1 :
優しい名無しさん:
モナーは、もう長いことトンネルを歩いていた。
明かり一つない、真っ暗なトンネルだった。
2 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 02:33:35 ID:II9VJYjA
その闇は不思議と穏やかに私を包み込んだ
3 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 04:25:51 ID:5W+zrcAZ
光のないその世界は、すべてのものを平等に暗黒に包みこんでいた。
是と非に分つこともない。
優と劣に分つこともない。
正常と異端に分つこともない。
なにもかもが均一に、漆黒なのだった。
それが、私、モナーを安息させるのだった。
4 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 04:25:53 ID:iPgtODVE
モナーはその感覚に、遠い日のある出来事を思い出していた。
5 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 04:37:01 ID:rfje77zW
闇の支配が始まったあの日―――――
全てのものに熱と光をもたらしていた球体が砕け散り、
遂には―――天が―――堕ちてきた
6 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 08:53:28 ID:q9dNDfxG
モナ−はその時何もできなかった。いや、全人類が立ちすくんでいた。
7 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 09:13:41 ID:oW7gYRKG
「(どうしてこんなことになってしまったんだろう?
これは誰が望んだことなんだろう?)」
思い悩むモナー。やがて彼はひとつの結論に辿り着く。
「(そうだ…これは私が…私が望んだ世界じゃないか!)」
絶え間ない―――そうであることを約束された―――暗闇。
戸惑う人々、光なくしては生きられない、かくも脆い人の心。
それでもモナーは竦むことなく足を踏み出し、
この崩壊後の世界を彷徨い始めるのだった。
8 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 18:27:40 ID:5W+zrcAZ
モナーは何も見えないトンネルの中、左手を壁につけて、手探りで進んでいる。
手に触れる壁は凍りつくように冷たく、刺々しいほどにざらついていた。
錆び付いた鉄を思わせた。
ぴちゃり。
ぴちゃり。
歩くたびに、湿っぽい水音がトンネルに響く。
床には無数の水溜りができていた。
トンネルの中は、蒸れてよどんだ空気が満ちていた。
左手に触れていた壁の感触が、つ、と消えた。
曲がり角になっている。
モナーは、その角を確かめるように探りながら進む。
と、角の向こうに光が見えた。
ろうそくの明かりだろうか。
誰かがいる。
9 :
優しい名無しさん:2005/03/26(土) 22:29:57 ID:TOmtdI3Z
「よく来たね」
声が聞こえる。
「でも君が初めてではないよ」
声? 鼓膜を揺らさない声。
「ここにはなにもないよ」
とたんに、ふたたびすべてが闇に戻る。見えていた光も消えて。重力さえない。足もとに地さえない。
「夢の中でさえないんだよ」
声さえもない。だけど、聞こえる。
「まだ進めるかい?」
10 :
優しい名無しさん:2005/03/27(日) 06:32:31 ID:zob59piz
「この先に進むか、あるいはここでやめにするか。
それは君自身で選べることなんだ」
声はモナーの頭のなかに直接とどいてくる。
たましいに語りかけてくる、といった方が適切であろうか。
とても穏やかな声だった。
「もう疲れてしまったのなら、やめにしたって構わないよ。
誰もきみを責めはしない。
実際きみは、よく歩んできた」
あたたかな手のひらで包み込むような語り口である。
天使のような存在を、モナーは想像した。
或いは母なるもののようにも思えた。
「けれど、きみがまだいきたいというのなら、
それを選んだって構わない。
その先になにがあるか、私にも分からない。
明るい光がさすのか。
哀しい影が落ちるのか。
それは誰にもわからない。
もし、きみがそれを確かめたいというのなら……」
上が上とも、下が下ともつかないその空間の中で、
モナーは声を聞きながら、ぼんやりと考えていた。
ここにとどまるか。
さきにすすむか。
幾ばくかの時が過ぎた。
モナーは、決めた。
1.諦める
2.それでも前へ進む
3. ←
それは答えですらない、いわばニーチェの提唱する“第3領域”。
モナーは翼を思い浮かべた。白く、大きな、天使のそれを。
「(大丈夫…概念さえともなっていれば、きっと…飛べる)」
飛翔―――天とも地ともつかぬ闇の中。
そこにあるのは静寂に対するささやかな抵抗。
架空の翼がはためく。
「(音―――もっと力強く―――)」
翼を得たモナー。
しかしそれは自由を手にしたということではない。
しかし彼は孤独を感じてはいない。
しかし彼は―――そもそも孤独だった。
クスクスクスクス・・・・・・
「翼を持てば飛べるって?」
クスクスクスクス・・・・・・
「翼の使い方を知らないのに?」
くすくすくすくす・・・・・・
「どうやって風をきり、どうやって風をつかんだらいいのか知らないくせに?」
くすくすくすくす・・・・・・
「じぶんの座標を知ることさえできないこの闇のなかなのに?」
・・・・・・
「どこから来てどこに向かうか知っているのかしら?」
・・・・・・
「闇から生まれて闇のなかでもがいて闇に向かって進むのでしょう?」
憐憫の声がする。
憐憫―――それは同情に色彩を加えたもの。
「(彼女もまた私のような闇の中の住人?)」
モナーは何を言うべきか考えた。選んだのはシンプルな言葉。
ここには言葉だけがある。
しかし、言葉の、なんと不確かなことだろう。
見えていたものは、本当に、見えていたのだろうか?
