1 :
1 ◆7ku95uAMhw :
2008/03/15(土) 23:25:35 ID:+eTrLWVI いろんな自助Gで【自分よりも偉大な力】や【ハイヤーパワー】という 言葉がでてきます。このスレで語ってみようかと思います。 どの自助の方でも、ステップや教義の中で自分よりも偉大な力という 言葉に関わった方なら、参加自由です。人為的な科学の中に 自分よりも偉大な力を見出した方でも構いません。また、自助Gに関わっていても 信じられないという方の意見も参加おkです。 ローカルルール ・宗教の勧誘は絶対にお断り。勧誘が目的ではなくご自分の 偉大な力を語ってください。 ・他人の考えや違いを受容すること ・煽り・荒らしは徹底スルーお願いします。
スレタイは、人目を引くためのもので、私自身は自分よりも偉大な力があると 信じている人間です。今もそれを指針にして断酒を続けています。 それが、絶対的に他人にも通用することとも思っていませんし、偉大な力を信用していても その人その人で信じるものが違っていたりします。
サルトルの言葉の中に『信じるとは信じていないことである』というのがあります。 記憶がちょっとあいまいなのですが。。。ソースなしで申し訳ない。 私の家には、ニーチェ・サルトル・パスカル・プラトンの本があり、 少しだけ方法序説の影響を受けています。始祖的な人にも興味があり、 万物は水であるといったタレスなども尊敬しているし、 音階を見つけ出したピュタゴラスも尊敬しています。 しかしですね、サルトルは挫折をしてまして、お恥ずかしい状況なのです。 逆説的ではありますが、信じているものに対しても公言しないものなのかもしれません。 今、私がここにコメを書いている。これは、紛れもない事実でして、 この行為があったと信じるというのは的外れになってしまいます。 私自身も、偉大な力を信じていると公言しているのは、 信じたいから自分自身に言い聞かせている部分もあるのかもしれないです。 心理学が好きだったので、共時性やフィードバックに神を宿し、 自分を納得させているだけで、実はなんの立証もできないのですけれど、 それを信じている自分を演じることで、苦難を乗り越えたり、 幸せを倍に感じられればそれでいいのかもしれません。
>>1 に別自助の誹謗・中傷もご遠慮ください
を追加します。スレたてが初めてなものですから
不手際はご容赦ください。
>>3 また、偉大な力を全く信じないというのも
実は信じているという区分に含まれるものだと
思います。ないものに対しては信じる信じないの範疇にはないことで、
それをあえて信じないというのは、どこかで信じたいという切望を
感じるのです。私は若いころ、『神も仏もいるもんか』と思って
生きてきました。それは、もし神仏がいるなら、私にこんな理不尽な
仕打ちをするはずがないという逆説的な発想からでした。
本当は、神仏がいていつか私をこの苦境から救ってくれるのでは
ないか?という子供の空想とでもいうか、ヒーローが助けてくれる
と思っていたのでした。しかし、ヒーローは現れなかった。
宗教に自分よりも偉大な力を見出したいと思い、
短大は尼僧になる学科を専攻しましたが、もともとが
共依存が酷いために、これも間違った方向に行き、
なまじっか知識があるために、新興宗教に泥酔する時期がありました。
おはようございます。 1さん。 「神は妄想である」を半分ほど読みました。 ドーキンスは世界、特に生物の見事なまでの 設計(デザイン)が果たして神や偉大な(意思を持つ)存在 によるか、いやダーウィンの進化説により説明できるかで 神の存在を否定しようとしている模様です。 (もちろん彼は後者の説を採っています) ただ私は神などの存在を信じられないのですが ハイヤーパワーは信じたいという立場なのです。 そう言うわけであまりこのスレには顔を出せないかも知れませんが ご容赦ください。 今日は春季マックセミナーに出なければいけないので もうそろそろ家を出ます。夜まで帰ってこれません 私の意志ではなく貴方の意思がかなえられますように。
706さん、おはようございます。「神は妄想である」を半分ほど読まれたのですね。 進化論か神の設計なのかで神を否定しようとしている模様なのですね。 面白そうな本です。このスレは、まぁあちらだとすれ違いになるので 私たちが好きなように語れるために用意したものです。気にしないで、 春期マックセミナー楽しんできてください。ハイヤーパワーのご加護が あなたにもありますように。
>7 どうも、春季セミナーが退屈なので ほとんど講演中は「神は妄想である」を 読んでいました。本当に罰当たりな行為ですね。 神父さんも講演しているというのに。 ハイヤーパワーからはまだ遠そうです。 4/5ほど読み終わりました。 彼の著では進化論のことには結局 進化論が絶対に神によるものではない と私の理解させる説明はなされず 結局最後の段階で、具体的な例を挙げて 宗教やまたその教育をいかに害悪かを非難する。 またその教育をものの良し悪しがつかない (分別がまだ備わっていない)子供に教えることの 是非を問う文章に変わってしまいました。 またそれは例外なく一神教に対する批判であり われわれ日本人が広く信仰するアニミズムについては ほとんど(まったく?)言及されていません。 私としては生命の誕生、進化について科学的に納得できる 説明がなされれば、「(一神教の)神は妄想である」と いえるのですが・・・・・・。 私の読み込みが足りないのかもしれません。 もう一度ドーキンスが進化論、生命誕生について述べているところを 読み返して再度ご報告します。
