>>829につづく
宅間さんが”裸の王様”、なのではなく、
宅間さんを異端視する社会の大多数の「一般庶民」こそが”裸の王様”である。
社会の構成要員の一部が、社会の富を独占する体制下においては、
体制化における一般大衆の不満を分散させる、
あるいは社会的に上位にある富裕層に意識が向かわないように、
必ず「弱者」を創り出し、同じ弱者のはずの一般大衆の意識を
下位の「弱者」に向けさせ、
”幻の強者”を作り、体制の安定を図ろうとする。
この図式を見抜かれないため、さまざまな策が弄されるが、
本当に見抜かれてしまった場合には、
彼ら―強者―は、”目覚めたるもの”を、犯罪者や精神異常者というレッテルを貼り、
「われわれ社会の敵であり、精神に異常をきたしたので、
社会の不満を他人に振り向けたりする」
といった論調の批判をし、強者を守るための”法律という道具”で生命まで葬り去る。
そこまで行かずとも、「道徳」という規範性のある社会意識を押し付けようとする。
そう、この社会は歴史的に、強者が生存しやすいように発達してきたのである。
「社会に適応する」とは、強者の論理を受け入れ、その一方的な適用を受けながら、
強者のための社会の労働を日々つとめること、であり、
”協調性がある”という評価を受けるための要件となる。
協調、勤勉、正直、忍耐など、さまざまな美しい言葉が、
われわれ一般大衆には賞賛として与えられるが、
それは、「私たち」それぞれの人間が賞賛されているのではなく、強者の役に立ったこと、
”強者の役に立つ行動や思考パターン”をおこなったことを賞賛しているのである。