の誰によっても代替されえないような存在で自分は在る」という覚知とともにしか成り立たない。
そのためには「マッピング」が不可欠である。
そして、「マッピング」のための問いとは実定的な問い「私はどこにいるのか?」
「私はなにものであるのか?」「私は何ができるのか?」ではなく、「私はどこにいないのか?」
「私はなにものでないのか?」「私はなにができないのか?」という一連の否定的な問いなのである。
870 :
1/2:2009/11/30(月) 04:43:49 ID:OGNFfXwz
日本一過激な医師、北之園先生からメールが来た。
非常に興味深い内容ですのでここに転載します。
これは「引用」だから、コピーライトはいいよね?
「医師の役割はとかくただ治療行為によって心身の状態の異常な状態を正常化することにあると考えられがちであるけれども、
そのことも実はあるプロセスと飛躍の省略された形であることを見失ってはならない。
では何が抜け落ちているのか。
患者は病院にくるとき単におまかせで自動的に症状を消去されることを機械的に望んでいるのではない。
心身の異常な状態とは、ただ異常なのではなく自分自身で対処できない異常さということである。
そうした危機的状況とはそれまでの自己修復可能なストーリーでは対処できないという意味で危機なのである。
つまりそれまでの有効であったストーリーの破綻した状況からその修復を求めているのである。
しかしそれは正確に言えば修復ではなく、別のストーリー、
それもその中にそれまでのストーリーの破綻を繰り込んだ新しいストーリーの新設を望んでいるのである。
生体はある環境では恒常性を維持できるが故に生体でありうる。
それはその環境と自身を包摂した調節機構を内にストーリーとして保持していることを意味する。
自身の対象化により自身が調節者としての役割も果たしている。ストーリーはその調節マニュアルともいえる。
しかし未知の事態がそれまでの環境を変動させたり、未知のうちに進行した自身の変化はその安定体系をうち破る、
つまりそれまでの自分自身ではどうにもこうにもいかなくなったとき、病院の医師に受診するのである。
もっともそうした受診経験がストーリー化されたとき、病院は単に薬剤をもらったり、
処置をされるだけのものになってしまうかもしれないが、それは既成の枠をみているだけのことにすぎない。
初めて医師に罹ったとき、それまでの経過を問診しながら病歴が形成される。
病歴は単に時間を追ったそれまでの患者の症状や体験の集積ではなく、
また医師の観点からの疾患に至るストーリーの形成でもない。
これは対話によってそれまでの患者のストーリーを検証し、欠落点や誤謬を指摘し、解体し、新たな要素を付け足し、
新たな解釈で新たな意味を付け直し、そうして再構成あるいは新設する共同のシナリオ制作なのである。
これができたとき、同時に診察された患者の現在の症状や状態に診断というラベルが貼付される。
合理的にも非合理的にも、また納得的にも非納得的にもストーリーと現在の状態がプロセスとして説明されて、
そこから今後の対処法つまり治療方針が提示されるのであるが、その内容は新たなストーリーの延長上にあるのは当然である。
薬剤も処置もそうした治療方法のほんの一角を構成する物でしかないことも言うまでもない。
このとき患者は医師と作ったストーリーを受け入れることで、実は再度自身に対する調節者の地位を取り戻し、
自身が自身の医師に復権しようとしているのである。それも以前よりも一段水準の高い、あるいは地平の広がった立場である。
この新たなストーリーを承認し、それを自身のものとして採用し、操作調節マニュアルに取り入れることは、
ストーリーを拡大させるだけでなく、立体的にみればそこに医師を取り込み、自分が医師になることだから、
与えられた薬剤を使用もできるし、提示された処置をも受けられるのである。
つまり病院の医師を受け入れるとは自分がその立場に立っているという一瞬の転位も意味しているのである。
871 :
2/2:2009/11/30(月) 04:45:14 ID:OGNFfXwz
これを医師の立場からいえば、患者に対して医師は自分をストーリーと共に分与しているのである。
対処法がわかれば患者は特別に医師を必要とせずに自分で投薬なり処置なり自律的にできるはずである。
自分ができなくても家族にしてもらえるはずである。
しかし現実には「資格」「設備・機械・道具」「材料・薬剤」などを独占していることで医師は自分の社会的地位・役割を維持しているだけのことである。
実質的には、その「医学的専門知識」とその「適応法」を一度患者に付与してしまえば、もう医師は必要ないことになってしまう。
それが代償交換として診察料を受け取ることの本当の根拠であるのは、単に付与するのではなく、
新たな医師ソフトを患者の内にコピーしセットアップして、可動状態のストーリーとして機能開始させるることで説得力を持つものなのだ。
そして実はこのとき医師はさらに別の立場にシフトしているのである。
しかしながらこの一連のプロセスに無自覚な医師がそして患者が急増している。
患者は無意識でもまだ救済されうるが、医師がそうであるとき患者は不全な扱いを受けたために治療を十全に受けたことにならず、
もちろん治療は完了もせず、症状が偶然改善したとしても、そうでなければなおさら不満を増大させることとなる。