706さん、マックセミナーお疲れ様です。 私がここに書きたいのは宗教の否定ではありません。なので、 スレタイに特定宗教を肯定するものでも、否定するものでもないというのを 付け足しておけばよかったなとちょっぴり残念に思っています。 どこかのスレに「信じるものがある人は強い」と言っていた人がいたのですね。 私たちアル依の場合、恒常性とか基本的信頼感が親子で結べていない場合が多く、 ACの人たちも多い。その中で、恒常性や信頼を獲得するために自助Gとハイヤーパワー の概念が生まれてきたのではないかと推測しているのです。 私もこれには賛成です。私自身は心理学は日本では文系の属するものとして 扱われていますが、海外では理系なんですね。だから、脳科学とかそっちにも興味があって、聖書の人は塵からうまれた というのは比ゆであって、進化論を信じています。聖書もなんだかんだいって 人が書いたものであるし。神という言葉だと どうしてもキリスト教だと思われがちな要素が強いですし、自助自体が アメリカからの輸入なので、仕方ない部分もありますが、そこはきちんと 自分が信じるという言葉と特定宗教を示していないと書かれているので、 問題ないと思います。もともと宗教は人が死を受け入れやすくするために 作られたと言われています。世の中にはいろんな宗教が存在していて、 アニミズムは土着的なんです。そして、発達心理学では生得的素朴論で 人が生まれながらにして、アニミズムを持っていることを肯定しています。 (心理学が一時発展できなかったのは、キリスト教のせいだという話もあるくらいです) いわしの頭も信心からでも、私はいいと思います。科学の中にハイヤーパワー を見出すのも、それはそれでありなんです。ただ、人をハイヤーパワーにしない (共依存の観点からです)で、その科学の中に人為的以外のもの、たとえば自然とか で自分よりも大きな力が見出していければいいんだと思います。考えるものではなく、 自然と感じるものというか。私はあなたにすれで出会ってとても感謝しています。 人はずっと一人だと思考がすすまない。そこにあなたという人が現れた。 対人妄想かもしれないけど、共時性(たまたま同じような時期に 同じようなスレでハイヤーパワーについて語った)を感じているし その日本語的で言えば縁のようなものに感謝しているんです。 マックはキリスト教的要素が強いのも確かです。仲間はどうか知りませんが それは入り口にこういうものがありますよという指針でしかなく、最後は自分で 見出していかないとなりません。マック出身者が全員洗礼を受けるかというと そうでもないし、家の仏壇を大切にしている人もいたりしますし、 さまざまな概念があっていいのだと思います。
10 :
1 ◆7ku95uAMhw :2008/03/17(月) 14:35:05 ID:uWKH9vwk
さて、本日は通院日なのでついでにあげってことで。
11 :
優しい名無しさん :2008/03/17(月) 15:53:39 ID:iobnCPt3
ファイヤーパワー! 家はゾロアスターです
>>12 そうしたいところなんですが、なかなかそうもいかなくて。
ご心配なく、もう宣伝はしませんから。
3行で説明してくれ
・いわしの頭も新信心から・信じるものは救われる ・お金やお酒以外の信じるものを、自然の中に作る。それが本の中の文字でもいい。自分が悩んでいることを、本の著者が偶然応えている場合がある
自分より偉大な力を信じて認めて委ねるというのは、 過去と人をコントロールしないという意味もこめられていると解釈しています。 提案はありですが、そこには強制的なものはありません。人間は自然には なかなか勝てません。人間も自然発生的に生まれてきたものですから、 それを他者がコントロールするというのも、本当は無可能なものの領域に入ります。 これが動植物なら、自分が食べるとか自然の摂理にあわせ行動しますが、 人間は知性が高いばかりに、他人の人生をコントロールしようとする傾向があまりに強いです。 そのコントロールは、愛でしょうか? それとも、自分の恐れからでしょうか? もし、恐れからだったら、完全にエゴです。他者には失敗する権利があるのです。 自分が人生でいろいろ失敗(法律に反しないもの)したことも、当然あるでしょうし、 それは許されることです。宿題を忘れたのと同じです。 人が発達していく上で、同性の親との同調がとても大切な時期があります。 子供が父親とキャッチボールなどをするとか、まぁそれが時代的にビデオゲーム の場合もあるかもしれませんが。アル依やACの人のおいたちには、決定的にこの部分が ありませんし、思春期に同年代の同性と同調するという時期も、自分の家の特殊性のために 同調できずに終わることがあります。