彼は義の人だから、きっと我々の事を優しく見守ってくれると思う。
オンベイシラマンダヤソワカ。
ちなみに謙信公の時代は宗教の垣根がはっきりしていなかったので、「オンベイ…」は真言だけど、菩提寺は曹洞宗になってます。
あと、キリシタン弾圧の時に、米沢藩はキリシタン迫害の命令を断っています。
ということで、特定の宗教のスレッドではありませんのであしからず。
戦国ファンは好きな武将拝んでいればいいと思うよ。
毘沙門天よ
3 :
優しい名無しさん:2009/07/02(木) 20:16:58 ID:QLfdZGab
もーほーだったんじゃないの?
>>3 正しくは衆道。
この時代は当たり前。ただし謙信公がやっていたか否かは確たる資料が残っていない。
5 :
優しい名無しさん:2009/07/04(土) 23:12:26 ID:E1qZ3xRj
家出事件の原因が欝だったって説あったような気がするよ
6 :
優しい名無しさん:2009/07/05(日) 20:37:08 ID:C49iU/ty
武田の…薬品
7 :
足軽:2009/07/05(日) 20:40:58 ID:P9/xHLVm
謙信様
自害する私を毘沙門天はお許しになるでしょうか
8 :
優しい名無しさん:2009/07/05(日) 20:46:43 ID:NtcHUl1Q
>>7 どんな形にせよ、努力して生き抜いて、寿命で死ねば、あの世で謙信公と毘沙門天が「よく頑張ったな」って迎え入れてくれると思うぜ。
俺もよくわからん状態で生きてるが、お互いどうにもならないくらいまであがいてみようぜ。
『死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり』
俺もあがいてみるぜ。最期まで死ぬ気で戦うさ。
11 :
雑賀孫市 ◆SAIKAONUH6 :2009/07/10(金) 02:18:54 ID:gcd333e+
>>10 よくぞ言ってくれた。
でもあまり無理はしないようにな。
俺はさっき謙信公の夢をみたぜ。試験勉強で疲れてるのかな。
12 :
優しい名無しさん:2009/07/10(金) 21:23:52 ID:A2Y/Brp/
力では人の心を変えることはできないby大河
謙信女人説もあるらしい
眉唾だけど
14 :
雑賀孫市 ◆SAIKAONUH6 :2009/07/12(日) 21:50:55 ID:M4K+6Tl1
>>12 今日伊達政宗に直江兼続が言ってたよな。
まあ、力で人を従わせるのは長期間は無理だと思うよ。中国の歴史見てるとわかるよね。
ところで、知り合いのコミュニティで議論が始まってるんだが…
ジェネリック医薬品って効かなくね?
効くって言ってる人、プラシーボ効果じゃなくて?
俺はジェネリック効かなくて先発優先で出してくれる病院に転院したんだが。
>>13 謙信公は身長が低い上に結婚してなかったからな。
女性説の記述とか読むと結構面白いよな。
上杉家は養子でつないでるような家だからな。
米沢の上杉博物館行くと面白いぜ。
16 :
優しい名無しさん:2009/07/13(月) 19:59:06 ID:yb6ya0G1
俺ののんでる薬はジェネリックでも手に入るが病院の方が速いから
>>16 ジェネリックやめたほうがいいぜ。
俺と俺の弟、ジェネリックの添加物(?)で蕁麻疹でたぜ。
ドラえもんもらってきたぜ。
19 :
優しい名無しさん:2009/07/26(日) 02:42:20 ID:wB8zYz/U
保守
20 :
優しい名無しさん:2009/07/26(日) 04:01:32 ID:mRrq9ujc
平景清さんは男の中の男
>>20 平景清が好きなのか。いい男だよな。
俺の中身は実は藤原氏なんだぜ。
今日レボトミン飲んだが効かねえ…orz
酒でも飲んで無理やり寝るか。
22 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 19:36:25 ID:tiSnIwe/
上杉謙信と田中角栄とどっちが新潟で人気かな
23 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 19:50:13 ID:Bs8Zmkyn
どうでもいいけど
BASARAとかで武将萌してる頭沸いてる女子どうにかなんないのか?
ジェネリックてやっぱり悪いのかな?
通ってる薬局が
ジェネリックは取り扱いしてませんて張り紙してた。
新潟の人いますか
謙信公 昨日毘沙門天を拝んで参りました
私の罪をお許しになるでしょうか
26 :
雑賀孫市 ◆SAIKAONUH6 :2009/08/03(月) 20:14:07 ID:mZ5ZfJDg
>>22 今月新潟に旅行行くので、現地の人に聞いてみる。
ちなみに謙信公祭り。
>>23 確かにBASARA厨ほどうざいものはない。
あんなのかすがのオパーオ見るためだけに存在するもんだろ。
無双もアレだが、無双のほうが遥かにマシ。
ジェネリックは体質に合えば安くていいんだろうけど、俺は効かない上に副作用で苦しむので先発オンリー。
誰か新潟の人、
>>24さんにレスしてあげなYO
>>25 どんな罪かはわからんけど、謙信公は義の人。
本気で悩み苦しんでいる人を見捨てたりはしないよ。
オンベイシラマンダヤソワカ。
>>25さんに毘沙門天の加護のあらんことを。
スカイプというもので家出少女が助けを求めてきたのでござる
親から精神的な虐待を受けて家を飛び出してしまったそうでござる
自業自得とも思いつつも、自分が頼りにされていると思うと目が見えないでござるよ…
もしも、まことに非道な親の元にいたというのなれば、助けてやりたいのでござるが…
>>28 その問題は難しいね…
俺だったら、一旦自分のところでかくまって、女性センターとかそういうところに相談するように連れて行くぜ〜。
市役所やいのちの電話に相談すると、無料で相談できる施設(男女推進企画室など)を紹介してくれるので、その子がシェルターなどに保護してもらえるよう取り計らうのがいいと思うんだぜ。
>>29 すでにどこぞの男の家に匿われているようでござる
もちろん、その男も下手をすれば罪人になってしまうでござる
日本という国はどこかおかしくなっている気がするでござる
31 :
優しい名無しさん:2009/08/03(月) 20:25:36 ID:Bs8Zmkyn
>>26 今更何故にBASARAて感じなんだが……
真田祭りとかのBASARA厨やばすぎだろ
どうか謙信祭りには沸きませんように…大河ドラマでGacktがしちゃったから更に心配だ
ジェネリックやめたら手の湿疹が収まったのはやはり副作用だったんだろうか?
>>24 越後おるぞ〜
んーじゅーねん前よりの謙信公ファン、BASARAもGacktも眼中に無いわ!
御実城様、拙者、欝で医者にかかっており申したが、ついでに発達障害だったことも知り申した…
日々バイトに向かいつつも、弱気が出て混乱することもしばしば…
それでも明日もバイトに向かう所存でござる。面談もあるのでござる。勇気をお授けくだされ!
>>30 そうなのか…
その男が変な奴じゃなければいいんだがな…
こんにちの日ノ本は小泉が引っかき回したのもあって滅茶苦茶だ。
日ノ本の秩序を謙信公に正してほしい今日この頃。
>>31 あれだぜ、アニメ始まったのもあるんだぜ、きっと。
俺も祈るような気持ちだよ…謙信公まつりと米沢上杉まつりにはBASARA厨わきませんようにって。
それはジェネリックの添加物に反応してたんじゃまいか?
>>32 発達障害なら、俺も広汎性の気があるって言われたけど、パソコンの資格次々に取得してるぜ。
お互い頑張ろうな。
面談って緊張するよな。
無理しないでリラックスしてくれだぜ。
34 :
優しい名無しさん:2009/08/04(火) 19:38:06 ID:eZx9yyXE
あげ
仏を見れば仏を斬り
鬼を見れば鬼を斬る
自由な前田慶次様が大好きだ
36 :
優しい名無しさん:2009/08/06(木) 19:56:53 ID:eqso8vcg
越後の龍か。股間の龍もよろしくな
37 :
優しい名無しさん:2009/08/06(木) 22:59:56 ID:MbTPcngi
謙信かあ…ガキの頃から一番好きな武将だわ
38 :
優しい名無しさん:2009/08/07(金) 11:37:34 ID:g7cuP2da
毘沙門天が守ってくれるかな、俺達でも。
39 :
優しい名無しさん:2009/08/08(土) 23:28:06 ID:Sf247+n2
のりぴータイーホ記念あげ
謙信さまーーーーーー
戦するなら謙信公のような
敵も情けに泣くような
そうだそうだそうだその意気だ、その心意気♪
42 :
優しい名無しさん:2009/08/09(日) 00:28:44 ID:0w3mbSBz
ここまでの書き込みした人全員に謙信公の加護のあらんことを。
43 :
優しい名無しさん:2009/08/09(日) 19:00:26 ID:T9J819P3
オーナイス、ナイス、謙信と信玄のアナル舐め合戦。先にイッた方が負け
44 :
優しい名無しさん:2009/08/11(火) 22:08:25 ID:ZKfdqzIN
信玄「わし、テクニシャンかのう?な〜んちゃって」
謙信さま、病気なおして
46 :
優しい名無しさん:2009/08/12(水) 22:43:39 ID:y4coF8Bz
ボダから逃げ切れますように。
嫌がらせが止まりますように。
47 :
マイナス:2009/08/12(水) 22:47:14 ID:Oqp1kK+z
新潟です
斎藤様
鬱を
49 :
優しい名無しさん:2009/08/12(水) 22:51:42 ID:g1deUvSn
鬱から脱却したい
そういえば
戦国武将がご利益あるって本当に信仰されてるって話きいたことある。
強い戦国武将は「戦で城を落とす」から「おとす」を「産み落とす」にかけて安産のご利益があるってさ。
謙信公はワンシーズンどっぷりと雲が低く立ち込める灰色の冬の越後から、たやすく峠を越えて青空輝く太平洋側へ
毎年遠征した武将だぜ。となると欝を乗り越えるご利益、けっこうあるかもしれん。
皆にも青空が見えるといいな。
51 :
優しい名無しさん:2009/08/14(金) 20:50:24 ID:PgWJS11W
52 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/08/14(金) 20:56:32 ID:mDonZHrE
謙信公!!
金 貸 し て ! !
53 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/08/14(金) 21:03:05 ID:mDonZHrE
真に「義」と「愛」の心を持つ武人は今村均将軍だと思う
55 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/08/14(金) 21:19:39 ID:mDonZHrE
今村将軍!