ここで起こっている事態は自分が自分の調節者としての立場に戻ることができなかったこと、
つまり新しいストーリーを作りえなかったことなのである。
治癒するも治癒しないも実はそれほど大きな問題ではない。
常に治療可能な疾患もそうでない疾患もあるのが現実であり、治療方法がないものほどストーリーが必要であるのだ。
医師は匙を投げてはならないのはあらゆる意味で当然である。
しかし現実は進行している。
新しい別次元の医師・病院ストーリーが既に作られてしまっている。
病院に行っても、待たされるだけ待たされて、ろくでもない医師のいいかげんな診察を手短に受けられるだけで、
訳の分からない検査を受けさせられ、やたら大量の薬剤を投与されるか、リスクの高い手術や処置をされるだけ、
へたをすると長期に入院させられ、ミスや事故にもあうことがあり、時には命をおとすこともある、
だから病院には近寄りたくない、でも我慢できないときは、少しでもましな医師、病院を探しまわって、
何軒か訪ね歩くことにならざるをえない・・・生まれてから死ぬまで医療で損なわれ続けるのだと。
恐らく医師や厚生省、保健所のおめでたいコマーシャルを鵜呑みにしている従順な人間は年々減少してずいぶんと少なくなってしまっただろう。
そういう人は幸せかもしれない。しかし砂上の楼閣はいつ崩れ去っても不思議でない。医療ミスは頻発している。そしてまともな対策はとられていない。
いつ巻き込まれるか、交通事故と同様、いやもっと恐ろしいものであるだろう。」
フロイトが転移について語ったことは、それ以外の医療の領域においてもひとしく有効である、
というのがドクター北之園のご意見のようでした。
ラカンはバカ映画の解釈のみならず医療の現場でも実効的であるようです。
苦しむ人に向けるもっとも効果的な慰藉の言葉は
「この苦しみはあなたの責任ではない」というものである。
説教は、「あなたの不幸の原因のかなりの部分はあなた自身が育み、肥大化させたものである」という前提から出発する。
「愛する」とういうのは「相手の努力で私が快適になる」ような人間関係のことではなく、
「私の努力で相手が快適になる」ような人間関係のことなのである。
ところがこれを逆にとっている人が多い。
「愛」が好きな人たちは、もっぱら「自分にとっては快楽であるが、相手にとっては迷惑なこと」を
選択的に相手にむかってする傾向にある。
そればかりか、その迷惑に相手が耐えることを「愛のあかし」などと呼ぶのである。
困ったものである。
真に知的な人は「自分の内部にはないもの」に対する感受性が発達している。
それは決して「他者性の倫理」とかそういうことごとしいものではなく、
たぶん出発点においては「自分が自分でしかないことに対するうんざりした気分」というようなものなのだろうけれど、
それがパンク・ロックから俳優稼業から文学にまで展開する過程で、とても深みのある思想になっている。
「場の親密性」を最優先する人間には迷いがない。
「節義」でも「忠君」でも「男女の愛」でも「師恩」でも、
私と(とりあえず一番近しい)誰かとの「あいだのつながり」が何よりも重要である、
と思い定めた人間は腰がふらつかない。
「忠たらんと欲すれば孝ならず」とか「義理と人情をはかりにかけりゃ」とか
「あちらを立てればこちらが立たず」とか、腰が決まらずにふらふらしていると、
「期間限定的」なオプションの場合は、時間切れゲームオーバーということになる。
若い男の子にとっての「おじさん」はそれほど気楽な存在ではない。
「おじさん」が権力的であれば、その権力性が、
「おじさん」が反権力的であれば、その反権力的ロマン主義が、
「おじさん」が非権力的であれば、その「逃げ足」の遣い方が、
それぞれつねに「規範的」に意識されるのである。
ここで「規範的に意識される」というのは、いろいろな意識のされ方がある。
いちばん単純なのは「そのどれかを選んでロールモデルにする」という仕方での規範化である。
(これは要するに「権力化する」のプロセスである。)
一回ひねりは「そのどれにも従ってはならない。自分のオリジナルな規範を形成しなければならない」
という規範化である。
(これは「ロマン派的反権力化」のプロセスである。)
一回半ひねりは「そのような規範を意識すること自体がよろしくない。おいら、そんなもん知らないよ」
という「見て見ぬ振り」的な規範化である。
(これは「非権力化」のプロセスである。)
お分かりのように、どのようにふるまっても、後続世代は先行する規範のいずれかに回収されてしまうのである。
私たちの世代はとても単純でおめでたかったので、「反権力的にふるまう」ことが
いずれ規範的で抑圧的に機能するというようなことを考えもしなかった。
大きくなって、そのことに気付き、「こりゃまずい」というので、
「さかしらな権力装置にずるずるすりよって、インサイダーとなって権力を『バカ化』する」「非権力的」スタンスを私は採用した。
とりあえず、「これでいこう」ということで安心して今日に至っているのである。
しかし、お若い方たちは、「はいそうですか」というわけにはゆかない。
非権力的なスタンスそのものが規範的に意識されれば、それはすぐに抑圧の装置として機能する。
「私はじゅうぶんに非権力的だろうか」という査定を通じて。
というわけで、オプションが出尽くした観のある時代で、