同じように、聞こえてくる、言葉は、本当に聞こえていたのだろうか?
言葉は、同時に、心を、伝え得るのだろうか?
光が闇を画すように、言葉が心を画す。
闇は、あらわれたときにはすでに光であり、
心は、あらわれたときにはすでに言葉であり、
それは闇ではない。心ではない。
光の反射でしかない。言葉でしか、ない。
「キミは私―――」
私なのか―――問いよりも先に答えに辿り着いた。
あらゆる虚像、虚構の音、自分以外の誰か、そして光。
闇は正しすぎた。闇は狂いすぎていた。
それは光のみならず、一切を乱反射する。
鏡のない世界―――反転―――――
万物を生み出すほどに雄弁な闇。
記憶を辿る。モナーの脳裏には―――
「(心地よい…?これは―――」
他者への依存、完全な。厳然なる闇の世界。
「(何故だ?何故私は“これ”を知っている?
何故このようなことを“知り得る”のだ?」
生まれる以前の―――アプリオリな―――記憶。
始まりの小宇宙―――母体内、と呼ばれる場所。
他者を希求することが、即ち他者の存在へと繋がった。
いや、そもそも求めることなど必要とさえしなかった。
既存性、という壊れた時間軸。
モナーは知らぬ間に自分の体を抱え込んでいた。
少し、寒い。小刻みに震えてしまう。
「(闇の中の闇―――それが生命だと言うのか?
一体、光は在り得るのか?何を以ってして光と呼べばいいのか?
存在など観念にすぎないとしたら?)」
世界、というひとつの脆弱性。
「(この私という存在もまた仮初にすぎないのだろうか?)」
思考の迷宮。
終わらない夜はない。
しかしそれは闇の支配の終焉を意味しない。
「どうか、光を。どうか…あたたかさを…ぬくもりを…」
モナーは目を閉じて祈った。
それが今彼にできる唯一のことであったから。
16 :
優しい名無しさん:2005/03/28(月) 21:00:31 ID:J3U5812a
モナーは自身を抱きしめたまま、祈り続けた。
祈りは涙に姿を変えて、しずかに両の目からこぼれ落ちた。
とうとうと祈りのしずくがこぼれ続ける。
それはモナーの両腕を伝い、ひざをぬらし、闇の中にこぼれおちた。
こぼれた雫は、乾いた空気にさらされて、しずかに蒸発していった。
気化した祈りは、音もなく空へと舞上がった。
祈りはゆっくりと、天球へ昇ってゆく。
天球は、モナーの祈りを乗せて、しずかにめぐる。
ぐるり、ぐるりと、星のない空はまわり続けた。
無限に広がる虚無の空は、祈りをその中に抱きながら、とどまることなくまわり続けた。
モナーの祈りは叶わぬままに、百年の闇夜が過ぎた。
モナーの両腕は、きつく、きつく、自身を抱きしめ続けていた。
モナーは祈り続けていた。
モナーはもはや自分が何を祈っているのか分からなくなっていた。
モナーはそれでも祈り続けた。
モナーはただ祈り続けた。
モナーはただ泣き続けた。
その百年が百回、繰り返された。
その百回のくりかえしが百度、くりかえされた。
いまや気化した涙は、大気に満ちみちていた。
飽和に達した水蒸気は凝結し、雲へと姿を変える。
天球は、涙の雲で覆われてゆく。
暗黒の天を包み込んだ、祈りの雲。
その雲がうねり、渦巻いていた。
雲の中で、分子がぶつかり合い、電子が軋む。
吹き上げる風が、分子を陰と陽に分かつ。
百万年のときを叶うことなく漂い続けた祈りが、ここに高ぶりはじめていた。
叶わぬ温もりへの憧れが、悲哀が、極限にまで緊張していた。
いかずち。
白銀の光が闇を引き裂いた。
触れることなき光の手のひらが地上を撫でていった。
そして大気に、産声のような雷鳴が轟いた。
ついに、祈りが光を生んだ。
ふりだした雨と鳴り止まぬ雷鳴は、新生児の啼泣のようだった。
雷光がつかのま照らし出したもの。それは二重の螺旋。
互いに一対をなすものが連綿と繋がる螺旋と螺旋が、
互いに一対をなしてねじれ絡み合う。
18 :
優しい名無しさん:2005/03/29(火) 02:04:18 ID:P5nb4KX2
闇の中央に起立する、命の鎖だった。
幾億年の間つむがれた、生命の連鎖であった。
二つの対を成す、世界の根源であった。
産みいだされるのは、何者か。
生と死。
雄と雌。
成長と老化。
生産と破壊。
成功と失敗。
希望と絶望。
幸福と不幸。
信頼と裏切。
受容と拒絶。
抱擁と暴力。
愛情と憎悪。
……産みいだされるのは、対を成す光と闇であった。
相対する陰陽を、その二本の鎖は産み出し続けた。
対をなすものども。しかしそれは、対でしかない。因果でしかない。
まだ世界は第三の座標軸たる「魂」の芽生えを迎えてはいないが、
第四の座標軸たる「時」は、刻まれ続けている。
まだ、対をなすものどもは「時」の流れを漂うばかりであるが、