同じようなつらい家庭の子供たちと同調して 徒党を組むというのも、怒りという共鳴で仕方ないのかもしれません。 健全な同調の時期をきちんと迎えていないACやアル依は、自助Gの中で 相手に侵入することなく、これを学んでいかないとなりません。 人には必要な栄養のように、獲得しておかなければならない経験のような ものがあります。 自助Gの中で偉大な力が働いています。 自分がものすごく悩んでいることを、同じように悩み解決している仲間の言葉です。 悩みごとや問題というのは、横並びで上下ではありません。 1日しか断酒していない人でも、私の未解決問題をクリアしている場合があります。 そして、また逆もあり、私よりも断酒が長い人がまだクリアしていない問題を たまたま私がクリアしている場合があったりします。 ミーティングでそれを探すのは、砂漠の中で砂金を探すようなものですが、 問題をクリアしている人を、ACやアル依は神格化しやすいので、 できればグループの中でそういうものを探し、身につけていく方向が なんとなくですが、正しい方向のような気がします。
>>11 ゾロアスター教は、もっとも古い一神教ですよね。そして、火に尊厳がある。
マジョリティではないが、脈々と続いている宗教です。とても興味深いですね。
神学から哲学に移行していくときに、フィフスエレメントが
あり、水が注目を集めた中、火に着眼するところが
興味をそそられました。なにか探して読みたいと思います。
日本は八百万の神といって、なんにでも神が宿っている
と考えられてきました。これを一つの偉大な力のみわざと
考えるか、それぞれに偉大な力が宿っていると考えるかの違いな
だけであって、基本的に人間よりは偉大な力があると
認めているので、さほど違いがあるようには思えないのです。
Let It Be あるがままに When I find myself in times of trouble 「ほんまどないせーっちゅうねん」ときにな Mother Mary comes to me 聖母マリアが来てくれたんや Speaking words of wisdom それでええことゆうてくれた Let it be 「なすがままにしいや」 And in my hour of darkness どん底の暗闇におったときやわ She is standing right in front of me 俺のちょうど前に立ってなぁ Speaking words of wisdom めっちゃええこと ゆうてくれてん Let it be 「なすがままにしいって」 Let it be, let it be 「なすがままにしい」 Let it be, let it be 「あるがままにな」 Whisper words of wisdom あーええ言葉や つぶやいてみよ Let it be 「なすがままに」 And when the broken hearted people 失意のどん底にあってもな Living in the world agree この世界に生きてる人の心はおんなじやで There will be an answer いつか答えは見つかるわ Let it be 「なすがままに したらええ」 For though they may be parted 離ればなれになったゆうてもな There is still a chance that they will see また会える日がくるかもしれへんやん There will be an answer いつか答えは見つかるって Let it be 「なすがままにね」 Let it be, let it be 「なすがままに しい」 Let it be, let it be 「あるがままが いい」 yeah, there will be an answer いつか答えは見つかるわ Let it be 「なすがままに」 Let it be, let it be 「なすがままに しいな」 Let it be, let it be 「あるがままで ええんや」 Whisper words of wisdom あーええ言葉や つぶやいてみよ Let it be 「なすがままで いこ」
Let it be, let it be 「あるがままで ええんやで」 Let it be, let it be 「なすがままに しい」 Whisper words of wisdom なんやええ言葉やのー つぶやこうやん Let it be 「なすがままに な」 And when the night is cloudy 雲が覆う暗い夜もなぁ There is still a light that shines on me まだ俺を照らす光はあるねん Shine until tomorrow 明日までずっと照らしてくれるんやで Let it be 「成らせたまえ」 I wake up to the sound of music 音楽で目ぇ覚ましたんや Mother Mary comes to me そしたら聖母マリアが現れよってなぁ Speaking words of wisdom ええこといいよった Let it be 