貴方は本当に聖将です!
男の中の男です
>>50 とても良い言葉をありがとう。全俺が泣いた。
>>52 ちょwwwwww
謙信公って金銭欲ないお方だしwwwwww
どうせたかるなら政宗公あたりにしといたら?w
金持ってそうじゃんw
57 :
優しい名無しさん:2009/08/18(火) 16:21:10 ID:dGnzzQcF
あげとく
58 :
優しい名無しさん:2009/08/19(水) 20:51:02 ID:ezccB46f
手取川で織田軍に勝ったな
59 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/08/19(水) 21:58:29 ID:oGqzvJMl
多重債務に陥るだけやと思うで(´・ω・`)
60 :
優しい名無しさん:2009/08/21(金) 02:29:18 ID:pXZFA0yT
自己愛+ボダ
自己愛+糖質
ボダ+糖質
さて、どれが一番厄介でしょーか
謙信公なら
「北国育ちゆえ歯の根は丈夫じゃ。何でも来るがいい!」
とかスパッと言いそうな気もするのでござる…
『甲越軍記』だったと思うのでござるが、今手元に無くて自信が無いでござる。
62 :
優しい名無しさん:2009/08/23(日) 17:14:37 ID:+Eqc45Xp
謙信公、男色家説に興味ござる。男と男で舐め舐めプレイも良おござる
謙信「兼続、存分にしゃぶるがよい。」
兼続「はにっ…ご立派すぎてお口に入りまふぇん」
柿崎「兼続、見ておれ。こうするのじゃ。んぐんぐ」
謙信「んむっ…景家の口はいつもながらすごいな」
こうですか?わかりません><
64 :
優しい名無しさん:2009/08/27(木) 19:32:07 ID:6MpFJXiF
謙信公、鬱のパニックどうにかして〜
65 :
優しい名無しさん:2009/08/27(木) 22:47:33 ID:i3Y9squL
打つ打つ打つ。鬱を打つのがこつじゃ
66 :
優しい名無しさん:2009/08/28(金) 23:03:37 ID:myyaga8f
伊勢姫や絶姫との悲恋は創作なんだろ?
母親と姉が立派だったから俗世の女に愛想がつきたって説もあるけど…
やっぱり同性愛者だったのかな?
何にせよ、上杉謙信は割と好きな武将だ
67 :
優しい名無しさん:2009/08/29(土) 00:39:58 ID:WH8MB/DR
ただ単に坊さんになりたかっただけでは。
68 :
優しい名無しさん:2009/08/29(土) 18:16:51 ID:3q0mKRMe
甲斐の武田が怒っているべ
69 :
優しい名無しさん:2009/09/02(水) 10:27:37 ID:qJKA+haa
仙台医療センターで、診察で一時間も話して、他の患者から文句言われて自殺したアホがいるようだな。
病院も患者同士のトラブルはどうにかしてやれよ。
70 :
優しい名無しさん:2009/09/06(日) 20:46:20 ID:pdlBxr7X
謙信公はアル依存では
71 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/09/06(日) 20:58:29 ID:7DmYB5p9
>>56 (有)長尾金融
アル依存の金融屋の社長
何が「義」やねん
カネがあるから領土にこだわらんかっただけやんけ
関東管領もカネで買ったんだしさ
対して、武田信玄公はどうだい。
新規獲得とした領土は先ず直轄領にして民を撫育して徹底して武田カラーに染め上げてから、
そうやって勲功ある家来に褒美としてくれてやる。
親方から借金漬けにされて追い回されていた越後の諸将が哀れでならんわ。
特に甘粕景継、川中島の退陣で殿軍にされて放置プレイ、まあ借金返済のために何とか切り抜けたけどね
そりゃ謙信が死んだら揚北衆も氾濫するわな
72 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/09/06(日) 21:02:51 ID:7DmYB5p9
そもそもこのオッサン、初陣からして極道としての根性すわっとる
初陣から篭城戦で時に14歳 明日城が陥落となると死ぬを覚悟したのか
城中の酒を集めて家来と派手に飲み会やってた
73 :
銅バエ ◆7yYWfU0kcc :2009/09/06(日) 21:23:11 ID:7DmYB5p9
今村均将軍こそ、男の中の男にして、仁愛に溢れた聖将
上杉謙信みたいなちゃちな戦争ヲタクなんかよりも素晴らしい、人としてもリーダーとしても
今村均将軍万歳
敗戦後、日本共和国となった場合は初代大統領は今村均将軍で決定
74 :
優しい名無しさん:2009/09/07(月) 03:41:17 ID:oXLvry/b
ダメだこの人…まだ戦争やっとる…
謙信公は素晴らしいよ。
私利私欲に走らないし、養子も領民も大事にしてたしな。
謙信公嫌いならこのスレ来なければいい話。
実際私は謙信公に救われた。
今もせっせと林泉寺に墓参りに行ってる。
75 :
雑賀孫市 ◆SAIKAONUH6 :2009/09/10(木) 23:13:28 ID:nJDrMTtQ
米沢上杉まつりに兵卒として参加できることが決まったぜ!!
しかも念願の上杉軍。
これから台本が送られてくるらしい。
まあ…一般兵卒だから活躍の場は少ないけどなwwwww
76 :
優しい名無しさん:2009/09/17(木) 19:48:18 ID:oSZXpXBl
日本人はチャンバラ好きだな
まあ、もののふの子孫だからな。
鬱だかなんだかわからない病気気味の母親が、うちは上杉家の家臣だったと言って聞かない。
しかしあまり知識がなくて家紋とかを見てもよくわからない。
どうにか否定してやりたいが、苗字と家紋でわかるものなのだろうか。
ああ、鬱だ
79 :
優しい名無しさん:2009/09/21(月) 17:52:28 ID:ahMhXm2h
仮にそれが本当だとしても四百年前の過去の栄光を引きずるのおかしいよ
>>78 米沢に本物の上杉家の人いるから、判断してもらえばいいんじゃないかな。
家臣だったんならその人と連絡つけられるでしょう。
>>79 そうなんだよね。
俺なんか元を突き詰めれば中臣鎌足に行きつくらしいんだけど(家系図ある)、別に鎌足が偉いんであって俺は唯の1メンヘラだし。
むしろハンデあるし。
81 :
78:2009/09/22(火) 22:06:43 ID:6H9bcxud
>>79 >>80 なんだかスレチくさいのに親切にレスをありがとう。
連絡をつけるまで大きな事にするのもなんだからあまり気にしないでおくようにする。
少し頭が冷えたよ。母親の言葉は聞き流しておく。
初心者なので拙くて申し訳ない。とにかくありがとう。
82 :
優しい名無しさん:2009/09/28(月) 23:46:11 ID:eBTRWpGY
戦国時代って日本の二千年の中でも一番ドラマチックな時代だよな
スレタイ吹いた
辛いのがちょっとなごんだ
謙信さま謙信さま
ご加護がありますように
85 :
優しい名無しさん:2009/09/30(水) 13:47:46 ID:48qm18Ru
戦国ロマン
…とかいうお菓子ありそうだよな
謙信公
どうか天地人で、兼続公や上杉家を悪く描いた黒幕に、天罰を加えてやって下さい
(-人-)ナム
ID:A9WggbAQ [sage]
〔訂正〕
謙信公
自分も含めて、世の中が良くなりますように。
お願いします。
よろしくお願いします。
(-人-)ナム
皆様、お邪魔しました。
88 :
優しい名無しさん:2009/09/30(水) 23:33:39 ID:Gl0XnvwO
謙信が大将自ら刀で切りあいしたってのは本当なんかもな
謙信様
くるしくて涙が出ます、でも耐えて生きてます
どうか見守ってて下さい お願いします
謙信公
見守って下さい
なんとか頑張りますから
正しい道にお導き下さい
>88
格好いいね
大将が自ら戦陣きるなんて
このスレに書き込んだ人の病気がよくなりますようにって、米沢の上杉神社に定期的にお参りしてきている。
マジでよくなるといいな。
絵馬にも書いてきた。
>>92 スレ立てだけでも感謝してます、ありがとう。
米沢に今は行けないので、いつかお参りに行きたいと思ってたけど、
だから本当に嬉しい。
でも、無理はしないでね。
私も行けるようになったら、みんなが良くなるように絵馬書きたい。
>92
スレ立て有り難うございます
米沢の人ですか?
優しいですね
>93の人も優しい
(つ_;)
今後ともよろしく!
95 :
優しい名無しさん:2009/10/05(月) 19:43:49 ID:cxkBQryS
大河を見ていたが百二十万石が三十万石に減らされたな。家康もワルよのう
ほとんど家康の言い掛かりだったよね
謙信様 ( ; 人 ; )
なんか、ほんとに勝手になんだけど、
高い所から見守っていてもらえてる(と思えてる)っていうのは、
こんなにも心強いものだと思わなかった
宗教を持つ人々の強さっていうやつなのか…
自分は元々確たる宗教は持ってないけど、
ほんとにニワカだし勝手なんだけど、
このスレ見て、なんだか謙信公は見守っていてくれる気がして、
必要な少しの勇気が出る、泣ける
こんな気持ちにしてくれる人みんなに感謝。(以上チラ裏
98 :
優しい名無しさん:2009/10/14(水) 10:14:16 ID:g87G32/u
打倒家康
最後の一兵になろうとも
断固戦う所存である!
99 :
優しい名無しさん:2009/10/16(金) 06:47:45 ID:/puFVQ36
長州は徳川をやったな。
100 :
優しい名無しさん:2009/10/16(金) 08:40:06 ID:rvd1LhvR
100!
>>70でも言ってるように
上杉謙信は明らかにアルコール依存症。
メンヘラの一種だな。
まあ、メンヘラの神様ということでいいのか・・・
それでもいいお(ヽ´ω`)
103 :
優しい名無しさん:2009/10/17(土) 01:55:45 ID:F1U1DQCh
謙信様、歴史祭りに出てくるどこでも政宗をなんとかしてください(切実)
104 :
優しい名無しさん:2009/10/17(土) 02:47:30 ID:d4kBoRY6
石井慧は元気にしてるのかな?
105 :
優しい名無しさん:2009/10/17(土) 07:33:49 ID:F1U1DQCh
誰その石井って
煩悩を絶っていたらしいし酒しか楽しみがなかったんでしょうね。
107 :
優しい名無しさん:2009/10/18(日) 17:17:01 ID:BnJYTRv+
四十九年一睡の夢
そして時々、琵琶を弾く
109 :
優しい名無しさん:2009/10/20(火) 16:42:34 ID:JmY/d5cn
>103
同意!