「魂」は、やがて芽生えて、それらの錨(いかり)となるだろう。
そのときは迫っている。彼は、そろそろとまぶたを開きつつある。
自らの望んだ「魂」の盲目から、目覚めつつある。永い眠りから覚めるように。
ほら、まつげが震え始めている。
20 :
優しい名無しさん:2005/03/29(火) 14:00:54 ID:P5nb4KX2
彼に宿るべき「魂」は、いま、闇の水面をただよっていた。
闇の水面で浮き沈みをくりかえし、波打つ闇から抜け出そうとしていた。
ぬくもりの一切を見出せない暗い海。
冷たく凍てついた水は、タールのように絡みつく。
その海を人は、地獄、コキュートス、などと呼ぶ。
肉体を失ってからずっと、魂は地獄に沈んでいた。
或いは肉体が生きていた頃から、彼は同じ地獄にいたのかもしれない。
あの日。
モナーの中で、光と闇のシーソーが闇に傾いたまま動かなくなった、あの日。
彼は、自ら命を絶った。
そうして一切の光を見失い、魂は地獄の底に落ちていった。
闇のトンネルの中を落ちていった。
その彼が今、ふたたび光を見出そうともがいている。
幻影を握りしめるように、光をつかもうとしている。
モナーはまた産まれてこようとしている。
海を抜け、胎芽に宿ろうとしている。
とつきとおかの中で再現される四十六億年。
まだ閉じたままの両目は、ふたたび光を見出せるのだろうか。
彼の網膜に届くのは、暖かな色彩の透き通って揺れ動く光の波。
彼の聴覚をくすぐるのは、母体の奏でる規則正しいドラムのリズム。
彼が足を突っ張ると、薄い壁を挟んでそっと添えられる母の手に触れる。
彼はまったく満ち足りて、まどろむ。
そこは、彼だけのために用意された小さな空間であり、それでも彼にとってはそこだけが全宇宙であり、
彼はそこに満ちている液体に、母体に繋がれて、浮かんでいる。
彼は母たる女性の胎内にあり、母たる女性はやさしく歌いながら、指折り数えてその時を待っている。
胎動━━━━━
このちいさな宇宙の中
―――――胎動
注
が
れ
る
愛
胎動―――――
生命は共に
━━━━━胎動
「この子はきっとあの人の生まれ変わりね」
「あの人は勝手に死んじゃったけど、この子はわたしが望んで産むんだからいいよね」
「はーやーくー出て来い」
「名前もあの人と同じのをつけちゃう」
「あの人はわたしの恋人だったけれど、生まれてくる子はあの人とわたしの子だけれど、やっぱり恋人にしちゃう」
「はーやーくー出てきなさい」
24 :
優しい名無しさん:2005/04/05(火) 00:49:42 ID:0AP5eGb6
age
25 :
優しい名無しさん:2005/04/09(土) 05:56:14 ID:4ksmyqGY
いま一度うまれたい。
いま一度いきてみたい。
わが身を包む母の愛を信じて、彼はいま、再生の道を選んだ。
幸福の保証など有りえぬことを彼はよく知っているはずなのに、
それでも幸福を夢見てしまう。
その希望は幻想か。
幻想を抱くことは罪なのか。
母のベッドサイドには、祝福の花束を包むリボン。
彼という光と闇の reborn.
見よ、いま、胎児の頭上に光がさしてくる。
26 :
優しい名無しさん:2005/04/09(土) 19:15:34 ID:k0e+1kKu
再生―――――
ああ、しかしこの未熟な世界は未だに優しさを学んではいなかった。
自己と外界の均衡が崩れる。鈍い光が映し出したのは歪んだ世界。
半身が剥ぎ取られる強烈な喪失感。
「(何が…起こって…?)」
この世界に再び生を得たモナー。
その彼を抱きしめてくれるはずの優しい手、それが今、ここにない。
「(何かがおかしい)」
ここでモナーの記憶は途切れている。
いや、正確には―――失神。
自らの精神の危機から逃れるために。
原罪―――代償―――輪廻―――生命の交代―――
この日、モナーは誕生した。
この日、彼の母は―――――――――
彼がもの心つく以前に、すでに父も母も彼には無い。
最初かどうか彼自身には定かではないが、
彼の最初に覚えた言葉は「かわいそう」だという。父も母もなく「かわいそう」と周りが言ったから。
うまく発音できない彼に、親切に「か・わ・い・そ・う」と教えてくれる。「悲しい気持ち」ということだと、すりこんでくれる。
彼にとって、すべて、あたりまえのことでとくに不満もない毎日だったけれど、不満もなにも知らずに生まれたけれど、
周りが彼に教えてくれる。
かわいそう。
悲しい気持ち。
彼は、学習する。彼が学習した情報は、彼を縛って、その先になにかがありそうに、ほのめかす。
「(なんだか他人ばかりだ―――――)」
違和感、どこか、拭えない。
午後3時を過ぎた頃だろうか?