「なすがままに しいや」 Let it be, let it be 「なすがままに しい」 Let it be, let it be 「あるがままで ええやん」 There will be an answer いつか答えは見つかるって Let it be 「なすがままに しい」 Let it be, let it be 「なすがままに な」 Let it be, let it be 「あるがままが ええよ」 There will be an answer いつか答えは見つかる Let it be 「なすがままに な」 Let it be, let it be 「なすがままに しい」 Let it be, let it be 「あるがままが ええよ」 Whisper words of wisdom ええ言葉やな つぶやいてみよ Let it be 「なすがままに な」 ・聖母マリアでは特定宗教っぽいので、 ここは、私は亡くなった母と訳しています。 田舎にいる母、実家にいる母でもなんでもいいと思います。 自分が懐かしく思い出せる人物なら誰でもおkかも。 夢枕に自分以外の人が立って、あるがままにでいいと言ってくれた のかと考えました。受け入れるというのは、本当に難しいことです。
人を許すということ がよくテーマにでますが、人を許すことができるのは 偉大な力のみです。人間にそこまでの悟りのようなものはありません。 ひどいことをされたら、怒るのが当たり前。これは他人に何かされたときです。 無理に許そうとするから、おかしくなる。許せないことはやっぱり許せません。 アル依は逆で、アル依になった自分を絶対に許していません。 再飲酒もアル依の自分をどこかしら許していないのです。アル依を許せないから アル依を否定するがごとく、普通の酒飲みに戻ろうともがいています。 基本的なことですが、アルコール依存症は立派な病気です。 もし、これが癌とか別の病気ならこんなに自分を忌み嫌ったり、 最低な人間だと思ったり、だめ人間だと思ったりしません。 アルコール依存症になった自分を許す(受け入れる)ことが一番最初の 許しなのかもしれません。
メンタルな病気に共通しているのは、あまり自分を許さないという ところかもしれません。親が異常なまでに世間体やイデオロギーに縛られていて、 その癖自分で自分の欠点を治そうとせず、子供に自分の欠点を投影して治せと 言ってきたりします。これは、子供にとってはとても冤罪なわけです。 もともとない欠点を治せとしつこく言われているばかりに、子供はもしかしたら 自分は親のいうような欠点が本当にあるのではないかと思い込んだりします。 もともとない欠点を治すなんてことは、できるはずがないのです。 AC家庭の場合、酷い虐待や暴言を吐かれることは愛だと教えられ、虐待はなかった ものだとあつかわれ、 本当に子供にかけなければならない言動はないに等しいのに、あるように言われる。 あるものはないといい、なりものをあるという。これではその家庭で育った 子供が困惑してしまうのは当たり前です。 さて、もともと日本にはLOVEという概念はありませんでした。 自分より偉大な力に対して懐疑的であるのは当然です。ACにとって 自分より偉大な力は暴力や暴言だったのですから。そこで、自助Gなどで 本当の偉大な力といわれても、なにがなんだかって感じです。 キリストは愛を教えているといってもピンとこないのは当たり前です。 日本に古くからあった言葉は愛でる(めでる)でした。その進化系で可愛いなどがあります。 可愛がる、親が子供を愛でることです。もし、自分よりも偉大な力を 実感したいと思うのであれば、まずは自分を許した上に、愛でることが始まりかもしれません。 許すよりももっと高次の言動で、自分を粗末にするように誰かに搾取するように 育てられていて、思いやりや察するを重んじる日本人とACを併せ持つ私には この自分を愛でるが一番難しい能動行為のような気がします。
1さんのお話興味深いです。 私はクリスチャンホームで育ち、現在はキリスト教を離れて、上座部仏教や禅宗のお寺で座禅をしたりしています。 アルコール依存になってました。今は禁酒しています。仏教の勉強がきっかけになり、禁酒が続けられる様になりました。 両親はリベラルなプロテスタントで、キリスト教の排他的な部分を嫌い万物救済説などを勉強していました。 今は両親の信仰が悪いものだとはまったく思ってませんが、 子供の頃は自分の家と周りが違うのを気にしすぎて、両親のせいで私はおかしくなったと思い込んでいましたね。 私はキリストが神であることや、復活などを信じる気にならず、辞めてしまいました。 またキリストが愛を説いたのに信者はごく一部の人を除いて何だかなあ?な人が多いですし。ああなりたくないと。 仏教を勉強してみて、まだかじった程度の私ですが、1さんのレスに書かれていた >>もともと日本にはLOVEという概念はありませんでした はちょっと疑問です。日本には古くから慈悲という言葉がありますよ。 仏教的にいうと愛という言葉は自分の勝手な思い込みが入りやすいので 使うべきではないと私が読んだ入門書に書かれていた様に思います。 >>自分を粗末にするように誰かに搾取するように 育てられていて、思いやりや察するを重んじる日本人 というところは確かにそうだなと思いました。 もう少し自分の中で整理をつけてまたお話したいと思います。