天地人にも出シャバって
早く消えろ!
余計、うつになった…
110 :
優しい名無しさん:2009/10/21(水) 18:08:19 ID:Wuk/oRW1
アメちゃんの爆弾が強くても我ら刀で切りあった者の子孫。日の本を守ろうぞ、たとえメンヘラであれ
助けて下さい
112 :
優しい名無しさん:2009/10/22(木) 19:58:17 ID:SEJDI8Hg
横暴なさまのすけに天罰が下りますように
オンベイシラマンダヤソワカ
救って下さい
114 :
優しい名無しさん:2009/10/23(金) 15:38:52 ID:xNdVa+cy
左馬政宗うぜー
マジもう歴史祭りに来るなよ
あのバサラみたいな陣羽織りキモイんだよ
あ、あと離婚おめでとう。
元気が出ますように
116 :
優しい名無しさん:2009/10/24(土) 21:39:29 ID:fjUWrr4N
それがしの股間は槍の又左衛門でござる。こよいは寝かざずに子作りでござる。
117 :
優しい名無しさん:2009/10/25(日) 20:58:08 ID:FVgVYhur
謙信の供養とうが高野山にあるんだな
謙信公だから高野山に供養塔があるのかな?
とにかく この苦しみから助けて下さい。
自分ではどうして良いか分かりません!
助けて下さいナム
頑張りますので力を御貸し下さい
オンベイシラマンダヤソワカ(-人-)
121 :
優しい名無しさん:2009/10/31(土) 20:27:16 ID:hjDaL0oU
戦国時代の日本人は身長が159センチぐらいしかなかったのにかっこよく描かれている。肉を食わねえからでかくならねえんだよ
>>121 そんな事無いよー
イノシシとか食べてたらしい
特に武士は干し肉を携帯食にしてたらしいしね
>徳川家康=鎧推定156- 160 cm。上杉謙信=鎧推定約156 cm。山本五十六=159 cm。伊達政宗=遺骨推算159.4 cm。井伊直弼=162 cm。
ってwikiにあるけど、みんなこのくらいだったみたいだね。
仙台市博物館で、俺が政宗の甲冑着るとちょうどいいくらいだと思った記憶があるからそんなもんでない?
政宗なんか遺骨あるし、はっきりしてる。
一般人はワカラン。ごめんよ。
あと、どうでもいい情報。
家康は麦ごはん、信長は焼きみそ、謙信公は梅干しが好物。
今度梅干しの甕持って林泉寺に行っていいか電話で聞いてみるw
>123
ちなみに武田信玄は154~156pしか身長がなかったと聞いた事がある。
けど低身長でも、みな凄い力だなぁ〜
現代人は貧弱かな?
こうしてみると、
前田利家や直江兼続は長身だね、180pを越えてたって。
食事は意外と、皆さん粗食だったんだね。
謙信公の梅干しは酒のツマミだね、これは(苦笑)
やっぱ死因は脳卒中か〜
上杉神社へは、梅干しとお酒もセットでお供えすると激喜びを謙信公はしてくれるかも(笑)
[お祈り]昨日はなんとか頑張れました。謙信公のお陰だと思います。有り難うございましたm(__)m
今日も頑張れますように。
ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン(-人-)
126 :
優しい名無しさん:2009/11/01(日) 20:01:04 ID:3Vi0/no4
たとえチビ民族でも日本のルーツ。勇ましいのう
武士だった人の人工って
そんなに多いの?
128 :
優しい名無しさん:2009/11/03(火) 16:44:18 ID:PbKyfccD
そうか。ほとんど農民なんだな。でも戦国は勇ましい
129 :
クゼ・ヒデオ ◆7yYWfU0kcc :2009/11/03(火) 17:35:00 ID:ho1Hwupg
カネ貸してーーーーーーーーー謙信公
つ¥1000
そういや謙信小判ってのあったよね。円形の小判みたいな金貨。
ググっても画像なかった。
戦国時代って銀のイメージがあるけど
謙信小判って金なのかな
戦国時代の金の小判って
見てみたいな
133 :
優しい名無しさん:2009/11/05(木) 17:56:53 ID:ZKc82Yos
ジョージアの上杉謙信を飲んだ。武将の気持ちだ
(^o^)/エイ エイ オ〜!
賢くなれますように。
南無釈迦無尼仏
うちは真言宗だよ。
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん(-人-)
HDに保存してた画像が出てきました。謙信公自筆の祈願文です。
すばらしい筆運びです。内容も含蓄があります。正座して拝見しましょう。
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org340217.jpg ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org340223.jpg 内容:
武田晴信悪行の事 (たけ田はるのふあくきやうの事)
一、飯綱、戸隠、小菅怠転、仏供灯明をそなえざること。
一、塚原陣のとき駿河の扱いをもって無事神慮をおどろかし、
誓詞をもって申しあわせ、翌日ひるがえすこと。
一、信州において寺社神領俗方に出し、仏法破滅のこと。
一、武田よしみなきところに、隣州隣郡へ望みをかけ無道の扱いゆえ、
敵味方とも堂舎仏堂焼失のこと。これ武田晴信あやまちゆえの事。
一、信州の仏神氏子あるいは滅亡、あるいは牢道乞食に及ぶ候ところ、
今般仏力を添えられざるにおいては、誰か神慮を尊ぶべきやのこと。
一、すでに直の親武田信虎国を追いだし、牢道乞食に及ばせ孝儀を失う
こと、これ仏神の内証に叶うべからざること。
一、当秋中、武田晴信退治、輝虎本望を達するにおいては、本社神領堂社
前々のごとく心の及ぶ通りあい稼ぎ申しつくべきものなり。
よってくだんの如し。
永禄七年甲子六月二十四日
上杉輝虎 花押
御看経所
仏前
>137
読ませて貰いましたが
文の内容が…
純情過ぎる(--;)
本当にお坊さんみたいだ
感動して良いのかな?(^^;
(^人^)ナム
>140
自分の機種じゃ見れなかったけど、とにかく
謙信公が素晴らしいのは分かったよ
(-人-)ナムナム
難しいのでだいたいですが、要約すると、
関東への出兵は関東管領の名分があり、理にかなった事である。
越中は神保と椎名が争っているが、先代からの申し合せで長尾から椎名に養子を
入れる事になってる。
輝虎は他国の領土を侵すような事はしていない。
寺社を保護し領地を与え、修理や建立も行っているが、武田晴信、伊勢氏康を退治したなら、
さらに寺社を保護するようにします。
いかなることも神慮の外は頼らず非分なことはしませんので、大願成就よろしくおながいします。
「武田晴信伊勢氏康退治」。。。('o')ノ
北条とすら言わずに、旧い伊勢氏ですませている。。
抜けてた、
信州へは村上、小笠原、須田、高梨などの信州の武将を助けるためです。
武田晴信は輝虎の領土の西上野にもちょっかい出しています。
川中島でも犠牲者が出ました。非道な戦いではありません。
きやもしなる若衆数多あつめ候て、大酒まてにて、度々夜をあかし申し候、
少弼ハ若もし数奇のよし
いいなあ、誘ってくれないかな
145 :
優しい名無しさん:2009/11/14(土) 18:38:02 ID:mGROxS4W
謙信公、強いずら。新潟の大将
乃ち書を信長に遺りて曰く、「信玄既に死す。公則ち四郎を家康に委ねて、自ら安土に居るは、
蓋し謙信に備うるならん。公、数々畿内の敵と楽戦す。未だ北人の技量を観ざるのみ。
請う、明春三月十五日を期し、聊か八州の卒を挙りて西上し、公と相曰く見ん。公、謙信を
視ること、皮履の都人士と同じうする勿れ」と。
信長、使者を延見して、言いて曰く、
「吾が為めに還りて越後公に報ぜよ。信長何ぞ敢て公と角せんや。公来らば、将に尽く刀剣を
脱し、独だ扇を腰に挿み、単騎迎謁し、先導して以て都に入らんとす。公は義人なり。
信長の辛苦して経営する所、必ず奪われじ」と。使者復命す。
謙信晒いて曰く、「信長は姦雄なり。甘言以て我を怠らすのみ。聞く、長篠の役に、渠、柵と
銃とを以て、甲斐の四郎を困しむと。明年、復た必ず此を以て我に擬せん。我れ宣にその計に
堕ちんや」と。
(頼山陽「日本外史」
ttp://8.health-life.net/~susa26/zakkityo/nihongaisi/no11/no1.htm)
おいらも強くなれますように(-人-)
147 :
優しい名無しさん:2009/11/15(日) 20:36:50 ID:o+fLDo/7
妻夫木聡の直江役はどうか。二枚目過ぎて武将に合っていない
>>147 俺はあの真田幸村のほうがどうかと思ったが。
このBASARA政宗の声の幻聴、どうにかならんものか。
せっせと謙信公にお祈りするかな。
…上杉景勝の心意気
(*^^*)
引き続き、頼山陽 の「日本外史」読んでます。
上杉氏、事を作すに率ね信義に杖る。是れ其の独り存して今に至る所以なり。
あやかりたいあやかりたい(-人-)
…現代訳語が分からない(^^;ゞ
146
謙信は手紙を信長に送った。
その手紙は以下のようなものであった。
信玄は既に死んだ。信長が勝頼対策をを家康に任せて自分は安土城にいるのは、さだめし
謙信に備えての事であろう。信長は関西の弱い兵と戦って楽勝だったでしょう。
それはまだ越後の兵の技量を観ていないからだ。来年の春三月十五日に領土から兵を集めて
西に向かい、あなた信長と一戦交えようと思うのでよろしく。謙信を革靴を履いてるような
軟弱な都の人々といっしょに考えてはいけませんよ。
信長は手紙を持って来た使者に以下のように言った。
帰ったら信長のために謙信に言って欲しい。信長がどうして謙信と戦う事があるであろうか。
謙信が来たなら、刀をたずさえずにただ扇のみを腰に挟んで、たった一騎でお迎えし、
道案内をして都にお連れしましょう。謙信公は義の人です。信長が苦労して得た領地を
取り上げるような事はしないでしょう。
使者が帰ってこの旨を告げた。謙信は以下のように言った。
信長は姦雄である。甘い言葉をいって私の武備を怠らせるのだろう。聞くところでは、