施設の窓から外へ目を遣る。
世界は無表情。決して、笑いかけてはこない。
再び目線は施設の中へ。無人の廊下。果てなく長く感じられる。
他の子供たちは、外でボール遊びをしていたり、
また、ささやかな造りの図書室で読書をするなどして、
それぞれの休日を過ごしているようだ。
寂しい?―――自分への問いかけ。
分からない。それが彼の答え。
ただ―――温度計では測れない、
肌に生暖かく、心には冷酷な空気が教えてくれた。
寂莫、そして、
「(ボクは孤独)」
モナーは5才になっていた。
親のいない、同じ境遇にある子供たちが集う施設、
そこで彼は静謐が支配する、時間とも呼べぬ時間を過ごしてきた。
内向的な言葉しか持たないモナーは、必然、ひとりでいる時間が多くなる。
今日もこうしてひとり、施設の中を彷徨い歩く。
「(あれ?ここは……)」
開かずの間―――その扉が開いている。
モナーは周囲に目を遣った。誰もいない。
「(どうしよう?でも…いいや)」
禁じられた場所へ足を踏み入れるモナー。
「う…わぁ……」
少女趣味、と呼ぶにはあまりにも毒々しい部屋。
内装、施されている色はピンク。床には白い羽毛が散乱している。
引き裂かれた人形たち、血の付着したベッド。
そのどこか倒錯したような在り様に、モナーは眩暈すら覚えた。
光―――どこからともなく。その反射をモナーの目が捉える。
「(かが…み…?)」
鏡―――大人の身の丈ほどもある。
『覗き込んではいけない』『異世界』『映し出す』『幾層もの嘘』『禁忌』
『ダメ』『望むの?』『自分以外の誰か』『でも』『ダメ』
声が聞こえたような気がする。
それは警告か、あるいは傾国への誘いか。
好奇心―――それ以上のものがモナーの中に芽生えた。
とうとう彼は鏡の前に立ち、前方を見つめた。
「え…?こ、これって…?」
彼―――否、映し出されていたのは―――“彼女”!
「やっと…来て、くれ。た、んだ」
「っ!?」
世界の基盤が揺らぐ、そんな恐怖。
とっさにモナーは後ろへと飛び退いていた。
あってはならないこと。
鏡が―――モナーに語りかけてきた。
うふ。と鏡にうつった彼女は笑う。
彼は、あわてて、まわりを見回す。鏡にうつっている彼女が、すぐそばにいるはずだと思ったから。
なにか、角度の問題なんだと、経験的に解釈していた。
彼の目には彼女が鏡にうつって見える位置に、彼女は立っているはずだから。
しかし振り返ってみても、どこにもいない。こわい。
ねえ。と鏡にうつった方向から、また声がかかる。
「どこを見てるのかしら?」
彼は、鏡を凝視する。しかし鏡の中の女の子はまぶたをなかばふせてうつむきかげんにしていたから、視線は合わない。
「わたしにも、同じように、見えているのよ」
彼女は、ゆっくりと、念をおすように、しかし独り言のように、話す。
「わたしも、鏡の前に立っているの。そして、わたしの目の前にある鏡にうつっているのは、わたしではなくて、あなたなの」
うふ。と彼女はまた笑う。
「でもたぶんあなたと違うことは、わたし、こういうの、初めてじゃないのよ」
『初めてじゃない』―――そのフレーズがモナーの最奥を捉える。
『初めてじゃない』―――既視感がモナーの最奥でうずき出す。
瞳もまた鏡。光を反射し、何かを伝えようとする。
相互的な光の在り方は、つまるところ闇に帰結するのかもしれない。
そう、モナーが知る原初の世界に在った闇に。
網膜が今、モナーの中に眠っていた何かを投影している。
何か―――それは言うまでもなく、鏡に映る少女。
鼓膜が今、音のない部屋で微かに揺らぐ。
「こっちに来。て、遊び、ま。しょう?一緒に」
「それは…出来ないよ…」
「どうして?そっちに。い、てもひと、つに。はなれな。いよ?」
「うん、そうだね。ひとつにはなれない、誰とも。ひとりになるだけ」
「でもこっち。の世界。なら、アナタと私。はひとつに。なれ、る」
「(ボクの望みは何だろう?
何故この世界が生まれ、どうしてボクはここにいるんだろう?)」
思索の檻。
だがその答えは、紛れもない、モナー自身の中にある。
どこかで耳にした歌、その歌詞の一節。
「これがボクの望んだ世界だ…そして今も歩き続ける…」
モナーは気付かぬ内に口ずさんでいた。
そして、気付く。
「この世界はもう…随分ひどいことになっているけど、
それでもボクはこ“ちら側”で生きていこうと思う。
悠久の時間を以ってしてボクはこの……
上手く言えないけど、ずっと祈り続けて来たんだと思う、
孤独―――けれども光ある世界、たくさんの人間がいるこの世界を。
だから、ゴメンね?そっちには…行けないよ」
少女は大人しく引き下がってくれるだろうか?