>>24 さん、レスありがとうございます。
ご実家の宗教を離れて、座禅の中に何かを見つけられたのですね。
お話を読んでいて、見つけたものが24さんにとってしっくり
くるものだったのが伺えます。
LOVE(愛)=慈悲というのは、面白い観点ですね。今家に友人がきてまして、
この人は家は東本願寺のお寺で、ご本人も最低Rankの僧侶の免許をお持ちです。
この方も家の方針や外面と内面の激しい家族にげんなりして、出家して
一人で暮らしています。その方に24さんが教えてくださった愛=慈悲ではないか
という話をしたら、面白いということで今二人で話しをしています。私自身は
慈悲や布施などの言葉は、自分の生活がいっぱいいっぱいすぎて忘れてました。苦笑
自分の余裕がないと、なかなかですが、自分に慈悲深くなることはできそうです。
その中から他者に対しての思いやりのようなものが持てればなぁと思いました。
ふと思い出したのですが、フロイトの精神分析を日本に持ち込んだのも
東本願寺の僧侶でした。精神というものと仏教というものは
浸透率がよいのかもしれません。仏教は自律が基本ですし、
内観療法など、広くメンタルヘルスに使われているので、
なにか通じるものを感じました。
お話の続きを楽しみにしています。
26 :
1 ◆7ku95uAMhw :2008/03/22(土) 05:53:51 ID:BIYHNSJY
ときにはあげないとならないのか。
以前から『気づき』ということがよく言われていました。 自分に対しての気づき(行動の癖や長所短所etc) 自然への気づき 他者への気づき 自分より偉大な力とこの「気づき」には、大きな関係がある。 きっと、自分に何かを気づかせてくれるものが自分よりも偉大な力なのかも しれません。ときにこれを『閃き』というのかも。
28 :
1 ◆7ku95uAMhw :2008/03/26(水) 00:17:52 ID:SA6cWxxy
あげ
29 :
優しい名無しさん :2008/03/30(日) 02:02:35 ID:ApWHwpzO
今、偉大な力にめっさ打たれてます
以前にもどこかに書いたかもしれませんが 私が短大時代に一番初めに教えられたのは、釈尊の言葉「生きることは苦である」でした。 その頃の私は、大変世の中は理不尽だと思っていましたので、この言葉は印象的でした。 まるで、苦の連続体に身をおいていて一生そこから抜け出せないような。 次に学んだのは、四苦八苦でした。生老病死が四苦で生きることも老いることも病気になることも死ぬことも全部苦らしいのです。 なんだかうんざりしますね。 愛別離苦については母親を幼いころに亡くしましたので、なんとなしにですが理解しました。 やっかいだったのが恩憎会苦でした。これがなかなか飲み込めない。 どうして憎い相手に遭遇しなくちゃいけないのかと、やっぱり神も仏もあるものかと世の中を恨みがましく思ったものです。 虐待をした父親なんかには会いたくなかったし、私を集団で辱めた犯人たちにももちろん会いたくなかった。 心理学と出会い、共時性に強引に目覚めてから、ふとこの言葉を思い出しました。 恩憎会苦は、私に何かを知らせようとしている、気づかせようとしていると思いました。 人間は経験してみないとその人その人の気持ちは本当は分からない。 アル依にならなければアル依の人の気持ちは分からないし、目が悪くならなければ悪い人の気持ちは分からない。 会いたくない人に会うことで自分を知っていくことなんだと最後には思うようになりました。 やっと、会いたくない人は仏が姿を変えて目の前に現れるということを 比喩ですが、飲み込むことができたのでした。 お酒や恨みでいろどられた人生でしたが、両方を手放してみると出会いが私という物語を違う色に変化させてくれたのでした。 共時性=縁=エンカウントは、私の中では同意義になりました。棚卸しと因縁なども同様です。
Easy dose it! 気楽にやろうという訳がついています。 これに反対する自助の意見もありました。 3日間で12ステップをやるという「Back to the basic」という新しい解釈物に 気楽にやるのはよくない的なことが書いてありました。 それで、私なりにEasy dose itがドラマでどんな風に訳されているのか 調べてみました。「気楽にやろう」はあまりに直訳過ぎて 使われていないことが多かったです。この気楽にやろうの変わりに 訳されていたのが「あせらないで」でした。私的にはこちらのほうが なんとなくしっくりくるし、気楽(さぼり?)みたいにとられやすい 翻訳よりもよいのではないかと感じました。回復初期はどうしても取り返しに 固執しやすいので、焦らないことが一番だと思います。
12stepもそうだが、善人志向ね。
>>30 のような境地(恩憎会苦など)は偉いと思うが、
実は自分も以前、一時期はそのような境地にいたのだが、今は全然そう思えない。
あなたにしても、騒音ババのような異常な隣人に苦しめられても同じように思えるか?