若い人はどんなふうにスタイルを選び取って行くのであろうか、
ということに私はちょっと興味があったのである。
誤解しないで欲しいが、私は「人間的に成熟している人間を採用せよ」と言っているのではない。
「人間的に成熟しているように『見える』人間を採用せよ」と言っているのである。
「人間的に成熟しているように見せる」のはまるごと知的で技術的な問題であり、
努力さえすれば誰にでもできる。
自分の意見をしっかりと述べることができ、他人の意見や感情をきちんと理解できる。
あるいは他人との「間合い」をちゃんと取れるというコミュニケーションの基礎が出来ていれば、
「人間的成熟」らしきものはオーラのごとくに発信されるものである。
人間は、どのようなプリンシプルに基づいて生きてもよい、と私は考えている。
そのプリンシプルが明快でありさえすれば、そのような人間は他者から見て「交渉可能」「統制可能」だからである。
みずからを他者に向けてあえて「統制可能態」として曝露すること、
それを私は「コミュニカティヴな態度」と呼ぶ。
そう言いたければ「愛」と呼んだって構わない。
「私って、ほら、こんなに分かりやすいでしょ?何考えてるかすぐ分かるし、
次に何をするか予測できるし。だからその気になれば好きなように引きずり回せるでしょ?」
というふうに他者に向けて我が身を「統制可能態」において差し出す人間を
私は社会性の高い人間である、と見なしている。
たとえばヤクザというのは、見るからにヤクザらしい格好をしている。
「私はヤクザですから、カタギのひとはあまりお近づきになったりしないようにご注意下さい」
というふうに危険信号を発信して、人々が回避行動をする余裕を与えつつ街角を徘徊する、
というのはかなりコミュニカティヴな態度である、と私は思う。
電通の営業マンみたいな格好のヤクザとか、大学の教師みたいな言葉遣いのヤクザがいたら、困る。
不用意に足を踏んだりする可能性が高くて、たいへんに危険である。
私たちは「自分のもちもの」に自我の理想を託している。
だから、自動車やバイクに傷をつけられると、わがことのように逆上するのである。
しかるに、私はそういうことにそろそろうんざりしてきた。
自我の拡大なんか止めよう、と思うようになったのである。
自我の拡大の最たるものは「子ども」であるが、私は育児の過程のどこかで、
「子どもは私の一部分であり、私の夢であり、未来である」という考え方を棄てた。
別に深い思索の末にそうなったのではない。
ある日、急に「あ、もうやめよう、そういうのは」と思ったのである。
自分以外の何かを所有し、所有したもので自我の存在証明をさせたり、
欲望充足を願ったりするのはもう止めよう、と思ったのである。
「だって、他人だし」
そうであれば、自動車やバイクだって当然「他人」である。
多少傷がいっても、「あら、お気の毒」とは思うけれど、
自分の身体がきしむような痛みを感じることはもうない。
不幸を構成するファクターには「何とかなるもの」と「どうにもならないもの」がある。
何とかなるものは何とかし、どうにもならないものはほおっておく。
すごく単純である。
避妊するな
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
人工授精で産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
UFOに拉致られて産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
処女懐胎で産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
産め
How could this happen to me
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How could this happen to me
How could this happen to me
How could this happen to me
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うめ
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うめ
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暇だな
暇すぎる
暇すぎて涙がでた
暇すぎて屁もでた
暇すぎたので出すものは出すことにした
暇すぎて普通の暇人がなにを考えているのか考えたがわからない
暇なのはよくないかな?
暇ってよくないよな、やっぱり
暇はダメだ
たぶん暇は時間がない人間のみが使える概念なんだな
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
あぁ暇充になりたい
だれか次スレお願いします
だれか次スレお願いします
だれか次スレお願いします
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暇つぶしができなくなるのでお願いします
今月から断酒することに決めた。
1001 :
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。