それとも―――――
先程から一言も言葉を発しない少女。
そんな彼女の動向を、モナーは固唾を飲んで見守っていた。
31 :
優しい名無しさん:2005/04/11(月) 16:31:42 ID:8INtVUvl
少女の口が、なにかを言いたげにわずかに動く。
けれど少女は、言葉を発するのを途中でやめてしまったようだった。
もどかしい沈黙が、中空に漂う。
モナーはじっと、少女の顔を見つめていた。
少女の背丈はモナーよりも2cmばかり小さい。
モナーは見下ろす形になる。
幼く、あどけない顔。
歳はモナーといくらも変わらないだろう。
かわいい。
モナーはそう思った。
ふと、うつむいたままの少女が上目遣いにモナーを見た。
その顔を見つめていたモナーと、視線が交わる。
ドキ、とモナーの心臓がひとつ打った。
「ねえモナー」
少女は、つぶやくように言う。
モナーは少女の声音に、いたずらっぽい表情を聞き取った。
「もうすこし、顔を、近づけて」
ささやくような声で、少女はモナーにお願いしてみせた。
よく分からないままに、けれどお願いされる心地よさを感じながら、
モナーは鏡面にその顔を近づける。
少女は両目にモナーの顔を映したまま、ちいさく微笑んで見せた。
「もうすこし」
モナーは鏡に触れんばかりにまで、顔を寄せた。
つい、と少女も顔を近づける。
鏡面が波打つように揺れた。
ふたりの唇が、ふれあった。
やわらかい唇だった。
「また。ね?」
波紋―――水面を思わせる―――そして、
次の瞬間にはもう少女の姿はなかった。
鏡が本来の役目を取り戻し、改めてモナーの姿を映し出している。
「(またね―――またね、だって?)」
再会を記す言葉。不思議な響き。
後にその約束は意外な場所で果たされることになる。
解離、という名のもとに。
そこは、開かずの間、などではなかった。
施設の中にある、居間とでも言えばいいのか、共有のスペースで、
道徳的で保守的ないくつかの遊具が、設置されてあり、置かれてあり、
大人が、子どもに良かれと考えて設けられた、箱庭だった。
そこには大きな鏡があり、その鏡に、いまはあたりまえの部屋の風景がうつっている。
「なんだったんだろう」
彼は、さっきまでの対話を思う。さっきまで存在していたものは、もう、なにもない。
「またね」
彼も鏡に向かって発声した。また会えるんだろうと思う。
34 :
優しい名無しさん:2005/04/13(水) 04:13:23 ID:wNFHKh2Z
モナーはあたりを見まわした。
まだ感覚が夢とうつつの境をさまよっているようで、ひどくぼんやりとしている。
焦点が定まらない。
「モナーくん、どうしたの?」
きょろきょろとしているモナーを不審に思った職員が声をかけた。
「別に……、平気……」
言ってモナーは職員に背を向ける。
しだいしだいに、その混乱した感覚も落ちついてゆく。
日常の風景が目に届き、生活音が耳に入ってくる。
施設の運動場で騒ぐ子どもたちの声が聞こえてくる。
「ぶーん」
内藤ホライゾンが廊下を駆けていった。
「こら! 転んでも知りませんよ!」
さっきの職員が怒鳴っている。
あの少女とのやり取りのあいだに、どれくらい時間がたったのだろう。
ぼんやりとして時の感覚がよく分からなかった。
窓の外では、傾いた夕日が山に近づきつつある。
ガタガタと音を立てながら、食事を載せたワゴンが職員に押されてくる。
夕食だ。
夕食の献立は・・・
1.「サバの味噌煮」<
2.「ロールキャベツ」
3.「カレーライス」
36 :
優しい名無しさん:2005/04/14(木) 01:02:31 ID:ifr3QVzQ
煮込みすぎてふやけたような鯖が、アルミの食器に無造作に盛られていた。
あとはご飯と味噌汁がつく。
児童は食事を受け取り、トレーに乗せて、ホールの長テーブルまで運ぶ。
モナーも食事をテーブルに置き、席についた。
全員が食事を受け取るまで、席に座ったまま待つ。
内藤ホライゾンが「ブーン」と言いながら食事を受け取って、そのままホールの中を走っている。
あれでよくこぼさないものだ。
ほら、また怒られた。バカな奴だ。
そんなふうにモナーが他の児を見ていると、モナーの隣に女児が座った。
肩まで髪を伸ばしている、やせた子だった。
モナーはあまり知らない子である。
全員が食事を受け取ったところで、保育士が前に立って呼びかける。
「はい、じゃあみんな手を合わせて、いただきます」
イタダキマス。
子どもたちがいっせいに挨拶をし、食事が始まる。
無言である。
食事中は、子どもたちは話をすることが許されていない。
沈黙のなか、アルミの食器と箸がぶつかる音だけが響く。
カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ。
彼女は、混血の、孤児だった。
父親は認知を放棄してそのまま老衰で死に、
母親はまだ若かったが、母国に帰った。
彼女を置き去りにして。
彼女は、衣食住足る現実の現在の環境に、満足しなければならなかった。
彼女には、国籍さえない。国籍というきまりごとさえ、まだ、彼女は知らない。
闇の中それは白く浮かび上がる。
実際には灰色という耽美な、長い髪。
鮮やかな赤が二つ、月明かりを見つめていた。
深まる夜、眠れない。
静か過ぎるのがいけないのだろうか?