長篠の戦いで堀と柵と鉄砲を使って甲斐の勝頼を苦しめたそうだ。来年私が行ったなら、
同じ手段で応戦してくるであろう。私がそんな計略にはかかる事はない。
日本外史は現代語訳がまだ出ていないんだよね。これから出るみたいだけど。
自分で訳してみた。
上杉(謙信の上杉氏)氏は本姓は長尾氏で、平良文の子孫である。良文の十代後を景政という。
鎌倉に居住し、権五郎と称した。武勇で東国に有名であった。大庭氏、梶原氏は皆、
この景政から出ている。景政の五代後を景弘という。この時始めて長尾氏と称した。
長尾氏は跡継ぎが途絶え、上杉藤景を養子として後継者にした。藤景は本性は藤原氏
である。藤原重房は宗尊親王に従って東国に行った。丹波の上杉邑を領地としたので、
これを姓にした。子孫は足利氏の外戚であり、東国の管領となった。藤景はその曾孫に
あたる庶子である。後に上杉氏に従った。(一族は?)越後上野伊豆の諸国に住んだ。
藤景から十二代の後を為景という。為景は上杉房能を越後で輔佐した。後に、ある
問題が起こって互いに反発し、兵を挙げて戦った。房能は雨溝で死んでしまった。
これは永正三年(1509)年の事である。
房能の兄の顕定が管領となった。永正六年(1509)に顕定は子の憲総と上野の兵を
率いて越後を攻め、為景を討伐した。為景は敗れて、越中の西浜へと逃げた。
顕定は越後に留まって統治したが、越後の民は顕定に服さなかった。高梨某を
将として越後から去ってしまい、為景のところへ行ってしまった。
永正七年(1510)、為景は高梨と兵を合わせて、憲総を椎屋に攻撃してこれを破った。
憲総は逃げて妻有荘にこもった。為景らは続いてここを包囲した。顕定がこれを
助けるために来たが、長森で戦って戦死してしまった。憲総は敗走し、上野に
帰った。為景はそこで上杉氏の庶子である定実を立てて、自分の娘を嫁がせ、
上条城に定実を置いて主とした。地震は越中の府内に居住し、越後の全てを支配下に
置いた。長尾氏はこの時始めて大きな勢力となった。
天文十一年(1542)に加賀で一向一揆が起こり、越中の豪族の椎名泰種、神保良衡は
兵をあげて為景に叛いた。為景は自らこれを討伐し、栴檀野に至った。反乱側の江波
某は偽って降参し、落とし穴を道に作って為景を迎えて、穴へ落として殺した。
為景には四人の男子があった。長男を晴景、次は景康、次は景房、末子を景虎といった。
景虎は幼名は虎千代といい、後妻の子である。景虎が八歳になると、精桿で勇気と知恵が
あった。為景はこの子を愛さなかった。景虎を橡尾へ追いやり、僧にしようとした。
景虎は僧の修行をすることを受け入れなかった。為景が死んでから、多くの家臣は景虎に
心を寄せた。しかしながら、重臣の昭田常陸は、為景の頃から気に入られて権力を持っ
ており、晴景の凡庸で暗愚な事をかえって好都合な事としていた。昭田常陸は子の黒田
秀忠、金津某の二人と三条城主の長尾俊景とで事をはかり、晴景を後継者にし景康らを
殺そうとした。景房は逃亡しようとしたが、城内で殺された。
景虎はこの時十三歳であったが、同じく逃走した。門番が景虎を腰掛けの下にかくまった。
夜になってから、景虎を見てみると熟睡していた。声をかけて起こして、密かに逃がした。
景虎は春日山寺に入った。寺の僧は景虎を連れて、橡尾へ逃れて、乳母の夫である本荘
慶秀の家にかくまった。慶秀は宇佐美定行と心をつくして保護した。定行は上杉氏代々の
家臣である。本を好んで読み天文や兵法に通じていた。景虎を助けるべきと考え、両者は
深く結びついた。
やっと13歳になって、宇佐美と出会いました。
気力があれば続きます。邪魔ならやめるので言ってね(^^)ノ
そして景虎は謀反人が自分を捜索しているのを聞いて、橡尾を出て捜索を避けた。従う者
十四人と同じく、諸国を旅歩く僧の格好をして、足に皮の覆いを付けわらじを履いて出立
した。米山に登って越後府内を眺め、「私が将来兵を起こして領地を回復する時には、
必ずここに陣をはろう」と言った。そして栴檀野に至って、泣いてひざまずいて言った。
「私は必ずかたきを殲滅して、父の魂を慰めよう」。このようにして、北陸道、東山道の
諸国を巡って、山川、城や堀の状態を見て調べ、図に写して帰った。
謀反人に景虎の所在を告げるものがあって、兵を派遣して捕らえようとした。景虎は
慶秀、定行と計画して、挙兵して橡尾城を修復して立てこもり、上杉定実の命令を仰いだ。
天文十三年(1544)春に、俊景と秀忠は兵を率いて攻めて来た。景虎はこれを防いで戦って、
大いに勝利を収め、俊景を斬って秀忠を敗走させた。
天文十四年(1545)、神余昌綱を京都に派遣して、謀反人を討伐する朝廷の命令を求めた。
天文十五年(1546)、謀反人が度々攻めて来た。景虎は戦うたびにこれに打ち勝った。
天文十六年(1547)に晴景は一族の政景を派遣して、大挙して攻めて来た。定行が城を
出て戦おうとした。景虎は城に登って敵を眺めて言った。「敵は遠くから来るのに、輸送
部隊を連れていない。長い期間留まってはいないだろう。敵が引き上げるところを待って、
追撃すれば勝利が得られるだろう」。夜中にやはり政景は退却した。景虎は城門をあけて
三千騎で出撃し、下浜で戦って敗走させ、米山へと到着した。景虎は、一旦行軍を止め、
敵が山の峰を過ぎる頃に兵を叱咤して追撃して、また大いに敵を撃破した。定行は、
諸将に問いを発した。「諸君、主君が一旦行軍を止めた理由を知っているか」。諸将は
「知りません」と言った。定行は以下のように言った。「敵が険しいところに迫った時に
急に攻撃すれば返り討ちをしてくるだろう。敵が山の峰を過ぎるのを待って、高所から
地形の利点を利用して下って攻撃すれば、敵はこの攻撃を防ぐ事はできない。我らが
御主君は年少であるけれども、機会を的確にとらえて戦闘を勝利させることは、まさに
このようである。我らの考えが及ぶところではない」。こうして政景は降参し、晴景は
追いつめられて自殺した。天文十八年(1549)、国人衆は景虎が越後府内に来る事を願い
出て来た。しかし、昭田らは、なお三条にこもって降参しなかった。天文十九年(1550)に
景虎は三条を攻撃して陥落させ、昭田を誅殺した。謀反人は、残兵で新山と黒滝の二城を
保持していた。これを攻撃しようとしたが、上杉定実の死去があり果たさなかった。
天文二十年(1551)、将として高梨貞頼を派遣して攻撃し、新山を陥落させ黒田秀忠を誅殺し
た。宇佐美定行は黒滝を陥落させ、金津を誅殺した。このようにして越後全土が平定された。
天文二十一年(1552)、越後の武将たちは皆で景虎を主君としようとした。景虎は以下の
ように言った。「私は越後守護の上杉氏と越後の武将たちの意向によって兄と戦った。
思いもよらないことだが兄は自殺してしまった。このような状況で私が越後の領主と
なったなら、世間は私を兄から主権を奪ったと言うであろう。現在、越後国内はおおむね
平定された。私以外の主君を選ぶべきである。私はここを離れて僧となって、自分の
こころざしを明らかにしようと思う」。ついに頭髪を剃って、僧としての名前を謙信と
した。そして高野山に行こうとした。武将たちは連名で署名し、謙信が越後に留まって
国を治めてもらうことを要請した。謙信は次のように言った。「主君を置くのは、命令を
発してそれが行われるためである。命令がちゃんと行われないようなら、主君など
いらないだろう。今からは私が命令する事に背かないのであれば、あえて留まって主君と
なるだろう」。そして武将たちと誓約して越後に入った。明くる日、命令を出して、
主君の命令をほしいままにしている家臣十六人を捕らえ、林泉寺で切腹させた。武将たちは
足の股に鳥肌が立った。
五月、弾正少弼に任命され、従五位下の位階に叙せられた。謙信は「居ながらにして官位を
受けるというのは、人として朝廷の臣下として義の道にそむくものである」と言った。
天文二十二年(1553)に他国を通行する手配をし、兵士二千を率いて北陸道を経由して京都に
入った。最初に朝廷に参内し、次に将軍義輝の謁見を受けた。五月に越後に帰った。
159 :
優しい名無しさん:2009/11/20(金) 20:07:15 ID:KzMRGFad
謙信もロッキード事件にかんでたって話しだな。
村上義清は、高梨政頼、須田親満、島津規久らと信濃から来て越後に身を寄せた。謙信に面会を
願い出て以下のように言った。「我々は、武田信玄に領地を侵略され、もはや身を寄せる所が
無くなってしまった。はっきりとではないが謙信公の武威の明らかなことを聞いている。
どうか一度でも信玄を攻撃して、我々を救援してほしい」。謙信は以下のように言った。
「あなたがたは、他人の配下となるような人たちでは無い。しかしながら、越後まで来て
私に依頼すると言うのは、私の人となりを知っているのだ。私は、おおむね越後の内乱を
平定した。考えるに、加賀と越中は私の父のかたきである。まずはこの二国を打ち負かして、
その後に我が軍旗を京都に立てたいと思っている。これが私の本来の志である。しかしながら
私の人となりを知って依頼して来る人に会っては、そのために自分の力を出さないのでは
立派な男子とは言えない」。さらに義清に質問して言った。「信玄の用兵はどのようで
あるか」。義清は「信玄の軍事行動は、侵攻する距離をいたずらにかせいだりせずに、
戦ってからの後の事を重要に考えて、そのことを勝利としている」。謙信は以下のように
言った。「信玄が、戦ってから後のことを重要と考えてそれを勝利としているのは、
土地を占領して自分のものにしようと考えているからだ。私はそのようなことはしない。
敵と遭遇したならば、即座に戦闘を行う。攻撃の手は決してゆるめないということだ(??)」。
そして、領国内に軍令を出して、十月十二日に小田浜に兵を集結させた。八千騎を率いて
信濃へ進軍し、武田の城へ火を放った。十一月一日に、さらに進軍して河中島に陣を置いた。
訳は適当にやってたりするのであんまり信用しないように(^^)
>153-160
レスありがとうございます。
これらの話は みんな本当の事なんでしょう?