という疑問は残ります。想像じゃなくて、実際に苦しめられたとして、です。
「人間は経験してみないとその人その人の気持ちは本当は分からない」
というのには賛成ですが、だからこそ、あたらずさわらず生きていくほうが
身のためだと思うこの頃。
心理学もさんざん読んだし、カウンセリングの世話にもなったが、
ぬるいというか甘いというか、処世術の役にすら立たない。
『ワルの知恵本』のほうがまだ役に立ちそうだ。
ハイヤーパワーと聞くと、タメイキが出る。信じられる人はまだ幸せだと。
>>29 やはり自民党清和会の下に結集し、日教組を壊滅させることでしょうね。
日教組の教師に「労働者の権利」などという左翼思想を吹き込まれた連中が義務も果たさずに
サビ残は嫌だ、非正規雇用は止めろ、などと権利ばかり主張しています。
あとは残業代を要求して裁判を起こしてるような腐った輩を社会全体で徹底的に叩くことでしょう。
>>32 さん、レスありがとうございます。一度はそういう気持ちになったことがあるのですね。
確かに、騒音ババァ、嫌ですよね。嫌なものは嫌だし迷惑なものは迷惑です。
なんていうか、怒りは怒りの感情としてあって、全員を許すとかそんな大それた
ことは考えていません。許しというのは、神業です。人間の私にはとても無理です。
一歩離れたところから観ての気持ちも私は持ち合わせています。善い人になる気は
さらさらないんですよ。
人の問題は棚上げして、自分の気持ちや行動にも焦点を当てて集中するというか。
一面的ではなく多面的な感じなんです。まだ、言葉が稚拙でうまく言えず
すいません。
35 :
1 ◆7ku95uAMhw :2008/04/11(金) 03:01:03 ID:oZJy48z2
訂正 恩憎会苦× 怨憎会苦○
36 :
1 ◆7ku95uAMhw :2008/04/18(金) 17:57:14 ID:gKVQ9D/S
最近、感じることは、何をするにも後手に回るかなということ。 食事もお腹がぺこぺこになるまで食べなかったりとか、 トイレもぎりぎりまで我慢しているとか。そんな自分にも なかなか気づくことができなかった。
37 :
優しい名無しさん :2008/04/18(金) 19:40:40 ID:Gq/aWhCd
>>1 さん弟子にしてください。
良スレの予感。
似たようなことをさいとう一人さんがおっしゃってましたっけ。
仏教って哲学みたいですよね。生まれ出でてしまったら、生きていく途上に遭う苦しみからは逃れられない。
ならば生きながらにして、物の見方を変えることにより、
この世を楽しい極楽浄土に変えてしまおう、という発想ですよね。
>>1 さんはどこでこれらの知識を学ばれたのでしょうか?
騒音ババァwww
>>37 レス、ありがとうございます。私はほとんど本からです。
いろんな本を読み漁っていたら、何かしら法則性のようなものを
感じました。それを自分の身に置き換えたとでもいいましょうか。
弟子なんてとんでもないです。
37さんは
>ならば生きながらにして、物の見方を変えることにより、
この世を楽しい極楽浄土に変えてしまおう、という発想ですよね。
とすでに分かっておられるじゃないですか。極楽浄土とまでは
行かないかもしれませんが、心理学でも認知のゆがみを修正する
ってことになるわけですから、発想の転換は同じ着眼ではないかと
思います。