四人部屋、そこに分け与えられているベッドから起き上がり、
モナーは部屋の外へ出た。
廊下はさらに静まり返っていた。
騒がしいほどの静寂、耳が痛い。
ふと―――物音が聞こえたような気がする。
「(なんだろう…誰かいるのかな?)」
引き寄せられるかのように、モナーは物音がした方へ向かった。
光―――映し出す―――人のカタチ―――
自らが発光しているかのよう。
神秘的な現象―――否、それは“存在”だった。
名も知らぬあの少女、その―――夜の姿。
「キミも…眠れないの?」
言葉は自然に発せられていた。
そのモナーの問いかけに対し、彼女からの反応は、ない。
沈黙―――やがて―――
「アシンメトリー。ボタンの掛け間違い。でも、正しいの。
私は…歪……だから……」
そう言って少女はパジャマのボタンに手をやった。
もちろんモナーには返す言葉もない。
「白と黒、コントラスト。ひとつの調和じゃないの。
調和としてのひとつ―――それが生命」
確かにこの施設で支給されているパジャマは、
多少凝った色使いをしていた。
シャツは左半分が白、右半分は黒。
逆にパンツは左半分が黒、右半分は白。
だが、今問題なのはその少女の言動。
モナーも多少の困惑を辞し得ない。
それは明らかに伝達を意図していない、独り言のようなもの。
『他者への伝達機能をもたない不完全な発話』―――――
ピアジェの用語で言うところの“egocentric speech”。
どこからか薄い雲が流れてきて、月明かりを遮った―――
かと思えばやがてそれはまたどこかへ流れ去って行った。
しばしの沈黙。
そしてモナーは再度、彼女に問いかけた。
「キミの…キミの名前を知りたいんだ。教えて…くれない…かな?」
スゥ―――前髪が左に流れ、赤い瞳がモナーを捉える。
この瞬間、初めて少女はモナーの存在を認めたのだろう。
つまり、モナーの問いは彼女の興味を惹くに値するものだったと考えられる。
表情は変わらない。相変わらずの無表情。しかしそれは造型の有無を意味しない。
つまり彼女は―――美しかった。その一部―――唇が小さく動き始める。
「私の名前は――――――――――」
「私の名前は――――――――――」
1.「レモナ」
2.「モナカ」
3.「しぃ」
40 :
優しい名無しさん:2005/04/28(木) 12:32:57 ID:4aZglbTq
「1番! レモナ〜!」
なんで三択なんだ、と思いながらモナーは答えた。
少女は上目使いでモナーを見つめる。
しばしの沈黙が、空気を凍りつかす。
「うーん」
彼女は、唸りのような声をだし、モナーを焦らす。
正解なのか、間違いなのか。
その狭間で、モナーは全身を緊張させた。
これではまるで、シュレディンガーの猫の気分だ、とモナーは思った。
半死半生のなか、モナーは0.5の生存者として、彼女の口元をじっと見詰める。
硬く閉ざされた口。
今、それが、静かに開かれた。
「……ざんね〜ん」
間違っていたのだ。
ズンダカズンタカという音楽とともに、彼女はクニョクニョしながら両手を振り振りステージから去っていった。
何だったんだ、とモナーは思った。
そして、モナーはまた寝床に戻った。静まりかえる室内で、自分と最も関係の深い闇の中で、モナーは考えた。
「彼女はいったい誰なんだろう?」
「彼女の名前は?」
「彼女は前にまたねと言ってくれた彼女なんだろうか?」
「彼女とボクの関係性は?」
「ボクは誰なんだろう?」
朝、どんよりとした曇り空のなか目を覚ましたモナーは、施設内が慌ただしいことに気付いた。
「内藤ホライゾンが屋上から飛び降りたんだって!!」
「ぐちゃぐちゃらしいよ!!」
驚くモナーに、さらに違う話も聞こえてきた。
「名前知らないけど混血の孤児が首吊ったらしいよ!!」
「すげ〜!!」
「見に行こうぜ!!」
42 :
登場人物をあほみたいに殺すなよ:2005/05/14(土) 00:48:42 ID:c5o3cwD+
光の輪が見えた。
冷たい光であたりを青白く照らしている。
白いそら。
イィ……イイィィィィ……イイィ……ン。
耳の奥で重い耳鳴りが響いていた。
ここが、天国なのかしら。
少女は瞬きもせず、その光輪を見ていた。
「気がつきましたか」
白い衣服をまとった女が、話しかけてきた。
天使かしら。
少女はまじまじとその女性の姿を見た。
それにしては、羽根が、ないのね。
羽根。
少女の思考が、ふと、途絶する。
羽根。
「空も飛べるはずなんだ」
彼は言った。
「飛べっこないわ。地面に落ちるだけよっ!」
少女は声を引きつらせて、彼を制止しようとする。
「この地上に光はないんだ。そんなこと、きみだって分かってるだろう」
そう言って、彼は両手を伸ばし、羽根のように広げてみせる。
月光が彼の背中で輝いていた。
まるで彼を空に誘っているように見えた。
「やめてッ」
少女は言った。
「どんなに希望が無くったって、私たちは、この地上で生きてゆくしかないのよ!」
声を振り絞る。
けれど、言葉はまるっきり彼に届いていないようだった。
「ぼくは飛ぶんだ」
手すりの上に、危うげに立った彼は、ほほえみを浮かべて、少女に言った。
「じゃあね。ぼくは行くよ」
その時。
まばゆいばかりの光とともに、モナーの背中に翼が生えた。