すごい!事実は小説より奇なり!
謙信公は救世主だ!
イエス・キリストや仏陀のようだ。
謙信公に帰依してしまいそうだ(-人-)ナムナム
>>161 内容的には、江戸時代の歴史事実の認識で書かれているようです。
ですので、現代の研究結果と比較すると個々の事実で差異がある
ようですね。
とはいえ、日本の歴史の本としては古来最も読まれた本ですよ。
>162
レス有り難うございます。
「日本外史」って日本最古の歴史書で江戸時代に書かれたものなんですね(頼山楊という人が書いた本?)。
本当に勉強になりました。
重ねてお礼を言います。
それにしても謙信公は、噂にたがわぬ聖将・義将・優秀な武将ですね。
しかし、wiKiを始め、類似の質問の解答コーナーでは、上杉家の義と愛は嘘だ、とか
正反対のデマが書かれていたりする事が度々あり、心を痛めています。
自分で直したくても、諸事情のせいで書き直しや 自分の解答が載せられません。
一体、自分がどうやって対応して行けば良いか分かりません。
他の上杉ファンの人達は、どうしているのかなぁ、と思っています。
スレ違いのレスですいません。最近、悩んでいるので、書き込みしてしまいました。
失礼しました。
信玄はこのことを聞いて今川氏に援軍を要請し、自分は二万騎を率いて雨宮渡に進軍し、
山本晴幸ら四人に越後側の軍の様子を調べさせた。帰って来て信玄に報告して言った。
「越後軍の士気は高いです。信玄公は軍隊を集結させ、越後軍とは戦闘せずにこちらに有利な
ように終結するようにすべきです」。信玄はこれに従った。両軍は川をはさんで対峙した。
謙信は戦を挑んだが、信玄は出て戦わなかった。両軍がにらみあって二十七日が経過した。
謙信は信玄に使者を派遣してこう言った。「私は、信玄公が軍事行動を行う時、その
進軍する先で軍をとどめることは無いと聞いている。それなのに、どうして私とだけは
決戦しようとしないのか。私は信玄公に対して何のうらみも仇も無い。ただ、義清たちの
ために行動しているだけである。あえて信玄公に質問しよう。どんな理由があって、
義清たち信濃の武将たちの領地を奪うのか。信玄公が私と戦うことを望まないのであれば、
すぐに奪った土地を彼らに返せ。土地を返すことを望まないのであれば、すぐに私と戦え」。
信玄が答えて言った。「謙信公が義清をかばうのは、まことに志し高い義の行為と思う。
しかしながら、信玄が生きているうちは、そのこころざしを達成することはできないだろう。
謙信公が戦おうと望むのであれば、まずはそちらから始めてほしい」。謙信は「承知した」
と言った。そして両軍が話し合って、早朝に戦闘を行おうと約束した。その夜、伝令を
派遣して、七部隊を合わせて円陣を組ませ、明け方に橋を渡って進軍した。信玄は、十四
隊の騎馬隊で迎えて戦い、午前六時から午後二時頃まで橋のところで互いに戦闘したが、
勝敗は決しなかった。謙信は兵を分けて川の上流を渡って、甲斐の軍の後方に出た。
甲斐の軍はこれを見て退却した。横田源助、板垣三郎たちと、駿河からの援軍の七人の
武将はみな戦死した。そして越後の兵も死傷者が多かった。兵を撤収して越後へ帰った。
このことより前のことだが、謙信はたびたび越中に兵を派遣したが、討伐するという目的を
達成することができなかった。この年に、能登の国主である畠山義則を説得して降伏させ、
姉と結婚させ、弟の義春を養子として養った。弥五郎といった。実際は人質としたのである。
この頃に、領地とする佐渡、庄内、会津に賊が蜂起した。兵を派遣して討伐した。
天文二十三年(1554)五月に信玄は桔梗原で小笠原長時と戦って勝利した。長時は結局京都に
落ちのびた。
信玄は、娘を北条氏康の嫁とした。そして長男義信には今川義元の娘をめとった。これで
北条と今川はお互いに武田に協力して謙信の勢力を防ぐことになった。しかし、信濃の
(武田にとって)外様の武将である楽巌寺、布下、和田らはひそかに謙信に通じていた。
謙信は兵を清野に派遣して鼠子駅に火を放った。楽巌寺、布下、和田らは謙信と通じていた
ことが露見し殺されると聞いて帰った(越後に??)。
>>163 もうはるかに昔の事なので、本当の真実は誰にも分からないのではないでしょうか。
誰しも、いいところもあれば悪いところもありますよね。
関東で北条と戦っていた頃に謙信に協力していた太田資正は後年、謙信公は10のうちの
8が大賢人。2が大悪人と言っています^^;
勇猛、無欲で慈悲があるのがいいところ。怒るとめちゃくちゃするのが悪いところだと
言っていたように思います。この文章でも後から出てきますが、関東ではけっこう
武将たちがあきれるような事もしたりします。その分を差し引いてもじゅうぶん義将と
思いますし、義将は捏造といわれたとしても、そもそも義将に仮託されるだけのじゅう
ぶんな事績がなければ義将に列せられる事もなかったでしょう^^
日本外史は頼山陽が入手できた情報を元に個人で編集したものなので、現在の歴史事実の
認識とは異なるところがあります。例えば、一向一揆との戦いで死んだのは謙信の祖父の
話ではないかとか、兄の晴景は自殺ではなくて隠居させられていていたとか。。etc.
宇佐美定行も正しくは宇佐美定満ですしね。
頼山陽は”べんせいしゅくしゅく”の詩でご存じの人で、能筆家にして名文家の一人でしょう。
読んでいると頼山陽個人の思い入れが感じられるようで私は好きです。
>165
レス有り難うございます。
>「誰しも短所はあるし…」
実はそういうレベルではなくて、悪意のあるデマレベルなので…ここ近年、増えている感じです。
とにかく、いろいろ教えてくれて有り難う。
>「これから関東で…」
あまり知るに耐えない事だったら怖いな(^^;
お手柔らかにお願いしますm(__)m
(そういう所は飛ばしてもいいです(笑))
八月に謙信はまた八千騎を率いて信濃に進軍した。謙信は以下のように言った。「私の
今回の行軍は、必ず自分自身で信玄と戦い、雌雄を決するだろう」。進軍して犀川を
渡って陣を置いた。その時は満月を過ぎた頃で、信玄は、兵士二万人を率いて出立して
謙信に対峙して、陣地を固く守って出撃しなかった。戦いの合間の日に、謙信は村上義清らと
夜間に伏兵を置き、そして明け方に芝刈りの者を出して甲斐の陣地に近付けさせた。甲斐の
兵士は陣地を出てこの者を追いかけたので、伏兵の計略に陥って皆死んだ。両軍から
部隊が出撃して激しく戦闘を行った。一日中に十七回もの戦闘を行った。ついに勝敗があった。
信玄はひそかに命令を下して、犀川を横切るように大きな綱を張って、幟や旗を伏せて、
葦原を通って謙信直属の部隊を襲撃した。直属部隊は崩壊した。信玄は勝利の勢いに乗って
さらに進撃した。宇佐美定行らは、配下の兵士に側面から信玄の部隊を攻撃させて撃破し、
川へ追い落とした。信玄は数十騎と逃走した。一人の騎馬武者があった。黄襖留馬(??)、
白い布で顔を覆い、太刀を抜いて信玄のもとに近付いて来て言った。「信玄、どこにいるか」。
信玄は馬を躍動させて川を渡り、今にも逃れようとした。騎馬武者もまた川を渡って、
ののしって言った。「青二才め、ここにいたか」。刀を振りおろして信玄に斬りつけた。
信玄は刀を抜く暇がなく、手に持っていた軍配で攻撃を防いだ。軍配が折れてしまった。
また斬りつけて、肩を切った。甲斐軍の武将の原大隅は、槍で騎馬武者の馬を突いたが
当たらなかった。槍を振りおろして馬を打ち付けた。馬の首に槍が当たった。馬は驚いて、
跳ね上がって川に入った。信玄はやっと逃れた。武田信繁は信玄があやういことを聞いて
部隊を返し、騎兵を呼び寄せて戦いを求め、越後軍と戦って戦死した。この日の戦闘では
両軍の死傷者ははなはだしく多かった。そして信玄は傷をおってしまったので、夜間に
兵士を撤収させて退却した。戦闘の後に越後軍の捕虜を得た。その捕虜が言うには「 さきの
騎馬武者はまさしく謙信です」とのことであった。
弘治元年(1555)、信玄は木曾義高を攻撃して降伏させ、木曾と自分の娘を結婚させた。
弘治二年(1556)、信玄は伊奈郡を占領した。この段階で信濃全土を平定した。高坂昌宣に
貝津城を守らせて、謙信に対する備えとした。謙信は武田の第一の強敵であるので、武将
たちは昌宣の今度の配置を栄誉なこととしてほめたたえた。
三月、信玄、謙信は再び河中で対峙した。信玄は山本晴幸らと軍略を相談して言った。
「私は兵を分けて迂回して越後軍の後方に回らせて、陣太鼓を鳴らして士気を上げて迫ら
せて、そして本隊と共同で挟み撃ちにすれば、必ず勝利をおさめるととができるだろう」。
ただちに信濃の外様武将である保科弾正らに、兵士六千を率いらせて夜に戸神山を越えさ
せた。その夜は月明かりが無く闇夜であったので、迷って道を見失ってしまい、越後軍の
後方に行き着くことができなかった。謙信は甲斐の軍が夜間に飯を炊いて人や馬の声が
するのを見ると、ひそかに起きて鎧を付けて軍令を伝え、八千騎を率いて出撃した。
五鼓(??)、信玄の本陣に到達した。たまたまその時霧が深かった。謙信は霧の中からいきなり
本陣に切り入ってきた。本陣の兵士は驚いて崩壊した。山本晴幸らの大将を斬った。
そして天気が晴れてきた。保科弾正らの武将は上杉の陣に到達したが、からであった。
振り返って河中の戦闘の音が雷のように鳴り響いているのを聞いて、ただちに戻り、筑摩川を
渡って越後軍の後方に出た。甲斐の軍はこれを望み見て、兵を返して越後軍を挟み撃ちに
した。越後軍は敗走した。これを追撃して犀川に迫ったが、越後軍は反転してきて戦い、
追撃していた兵を取り囲んで、ただちに皆殺しにしようとした。甲斐の後から駆け付けた
