238 :
優しい名無しさん:
生き物の世界は、本来生きるか死ぬかの壮絶な戦いの世界だ。戦いに負けたものは死に、勝ったものは
生き残って子孫を残すという生命維持のルールの中で、強いものが勝ち残ってきた。では人間はどうかと
言えば、動物のような食うか食われるかの戦いはないにせよ、少なくとも「無くなることのない心の苦し
み」にいつの日も立ち向かって戦い続けてきた。
人間には様々な性格があって、自分の性格とぴったりと一致する性格などほとんどない。そんなバラバ
ラの状態の中で人間関係を維持していけるのは、「協調しよう」とする精神に外ならない。よく、人間は
独りでは生きていけないと言う。まさにその通りで、人は生きていると必ず人に助けられている。
「ぼくは誰の世話にもなっていない」と言う人がいるかもしれないが、食べ物ひとつをとっても、幾人も
の手によって自分のところまで届くのだ。
さて、人にはいろいろな性格があるが、仮に暗い性格のAさんがいたとする。Aさんは自分の性格が暗い
ということは誰よりも一番わかっているし、周囲も認めるところだ。ただ、そんなAさんは友だちがほしい
ので、周りに一生懸命気遣って「暗いから嫌い」と言われないように努力して生きてきた。そんなAさんの
姿を見て、人はどうして嫌うだろうか。それどころか、Aさんの暗さをカバーしてくれるような明るい人が
側に来て、Aさんを助けてくれる。
では、弱い性格のBさんがいたとしよう。Aさん同様に、自分は「弱い}ということをしっかりわきまえて尚、
弱くても前を向いて一生懸命努力しようと生きてきた。そんなBさんを、人は決して馬鹿にしたり邪魔したり
はしないものだ。Bさんのがんばろうとする前向きな気持ちに気づいた強い人が、温かく手を貸してBさんの
弱さを補ってくれる。人間にはこうした「協調の精神」があるから素晴らしい。
さて、本題に入ろう。
不登校の問題を持った子どもをCくんとして、現代の病める人間関係を説明することにしよう。
Cくんの親は学校へ行かなくなったわが子に心を痛め、肩を落として専門家のところへ相談に行くと、言われ
ることはほぼ共通している。
「好きなようにさせてあげなさい」
「全てを受け入れてあげなさい」
「ゆっくり時間をかけて見守ってあげなさい」
「刺激をしてはいけません」
間違っても「苦しみから逃げたら、もっと苦しくなりますよ」なんて言ってくれる人などいない。
親子に苦しみと闘わせないように勧めることが、専門家の彼らにとって最も家族と関わらなくて済む無難な
方法になるからだ。
親は専門家が言うのだから間違いないと鵜呑みにして、わが子にそれを実行してしまっても仕方ないことか
もしれない。Cくんは学校へ行かないことを散々怒られるだろうと覚悟はできていたのに、親からは何と気
を遣ってもらえるばかりかパソコンなどのひまつぶしになる道具まで与えてもらえる。
そのうちにわがままは当たり前のことになってしまい、余って余って仕方ないエネルギーを消化できず、
欲求不満を家族に当たり散らすようになるが、親はそれさえも耐えて忍んでくれる始末だ。不登校が始まっ
た頃のCくんは、自分は弱いと分かっていた。暗い性格だと思ってもいただろう。みんなにちっともついて
行けない自分を、来る日も来る日も自分自身で責めていたに違いない。そう、AさんやBさんのように何とか
してみんなについて行けないかと考えたのだが、精神年齢が幼いために、その方法やきっかけがちっとも
つかめなくて苦しんでいたのだ。ところが、それに応えてやるべき大人が、最も無難な「苦しみと闘わない
で済む逃げ道」を子どもに与えてしまったことにより、Cくんの性格は大きく曲がって行く。努力しようとす
る前向きな姿勢はすっかりなくなり、暗くて弱い性格の上にわがままを押し通すためなら手段を選ばない性格
に変貌していく。同年代から取り残されるジレンマは、やがて偏った卑屈な精神を生み出し、何事も人のせい
にして言い訳をくり返し、平気でうそをついてふんぞり返って不登校をするようになる場合もある。
こんな人を社会は「性格の悪い人」と言う。
239 :
優しい名無しさん:2005/08/29(月) 16:54:19 ID:B47jEYuT
Cくんのような子どもは「子どもに苦しみと闘う大切さを教えられない」親や大人たちの手によってつくられ
る。そして、昨今、Cくんのような状態の子どもが不登校、ひきこもり、ヤンキー、ニートの子どもに激増し
ている。
冷静に話そうとしても、逃げることを考えているので応じない。自己主張をくり返す。「大丈夫だよ、ぼく
はこう見えてもやることはいっぱいあるんです。失礼します!」と人を寄せ付けない。
前を向こうともせず、縦の人間関係などを無視するどころか侮蔑する。「前を向くって何?」「決め付けだ」
「いじめだ」「子どもの人権を守れ」「それを全体主義と言う」と大騒ぎする。
タメ口は平気。人のせいにする、約束は破る、都合が悪くなると知らん顔をするのも得意ワザ。言い訳ばっか
りして反省もせず、責任転嫁のためには手段を選ばない。けなげとか素直とか子どもらしさなんて言葉からは
遠い。気が遠くなる。
しかも、それに追いうちをかけるように子育てについて、精神科医や弁護士などを交えて討論する番組や催し
がたいへん多くなった。
「万引きをしても怒ってはいけなせん。心理的裏づけがあるのです」と精神科医。
「子どもは子どもの権利というもので守られるべきなんですよ」と権利ばかり一人歩きさせてしまう弁護士。
こんなことを大衆の前で理路整然と言えば、すぐおどらされてしまう自信のない親の子どもなどは、ますます
弱くなってしまう。精神科医や弁護士に恨みなどないが、彼らが教育の分野に大手を振って歩くようになったら、
もう終わりだ。
教育とは、感性豊かで哲学的なものなのであって、法律や医学が入りこんだのでは十分満足のいく指導など
到底できなくなってしまう。苦しみと闘って乗り越えていくことを親や大人から止められてしまった子どもの精神
は、ひ弱でたいへん幼稚だ。いくつになっても親から離れることはできず、魅力も活力も生命力も感じられない
若者になってしまう。そうなれば、異性の目にも止まらない。
闘わない人間は、人としてちっとも「輝いて」見えないから。
240 :
優しい名無しさん:2005/08/29(月) 17:05:33 ID:B47jEYuT
<まとめ>
○困難に立ち向かって「闘う」気力や迫力は、厳しい社会で生きぬくための、絶対に必要な手段である。
子どものうちに家庭教育や学校という社会教育を通して、いずれ確かに自立できるようしっかりと
苦しみとの闘い方を身につけさせないといけない。
○易しい方、面倒くさくない方、怖くない方に流れるのは簡単だ。しかし、そうした姿を親が子どもに
見せ続けていると、子ども自身も困難に立ち向かっていかない人間になってしまう。
○また、そんな弱い親を尊敬できなくなり、親子関係が崩壊して、教育不能の状態に突入してしまう。
○学校でも社会でも、親から自立して生きるということは歯を食いしばって闘わないといけない場面の連続
だ。子どもの幸せは子ども自身の手によってつくられるものであって、親が与えてあげることはできない。