少女はあっけにとられながら、その翼に触れる。
それは硝子で出来ていた。
少し力を入れると割れそうなほどに薄い薄い翼だった。
「これで、……飛べるの?」
モナーは全部知っているかのように微笑んだ。
「きっと飛べる」
「きっとじゃ駄目なのよ……絶対でなくちゃ」
知らず涙を流していた少女の頬を、その羽根が撫ぜる。
「絶対? それこそがあやふやな言葉だね」
モナーは目を細めると、少女の体をそっと戻した。
そして自身は、足を踏み出す。
あ。
少女の声が届くより先にモナーの姿は消失していた。
がくりと糸が切れたように膝をつく少女の腕を、誰かが掴んだ。
死んだと聞いた、内藤ホライゾンと、混血の少女、そして、モナーだった。
44 :
優しい名無しさん:2005/06/02(木) 21:43:22 ID:lY3TqFVA
「やあ」
とモナーは言った。
「死後の世界へようこそ」
モナーはまだ5才だから、なにもわからない、なにも知らない、難しく考えない。
46 :
優しい名無しさん:2005/06/10(金) 23:10:58 ID:auamws+j
思ったことをすぐ口にする、推敲と言う言葉はない
47 :
優しい名無しさん:2005/06/13(月) 13:35:51 ID:/0k8UzC6
ほ
48 :
優しい名無しさん:2005/06/17(金) 04:07:46 ID:ZkjWtGdb
「ほ?」
思わず問い直すが、相手は意味深げに含み笑いをするばかりで一向に答える素振りをみせない。
なんのアクションもないので苛立ち、もう一度問うてみた。
「今『ほ』って言いかけましたよね。ねぇ、聞こえてましたよ。なんて言おうとしたんですか?教えてくださいよ」
ところが、こちらが下手に出て丁寧な物腰で問うているのにもかかわらず、なにが可笑しいのかニヤニヤとこちらを見ている。
こういう手合いには強気に、上からものを言った方が効果的なのだ。
「おい。手前は阿呆か? それとも馬鹿なんですか?
なめとったらあかんぞ、何を言おうとしていたのか、もう一度言ってみろよ、ボケ」
最後の「ボケ」のところで相手の肩を突こうと掌底を打ち込んだのだが、野郎身を引くもんだからバランスを崩し転倒してしまった。
「あっ」と不覚にも情けない声を出してしまい、しかもしこたま腰を打ちすえた上足首を捻ってしまった。身悶えていると、「ふふっ」と笑いやがる。
むかついた。むかついたので一発イわせてやろうとムイムイいいながら立ち上がる。
その瞬間捻った足首に痛みが走り、再度バランスを崩す。やべえってんで壁に手を突くが、また捻る。
「あがが」ってんでずるずると崩れ落ちる一瞬野郎の顔が目に入った。笑っていた。
もう無様なところは見せられねぇって踏ん張った。頑張れ俺。そして頑張った。
オレの怒りのヴォルテージは、とどまるところを知らぬスリップノット!
パーカッションがサボってやがるが、まあ、気にしない。
「オウ、オメー・・“舞踏(ダンス)”しよーゼ?」
オレは名も知らぬ電波ヤローに向かって、方向ボタンを素早く2度、入力した。
「なっ!?」
ふ、ヤツが驚くのも無理はない。一瞬でシューティングレンジに入ってやったからナ。
“ガッゴッベギャゾドッドギャギャギャッ”!!!
「くぁwせdrftgyふじこ!!?」
初手で敵を宙に浮かせた。そこからオレのエリアル発動!
ヤツは奇声を上げながら、空中遊泳を愉しんでいるようだ。
おっと、このままではリングアウト…か。なら次の一撃でしとめるっかねーよナ!?
「星に―――なりやがれ―――ッ!!!」
「ま、待ってくれ!私はただ、ほ―――」
┏┳┓
┏━━┻╋┛
┗━━┓┃ \ i
┃┃ ── + ─ >>ほ
┏━━┛┃ ┏┳┳┓ // | \
┗━━━┛ ┗╋┛┃ / / |
┗━┛ / /
,/`"ハ```::;
;` `ヽヘ ゙";,,
ハ_ ,,ヾ ヾヘ;;,,
\ ゙\ゞ`゙ ";,,
> ヾ ;;ミ,, ;,,
/⌒\_゙゚゚ ;;
/"''ヽ::: ヽヾ ;;
,i ::::/\__ノ ;;;
,ノ :::/ ,,ソ ,,ゞ ::
i ::::/ ; \/; ;;
/) ::::! 丿 ソ ..
./ ::::| ,,;# ゙ ;;;
__ノ:: ::::/ ,;丿/ ;;;
,, i":: ::::/ // ;"
;;:: "小,, /:_::;;ノ\
ヽくル/::"'::,, /─--/;;:. ヽ
"''ヽ;;:: "''ー-..,.ノ:: ::::::::i \:.. \
"'ヽ.,::: /::;;;::::.. :::| \:.. ヽ、
"'ヽ;;::ヘ;;:::... ::ヽ..,,,. ヽ::.. \
i;; ヾ;;:::::::::... "'''ー-,,.__ゝ
i;; ';; ̄"''ー-::::;;;;;;));;;;〉i
ヽ━┛/ "ナ-",/
" ̄ / 〈
…………ふぅ、片付いたか。それにしてもヤツは最期に何を…?
まあいい、些事に過ぎねー。
こうしてオレの旅は続いていく。次なる敵を求めて。
50 :
優しい名無しさん:2005/06/18(土) 02:06:20 ID:CSV4fcgG
――
なんだか多くの思念が頭の中を通り過ぎていったような気がする。
(ここは何処だろう?