兵が側面から攻撃して、この危機を救った。越後軍は反転して退却した。宇佐美定行は旗を
渡口に立てて守備し、退却を助けた。甲斐の兵は疲労しており、再び追撃することは
なかった。
八月、謙信は再び河中に出撃した。村上義清にもとの戦場に陣を置かせて、自分はさらに
進撃して川を渡り、背水の陣をかまえた。信玄は謙信のこころざしが必死であることを
知って、あえて出て戦うことはなかった。斥候が報告して言った。「越後軍は、山の
ように薪を積み上げています」。信玄は武将たちに命令して言った。「敵中に火の手が
あがっても、よく慎んで進撃してはならない。進撃する者は罰する」。日暮れになって、
再び斥候が報告して言った。「越後軍は陣を払って荷物をにない、ちょうど退却しよう
としています」。武将たちは先を争って、追撃しようと要請した。信玄が言った。
「謙信はどうして日暮れになって陣を払うような者であろうか。これを攻撃したなら、
必ず敗北する」。その夜に、越後軍に火の手があがった。甲斐の軍は動かなかった。
明けてから望み見れば、越後軍は、行首を疏し(??)、陣の守りを固くして待ち受けていた。
武将たちは納得して信玄にしたがった。信玄は山に伏兵を置いて、いつわって敗れて
敵をさそって山に入れて、高所から見下ろして矢を射て越後軍を殲滅しようと考えた。
ただちに夜に伏兵を置いて、明けてから馬を放って越後軍に入れ、身分の低い兵士に
馬を追いかけさせた。謙信は出撃しなかった。信玄は兵士の滞陣期間が長くなって
何かあってはいけないと思い、夜にまぎれて撤退し、上野原に入った。謙信は軍を
向かわせて追撃した。信玄は引き返して応戦した。両軍の死傷者は同程度であった。
両軍とも兵を撤収して帰還した。
甲斐と越後とは度々争って勝敗が付かず、両国の住民はこのことを心配して、皆で
和議を結ばせようと願った。今川義元が和議を行うためにながだちとなった。謙信は
ちょうど関東と越中に事変が起ころうとしていたので、ここにおいて和議が成立した。
永禄元年(1558)三月、謙信は自ら兵を率いて越中に進軍した。越中と加賀の武将たちは
次々と降伏を願い出て来たが、これを許した。
171 :
優しい名無しさん:2009/11/23(月) 20:08:43 ID:KpoZDxbm
上杉先生、ホモっぽい肖像画ぜよ、武田とガチホモで仲直りしてくれ
これより前のことだが、上杉憲政は度々北条氏康と戦った。戦うごとに敗れ、関東はことご
とく氏康の勢力下になってしまった。憲政は助けを請おうとした。この年の秋、憲政は
逃走して越後に入り、謙信に面会を求め、謙信に向かってこう言った。「我が上杉氏が
関東の八州を統治して治めてきたのは、私までで十二代である。しかし氏康一人のために
覆されてしまった。近隣諸国に氏康に報復するべき人を求めていた。これに適任なのは、
謙信公と晴信がいるだけである。しかし晴信は氏康と親しい。このことから、私は昔の
うらみを捨てて謙信公に依頼する。謙信公よ、私のために十分に仇を討ってくれ」。
謙信がこういった。「どうして全力を尽くさないことがありましょうか」。ちょうどこの頃、
謙信はまだ信濃の回復を達成していなかったし、加賀と越中も謙信に服属していなかった。
それなのに憲政の依頼を承諾したのは、関東の回復を承諾することによって、父為景が
上杉氏に対して行った悪行を覆い隠そうとしたのである。そして北川に館を建てて、
憲政を居住させた。憲政は謙信と養子縁組をして親子となった。謙信はこうして上杉氏を
称した。また憲政は管領職をゆずった。謙信はこれを固辞して言った。「関東討伐を
達成してからお受けしても、遅いわけではありません」。そして武将たちと相談しあい、
人を派遣して北条氏の様子を探らせた。氏康は戦闘を行うたびに奇計を用いると聞いて、
「彼が奇計を用いるのなら、私は正攻法を用いよう」と言った。
十月、謙信は兵を率いて上野に入り、厩橋、沼田などの五城を陥落させ、平井城をもとの
ように回復して、ここを拠点とした。京都に使者を派遣して、関東討伐のことを報告した。
また、摂関家の公卿のどなたかを関東の主君として、鎌倉幕府で北条氏が執権として政権を
輔佐したように統治を行いたいということを願い出た。
永禄二年(1559)四月、謙信は再び京都に入り、坂本に駐屯した。五月一日に朝廷に参内し
主上より酒をたまわり、宝剣を下賜された。主上はこれを五虎と名付けられた。前の関白の
近衛前嗣の関東への派遣を願い出た。許可された。さらに将軍に拝謁した。将軍は謙信を
関東の管領とし、斯波・細川・畠山の三管領家に次ぐ身分とし、塗輿に乗ることと朱色の
棹の旗を使用することを許可した。将軍は自分の名前の一文字を与え、輝虎と名を改めた。
永禄三年(1560)五月、謙信は自ら兵を率いて和田城を攻めた。まだ陥落しなかった。
長尾政景を派遣して武蔵に侵攻させた。九月に前嗣が関東に来て、至徳寺に逗留した。
この時、謙信は二万の騎兵を出発させて、泉福寺に陣を置いた。北条氏康が大挙して来襲し、
これを防いだ。本荘繁長は手勢を率いて先鋒となり、敵と接近して戦闘した。相模の兵は
退いた。越後軍の諸隊は引き続いて進軍した。謙信は直属部隊を率いて中程を進み、氏康と
戦って大いに勝利した。関東の豪傑たちはこれに従った。そして勝利を越後に報告し、
憲政を迎えて厩橋の城に滞在させ、自身は戦場の最前線にいた。
永禄四年(1961)、関東の諸将は厩橋城に正月の祝いに来た。兵を派遣して古河を攻めて、
関宿、川越の諸城を陥落させた。三月、謙信は七十六人の武将を率いて、兵力はおよそ
十一万で、相模へと進撃した。太田三楽、小幡憲重らが軍の前面におり、高麗山のふもとに
旗を立てた。北条氏は決死隊を派遣して、謙信を狙撃させた。謙信はこれに気が付いて捕ら
えたが、放免して帰した。謙信はついに小田原を包囲した。氏康は出て戦わなかった。
謙信は兜を脱いで白布で頭を覆い(??)、白馬にまたがって朱色の棹の軍旗をかかげ、馬を
走らせて諸隊に入って軍事を指揮した。関東の武将たちは、ひそかに指差して語り合って
言った。「謙信公が我々を見るのは、まるで虫けらを見るようである。どうして今後とも
盟主として仰ぐことができるだろうか」。
ちょうどこの時、信玄は軽井沢にいた。飯富兵部は信玄に述べて言った。「謙信の勢いは
まさにこのようです。北条氏が滅んだならば、だたちに我々も危機に陥ります。信玄公は
小田原がまだ陥落しないうちに、兵を率いて三増嶺に進軍して、ただちに越後軍の本隊を
攻撃すべきです。勝利を得たなら非常に良いことです。たとえ勝てなくても、この軍事行動で
天下に義を明らかにすることができます」。信玄が言った。「それは行うべきでは無い。
謙信が兵を迅速に用いるのは、これは天賦の才能である。しかしながら老練なはかりごとは
無い。関東の武将たちは、きっと耐えられなくなって、結局、氏康に帰順するにちがいない。
おぬしはこうなるまでしばらく待て」。
宇佐美定行は謙信に述べて言った。「城の守りは堅固です。我々が深入りして長期間駐屯すれば、
おそらく(越後に?)異変が起こるかもしれません。ぜひとも今の段階で兵を収めるべきです」。
謙信はこれに従った。氏康はあえて追撃しなかった。そして謙信は鎌倉に入り、鶴岡八幡宮に
参詣して、源氏と北条氏の旧領の跡を見た。鎌倉政権ゆかりの小八葉車を探し出し、前嗣をこれに
載せて自分は騎馬で従った。関東の武将が前後を護衛して、小幡憲村が太刀を持って従った。
千葉国胤、小山政朝が家格が最も高かったので、席次を争って決着がつかなかった。謙信に
訴え出た。謙信は判断を下して言った。「千葉氏は関東の八州にある武将の首位にあり、小山氏は
関東の八州にある武将の下であるものではない」。二人は争うことができなかった。忍城主の
成田長泰は、源頼義の故事と称して、鶴岡八幡宮の前に馬上のまま待った。謙信の兵士が長泰を
馬からひきずりおろして、こぶしで殴った。長泰は恥をかいたので怒り、軍から抜けて帰って
しまった。諸将に謙信にそむいて帰る者があいついだ。謙信は退却して武蔵府に至った。長泰は
北条氏の兵と謙信を追撃した。謙信は物資を積んだ車を道に放置させた。敵は争って物資を
奪った。そして敵を敗って進み、平井に入った。四月、憲政を伴って越後に帰った。
六月、関東の諸将は再び氏康の側について、平井を攻めて来た。謙信は知らせを聞いて、ただちに
出発し、軍をひそかに進めて、稜師谷から出て、明くる日北条氏を攻撃した。前方の兵の戦いが
なかばとなるのを待って、自ら精鋭を率いて北条の本隊の側面を攻撃し、別働隊を迂回させて
北条軍の後方に向かわせた。氏康は敗走した。白井、厩橋の諸城を回復して越後に帰った。
謙信が小田原を攻めた時、北条氏は使者を出して信玄に要請し、北方の越後を攻撃させて越後軍を
退却させた。信玄は高坂昌宣に彊上(??)を放火し略奪させた。謙信は大いに怒った。八月に
再び信濃に出て、西条山に陣を置いた。水をせきとめて池を作り、貝津の敵に備えた。信玄は
義信と二万の騎兵を率いて来襲し、雨宮渡に陣を置くことによって越後軍の退路を断った。
越後の武将たちは謙信を説いて言った。「速戦にこそ利があります」。謙信は承諾せず三日間
その地に居座ったが、信玄は兵士を撤収して貝津に入り、謙信が帰るのをうかがった。謙信は
動揺せずそのまま落ち着いていた。信玄ははかりごとを仕掛けようとこう言った。「謙信は
きっと我々に異変が起こるのを待って、自分の軍を動かさないのだ。私は、河中に伏兵を置いて、
そのうえで別軍を貝津から直接侵攻させて西条を攻めれば、謙信は勝敗にかかわらず兵を撤収して