目覚めると(という表現が適当かどうかわからないが)真っ白な世界が広がっていた。
ただ白が続く世界に「私」が、「私」の意識が浮かんでいた。
(「私」? 「私」は「私」……? うん、「私」……
なんだか考えることがひどく億劫だ。頭に靄がかかった様に、うまく「思考」ができない。
でもそれでもいい。それでもいい様な気がする。そういう「確信」がある。
(「確信」? これは「私」の「確信」? 自分で考えたことなのかな……、わからない……
『 そんなこと、どうでもいいだろ 』
(そんなこと、どうでもいい。なんか考えたら疲れたな……。
『 休むといい 』
(ちょっと、休もう。休めば、楽に、なるから……。楽に……
思考をやめると、だんだん「私」が広がってゆく。白の、世界に。
気持ちがいい。
――
「あまり良くない状態ですね。このまま昏睡状態が続けば植物状態もしくは、心停止も十二分に考えられます。」
氷の様に冷たく、鋭い刀の切っ先を思わせる声。
「どうにか助けて下さい、夫が死んで、この子が死んでしまったら、私は私は…。」
喘ぎ混じりに叫び、泣き崩れる女性。
医者と思われる男はその女性の肩を叩き、時間稼ぎの言葉を告げる。
「大丈夫です、最善の努力をします。」
「ここに居たんですね?ギコさん。院長が職務怠慢だって怒ってますよ?」
この声の持ち主は陳腐だが、見る男を感嘆とさせる容姿を持つ女性、しぃである。
缶ジュース片手にギコと呼ばれた男は何を見るでもなく屋上の手すりに体重を預けている。
「無視ですか?院長に報告しておきますよ。」
溜息混じりにしぃはそう告げると、ギコは
「院長に報告は勘弁してくれよ。手元のジュースで良ければ口止め料ででどうだ?」
「悪く無い交渉ですね。もらいますよ。」
しぃはそう言うとゆっくりと歩み寄り、ギコからジュースを受け取りギコの隣に座る。
「おいおい、白衣が汚れちまうぞ、いいのか?」
屋上の床に何の迷いも無く座るしぃを見て少し苦笑いを浮かべるギコ。
「良いんですよ、今日は半日の日ですからもう帰れるんですよ。」
「いいなぁ、俺なんか夜勤だぜ、寿命明らかに縮んでるよな。」
「そんな事言い出したらキリが無いと思いますよ?」
そう言うとしぃは手元のジュース缶のプルタブを開ける。
すると炭酸の抜ける音が屋上に鳴り響く。
「また、コーラですか。骨が溶けますよ?」
「そんなの都市伝説じゃないのか?」
「わかんないですけど、美味しいから良しとします。」
「そうしとけ、考え出したらキリが無いぜ」
しぃが一通り飲み終わったのを見てギコは
「504の患者なんだけどさ、正直助かる見込みは無い。」
「あの、服毒自殺の子ですか?」
「ああ、運ばれて直ぐ体内洗浄はしたんだが、少し遅かったらしい。」
「そうですか…。お母さんにはなんて?」
「これが滑稽でな」
ふふふと笑うギコを見てしぃは
「何が面白いんですか?」
「大丈夫です、最善の努力をしますって言ったよ。助かる確率はほぼゼロなのにな。」
「…。」
「俺はなんのために医者になったんだ?道化を演じるためか?」
「わかんないですよ、そんなの。でも、」
「でも?」
「最善の努力をすると言った以上、して下さい努力を」
しぃはそう言うと、立ち上がりお尻に付いた砂を叩き落とす。
「じゃあね、ギコさん。先に帰りますよ。」
「ああ」
しぃが去った後、また屋上が静寂に包まれる。
「努力か…。無力だな俺は。」
一つの呟きが灯る。
52 :
優しい名無しさん:2005/06/19(日) 03:38:49 ID:teqkEEG3
後ろ手に屋上の扉を閉めるとしぃはため息をついた。
(いくら仕事とは言え狂人の相手は疲れるわね……)
ギコという患者は自分のことを医者であると思い込んでいる為、看護士は皆相手をしなければいけないのだ。
――と、階段を忙しげに下りていくしぃだが、その服装は看護士のそれではなく、入院患者のものだった……。
「一体…ここは…。」
モニターに映る光景に唖然とするモナー。
「答えが欲しいですか?」
そう口にしたのは医者の風貌の一人の青年。
「お願いします。」
「ここは普通じゃない人が集まる隔離所です。
まぁ、あなたもその一人なんですけどね。」
「と、こんな所だょぅ、何か質問はある?」
「いや、無いです」
いょぅと名乗ったその青年から聞いた話だとこうである。
モナーの病名は躁鬱病であり、躁状態の時に町の社会人と喧嘩をした事。
その後自己嫌悪に陥り、街中で眠って居た事。
この病院は所謂、精神病と言われる人々を治療する所と言う事。
病院と言っても、外部との連絡がほぼ断ち切られていて、都市としての役割を担っている事。
この都市の名前は「幻」と言う事。
大体こんな所である。
「モナはどの位でここを出れるの?」
モナーは聞くべくか聞かないべきかと悩んでいた事を口に出した。
するといょぅと名乗った青年はカルテを手に取り、こう告げる。
「あなた次第だょぅ。」