北へ帰るに違いない。そのとき我々が敵を攻撃すれば(?)、謙信を捕らえることができよう」。
越後の間者が報告して言った。「甲斐の軍は、貝津を出て南へ向かっております」。謙信は
諸将を呼んで、はかりごとを問うた。直江実綱は言った。「敵は国内に異変があって、そのために
夜にまぎれて退却するのでしょう。まさにこれは迎え撃つべきです」。宇佐美定行と斎藤朝信は
言った。「そうではないでしょう。敵はきっと兵を二つに分けて、我々が河を越えたところで、
挟み撃ちにしようとしているのです」。その言葉がおわらないうちに、再び間者が報告して
言った。「甲斐の軍は、広瀬を渡って河中に上って陣をおいています」。謙信は二人に言った。
「おまえたちのいうとおりだ。私はその考えていたのと違う方法を用いてみよう(??)」。
そして擬兵を山上に置き、馬に枚をかませて舌を縛り、雨宮渡をわたった。武田の斥候十七人に
会った。これを全て斬った。
さらに進んで信玄の軍を圧するように陣を置いた。本荘繁長、色部
長実らに二千騎を率いて筑摩河の渡し場に陣をはらせた。甲斐の別軍はすでに西条山に向かった。
信玄はその知らせを待って、明け方になった。明け方になったが、まだ人などを識別できるよう
ではなかった。謙信の軍旗が軍の真正面にあるのを見て、甲斐の武将や兵士は意外な事態に顔色を
失った。越後の軍は陣太鼓を鳴らして進み、その声は大地が震えるようであった。信玄は陣替えを
する暇がなかった。弓矢や鉄砲で攻撃して防いだ。謙信は常に、以前に信玄を斬った時に打ち取れ
なかったのを強く心残りに感じていたので、今回は必ず打ち取ろうと思い、自ら精鋭を率いて、
信玄の本陣にせまった。信玄の本陣は崩壊して犀川へ逃走した。荒川伊豆はこれにせまって信玄を
攻撃した。信玄は脱して敗走した。謙信はこれを追った。義信は二千騎で謙信の後方を追撃した。
甘糟景茂らは攻撃して義信を敗走させた。謙信はすでに勝利した。戦闘を停止して、食事にする
ことを軍に伝達した。義信は再び残兵を率いて返ってきて、越後軍を敗った。越後の武将の志田
義時以下の数十人を斬った。謙信は槍を持って、自分自身戦った。本荘繁長らが来て、この危機を
救い、再び攻撃して義信を敗走させた。ある人は以下のように言った。「貝津の敵は、夜に
出発して我が軍が疲労するのを攻撃の好機として利用した。ただちに兵を撤収すべきである」。
謙信は承諾しなかった。犀川を背にして陣をはり。善光寺に三日間駐屯し、使者を信玄に遣わして、
再び決戦しようとした。甲斐の武将たちもそのように進言するもがあった。信玄はこれを聞かな
かった。
178 :
優しい名無しさん:2009/11/26(木) 19:59:54 ID:iqZ+zOnG
上杉がどうした。米沢の牛はいいけどな
永禄五年(1562)三月、北条氏康は信玄に要請し、共同で松山を攻めた。松山は太田三楽の属城で
ある。三楽は長尾謙忠と厩橋にいた。上杉憲政の庶子である憲勝に城を守らせた。事態が緊急で
あることを謙信に報告した。甲斐の武将の甘利氏の家臣に米倉丹後というものがいた。竹を束ねて
楯として、それで銃弾を防いだ。他の部隊もこれにならった。ついに松山を陥落させて、憲勝を
降伏させた。そして謙信がちょうど厩橋に至って、三楽に目を見開いて怒り、刀を押さえてひざを
ついてこう言った。「おまえは、臆病者に城を守らせて、私に救援できないようにした。これは
私の武勇をはずかしめるものである。私はお前と死のう。」三楽は這いつくばって、どうする
こともできなかった。そして松山の食料と武器の管理者(??)と憲政の人質の子の二人を差し出した。
謙信は左手で二人の髪をつかんで、右手で二人を斬った。刀をおさめてまた問うて言った。
「敵軍はどれくらいだ。」三楽が言った。「五万人です。」謙信が言った。「指揮官はだれか。」
三楽が言った。「信玄、義信、氏康、氏政です。」謙信は笑って言った。「私の敵となるのは
二人だけだ。氏政、義信のようなものは、刀のみねで一撃すればじゅうぶんだ。そもそも、
このあたりに攻撃すべきような敵の城はあるか。」三楽が言った。「私市城があります。ここ
から十里くらいの距離です。」謙信が言った。「攻めるべきである。」ただちに自分が兵を率いて
赴いて攻撃した。三楽はこれに従った。船をつなげて橋として利根川を渡った。すでに渡り終えて
から、船をこわした。信玄と氏康の軍の前を通って、使者を遣わしてこう言わせた。「お二人は
松山を攻めた。しかし私は救援することができなかった。私はこれを深く恥じている。だから
このままでは帰らない。今から私市におもむいて攻撃する。お二人には良いようにとりはかって
ほしい。」信玄と氏康は答えなかった。そして城に到着し、四方から一斉に登って、一昼夜で
陥落させ、城の武将の小田朝真を斬って、三千人をみなごろしにして、志田春義に代わりに城を
守らせた。謙信は使者を信玄と氏康に遣わしてこう言った。「私は城を陥落させて帰る。しかし
なおもう一戦しよう。お二人はその意志があるか。」甲斐の軍は陣太鼓を鳴らして士気をあげた。
謙信は兜を脱いで馬から降りて、ゆっくり進んで帰った。厩橋に至って、長尾謙忠を呼び出して
こう言った。「三楽は私にしたがった。なぜお前はしたがわないのだ。」刀を抜いて、謙忠を
斬って、その部下二千人を殺した。北荘丹後を代わりとして守らせ、越後へ帰った。
飯富兵部って山縣昌景ですか?
ってググレカスですね すみません
>>180 アニキの虎昌です。
ちなみに三楽は資正ですね。
本荘も本庄と書くのが多いかな。北荘丹後は北条高広でしょうね。
原文のままにしてます。
このあたり、謙信は斬りまくってますけど、この後に塩を送る話とか、
信玄死後の武田との関係や、信長への挑戦状も出てくるので、
ファンの方はだいじょうぶですよ。
兼続公を変な人に描かれて、落ち込んでる自分が来ました
謙信公の良い話で、癒されに来ました
追記
↑天地人でって事です。
どうぞ謙信公の話を、続けて書いて下さい。
氏康が信玄に問うて言った。「信玄公はなぜ戦わないのです。」信玄が言った。「私と氏康公が
1人謙信を敵としたなら、勝ったとしても恥ずべきことでしょう。」信玄はゆったりと落ち着いて
氏康と語った。そして氏康に問うて言った。「川越の戦いの時には、氏康公は自分の軍だけで、
山内、扇谷の両上杉氏に勝利した。願えることなら、その戦の詳細をお聞きしたい。」氏康は
言った。「信玄公がおられるというのに、私があえて言うことがありましょうか。」信玄は
強く頼んで言った。「私の子供に聞かせたいと思うのです。」そして氏康はその戦略を語った。
信玄は、それはよろしいと言った。自分の陣営に帰ってから、馬場信房に話して言った。
「私は氏康の戦いの手段を得たぞ。」
永禄六年(1563)、信玄は兵を上野に出して、蓑輪、松枝の諸城を取った。また飛騨を侵略し、
その豪族の江間常陸を降伏させた。そして、白谷氏は謙信によしみを通じた。謙信はここにおいて
信玄と飛騨を分割して領有した。謙信は自ら兵を率いて越中に入り、松倉、小出を攻略し、
かつて父為景を殺した者である、江波氏を捕らえた。その一族十六人を含めて、ことごとく
誅殺した。首を栴檀野に晒して、為景の魂を祭って報告した。
この年に、謙信は上野に入り、伊勢崎を取った。四月には下総に入り臼井を攻めて、北条氏の
援軍と戦って敗走させた。
これより先の事であるが、常陸の小田氏治は謙信に属していた、しかしすでに北条氏に内通して
いた。謙信は怒った。永禄七年(1564)正月一日に、雪を踏み越えて、越後を出発して常陸に
入り、小田城を攻めて陥落させた。二月に上野の佐野冒綱を攻めた。五月に氏康が救援に
来た。これを迎え撃って敗走させ、冒綱を降伏させた。足利氏の使者が来て、朝廷の勅旨を伝えて、
上杉、武田、北条の三家に諭して、和平を講じて兵を休ませた。
八月、謙信は自ら信濃の武田との境界を視察した。信玄もまた出てきて、陣を対した。両家の
武将たちはそれぞれその主君に対して言った。「御主君よ、信州河中島四郡のために強敵と
戦うことがもうすでに十二年です。多くの武将や兵士を失いました。これはただ近隣を利する
だけです。行ってはなりません。」二人はこれをもっともなことだとして、各々一人の力士を
選んで闘わせ、勝った方が河中島を取ると約束した。上杉氏の力士が闘って勝った。信玄は
貝津城の一城のみを取り、その他はすべて謙信に属した。謙信は村上義清、高梨政頼らをもとへ
戻して、その旧領土の所有を認めた。謙信は春日山にお堂を建てて、不識庵と名付けた。すべての
戦死した武将や兵士の位牌を安置して、自らこれをとむらった。
これより前のことであるが、謙信は長尾政景に上田を守らせて、信玄に備えていた。すでに政景を
いまわしく思っていた。政景が謀反をたくらんでいると報告する者がいた。ただちにさまざまな
親書を集めて、ひそかに政景を誅殺しようと相談した。宇佐美定行がいさめて言った。「政景の
謀反の罪状はまだ明らかではありません。これを誅殺したならば、おそらく騒乱が起こるでしょう。
上田の要害が武田に付き、御主君が姉の夫を殺す汚名をおってしまうでしょう。」謙信は
聞かなかった。定行に政景の始末を企てさせた。そして定行は、その領地の野尻に帰って、政景を
招いて湖の魚を観た。水の漏る船で政景を迎えて乗せ、政景をつかまえて一緒に溺死した。
「個人的なうらみで殺した。」と宣言した。そして定行の領地を没収して、ひそかにその子に
与え、政景の子の景勝を養子とした。代わりに鉄安朝に上田を守らせた。
河中島の戦いの時、謙信が武田義信に襲われて敗れた時、「私は子供にやられてしまった。(??)」と
言った。本荘繁長と長尾藤景はこれを救い助けた功績があった。また、このことをひそかに笑って
いた。謙信はこのことをにくんで、藤景を誅殺した。繁長は自分が危ないと思い、謀反を起こして
自分の領地に立てこもった。兵を派遣してこれを攻撃させた。柵を作って囲んで守ったが、数年で
降伏した。
義信は勇敢にしてよく戦い、武将たちは心をよせていた。信玄はこれをいまわしく思っていた。
義信が自分にならっているのを恐れたのである。勝頼は庶子であったが、ひそかに嫡男の地位を
奪う考えがあった。そして飯富兵部の弟の昌景とくわだてて、「義信は、兵部に兵を起こさせて、
信玄にそむく(??)」と人に偽りの報告をさせた。昌景はこのことのあかしをたてた。信玄は義信を
とりこにし、一族をことごとく誅殺し、兵部を切腹させ、兵部の兵を昌景に所属させ、氏を
山県と改めた。ついに義信を自殺させ、義信の妻を駿河に帰した。今川氏は始めて武田氏を憎んだ。
武田氏はもう上杉氏のことを考えずに、その兵を西に出した。
当初は信玄、謙信ともに京都を制圧しようと望んでいた。しかしながら、互いに兵を戦わせて
膠着していた。まだ上洛ができるだけの時間がなかった。謙信が二度目に京都に入ったとき、
三好長慶の権力がまさに盛んであった。家臣の松永久秀は政治をほしいままにしていた。その
家来は道で謙信に会っても挨拶もしなかった。謙信は部下に命じてこれを斬らせた。このことから
ひそかに将軍義輝に申し上げて、長慶と久秀を除こうと進言した。義輝は決心することは
できなかったけれども、心中ではこれに依頼した。久秀らはこれを聞いてすこぶる恐れた。
永禄八年(1565)、義輝は密かに使いを送って謙信を召し出した。久秀らはおおいに恐れて、
そのことがまだ実行されないうちに、思いきったことを行おうとして、ついに義輝を弑殺した。
義輝の弟の義昭は近江に逃れた。
永禄九年(1566)、義昭は親書を送り、謙信に幕府の復興を託してきた。話し合いは、なかなか
まとまらなかった。義昭は織田信長にたより美濃へ行った。信長は義昭を擁して京都に入り、
近畿を平定し、にわかに強大となった。かえりみて謙信、信玄が背後をねらうことを恐れた(??)。
また、自分が二人の敵ではないことをさとると、意を傾けて信玄と結んで、謙信とは結ばなかった。
使者が甲斐に頻繁に行った(??)。信玄はその意図を知って、ややもすれば約定をやぶって、兵を
西に向けようとした。信長はこれを憂いた。そしてその末子である秀勝を送って人質とし、娘を
勝頼にめあわせた。信勝を生んだ。義信が死んだので、信勝を嫡子とした。そして勝頼はこれを
護った。信勝の母が死んだ。信長はまた、その子の信忠のために信玄の娘をめとろうと願い出た。
信玄は織田家と婚姻して、ついに今川氏と絶縁した。
これより前のことであるが、今川義元は信長と戦って戦死した。その子の氏真は暗弱で、こびる
のがうまい家臣の三浦義鎮にまつりごとを任せた。国人は服さなかった。徳川公はかつて今川氏に
属していた。しかし離れて織田氏に属した。兵力は日増しに強力となった。この時、信虎はまだ
存命であった。信濃で流寓していた。信虎が人を派遣していった。「駿河は乱れている。まさに
徳川氏が領有することになってしまうだろう。おまえはまずこれを取ってしまえ。」信玄は
答えなかった。
信玄の国は海に面していなかった。塩を東海にたよっていた。氏真は北条氏康とはかって、
ひそかに塩を止めた。甲斐はたいへんに苦しんだ。謙信はこれを聞いて、書簡を信玄に
送って言った。「聞くところによれば、氏康と氏真は塩を利用して、君を苦しめている。不勇
不義である。私が信玄公と争うといっても、争うのは戦であって米や塩ではない。どうか、
これからは塩を私の国から取って欲しい。量が多かろうと少かろうとお望みのままである。」
商人に命じて、適正な価格で供給させた
久しぶりに
(-人-)ナムナム
192 :
優しい名無しさん:2009/12/01(火) 21:26:42 ID:PJt1Ir9v
むう。献身的だな
武田と北条の今川領と取り合いの話を省略。
ここにおいて、信玄の領土は南側の海に達し、謙信の領土は北側の海に面し、ちょうど海から
海へと横切ったかたちになった。北条氏はその東にあり、織田氏はその西にあった。織田氏は
信玄に援助を求め、北条氏は謙信に援助を求めた。しかしながら謙信はまだ承諾していなかった。
この年(永禄十二年、1569)の春、謙信は武蔵、下野の諸城を攻めて陥落させた。秋には、越中に
入って神保長純を攻めた。畠山義則はその部下をおさえることができなくて、能登は乱れた。
上杉義春を遣わして、これを治めさせた。義則の子の義隆を立てて帰った
このとき謙信は加賀、越中を平定したので、関東に出陣した。兵を使うのが神速で、敵はこれを
はかることができなかった。軍を関東の八州に横行させた。関東八州の諸城は、越後軍が来ること
を聞いて、恐れ震えて城から出ることはなかった。越後軍が帰って、三国嶺を登ると聞いて、その
後にお互いに告げあって、城の守りを解いた。雷雨が通り過ぎるのを待つようなものであった
謙信公、助けて
(-人-)ナムナム
197 :
優しい名無しさん:2009/12/07(月) 22:38:51 ID:O8kdgVEX
謙信公でも色んな事が嫌になって高野山へ逃避して本気で坊主になったよね。
だから、謙信公なら分かってくれるし許してくれるよ
>196
いろいろ教えてくれて、ありがとう。
どこも遠くて行けない所ばかりだけど、じかに拝んだらご利益ありそうだね。
謙信公を奉ってる上杉神社が、全国を回ってくれたら良いのになぁ、と虫の良い事を考えてしまいました(^^;
越後→会津→米沢の移動は、輿にお乗せして移動したと言いますものね。
よくある、諏訪神社や天粗神社みたいに御分霊をとも思いますね。
そういや、謙信公とは関係ないですけど、神指城跡も見てきました。
二の丸の塁壁が少しと、本丸の残骸が残るのみでした。
残っている二の丸の遺構は、お寺やお堂の敷地とか、墓地になってるとこだけでした。
本丸跡は私有地の耕作地になってます。
話を聞くと、昭和半ばに耕地整備事業をするまではかなりはっきりした遺構が残っていたとの事。
もったいない。
よーし、おばさん来年も上杉まつりに参加しちゃうぞー。
できれば上杉軍でやりたいな。
今年は直江隊だった。
米沢観光協会の仲のいい人から「雑賀さん、武将役やってみてくださいよ」って言われたけど、女じゃ無理だろ。
あとで佐藤先生(毎年謙信公役をやっておられるすごい方)に電話で聞いてみよう。
201 :
優しい名無しさん:2009/12/10(木) 20:31:07 ID:rIxaLjVg
謙信入道か。力では人の心は変えられんのう、信長よ
>200
楽しそう〜
でも甲冑、重そう(^^;
203 :
優しい名無しさん:2009/12/15(火) 15:25:11 ID:KkLzXyaL
久々に浮上。
オンベイシラマンダヤソワカ
このスレの住人に謙信公の御加護がありますように
204 :
優しい名無しさん:2009/12/15(火) 20:02:32 ID:b7KVh7ws
俺も謙信のように戦うよ。エイエイオー
205 :
久世秀雄 ◆NODONoK8Pg :2009/12/15(火) 20:12:13 ID:StHHYcQ9
兜は唐冠にして前立ては日輪、鎧は南蛮胴にして黒で決める、陣羽織は金色
馬鎧も装備させて
いざ出陣!!
206 :
久世秀雄 ◆NODONoK8Pg :2009/12/15(火) 20:16:52 ID:StHHYcQ9
いや待てよ、兜は長烏帽子にして前立てに日輪のが格好いいなあ
なんか閉鎖病棟のスレ読んでると呼ばれてる気がしてくるから怖い。
あと俺、毎日お風呂に入ってシャワー浴びないと気持ち悪くて眠れない。
よく鬱になるとお風呂がどうのって話あるけど、鬱がひどい時ほどお風呂入りたくなる不思議な人種だ。
あとトリプタノールの破壊力の恐ろしさをいまさら知った。
おのれN山め(前の主治医)
後遺症で大変なことになってる
いつもチラ裏スマソ
ああ、謙信公、イライラがとまりません。助けて
(^_^)ノドンマイ
209 :
優しい名無しさん:2009/12/20(日) 02:08:24 ID:qYXiEZjY
そういや孫市ストーカー男どうなった?
遅レスだけど、
頼山陽さんの「日本外史」を書いてくれてありがとう。
勉強になりましたよ。
(見てるかな)
トミノは何百回音読しても何もおこりゃしないよ
本気で霊障信じてるんだったら上杉神社行って直江兼続の甲冑破壊してこないと
うわああ
誤爆したスマソ
俺も「日本外史」に感謝してる。
本当にありがとう。
明けおめ
ことよろ(^o^)/
自分と皆様に幸せがありますように
謙信公、今年もよろしくお願い致しますm(__)m
ムニャムニャ(真言宗の経文)
∧_∧
(^-^)_
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щ Щ Щ
214 :
優しい名無しさん:2010/01/17(日) 10:16:05 ID:yiVq3fMG
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こんにちは
来月も上杉神社行くよ。
謙信公に届け俺の思い
みんな平和にな〜れ
それより基地外の自覚ある俺が精神科に入院したいと言っても、配偶者も主治医も聞いちゃくれないんだが。
俺は一体どうすれば